ーファミリー版ーよこはまの歴史9

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P9

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(江戸時代)

…([)江戸時代@ [鎖国の中で]…


 後北条氏の滅亡により関東は徳川家康の支配下に入り、横浜の地も家康配下の代官により治められ1639
年に完成した鎖国の中で江戸との結びつきを強めながら発展、戦火の止んだ村々では新田の開発も行なわ
れました。
 ヨーロッパの国々は新航路の発見によりアジアやアメリカ大陸への進出を一層強め、国同士の争いも激
しくなる一方、国内でも市民階級が力をつけて国王の専制支配を打破する動きが芽生えます。 


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

[ア ジ ア]

<イギリスの東インド会社設立>
 エリザベス女王の下、国内政治が安定したイギ
リスは次第に目を外に向け、海外への進出を図
ります。
 1600年アジアの香料による莫大な利益を狙っ
てイギリス東インド会社を設立、インドネシア
のモルッカ諸島に進出しましたが、資金力の点
などでオランダの東インド会社に対抗できず、
アンボイナ事件でインドネシア諸島から撤退す
ることになりました。
 1604年にはフランスも東インド会社を設立、ヨ
ーロッパの列強諸国はアジアの商業の主導権を
めぐって激しい争いを繰り広げました。

 アンボイナ事件

 インドネシアのモルッカ諸島は昔から香料諸島とい
われ、1605年オランダ人はモルッカ諸島中のアンボイ
ナ島にニューヴィクトリア城をつくって香辛料貿易を
はじめましたが、イギリス人も同島に商館を開設、オラ
ン
ダとイギリスは争いを続けました。
 1623年オランダの守備兵はイギリスの日本人傭兵の
行動に不審をいだき、イギリスの商館長ら30人あまり
を捕え、オランダ商館を占領する企てがあるとして商
館長ら10人のイギリス人とポルトガル人1人、日本人
9人を殺害しました。
 こののちモルッカ諸島の香辛料貿易はオランダが独
占するようになり、イギリスはアジアへの進出をイン
ドへと変えました。
 
<明の滅亡と清の建国> 中国の広大な地域を支配し繁栄した明朝も15 世紀中頃から内政の乱れと北虜南倭など異民 族の侵入に苦しめられ、国力は衰えついに各地 に反乱がおき、陜西省地方の農民反乱のリーダ ー、李自成は1664年北京を陥落させ明は滅亡し ました。 しかし李自成も中国東北部で農耕・狩猟生活を 行なっていたツングース系の女真族によって滅 ばされます。 女真族の一派の首長の子に生まれたヌルハチ は中国東北部を統一、1616年、後金国を建国しま したがヌルハチの死後君主となったホンタイジ (太宗)は1636年、内モンゴルのチャハル部を平 定して国号を清と改め、李氏朝鮮を服属させ次 第に勢力を増してきました。 清は李自成によって滅ぼされた明の武将を利 用して、北京を逃れた李自成や各地に残る旧明 勢力を滅ぼし中国全土の平定に向かいます。 清朝は1661年康熙帝が即位して三藩の乱を鎮 圧、1683年には台湾の鄭氏を滅ぼし中国全土の 支配に成功しました。 康熙帝は1689年にロシアとネルチンスク条約 を結び、ロシアとの国境を定めてアムール川 (黒竜江)流域を確保、ロシアの南下を阻止しま した。 <インドのアウラングゼーブ帝> インドのムガル帝国ではアクバル帝の死後、帝 位継承の争いが繰り返されましたが、1658年ア ウラングゼーブ帝が第6代の皇帝に即位、自らデ カン地方へ遠征するなどして帝国の領土は最大 になりました。 その一方で長年の戦争などで財政は悪化し、ま た帝国のイスラム化を図りシズヤ(非イスラム 教徒に対する人頭税)を復活したり、ヒンドゥ教 の寺院を破壊したりしたためヒンドゥ教の反乱 がおこり、国内は混乱し、ムガル帝国の勢力は衰 えはじめました。 アウラングゼーブ帝の死後、イギリスとフラン スの東インド会社は混乱を利用してインド人の 傭兵を使って勢力をのばしていきます。 <プラッシーの戦い> ムガル帝国が次第に衰え、インド国内が分裂し はじめるとイギリスやフランスはこれに乗じて インドへ勢力を伸ばしました。 イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタの 商館を、フランスはポンディシェリ、シャンデル ナゴルの商館を中心にインド人の傭兵を使って 内陸部へと勢力を広げていきました。 1757年カルカッタ北方のプラッシーでイギリ ス東インド会社軍がフランスと親仏派のベンガ ル大守の連合軍を破り、フランス勢力を一掃し てベンガルを支配するようになり、1796年フラ ンスはついに東インド会社を解散しました。 [ヨーロッパ] <ロシアのロマノフ王朝> モンゴル人の支配するキプチャク=ハン国から 独立したモスクワ大公国はイヴァン3世の孫の イヴァン4世が即位して専制政治を強めました が、1584年イヴァン4世が死ぬと国内は混乱、161 3年ミハイロフ・ロマノフが即位してようやく混 乱はおさまりました。 中小貴族や大商人の支持を得て全国会議で皇 帝に選ばれたロマノフは国内秩序を回復し、ロ マノフ王朝は1917年のロシア革命まで300年あ まりにわたり続きました。 一方でロマノフ王朝は戦費調達のため重税を 科したり、農奴制を強化したためステンカ・ラー ジンの乱などを引き起こしました。 <ピョートル1世と北方戦争> ステンカ・ラージンの乱を平定し農奴制を確立 したロマノフ王朝は1682年ピョートル1世が皇 帝になると西欧に追いつこうと積極的にロシア の西欧化につとめ、軍制と官僚制度を整えてロ シアを北の大国に育てました。シベリアの開発 も進め、1689年には清朝との間に条約を結んで、 シベリアと中国東北部との国境を確定して通商 を拡大しました(ネルチンスク条約)。 ピョートル1世はバルト海への出口を求めてス ウェーデンと北方戦争を始め、21年間の戦いの のちスウェーデンを下し、バルト海沿岸の領土 を手に入れペテルブルグ(サンクト・ペテルブル グ)の町をつくり新しい都とし、東ヨーロッパの 最強国としてヨーロッパの国際政治の舞台に登 場します。
<ドイツの30年戦争> ドイツでは1555年のアウグスブルグの宗教和 議以後も諸侯はプロテスタント連合とカトリッ ク連盟に分かれて対立していましたが、1618年 皇帝がカトリック教徒をベーメン(ボヘミヤ)国 王に任命し、新教徒を弾圧したことから新教徒 は反乱をおこし、旧教徒との戦いが全ドイツに 広がり、30年戦争が始まりました。 旧教諸侯の連合軍には旧教国のスペインが、新 教諸侯の連合軍には新教国のデンマーク、スエ ーデン、旧教国のフランスが政治的理由で加勢 してヨーロッパ各国を巻き込む最大で最後の宗 教戦争となりました。 1648年にウェストファリア条約が結ばれて戦 いは終わりました。この戦争で皇帝=ハプスブ ルグ家の勢力が衰退しドイツは各国の略奪で荒 廃、大きく経済的に立ち遅れ、ドイツ国内の三百 以上の諸侯領や自由市の完全な主権や外交権が 認められたため、小国家への分裂が決定的とな りました。(コラム・ハブスブルグ家) <プロイセン王国の成立> 小国家に分裂して混乱状態にあったドイツは やがて、この中から30年戦争の被害が比較的少 なかったプロイセンとオーストリアが台頭し はじめました。 プロイセンの王室ホーエンツォレルン家は16 18年分家がおさめていたプロイセン公国を合併 して領土を広げ、1701年プロイセン王国となり、 その後フリードリッヒ・ヴィルヘルム1世の下で ユンカー出身者を官僚・将校として王の権力を 強めました。 <オーストリア継承戦争> 1740年オーストリア皇帝が亡くなりましたが、 男子の相続者がいなかったため慣例を破って皇 女マリア・テレジアが皇位につこうとすると、フ ランスやプロイセンが異議を唱えて戦いとなり ました。プロイセンのフリードリヒ2世はオース トリアのシュレジェンを占領、1748年アーヘン の和約で戦いは終り、マリア・テレジアの王位継 承は認められましたが、シュレジェンはプロイ セン領土となってしまいました。 <七年戦争> マリア・テレジアはプロイセンからシュレジェ ンを取り戻すためにフランス・ロシアと同盟し て1756年戦いをはじめました。イギリスと結ん だプロイセンのフリードリヒ2世は、はじめは苦 戦しましたが、ロシアがプロイセンと講和し、イ ギリスとの植民地戦争で敗れたフランスも兵を 引いたのでオーストリアとプロイセンはフベル トゥスブルグの和議を結び、戦いは終わりまし たがオーストラリアのシュレジェン奪回はなら ず、こののちプロイセンはドイツの中心国家と して発展していきました。 <清教徒のアメリカ上陸> イギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれ るカルヴァン派がイギリス国教会のカトリック 勢力や国王ジェームズ1世の弾圧をうけ、1620年 102名の清教徒がメイフラワー号に乗ってアメ リカのプリスマに上陸し、植民地建設をはじめ ました。 イギリスは既に1607年アメリカにヴァージニ ア植民地を建設していましたが、プリスマ植民 地が刺激となり、以後北アメリカの大西洋沿岸 には次々とイギリスの植民地が作られ、1732年 のジョージア植民地の建設により13の植民地が 建設されました。(地図・北アメリカのイギリス植民地) <イギリスのピューリタン革命> エリザベス女王の死後、即位したジェームズ1 世とその子チャールズ1世は王権神授説を信奉 し議会を無視した専制政治を行いました。 しかし議会は法律は国王より優先するとして 王との対立を強め、1628年には「権利の請願」を 提出して議会の同意していない課税や法に基づ かない逮捕や投獄をやめることなどを国王チャ ールズ1世に約束させましたが、国王は翌年議会 を解散し以後11年間に亘って議会を開くことな く専制政治を行ないました。 1637年国王は新教徒の多いスコットランドに 国教を強制したため反乱がおこり、1642年国王 と議会派との間に戦いが始まり、議会派のクロ ムウエルが鉄騎隊をつくって国王軍を破り、164 9年国王チャールズ1世は処刑され、イギリスに 共和制が樹立されました。 <王政復古> 国王チャールズ1世の処刑後もイギリス政府は スコットランドやアイルランドに残る国王派や 急進的な改革を目指す人々と争い、コロムウエ ルは1653年議会を解散して「護国卿」として独裁 権を握りました。 クロムウエルは劇場を封鎖して殆どの娯楽を 禁じるなど厳しい政治を行い、航海条例を出し てオランダを圧迫したため、オランダとの間に 戦争がはじまり、国民の不満が高まりましたが、 1658年クロムウエルが病死すると対立していた 議会の穏健派の人々がフランスに亡命していた チャールズ2世を呼びもどし、スチュアート朝が 復活しました。 <名誉革命> 1660年王政復古によりチャールズ2世はカトリ ックと絶対王政の復活を図ったため議会は審査 法などを成立させてこれに対抗しましたが、こ の過程で王権に寛容なトーリー派とこれに批判 的なホィッグ派に分裂、のちトーリー派は保守 党へ、ホィッグ派は自由党へと発展しました。 チャールズ2世の次のジェームズ2世の政治も 専制的でカトリックへの復活を意図しているよ うな疑惑もあったため、1688年議会は一致して ジェームズ2世をフランスに追放し、代わって王 女メアリとその夫でオランダの総督ウィリアム を共同統治の王として迎えました。 両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、 「権利の章典」として発布、これによって国王の 権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲 王政が確立しました。 <ウォルポール内閣の成立> 名誉革命ののちイギリスでは議会の多数党が 内閣を組織して政治を行なう政党内閣制度がは じまりました。 1714年ウィリアム3世のあとを継いだアン女王 (メアリ2世の妹)がなくなりドイツから遠縁に あたるジョージ1世が即位しましたが、英語が殆 ど話せなかったこともあり、政治は殆ど大臣に 任せホイッグ党のウォルポール首相の下で「国 王は君臨すれども統治せず」の原則が確立し、内 閣は王に対してではなく議会に責任を負う責任 内閣制度が始まりました。 <フランスのルイ14世親政> ユグノー戦争が終わったフランスではアンリ4 世の次のルイ13世の時に宰相のリシュリューが 貴族やユグノーの勢力を抑え王の権力を強めま した。1643年ルイ13世が亡くなり、子のルイ14世 が僅か5歳で即位すると宰相のマザランが政治 の実権を握り、王の権威をさらに高めましたが、 1661年マザランが死ぬとルイ14世は自ら政治に あたり、王権神授説を唱えコルベールを財務総 監にして国力を充実させヨーロッパ最強の軍隊 を作り上げ、東インド会社を再建するなどフラ ンスの国威を高め、王の威厳を示すためベルサ イユ宮殿をつくりました。 ーナント勅令の廃止ー ルイ14世は1685年にナントの勅令を廃止して フランス国民にカトリックの信仰を強制しまし た。そのため多くのユグノーの商工業者が国外 に逃亡し、フランスの産業は大きな打撃を受け、 たび重なる戦争や王のぜいたくな生活のため国 の財政は悪化していきました。 ースペイン継承戦争ー ルイ14世は1700年、孫のフェリペ5世をスペイ ン王に即位させたことからスペイン継承戦争が おこり、イギリス、オーストリア、オランダなど が連合してフランスに対抗、1713年に締結され たユトレヒト条約によりフェリペ5世は承認さ れましたが、フランスとスペインの合併は認め られず、両国は多くの植民地や領土を失いまし た。 この後フランスは次第に衰えていきますが、国 の現状を批判し国政を改革しようとして啓蒙思 想が広がります。(コラム・フランスの啓蒙思想)

 1603年徳川家康によって開かれた江戸幕府
は幕藩体制により全国支配を固めます。 

 <天領と旗本領>
 江戸初期は横浜の大半は天領(幕府の直轄地
)で、この地方を支配する代官として久良岐郡
には間宮氏、八木氏、橘樹・都筑両郡には伊奈
氏、鎌倉郡には彦坂氏がそれぞれ任命されま
した。
 旗本が直接支配した土地は小さく、旗本はそ
の土地に屋敷を建てその領地と江戸を往復し
ていました。
 その後功労のあった旗本には横浜の天領が
さいて与えられ、その数も次第に増加してい
きました。三代将軍家光の正保年間(1644〜4
8)には横浜の旗本も182人となり都筑郡の大
半と鎌倉郡の北半分は旗本領となりました。
 都筑郡では天領と旗本領が入り混じり一村
を数人の領主が分割支配するところもありま
した。
 この頃には江戸の建設も一段落し、幕府の政
策もあり、旗本は江戸に住むようになり、領地
はその任命した名主に管理させて年貢米など
を受け取っていました。
 五代将軍綱吉の元禄年間(1688〜1704)にな
ると橘樹郡も北部が旗本領となり久良岐郡で
は1722年、米倉氏が金沢(六浦)藩主となって
、その南部を支配し鎌倉郡では戸塚宿周辺の
村々を除いて大部分が旗本領などになってい
きました。
 一つの村に天領や数人の旗本の所領があり
代官も旗本もそれぞれ名主、年寄(組頭)百姓
代などの村役人を任命し、年貢米の徴収をは
じめその領内を治めさせましたが、互に入り
組んで支配しているところが横浜市域支配の
特色とされています。
江戸中期・横浜市域の天領と私領
<検 地> 封建社会では農業が主要な生産部門であり、 領主の財政は重に農民からの年貢にたよって いたので耕地面積、収穫高、耕作者を調査して おくことは領主にとって大切なことでした。 徳川家康は村々に検地役人を派遣して直接 検地竿を使って田畑一枚ずつの面積を測量、 年貢の取り立てを強化しました。 横浜市域の村高は下表のとおりで100石から 1000石の間が殆どでした。
<江戸との結びつき> 江戸に幕府が開かれたことにより江戸の町 は急激に膨張、一大消費地となり、隣接する横 浜の地でも江戸との物資流通が盛んになりま した。 江戸湾(東京湾)の専業漁村である生麦浦(鶴 見区)、新宿浦(神奈川区)など御菜八ヶ浦は江 戸城に魚を献上することが義務づけられおり 、また神奈川浦には鯛の生簀があって城中の 儀式や祝い事のときには、生きの良い鯛が納 められました。 神奈川宿には日本橋問屋の中継商人がいて 各漁村からの集荷を日本橋へ馬で運んでいま した。 かねさはの海岸でつくられた塩(関連サイト・ かねさはの塩づくり)は神奈川宿などの塩商の手 を経て舟で江戸や行徳(千葉県)に運ばれ、浦 賀の肥料問屋から送られた干鰯は神奈川宿や 保土ヶ谷宿などを経由して八王子や厚木にま で出荷されました。 一方江戸から横浜へは清酒、茶、反物、かんざ しなどのぜいたく品が運ばれ宿場などで販売 されましたが、 これらの物資の流通には江戸 湾に面した湊が大きな役割を果たしました。
市域の湊と物の動き(図説・横浜の歴史より)
<農村の様子> 横浜は海が入りこみ、小さな丘陵や谷が入り くんでいますが、人々はその丘陵の谷間に住 みついて村を作りました。そこには充分な水 量も川もなく谷を利用して作ったため池は狭 て浅く、水量は僅かであり、用水路を掘ること も困難で結局雨水にたよる以外に無く、反当 りの収穫も少なく、農民たちは苦労を重ねま した。 江戸初期の横浜は田畑の割合は面積では半 々でしたが、生産高では5対3で田が多かっ たようです。畑では主に麦・大豆・粟・稗などの 雑穀を生産していましたが、農業の中心はや はり水田であったため村の生活も稲作中心に 動いていました。
谷戸の畑作(横浜市・金沢区)
<新田の開発> 幕府の政治も安定して平和な世となると産 業や経済の面でも独自の開発が進められまし たが、横浜でも入り海の埋め立てや荒地の開 発が行なわれ、出来た新田にはその開発者の 名前がつけられ横浜発展のもととなりました -吉田新田- 吉田新田は戸部、太田、蒔田、堀の内、中、横浜 の諸村が囲む海を吉田勘兵衛が埋め立てたも のです。 1656(明暦2)年から始まった工時は増水によ る堤防の決壊など、多くの困難を乗り越えて 1667(寛文7)年完成、その後四代将軍家綱によ って吉田新田と名づけられ吉田氏は名字帯刀 を許されました。 同じ頃金沢区の平潟湾の埋立てが行なわれ、 泥亀新田が作られました。(詳細はこちら) -帷子川下流の新田- 宝暦年間(1751〜64)には帷子川の流しだす 土砂が積もり、その河口には長い砂州が出来 ていましたが、この入り海があいついで埋め 立てられて尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、 藤江新田と呼ばれ、さらに50年後それに続い て岡野、平沼両新田が開発されました。
帷子川下流の新田
<街道と宿場> 関ヶ原の合戦に勝って天下統一のもとを固 めた徳川家康は翌1601(慶長6)年1月に東海道 伝馬の制度を定め、3年後には日本橋を起点と して五街道を整備してこれを直轄しました。 同時に距離の単位を統一するためにも一里 (約4km)ごとに一里塚を築いて榎や松などを 植えましたが、これは旅人達の道標ともなり、 また長い旅の疲れをいやしてくれるものにも なりました。(関連サイト・榎と一里塚) 横浜での一里塚は東は市場村、西は原宿村に つくられ、その間に7ヵ所あったといわれま す。 -街 道- 五街道のうち横浜を通過するのは東海道で すが、東海道ができた最初の頃は品川の次の 宿場は神奈川でそれから保土ヶ谷、藤沢、大磯 と続いていました。その後川崎や戸塚などが おくれて宿場となり寛文年間(1661〜73)に53 の宿場が出来、東海道53次となりました。 宿と宿との間に馬や人足の休憩に立場(たて ば、馬を立てるところからこの名が生まれま した)があり人々はそこにある茶店で休んだ り、馬に飼料を与えました。 横浜での立場は浅間下、茶屋町、境木、柏尾町 、原宿村にあったものが知られています。 ・脇往還 本街道とは別に主要都市との連絡道として 脇往還と呼ばれる街道がありました。 横浜には佐江戸(緑区)・瀬谷(瀬谷区)を通過 して中原(平塚市)に至り東海道の平塚宿に通 じる中原街道や荏田・市ヶ尾・恩田・長津田(以 上青葉区)を経て厚木から駿河国吉原(静岡県 )へと達する矢倉沢往還などの脇往還が走っ ていました。矢倉沢往還は大山詣の人々に多 く利用されたことから大山道とも呼ばれまし た。(近世の街道図) -宿場- 伝馬の制度によって宿場には一定の人馬を 用意しておき公用旅行者、荷物運送の利用に 応じられるようにしなければなりませんでし た。更に宿場には江戸・大阪間の継飛脚のため に5人の人足を常に用意していました。 ・神奈川宿・ 神奈川宿は神奈川町と青木町とで宿場をつ くりましたが全戸数1341戸、人口5793人の東 海道有数の規模で、旅人相手の商売で賑わい、 また海上交通の要地であり南関東一帯の経済 交通の拠点となっていました。 ・保土ヶ谷宿 保土ヶ谷、神戸の両町に少し離れた帷子、岩 間の両村が街道筋に移転し四ヶ町村が一つに なって保土谷宿をつくりました。 保土ヶ谷宿には苅部本陣と金子屋、藤屋、水 屋の脇本陣三軒がおかれ、 宿場町の中央部に 宿役人、旅館、伝馬役が住み、その外側に歩行 役、小役と続き、つぎに地借(借地人)、店借(借 家人)が住んでいました。
苅部本陣跡(横浜市・保土ヶ谷区)
・戸塚宿 保土ヶ谷宿と藤沢宿の間は坂道が険しいた め、この間の中間に戸塚、吉田、矢部の三ヶ村 を合わせて作られました。 本陣は沢辺と内田の二軒があり、鎌倉屋をは じめ脇本陣が三軒、旅籠屋は七十五軒もあり、 保土ヶ谷宿よりも多かったといわれています -助 郷- 宿場が常備する人馬が不足する場合は助郷 役といって宿場付近の村々から不足分の人馬 を強制的に出させました。 助郷役は農繁期にも課せられ、そのたびに主 要な労働力をとられる村にとっては大きな負 担になり宿場と助郷村との間には対立が起き ました。1745(延享2)年には39ヶ村が保土ヶ谷 宿役人の不正を憤って訴訟を起こし、1769(明 和6)年には戸塚宿と助郷村との紛争がおこる など両者の間には、紛争と和解が繰り返され るようになりました。 前のページへ

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1590
 8月徳川家
康江戸入り、
横浜市域は
徳川氏の領
地となる
 翌年から領
内の検地が
始まる
  
1601
 神奈川・保
土ヶ谷が宿
駅となる


1604
 戸塚に新駅
が設置され
る






1667
 吉田新田の
埋立てが完
成する
1668
 泥亀新田の
開拓


1696
 米倉氏、六
浦に一万石
を所領する
(のち、1万5
千石となる)
1697
 7月旗本知
行の地方見
直し、酒依氏
など多くの
旗本が横浜
市域に知行
地を受ける





1716
 保土ヶ谷宿
、大火で半数
焼く
1717
 弘明寺の根
本武夷が荻
生徂徠の門
人になる

1722
 7月下野皆
川藩主米倉
氏、転封を
命ぜられ武
蔵金沢に陣
屋をおく

1770
 大飢饉のた
め神奈川に
百姓一揆が
おこる