金光教教団史覚書

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金光教管長と諭告へ

【B】二代管長金光家邦の諭告

〔T〕大正9年(1920)4月7日の諭告

          諭  告

我が教祖「氏子ありての神神ありての氏子あいよ掛けよで立ち行く」との神宣を奉

じ、「今天地の開ける音を聞いて目を覚せ」と宣らして、神人一致の妙諦を教へ給

ひしより救世護国の神業茲に発り。先考第一世管長其の跡を承け、叔父四神の君及

び教祖直信の人たちと身を致して、大に教義を宣布し盛に神徳を顕揚して一教を成

立し、遂に今日の興隆を見るに至る。本教者たるもの誰か其の恩賚を拝戴報謝せざ

るべき。惟ふに今や世運大に革り時局混沌として寔に容易ならざるものあり。而も

世人は、思索の選択に迷ひて真正の信仰を得ず。摯実の風日に衰へて報恩の念月に

薄らぎ、浮華習を成して驕奢俗を乱り、生活亦随つて安定を得ず。かくては教化の

任に在る者、何を以てか神人に答ふることを得ん。此の秋に方り、家邦菲徳菲才の

身を以て管長襲職の運に会ひ、其の負荷に堪へざるを虞れ進退挙を知らずと雖も、

誓つて立教の神宣を奉体して教祖の芳躅を履み、教師諸子輔導扶翼に依りて夙夜職

に効しなば、神明何とて感孚し給はざらん。

予は茲に襲職の初に際し、親愛なる我が教師諸子のこの衷情を諒とし、愈々各自の

責務を全うし、教信徒諸氏亦苟にも信心の道を過つことなく、予と共に勇猛精進以

て救世護国の神業を成就せんことを、祈誓して巳まざるなり。

 大正九年四月七日

                 金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)二代管長金光家邦の襲職については、金光家親族や本部職員の一部には、異議を抱く者もあったが、教則第三十七号「管長襲職規則」に依って文部大臣中橋徳五郎の認可を得た。なお金光家邦の金光本家家督相続権の無効等の身分確定訴訟が、昭和10年(1935)4月に起こされ、同13年(1938)7月に大審院の判決があり、金光家邦の異母弟・金光正家に相続権が移った。

                           

〔U〕大正12年(1923)10月4・7・10日の諭告   

          諭  告

茲ニ第四十九回教会所證章授与ノ式ヲ行フニ方リ一言ヲ叙シテ諸子ニ告ク。

抑々教勢漸伸ノ績ヲ教会所ノ新設又ハ昇等ノ上ニ徴スルコトヲ得ルハ、聊カ意ヲ安

スル所ナリ。而モ顧レハ、教祖ノ神業未タ其一半ヲ現ハセルニ過キス、負荷日ニ重

ヲ加フ。是レ転機ヲ本大祭ニ求メ、講師ヲ全国ニ派シテ立教ノ神意ヲ明カニシ、以

テ神人ノ栄ヲ仰カンコトヲ努メタル所以ナリ。

此秋ニ際シ、帝都ヲ中心トシテ天殃忽チ下リ地妖頻ニ動キ前古未曽有ノ惨害ヲ醸シ、

挙朝震駭内外戦慄実ニ容易ナラサル国難ト称スヘシ。乃チ上ハ内帑ヲ開キテ恤民愛

生ノ寵ヲ垂レ、大詔ヲ下シテ復興善後ノ策ヲ誨ヘ、国民ノ協力一致ヲ促シ給フ。本

教者タルモノ平素ノ信念ヲ実スル今ヲ措テ亦何レノ機ヲカ期セン。宜シくク全教一

致更ニ信心ヲ新ニシ、愈々教義ノ発揚ニ努メ、以テ報教護国ヲ旨トセル本教祈願ノ

貫徹ヲ期スベシ。

 大正十二年十月(四日七日十日)

               金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)教祖四十年大祭において布告された。この大祭は、前年より教祖四十年祭奉賽会を組織して教祖奥城改修・信奉者霊廟建立等の記念事業を実施する計画がすすめられていたが、金之神社問題で中止となった事情を抱えていた。恰もその直前の9月1日に関東大震災が起った。

〔V〕大正13年(1924)3月5日の第三十五回定期議会開会式における諭告(抜粋)

輓近、物質偏重の結果は、精神生活上大欠陥を生じ、軽佻、詭激なる思想・言動、

一部の人心を動揺せんとするに至れるは、皇国の為憂慮に堪えず。されば曩に、畏

くも国民精神作興に関する大詔を下し給ひ。今や上下を挙げて之が聖旨貫徹・思想

善導に焦慮す。

此秋に方り、常に信忠孝一本の教義を奉戴せる本教者たるもの、須く心身を尽して、

教祖立教の神意に応へざるべからず。

 大正十三年三月五日

               金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)この諭告の抜粋は、編集の拡張に依って毎月2回発行されることとなつた最初の「教報」第123号の巻頭(表紙)に掲載されたものである。これに因って、全教の教師に通達されることになった。その内容は「国民精神作興ノ詔」を承けたものである。

〔W〕大正14年(1925)5月5日大教会所復興祈願祭における諭告

復旧の事固より忽諸にすへからさるも、単に殿舍の建設に急にして戒愼の誠意なく

んは、何を以てか罪を神明に謝せん。輪奐の美結構の莊は余か願に非ず。各自其職

に在るもの、宜しく我執を去り驕怠を戒め、一心匡合大に我教風を揚げ、克く報教

護国の任を竭さは、一宇の草屋も以て立教の神意に契はん。

(編者註)同年4月14日に一夜にして焼燼した大教会所神殿の跡地に祭壇を設け、5月5日管長の齋主のもとに復興祈願祭が執行された。この祭典に於いて、管長の諭告についての畑教監の衍義があった。

〔X〕昭和2年(1927)7月22日の大教会所復興に関する諭告

          諭  告 

我が教祖神、神宣を奉じてこれの霊地に教跡を垂れ、世を教へ人を助け給ひしより

神徳日に新に教義月に明かに、今やその霊光に浴するもの海の内外におよべり。

抑々我が大神の神徳は、元より無辺に充ち渡らせ給ふと雖も、教祖の出顕なくは如

何てよく今日の神徳を蒙り奉らん。されは夙くも元治元年に其の神殿を造営すべく

神宣を下し給へり。是れ即ち大教会所の淵源にして、氏子が祈願礼賛の聖庭、教祖

御取次祈念の霊場たり。是を以て先考第一世管長、神意を奉じ氏子の願を容れ、曩

に大教会所並に附属神舎の造営を起され、己家邦の代に及びて其の工略成りしが、

一朝にして烏有に帰す。洵に恐懼に堪へさるなり。当時直に再興の議ありしも一時

仮神殿を急造し奉りて、委に既往を懐ひ深く将来を揣りて今日に迄れり。

然るに教内篤信の輩は頻に復興を冀ひて止ます。その至情忍ひ難し。如之(しかのみ

ならす) 本教教学上の施設又急を要するものあるをや。茲に斎戒して先考の霊に告け、

負気なくも愈再興を発願す。仰き冀くは教祖の神霊余か微◯を矜みて、 一世の願を光

助し、之が成就を守り給はんことを。その企劃経営に至りては、百歳の方図を稽へ時

の宜しきに循ひて事の序を裁り、清浄を心として質実を体とし、偏に我が教風の発揚

を期せん。教内一般宜しくこの衷情を諒し、戮力協心各自か精を輸して工を輔け、胥

共にその竣成の速かならんことを祈り、以て無量の神恩に奉賽し、忝なくも救世済民

の神宣に奉答せんことを努めよ。

 昭和二年七月二十二日

                  金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)この復興に関する諭告は、前掲の復興祈願祭において発布された諭告から2年を経て、大教会所復興事業に着手されることになり、7月22日月次祭典において神前に奏上されたが、更に7月27日に諭告発布式が挙行された。それと同時に本部内に復興造営部が設置された。

 なお復興造営事業の第1期工事は、教義講究所の移転のため、鍛冶屋谷(現金光教学院の所在地)の開拓作業から始められた。

〔Y〕昭和6年(1931)12月17日の諭告

          諭  告

茲ニ本日金光教維持財団證章交付規定第二条ニ依リ第一回證章授与ノ式ヲ挙ク抑々

本教ハ教祖立教ノ神意ニ基キ、奉教者ノ赤誠ヨリ神恩報謝ノ為献納シタル浄財ヲ以

テ宣教ノ用ニ供シ、一切ノ施設ハ悉クコレ神ノ御物ト信念シ来リタリシカ、之カ所

有及管理ノ形式ニ至リテハ未タ其精神ニ副ハサルモノアリ。第一世管長深ク之ヲ遺

憾トシ、明治四十五年四月十日ヲ以テ金光教維持財団ヲ創設セラル。コレカ趣旨ヲ

体シ献納ノ手続ヲ了シ、教基養達漸クソノ見ルヘキモノアラントス。然レトモ教祖

立教ノ神旨ニ鑑ミ、本教依立ノ精神ヨリ之ヲ観レハ未タ其一班ヲ成スニ止リ前途尚

遼遠ノ感ナクンハアラス。宜シク教内一心相率ヰテ財団設立ノ趣旨貫徹ニ努メ、布

教ノ充実ト教化ノ振興トにニ資シ、以テ教祖ノ霊鑒ニ奉答センコトヲ期スヘシ。

  昭和六年十二月十七日

                 金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)金光教維持財団の設立は、大教会所の造営が着工されることになったので、教団の所有物件として法人格をもつた共有財にすることであった。もちろん全国の各教会所も大教会所に追随して、維持財団へ寄付するように勧奨された。然るに新築された神殿や祖霊殿等は寄付献納されたが、境内地は依然管長の個人名義のままであった。大教会所の炎焼に因って、1928年(昭和3)から復興造営事業が始まり、類焼を免れた教義講究所や楽殿等の移築も了り、愈々神殿其の他の中心的建物の建造に取りかかる時点で、この諭告が発せられて、財団設立以来の寄付献納された一般教会所108ヵ所に体して、第1回の表彰が行なわれた。なお大教会所の境内地(立教聖場付近および金乃神社境内を除く)が寄付されたのは、昭和九・十年事件の後である。

〔Z〕昭和8年(1933)10月教祖五十年大祭における諭告

          諭  告

茲ニ教祖五十年大祭ヲ迎ヘ奉リ、忝クモ其第一、二、三、四、五日ノ祭儀ヲ了ヘタ

ルハ、諸子ト共ニ感激措ク能ハサル所ナリ。

惟フニ我が教祖、「氏子アリテノ神神アリテノ氏子相世掛世テ立行ク」トノ神宣ノ

儘ニ神人一致ノ大理ヲ教ヘ給ヒテ、「最早此方世ニ在ラストモ斯ノ道ハ失ハレサル

ヘシ」ト、明治十六年十月十日終ニ神上リ給フ。茲ニ神徳ハ日ニ輝キ比礼ハ月ニ顕

レ、霊鑒ノ下教義年ニ挙リ、教化正ニ五十年、国家社会ノ為ニ聊カ奉公ノ誠ヲ捧げ

得タルハ倶ニ欣幸トスル所ナリ。然レトモ余ノ菲徳、未タ克ク立教ノ神意ヲ明徴ニ

シ教旨ヲ顕揚スルコトヲ得サルハ、洵ニ恐懼ニ堪ヘサルナリ。

今ヤ皇国ハ未曽有ノ非常時局ニ際会セリ。之レカ匡救ノ途ハ一ニ不抜ナル信仰ト強

固ナル道念トニ俟タサル可ラス。仍チ我カ教ヲ奉スルモノ愈々信心ノ興隆ニ努メ、

至誠以テ神徳ノ顕現ヲ祷リ眞心以テ教運ノ進展ヲ期シ、相率ヰテ救世護國ノ実ヲ挙

クヘシ。是レ我カ教祖ノ神業ヲ翼賛シ奉ル道ニシテ亦無量神恩ニ奉賽スル所以ナリ。

教内一般夫レ克ク此ノ旨ヲ体セヨ。

 昭和八年十月四、七、十、十三、十六日

                   金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)教祖五十年大祭は、10月4日・7日・10日・13日・16日の五回に分け、それぞれ祭典が執行された。御神殿造営の未完成の時であったので、仮齋殿を造り大教会長金光家邦の齋主のもとに行なわれた。この諭告は、各日の祭典の中で管長(大教会長)から布告された。

〔[〕昭和10年(1935)4月7日の大祭時における諭告

         諭  告

今ヤ本教ハ未曽有ノ難局ニ逢着ス。立教ノ神意那辺ニアリシカヲ疑ハレ、教義ノ実

空弦ニ過キサリシカヲ危マルゝニ至ル。

教治ヲ妨ケ統制ヲ害ヒ、尚之レヲ信者ニ及シ、一教依立ノ根基ヲ覆ニ非スンハ底止

セサルカノ観アラシム。今ニシテ大ニ粛正ノ方途ヲ講セスンハ其ノ趨ク所竟ニ拯ヒ

難キニ至ランコトヲ懼ル。

偶々此ノ渦中ニ立チテ年次教績ヲ奉告スヘキ恒例大祭ヲ迎フ。何ノ面目アリテ教祖

ノ神霊ニ対面センカト恐懼慚愧極マリナキモノアリシモ、本ヲ執テ道ヲ開ク者ノ責

任ヲ自覚セシメラルゝト共ニ深夜神裁ヲ仰キテ奮然決意スル所アリシナリ。

然リト雖モ平和円満全教一家ハ教祖以来矜持スル所ノ教風ナリ。今モ尚反省自重ヲ

望ミ正道ノ復軌ヲ祈リテ止マサルモノナルカ、改ムルヲ知ラス帰ルヲ忘レテ背馳ヲ

継続スルニ於テハ、教規ノ命シ教則ノ定ムル所ニ従ヒテ暫ク処断スルノ外ニ途ナカ

ラン。

如何ニ奉教至誠ノ激発スル結果ナリト雖モ事自ラ分アリ度アリ、為ニスル所アラン

トスルモノハ別トシ、真ニ教祖立教ノ神意ニ奉答ヲ期シ道ノ将来ヲ憂ヒテ止マル者

ハ、本教者タル平素ノ信念ヲ喚起シ、確信以テ道ニ処シ至誠以テ教ヲ奉シ、同信相

激マシ率先範ヲ示シ神皇ノ大恩ニ奉答スルト共ニ、百年ノ教基建立ニ邁進センコト

ヲ期セヨ。

   昭和十年四月七日        金光教管長大教主 金 光 家 邦

(編者註)同年1月に金光家邦管長の辞職退任を要求して、教師・教会長・機関職員等に依る有志盟約が組織され、同年3月には青年会連合本部や信徒団体が盟約運動に参加した。ここに全教の90%の信奉者が管長弾劾の運動を展開することになり、4月の大教会所本部大祭への不参拝を決定して各地方毎に集会を開催した。したがってこの諭告は、殆どの信奉者が不参のなかで行なわれた異例の祭典の場で布告された。しかも諭告の趣旨に対して抗議反発の声が起り、いよいよ運動は熾烈となった。

       


 参照事項独立関係文書  教規・教則  教務と神務

         教団自覚運動  戦時教団活動

a 初代管長金光大陣の諭告・諭達・教書

c 管長代務者金光国開の諭告

d 三代管長金光攝胤の諭告

追補 初代管長の諭達第壱号