ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 14

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・L江戸時代T(徳川幕府の成立)・・・


 1603年家康によって開かれた徳川幕府は家康、秀忠、家光の三代の間強大な軍事力を背景に大名を統制、
幕藩体制による全国支配の形を整え、徳川政権260年の基礎をつくりました。

 江戸から近いかねさはの地も徳川政権の下で新たな発展をとげます。 
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


家康の全国制覇

<徳川家康の登場>
 三河の小大名だった徳川家康は豊臣秀吉
が信長の跡目をつぐ戦いを進めている間
に武田氏の領地だった甲斐(山梨県)・信濃
(長野県)に進出して東海道から東山道に
わたる五ケ国の大大名にのし上がってい
きました。
 豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、天
下統一を成し遂げたあと家康は北条氏の
あとの関東に国替えとなり、江戸城を中心
に関東の領国を固める仕事を着々と進め
ます。

<関ヶ原の戦い> 1598(慶長3)年豊臣秀吉が死に、ついで 翌年前田利家も亡くなると五大老の筆頭 であった家康はさらに勢力を強めますが 豊臣家の将来を心配した五奉行の筆頭の 石田三成はこれに反発、1600(慶長5)年三 成の伏見城攻撃で戦いが始まり、家康を 総大将とする東軍と毛利輝元を総大将と する西軍が関ヶ原で戦火を交えましたが 小早川秀秋らの裏切りもあって西軍は大 敗しました。 これにより家康は東海道から西国にかけ て一気に支配体制を作りあげました。 <元和偃武> 1603(慶長8)年家康は征夷大将軍となり 徳川幕府を開きました。 一方秀吉亡きあとの豊臣家は秀頼が成長、 天下一の大坂城を守っていましたが1614 (慶長19)年の大坂の陣、翌年の大坂夏の 陣に敗れ大坂城は炎上し淀君・秀頼の母子 は自害、豊臣家は滅亡しました。 この年、年号が改まって慶長から元和と なりましたが、これからは武器はしまわれ て戦いはなくなる(偃武)ということから 元和偃武といわれ徳川政権による泰平の 時代の幕が開かれました。 <江戸城建設> 関ヶ原の戦いののち家康は諸大名を動員 して本格的に江戸築城をはじめます。 「天下普請」といわれる大工事で大坂城 をはるかにしのぐ巨大な城は秀忠・家光と 三代にわたり1636(寛永13)年に完成、江戸 は名実ともに全国を支配する王者の都と なりました(関連サイト・江戸城)

<徳川家康の関東入国>
 小田原の後北条氏の降伏により徳川家康
は1590(天正18)年関東に入国し、新たな領
主となりました。
 家康は「かねさは」を含む相模国、武蔵国
に多くの直轄地を置き「代官頭」として知
られる伊奈忠次(のち郡代)、大久保長安、
彦坂元正、長谷川長綱の4名を中心に領
地の管理や年貢の取り立てを行いました
 
 <検 地>
 家康は入国とともに直ちに検地を行いま
すが新編武蔵風土記稿(江戸時代に幕府に
よって編纂された地誌)には「かねさは」区
域では大久保長安の配下にあった代官原
田佐左衛門が検地を行ったことが記され
ています。
 家康が100石の社領を寄進しという瀬戸
神社には「瀬戸御神領御寄進乃坪付帳」と
いう当時の検地帳(検地の結果を書き上げ
た帳簿)が残されています。

瀬戸御神領御寄進乃坪付帳(瀬戸神社蔵)

<かねさはの代官> 家康が関東へ入国した当初「かねさは」を 支配したのは代官頭の大久保長安や代官 原田佐左衛門でしたが関ヶ原の戦い(160 0)年以後は代官頭長谷川長綱と代官八木 九兵衛がこれを支配します。 両者ともかっての今川氏の部下で長谷川 氏は浦賀に、八木氏は町屋に陣屋を構えま したが直接「かねさは」を支配していたの は正重、重明、重絲(次郎右衛門)の三代に 亘った八木氏だったようです。  

長谷川長綱の墓(逗子市・海宝院) 碑の背面には家康公御代之奉行長谷川七 左衛門(長綱の通称)・・・・と刻まれています

 <かねさはの村々> 17世紀中頃の様子を示すとされる武蔵 田園簿(江戸幕府が作成した村名、村高 〈土地の生産量〉を書き上げた帳簿)に よると現在の金沢区域には当時武蔵国 に属する次の11ヶ村が存在しています。 武蔵国久良岐郡 ・六浦寺分 ・六浦平分・六浦社家分 ・須崎村・町屋村・渡残村・柴村  ・寺前村・谷津村・釜利谷村・富岡村

正保年中改定図(新編武蔵風土記稿)

これらの村々は家康の関東入国直後 は幕府の直轄地として代官原田佐左衛 門(のち八木次郎右衛門)が支配してい ましたが、富岡村は1595(文禄4)年に旗 本である豊島刑部小輔信満(明重)の領 地となっています。 信満は1628(寛永5)年江戸城内で老中井 上正就を殺害し、自らも斬殺されるとい う事件(関連サイト・慶珊寺)により豊島家は 断絶、旗本八木勘十郎の領地となりまし た。 旗本八木氏はその後高豊、高補の二代に わたり富岡村を支配していましたが、16 98(元禄11)年領地の移転により幕府領と なりました。 このほかこの区域には寺社領として瀬 戸明神領(六浦社家分)、竜華寺領(須崎 村)、称名寺領(寺前村)、知楽院領(釜利 谷村)がありました。
<神領となった坂本村> 釜利谷村はやがて宿村、坂本村、赤井村 に分かれますが坂本村は神領となります 1636(寛永13)年、釜利谷の禅林寺を再興 した伊丹右衛門太夫(永親)の子孫で江戸 城紅葉山東照宮の別当(長官)をしていた 知楽院忠尊の願いにより、太夫のもとの 領地の坂本村(200石)が紅葉山東照宮の 神領となりました。 神領となった坂本村は諸役免除の特権 とともに紅葉山への奉仕義務が課せら れ1780(安永9)年には東照宮御神影(徳 川家康の画像)が贈られました。

東照宮(家康)御神影(禅林寺蔵)


 禅林寺と荒痛文殊伝説
むかし釜利谷の坂本村の山中に、文殊菩薩 が祀られていました。ある年の夏、台風でこ の文殊様が山崩れで押し流され、前の沢の中 に埋没してしまいました。村人たちは文殊様 を探し出そうと懸命になりました。 ところが鍬や鋤を打ち込むたびごとに土の 中から「あら痛や、あら痛や」という声が聞こ えます。 怖れおののきながら、丁寧に土石を取いてい くと、高さ4尺3寸(約1.42M)の文殊菩薩の立 像が現れました。この呼び声から「荒痛(あら いた)文殊」と呼ばれることになり、村内の禅 林寺に持って行き、住職にわけを話して小さ なお堂をつくり、境内に安置してもらいまし た。 立派なお像なので、行基作だとか文覚上人作 だろうなどと言われて評判になったようです。 禅林寺はもともと伊丹三河守の子で、紅葉山 東照宮の別当を兼ねていた浅草の知楽院忠尊 が両親の菩提寺として信仰していたお寺です。 そこで住職は忠尊を通じて、将軍家光に相談 したところ、家光からは 「武蔵国久良岐郡坂本村などという片田舎に 置かれていては、参詣人も少なく文殊様も寂 しかろう。江戸浅草の観音堂の中へ安置する がよい」 との仰せがあり、浅草寺に安置されました。 ― ― ― ― ― ― 浅草寺に移された荒痛文殊は、三十三年に一 度ご開帳が行われ、その折には禅林寺住職が浅 草寺に出向き、供養を行っていましたが、1945 (昭和20)年の東京大空襲で焼失してしまいま した。

禅林寺(金沢区・釜利谷東)


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江戸時代
T(1600
    〜1650)

1600 関ヶ
原の戦い

1603 徳川
家康、征夷
大将軍とな
り、徳川幕
府を開く

1614 大坂
冬の陣

1615 大坂
夏の陣
 〃 武家諸
法度、公家諸
法度の制定

1627 紫衣事
件

1635 参勤交
代制度制定

1637 島原の
乱

1639 ポル
トガル人の
来航禁止に
より鎖国完
成

1649 慶安の
御触書公布




幕藩体制の成立





 
徳川氏系図




























































本百姓と水呑百姓
 

<徳川幕府の組織>
 大老はまれにしか置かれなかったので幕
政の中心は老中でしたが、老中には譜代の
大名が任命され、その下に(江戸)町奉行・
勘定奉行や全国の大名を監察する大目付
がおかれ全国支配の要となりました。

<経済支配体制> 徳川幕府の財政的基盤は天領と呼ばれる 直轄地の支配で、天領の分布は全国68ケ国 のうち47ケ国にも及びました。 天領には
郡代と代官がおかれ旗本から選 ばれました。 そのほか京都・大阪を直轄し佐渡・石見な どの有力な金銀鉱山を直接支配、長崎貿 易も独占しました。 こうして江戸城を拠点に強力な支配体制 を整えました。
<大名の統制>
ー転封と改易ー
徳川幕府は大名を親藩・譜代・外様の三つ に分け幕府の要職には譜代の大名と旗本 以外はほとんどつけず、有力な外様大名に は徳川の前の姓である松平の姓を与えた り婚姻関係を結んだりしました。 大名の領地を移し(転封)関東・中部・近畿 は親藩、譜代で固め有力な外様大名は東北 九州に配置しました。(大名配置図はこちら) 徳川幕府は関ヶ原の戦いのあとも武家諸 法度にそむいた大名をとりつぶしたり、財 産を没収(改易)したりして大名に対する 支配を強めました。 ー武家諸法度の制定ー 二代将軍秀忠は大阪の陣後武家諸法度を 制定し、三代将軍家光の時に整備、以後将 軍が代わる度に発布されました。 主な内容は大名の心得・居城の新築禁止 修理の許可制・参勤交代・大名同士の婚姻 許可制・500石(約75トン)以上の大船の建 造禁止などです。 これによりこれまで武力で従えていた関 係から法律によって幕府に従わせようと いう体制をつくりました。
<朝廷と寺社対策> 家康は京都に所司代をおき二条城を築き 幕府の京都支配を確立しました。 大名に対する武家諸法度に続いて朝廷、 公家を統制するために「公家諸法度」を 制定、武家に与える官位を幕府の承認を得 ることにするなど朝廷の権利に関与する 一方、天皇と婚姻関係を結んで親戚になる ことなどを行いました。 寺社に対しても「寺院法度」を制定、幕 府の支配機構に組み入れようとします。 紫衣事件はこのような幕府の政策に対す る朝廷・寺院のささやかな抵抗でした。
<農民の統制> 幕府の天領では郡代や代官が、大名の領 地では郡奉行や代官が村役人の名主(庄 屋)を通じて村ごとに農民を支配しまし た。 年貢は村ごとにかけられ、五人組が連帯 で責任を持ち幕府の出した「田畑永代売買 禁止令」や「分地制限令」で田畑の処分も制 限されました。 名主(庄屋)の補佐役として組頭がおかれ 名主・組頭に対する農民側の代表として百 姓代がおかれ、これらは村方三役と呼ばれ ました。 名主(庄屋)や組頭が多くは世襲だったり 有力な農家の回り持ちだったのに対し、百 姓代は次第に一般百姓による選挙が多く なり村の自治制が進むきっかけともなり ます。


海外貿易の奨励

 家康は貿易による莫大な利益に目をつけ
東南アジア諸国や朝鮮・中国さらには遠く
スペインにまで関心を深め西国大名や豪
商たちに朱印状を与えて海外貿易を奨励
しました。
 タイのアユタヤに渡った山田長政が活
躍したのもこの頃です。(関連サイト・アユ
タヤの山田長政)
 朝鮮とは対馬の宗氏を通じて交渉が進
み1607(慶長12)年国交が回復、中国(明)
も秀吉の朝鮮出兵以来の警戒心をとき長
崎などに来る貿易船は増えていきました
 仙台藩の伊達正宗の使者、支倉常長は太
平洋を横断しメキシコを経てスペインに
渡りましたが、幕府がキリシタン禁圧を
はじめたことなどにより貿易交渉は失敗
におわりました。


キリシタン弾圧
<リーフデ号漂着>
 1600(慶長5)年3月オランダ船が豊後(大
分)の臼杵湾に漂着しました。
 生き残った船員の中にオランダの高級
船員ヤン・ヨーステンとイギリスの航海
長ウィリアムス・アダムズ(三浦按針)が
いましたが、彼らの話から世界の情勢は
これまでのポルトガルやスペインの国に
対抗して新教国のオランダとイギリスが
進出してきていることが判りました。
 1609年オランダ東インド会社の2艘の
商船が、4年後にはイギリス商船がともに
平戸に入港、家康は貿易の許可を与え両
国間でも激しい貿易の競争が始まります

<糸貿易の統制> 日本国内での絹織物の需要が増加する につれポルトガル船が積んで来る生糸の 値段は高騰、幕府は1604(慶長9)年「糸割 符法」を定め京都、長崎、堺の商人にポル トガル船の持ってくる生糸をまとめて買 い取らせることにしました。 1631(寛永8)年からは江戸と大阪の商人 がこれに加わることになりましたが、日 本の商人間の競争がなくなり、ポルトガ ル商人は以前のようには儲からなくなり ました。
<キリシタン禁令> 家康はキリスト教に対しては秀吉の禁 教政策に続き、表向きは禁教の立場をと っていましたが、貿易を奨励するために 布教を黙認しました。 このため信者も急激に増え日本の植民 地化や神仏信仰の伝統秩序の破壊や一 揆の発生を恐れた幕府は1612年岡本大 八事件をきっかけに全国に向けて禁教 令を出しました。 禁教令とともに信者にたいする弾圧も 厳しさを加えていきましたが、1622(元 和8)年の元和大殉教では長崎で宣教師 や信者ら55人が火刑、斬刑に処せられ日 本の歴史上でもほかに類を見ない残酷 なキリシタン弾圧と追放の嵐が吹き荒 れました。


鎖国の完成


 キリシタン追放の方針は強まり1633(寛永
10)年最初の鎖国令が出されました。
 その後1636年までに3回の鎖国令が出され 
    @日本人の海外への往来禁止
    A国内でのキリスト教の禁止
    B貿易の管理統制
   により日本は鎖国状態となります。
<島原の乱>
 1637(寛永14)年11月キリシタン信仰が根
強かった天草・島原地方の3万7千人もの農
民が藩主松倉氏の重い年貢の取り立てに
抵抗して、天草四郎時貞を首領として原城
に立てこもり幕府と戦いましたが、翌年2
月落城、時貞らは戦死し残ったものも処刑
されました。
 幕府はこれを機会にキリシタンへの弾圧
を厳しくし1639年にはポルトガル船の来
航を一切禁止して鎖国が完成しました。

 これによりポルトガル人が在住していた
出島には平戸からオランダ商館を移して、
厳しい監視のもとに貿易を続けさせ長崎
郊外の唐人屋敷に移住させられた中国人
が僅かに開かれた世界への小窓となりま
した。