金光教教団史覚書

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戦時における教団活動

(せんじにおけるきょうだんかつどう)

(1)日清戦役と神道金光教会の活動(2)日露戦争と教団活動

(3)日中戦争と教団活動(4)太平洋戦争と教団活動

 『大日本帝国憲法宸ノよる「万世一系の天皇統治」という官僚政治と嚮R人に賜りたる勅諭』による天皇親率の軍隊統制(統帥権)という二頭立ての国家体制は、いわゆる富国強兵政策のもとに、国際世界において領土拡張と国力増強のために、しばしば戦争を行なって来た。それは近代国家として成熟していく過程でもあった。1894年(明治27)8月から翌1895年(明治28)4月にかけての日清戦争および新領土台湾の征討に始まり、1900年(明治33)6月の北清事変への参戦、1904年(明治37)2月から翌1905年(明治38)5月にかけての日露戦争、つづいて朝鮮駐留を経て1910年(明治43)8月に朝鮮の併合、1914年(大正3)8月には第1次世界大戦に参戦してドイツ領青島およびマリアナ諸島を領有し、更にロシア革命戦争に対して1918年(大正7)8月にシベリアに出兵した。その後は、列強の1国として国際政治の舞台で外交戦略を展開し、一方では中国東北地域の支配を目指して1927年(昭和2)5月から翌年4月にわたって山東省に出兵、濟南事件・張作霖爆殺事件が起り、遂に1931年(昭和6)9月満州事変となり、つづいて上海事変に拡大して中華民国の抗日戦を招いたが、1932年(昭和7)3月に満州国を建てて日満友好同盟条約を締結した。このことは、世界列国の非難を受けることとなり、翌1933年(昭和8)3月には我が国は国際聯盟を脱退して世界から孤立することになった。この間に相次ぐ暗殺とテロに因って文官政治は弱体化し、統帥権の名のもとに強大化した軍閥に依って、国策が進められるに至った。

 第1次世界大戦後のベルサイユ−平和体制は、1933年(昭和8)3月のナチス政権の成立に依ってドイツの軍事大国化と共に破られ、1935年(昭和10)10月にはイタリアもファシスト政権に依って対エチオピヤ戦が始まり、国際条約も次々と廃棄されていった。我が国も同様に国際条約を破棄する状況にあったので、1936年(昭和11)11月に日・独防共協定を12月に日・伊防共協定を結んで、共産主義防衛の名のもとに新世界秩序を目指す所謂枢軸国の一国となった。1937年(昭和12)7月蘆溝橋事件に端を発する日中戦争がはじまり、黄河・揚子江・珠江流域の中国各地に戦火を拡張していったが、戦争は膠着状態となった。更に中華民国を支援するアメリカ・イギリス・オランダ等の各国の経済封鎖を破るために、1941年(昭和16)7月に仏領印度支那(現ベトナム・カンボジヤ・ラオスの地域)、タイ国に派兵駐留したが、遂に同年12月8日にアメリカ・イギリス・オランダ連合国に対して宣戦を布告した。いわゆる太平洋戦争である。国内では大東亜戦争と称した。開戦後わずか1年にして戦闘地域は、北はアリュ−シャン列島から南はニュ−ギニア・ソロモン諸島にかけて、東はハワイ諸島から西は蘭領印度(現インドネシヤ)・ビルマ(現ミヤンマ−)にかけての西南太平洋及び東南アジアの全域に拡大していった。しかし1943年(昭和18)1月のソロモン諸島ガダルカナル島の撤退作戦から逐次アメリカ軍の進攻が烈しくなり、2月には同盟国ドイツ軍もソ連軍の反撃をうけてスタ−リングラ−ド戦線で壊滅して撤退し、9月にイタリアは連合軍の上陸に依って無条件降伏した。翌1944年(昭和19)7月にサイパン島の失陥によりアメリカ爆撃機の日本本土への直接爆撃を受けることとなり、ドイツ軍もまた8月には連合軍によってパリ−を奪還された。更に1945年(昭和20)を迎えると、4月にナチスドイツの無条件降伏によってヨ−ロッパ戦線の戦争は終り、1月レイテ島に上陸したアメリカ軍は北進して、フィリッピンを制圧し、6月沖縄本島を占領し、この間日本本土の主要都市は無差別爆撃をこうむって壊滅した。8月に入って広島・長崎への原爆投下とソ連の満州国侵入により、事実上の戦闘がおわり、8月15日に昭和天皇は無条件降伏の詔勅を発表し、大東亜戦争の終結を宣した。ここに29ヵ国を巻き込んでの第2次世界大戦が終ったのである。

 顧みれば日清戦争以来51年の間、別して満州事変以後の15年にわたる宣戦布告なき日中戦争は、両国に甚大な損害と悲惨な破壊を与えた。日本国民は1942年(昭和17)頃までは国土が戦場になるという経験を持たず、何時も勝利の宣伝に耳目を覆われ、戦争の悲惨と罪悪性に無知であった。ただ只管に天皇の永遠性と国力の繁栄を信じて、死者への冥福と遺族への慰謝を抱きつつも、反ってこれを名誉とし光栄と感じて、戦争を肯定する気風があった。それは民族主義国家の閉鎖的信仰そのものであった。

 金光教団は、このような国家形成の過程で、公認教団として成長し且つ生活的・現実的信仰体質から、自ずから国家政策に順応した教団活動を真摯に進めてきた。このような観点から、戦時における教団活動を視ることとする。

(1)日清戦役と神道金光教会の活動

 1894年(明治27)8月2日の官報で清国に対する宣戦の詔が布告された。これに先だって同年7月27日付けの金光教会長の諭達が出され、次いで7月31日付けで再度布達された。それらは次のごとくである。

 号外                       分支所

                   神道金光教会     長                              説教所

 隣国朝鮮事変に対し吾陸海軍派遣セラレシ以来は各自に於て日夜国威振張武 運隆昌の祈願は致居候事には有之候得共今般本管々長の命も有之候得者一層 赤誠を凝らし各所に於て別紙祭文に依り本達当着の日より三日間祭典執行可 致其旨諭達候事

   但今回は外容の装束等に意を不用(構外の飾物等の事を云)一向赤心を

   籠め丹誠を可貫様致度此段為念申添候也

  明治廾七年七月廾七日                 

               神道金光教会長 金 光 大 陣

                          分支所

                    神道金光教会    長   

                          説教所

 本月廾七日付号外を以て在韓兵健康の祈念可致旨諭達致置候処右は決して三

 日間内に不限陸海軍凱旋の上一同帰朝の日を見る迄は決して祈念を怠らざる

 様可致然て目下の教導方は大切の折柄に付東西区々の教導に出で候ては不都

 合の次第に付今回当本部に於て朝鮮事変に対し開教せし其講録を別冊の通り

 印刷致候間該書を標準として取捨其宜敷に随て皇国の臣民たる者此際一意専

 念忠君愛国の節操を忘却せざる様篤く教導可致其旨諭達候事

  明治廾七年七月三十一日               

              神道金光教会長 金 光 大 陣      

 この時点までは、朝鮮半島における国内紛争として朝鮮事変と称え、金光大陣の名で『臨時説教講録』を出版頒布して、忠君愛国の思想を普及する程度であった。次いで8月5日付けで「吾教会信徒タル者忠愛報國恤兵ノ赤誠ヲ奮起シ国民ノ本分ヲ尽シ応分ノ献金致候様夫々懇諭シ云々」と諭達している。さらに宣戦布告の詔勅が発布されてからは、重ねて次のように訓諭している。  

号外            神道金        説教所

              光教会 分支所長   事務所 担当

 日清開戦相成候ニ付テハ曽テ我教導ノ方針ヲ示シ諭達致置候間各日夜奮励シ

 教導致居候事ニハ候得共此際ハ実ニ尋常ノ事ニアラサレハ宜シク教導職タル

 者ハ機ニ臨ミ変ニ応シテ布教スルヲ最大急務トス仍テ今又別冊『説教』ヲ講

 師以上ヘ交付候条各其旨厚ク遵守シ布教候様特ニ訓陶先鞭相成度此段及訓諭

 候事

  明治廾七年八月廾七日               

             神道金光教会長 金 光 大 陣                   

 このように明治新政府成立以来の初めての対外戦争を経験することとなった国民にたいして、金光教会としても神道本局の指示に従って国威宣揚・武運長久の祈願と恤兵慰問・軍費献金の普及に務めた。分けても明治28年(1895)2月22日付けで佐藤範雄と畑徳三郎を征清各軍隊及び傷病者慰問のために、正副慰問使として戦地に派遣した。そしてこのことを教内に次のように通達している。

            神道金光教会各分支所 説教所

                       事務所

 今般専掌佐藤範雄ヲ慰問使トシ大講義畑徳三郎同副使トシテ当本部ヲ代表シ

 在清各軍隊及傷病兵等慰問之為メ本日本部出立派遣セシメ候条為心得此段申

 達候也                         

 明治廾八年三月十三日        神 道 金 光 教 会 本 部

                             

 また佐藤の『信仰回顧六十五年(上巻)』によれば、同年2月28日付けで金光教会本部員にあわせて日本赤十字社特別社員の資格で在清国第1軍、同第2軍及び海軍の恤兵慰問を、大本営参謀部に申請し3月11日に許可された。この許可について、日本赤十字社総裁・参謀総長であった小松宮彰仁親王の知遇に依る計らいがあった。3月16日に広島県宇品港を出帆して、大連・金州・蓋平城・海城・営口・旅順港を経て4月26日に宇品港に帰還した。この間に各軍の司令部および兵站病院を慰問し、金光教会長金光大陣の「慰問書」を呈して謝意と激励の辞を述べた。特に営口赤十字病院に清国軍傷病兵を見舞い、見舞金を贈ってデレ−主任医師より礼状を受けている。

(2)日露戦争と教団活動

 1904年(明治37)2月10日に露国に対し宣戦の詔勅が渙発されたのをうけて、金光教管長は教師一般に次のごとく諭達した。       

 番外達第壱号                    部 下 一 般

  本月十日露国に対して戦を宣せられたり其御趣旨に於ては宣戦の御詔勅に

  明なり思ふに今回の事変たる其関する処極めて大にして其結果は遠く我邦

  家の将来に及ぶべし此を以て常に教導の任に在るものは能く吾教祖の神訓

  の旨を体して日夕余念なく教導に身を投じ以て本教信徒たるの面目を保た

  しめむことを期し軍国に対する一面に忠良の国民たると共に信念厚き信徒

  たることを体認せしむべし

  之を要するに陸海の軍人が死を決して国家に報ゆるの精神を移して以て教

  導の任に従事する吾教師の精神となさむことは即ち吾教祖立教の眞髄なり

  されば身教導の任に在る者は宜しく斯る時は愈平素の熱誠を発揚し其任を

  全くすべし是れ実に世道人心の先導者たるものゝ本務にして又国家に報す

  る所以の道も亦之に外ならさるなり         

  右諭達す                             

  明治三十七年二月十四日      金光教管長大教主 金 光 大 陣

                                 

 この諭達に続いて、番外達第弐号をもって「今十四日本部ニ於テ国威宣揚祈願祭ヲ執行候条、各教会所ニ於テモ速ニ日ヲ卜シ、成ルベク教信徒ヲ参拝セシメ国威宣揚祈願祭ヲ厳粛ニ執行シ、日夜祈念怠ラザル」旨を、教会所一般に通達している。さらに番外達第参号をもって、次のように諭達した。       

  日露開戦に付ては各出征軍人に対し内顧の憂なからしむるは大に士気発揚

  上に関する義に有之候得ば此際本教教師たるものは及ぶ限り其遺族を訪問

  し困窮者ある時は教会所或は団体若くは教信徒個人の名義等各自適宜の方

  法を以てせいぜい救助方に留意すべし右等に対しては予て本教は教祖の神

  訓を奉体し決して表行に流れざる様注意致すべく此旨諭達候也 

  明治三十七年二月十八日     金光教管長大教主  金 光 大 陣

 これらの諭達は、宣戦布告後直ちに発せられ、詔勅に示された「惟るに文明を平和に求め列国と友誼を篤くして以て東洋の治安を永遠に維持し……永く帝国の安全を将来に保障すべき事態を確立する」という国家目的に則って、「日韓両国累世の関係に因るのみならず韓国の存亡は実に帝国安危の繋る所なれば……露国は依然満州を占拠し益其地歩を鞏固にして終に之を併呑せんとす若し満州にして露国の領有に帰せん乎韓国の保全は支持するに由なく極東の平和亦素より望むべからず……露国に提議し半歳の久しきに亘りて屡次折衝を重ねしめたるも露国は一も交譲の精神を以て之を迎へず……既に帝国の提議を容れず韓国の安全は方に危急に瀕し帝国の国利は将に侵迫せられんとす」との宣戦に到る経緯と開戦の理由に基づいて、「平和を永遠に克復し帝国の光栄を保全せむ」という平和のための戦争との理念を布教することとなった。つまり国威宣揚を祈願しその犠牲となった兵士の遺族に対する弔慰と救護を、全教挙げて実施した。さらに戦死者の急増するにつれて、東京・姫路など各地において戦病死者招魂祭を執行した。 

 また戦時布教を実施するうえで、巡教師養成の臨時講習会を開催すると共に年3月22日付けで巡教師任命規程(教令第1)巡教規程(教令第2)巡教師及其服制ニ関スル規程(教令第3)を定め、巡教という教団布教の形態が制度化されることになった。さらに巡教師の養成は、積極的に進められることとなり、1912年(明治45・大正1)4月に宣教部規程を制定して巡教師を宣教師と改称したが、1914年(大正3)7月22日付けで巡教・講演等を管理運営する事務機関としての宣教部が本部に設置された。それは欧州大戦(第一次世界大戦)が勃発したので、時局に対応しての教団布教の態勢をととのえることであった。やがて宣教部は、戦時活動のみならず信忠孝一本の教義のもとに戊申詔書・国民精神作興ノ詔書・教育ニ関スル勅語等の普及に努め、国民思想の教化活動に展開していった。

(3)日中戦争と教団活動                  

 冒頭に述べたようにわが国は、日清戦争・日露戦争をへて朝鮮半島から中国大陸に政治的・経済的な利権を拡張してきたが、本教もまた1901年(明治34)10月に斎藤俊三郎による台湾布教がはじめられ、1902年(明治35)秋には朝鮮釜山に教会所設置の認可を得て朝鮮布教がはじまり、1907年(明治40)9月30日に松山成三が大連に上陸して翌年1月大連教会所を設け、中国大陸〓満州〓布教の途が開かれた。1910年(明治43)6月から7月9日にかけて教監佐藤範雄は、満州・朝鮮における布教視察を行ない、神道各教派と協調して、今後の布教活動を国策に則して行なうことになった。かくして1910年代から1930年代にかけて、日本人や日本企業の大陸進出を背景に、各地に教会所が設置され布教伝道が活発に行なわれた。

 ところが1931年(昭和6)9月に日本軍と張学良軍(満州軍閥)との軍衝突に因るいわゆる満州事変が起り、翌1932年1月には居留日本人の保護の名目で上海事変に戦火が移ったが、その年3月に五族協和の旗印をかかげた満州国が成立して、大陸に日本の支配権を樹立する第1歩となった。この満州事変に際して、1931年(昭和6)11月12日付けの教監通牒(六監第四◯号)をもって、次のように指示した。

 今回ノ満洲事変ハ実ニ皇国ノ重大事ニシテ苟モ生ヲ我皇土ニ享ケ職ヲ我教ニ

 奉ジ教化ノ任ニ在ル者ハ宜シク其事態ヲ正視シテ大ニ自覚奮起スル所無カル

 ベカラズ

 惟フニ正義ニ立脚シテ東洋ノ平和ヲ確保シ信義ニ基キテ友誼ヲ隣邦ニ厚ウシ

 以テ共存共栄ノ福祉ヲ希フハ日本古来ノ精神タルノミサラズ又実ニ明治天皇

 ノ明示シ給ヘル皇国永遠ノ国是ニシテ我国策一トシテ此趣意ニ出デザル無キ

 ハ歴史ニ徴シテ明カナリ然ルニ隣邦我誠意ヲ覚ラズシテ無謀ノ言動多ク遂ニ

 今回ノ事態ヲ惹起スルニ至レリ而モソノ政府〔編者註―張学良政権〕ニ統一

 ノ威令無ク責務ヲ明カニスル能ハズシテ事態ハ益々紛糾セントス列国又我真

 意ヲ誤解シ且ツ満蒙ノ実情ニ通セズ国際聯盟ノ本旨ヲ没却シテ正論ヲ顧ミザ

 ラントスルモノアリ抑モ此事タル素隣邦ノ我誠意ヲ解セザルニ因ルト雖モソ

 ノ関スル所一隣邦トノ問題タルニ止ラズ実ニ対世界列国ノ問題ナリ將東洋永

 遠ノ平和ニ関スル大事タルノミナラズ又国際信義ノ死活世界平和ノ成否ヲ左

 右スル重大事ナリ此ヲ以テ之ヲ観レバ正ニ我国未曽有ノ難局ナリト謂フベシ

 此秋ニ当リ常ニ信忠一本ノ教義ヲ体シテ教導ノ職ニ在ル者ハ須ク日夜不断ノ

 祈念ニ世道人心ノ指導ニ専念努力以テ教信徒ヲシテ国民タリ奉教者タルノ自

 覚ヲ促シ時局ニ処スベキ道ヲ誤ルコト無カラシメ終ニハ外邦ノ蒙ヲ啓キテ我

 正義貫徹シ眞ノ平和確立ヲ見ル日ノ一日モ速カナランコトヲ祈念セザルベカ

 ラズ

 此祈念ニ基キ特ニ正義貫徹国威宣揚ノ祈願祭ヲ行ヒ或ハ在満ノ将士及同胞ノ

 慰問犒労ニ或ハ戦歿者犠牲者ノ慰霊祭ニ或ハ是等遺族ノ慰問救助ニ夫々誠意

 ヲ尽シテ遺漏無カランコトヲ期スベシ

   右命ニ依リ此段通牒候也

   昭和六年十一月十二日     金光教本部        

                       教  監  山 本  豊

 金光教各教会長殿

 この通牒に示された事変の原因や経緯の論述は、当時の日本政府の公式の見解であって、広く一般国民に宣伝されていたものであった。したがって本教は、この通牒に指示された慰霊祭の執行・慰問金品の寄贈・遺家族への慰問と救助・在満軍隊への慰問使の派遣等を行ない、とりわけ大陸の各地で布教伝道に当っていた教師は、信徒の保護と国策への協力に献身的に取り組んだ。

 この満洲事変を契機として軍部の政治介入が強くなり、国家の政策決定への主導権を持つに至った。その結果、日満両国の防衛を名目として中華民国への侵攻政策がすすめられ、1937年(昭和12)7月の蘆溝橋事件を発端として日中戦争へと拡大していった。本教は、昭和9年10年事件をへて教団自覚の信念運動が情熱的に進められている時であったが、同年(1937)7月12日付けの文部次官通達に依り、次ぎのような教監通牒でもって教団活動を実施することになった。

 一二監第三五号

 今次、蘆溝橋ニ於ケル、支那兵ノ不法行為ニ端ヲ発シタル北支事変(編者−

 日中戦争初期の名称)ハ、其ノ当初ヨリ、局地解決ヲ希望シテ、隠忍自重、

 百方之カ拡大ヲ妨止シ、誠意折衝、切ニ隣邦ノ反省ヲ促サムトシタル帝国ノ

 努力ハ、何等酬ヒラルル所ナキノミナラス、却ツテ其ノ非ヲ覆ヒ、其ノ罪ヲ

 嫁シ、事実ヲ歪曲シテ列国ニ讒構シ、慘忍倨傲、暴状到ラサルナク、而モ陰

 ニ軍隊ヲ集中シ、防備ヲ厳ニシ、挑戦以テ武力抵抗ノ挙ニ出テムトスル、隣

 邦ノ態度ニ因リテ、事態ハ今ヤ全ク危殆ニ瀕スルニ至レリ。

 惟フニ、東亜ノ和平ヲ永遠ニ確保シテ、隣比其ノ幸ヲ同シクシ、国際ノ正義

 ヲ不断ニ尊重シテ、列国其ノ福ヲ一ニセムトスルハ、我カ 列聖ノ宏謨ニシ

 テ、亦、帝国不動ノ国是タリ、明治以来、帝国ノ干戈ヲ動シタル、一再ニ止

 ラサリシ所以ノモノモ、職トシテ此ニ存シタルリシナリ。然ルニ、今ヤ隣邦

 、帝国ノ誠意ヲ蹂躙シ、両国ノ福祉ヲ阻害シテ、自ラ愧ツル所ナシ。帝国政

 府ノ、決然起チテ、断乎、其ノ不信ヲ膺懲シ、其ノ無道ヲ排撃セムトスル、

 亦、眞ニ已ムヲ得サル所、時局之ヨリ重大ナルハ無ク、挙国一致、以テ此ノ

 難局ニ処シ、上下団結、以テ其ノ所信ヲ貫徹シテ、迷昧ヲ啓発シ、国威ヲ顕

 揚スヘキナリ。

 我カ教祖、夙ニ信忠一本ノ教義ヲ樹テ、滅私奉公ノ教風ヲ布キ給ヘリ、斯ノ

 教義ヲ信奉シ、斯ノ教風ニ薫化セラルヽ本教徒ハ、今ヤ当ニ、平生実修セル

 所ノモノヲ実証スヘキ秋ナリ。全教、宜シク時局ヲ正確ニ認識シ、不撓ノ活

 力ヲ、一教依立ノ源泉ニ仰キ、別示要項ニ準拠シ、所属ノ教師信徒ヲ督励シ

 テ、祈念ニ教導ニ、丹誠ヲ新ニシ、機ニ応シ宜シキヲ制シテ、率先挺進、銃

 後ノ事ニ従ヒ、虔ミテ無極ノ神徳皇恩ニ答ヘ奉リ、上ハ以テ教祖立教ノ神意

 ヲ暢達シ、下ハ以テ教徒護国ノ本分ヲ全ウセムコトヲ期スヘキナリ。

 右依命通牒候也                  

   昭和十二年七月二十日     金 光 教 本 部

                     教 監   高 橋 正 雄

 金光教各教区支部部長殿                        金光教満洲布教管理所所長殿          

 金光教台湾事務所担当殿

 金 光 教 各 教 会 長 殿

         要     項

一、現下国家非常ノ時局ニ際会シ本教ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ事態ノ推移ニ伴

 ヒ左ノ各項ニ準拠シ必要ニ応シテ何時ニテモ御国ノ御用ニ奉シ得ルノ用意ヲ

 常ニ整フヘシ

一、先ず教師信徒一同所属教会所結界御取次ノ下ニ『我身は我身ならず皆神と

 皇上との身とおもひ知れよ』『信心してまめで家業を努めよ君の為なり國の

 為なり』トノ信念ヲ一層明確ニ確立センコトヲ要ス  

一、教会所ハ本来信心修行ノ道場ナリ サレハ結界奉仕ノ御取次ヲ中心トシテ

 祭典説教御理解及青年会婦人会健児団等ノ集会ソノ他教会所ニ於ケル一切ノ

 行事ニヨリテ吾等ハ神ト倶ニアリトノ信念ノ下ニ国民トシテ私ヲ去リテ邦家

 ニ殉スヘキ原動力ヲ絶エス此処ニ仰キ得ルノ機能ヲ発揮シテ遺憾ナカラン事

 ヲ期スヘシ

一、各教会所ハ以上ノ要旨ヲ具体的ニ実現シテ

 (イ)御取次奉仕者ハ教祖立教ノ本旨ニ則リ大教会所神前奉仕ニ神習ヒ御祈

   念御取次ニ専心一意タルヘキコト

 (ロ)教師ハ一身一家ヲ挙ケテ御取次ヲ仰キソノ生活凡テ神任セトシ起居一

   切ニ本教本来ノ教風ヲ具現シ以テ信者ノ模範タルヘキコト    

 (ハ)信者ハ御取次ヲ仰キ教師ノ指導ニ従ヒ求道ノ歩ヲ進メツヽ家業ニ従事

   シ以テ各自ノ生活ソノマヽヲ『我身は我身ならず』トノ自覚ノ下ニ『君

   の為なり國の為なり』トノ本義ノ現ハルヽヤウ勤ムヘキコト

 (ニ)総代役員ハ信徒ノ先達トシテソノ信念ヲ進メツヽ教会所諸般ノ用務ニ

   当リ以テ内外ノ雑事ノ為ニカリニモ御取次ノ御事ニ支障ヲ来スヤウノコ

   トナカラシメ奉ルコト

 (ホ)青年会婦人会健児団等ハ教会長ノ指導ノ下ニ団体トシテ本教的活動ヲ

   ナシ各々ソノ独特ノ機能ヲ発揮シ地方公共ノ事業ニハ身ヲ挺シテ参加ス

   ルコト

 (ヘ)朝夕時刻ヲ定メ教師信徒教会所ニ参集シ特ニ国威ノ宣揚武運ノ長久ヲ

   祈念スルト共ニ各自ノ意気ヲ揃ヘ所信ヲ一ニシテ以テ以上各項ノ実現ニ

   努ムルコト

一、特ニ応召将兵及ソノ家族ノ慰問等ハ只一時ノ儀礼的措置ニ流ルヽコトナク

 感謝ノ誠意ヲ籠メテ絶エス親身ノ実意ヲ尽シ真ニ力強サヲ感セシムル様務ム

 ルコト

一、斯クテ本教信奉者ハ各自ソノ所属ノ教会所ヲ通シ全教ヲ挙ケテ国家ノ急ニ

 奉シ苟モ一身一家ノ利害ニ捉ハルルコト無キヲ期スヘシ

   〈以下2項目の事項は省略〉

 これらの実践要項は、その後の戦時下における教団活動の基本となり、本教が宗教団体としての活動の組織化を促進する指導理念となった。すなわち大教会所神前奉仕(結界取次)を根源とする全教各教会所の取次を基軸として、全信奉者が組織的統一的に布教活動を推進する、という方向が生み出されることとなった。その組織的活動を統一するために、7月28日付けで事変対処事務局を本部に設置し、その総務に教監が当ることとした。また事務局の業務を指導部・慰恤部・庶務部の三部に分け、布教宣伝、各団体の指導、情報蒐集、恤兵金品・国防献金、将兵及びその家族の慰問、祭事の執行等を取り扱うこととした。これらの活動は、北支事変から支那事変を経て太平洋戦争が終るまで実施された。その間の1940年(昭和15)から1941年(昭和16)にかけての新教規制定問題が整然と行なわれ、その統率は昔日の比ではなかったという。

 またこれらの直接の軍事援護の外に、中華民国に於いて文化的事業として、1939年(昭和14)2月から北京金光学院(北京金光日語学院と改称)を開設し、同年3月から山東省黄山店及び李村に於いて難民に施療活動を、8月に上海市に惠民施診給薬所を設置し、12月には同市に私立忠信小学校を開設して児童教育を行なった。さらに1941年(昭和16)1月に南京市に金光会館を、2月に上海市に私立忠信職業中学校を、翌1942年(昭和17)4月に同市に私立忠義信中学校を開設した。しかしこれらの事業は、1945年(昭和20)8月の敗戦に因って何れも閉鎖することになる。                           

(4)太平洋戦争と教団活動

 1941年(昭和16)12月8日に、米英両国に対して宣戦を布告する詔書が渙発されたので、文部大臣の訓令に依って、同日付けで管長金光攝胤の諭告が達示された。さらに同日、金光教事変対処事務局長から次のような指示が通達された。

 一六事第五号                       

   昭和十六年十二月八日                 

              金 光 教 事 変 対 処 事 務 局 長

 金光教各事変事務部長殿                           

金光教各教会主管者及教師殿      

 本日畏クモ宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレ候義寔ニ恐懼措ク能ハザル所ニ有之

 候予テ今日アルヲ覚悟罷在候我等今ヤ愈々平素ノ信心ニ基キ管長諭告ノ趣意

 ヲ体シテ勇躍国難ニ赴キ毅然トシテ戦時国民生活ノ確保ニ精進スベキノ一途

 アルノミニ有之候就テハ全教一体同信相率ヰテ特ニ左記事項ノ実践ニ孜メ以

 テ聖旨ニ奉答センコトヲ期セラレ度此段通牒候也            

          記      

 一、各教会ニ於テハ朝夕「戦勝一斉祈願」ヲ行ヒ又特ニ日ヲ定メテ「戦勝祈

  願祭」ヲ執行シ皇国ノ必勝ヲ熱願スルコト

 一、政府当局ノ指示ニ絶対随順シ苟ニモ流言蜚語ニ惑ハサレザルコト

 一、各自ノ職場ヲ死守スルノ覚悟ヲ以テ職域奉公ノ実ヲ現ハシ生産拡充国力

  増進ニ邁進スルコト

 一、生活ヲ最低限度ニ切下ゲ物資ヲ節約シテ国債購入及貯蓄ニ全力ヲ注グコ

  ト

 一、各重要地区ニ於テハ特ニ防護活動及救護事業ニ挺身奉仕スルコト

                                以上

 この通牒には、すでに戦時活動が特殊なものではなく、日常的な布教活動であり、信心生活運動となったことを表わしていた。そしてこれらの活動の実践組織として結成された金光教報國会(信奉者の団体)を統括する本部機関も、事変対処事務部から事変事務局に変わり、さらに12月15日付けで戦時事務局となった。1942年(昭和17)6月20日に教団創設以来、本教の柱石として常に教政・教義・教育のうえに重きを成してきた金光教宿老佐藤範雄が死去し、名実共に教祖直信の時代が終った。それは、奇しくも天皇信仰に基づく大日本帝国崩壊の前夜を思わす時期でもあった。

 文部省宗教局が教学局と改編され、皇国思想に依る教育・宗教行政を行なうこととなった。そこで本教においても、同年11月29日付けで教学調査会が設置されたが、従来の信忠一本の教義を前提とするかぎり新しい内容は生まれようもなかった。1941年(昭和16)8月1日以来、新教規に依って管長選挙が行なわれ、その結果、神前奉仕金光攝胤が金光教管長に就任してきた。したがって金光攝胤管長は、教団という社会的組織の統理者であると同時に、本部教会長として信奉者の信仰の中心生命である神前奉仕を行なってきた取次者であって、その結界取次を受けて全教の信心生活が進められてきた。つまりこの取次者という信仰的人格に依って、教務と神務が一元的に行なわれる体制であった。ところが教務の本質は国家権力の行使であって、それに対して神務とは純信仰の発動による宗教行為であるから、両者は全く異質の働きであったのである。太平洋戦争が、大東亜戦争と称せられて、東亜共栄圏という亜細亜の新秩序建設を目指して始まり、その世界理念として古事記・日本書紀の世界観の現代化を求めたのが、政府の教学行政であった。それは、いわば国家神道(神社神道)の亜細亜版を映し出すことにあるのであって、本教の信仰とは本質的に異なることであったので、教学調査会の実績は停滞してしまった。

 1943年(昭和18)1月25日から26日にかけて、本部教会に於いて聖旨奉戴金光教全国大会を開き、全教から代表者6000名が参会し、聖旨奉戴必勝生活確立運動を実施することとなり、その第一着手として生活切下断行決意表明壱百萬円軍費献納運動を実施した。この軍費献金は、2月から8月の間に予定の百萬円を超え、10月の教祖六十年祭には百五十萬円余となり、陸軍航空機9機を献納し、12月には海軍航空機9機を献納したのであった。因みにその年の教団経費は六十萬円程度であった。

 同年10月4日・7日・10日の三ヵ日に亘って教祖六十年記念大祭及び戦勝祈願祭が執行され、管長より「…教祖六十年大祭ヲ迎ヘタル本教ハ恰モ再生ノ機運ニ際ス全教一新須ラク教祖ノ遺範ニ則リ先蹤ヲ践ミ一死奮ツテ国難ニ赴キ上ハ以テ畏ミテ宗教ノ上ニ垂レサセ給ヘル大御心ヲ安ンジ奉リ下ハ以テ謹ミテ殉国英魂ノ忠烈ニ酬ウルトコロアルベキナリ…」との諭告があって、それをうけて聖旨奉戴全教一家挺身奉公運動が11月29日から翌1944年(昭和19)3月31日までを第一期として実施された。その趣旨は、「一意無私奉公ノ実践ニ挺身セントセラルル管長ノ心ヲ心トシ祈念ヲ祈念トシテ、全教一家ノ体制ヲ一層整備シ、国家ノ要請ニ従ヒ適時即応ノ実動ニ努メ、以テ聖戦完遂ノ大業ヲ翼賛シ皇恩ニ応ヘ奉ルト共ニ、之ヲ以テ…‥管長神勤五十年ノ教恩報謝ノ途タラシメントス」という点にあった。そして大戦の開戦以来、本教唯一の全教的信奉者団体であった金光教報國会を整備強化して、管長を総裁に仰ぐと共に教監(3代目白神新一郎)を会長とし、報國貯蓄運動及び勤労報國隊の活動を全面的に統括運営することとした。

 1943年(昭和18)12月20日には、金光四神貫行之君五十年祭及布教功労者報徳祭が執行され、続いて管長神勤五十年報謝祈誓式が挙行された。この式典に於いて、全教信奉者の祈誓名簿が管長に奉呈されたが、その祈誓文は次の通りである。(編者註−句読点を付す)

      祈誓

  戦局はいよいよ決戦に次ぐに決戦の段階に突入し今や寸刻の猶予を許さず。各

  自その持場に無私奉公の実を挙げ聖業完遂に邁進すへきのみ。

  我か管長昨秋畏くも拝謁の栄に浴し、戦時下宗教の上に注かせ給ふ大御心の程

  に恐懼感激し、全教を率ゐて生活立て直し戦力増強の一途に邁進せらるゝこと

  ゝなりてより正に一周年。その当日たる去十一月二十六日東上し天機を奉伺し

  て更に決意を新にし。全教一家総力を結集して、この秋の御用に立たんことを

  諭示せらる。今年正に教祖六十年祭四神之君五十年祭我か管長神勤五十年に相

  当し、教祖立教以来不断の御取次に依りて大御蔭を蒙り来れる本教信奉者一同

  如何にかしてこの教恩に報いんと熱願せるところ、今茲に管長の諭示を受く。

  仍ち管長の心を心とし、その祈念を祈念とし、その実践を教会家庭職場に亘る

  各自の持場を通し、身を以て取次かせて頂く事により、戦力増強挺身奉公の活

  動を倍強し、無極の皇恩に奉答することこそ、この教恩に報ゆる所以なること

  を痛感し、管長を家長と仰ぎ全教一家協心戮力以てその実を挙げんことを誓ひ

  茲に各自署名してその志を明かにし、吾等の心願成就の大御蔭を御祈念御取次

  あらんことを希ひ奉る。

   昭和十八年十二月二十日

 白神教監によってこの祈誓文が朗読され、所願の表明があつた。これに対して金光攝胤管長より「皆さん、ありがとう存じます。至らぬながら今日まで神様のみかげ頂いて御用をさせて頂きまして、今後とも一層御かげを蒙りたいものと考へて居ります。つきましては聖旨奉戴全教一家挺身の実をいよいよあげさせて頂きたいと思ひます。又報國会のことにつきましても順々に進めて行きたいと思ひます。よろしく御協力をお願ひ致します」との挨拶があった。

 1944年(昭和19)を迎えて戦局は、わが国の敗色が現われて、7月にサイパン島の防衛線が破られると、米軍に依る日本本土への直接爆撃がはじまり、10月からフイ リピン島での戦闘が行なわれる状況になつた。10月10日の本部教会の教祖大祭も交通輸送の困難ななかで執行されたが、参拝信徒は1000名足らず、全教各教会では遥拝式を行なわざるを得なかった。祭典のなかで金光攝胤管長より「皆様よう御参りになりました。戦局も愈々けはしくさし迫って参りました。御皇上に於かせらましては容易ならぬ大御心を御用ひ被遊れまする御事、真に恐れ入ったことであります。就きましては、御同様に信心を進めさせて頂き、愈々全教一家挺身奉公の誠を尽させて頂き、一日も速に、大御心を安めまつることが出来ますやう共々におかげを蒙りたいと存じます。皆様よろしくおたのみ致します」との挨拶があった。

 このように必勝を祈願し、全教を挙げて取り組んできた教団活動も、翌1945年(昭和20)8月15日の終戦に依りようやく終ることとなった。因みに9月5日までに爆撃等によって焼失した教会・布教所の数は、293ヵ所に及んだ。


 参照事項 ⇒ 神道金光教会  金光教管長の諭告  教務と神務  教団自覚運動 

        金光教報國会  海外布教  佐藤範雄  畑徳三郎

        金光大陣  金光攝胤  山本 豊  3代白神新一郎