金光教教団史覚書

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教務と神務

(きょうむとしんむ)

 1佐藤範雄と教務 / 2畑徳三郎と教務 / 3金光家邦と教務 / 4御礼之会と御礼信行会

 金光教において、教務といわれる教団の機能は、広い意味でいわれる場合と狭い意味での場合とに分けられる。即ち、広義の場合の教務は、教団の組織的な活動の全般にわたり、その統括・運営・維持の業務を指している。これに対して狭義の教務は、太政官布達第十九号で示す管長事務を指すのであって、教規教則の制定と施行に関する事務、教師・職員の任免進退に関する事務、本支部の会計事務が、そのほとんどであった。したがって管長事務を行なうところが金光教本部であり、支部もその業務を地方(教区)で執行する事務所であった。一教独立の当初の教務は、この狭義の教務に過ぎなかったので、教師育成教育は教義講究所で、教派議会はその事務局で取り扱われた。また儀式も本部が執行するのではなく、大教会所の儀式として行なわれ、その儀式に全教の信奉者が参拝してきたのである。それ故に、教監は狭義の意味での教務の担当者(責任者の意)であった。但し管長権の執行に際しては、教監の補佐に依って行なわれる定めであった。

 一方、神務といわれる機能は、大教会所をはじめ各教会所において常時行なわれてきた神前奉仕(結界取次)の業務のことで、教祖金光大神から伝承されている本教の布教・伝道・救済等の信仰実践である。殊に大教会所における神前奉仕の働きは、本教信仰の源泉として崇敬されて来た。しかしながら、この神務については、教規教則には規定がないので、教団の公式の機能とは見做されなかった。

 そもそも教務と神務との関係は、本教が教団を組織した当初から、金光萩雄(後に金光大陣と改名)が金光教会長に就任して教務を統括し、実弟の金光宅吉が教祖の神前奉仕(現在は取次と称す)を継承した。つまり教務と神務が、兄弟によって分掌され、宅吉の逝去の後を、その遺言により、金光攝胤が14才で神前に奉仕したのである。金光宅吉の神前奉仕十年の間に、数多の教師がその取次ぎをうけて伝道に従事し、北は北海道から南は九州に至る各地に布教所を開設した。まさに神務に依って本教の実態が形成されてきたにも拘らず、この業務が僅か14才の金光攝胤に受継がれたところに、神務といわれる不可知の世界がある。したがって管長統理の執行事務である狭義の教務とは、根本的に異次元の働きである。それは、独立当初としては法制的に規定し得ない教団の分野でもあったのであろう。

 然るに国家・社会の近代化につれて、産業革命の潮流のなかで国民の生活も複雑多様化し、教団が取り組む宗教的活動の領域も拡大していった。それは取りも直さず教務機能の拡張と強化につながって、最初にのべた広義の意味での教務へと推移していった。そしてやがて神務は、教務の権限の下に取り込まれる事態となっていったのである。このような傾向の中で、あらためて教務と神務の問題が自覚的に論議されることになり、神務の教団における法制的な位置付けが求められることとなった。いわゆる昭和9年10年事件にはじまる一連の教団自覚運動である。以下に、教務と神務の関係の推移を、独立以後の事績をとおして述べる。

1 佐藤範雄と教務

 金光教の独立認可を得て教団本部に帰ってきた佐藤範雄は、請願運動全権委員として、初代金光教管長金光大陣に運動の経過を記した「復命書」を提出するとともに、今後の教務の方針について、佐藤個人の意見として「内申書」を差し出した。その主たる内容は次の如くである。

 今回本教別派独立相成候ニ付テハ、第一著手トシテ閣下(管長は勅任官待遇

 の敬称で呼ぶ)直チニ特ニ任命セラル可キハ、本部ノ重役ノ儀ニ御座候。…

 …蓋シ其任命ノ適否ハ直チニ本教内ノ安危ニ関スル至大ナレバ、不肖ヲ不顧

 愚見ヲ左ニ内申仕候。

 副管長ニハ金光金吉君、大教会所副教会長ニハ金光攝胤君ニ御任命可然ト奉

 存候。

 然テ教監ニハ白神新一郎、近藤藤守二氏ノ内ヲ先ズ二ヶ年交代トシテ御任命

 相成度、……カク被成候内ニハ後進者ナル適当ノ人物モ出ヅ可クト存候。…

 然テ畑徳三郎ヲ東京常任ノ専掌トシテ、今後政府及ヒ各教派ニ対スル事務ニ

 当ラシメラレタシ。……是ハ独立ト同時ニ東京ニ出張事務所ヲ要スル慣例ニ

 御座候。

  範雄ノ進退ヲ自ラ上申スルハ恐縮ノ至ニ不絶候ヘトモ、茲ニ併セテ申上置

 候。……此ノ大業請願ノ台命ヲ奉ジテ茲ニ其任ヲ果セシ上ハ、最早範雄ノ天

 職タル任務ハ教祖ニ対シ奉リテ終ハレリト確信仕候ニ付、自今本部ノ重役ノ

 内ニ加ハル儀ハ範雄ノ良心決シテ許サザルモノ有之候ヘバ、幸ニ寛恕アラン

 コトヲ。(中略)

 本部目下ノ況勢ハ奈何セン多事多端ニシテ、一方ニハ教育事業ノ重務アレバ

 此教育事業ノ一部丈ハ、将来本教大計ノ事業トシテ、不肖ヲ不顧、更ニ御命

 ヲ拝セバ、引続キ暫ラク謹而奉職仕可ク精神ニ御座候。……

 又……範雄ハ不肖ナガラ立法者トシテ、其ノ立法ノ精神ハ何時ニテモ御下問

 ニ対シ奉答ノ任ハ辞セザル所ニ御座候。(下略)

この内申の趣旨を認めて、管長は1900年(明治33)6月24日付けで、白神新一郎を教監に、近藤藤守と畑徳三郎を専掌に任命した。次いで6月25日付けで佐藤範雄を金光教顧問に、6月27日付けで金光金吉を副管長に任命し、同日付けで金光攝胤が大教会所副教会長に就任した。佐藤範雄は7月2日付けで金光中学校長に任ぜられた。    

 更に6月29日付けで本部属員が任命され、会計課長を近藤藤守・教務課長を畑徳三郎が兼務し、礼典課長に山本豊が、学務課長に河合万吉が、庶務課長に安部喜三郎がそれぞれ就任した。続いて7月6日付けで各教区支部の正副部長が任命された。それは次ぎの通りである。

 第1教区=(長)金光金吉(副)安部喜三郎 〔第11教区も管轄〕

 第2教区=(長)近藤藤守(副)木村重郷  

 第3教区=(長)中野米次郎(副)奥田平兵衛

 第4教区=(長)谷村卯三郎(副)岩崎平治郎〔第9教区も管轄〕

 第5教区=(長)畑徳三郎         〔第6・7・8教区も管轄〕

 第10教区=(長)佐藤範雄(副)高橋茂久平

 第12教区=(長)桂 松平        〔第13教区も管轄〕

このように本支部の教務体制が成立したので、教則第四号議会議員選定規則に依る議員選挙が9月1日に行なわれ、佐藤範雄が特選議員に任ぜられて、初代議長に、松田敬寛が副議長に選出された。9月10日から12日にかけて開会された第1回臨時議会の冒頭において、佐藤は次ぎのような挨拶をしている。

 本員ハ、本日ノ議事ニ先ダチ議長職責ヲハナレテ、教規・教則ノ立法者トシ

 テ、漸時、其ノ性質ニ付キ述ベタイデスカラ、オ聞キ取リアリタシ。

 ソモソモ本教ガ議会制度トナリマシタノハ、本部元来ノ希望デナク、従来ノ

 如ク本部重役等ニ於テ万般ヲ議決シ、又ハ、本部属員ト相談シ、諸規則ヲ作

 リ、之ヲ部下ニ達シ、部下ハ受ケテ其通リ必ズ履行スベキ、即チ君主独裁制

 ニシタイ。即チ別派独立シテモ実行シタイト云ウ心算デ以テ、主務官庁ニ願

 書ヲ差出シタルニ、官庁ニハ受ケナイ。絶対反対デアルトイッテ刎ツケル。

 ソウイウ圧制的ノ規則ハ許可出来ヌ。……ソコデ詮方止ムヲ得ズ議会制度ト

 セネバナラヌコトニナリマシタ。

 即チ本日、管長ガ告諭ヲ賜イ、親シク臨場サレシモソレデ、本部ノ収支ハ素

 ヨリ、其他一切ノ事、一々各教区内教師ヲ代表セル各員ニ相談セラルル事ト

 ナリマシタハ、之レ則チ、管長公ヨリ権利ヲ各部下一同ヘ別ケラレタル事ト

 ナツタノデアル。………議員諸師ハ、部下教師一千人ノ代表者トシテ挙ゲラ

 レ、一千人ノ希望ヲ本部ニ申立テル代表者デアル。其大名誉ヲ荷ウと共ニ其

 職責ノ重且大デアルトイウ事ヲ覚悟セラレネバナラヌ。又、特選議員ハ、管

 長公ノ思召ヲウケテ、而シテ部下一般ノ事ニ、互選議員ト共ニ議ラネバナラ

 ヌ。            

 如此権利ヲ得タ以上ハ、又、部下ノモノノ有ル限リハ、本部ヘ対スル事ハ、

 飽クマデ尽サネバナラヌトイウ義務ガ生ジタノデアル。先ズ本教ガ議会制ヲ

 以テ政治ヲトル事トナツタ原因及ビ権利・義務トイウ事ニツイテ、オ話シタ

 訳デス。

 この挨拶のなかで、佐藤が述べていることは、一見、封建的専制的な教務理念のようであるが、それは、彼の国学の素養と神道的理念に依る表現を借りて、管長権の行使である教務が単なる政治ではなく、神務の信仰的性格をも持つことを求めたのである。つまり民権思想としての議会制を形式としながら、神命を奉じ神意に応えるという教師の責務を強調したのである。したがって、彼の思念にしたがえば、教務の執行者も亦同様であるべきであった。 

 2代白神新一郎が初代金光教教監を辞任し、1901年(明治34)11月26日付けで副管長金光金吉が臨時に教監をつとめ、1902年(明治35)1月16日付けで近藤藤守が金光教教監に任ぜられた。この教監更迭は、かねて予定されていたことではあったが、金光金吉の臨時教監就任に当って、佐藤範雄が専掌に任命され、ふたたび教務の場に復帰し、引き続き近藤教監を補佐して専掌に留まり、実質上、教務を担当せざるを得ないことになった。このことは白神・近藤両人が教監在職中は本部に常勤することの成否に依るもので、かねて佐藤の危惧するところであった。殊に1902年から1904年にかけての金光中学の増改築事業、1904年から1905年に至る日露戦争における国威宣揚祈願祭・出征軍人慰問・戦傷病者慰問・戦没者遺族慰問・戦没者招魂祭等の戦中戦後にわたる活動、更には数回に及ぶ戦時巡教の実施は、教務が直接間接に対応を迫られる事態にあったからである。

 1906年(明治39)7月28日付けで金光金吉が、再度、臨時教監を命ぜられ、翌1907年(明治40)1月9日に金光教教監に就任したのであるが、3月26日に死去した。ここにおいて、教監として教務を担当し、管長を補佐して教派の施政の任を荷なう者は、佐藤範雄を措いて他にはなかった。一旦、教務の枢要に立たぬ事を内申して、専ら教育事業に当る念願であったにも拘らず、本教内外の状況から、4月5日付けで金光教教監に就任することになった。これより約10年間にわたる佐藤教監時代の始まりである。

 佐藤範雄は、熟慮の上、4月10日に教監就任申告詞を神前に奏上して、規箴と宣言を発表した。規箴は教務に携わる管長以下職員の執務姿勢の規律を示し、宣言は教監の施政方針を掲げたものである。以下にその全文を記す。

 『規箴』

  一、 管長事務ハ本部ニ於テ之ヲ総覧シ決裁セラルベキ事

  一、 教監ハ管長ヲ補佐シテ教規教則及ビ規定ニ従ヒテ本教施政ノ大任ヲ

    負ヒ上下ニ対シ其実務ノ責ニ当ル者タルコトヲ明ニスル事

  一、 管長顧問(註=白神新一郎と近藤藤守)ハ管長顧問ノ事項ハ本ヨリ

    其他内申セントスル事柄ニ付公平慎重ヲ持シ私心ヲ去リ誠実ニ答申ス

    ル事 

  一、 専掌以下職員ニシテ本教ノ施政方針ニ背キ執務ニ忠実ヲ缺キタルモ

    ノト認ムル時ハ假借ナク之ガ処分ヲ行フ事

 『宣言』  

  一、 上下協力一致シテ教義ノ発展ヲ期シ教祖ノ神霊ニ奉答スル事

  一、 教祖立教ノ大旨ヲ遵奉シ教徒信徒ノ信念ヲ増進スルノ道ヲ講ズル事

  一、 斯道ノ発展ヲ期スルハ偏ニ人材ノ養成ニアレバ大ニ修徳興学ニ力ム

    ベキ事

  一、 凡テ事ノ発展ヲ期スル為宜シク人材ヲ登用シテ其衝ニ当ラシムベキ

    事

  一、 各自職務権限ヲ明ニシ公平敏捷ヲ旨トシ事務親切ニシテ虚礼繁文ヲ

    省ク事

  一、 賞罰ヲ厳正ニスベキ事

  一、 世ノ流言誣説ヲ意ニ介セズ毀誉褒貶ヲ顧ミズ偏ニ教祖立教ノ大旨ヲ

  一、 教師タル者ハ教祖御心行ノ旨ヲ体シテ鞠躬謙譲ノ美徳ヲ持スベキ事

  一、 教師教徒ニシテ斯道発展上意見ノアル者ハ其序ヲ正シ忌憚ナク開申

    シ得ル事

   明治四十年四月十日         金光教教監 佐 藤 範 雄

 ここには、佐藤範雄の本教の教務観が示されている。その第一は、教務は管長自ら本部の公的な場所に於いて決裁されることで、苟も私的な行為と混同される恐れがあってはならぬ。第二は、教務の実施の責任は、管長を補佐する教監に在ること。第三は、教務の実務に携わる職員は、施政方針に背反してはならぬ。これらの根拠理由は、凡そ教務は、教祖立教の大旨を布教伝道・人材養成・信念増進のうえに実現していく目的を持つからである。そして此処で云う“立教の大旨”とは、日柄方位の迷信を打破し、天地の大理を顕現するという教義を指している。それは、当時は未だ所謂「立教神伝」の存在が知られていなかったので、独立教派としての独自の教義を示すものであった。

 1907年(明治40)は、あたかも教祖25年記念祭が執行なわれることになっていたので、その記念事業として、教祖御略伝編纂委員会が設置されて教祖一代の事績資料の蒐集に着手することになり、6月8日付けで佐藤教監がその委員長に就任した。この事業は、本教の教義・信仰の根源を明らかにするうえで、必須の事業であるところから、佐藤にとっても畢生の願いではじめられた。

 四◯監第一七号

  今般、教祖御伝記編纂相成ルベクニ付テハ、左記ノ事項調査スシメラレ候

  間、文体ノ何タルヲ問ハズ平易ニ詳述シ、来ル七月末日迄ニ差出候様御取

  計相成度、依命此段及通帳候也

   一 教祖御理解

   一 貫行君(金光四神のこと)御理解

   一 教祖ニ関スル一切ノ伝説

   一 貫行君ニ関スル一切ノ伝説

  右ハ、出来得ル限リ其事項ノ起リタル年代並ニ御理解ヲ受ケタル場合及御

  理解ヲ受ケタル当人ノ住所氏名ヲ付記スルコト 

  明治四十年六月二十一日       金光教教監  佐 藤 範 雄

 この教監通帳に依って調査が行なわれ、さらに高橋正雄を主任として資料蒐集がすすめられた。この時に集めた資料が、現在『金光大神言行録』として伝えられている。   

 しかしこれらの資料は、教祖に接した者等の個別的な内容と断章であって、教祖の生涯を通観するには不充分であった。ところが幸いにも副管長金光攝胤の手元に、金光宅吉(金光四神貫行君)が書写したという教祖御手記『金光大神御覚書』が伝えられていた。その内容は、教祖生誕から明治9年に至る記録であって、教祖の生涯のほとんどを一貫して知り得るとともに、その信仰の経過と教義の根幹に触れることが出来る。そこでこの原本である御手記そのもの所在について、管長の意向を求めたが、遂に確答が得られなかった。その存在は現在も不明である。したがって、教派として教祖伝記を編纂し公刊することを断念して、ひたすら時節に任せることになった。その後、蒐集されたこれらの資料のうち、教祖言行に関する記録は、佐藤範雄らによつて再調査されて『金光教祖御理解』(百ヵ節)として、1913年(大正2)10月の教祖30年記念大祭において刊行され、全教に配布された。また金光宅吉の書写による教祖御手記を参照して、碧瑠璃園著作『金光教祖』が刊行された。

 佐藤範雄が教監に就任してから、教派内外の状況に著しい変化が起こってきた。教内では、1910年(明治43)4月12日に教団創設者の一人で管長顧問である2代白神新一郎が逝去し、翌1911年(明治44)6月13日に管長金光大陣の後継者と定められていた金光之照(26才)が急逝した。またいま一人の管長顧問近藤藤守も、心臓病の療養の身を抱えて教務に参画するという有様であった。

 1910年(明治43)の独立10年記念祭にあたり、大教会所造営事業が発願され、その8月2日に発表式が挙行された。それは一教信仰の中心である神殿の建設であり、信奉者が多年にわたり念願してきたところであった。そのためには、大教会所敷地の拡張と造成が必要であったが、当時は社寺以外の教団には法人格がないので、明らかに教派の所有地であっても、代表者の個人所有と見做された。そこで造営される土地並びに建造物を、法人の所有として維持管理するために金光教維持財団を設立することになった。ところが維持財団の設立に対して、管長から教則第一号の管長選任制を管長世襲制に改めることを条件とされた。翌1911年(明治44)12月5日より管長の出席のもとに、教監・専掌・管長顧問らに依る教務の最高会議が持たれ、管長の提案を受け入れることになった。第17回定期議会の可決を経て、1912年(明治45・大正1)4月5日付けで内務大臣の認可を受け、教規第十三条並びに第十五条の一部を改正し、4月10日に教則第一号を廃止して教則第三十七号「管長襲職規則」を公布した。また同日に金光教維持財団設立の発表式が行なわれた。このことは、後に起こる全教を挙げての教団自覚運動の遠因となった。

 日露戦争後の社会情勢もまた著しい変動の時代を迎え、日韓併合・関東州の領有・満鉄沿線の利権獲得等の帝国主義的な国力の進出に依って、社会の産業革命は一段と進み、その歪みは貧富の格差の拡大となった。そこから社会主義思想や運動が活発となってきた。1909年(明治42)10月の朝鮮総督府統監伊藤博文の暗殺事件、1911年(明治44)1月の幸徳秋水大逆事件判決等は、この時代を象徴する出来事であった。佐藤教監は、国民生活の安泰と人心の救済こそ教祖の念願するところと信じ、1908年(明治41)10月に渙発された戊申詔書の普及のために、独立10年記念として一斉巡回説教を実施した。そしてこの巡回説教の実績を、恒常的に継続するとともに専任の宣教師を養成する機関として、宣教部を特設した。1912年(明治45・大正1)4月29日付けで宣教部規程を定め、佐藤自ら宣教総務に就任した。さらに1914年(大正3)には、管長事務所である金光教本部の内部に宣教部を設けることになった。ここにおいて、制度的に本部は管長事務を執行するのみならず、教派の布教活動をも実施することになり、教務の領域が拡張されることになった。1912年(明治45)7月30日に明治天皇が崩御になり、教祖30年記念大祭が一年延期されて、1914年(大正3)10月4日・7日・10日の三回に分けて執行された。この祭典に当って、前述した『金光教祖御理解』が刊行され、また前々年には教祖伝記として『金光教祖』(碧瑠璃園著・宗徳書院発行)が発売されて、一般世人も教祖の信仰と教義を知ることが出来るようになった。そしてこれを期として、教内に教祖や教義に関する論説が盛んとなり、青年教師を中心とする信仰実践の活動が活発化していった。とりわけ本教信仰の根本義は「立教の神宣」に在るとして、神前奉仕の尊厳・神務の至高性を主張して、教務の現状を批判する動きが起こった。

 佐藤教監時代の前半期は、独立教派としての体制の確立と機構の整備に全力を注ぎ、教務の拡張をみるに至ったが、それは、一面、管長権の強化につながる結果となった。殊に、金光之照の死去により、管長の側近に金光家邦を置かれ、その意見に従うことが多くなった。即ち管長世襲制の成立、教祖御手記の未提出、大教会所境内地の維持財団への寄付行為の不履行等は、その例であると云われる。佐藤範雄は、管長を補佐して管長権の執行責任を負う立場にあって、神前奉仕の業こそ教祖以来の本教の伝統であるという青年教師の主張を諒解しつつも、管長や金光家邦らの金光本家が教祖の業績を嗣いでいく正統の権威を持つという見解を否定するわけにもいかなかった。いわゆる教統・正統両論の間に立たざるを得なかった。そこで佐藤教監は、この事態を敢えて制度的問題とせず、金光家の私事に係わる事情と見て、専ら社会情勢に眼を向け、彼の公認教派としての責務から国民道徳的な各種の社会活動に奔走した。わけても天皇制国体護持の運動へと傾斜していった。1916年(大正5)3月1日の管長教書に依る宣教師一斉巡教がなされ、「信忠一本信孝一致ノ信念」を鼓吹することにつとめた。これらの活動は、一方では、本部財政を圧迫し、管長との意見の齟齬をもたらした。1917年(大正6)1月20日付けで、佐藤範雄は教監・宣教総務・教義講究所長を辞任し、畑徳三郎が金光教教監並びに宣教総務に就任した。

2 畑徳三郎と教務

 畑徳三郎が教監に就任して間もない1月28日に、管長顧問で教団創設者の一人である近藤藤守が死去した。このことは、佐藤範雄の教監辞任と併せて、教派の第二世代が教務の執行責任を負う時代となったことを示す象徴的な出来事であった。         

 畑徳三郎の教務の課題は、元来の管長事務に加えて、拡張していく布教の体制を確立し、わけても、それを賄う財政を整備することにあった。すなわち本部の外郭にあった宣教部を本部機構の中に繰り入れ、布教活動や社会教化事業等を統括するようにし、また前年来の教師懇話会で話し合われた教費献納等を踏まえて、本部財政の制度改革を進めることであった。しかしながら畑は、1917年(大正6)1月から1929年(昭和4)5月13日に教監を辞任するまでに、四度も就退任を繰返している。その理由について、第1次畑内局から順を追って概略を述べることに依って、その間の教務と教団事情を知り得るであろう。

 先にも述べたように、1917年(大正6)1月20日付けで畑教監を首班とする内局が成立したが、山本豊と安部喜三郎が専掌として留任することとなった。ところが翌1918年(大正7)4月19日に支部長会議が召集されて、その席上、畑教監の辞意が表明された。支部長等にとっては、まさに青天の霹靂であったので、更に4月25日に再開し、管長・副管長も同席のうえで、畑徳三郎から教監退任の理由とその意志表明があった。当時第三教区支部長であった『中野辰之助メモ』に依ると、退任の理由として、次の事項が記されている。

 金光家の位置、管長後継問題、金光家敷地ノ件、教祖系統譜ノ件、金光家内

 事多聞ノ件、金光家財産ノ件、教祖奥城ノ件、金乃(之)神社ノ件、金神と

 天地金乃神トノ関係、教祖伝編纂ノ件、本部事務ノ件 

の11項目である。これらの事項は、畑教監が進めようとする布教体制や財政の改革の前提になる問題点であって、これらを退任の理由として表明することに依り、教派(教団)の共通問題として確認する必要があった。果たしてその結果、支部長等は教監の留任を管長に懇請し、畑の改革事業に全面的な協力を表明する決議をおこなった。しかしながらこの11項目は、相互に関連する複雑な問題であるが、これを大別すれば、@教派と金光家の関係 A教派と金之神社との関係 B教派の本部体制とりわけ財務と人事の問題となるであろう。 さて畑徳三郎の教務について、この三っの問題点が如何なる理由で取り上げられ、どのように対処されたかを見ていくことにしょう。

 @の教派と金光家との関係を、教祖立教の「死んだと思うて、欲を放して、天地金乃神を助けて呉れ」との精神に基づいて、金光教という教派が成立したのであるから、教派は金光家の自己展開であって、ひとり現実の金光家の私有ではない。いわば信仰的には、教派全体が教祖に淵源を発する金光教一家でもある。そしてその一家の中核が金光氏を称する金光家であるから、教派の統理者である管長職に、金光氏より世襲的に就職するのである。したがって、金光氏の一族は、現に三家(金光正神家・金光山神家・金光四神家)に分かれているが、何れの家族も信心修養に務め、親睦和合の実を挙げて、管長たるに相応しい信念・徳識を具備する人材を生み出されたいとの願望を表明した。このことは、金光家の血脈・財産・身分に関しても同様の願いに基づいてのべた。

Aの教派と金之神社との関係についての問題は、教祖の晩年に成立した須佐之男神社が改称されて金之神社となり、1890年(明治23)に社殿が建てられたのであるが、その祠掌として中心的な存在であった金光萩雄(後に金光大陣と改名)が金光教管長となり、引き続き祠掌を兼務してきたので、いきおい金光教本部の本殿であるかの如く誤解され、殊更にそのように吹聴する者もあった。明治の末年から教祖奥城の改修が企図され、さらに大正年代になって教祖奥城の傍らに信奉者の納骨霊廟を建立する願いが起こり、その一案として金之神社の移築又は廃止が望まれた。しかしこれは管長の承諾するところではなかった。

Bの本部の教務体制の問題は、すでに述べた教務の拡張に伴う機構の整備充実とそれを賄う財政的措置を講ずる点にあった。わけても本部の経費は、各教会所の賦課徴収金・教師年金・金光中学校の収入が主たる財源であった。そしてそれらは平常経費を賄う程度であって、特別の事業費・活動費は、その都度、支部に割当てゝ拠出させていた。したがって恒常的な布教費を賄うために、教会所の賦課金の増額に依存するにも、自ずから限度があったのである。そこで教派としての布教費であるので、大教会所の会計から負担することが望ましいと考え、その規則を定める必要があった。 

 以上のような方策を、畑教監は、佐藤範雄の内諾を得て、支部長等の支援のもとに、管長及びその側近の金光家邦と折衝を重ねたが、Aの教祖奥城改修に関する金之神社の問題で、遂に心身困憊して辞表を提出し、東京へ引き上げる結果となった。そこで管長は、教監の辞任を理由に専掌・山本豊と専掌心得・安部喜三郎を諭旨免職とし、小林鎮を教監に任じ、金光義忠・金光国開・金光文孝を専掌心得とする内局を組織させた。これらの人事に対して、佐藤範雄は管長に諫言するところがあったが、管長と金光家邦との意志によって断行されたのである。この事実を知った支部長等は、畑徳三郎の教監留任を管長に進言したが、更に翌1919年(大正8)1月20日の支部長会議において、次ぎの如き決議を行ない、小林新教監に意見を開申し不信任を表明した。

        決 議

 今般成立セル新内局ハ其ノ成立ノ経過ニ於テ副管長及本教耆宿タル佐藤畑両

 教正ノ参与ナキモノト認ム斯クテハ将来内外ノ教政教務上悉ク管長直接ノ責

 任ニ帰シ本教存立ノ基礎ヲ危クスルモノトシテ洵ニ憂慮ニ堪ヘサルモノアリ

 仍テ此ノ際右各位ノ合同ヲ得テ責任内局ノ組織セラレンコトヲ望ム  

 右決議ス      

 大正八年一月二十日

        開 申

 今般本部重ナル職員交迭ノ顛末ヲ御発表相成候處右ハ副管長外本教耆宿ノ同

 意ナキ成立ノ様存セラレ候ニ付テハ爾今各般ノ御執務上ニ支障ヲ生シ候モノ

 多々可有之ト奉存候条拙職等会同別紙ノ通リ決議致シ候次第ニ御座候而テ拙

 職等ニ於テハ耆宿各位ノ御同意にナレル内局ノ成立スル上ハ何人ノ局ニ当ラ

 ルルモ敢テ犬馬ノ労ヲ辞スルモノニ無之候茲ニ不遜ヲ顧ズ苦衷ヲ披瀝仕候何

 卒可然御取計相成度此段別紙相添以連署上申仕候也

  大正八年一月二十日

                    (正副各部長連署)

 金光教教監 小 林 鎮 殿

 

 畑教監の辞任問題は、教派成立以来の宗教団体として抱えてきた教団的問題を集約したもので、単なる教務上のことに留まらぬ課題であった。つまりその基底にあるものは教務と神務との関係を、教義・制度両面に渉って明確にする点にあった。 

 支部長会議における小林内局不信任決議を受けて、管長・金光家邦・佐藤範雄及び畑徳三郎の四者間で折衝が行なわれた結果、小林新内局案は撤回され、佐藤範雄に臨時の教監を命じて、畑徳三郎を教監現職のまま休養とし、その健康回復を待つという異例の措置を講じた。このことは、畑教監の教務改革を支持する支部長等の態度に抗し得ず、管長や金光家邦の強権に依る教務政治が挫折したことを意味する。畑教監は6ヵ月の休養を終えて、7月27日に教務の現場に復帰し、10月に金光教制度調査委員会を設け、いよいよ大教会所規則の制定に向って具体的な改革に着手した。

 この調査委員会で先ず審議されたのは、大教会所の性格と意義を明かにし、制度上の位置を確立することであった。独立以来の『金光教教規』では、その第四十五条に「大教会所ハ一所ニ限リ備中国浅口郡吉備村大字大谷ニ置ク大教会所ハ一般教会所ノ模範タルモノトス」と規定され、特別の扱いを示されているが、その「模範」の概念は曖昧であって、制度的には一般教会所と同様に、管長統括のもとに置かれていた。つまり教派に属する一教会所に過ぎないのである。ところが教祖の事績が明かになり、「立教神宣(立教神伝)」が公開されて、教祖広前の神務(取次)こそが本教の根源的働きであると認識されるに至り、その神務を継承し実現している大教会所こそが、教派一切の働きの源泉である。したがって、このような信仰的教義的意義をもつ大教会所が、一般教会所と同様の管長権の教務から特立した位置を占める可きで、そのことを制度的にも確立する「大教会所規則」の内容を審議することとなった。12月14日から16日にかけて開かれた第1回委員会において、課題となったことは、教派の財政の現状を、従来の賦課制度に依る可きか或いは別途を考慮すべきかという点から、大教会所の会計を公明にして、その献納金を大教会所のみならず教派の教務・布教活動に当てるべし、ということが討議された。そしてこの案件は、事、大教会所の会計内容に係わるので、大教会長並びに副教会長の臨席のもとに、再開することとした。しかるに翌12月17日に初代管長金光大陣が71才を以て逝去した。その24日に教葬か執行されたが、葬後24日から26日にかけて制度調査委員会がもたれた。これは教内事態の急変に対処しての緊急討議であった。この委員会における課題は、管長後継問題を控えて、大教会所の広前奉仕の神聖性を確定し、大教会所の教務と神務を総理する大教主である大教会長(管長兼務)は、信仰・教義・人柄の上で、信奉者の尊敬を得ている者であること等の陳述がなされた。また前回より積み残しの財政改革と大教会所会計の公明についても、新教会長の就任を待って本格的な審議を行なうことを確認した。

 1920年(大正9)3月17日付けで二代目の金光教管長に金光家邦が襲職した。当時、金光家親族や教務機関職員の中には、金光家邦の管長就任に異議と不安をを抱く者もあったが、戸籍上の家督相続者であり教則の規定上から合法とみなされ、文部大臣の認証を受けて、その就任をみたのである。

 そこで7月4日から6日にかけて第2回制度調査委員会が、大教会長並びに副教会長の臨席のもとに開会され、前回までの審議をふまえて大教会所規程の起草の具体的な作業に入ったが、大教会長金光家邦はその内容を不服として第2日以降の会議から欠席したので、畑教監は委員長として折衝したが、大教会長の出席がえられず、審議は未決のまま延期されることになった。したがって大教会所規程は不成立に終わった。しかし教務の事務組織を改める本部事務規程を制定して、本部内に内局(総務・会計・庶務事項)教務部(教会所の設置移転等・教師任免異動等の事項)宣教部(布教関係事項)の3部を置くことになった。

 翌1921年(大正10)を迎えるや、畑教監は辞意をかため、2月22日24日・26日の大教会所新築落成祝祭を機として、人事を一新して更なる教政の展開を図ろうとした。然るに支部長等は、辞意の真相が解らず只管畑の翻意を促すことに終始したが、3月17日付けで教監の辞任が認められ、3月31日に至つて専掌高橋茂久平が臨時教監を命じられた。しかし畑徳三郎は、12日13日に開かれた第31回定期教派会において、今後の課題について@大教会所規程の制定A教祖奥城の改修B金之神社の移転などを指摘している。その年の9月に入って支部長懇話会を開き、高橋臨時教監と折衝の結果、今後の課題を実現し得るのは畑徳三郎を措いては無いとし、その教監復職を求めた。そこで10月16日付けで、畑は三度び教監に就任することとなった。

 第3次畑内局は、二年後に迎える教祖四十年祭をめざして、教祖奥城の改修事業に取り組むこととし、翌年(1922・大正11)2月の第32回定期教派会において教祖四十年祭奉賽会の大要を発表して賛同を得、2月24日に教祖四十年祭奉賽会が設立された。その職制に依れば、「教祖四十年祭迄に左の事業を修了す。但第四号は予定の期間に修了せざるときは工事を継続す」として「一、記念布教宣伝 二、教祖奥城御改修 三、金光家墓地新設及其他 四、葬祭場並に信者納骨所」をかかげている。このうち教祖奥城は、全信奉者の信仰の聚まる霊域とするために、金光家墓地を切り離して別に新設することとし、併せて信奉者の納骨所と葬祭場を設置する。それらの建設地は金之神社の移転跡地とする計画が立てられた。またこの事業を執行する責任者として、金光家邦管長を総裁に金光攝胤副管長を副総裁に当て、顧問に佐藤範雄宿老が、委員長に畑教監が当ることとなった。そして事業経費は教内一般よりの報恩誠意の浄財(献納金)を充てるとなっている。ところが、管長の実弟である金之神社祠掌金光別弘から神社移転に反対の運動が起こり、事業一切が停滞することになり、責任総裁である管長を介してその説得に努めたが、遂に解決しなかった。この所謂金之神社問題は、初代管長以来の金光本家(本館家)と佐藤宿老側との信仰的歴史的認識の相違が根底にあった。管長側の認識は、教祖在世中の布教公認の方策として金之神社が建てられたのであって、教祖広前の本殿であるとの主張であった。これに対して佐藤宿老は、制度調査委員会の審議の冒頭で「金之神社は、教祖御在世中、教会組織なかりしため、当時は本教の神殿たりしも、本教成立後は全く性質を異にし、教祖御在世中の金之神社の精神は、今は大教会(所)の内齋殿なり。然るに往々同一体の如く或は本社の如く心得るものあり。此は将来本教に及ぼす弊害容易ならず。之が処置を当局に致すべく講究をなすべきものと思惟す」とのべている。この両者の相違は、ひとり金之神社問題に限らず、抑々独立教派(教団)としての認識の異質であることを露呈したものであった。管長は、金之神社を中心とする崇敬組織として教派の維持運営を考える神社神道的構想に立ち、これに対し佐藤宿老らは、教義の布教を目的とする宗教団体としての体制と機能の充実拡張を求めていた。しかもそれは、教祖在世中からの大願であるとの信仰に立つていた。      このような両#24;メの相違は、遂に教祖四十年祭奉賽会事業を暗礁に乗り上げる結果となり、1922年(大正11)9月20日の奉賽会委員連名の総裁(管長)金光家邦宛の陳情書の提出も虚しく、教祖奥城改修事業は教祖五十年祭迄延期することとして、10月4日・7日・10日に教祖四十年祭並びに祖霊殿臨時祭が執行された。第3次畑内局の改革事業も実質上挫折したのである。越えて1925年(大正14)4月14日に大教会所神殿・祖霊殿おょび附属舎が火災に因って焼失し、畑徳三郎は教監通牒を発してその職を辞任した。

 その年7月22日付けで中野辰之助が金光教教監に就任したが、その内局の専掌心得に和泉乙三が、本部属員に高橋正雄が就任したので、管長金光家邦の忌避するところとなり、管長の決裁が得られぬという事態が続いた。中野教監は、教務を執行することが出来ず、翌年(1926・大正15)3月13日に辞任した。そこで専掌心得阪井永治が臨時教監として教務を執行することとなったが、12月6日に至って畑徳三郎が、四度び金光教教監に就任することになった。このことは、大教会所の復興造営に全教が一致結束して取り組むために、畑教監の出馬が求められ、畑もその責任を感じ病躯を押して就任したのである。時恰も大正から昭和に移る世情不安の時代でもあった。   

 第4次畑内局の使命は、勿論、炎上した大教会所神殿並びに附属施設の復興事業であったが、今一つは、金光家邦管長の教権の強大化を押さえて神務(神前奉仕)の地位を確立することが、教務事情に係わって来た者達の私かなる期待でもあった。1927年(昭和2)7月22日に大教会所復興造営に関する諭告が発布され、本部に復興造営部が設置された。「復興造営部心得」という庶務規程によれば、「管長親シク総裁トナリテ」復興造営部を設け、副総裁に副管長金光攝胤と宿老佐藤範雄を以てし、造営奉行に畑教監が当り造営事業の一切の事務を管掌し、参与のうちから出納課主任に金光文孝・工務課主任に小林鎮・総務課主任に今田周吉が命ぜられた。また正副議会議長・正副支部部長を奉賛員として、一般信奉者に対し造営の精神を普及徹底し、工務について総裁に意見を開申することが出来るとした。

 12月20日に復興造営の根本計画が発表されて、先ず大教会所の敷地を拡張するために教義講究所及び金光中学校を移転し、その跡地に神殿及び附属施設等を造営し、立教聖場と大祭典場を追加して建設する。そして教義講究所を鍛冶屋谷(現金光教学院の所在地)に移築増設することとした。明くる1928年(昭和3)3月22日に教義講究所地鎮祭が行なわれ、講究生や有志信徒団体の労務奉仕によって開拓工事がはじまり、逐次に生徒の生活寮・教室・職員事務室等が新築され、1930年(昭和5)の春に修徳殿・自彊殿の移築が行なわれて、6月9日教義講究所の工事が完了した。しかしその前年(1929・昭和4)6月13日付けで畑徳三郎は、病気のため教監及び造営奉行を辞任し、6月18日付けで山本豊が金光教教監並びに復興造営奉行に就任した。

3金光家邦と教務

 金光家邦は、2代管長襲職十年に当り教祖の信心修行に習うとの名目で、1930年(昭和5)1月1日に、月の1日・10日・22日に大教会所神前奉仕を行なう旨を表明し、1月10日より午前中の奉仕を実施したが、参詣の信徒等が奇異の念を抱き参詣を避けたので、暫くして廃止する結果となった。2代管長のこの行動は、かねての持説である「管長は大教主で大教会長であるから、教務の統括者であると同時に神務(神前奉仕)の責任者でもある。教祖の遺業継承の正統者である金光本家の当主が神前奉仕を行なうので、分家である現副教会長は、その代理である」との信念に由るものであった。しかし全教の信奉者の殆どは、この管長の信念に組せず、14才から神前に奉仕して信奉者の願いを取次いで来た副教会長金光攝胤こそ、真の神前奉仕者と畏敬の信仰を捧げていたからである。剰え、佐藤範雄は、この歴史的現実に立って「教祖御帰幽後ノ大広前奉仕ノ専任職ニ在ル者ト管長ノ大任ニ就ク者トハ今ヤ三十有五年ノ久シキ間ニ自然ニ定レリ。是ヲ互ニ冒サザルヲ以テ本教将来ノ大計トシテ又互ニ神聖ヲ保持スル所以ナリトス。此ノ分界ヲ教規教則ノ正文トシルスルコ信仰的立場を貫いた。ところが、畑が退職すると金光家邦管長は、かねての持論を教務施策に実行することとしたのである。

 1931年(昭和6)1月から全教各教区にわたり特別巡教が実施され、復興造営の推進と教祖五十年祭奉迎の精神を徹底するとの趣旨であった。ところが、その巡教が終り近くなった8月21日に、教祖五十年祭奉迎についての管長諭旨を伝達するとして、第15教区(朝鮮・韓国)管内の教会長・布教所担当者を召集し、管長臨席のもとに山本教監より「宣示」があった。「宣示」は八ヵ条から成り、次ぎのような内容である。        

 一、御神殿御造営のこと

  代まさりの御意味に於いて22間四面とす。(1間=1・8b)

 二、立教聖場のこと

  現地に設ける。この聖場はすなわち金光本家なり、本家すなわち聖場なり

  故にこの聖場に添うて、附属舎として本家の建物を設けられ、この場所に

  おいて閣下(管長)自ら御修養をあそばさるる由。拝察するに場所を単な

  る飾りものとせず、これを御自身の御修養場となさるとのお考えなるべし

 三、外苑のこと

  現在よりも一層森厳とす。広さを現在の約二倍とす。右範囲内の本館(管

  長家)御所有地はそのまま提供せらる。同範囲の御分家(金光攝胤家)御

  所有地は、この御宣示ありたる後に至りて、全部金光教維持財団に寄付せ

 らるることとなれる由。

 四、大教会所のこと

  大教会所は教祖御在世当時ながらの大本社なり。故にそこは何らの規程を

  要せず。有りてはかえって教祖の御神徳を汚すこととなる。教祖の御精神

  そのままに御神業を受け伝うべきなり。かくて閣下(管長)は自らこの神

  業を受けつぐ御信心を現わし行かるる尊き御心なりと拝す。

 五、御結界奉仕者呼称のこと 

  大教会所、一般教会所を通じて、御結界に在るときに限り「金光様」と称

  ぶこと。ただし結界を離れたる場合は職名または氏名を呼ぶこと。

 六、教規教則改正のこと 

  管長の就任は成年未成年を問わず(金光本家の子孫とする)。また副管長

  を置かず。もし管長未成年の場合は、教監が代行者となる。大教会所副教

  会長はその数若干名とし、且つかならずしも金光家の者と限らず。

 七、教祖御系統譜作製発表のこと 

  このことは既に教則中にあることを実施することなり。

 八、教祖四十年祭奉賽会総裁のこと 

  (管長閣下の)御信心上の御立場より御辞退あそばさる。

 この「宣示」を聞いた一般教会長や教師等は、その意味するところを理解する筈はなかった。山本教監自体もその内容を明確に説明することを避けたからでもあった。しかしここには、管長が神務(大教会所神前奉仕)を掌握しようとする意図が示されているのみならず、副管長兼副教会長である金光攝胤を教派の役職から排除しようとする目的が露にあった。ここに至ると、教務と神務の問題は、教義・信仰・制度の課題ではなくなり、2代管長金光家邦の個人的な情念の問題となった。 9月4日より14日にかけて、教監が第15教区へ出張して管長の諭旨を伝達したのを始めとして、10月19日・20日・26日・27日には第21教区(長崎、佐賀、熊本各県)にて、10月29日・11月1日には第13教区(鹿児島、宮崎各県)にて、11月18日から24日にかけて第13教(宮崎、大分各県)にて、さらに翌年(1932・昭和7)1月15日から23日にかけて第12教区(福岡県)にて、いずれも山本教監が出張して各管内教会長に「管長の宣示」を説明して、各個に承諾の意思を確認するという極めて異例の措置が行なわれた。

 このような2代管長の恣意ともいうべき内容を、教監という公的な管長補佐の職務を介して宣伝し、且つ教会長の信任を図る踏絵とした。山本教監も疑念を抱きつつも、補佐義務の建前に捉われて管長権の威圧に屈する有様であったといえよう。しかも前年(1931・昭和6)8月18日に、いわゆる満州事変が勃発したので、その慰問活動や祈願祭執行などに教務は繁忙を極めている時期であった。11月29日の支部長会議において、管長宣示の説明がなされたが、ただ濱田安太郎(5教区)が「上正しければ、下これに従う。管長様自ら信心の姿勢を正されるべし」と発言した以外全く発言する者も無く、そしてこの問題は満州事変関係の活動事情の協議の陰にかくれてしまった。

 1932年(昭和7)2月5日に宿老畑徳三郎が66才で死去した。管長は畑にたいして教葬を執行することを命じ教監通牒を発したが、遺族等の辞退により教葬取止める旨を通牒した。それに替えて、管長は山本教監を葬儀に派遣して「大教会所神勤ヲ命ズ」との辞令を与えたが、柩前に供えることを拒否された。2月12日になって漸く畑徳三郎の葬儀が執行された。3月27日に教監山本豊は、現職のまま休養を命ぜられ、古川隼人が臨時教監に就任したが、6月22日付けで小林鎮が8代目の金光教教監に就任した。そして教祖五十年祭を奉迎するために、専掌古川隼人・佐藤一夫・畑一(本部出張所担当)に加えて、新たに白神新一郎(3代)と近藤明道を専掌心得として、内局を組織したのである。この小林内局は、畑を除いて教監以下が金光家の縁者であったので、いわゆる「お家内局」と評されたが、大正8年の場合の小林内局の金光本家(管長家)一族とは異なり、教団創設時の白神・近藤・佐藤の第二世であり金光四神家の縁者である。したがって引き続き全教区にわたつて「管長御懇諭伝達」が実施されたが、その内容は「管長宣示」とは自ずから異なり、大教会所神前奉仕の尊厳という点が強調された。かくして1933年(昭和8)2月12日に教祖五十年大祭委員会(名誉委員長は佐藤範雄、委員長は山本豊)が開催されて、祭典其の他の行事が具体化され、10月4日・7日・10日・13日・16日の5回にわけて記念大祭が執行された。

4御礼之会と御礼信行会

 教団創設以来の空前の盛儀であった教祖五十年大祭に続いて、12月20日には金光四神貫行君四十年祭が執行された。明けて1934年(昭和9)2月19日から第49回定期議会が開会され、その第二日に「大教会所副教会長御神勤満四十年感謝文」を捧呈することが決議された。そこで直ちに奉呈文案の作成と審議が行なわれ、次の如き成案を得たので、2月21日に大教会所広前にて副教会長金光攝胤に奉呈した。                

     奉呈文

 齋ミ齋ミテ御広前金光様ノ御前ニ申上ケ奉リマス

 金光様ニハ夙クカラ我カ生神様ヲソノ儘ニ我カ大教会所大広前ニ御神勤下サ

 レマシテ今日マテノ永キ年月ヲ昼夜ヲ徹シテ真ニ一日ノ如ク御勤メ下サレマ

 シタコトハ古今ヲ通シ東西ニ亘ツテ未だ曾て其の例シヲサヘ知らぬコトテア

 リマシテ何ト申上ケマシテ宜シキカ思ヒモ言葉モ絶エテ真ニ畏レ多イコトテ

 御座イマス

 私共カ今日マテ斯ク容易ナラヌ御蔭ヲ蒙ラセテ戴キマシタコトハ偏ニアナタ

 様ノ御苦労ノ賜テアリマシテ只々難有ウ御座イマスト申上ケ奉ルヨリ外ハア

 リマセヌ今年恰モ御神勤四十年ト云フメテタキ御年柄ヲ迎ヘサセテ戴キマシ

 タコトハ神様ノ御喜ヒノ程ハ申上マスマテモナク私共ニ取リマシテモ限リナ

 ク難有ク喜ハシキコトテ御座イマスコト御礼ハ何ヲ以テシテモ表ハシ奉ルコ

 トハ出来マセヌ只々アナタ様ノ御徳ニ照サレ御身ヲ以テ常ニ御示シ下サレテ

 アル尊キ御教ヲ奉体致シマシテ一層身ヲ慎ミ心ヲ改メテ御用ノ片端ニモ仕ヘ

 サセテ戴キマシテコレヲセメテモノ御礼ト致シタイト存シ奉リマス

 爰ニ本教第四十九回定期議会開会ニ当り全員一致ノ決議ニヨリマシテ議会ヲ

 代表シテ齋ミ齋ミテ御礼ヲ申上ケ奉リマス

  昭和九年二月二十一日

              金光教議会議長少教正 和泉乙三

 そしてその翌月、この感謝の心を形を以て現わすために、「御礼之会」を結成することとなり、発起人131名の連名で、次ぎの如き趣意書をもって全教信奉者に呼び掛けた。

      御礼之会趣意書

 我が大教会所現御広前金光様(副教会長金光攝胤ノコト)には弱冠の御頃よ

 り我が教祖生神様をその儘に御神勤遊ばされまして旧臘満四十年に達せられ

 ました。その間寒暑を分たず昼夜を徹して真に一日の如くに御奉仕遊ばされ

 てあることは、何と称へ奉って宜しきか誠に畏れ多い極みであります。この

 筆にも言葉にも及ばぬ御苦労によりまして、私共は今日のみかげを蒙って居

 るのでありまして、御礼の申上げやうもありませぬ。只々尊き御徳に照され

 て、その御奉仕の大精神をば吾々の信仰生活の上に真実に頂いて、道の為め

 御国の為めに御用の片端にも尽させて頂いて、それをせめてもの御礼と致す

 より外に御礼の道はありませぬ。しかしながら何とかして御神勤四十年の御

 徳を称へ奉り、容易ならぬ多年の御苦労に対して御礼の心を表はし奉らねば

 済まぬ心持から、今回、別項規約の通り御礼之会を設立することヽなりまし

 た。どうか私共の微衷の存する所を御賛同下さいまして、此の挙が清く美は

 しく成就して打って一丸となった全本教徒の誠意を挙げ奉ることの出来るや

 う謹みて祈って止まぬ所であります。

  昭和九年三月            発  起  者

 以上のような趣旨のもとに1人1円宛ての会費を募り、約20万円を御礼のしるし≠ニして、神前奉仕金光攝胤に贈呈することとした。この背景にある理由は、金光攝胤の大教会長金光家邦への借用金に充てるためであった。抑々金光教会設立後に近藤藤守の配慮に依って、大教会所(当時は本部教会所と云う)のお下がり≠教会長が四分神前奉仕者が六分の基準で分與されることに定めた。いわゆる四分六ノ制であって、当時の金光教会長は賀茂神社や金之神社の祠掌をも兼ねていたので四分とされ、初代管長金光大陣の代までは、そのまま不文律として行なわれてきた。ところが2代管長金光家邦の代には、大教会長の配慮に依って、教会長が六分神前奉仕が四分となり、ついに金光攝胤は、教会長から生計費までも借用証を書いて借りる状態になった。そこで御礼之会の集金の一部をもって、その返済に充てることとしたのである。

 ところがこの趣旨に対して、神前奉仕の金光攝胤から側近者を通して、「御礼之会の事は断って貰いましよう。年限が長いというだけで、功がないのですから…。皆んなが神様へ御礼を申して下されば、それで結構です」と辞退の旨が伝えられた。これを受けた御礼之会は、4月30日付けでこの言葉を伝えて次のように通達した。

 (前文略)寔に恐懼に堪へぬ次第で御座います。「たゞ年限が長いばかり」と仰せになって居られますが、四十年の久しきに亘って、たゞただ神様と吾々氏子との間に御立ちになり、教祖の神様の御取次の神業を御実行なされて「皆んなが神様へ御礼を申してくださればそれで結構です」と、何ものをも御自身の上に御受け遊ばさうとはなさらぬ御言葉を拝し奉る事は、本教者一同の深く反省致さねばならぬ事で、吾々の奉仕ぶりを省みて真に御詫び申上げねばならぬと存じます。云々               

 と延べ、ここに改めて神前奉仕の思召しを戴いて、御礼之会を解消することとなった。そしてその精神を具体的に実践することとして、教監小林鎮を委員長とする御礼信行会を設立して、「此際、教会所の取次奉仕の任に在るものは勿論、道の御用に従へるものは、各自深く相省みて従来の足らざる所を真に御詫する精神を以て、先づ自ら改まりの実を現し、教信徒を率いて教祖五十年大祭後に処する第一歩を強くはっきりと踏み出さして頂き、全教一心同体となって無量神恩の万一に報い奉りたい」との趣旨をもって、次ぎのような申合と実行事項を通達した。                     

   御礼信行会申合

 一 本会ハ本教教師ヲ以テ会員トシ事務所ヲ本部内ニ置ク

 二 本会ハ御立教ノ神意ヲ奉戴シ御広前奉仕ノ大精神ヲ体現シ報教ノ実ヲ挙

  グルヲ以テ所願トス  

 三 本会ニ左ノ役員ヲ置キテ趣旨ノ貫徹ヲ計リ所願ノ達成ヲ期ス

     委員長  1名

     委 員  若干名

 四 委員長ハ教監之ニ当リ委員ハ委員長之ヲ指名ス     

 五 委員長ハ本会一切ノ事務ヲ統裁シ委員ハ委員長ノ旨ヲ受ケテ事務ヲ分掌

  ス 

との申し合わせに依って、この信行会は教務活動の色彩を帯ることになった。次いでその「実行事項」として

 一、御礼信行会ノ所願ヲ達成スルタメ金光御本家ニ主ナル教会長参集シ御教

  示ヲ仰ギテ懇談ス

 一、各地方ニ於テ親教会長等ヲ中心トシテ前項同様ノ精神ニ基キ懇談ス

 一、六月十六日独立記念祭終了後全会員ノ懇談会ヲ開催ス

 一、六月十六日ヨリ八月四日マデ五十日間ヲ第一段トシテ会員各自信行実修

  ヲナス

   此間各教会所ニ於テハ特ニ結界奉仕ニ恪勤ス

 一、八月五日各教会所ニ於テ一斉ニ信徒ヲ参集セシメ御礼祈念ヲ仕フ

 一、同日以後各教会長ハ任意大教会所ニ御礼参拝ヲナス

        

と定めて実施したが、たまたま八月五日が副管長金光攝胤(御広前奉仕者)の誕生日であった。そしてこのことは、後年には事あるごとに行なわれた信行期間の先例となった。

 このような大教会所神前奉仕を信仰の中心と戴く全教的信念運動として、神務の高揚が展開されたことに対して、金光家邦管長の側近等に依る中傷乃至誹謗の不穏文書が、各教会所に配付された。いわゆる国粋新報事件である。このことを発端として、やがて全教を挙げての教団自覚運動へと発展していった。国家の宗教監督権の委任を受けた管長事務であった教務の統理に対して、信仰の中心生命である神前奉仕(取次の業)の権威を堅持しようとする信念運動である。その結果、翌1935年(昭和10)6月には教規の改正が行なわれ、多年の念願であった教則第五十号大教会所規則が制定されて、「神前奉仕ノ神聖不可侵」という制度上の位置付けがなされた。ここに教務と神務の関係は、新たな段階に入ることになった。                               


 参照事項 ⇒ 独立時教規教則   教規・教則   独立関係文書

  教団自覚運動   管長制度   管長襲職規則  布教興学基本財団

  昭和九・十年の有志盟約文書   諭告・通牒   維持財団