後藤明生の評論・エッセイを収める。
このエッセイを読んだときに、本コレクションに収められた他の短編を思い出した。 少し探したら、これが「誰?」に出てきたエピソードであることがわかった。 どんなエピソードかというのは、どちらも見て探してほしい。面白いことに、どちらにもそのエピソードにも、後藤明生のお得意「ずんずん」が出てくる。 こちらのエッセイではそのエピソードについて、「足の爪先がずんずんするような、昂揚した気分」と表現されている。
よく、後藤明生の作品を評価するときに使われるのが「楕円の思想」だろう。ただ、楕円の思想ということばは、
後藤明生より昔に、花田清輝を評するときに使われたような気がする。もっとも、後藤が楕円形の世界の発見をしたきっかけは、
この評論によれば、武田泰淳の「司馬遷」によるものである。この「司馬遷」には、
「項羽と高祖が二人で<世界の中心>をかたちづくっているように見える」と書かれた文章がある。後藤はこの文章の前後を引用して、
二十四歳でこの武田泰淳氏の文章を読んだわたしは、脳天を痛打されて目がくらんだ。
と述懐している。
Web のどこかには、花田清輝と後藤明生の「楕円の思想」の違いについて言及されたページがあったが、今は調べるのがおっくうなので控える。
どうでもいいことだが、理科系の人種で「円ではなくて楕円」と聞いたら、花田清輝でもなく、後藤明生でもなく、 ヨハネス・ケプラーあるいはケプラーの法則を思い出すだろう。ついでに、理科系の人種は「アミダクジ」といえば、 後藤明生の文体の特色である「アミダクジ式」ではなく 群論につながる置換を想起するだろうし、「ハサミウチ」といえば後藤明生の「挾み撃ち」ではなく、 微積分において極限値を求める方法である「はさみ打ちの原理」に思い至るに違いない。円と楕円に戻れば、理屈っぽい人にいわせれば、 楕円とは固定された二つの点 A, B に対して、ある点 P をとったとき、AP + PB が一定となるような P の軌跡のことをいうだけで、 曲線 C に対して固定点 A, B を見出すということだれば、別に AP + PB が一定でなくてもいいではないか、 AP - PB が一定でも、また、AP * PB が一定でも、さらに AP / PB が一定でもいいではないか、というかもしれない。 つまり、AP と PB の関係は和に限らず、差、積、商が一定の曲線の軌跡でも考えられるのではないか、 ということだ。 実際、それぞれに応じて、楕円、双曲線、カッシーニの卵形線、アポロニウスの円という名前がついている。 まあだからといって、花田か後藤かの思想の一方を他方と区別して、 「双曲線の思想」だとか、「カッシーニの卵形線の思想」と新たに名前をつけても意味はないと思う。
以上、理科系の人種のくだりは、本セレクションの月報5で、円城塔が「身の丈の現代数学性」として挙げている、 挾み撃ち、楕円、アミダクジというひびきの、野暮な解説である(2019-06-09) 。
さて、私が気に入ったのは、楕円思想そのものより、冒頭のことばである。
わたしは自殺しようと考えたことのない人間だ。 (中略) なぜだろうか?
ごく平凡ないい方をすれば、おそらくわたしが「小説というは生き恥さらすことと見つけたり」 と考えてきたためと考えられる。(後略)
上に挙げた文章を読んで、はっとした。私は、自殺をしようと考えたことが何度もあるのだった。 自殺の是非はさておき、後藤明生における小説にあたるものを、私はもっていない。いや、もちえなかった。 ひょっとしたら音楽がそれにあたるのかもしれないが、 「生き恥さらす」ものとは考えていなかった。そのような覚悟が、私にはなかった。それは、後藤がプロの小説家で、私がアマチュアの音楽家だから、 ということではないはずだ。
私はこの導入を読んで気付いたことがある。私が音楽で表現することは、その表現に付帯する活動を含め、 生き恥をさらすこととして自覚できればいいのではないか、そう思った。 この評論を読んで、自分の音楽上の表現や活動についていちいち「生き恥さらす」という修飾語句をつけたくなったぐらいだ。(2019-07-03)
この後記には、二葉亭(四迷)の『平凡』に学ぶところ大であった。
という記載がある。
私は『平凡』を読んだことがない。一つ読むと、また一つ、読まないといけないのか、という強迫観念がわいてくる。
なお、肝心の『四十歳のオブローモフ』を読んだ感想は、リンク先にある。
後藤は、ゴーゴリの作品についてこう語る。
ゴーゴリの作品は、誰が読んでも笑わずにいられないものである。ただし、問題はその「笑い」だった。彼の喜劇を読んで、 文字通り「抱腹絶倒」の爆笑を経験しなかった人は、読まなかったのと同じではないかと思う。しかし問題は、 そのような「抱腹絶倒」の爆笑喜劇が、いわゆる通俗的なファルス、戯作と異なる、本物の「文学」、本物の「芸術」だといわれたということなのである。
私は、後藤訳のゴーゴリの「鼻」や、横田・後藤共訳の「外套」を読んで、苦笑いはしたけれど、「抱腹絶倒」の爆笑は経験しなかった。 ということは、私はまだ「鼻」や「外套」を読めていないのだろうか。
もう一つ、「戯作」ということばが出てきた。もともと戯作とはどういうものなのだろうか。江戸時代の通俗小説であるということはわかったのだが、 笑わせることを目的としたものなのだろうか。ファルス(ファース、farce)とは笑わせるというより観客を楽しませるための劇や映画などをいうのだという。 うーむ。これについては、笑いの方法‐あるいはニコライ・ゴーゴリを読んでみるしかないのだろうか。
後藤はある体験を記したあとで、次のように記す。
人間にはふつう、どこでもいい場所と、そうでない場所があるのだと思う。 一般化出来る場所と、そう出来ない場所であるが、文学にも昔は歌枕というものがあった。 つまり、一般化出来ない場所が歌枕であり、それ以外の場所が、どこでもいい場所で、昔むかしあるところに式で済まされる場所である。(中略)
わたしは以前、R団地(ある団地)のことを書いていたが、その後、永興、朝倉、習志野、追分など、実在の地名を使い始めた。 それである知人から、変わったな、と言われた。「昔むかしあるところに」の作家から、「歌枕」の作家に変貌したと思ったらしい。
このR団地という表現は、小説「書かれない報告」などで使われている。
この小説でRのイニシャルは、男はR団地の一居住者に過ぎない。もちろんR団地はR県に所属している
のように扱われている。
このRというイニシャルは、どの県名にもないということで周到に計画されたうえで選ばれたのだと思っていた
(なお私とは無関係に、別の方が同じことを言っていた)。ところが、
(ある県)というダジャレまがいのカッコ書きは、何だろう。思わず私は、腰が抜けた。
本書の pp.382-383 で、後藤明生は次のように断言する:
すなわち、なぜ小説を書くか? それは小説を読んだからである。これが私の小説論の第一原理です。
この主張は後藤明生がたびたび「千円札文学論」として述べていることでもある。 そして、この主張は他者も認めるだろう。たとえば、英文学者の若島正は、 著書「華麗な詰将棋」のコラムで、そのように述べているのだ。 (2020-04-28)
書名 | 後藤明生コレクション5 |
著者 | 後藤明生 |
発行日 | 年 月 日 |
発行元 | 国書刊行会 |
定価 | 3000円(本体) |
サイズ | |
ISBN | 978-4-336-06054-9 |
まりんきょ学問所 > 読んだ本の記録> 後藤明生:後藤明生コレクション5