金光教教団史覚書

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教団自覚運動

(きょうだんじかくうんどう)

   T、昭和9・10年事件 / U、御奉仕神習会の実施 / V、金光教教規の新定と新体制確立運動 

 1934年(昭和9)から1935年(昭和10)にかけての全教信奉者による教団改革運動を中心として、その前後約10年間にわたって進められた、二代管長金光家邦の教団統治に反対する信心復興の運動を、第二次世界大戦後の教団の立場から「教団自覚運動」と唱えられることになった。次に、いわゆる昭和9・10年事件から二代管長の自然退任をみた1941年(昭和16)の教規新定運動までの経過を記す。

T、昭和9・10年事件

 大教会所副教会長・副管長金光摂胤の神勤40年御礼の意味をこめて1934年(昭和9)6月16日から8月4日まで、全教挙げて御礼信行会が実施された。ところが、この期間中から「国粋新報」(岡山県倉敷市在)という地方新聞が、金光摂胤副管長に関する捏造の中傷記事を掲載し、日を追って執拗に繰り返し掲載して、全国の教会に送付された。あたかも全教の純粋な信仰を冒涜するかのごとき卑劣な行為に、全信奉者は不安と憤りを覚え、その記事の出所の糾明を教務当局に求めた。その後明らかになった事実は、金光家邦管長の邸内でこの事が運ばれていたということであった。本教の名誉に係わる事の重大性に深く憂慮した教監・小林鎮は、事態を穏便且つ円満に解決するために、管長自ら執筆者山王不二夫を伴ない副管長に陳謝することとし、管長もこれを了承して、一件落着することになった。所謂「国粋新報」事件である。

 さらに、この事件の根底にある問題を解決する条件として、1934年(昭和9)10月6日に教監・小林鎮は、管長・金光家邦に対し

「@大教会所神前奉仕の神聖不可侵、A大教会所会計の厳正、B教監の責任制、C金光家家憲の制定」

の4ヶ条の覚書を提出して、その実行を求めた。ところが「国粋新報」事件の真相を聞知した教派会は、有志議員の名義で10月12日管長・金光家邦に対し管長辞職を勧告し、また支部長会も管長に進言書を提出した。しかし管長は、これらの勧告や進言を無視する態度に出たので、有志議員らは管長辞職の要求を掲げて文部省に陳情した。文部省もまた出張所担当専掌・畑一を招致して、教団事情を聴取するところとなった。これらの動きは11月4日から6日にかけて穏密裹に行なわれたが、やがて管長の知るところとなり、11月22日に教監・小林鎮は管長から補佐の責任を糾弾され、同日小林内局の総辞職を行なった。そして事ここに至った経緯と真相を全教会長に公表した。これを発端として全教の教会長・教師・信徒団体の殆どが加盟して、金光家邦管長の退任要求を掲げて、教団改革の信念運動にまで展開した。かかる事態に対して文部省当局は、

「@大教会所会計規則の制定、A教監責任制の確立、B管長の肉親が教政に参画することの禁止」

を指示すると共に、二代管長の地位身分を保証するという措置をとつた。後継の教監・阪井永治は、この指令を公表することなく退任し、管長は、敢えて実弟の金光文孝を教監に任命して改革運動に加盟する教会長、本支部職員らの罷免を暗示する通牒を発し、強権をもって運動の終息を図った。その措置に対して、佐藤範雄が金光教宿老の栄称を辞退したので、全教的な抗議行動は一そう熾烈になり、1935年(昭和10)3月5日全支部職員の辞職願の提出、青年会連合本部の運動参加、有志信徒の教団粛正期成会の結成とつづき、4月の大祭不参拝を決議して、各地方ごとに青年信徒大会を開催し、さらに4月21日に全国青年信徒大会を、4月28日に全国信徒大会を金光教本部で相次いで開催し、管長退任要求の決議声明をおこなった。このように管長の退任を求める有志盟約団体側と、飽くまでも管長権を盾に強権的態度を崩さない二代目管長との対立は、紛争の泥沼化を招きつつあった。

 この事態にあっても、副管長で在った金光摂胤は、平常通り大教会所の結界に端座して取次を続けた。大祭不参拝の事態に狼狽した門前町の代表らが、全教の信奉者に参拝を促すように一筆記して貰いたいと頼んだ時、「真の道が真の道で立つように成れば、参ってこられます」と、その申し出に取り合わなかった。また金光教宿老を辞退していた佐藤範雄は、3月28日に上京して文部省の当局者をはじめ岡山県知事・多久安信、元宗教局長・下村寿一らと教団問題について協議し、多久知事に依る調停をもって解決の方途を拓くことに決意し、4月5日に帰宅した。そうしてこの日から多久知事の調停工作がはじめられた。まず金光家邦管長と金光文孝教監の兄弟を岡山県庁に招致して教団統理者としての立場からの事情聴取を行ない、4月7日には佐藤範雄を招致して意見を聴取し、4月9日に有志盟約代表の小林鎮と畑一を招致して教団改革の立場からの実状を聴取した。さらに4月11日には再び管長を招致して、多久知事より去る1月19日付け宗教局長が提示した「金光教内紛につき指示せる制度改善案」3ヵ条の実施を約した覚書を交わした。然るに管長は第3条の指示に反する金光文孝教監の更迭を行なわないので、4月16日に多久知事は、管長の覚書不履行に抗議する談話を公表した。そこで翌17日になって、管長の代理人として蒔田子爵が多久知事を訪れ、その調停の覚書を承認し教監の辞表を提出した。その時、多久知事は佐藤範雄に宿老辞退書を還すことを命じた。次いで4月23日に知事は、宿老佐藤範雄を招致して、後任教監について協議し、4月26日夜に知事官舎にて、多久知事と金光家邦管長の立合いのもとで、佐藤宿老から高橋正雄を教監に推薦する旨の推薦状が管長に手渡されて、同日づけで高橋教監の就任をみることとなった。

 しかしながら教内状況は未だ混沌として、信徒団体は依然として管長退任要求を掲げ、28日には本部(金光町)に参集して全国信徒大会を開催し、其の代表者が管長と会見して決議文・宣言文を手渡した。さらに5月に入ると、14日には管長退職の日まで本部大教会所へ不参拝の決議を行なうなど、一方で進められている調停工作に異議を唱えた。しかし多久知事の調停は大詰をむかえていた。5月10日に文部省宗教局において、高田休広宗教局長を中心に金光家邦管長・高橋正雄教監・金光文孝前教監・佐藤範雄宿老・小林鎮有志盟約中央委員代表らが協議を行ない、文部省から提示された前記の指示要項に併せて付帯案についての交渉が行なわれた。その付帯案とは、

@教則及び本部職制の改正、A布教興学基本財団寄付行為の改正、B大教会所規則の制定、C大教会所復興事務局規則の制定

の4案件である。@の案件については、管長の人事権の独裁専行を禁じ、必ず教監の具申を経ることを規定する(教監責任制)Aの案件は、大教会所の浄財を布教興学基本財団に受け入れ、同財団から大教会所の経費を支出するための規則の改正(財務の公明)Bの案件は、大教会所の財務の予算決算化・その審議機関の大教会所会の設置等を内容とする大教会所規則の制定 Cの案件は、かねて疑惑を持たれていた復興造営部会計に関する事務機関の設置などの制度化である。ところがこの協議折衝のなかで、文部省当局は、管長制度を堅持する立場から管長の退任要求を撤回することを求めたので、有志盟約側はその対案として、大教会所神前奉仕の神聖不可侵を『大教会所規則』に規定することを主張し、さもなくば信徒団体の動きを止める方策はないと強調した。そこで文部省当局もこの主張を認め、教則として規定されることになった。

 5月19日から21日にかけて第五十回臨時議会が開会され、教規および教則の改正案が可決された。6月1日付で改正教規並びに教則第47号本支部職制(第2号の改正)・教則第48号教会所職制(第5号の改正)・教則第49号金光教教義講究所規則(第46号の改正)・教則第50号大教会所規則(新規)・教則第51号大教会所復興事務局規則(新規)が施行された。また教則の改正に伴って金光教布教興学基本財団の定款に「金光教大教会所ヨリ受入ルル資産(4条3号)」を加え、通常財産として規定した。ここに於いて、かねてよりの念願であつた三原則が、教規教則のうえに規定化された。

 このことが信徒団体に諒解されるために、6月3日に信徒団代表者と有志盟約中央委員との間で協議が行なわれ、その結果、6月16日の全国信徒代表者会議において霊地不参拝の決議を撤回し「金光家邦管長の名において行なわれる祭典・祝式には参拝せず」と決議した。そこには、真に信仰的権威をもつ人が教団の統理者であるべきで、非信仰的な権力者を管長に戴くことはできぬという情念が、信徒団の運動を一貫していた。しかも現実に金光摂胤という優れた神徳者が存在しているのである。それに対して、国家権力を背景にもつ管長権を維持して、教団の秩序を回復すべきであるというのが、文部省の一貫した方針であった。この矛盾した対立のあいだに立って、運動の指導者達は苦渋の決断をしなければならなかった。

 6月16日は金光教独立満三十五年記念日にあたるのであるが、恒例式典を取り止め、独立記念御礼式を執り行なった。白衣に紋付羽織・装束用袴を着用した890名の教会長・教師が大教会所御広前に参進着座のうえ、高橋教監が御礼祈願文に教会長教師の参拝名簿を添えてお結界に奉呈し、神前奉仕の金光摂胤副教会長が之を捧げて神前に進み、一同敬礼のなかで祈願文の奏上がなされた。これは取次を儀式の形として行なったものである。続いて教監の挨拶があり、更に佐藤宿老の記念講話がなされた。最後に一同揃うて教祖生神金光大神・初代管長金光大陣の奥城に参拝し、式典を閉じた。そしてこの日から8月4日まで畏敬信行が実施された。

 このようにして一応の平静をみることとなった。その間に5月3日以来、新旧教監によつて本部及び復興造営部の事務引き継ぎが行なわれてきたが、復興造営事業の乱脈な経理が明かとなったので、8月7日に教団各面の代表200人余を教義講究所修徳殿に集めて、この善後処理をするための協議会がひらかれた。会議は連日にわたり意見や議論が沸騰したが、遂に結論として「このたびの事態は、本教教徒に与えられた一大試練であった。これに依って奉教護道の熱誠を一層発輝し、本教永遠の基礎を確立すべく、神前奉仕者のお取次を戴いて、無からの出発をする」ことに決し、管長の謝罪金を返却したのである。8月10日に大協議会は終り、8月14日に有志盟約を解散し、9月4日に至って教団粛正期成会(信徒団体)も解散をみることになった。これに先立つ8月29日には、高橋教監の具申に依って小林鎮・和泉乙三・関口均・畑一が専掌に、佐藤一夫が大教会所事務長に任命され、本部の態勢もととのい、新しい教団活動がはじめられた。

U、御奉仕神習会の実施

 1934年(昭和)夏から翌年夏にかけての全教あげての教団改革運動は、その目標であった金光家邦管長の退任を実現できなかったが、いわゆる三原則を教規・教則のうえに規定することができた。とりわけ大教会所規則の第六条に「大教会所ノ神前奉仕ハ本教至高ノ聖務ニシテ他ノ侵犯ヲ許サザルモノトス」と規定され、6月21日に金光摂胤の神前奉仕就任をみたこと、更に10月7日と10日の教祖大祭が、教団史上はじめて、神前奉仕者の斎主のもとに執行されたことは、信奉者が多年にわたって念願してきたことであった。次いで、10月26日付けで金光攝胤は副管長職を辞職して、一教依立の根源である大教会所神前奉仕に専念されることとなった。管長制度の下ではあるが、ここに教祖立教の神意を教団の組織のうえに現わし得たと共に、そのことの意義を全教的に自覚し、神前奉仕の取次に神習うとの願いがたてられた。

 1936年(昭和1)4月8日の支部部長会議において、高橋教監より「教内全体に渉って御取次奉仕のご聖務に神習ひ奉って、大御蔭を蒙らして頂くこと」を教務の根本方針として示し、まず本部・教義講究所職員を以て、4月21日から三日間の御奉仕神習会が実施された。次いで5月15日に教監通牒をもって、全教会長の御奉仕神習会を実施し「親しく(神前奉仕の)御比礼を仰ぎ奉りて信念の練修を期すると共に……新制度の精神と(日中戦争)現下の事態とに対する認識を明確にし、全教を挙げて一意報教護国の至誠を致し奉らん」との趣旨が布告された。6月17日から9月10日まで16回に分けて、教会長御奉仕神習会が開催された。その実施の内容は、午前3時に起床し、神前奉仕者出仕のお迎え・祈念・洒掃・食事・講話・懇談(布教体験・信仰体験)お広前での黙祷・神前奉仕者退下のお見送り・入浴・午後8時就寝まで、2泊3日の共同生活であった。その参加総数は1234人におよんだ。更に1937年(昭和12)以後も青年教師・教師新補者並びに予備布教者の御奉仕神習会が行なわれ、1939年(昭和14)12月まで続けられたが、宗教団体法に依る教規新定運動がはじまって、教務が繁忙を極めることとなり、中止をみるに至った。

V、金光教教規の新定と新体制確立運動

 宗教法の制定は、1899年(明治32)以来の国家的懸案であったが、政府の宗教統制に繋がる怖れがあるとして、数度にわたり帝国議会で否決や廃案の憂き目をみてきた法案であった。1920年代(大正末期)に文部省に宗教制度調査会が設置され、宗教団体を保護・監督することを目的として法の整備が行なわれ、日中戦争(支那事変)下の1939年(昭和14)4月7日に宗教団体法が公布された。この法律に基づいて、各教宗派並びにキリスト教団の規則を改正することになり、本教も教規教則を改定するために、6月1日に教則第六十二号金光教教制審査委員会職制を定め、その審査立案の機関を設置して、10月5日に第1回委員会を開いて教規立案の根本方針・態度について協議した。さらに同年12月22日に勅令第八百五十五号宗教団体法施行令で、1940年(昭和15)4月1日より施行することが定められたので、翌1941年(昭和16)3月31日までに文部大臣の認可を受けることになった。

そこで教制審査委員会は、1940年(昭和15)2月に庶務規定を定め、教規の立案に向つて審議をすすめ、5月11・12の両日かけて、文部省宗教局の担当官を中心に協議を行ない原案の作成に務め、6月22日から26日まで委員会を開いて原案を審議し、管長の承認を求める教規草案を決定した。ところが、この草案の骨子である1教祖立教の神意を具現する本部教会神前奉仕の取次を中心とする教団体制の実現、2管長職の世襲制を廃し、一教独立当初の教会主管者の選挙に依る管長撰任制の制定、3教監任用につき機務顧問会の推薦制という案に対して、金光家邦管長の拒否するところとなり、文部省の審査を受ける期限を延期せざるを得ない状況となった。そこで文部省よりの教規草案提出の督促をうけ、7月15日に委員会は、当面の事情を理由として書き添え、管長の承認無きまま教規草案を提出した。然るに8月14日になって、管長自らが文部省宗教局に出頭して管長個人の教規案を提出したので、同月22日に阿原謙藏文部大臣は、教監・専掌を招致してこの事実を告げ、教団としての意志をまとめて教規を一本化するように指示した。その管長私案は、かねてより金光家邦管長の教権主義ともいうべき一貫した信念からの主張を示す内容であったので、委員会としては、今日までの全教信奉者の自覚運動から言っても、到底、受け入れるところではなかった。

そこで改めて10月1日には管長出席のもとで、委員会が再開されたが、管長は中座したまま再び会議に出席しなかった。教務の責任者として、高橋教監は、文部省に出頭して教規の審議状況を報告すると共に教制審査委員会立案の態度や今後の進め方についても協議し、委員会案を基軸にして教規草案を纏めることとなった。11月19日の委員会おいて、管長選任・神前奉仕・取次の意義についての規定を審議し、同月28日に第二次教規草案を管長に提出した。しかし管長は依然として承認を与えず、徒に時間が流れるばかりであった。そこで教制審査委員会は、12月15・16の両日にわたり、委員・調査員・正副支部長・本部機関職員及び地方諸機関長に対して教規新定問題の経過を報告し、流言に惑わず、その成功に向って協力するよう要請した。12月27日と新年(1941)早々の1月7日には、文部省より第二次教規草案の提出を督促され、1月20日の期限を付して迫られることとなった。ここに至って、2月4日に管長から「教規草案の他のことは認めるから、金光家邦の子孫が管長職を世襲することを規定せよ」との意志表示があった。2月9日付けで支部長は連名を以て、教規制定の速やかな促進を要請する嘆願書を管長に提出し、また21日から24日にかけて開会された第61回定期議会に於いても、「宗教団体法ノ命ズル本教教規ノ制定ニ関シ、管長ニ於イテ成規ノ手続ヲ経テ、速カニ其ノ成立ヲ期セラレタシ」と満場一致で決議した。この議会に先立って、同月16日から23日にかけて教制審査委員会を開き、管長提案の世襲制事項について審議を行ない、結論として不採用の旨を答申したので、管長は認可申請への手続きを拒否し、ここにその解決の方途は閉ざされてしまった。

 そこで3月14日に高橋教監は、この行き詰まった状況を阿原宗教局長に陳情したが、この管長問題は行政当局が介入できない教内問題であるから、教団自体で解決する以外に道のないことが分かった。3月17日には、主なる教師及び青年会の代表ら百数十人を本部に召集して、管長が規則に定められた認可申請の手続きをとり、新教規の成立を求める決意表明を行ない、金光教新体制確立運動と称え、全教挙げて文部省への陳情運動を進めた。このような事態に困惑した文部省は、かねて金光教の問題を憂慮していた岡山県出身の代議士で鉄道大臣でもあった小川郷太郎に、その紛争解決への協力を依託した。3月25日に小川郷太郎は高橋教監を招致して、教内事情を詳細に聴き、この問題が単なる世俗の内紛ではなく、教祖立教以来の信仰に基づく信念運動であることを理解し、管長の説得に当ることを了承した。その夜、上京してきた管長を自宅に招いて、小川郷太郎と並川義隆(元岡山県学務部長・現東京府経済部長)の二人が、「もしこのまま管長印をつかれないと、金光教は宗教団体として認められず、単なる結社となって、貴方も管長では無くなる」と、頻りに説得したのである。一方本部出張所(東京教会所)に詰め切っていた教監ら教団幹部へ翌朝「管長が承諾したが、その後の取り運びは出来るか」と小川から連絡があり、31日の期限までにできる旨を答えた。ところがその直後、萬世橋警察署から教監らに出頭命令がだされ、拘留尋問されることになった。そして直ちに陳情行動の停止と信奉者達の上京を差し止めるよう命じられた。また管長も警視庁からこの事態を起こした責任を厳しく咎められた。高橋教監は運動の停止を指示すると共に、東京出張所に於いて第62回臨時議会を開会することとした。3月30日の夜を徹して審議し、31日朝に第2次教規草案を満場一致で可決し、その草案を同日午後4時までに文部省へ提出するために、認可申請書に管長印を押印して貰はねばならぬので、教監ら委員会幹事が、帝国ホテルに滞在中の管長を訪ねて、付き添いの赤堀亀雄弁護士に書類を手渡し、一行はロビイで待機していたが、数時間を経て赤堀弁護士から管長印が押された申請書類が戻された。高橋教監は、万感迫る思ひで出張所の神前に供え、更に認可申請書の押印されている箇所を写真に撮影して、文部省の刻限間ぢかの宗教局に提出することが出来た。阿原局長は「この書類は受理します。期限までに出来てよかったです」と高橋教監に言い渡した。その後、4月5日から8日にかけて、教規草案の第2次内閲が宗教局担当官と大淵幹事との間ですすめられ、4月16日に「3月31日付け金光教教規を認可する」旨の指令があり、認可日の即日施行された。

 そこで、新体制確立運動を解散し、新教規に基づいて、3月31日付けで、管長金光家邦、神前奉仕者金光摂胤、教監高橋正雄、専掌小林鎮、同・和泉乙三、同・畑一、同・近藤明道、教義講究所長佐藤一夫、正副支部長の全員が自然退任し、金光国開が管長代務者に就任した。4月1日付けをもって、松山成三が教監に就任し、井上邸定次郎、福田源三郎、竹部寿夫、大淵千仞が専掌に就任し、その他の全機関の人事が一新された。7月25日には教会長に依る第1回管長選挙が行なわれて金光摂胤が当選し、8月1日に第三代管長の就任をみることとなった。


 参照事項 ⇒ 管長制度   教規・教則   教務と神務 立教神伝

       有志盟約関係文書  三原則   金光攝胤

       金光家邦   小林鎮  高橋正雄

       金光国開   宗教団体法  金光教管長の諭告