ーファミリー版ーよこはまの歴史9

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P10

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(江戸時代W)

…(\)江戸時代A [横浜の開港]…


 半農半漁の小さな村だった横浜村もペリーの来航とその後の開港により一挙に世界への窓を開き、開港
場となった横浜には外国人居留地がつくられ、混乱の中で貿易もはじまり、横浜商人もめざましい活躍を
見せました。

 近代国家への道を歩み始めたヨーロッパでは産業革命やフランス革命などによって、市民社会が成長、発
展しますが、アジアでは近代化が遅れヨーロッパ列強諸国の進出により、植民地化への道をたどります。 


世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

[アメリカ]
 <独立宣言>
 18世紀半ばまでにアメリカの東海岸には13の
イギリスの植民地がつくられていました。
 七年戦争によってイギリスの財政は大変苦し
くなっていましたが、1765年イギリス政府は植
民地で発行されるすべての書類や刊行物(新聞・
トランプまでも)に政府発行の印紙を貼り付け
ることを定めた印紙法を制定しました。
 植民地の人々は各地で反対運動を起こし、翌年
イギリス政府は印紙法を廃止しましたが1767年
ガラス、鉛、茶などに課税することを定め両者の
対立は強まり、1773年にはボストン茶会事件が
発生、イギリス政府はボストン港に軍船を送り、
港を閉鎖しました。
 1775年、政府軍と植民地民兵の最初の武力衝突
がボストン郊外のレキシントンとコンコードで
おこり植民地側が勝利、この直後に植民地側の
代表により大陸会議が開かれ大陸軍が組織され
ジョージ・ワシントンが最高司令官に任命され
ました。
 1776年7月の大陸会議では独立宣言が採択され
、アメリカは独立し憲法も制定されて1789年に
はワシントンが初代大統領になりました。
 <モンロー宣言>
 1810年頃からラテン・アメリカ(メキシコ、中央
アメリカ、南アメリカ、西インド諸島)にあるス
ペインやポルトガルの植民地では独立運動が盛
んになり、1811年から1844年の間にあわせて17
の国が独立しましたが(ラテン・アメリカ諸国の独立)
ラテン・アメリカ諸国の独立は植民地生まれの
白人(クリオーリョ)によって生まれたもので、
広い土地や鉱山などを所有している少数の白人
の支配する体制は変わりませんでした。
 この独立運動を見てオーストリアなどは独立
運動がヨーロッパに波及することを怖れて独立
に反対しましたが、アメリカはヨーロッパ勢力
がアメリカへ進出することを警戒、ラテン・アメ
リカに対する影響力を確保しようとするアメリ
カ合衆国大統領モンローは1823年、ヨーロッパ
とアメリカ大陸は相互不干渉の立場に立つこと
を宣言しました。
 <ミズーリ協定>
 アメリカ合衆国の北部は商工業地帯であり、こ
こではイギリスとの競合もあり、国内の産業を
保護育成するために保護貿易を行い、外国の商
品を輸入するときには高い関税をかけようとす
る考えが優勢でしたが、南部は農業地帯で奴隷
を使って綿花やタバコをつくり、それを輸出し
て工業製品を輸入しており、自由貿易を唱えて、
両者は次第に対立するようになり、西部の開拓
が進むにつれて西部に新しく生まれる州を巡
って激しく争いました。
 1820年両者はミズーリ協定を結んで北緯36度
30分以北に生まれる新しい州は奴隷制度を認め
ない自由州、それ以南に生まれる州は奴隷州に
することにして妥協しましたが、この問題は合
衆国内部の火種としてくすぶり続けました。
 <合衆国の発展>
 独立後のアメリカはインディアンを制圧して
西へと開拓を進め領土を広げていきました。
 1803年にはフランスからルイジアナを購入し
ましたが、その後メキシコとの国境を無視して
テキサスに侵入、1845年にはテキサスを併合し
ましたがメキシコはこれを認めず1846年、アメ
リカ・メキシコ戦争がおこりましたが、アメリカ
が勝利、アメリカはカリフォルニアとニューメ
キシコを得ました。(アメリカ合衆国の領土拡張)
 1848年カリフォルニアに金鉱が発見されると、
この地域へ多くの移民がおしかけ開発が進み
(ゴールドラッシュ)1850年に州に昇格しました
 メキシコから獲得した地域が州として合衆国
に加わると、新しい州の争奪をめぐって北部と
南部の対立が再び激しくなりました。
 <南北戦争>
 アメリカ北部の工業地帯では工業の発展のた
め関税を高くして外国製品の輸入を抑え、市場
を南部に広げようとしていました。
 南部では黒人を奴隷として使い、綿花を栽培し
てイギリスへ輸出、イギリスからは工業製品を
輸入していました。
 1860年奴隷制の廃止を主張するリンカーンが
合衆国大統領に就任すると翌年南部七州はジェ
ハーソン・デービスを大統領としてアメリカ連
合国を結成して合衆国連邦から脱退、南部のチ
ャールストンにあった合衆国のサムター要塞
を攻撃したことから南北戦争が始まりました。
 戦いは商工業の発達により優位のうちに進ん
だ北部が1862年、「ホームステッド法」を定め西
部を味方につけ、1863年には「奴隷解放宣言」を
発表して内外に戦争目的の正当性を訴え、1863
年ゲディスバーグの戦いで南軍を破り1865年、
南部の首都リッチモンドを占領して南北戦争は
終わり、アメリカは再び統一されその後目覚し
い産業の発展を遂げました。

[イギリス]
 <産業革命はじまる>
 18世紀のイギリスは西アフリカに綿布や日用
雑貨を運んで黒人奴隷と交換し、それをアメリ
カに売り、得た利益で西インド諸島を中心とし
たアメリカから砂糖、タバコ、綿花などを買って
イギリス本国に運ぶ三角貿易を行なって大きな
利益を上げ、綿織物の輸出で活気づいていまし
たが、原料である綿糸の不足を解消するために
ハーグリーブスやアークライトらによって水力
による紡織機が作られていました。
 ワットはニューコメンがつくった蒸気機関を
改良してすぐれた蒸気機関を作り、実業家のボ
ールトンと共同して1775年ボールトン・ワット
商会を設立、蒸気機関を広く販売しました。
 蒸気機関の発明により商品を工場で大量に生
産できるようになり、産業だけでなく社会のし
くみも大きく変わる産業革命が始まりました。
             (コラム・産業革命による社会の変化) 
<マンチェスター・リバプール間の鉄道開通>
 蒸気機関は綿工業や鉄工業、炭鉱などで利用
されイギリスの工業は発展、原料や製品を大量
に速く遠くまで運ぶために蒸気船が発明され、
蒸気機関車の研究も進められました。
 1814年スティーブンソンが作った蒸気機関車
は急速に全国に普及し、1830年にはマンチェス
ター・リバプール間の営業運転が開始され大量
輸送の時代に入りました。
 <第一次選挙法の改正>
 産業革命の結果、イギリスでは大地主に代わっ
て産業資本家(ブルジョワジー)が経済をリード
するようになりましたが、都市の人口が増え農
村は人が減ったのに選挙区は17世紀以来変わっ
ていないため、人々の不満が高まり1832年、政府
は選挙法を改正し腐敗選挙区を廃止、産業資本
家は選挙権を獲得しました。しかし労働者には
選挙権は与えられず、議会は地主と産業資本家
のものでした。
 <チャーティスト運動>
 1832年の選挙法改正によっても選挙権が与え
られなかった労働者階級はオコンナーらを中心
に1837年頃から選挙権を要求して議会に請願し
て退けられると、1848年にはロンドンで25万人
の大集会を開き運動は盛り上がりました。
 政府は軍隊を動員して警戒、運動は衰えました
が、この運動により労働条件の改善を図る工場
法や10時間労働法などが制定され、イギリス労
働者の最初の組織的な労働運動といわれます。
 <男子普通選挙制の実現>
 19世紀の後半、イギリスは産業が繁栄し、世界
の工場と呼ばれ労働者の生活も次第に改善され
、政治の分野では保守党と自由党が交互に政権
をとる二大政党政治が行なわれました。
 1867年第二次選挙法が改正され都市労働者に
も選挙権が拡大され、1870年には1884年には国
民のすべてに義務教育を施す普通教育法が制定
され、1884年の第三次選挙法改正では農業労働
者や鉱山労働者のも選挙権が与えられ、男子普
通選挙制が実現しました。

[フランス]
 <フランス革命のはじまり>
 フランスでは王室の長い間のぜいたくな生活
とアメリカ独立戦争への援助で財政が悪化した
ので、王は聖職者や貴族への課税を試みました
が反対にあい三部会の招集を余儀なくされ、17
89年ベルサイユ宮殿で三部会が開かれました。
 会議では議決方法をめぐり第一、第二身分と第
三身分との間で約40日間も対立が続き、第三身
分は啓蒙思想の影響を受けて自らの会を国民の
代表であるとして「国民議会」と宣言しました。
 国民議会は憲法制定議会と名を改め憲法制定
に着手しましたが、国王ルイ16世はベルサイユ
に軍隊を集結させたためパリ市民は武器をとっ
てパスティーユ牢獄を占領、フランス革命が始
まりました。
パスティーユ牢獄
[1789年7月、パリ市民が圧制の象徴であったこの牢獄を 襲撃して囚人7人を解放し、司令官と市長などを殺害し ました] 国民議会は8月、「人権宣言」を採択して1793年 ルイ16世は処刑され共和制が始まりました <ナポレオンの即位> ヨーロッパ諸国の王たちはフランス革命の拡 大を防ぎ、それを鎮めようとしてイギリスの呼 びかけによりロシア、プロイセン、オーストリア 、スペインなどが参加して第一回対仏大同盟を 結びました。 ナポレオン・ボナパルトはルイ16世処刑后のフ ランス共和制の混乱解決の期待を背負って登場 、1796年のイタリア遠征で勝利を収め第一回対 仏大同盟を崩壊させ、1798年エジプト遠征を行 いました。 ナポレオンがエジプト遠征中に第二回対仏大 同盟が結成され、ナポレオンはフランスに帰り 1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)クー デターにより総裁政府を倒し、臨時統領(執政) 政府をつくって自らは第一統領となり独裁的 権力を握りました。 1800年ナポレオンはイタリアへ遠征してオー ストリア軍を破り第二回対仏大同盟をつぶして 1804年国民投票により皇帝の位につき、第一帝 政が始まりました。 <大陸制覇とナポレオンの失脚> 1805年第三回対仏大同盟が結成されるとナポ レオンはイギリス侵攻を計画します。10月トラ ファルガー沖に海戦でフランス・スペイン連合 艦隊はイギリス艦隊に敗れますが、陸上の戦い では12月のアウステルリッツの戦いでオースト リア・ロシア連合軍を撃破して大陸の覇権を握 りました。(ナポレオン全盛時代のヨーロッパ イタリア・オランダを支配下においたナポレオ ンはライン同盟をつくらせ、これによって神聖 ローマ帝国は消滅しました。 ナポレオンは屈服しないイギリスに対して大 陸封鎖を行い大陸諸国とイギリスの貿易や通信 を全面的に禁止しました。大陸封鎖令が出され るとイギリスに穀物を輸出しているロシアは大 打撃をうけ、イギリスと貿易を再開しましたが、 ナポレオンは60万の大軍でロシアに侵入し、モ スクワを占領しました。 ロシア軍は焦土作戦によってこれに対抗しナ ポレオンはやがて撤退、ヨーロッパの君主たち もナポレオンから離れ、イギリス、プロイセン、 オーストリア、スェーデンはロシアと結び新し い対仏大同盟をつくり1813年、ライプチヒの戦 いでナポレオン軍を破りました 1814年同盟軍はパリに入城、ナポレオンをエル バ島に隠棲させルイ16世の即位によりブルボン 朝の王位が復活しました。 1815年3月ウィーン会議がまとまらないのを知 ったナポレオンはエルバ島を脱出して、再び皇 帝になりましたが、6月ワーテルローの戦いで敗 れセント・ヘレナ島へ流され1821年そこで亡く なりました。 <七月革命> ナポレオンの失脚后、王政が復活し、ルイ18世 は市民の選挙権を制限し、ついで即位したシャ ルル10世は亡命貴族の財産を補償したり、召集 前の議会を解散したためパリの民衆が立上がり 、王はイギリスに亡命、1830年7月オルレアン公 ルイ・フィリップが王位につきました。この七月 革命の影響を受けてベルギーが独立し、ポーラ ンドでも独立を目指した反乱がおこりました。 <二月革命> 七月革命以後フランスでは産業革命が進み、中 小の産業資本家も成長して労働者による労働運 動や社会主義運動がおこりました。 1848年2月、中小の資本家や労働者たちはパリ に集まり選挙法改正のため改革宴会という集会 を開きましたが、政府はこれを弾圧したため暴 動がおこり、ルイ・フィリップはイギリスに亡命 、パリには臨時政府が作られました(二月革命)。 新政府は失業者を救うために土木工事を行な ったり国立工場をつくり、21歳以上のすべての 男子に選挙権を与える普通選挙法を定めました が、経済危機による社会不安が続き共和派と社 会主義者の対立の結果、4月の総選挙で社会主義 者は敗れ、ついで12月に行なわれた大統領選挙 ではルイ・ナポレオンが当選しました。 ルイ・ナポレオンは1851年クーデターをおこし 翌年皇帝になり第二帝政がはじまりました。 フランスの二月革命はヨーロッパ各地に影響 を与え、1848年3月オーストリアやプロイセンで 三月革命がおこりました。 [ロシア] <デカブリストの乱> 東ヨーロッパ最強の国となったロシアは18世 紀後半になると皇帝の専制支配の下、国民の大 多数を占める農民は農奴として差別され、奴隷 と同じような状態にありました。 1825年アレクサンドル1世が亡くなり、ニコラ イ1世の即位を機会に立ち上がったデカブリス ト(十二月党員)と呼ばれる青年将校たちは首都 ペテルブルグに軍隊を集め、帝政をやめ憲法を 制定することを求め、反乱をおこしましたが短 期間に鎮められました。 ナポレオンによって高められたこうしたナシ ョナリズム運動や自由主義運動は始めのうちは ウィーン反動体制によって抑えられましたが、 やがてギリシァの独立やイタリアの統一となっ て実現します。(コラム・ギリシアの独立戦争イタリア 王国の成立)) <クリミア戦争> 18世紀後半以降、オスマン・トルコの勢力が弱 まっている中で、ニコライ1世は1853年、ギリシ ァ正教徒の保護を口実にトルコに戦いをしかけ 、ロシアの南下政策を警戒するイギリスと威光 拡大を目指すナポレオン3世のフランスがトル コ側に参戦しました。戦いはクリミア半島にあ るロシアのセバストポリ要塞が1年がかりで攻 め落とされロシアが降伏、1856年パリ条約が結 ばれトルコの独立の保障と黒海周辺の非武装化 が定められました。 <農奴解放令> 1861年、ロシア皇帝アレクサンドル2世はクリ ミア戦争に敗れた原因がロシアの後進性にある と考え、農奴解放令を出しました。 農奴解放令によって農民は土地を買うために 借金せねばならず、かえって生活が苦しくなり 都市に出て工場労働者になるなど、農奴解放は 不徹底なものに終わりました。 [ドイツ] <関税同盟の成立> ウィーン会議により、ドイツでは35の君主国と 4つの自由市からなるドイツ連邦が作られまし たが、連邦の各国がそれぞれ関税をかけたので 商人には重い負担になり、経済発展の妨げにな っていました。 1843年、ドイツ連邦で最も商工業が発展してい たプロイセンの呼びかけでオーストリアを除く ドイツ連邦国家がすべて参加して同盟が結成さ れ関税を廃止して経済的統一が図られました。 ドイツはその後プロイセンを中心として国家の 統一へとむかいます。 <プロイセン・オーストリア戦争> 1861年プロイセン王に就任したヴィルヘルム1 世は大地主出身のビスマルクを首相に任命しま した。 ビスマルクは話し合いや民主主義ではド イツの統一は出来ないとして「鉄血政策」を推進 して武力による統一を目指し、軍備拡張を強行 して1864年、デンマークと戦いドイツ人が多数 住んでいるシュレスヴィヒ、ホルスタインの両 州を獲得し、1866年には両州をめぐる争いから、 オーストリアと戦ってこれを破り、1867年プロ イセンは北ドイツの22カ国をあわせて北ドイツ 連邦を結成してドイツ統一に向けて大きく前進 しました。
ドイツの統一
[中 国] <アヘン戦争> 17世紀からはじまったイギリス東インド会社 による中国貿易は18世紀頃からイギリスでお茶 を飲む習慣がひろまったため、中国茶(紅茶)の 輸入が大幅に増えました。東インド会社はお茶 の代金を銀で支払っていましたが、銀が不足し てきたためインド産のアヘンを売込んでお茶の 代価にあてるという三角貿易を開始しました。 中国社会ではアヘンを吸う習慣が広まり、中国 の銀はイギリスに流出、銀の高騰により銀で納 税していた農民の生活を圧迫、道光帝の命を受 けた欽差大臣(全権をもつ大臣)の林則除はイギ リスの外国商館を軍隊で囲み、アヘン200トンを 没収、焼却しました。イギリスは自由貿易の名の もとに、これを機会に清朝の貿易制限を止めさ せようと1840年中国に遠征軍を派遣してアヘン 戦争がはじまりました。 戦いは近代的な兵器を持つイギリス軍の圧倒 的優勢に終始し、1842年清朝は南京条約を結び、 上海など5つの港を開き貿易の制限をなくし、香 港島をイギリスに割譲しました。 清朝は1844年アメリカやフランスとも同じよ うな条約を結び、次第に半植民地化への道を進 んで行きます。 <太平天国の乱> アヘン戦争後、アヘン輸入量の増加や多額の賠 償金の支払いは銀の高騰や重税となって民衆に はねかえりました。 1851年洪秀全は広西省金田村に挙兵、太平天国 の建国を宣言し広西から湖南、湖北を転戦する うちに巨大な集団に成長、1853年南京を占領し て天京として太平天国の首都としました。 洪秀全は天朝田畝制度を発表し理想社会の実 現を目指しましたが、1864年李鴻章や曽国藩ら の義勇軍に攻められ滅亡、しかしその理想はの ちの孫文らに受けつがれていきました。 <アロー戦争> アヘン戦争後も欧米各国の中国への輸出は清 朝の排外的態度などで伸び悩み、各国は一層の 貿易拡大を望み、条約改定の機会をうかがって いましたが、1856年月アロー号事件が発生した のを機会にイギリスが出兵、フランスも宣教師 殺害事件を口実にイギリスに同調、両国が連合 して清国に開戦しアロー戦争が始まりました。 英仏連合軍は広州を占領したのち、北上して天 津に迫ったので1858年清朝は屈服して天津条約 を結びました。 ところが翌年、条約の批准書交換のため北京を 訪れようとした英仏両国の艦隊を清が砲撃した ため、再び両国は大軍を送り天津や北京を占領 したので、清朝は降伏して北京条約を結びまし た。 この二つの条約でイギリスは中国から九竜半 島の一部の割譲を受け、天津など11港を開かせ、 外国公使の北京駐在を認めさせました。 アロー戦争後アヘン貿易は完全に合法化され、 中国市場は欧米各国に全面的に解放され、半植 民地化が一層進みました。 [インド] <セポイの反乱> 1757年プラッシーの戦いでフランス勢力をイ ンドから一掃したイギリスは、東インド会社を 通じてインドの広い地域を支配し、インドはイ ギリスの植民地のようでした。セポイと呼ばれ る東インド会社軍の傭兵は白人の将兵との差別 が大きく、不満を抱えていましたが1857年、セポ イ達が宗教上嫌う獣脂が弾薬包に塗られている という噂をきっかけに武装、反乱がおこりまし た。 反乱軍はデリーを占領してムガルを押し立て てインドの独立を図りましたが2年後には鎮圧 され、ムガル朝は滅亡しました。

  <黒船の渡来>
 1853(嘉永4)年6月、浦賀沖にアメリカ東イン
ド艦隊司令長官のペリーが四隻の軍艦を率い
てあらわれ開港を迫りました。
 日本国内は開港と攘夷の二つに分かれまし
たが、幕府はそれを統一できず、戦争がおこる
という噂や物資の買いだめによる物価の値上
りが人々を困らせました。
 特に浦賀と東海道を結ぶ金沢道に沿った人
々は保土ヶ谷宿・戸塚宿の助郷になっていた
ため、公用の物資の運搬や整備については諸
大名の荷物が加わり、これまでの倍以上の負
担がかけられ、そのため村々では農業もでき
ず、ついに幕府に助郷の軽減などを要求しま
した。
ー日米和親条約ー
 ペリーは翌1854(安政元)年1月再び七隻の艦
隊を率いて来航し、神奈川沖や羽田沖まで進
んできました。幕府は驚き神奈川宿の対岸の
横浜村を応接の地として、ここで日米和親条
約が締結され開国への第一歩を踏み出しまし
た。
ペリーの横浜上陸(ハイネ画・東京国立博物館蔵)
<横浜港の誕生> ー日米通商条約の締結ー アメリカは和親条約に従い総領事ハリスを 下田に派遣しました。 ハリスは中国大陸におきた。アロー号事件に 関してイギリスやフランスの動きが活発にな ったことから、通商条約の締結を急ぎ、大老井 伊直弼は勅許(天皇の許可)なしに1858(安政5 )年日米通商条約を締結しました。 条約は14ヶ条からなり第3条に開港場が明記 され神奈川が1859年6月に開港されることに なり、同時にアメリカ人の居留が認められ、第 7条に神奈川における外国人の旅行範囲が江 戸方面では六郷川(多摩川)、その他は10里(約 40キロ)迄とされました。 この条約は輸出入に対して日本が自主的に 関税をかける権利を持たないこと、居留して いるアメリカ人の犯罪はアメリカの法律に従 って領事が裁判を行い日本側には裁判権がな い治外法権を認めたことから、不平等条約と して後の日本の政治上、外交上の問題として 長く影響を及ぼしました。 ー開港場は横浜にー 幕府は開港場に予定されていた神奈川より も東海道からは野毛山と海によって隔てられ ている横浜の地が外国人と日本人を分離する のに都合が良いと考え、ここを開港場として 波止場、神奈川奉行所、運上所(現在の税関)な どを建設しました。
<新しい町づくり> 町づくりは運上所を中心として東側を外国 人居留地、西側を日本人居留地として入江を 隔てた戸部に、神奈川奉行所が建てられまし た。

  山手と元町の形成
 
 開港以前、横浜村には半農半漁の住民100戸あまりが
暮らしていましたが、横浜村に開港場が建設されるこ
とになり、1860(万延元)年幕府は横浜村の住民に移住
を命じました。そして横浜村の住民は村ぐるみ山手の
山すそへと移り住んだのが元町のはじまりです。
 間もなく、堀川が掘られ、元町は横浜の市街地と隔離
され、村の住民は農地や海での暮らしの場を失いまし
た。
 しかし元町は関内と山手を結ぶ土地でもあり、 関内
居留地の整備と山手への英仏軍の駐屯、、また山手居
留地の拡大など、外国人の生活物資の需要が拡大して
いく中で、旧横浜村の人々は、幕府から支給された作
徳料という補償金を元手に新しい職業を営むように
なりました。
 関内居留地が外国商館が立ち並ぶ商業地であったの
に対して、山手居留地は居住地として、外国人の住宅、
病院、学校、教会、劇場、公園、墓地などが設けられ、そ
うした外国人の生活を支えるため、様々な物資、サー
ビスを提供する町として、国際的な雰囲気の中で元町
は発展していきました
 
ー神奈川奉行所ー 奉行所の仕事は大きく戸部役所と横浜運上 所に分かれ、戸部役所の仕事は税金の徴収、支 配地の管理、外国人遊歩区内の風俗取締り、道 路や橋の修理なども含まれ、また牢座敷(8室) や処刑場の仕事もありました。 運上所は奉行所の中でも最も重要な仕事を 行い、現在の税関よりも広い範囲の外交事務 を取り扱っていました。外国軍艦・商船の出入 国手続き、貿易、関税徴収、洋銀両替、外国人の 取締まり、領事との交渉など神奈川奉行所の 役人の半数以上がこの運上所の仕事に従事し ました。後に波止場を東側(山下公園東側)に 増設してそこにも荷物改めを行なう役人を派 遣し、そこを東運上所と呼び、この波止場をフ ランス波止場といいました。 ー外国人居留地ー 幕府は横浜を開港場としましたが外国側は 条約にあるとおり神奈川が開港場であること を強く主張したため、幕府も神奈川から子安 にかけての地域を外国人の居留地としても良 いことを認めました。 各国は神奈川の寺院を借りて領事館としま したが、横浜に商店が並び取引が始められる と外国商人たちは地理的条件に恵まれている 横浜に集中して商館をつくり、領事館も神奈 川から横浜に移しました。 神奈川奉行は横浜が居留地となると外国人 との紛争が起こることを怖れ、開港場を分離 し、関門によって出入口を固めてそれを防ご うとしました。元町と居留地の間には堀川が つくられそれが境界線となり、そこへ入る吉 田橋や前田橋のたもとには関門がおかれ、内 側は関内、外側は関外と呼ばれるようになり ました。
横浜居留地(横浜市・神奈川県立博物館蔵)
ー山手居留地ー 横浜に居住する外国人は増加する一方で186 5(慶応元)年にはその数は1130人にも上り、居 留地が不足し外国人は景観の良い山手の丘陵 地を住宅地として求めるようになり、幕府は 山手地区を居留地として認めました。 ー外国人墓地ー 山手の一角に外国人墓地がありますがペリ ーが再来した1854(安政元)年に乗組員の水夫 を「海の見える静かな場所」に葬ったのが外国 人墓地のはじまりです。ここには開港直後の 混乱の中、生麦事件で犠牲になったリチャー ドソン、井土ヶ谷事件の犠牲者カミユや鉄道 開始の恩人モレルなど日本の近代化に尽くし た多くの人々が眠っています。
外人墓地(横浜市・元町)
ー横浜天主堂ー キリスト教は厳禁されていましたが、居留地 にいる外国人の信仰は条約で認めざるを得ま せんでした。外国人が多くなるにしたがって 教会建設の動きがおこり、1862(文久2)年に屋 根に十字架をつけた聖心教会が完成しました が、この教会はのちに山手にうつり山手カト リック教会となりました。現在の建物は関東 大震災による倒壊後、昭和8年再建されたもの です。
山手カトリック教会(横浜市・元町)
ー地蔵王廟ー 欧米人に雇われた商館で働く中国人も多く、 横浜で死ぬ人もあって神奈川奉行も1866(慶 応2)年に元町に中国人専用の墓地を設けて埋 葬することにしました。明治時代になって華 僑(移住した中国人)が中華街を形成するよう になってから、この墓地は根岸の大芝台に移 され地蔵王廟または南京墓と呼ばれるように なりました。
地蔵王廟(横浜市・根岸)
<横浜商人の活躍> 横浜で生糸が高値で取引されるようになる と、横浜商人は全国のおよそ8割にあたる生糸 を買い付けてめざましい活躍をしました。 政商仲居屋重兵衛は生糸貿易の先駆者の一 人で出身地の上州(群馬県)の生糸、蚕種(かい この卵)を取り扱って大きな利益を得ました が、輸出禁止になっている銅を売ったという 理由で捕われ財産を没収されました。実際は 仲居屋が水戸浪士の財政的な援助者であり、 水戸浪士による外人襲撃計画や桜田門外の変 などに関係をもっていたからだといわれてい ます。 甲州(山梨県)出身の篠原忠右衛門は郷里の 養蚕家の外国商館への売込窓口となり、自身 も山梨から長野にかけて生糸の買付けを行い 大きな利益を得ましたが、1870(明治3)年輸出 先のフランスがプロイセンとの戦い(普仏戦 争)に敗れ、輸出がとまり蚕種の暴落により大 きな損害を受けて没落しました。 原善三郎は埼玉県の出身で秩父地方の生糸 を買い集め、郷里の実家と結んで着実に商売 を広げ、二代目富太郎(雅号三渓)は外国と直 接貿易する方法を採用したりして更に発展さ せました。本牧の三渓園(詳細はこちら)は富太郎 が建築したものです。 群馬県桐生出身の茂木惣兵衛は横浜の雑貨 商野沢屋に入り、生糸取引を始めて店を繁盛 させました。野沢屋はその後代々すぐれた経 営者が出て輸出入を直接行い、海外支店を出 して原氏とともに横浜経済界の中心となりま した。
古き日の野沢屋「小川真一出版部発行の絵ハガキ」
(横浜開港資料館蔵)
<開港と国内経済> ー金貨の流出ー ヨーロッパを中心とする国際市場では金・ 銀の比価は1対15でしたが、日本では1対5と 金の比価が低かったので外国人による金貨 (小判)の買占めが行なわれ、幕府は1860(万 延元)年、金の比価を引き上げましたが、それ までの8ヶ月間に横浜から外国に流出した金 貨は約30万両と多額なものであり、物価の値 上がりを引き起こす原因にもなりました。 ー物価の値上がりー 当時商品は生産地の問屋から幕府が承認し ている株仲間の問屋に行き、そこから小売商 へと渡りましたが、横浜商人が高い値段で買 付けるようになると大坂、京都、江戸の問屋 を通さずに直接横浜商人に渡るようになり、 また京都西陣でも横浜の取引以上の金額を 出さなければ原料の生糸が入手できない状 態となり織物工場の休業が続出し、その下で 働く「より屋」「染屋」「織子」は失業し、物価の 値上がりが加わって生活苦に追い込まれて いきました。
生糸仕切書・複製(横浜市ふるさと歴史財団蔵)
ー五品江戸回し令ー 国内経済の混乱は1年も経たないうちに明 白となり、水油、茶などの日用品さえも不足 が目立ってきました。 幕府は1860(万延元)年3月に生糸、水油、蝋、 呉服、雑穀の五品について江戸問屋を経由さ せずに直接横浜に送ることを禁ずる「五品江 戸回し令」を出して、幕府によって決められ た特権商人である江戸問屋を通して経済の 実権を完全に握ろうとしました。 しかし横浜商人や地方商人、更に取引して いた外国商人も生糸などの入荷が減って自 由貿易が制限されるとして、これに抗議した ため幕府や江戸問屋はそれに押され、「五品 江戸回し令」も名ばかりのものとなり、これ によって横浜経済は横浜商人と外国商人の 手に握られるようになりました。
横浜市において外国人生糸見分る図 (米山画・横浜開港資料館蔵)
<開港場の混乱> ー生麦事件ー 横浜居留地が発展するのと反対に日本国内 では攘夷運動が高まり、外国人殺傷事件が相 次ぎました。 1860(万延元)年12月のアメリカ公使館ヒュ ースケンの殺害、翌年と翌々年の東禅寺のイ ギリス公使館襲撃事件ののち、1862(文久2)年 8月、東海道上の生麦村(鶴見区)で上海のイギ リス商人リチャードソンが薩摩藩の島津久光 一行によって殺害された生麦事件が発生しま した。幕府が賠償金10万ポンドを支払いまし たが、薩摩藩は犯人の引渡しに応じなかった ため、翌年イギリス艦隊が鹿児島湾を攻撃し ました。(薩英戦争)

生麦事件の碑(横浜市・鶴見区)
ー井土ヶ谷事件ー その後も攘夷運動は続き1863(文久3)年9月 にはフランス人カミユが井土ヶ谷村(南区)の 路上で殺害され同行の二人のフランス人も負 傷しました。 幕府はフランス公使から、特使をパリに派遣 してナポレオン3世に謝罪すれば大事件には ならないだろうという助言を受け、12月35名 の一行がフランス軍艦で出発、12万フランの 家族扶助料を支払うことで解決しました。 ー外国軍隊の駐留ー 横浜には生麦事件以来、尊皇攘夷派の浪士に よる居留地襲撃の噂が流れ、幕府も外国居留 民の安全を保つ自信はなく1863(文久3)年5月 、フランス海軍提督ジョレス、イギリス海軍提 督キューパーと神奈川奉行との間で英仏軍駐 留の話し合いがなされ、幕府との秘密会談で 両軍の横浜駐屯が決まりました。 フランスは谷戸橋(現在のフランス山一帯) 付近に、イギリスは谷戸坂上(港の見える丘公 園)に陣営をはりました。 フランス軍隊は「青隊」、イギリス軍隊は「赤 隊」と呼ばれ1875(明治8)年迄駐留しました。
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1786
 神奈川宿、
大火で300軒
が焼ける
1787
 江戸の打ち
こわし、神奈
川に及ぶ



1812
 この頃、横
浜新田、検地
を受ける



1837
 大飢饉発生
保土ヶ谷宿
で961人の餓
人が出る
1838
 この頃、安
藤広重、小
机の泉谷寺
に滞在、絵を
書き残す
 岡野・平沼
新田の開発
が始まる


1843
 生麦村領主
の関口東園
「孝行萌草」
を発刊する



1853
 ペリー浦賀
に来航
1854
 神奈川で日
米和親条約
(神奈川条
約)を結ぶ

1856
 太田屋新田
が検地を受

1858
 日米修好通
商条約締結
1859
 横浜開港す
る
1860
 神奈川台場
(砲台)完成


1862
 生麦事件起
こる。
 下村蓮杖、
写真館開く
 聖心教会堂
が完成


1865
 横浜製鉄所
が建設され
る
1866
 関内大火で
大半を焼く。
 根岸に競馬
場が設けら
れる
1867
 大政奉還、
江戸幕府倒
れる