世界史ミニ事典
 
ーファミリー版ー 世界史ミニ事典(付・図表、コラム) (事項の選択と説明は「よこはまの歴史」で使われたものを中心にしています)
ア 行 アウグスブルグの宗教和議・・・・・1555年、アウグスブルグの国会でドイツにおける旧教徒とルター派 の間で結ばれた協定。 これによって、ドイツの諸侯は宗教選択権を得て宗教戦争は一応終結し、カトリック の全一的支配が消滅、ドイツ諸侯の宗教上の独立権が確立しました。しかし個人の信 仰の自由を認めなかったこと、カルヴァン派の選択が許されなかったこと、カトリッ クの留保権が大きかったことなど、妥協的色彩が濃く、このため、宗教戦争は依然とし て尾をひき、やがて三十年戦争の一因となりました。 アメリカ=メキシコ戦争・・・・・米墨戦争ともいい、アメリカ合衆国のテキサス併合(1845)をめぐり、メ キシコはこれを認めず開戦しましたが、1年半后メキシコ市が陥落、1848年のグアダル ーペ・イダルゴ条約により、リオグランデ川をテキサスの西境とし、カリフォルニアと ニューメキシコは1500万ドルでアメリカに譲渡され、アメリカの領域は太平洋岸に達 しました。 アロー号事件・・・・・1856年10月、広州でイギリス船籍の小帆船アロー号が海賊容疑によって清朝官憲に よって検問され、中国人乗組員10数名が逮捕される事件がおこりました。 イギリスは、事件の際にイギリス国旗が引き降ろされて侮辱されたことを理由にし て清国に攻め入りました。 アンカラの戦い・・・・・1402年7月ティムールがオスマン帝国のスルタン(君主)バヤジット1世を破った 戦いでアンゴラの戦いともいわれます。 トルコのアンカラの北方チュブク草原で戦われ、ティムール軍にはインドの象隊も参 加、バヤジットは落馬して捕虜となり、オスマン帝国は一時滅亡の危機に瀕しました。 イオニア都市国家・・・・・小アジアの西部海岸と付近の諸島にはギリシァ人の植民が早くから行なわれ、 紀元前10世紀の半ば頃にはすでにミレトス、エフェソス、サモスなどの都市国家が成立、 オリエントとの通商の要地であったため諸民族の抗争の地となりました。 14世紀後半からはオスマン帝国の勢力下にはいり、ヨーロッパと切り離され今日に至 っています。 ウィグル族・・・・・トルコ系の遊牧民で、はじめ外蒙古のセレンガ川流域に住み、突厥の後を受けついで 744年から840年までモンゴリアに遊牧国家を築きました。 二代目カガンのとき、安史の乱鎮圧に唐を助けたことから勢力を強めましたが、840年 内乱と北方キルギス族の圧迫をうけウィグル遊牧国家は崩壊、ウィグル族は四散しまし たが、主力はトルキスタン(トルコ人の土地)をつくりました。 中国の新疆ウィグル自治区の住民の大部分はこのウィグルの子孫です。 ウィーン会議・・・・・フランス革命とナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序を回復するため に1814年9月から翌年6月までウィーンで行なわれた国際会議です。 会議には90王国、53公国が集まりましたが、各国の利害が対立、紛糾し「会議は踊る、され どすすまず」という状況が続きました。フランスの外相タレーランが提唱した正統主義が 基本原則として採用されヨーロッパ各国の勢力均衡が図られました。ナポレオンのエル バ島脱出のあと、最終議定書がワーテルローの戦いの直前になって成立、その内容は (1)フランス、スペイン、ナポリではブルボン家が復位する (2)ロシアはフィンランドを併合し、ポーランドの大半を得てポーランド王国をつく り、その王位を兼ねる (3)プロイセンはザクセンの北半分、ライン川左岸の地を獲得 (4)オーストリア領ネーデルランドはオランダが併合し、ネーデルランド王国を形成。 その代償にオーストリアはロンバルディア・ヴェネツィアを獲得 (5)イギリスはマルタ島ほかオランダ領のセイロン島・ケープ植民地を獲得 (6)スイスは永世中立国となる (7)ドイツは35君主国・4自由都市によりドイツ連邦を組織する (8)スウェーデンはノルウエーをあわせ、ボンメルンをプロイセンに譲る などでした。 この決定では自由主義、国民主義に対する配慮はされず、メッテルニヒの方針は貫徹され 保守反動の国際体制が生まれました。(ウイーン体制) ウェストファリア条約・・・・・1648年10月、ドイツのウェストファリア地方のオスナブリュックで結ばれ た三十年戦争の講和条約でその主な内容は (1)フランスはメッツ・トゥール・ヴェルダン3市、アルザスの大部分、ライン川左岸 を獲得、スウェーデンは西ポンメルン・ブレーメンなどを獲得して、ドイツ帝国 議会の一員となる (2)ドイツの領邦君主はその領土に完全な主権を確立する (3)スイスとオランダの独立が正式に承認される (4)ドイツ内ではアウグスブルグの宗教和議が再確認された上、カルヴァン派も承 認される などです エムス電報事件・・・・・ドイツのエムスに滞在中のプロイセン国王をフランス大使が訪れ、将来プロイセ ンの王族を再びスペイン王位候補者にしないよう文書で約束すること求めました。 国王はこれを断り、このことをビスマルクに電報で知らせましたが、ビスマルクはこれ に手を加え、フランス大使が王を脅迫したかのように公表したので国民は怒り、普仏戦 争のきっかけになろました。 王安石の改革・・・・・王安石の新法とも言われ次のような政策を実施しました。 ・青苗法(農民に低い利率で資金を貸す法) ・市易法(中小の商人に低い利率で資金を貸す法)    ・均輸法(物価を調整し大商人の暴利を防ぐ法) ・募役方(国家に対する強制労働を免除する代わりに、貧富に応じて徴税し、国が 失業者を雇用する法) ・保甲法(民間の成年男子に軍事訓練をほどこす法) ・保馬法(民間に軍馬の飼養をさせる法) オリエント文明・・・・・古代オリエント地方に成立した文明で、地中海沿岸からインダス川にいたるエジ プト・メソポタミア・シリア・パレスチナ・小アジア・イランを含めた古代文明世界で、 前1000年紀までに成立し、アレクサンドロス大王のアケメネス朝征服(前330)までつ づきました。 カ 行 外戚と宦官・・・・・外戚とは皇后、皇太后の一族で新の王莽は元帝の外戚、日本では藤原氏が代々天皇家の 外戚となりました。 宦官とは去勢された男子が後宮(后妃が住む宮殿奥の御殿)に役人として仕えたもので 後漢の最盛期には3千人もの宦官がいたと言われます。 皇帝がまだ幼い時は外戚が政治の実権を握りましたが、皇帝が成長すると外戚から政 治の実権を奪い返すため、そば近くに仕える宦官の力を借りるようになり宦官と外戚 は互に対立、豪族と結んで勢力争いを繰り返しました。 価格革命・・・・・アメリカ大陸・新航路の開拓の結果、スペイン領となったメキシコやペルーに銀山が発見 され、大量の銀がヨーロッパに流入して物価が騰貴して定額地代に頼る封建領主を没落 させ、国王による中央集権化をおし進めることになりました。 カースト制度・・・・・アーリア人が肌の黒い原住民を征服する中で、肌の色によって人を差別する考えが 生まれました。それが親から子へと長い間伝えられていく中で成立したのがインド固有 の身分制度=カースト制度です。 アーリア人は           @バラモン(神々をまつる神官)           Aクシャトリア(王や武人)       Bバイシャ(農民や商工業者) に分かれ征服された先住民はシュードラ(奴隷)として差別されました。 やがて時代が進むにつれて各カーストの内部には同じ職業の集団などが出来、カース ト制度はますます細かく分かれ、現在では2000〜3000の階層に分かれています。 カノッサ事件・・・・・「カノッサの屈辱」として知られる事件です。 1075年ローマ教皇が皇帝ハインリヒ四世の聖職叙任権を決議、それに反抗した皇帝に 対して教皇は破門を宣告しました。臣下や諸侯に見捨てられた皇帝は北イタリアのカノ ッサ城に滞在中の教皇に赦しを請い雪の城門で三日間裸足のまま祈りと断食を続け、や っと破門を解かれました。 カルボナリ・・・・・・・・カルボナリとは「炭焼き」の意味で1806年頃イタリアの統一を目指して結成された秘 密結社で山中で炭焼き人などに変装して活動したのでカルボナリ(炭焼き党)と呼ばれ ました。1820年ナポリで革命を起こしましたが、オーストリア軍の出動によって失敗し ました。 カ リ フ・・・・・・・・カリフとはアラビア語で「後継者」の意味でイスラム教団の政治・軍事の両権を握りま した。 661年ウマイヤ朝がおこるまでの間に4人のカリフが選ばれましたが、これを正統カリ フといいます。 宮 宰(きゅうさい)・・・・・・・・もともとは王家の召使を管理する役職でしたが、次第に国政の面でも権力を 持つようになりフランク王国の最高職となり、王の代表としての権力をふるうになりま した。 義和団(ぎわだん)・・・・・・・・義和団というのは世直しを求める白蓮教という仏教の一派を信仰し義和拳と いう武術を習う人々の集団です。 義和団はキリスト教や外国の侵略に反対し、まづドイツに侵略されていた山東省で立 ち上がり教会や鉄道を破壊しながら1900年6月には20万の大勢力となって北京に入り 各国公使館包囲しました。 金印勅書・・・・・・1356年に神聖ローマ帝国皇帝カール四世が発布した皇帝選挙の手続きを規定した勅令で、 文書の印章に黄金が使用されていることから黄金文書とも言います。 皇帝は7人の選挙候が選ぶことになりましたが、その権威は皇帝をしのぎ裁判権や貨幣 鋳造権などの特権も認められたため神聖ローマ帝国は諸侯が力を強めました。 均 田 制・・・・・・・・土地を農民に与え、その代わりに税金や労務を提供させる制度で五世紀後半北魏の孝 文帝が始め、北朝の諸王朝に引き継がれ隋・唐を経て八世紀後半まで続きました。 日本の班田収受法は唐の均田法にならったものです。 クルド人・・・・・・大多数はイスラム教スンナ派で、今日に至る迄自ら民族国家を形成することは出来ず、 トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメリアなど多くの国に分かれて生活しています。 居住するいずれの国でも少数民族の地位にあり、民族的権利を求める強硬な民族運 動を展開、91年の湾岸戦争後はイラクのフセイン大統領もクルド人の蜂起を弾圧、ク ルド人問題は中東地域の大きな不安定要因となっています。 郡 国 制・・・・・・漢の高祖劉邦は秦の急激な中央集権化の失敗を見て都の長安を中心とする地域は直轄 地として郡県制を行い、官吏を派遣して支配しましたが東方などの遠隔地には劉氏一族 や功臣を諸侯として領土を与える封建制(位を授け領国を与える代わりに貢物を納め、 戦には軍を率いて戦う義務を負う)を採用しました。 軍 閥・・・・・・…私的な軍隊を持つ地方的な支配者のことで、各地の軍閥は弱体な革命勢力を押しのけて、 地方を支配し、帝国主義列強と結んで支援を受け十数年にわたって互に混戦を繰り返し 、中国は分裂状態に陥っていきました。 ゲディスバーグ・・・アメリカのワシントン市北西部約100キロにある小さな村で南北戦争最大の激戦地。 1863年7月名将リーに率いられた南軍約7万5千と北軍8万数千が激突、3日間の死闘の末 北軍が南軍を撃退、北軍の勝利を決定づけました。この激戦で、両軍合わせて4万5千の死 者を出したといわれます。それから4ヵ月後、当地を国立墓地にする式典で、リンカーン          が「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な演説を行ないました。 ゲルマン人・・・・・・バルト海沿岸やユトランド半島の森林・沼沢地帯を原住地としていましたが次第に南下 して先住民のケルト人を駆逐して紀元前後にはライン・ドナウの両河を境にローマ帝国 と接触するようになりました。気候の変動による375年のフン族の西進をきっかけに民族 大移動を始めヨーロッパ各国に侵入して建国、こうした中で西ローマ帝国は滅亡、新しい 中世ヨーロッパが生まれていきました。 権利の章典・・・・・・イギリスの名誉革命の際に新国王ウィリアム3世・女王メアリ2世が承認した「権利の宣 言」を法令化して国王の名で発布したもの。 この法によって王は立法、行政、司法、課税のすべての面で議会の承認を必要とするこ とが確認されイギリスに於いては議会が王権より優位にたつことが明らかになりまし た。 元 老 院・・・・・・古代ローマでは建国当初から存在していたと言われ王政時代には氏族の長老によって 構成されていたようです。 共和政の下でははじめ貴族だけで構成されていましたが、次第に平民にもその門が開 かれました。 最上級身分の終身議員によって構成されたためその権威は高く、国政運営に当たって は実際上の中心機関となりその議決(元老院議決)は法と同じ効力を有しました。 黄巾の乱(184〜192)・・・・・後漢末期の184年張角兄弟が民間で流行していた太平道という秘密宗教で農民 を組織化しておこした反乱です。 この反乱は参加した人々が黄色の布で頭を結んだことから黄巾の乱と呼ばれ、この乱 を契機に各地の豪族が自立して後漢は滅亡へと歩みます。 紅巾の乱・・・・・・元末期の1351年白蓮教徒などが起こした反乱で紅い頭巾を目印としたのでこの名があ ります。 白蓮教主の韓山童とその子、韓林児を中心とする白蓮教徒が黄河・准水下流で反乱をお こし、元の上都を攻略しましたが、元軍反撃にあい分裂しました。 元はこの乱をきっかけに内乱状態となり、紅巾軍の武将だった朱元璋(洪武帝)は1366年 韓林児を暗殺し1368年明を建国しました。 甲骨文字・・・・・・殷代の王たちは亀の甲や牛の骨をあぶりそこから出来たひび割れの形によって神の意 志を読み取りましたが、占いに使った亀甲や獣骨には占った日時や占った事柄などが彫 り込まれました。 1899年甲骨文字の刻まれた骨片が大量に発見されましたが、今日知られる最古の漢字 とされています。(画像はこちら) 黄巣の乱(875〜884)・・・・・唐は塩を国の専売としていましたが、塩の密売に対する取締りを強化したこと から密売商人の黄巣が仲間の王仙芝とともに挙兵すると重税に苦しむ民衆が次々と参加 して大きな民衆の反乱となりました。 公民権運動・・・・・1964年の公民法成立に至る黒人の人種差別撤廃と権利を求める運動で、中心的指導者は M.L.キング。 五賢帝・・・・・帝政ローマの全盛期(96〜180)に国を治めた5人の皇帝で、ネルヴァ・トラヤヌス・ハドリアヌ ス・アントニヌス=ピウス・マルクス=アウレリゥス=アントニヌスをさします。有能な 貴族を生前から後継者に指名して事業を引き継ぎ、名君が輩出して、帝国民は「バックス -ロマーナローマの平和)」を楽しみましたが、末期には次の軍人皇帝時代の芽が成長し始 めていました 五胡十六国時代(304〜439)・・・・・中国北部を中心に五胡が侵入し十六国が興亡した農耕民族と遊牧民族 が争った時代です。 五胡とはこの時代に中国に侵入してきた匈奴、羯(匈奴の一派)、鮮卑、、羌の五つの民族 のことで胡とは中国地方の異民族をさす言葉です。 国共合作・・・・・中国国民党と中国共産党の提携によって統一を図る政策で、1924年の第一回中国国民 党全国大会で国民党と共産党が協力体制をとることが決まり、新しい方針として連ソ (国際面でのソ連との協調)、容共(共産党の受け入れ)、扶助工農(労働者、農民への援助) を決めました。 呉楚七国の乱・・・・・漢の高祖による封建制で土地を与えられた地方の諸侯は次第に勢力を強めたため、 中央政府は諸侯を抑制する政策を推進しました。その結果BC154年呉王を中心とする劉 氏一族の7人の諸侯が反乱をおこしましたが、僅か3ヶ月で鎮圧され、諸侯は都に移され諸 国には中央から官吏が任命されるなどして諸侯の力は弱められることになりました。 サ 行 彩陶文化と黒陶文化・・・・・彩陶文化は淡紅色の地肌に赤・白・黒などで文様を描いた土器を持つ文化で 、河南省仰韶村で発見されたことから仰韶文化ともいいます。 黒陶文化は卵の殻のように薄手の黒色無地の光沢ある土器を持つ文化で彩陶文化より は一段進んだ段階の文化とされています。(画像はこちら) サン・ステファノ条約・・・・・・・1878年3月、イスタンブール西部のサン・ステファノで締結されたロシア ・トルコ戦争の講和条約。 モンテネグロ、セルビア、ルーマニアがオスマン帝国から独立してブルガリアは事実上 ロシアの保護国となりました。 イギリス、オーストリアはこれに反対してビスマルクの調停によりベルリン会議で大 幅に修正されロシアの主張は縮小されました。 三 長 制・・・・・・・北魏の孝文帝が制定した村落の統制機構で五家を一隣として隣長を、五隣を一里とし て里長を、五里を一党として党長を設け、各長は労役を免除され戸口徴税、均田制の実施 などを担当、豪族の支配下にあった人民を直接把握することにしました。 サン・バルテルミの虐殺・・・・・1572年8月、聖(サン)バルテルミの祭日に、新教徒(ユグノー)がパリで 大量虐殺された事件で、フランスの幼王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシス は、旧教徒の首領ギーズ公アンリと結んでコリニー提督など新教徒数千人を虐殺し、こ のためユグノー戦争はさらに悪化しました。 三藩の乱 ・・・・・・・三藩とは雲南の平西王呉三桂、広東の平南王尚可喜と子の尚之信、福建の靖南王耿 継茂と子の耿精忠のことで、彼らは明から降伏した漢人武将で清の統一に活躍、それぞれ 王にとり立てられて直属軍団を持ちましたが、やがて清にとって脅威となったため、康熙 帝は三藩の取り潰しを図ったため三藩は反乱をおこしましたが結局、鎮圧されました。 三 部 会・・・・・・・聖職者・貴族・平民の三身分の代表で構成され1302年に教皇ポニファティウス八世と 抗争中のフィリップ四世がパリに招集したのがはじまりで、現在の議会と違って国王 が特別な税を課したり、特別な事柄を相談するためにその都度開いたもので、法律をつ くる権限はありませんでした。 三部会は国王の力が強まったために1614年を最後に中断、1789年フランス革命の直前 に再開されるまで開かれませんでした。 三民主議・・・・・・・孫文が提唱した中国革命の指導理論で民族主義(民族の独立)、民権主義(人民主権の 実現)、民生主義(土地や資本の集中を制限するなど経済上の平等の実現)からなります。 シーア派とスンニ派・・・・・シーア派とはシーアッド‐アリー(アリーの一党)の意味でムハンマドの 甥であり、娘婿である4代目カリフのアリーとその子孫をムハンマドの正統後継者と主張 しました。 スンナ派(スンニー派)とはムスリム共同体に伝えられた範例に従う者という意味で、 4人の正統カリフと第4代アリーを倒してカリフ権を握ったウマイヤ朝の正当性を認め、 全イスラム教徒の9割を占める絶対多数派です。 2005年1月のイラク議会選挙ではシーア派が勝利を収めました。 色 目 人・・・・・色目人とは諸色目人(いろいろな種族の人)という意味で、イスラム教徒の商人を中心 とする内陸アジアの諸民族でモンゴル人についで優遇され、元の政治・経済の分野で活 躍しました。 旧金朝支配下の華北の住民は漢人と呼ばれ、旧南宋支配下の江南の住民は南人と呼ば れ漢人よりは上とされましたが、彼らは人口では圧倒的多数を占めるなかで冷遇されま した。 シオニズム運動・・・・・紀元前1千年頃、イスラエルの理想の王とされるダヴィデが居城を構えたという イエルサレム付近のシオンの丘の名にちなみ、パレスティナにユダヤ人国家を建設しよ うという運動で、反ユダヤ運動に刺激されて1897年ヘルツェルがシオニスト団を結成し て世界に広げました。 1948年のイスラエル共和国の成立で一応目的を達しましたが、アラブの民族主義を刺 激し、パレスティナ戦争を経て1967年、73年の中東戦争に発展しました。 七 王 国・・・・・アングロ=サクソン族の七つの王国のことで部族国家として六世紀半ば頃から九世紀 前半にかけて勢力をはったサセックス、ケント、イースト=アングリア、エセックス、ノ ーサンブリア、マーシア、ウエセックスの七小国ですが829年ウエセックス王により統合 されました。 七年戦争・・・・オーストリア継承戦争の結果、シュレジェン(シレジア)をプロイセンのフリードリッヒ 2世に奪われたオーストリア=ハプスブルグ家のマリア・テレジアがその回復を図るため に仕掛けた戦争で、1756年から63年までオーストリアとプロイセンの間に行なわれまし た。 フランス・ロシア・スウェーデン・ザクセンなどがオーストリアに、イギリスがプロイセ ンに味方し、同時にイギリス・フランスはインド・北アメリカで戦いました。 オーストリアは200年来常に対立していたフランスのブルボン朝に接近し(外交革命) 、一方インド・北アメリカでフランスと植民地抗争を続けてきたイギリスはプロイセンと 同盟しました。そこでオーストリアとフランスの間に攻守同盟が成立し、プロイセンの台 頭を喜ばないロシアもオーストラリアと同盟して、複雑な国際戦争となりました。1763年 のフベルトゥスブルク条約でプロイセンがシュレジェンを確保、またこの戦争と平行し て行なわれた北米植民地でのフレンチーインディアン戦争、インドのカーナティック戦争 ・プラッシーの戦いでフランスに勝ったイギリスは植民地帝国として圧倒的優位を確定 しました。 氏族社会・・・・・氏族を構成原理とする原始共同的な社会のことです。 氏族とは父系または母系を通じてその出身を同じくする人々が、同祖観念によって広 く結合した血縁的集団のことです。 氏族社会はほぼ新石器時代に始まり、現在の未開民族にも見られます。氏族運営の主体 は成年男子(女子を含む場合もあります)が平等な権利をもって構成する氏族会議であ り、ここで首長の選出・罷免その他共同体に重要事項が決定されました。言語・習俗の同 じ氏族が結合して部族が形成され、生産力が高まって首長の権力が強大化すると、氏族 社会は崩壊し始めました。 ジハード(聖戦)・・・・・イスラム教を守り、広めるための戦いで「聖戦」と言われます。 本来の意味は「(神のために)奮闘努力すること」ですが古くから「異教徒に対する戦争」 と解釈されてきました。イスラム法ではムスリム共同体に課せられた宗教的義務ですが 戦死しても殉教とされるため、兵士の士気は高くアラブ軍の強さの秘密とされています。 四分統治(しぶんとうち)・・・・・全領域を4分し、2人の正帝と2人の副帝で分担統治することで、ディオク        レティアヌス帝(在位284〜305)はまず286年に帝国を東西に2分して自らは東方を直接支        配し、続いて293年2人の正帝と2人の副帝を置いて分割統治させました。これは帝国統治        の充実と辺境防衛への迅速な対応を目的とするものでしたが、同帝の死後この形態は消        滅しました。 審 査 法・・・・・・・1673年、イギリスで国教徒以外の者、特に旧教徒の公職就任を禁じた法令で、議会が チャールズ2世の旧教徒保護政策に反対して成立させました。 1828年に廃止され、翌年カトリック教徒開放法が可決され旧教徒の公職就任が認めら れました。 神聖ローマ帝国・・・・・ドイツ人の手による古代ローマ帝国の復活を意味し、ローマカトリック教会と の結合によって「神聖」という意味を持ちます。 962年ドイツ王ザクセン朝のオットー一世が北イタリアに遠征して、ローマ教皇ヨハネ ス二世から帝冠を授けられたことから始まりますが、この名称が正式に登場するのは13 世紀になってからです。 オットー一世の帝国は教会を王権の支柱の一つと考え、その目的のために教会を支配し 、高級聖職者を自由に任命しようとしました。これを帝国教会政策といい、この政策と絡 みあって成立した特殊性があるところが、カール大帝の帝国と違うところです。 人民戦線・・・・・1933年ヒトラーのナチス政権以来ファシズムの脅威が深刻化し、これに対抗するため に労働者階級を中心に、農民、小市民、知識階級で広範な共同戦線が結集されました。 1935年にまづフランスに成立し、36年スペインおよびフランスで政権を担当しました が、スペインでは間もなくフランコに代表されるファシズム勢力に打倒されました。       新約聖書・・・・・礼拝のときにイエスの言葉やその解釈、使徒の証言や書簡が語られたり読まれたりし ていましたが、次第に文書にまとめられキリスト教の教典となりました。キリストの言 行と受難を記した4つの「福音書」、初代の使徒たちの宣教活動を述べた「使徒のはたら き」、パウロらの使徒が各地の教会などにあてた教えを説いた書簡などからなっいます。 これにたいして旧約聖書はユダヤ教の教典として成立したもので、のちキリストの準 備の書としてキリスト教の教典にもなりましたが、イスラエル民の歴史を記した創世記 をはじめとする「律法」、預言者(神から預けられた言葉を人々に示す者)の言葉を記録し た「予言書」、その他の「諸書」からなります。 ジュネーブ休戦協定・・・・・1954年7月ジュネーブ会議で成立したインドネシア戦争の休戦協定。 ヴェトナム、ラオス、カンボジアとの3協定と13の最終宣言が成立。北緯17度線を停戦ラ インとし1956年7月に南北ヴェトナムの統一選挙を行なうこと、会議参加9ヶ国は3国に 対して内政干渉を行なわないことを決めました。宣言は3国の平和、独立、領土の統一、保 全を約束しましたが、アメリカ、南ヴェトナム政府は加わらず南北分断化を図りました。 シュメール人・・・・・古代メソポタミア南部に世界最古の都市文明を作った民族ですがメソポタミアの 原住民ではなく、おそらくBC3500年前後に來住したと考えられ人種、原住地、來住経緯 等はよく分かっていません。 シュメール人はBC3000年頃には楔形文字の原形である絵文字を発明して文明の基礎 を築きました。 ステンカ・ラージンの乱・・・・・ロマノフ王朝に生活を圧迫された農民はステンカ・ラージンを首領とし て1667年反乱をおこして皇帝、教会、商人の船を襲い奴隷を解放しましたが1671年鎮圧 され、ステンカ・ラージンは処刑されました。 しかし彼の名は伝説、民謡に残り、英雄として民衆の間に長く伝えられました。 聖像禁止令・・・・・聖像とはキリスト教や聖者の画像や彫像のことで、元来キリスト教では偶像崇拝を禁 止していましたが、異教徒への布教の必要からローマ教会は聖像の使用を認めました。 一方ビサンツ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、726年皇帝レオ ン三世は聖像禁止令を出し、その結果ローマ教会はローマ教会はビサンツ皇帝に代わる 政治勢力を新たに求めるようになりました。 セム系諸族・・・・・旧約聖書創世記に記されているノアの子セムの子孫と伝えられる民族で、古代バビロ ニア語・アッシリア語・アラビア語・ヘブライ語・フェニキア語・アラム語・カナーン語など を使う民族がこれに属します。 原セム民族の原住地は立証されていませんが北アラビアと考えられています。 千戸制・・・・・チンギス=ハンが旧来の氏族制に代わる軍事・行政の基礎として組織したもので、支配下の 遊牧民族を95の千戸集団に分け、それを百戸・十戸の単位に区分してそれぞれの長には一族 や功臣をあてました。 千戸の数は帝国の拡大によって増大し、帝国の集権化に貢献しました。 タ 行 大躍進運動・・・・・中華人民共和国の第2次五ヵ年計画(1958〜62)で目標とされた工業・農業の飛躍的 発展を目指す政策、スローガンで人民公社を中心に中国型共産主義社会の建設を目指し ましたが、1959年からの自然災害、ソ連の技術協定破棄、無理な計画が重なり、経済は混 乱し、1500〜2000万におよぶ餓死者を出し失敗し、劉少奇らが経済の調整政策をとるこ とになりました。 大陸会議・・・・・アメリカの独立戦争を指導した13植民地の代表者会議のことで、第一回は1774年、ジョー ジアを除くアメリカ植民地の代表がイギリス本国の圧制に対し、フィラデルフィアで協 議会を開きました。この会議では、植民地人の権利を主張する「権利の宣言」を発布し、イ ギリス本国に対する「通商断絶同盟」の結成を採択しました。 翌1775年の第二回会議でワシントンを総司令官に任命し、76年にはアメリカ独立宣言を 採択。1781年アメリカ連合規約が成立して、それにもとづく連合会議がこれに代わるまで 存続しました。 大陸封鎖令・・・・・ナポレオン1世がイギリス経済を封鎖するためにベルリンで発した勅令でベルリン勅 令ともいいます。 1806年大陸諸国に対して対英貿易の禁止、イギリス人の逮捕と財産没収、イギリス本国・ 植民地産商品の没収を命じ、翌年のミラノ勅令でイギリスの商港に出入りする船舶の没 収を宣言しました。 この勅令によりナポレオンはフランス商品による大陸の独占的支配を図りましたが、こ れに従った大陸諸国が経済的に窮迫してナポレオンに反発したことで失敗、失脚の原因 となりました。 チェチェン紛争・・・・・チェチェン人はもともとはカフカス北部で生活する遊牧山岳民族で、その大多数 はイスラム教スンニ派に属していましたが19世紀にロシアに征服され、ソ連時代には他 の少数民族とともにチェチェン自治共和国を形成しました。1991年に同共和国は独立を 宣言しました。 同国をロシア連邦の一部ともなすロシア政府は軍隊を送って独立を阻 止しようとしましたが、武装独立派はテロや戦闘を繰り返し2002年にはモスクワの劇場 を占拠して、結果的に多くの人質を死亡させ、2004年には北オセチア共和国のベスラン学 校で186人の児童を含む330人の人命が失われた学校占拠事件が発生しました。 中ソ友好同盟相互援助条約・・・・・1950年2月、中華人民共和国とソ連がモスクワで結んだ条約で中華人 民共和国の成立により、1945年結んだ中ソ友好同盟条約を中国側に有利に改定、帝国主 義侵略の共同防止を目的に対日条項が強化され長春鉄道、旅順、大連の中国返還、3億ド ルの中国への借款供与などを決め1979年に破棄されるまで続きました。 陣勝・呉広の乱・・・・・陣勝はもと日雇いで生計を立てていた貧しい農民で北辺を守る兵士として徴発さ れていましたが、呉広らとともに反乱をおこし秦の拠点を次々と攻略し秦の圧制に苦しむ 農民の支持を得て勢力を拡大、秦軍の圧力や内部の離反で僅か6ヶ月で鎮圧されたものの 秦国滅亡のきっかけになった事件です。 天安門事件 第一次・・・・・1976年4月、北京の天安門広場に集まった民衆が公安当局と衝突し、武力鎮圧 された事件で1976年1月に死去した周恩来追悼のために、民衆が天安門広場の 人民英雄記念碑に花輪をささげたところ、これを北京市当局が撤去したため 怒った民衆が決起しましたが、鎮圧されました。事件後責任を問われたケ小平 が失脚しました。 第二次・・・・・1989年6月、民主化を要求し、北京の天安門広場で座り込みを続ける学生や市民 を政府が武力で弾圧した事件で胡耀邦元総書記追悼から始まった学生運動は 市民や知識人が加わることで大きな運動に発展、中国政府は戒厳令を布告して 人民解放軍を動員して武力弾圧を行ないました。事件後趙紫陽総書記が暴動を 支持したとして、最高実力者であるケ小平により解任され、新書記に江沢民が    選出されましたが、この事件は国際的な非難を浴び、西側諸国は中国に対する 経済制裁を行いました。 天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど)・・・・・清末期の1853年、太平天国が南京を占領した直後に制定 したもので男女平等に等しく土地を分配し、私有財産を認めず、貧富の差のない理想社会 を実現しようとしたものでしたが実際には一度も実施されませんでした。 都市国家・・・・・紀元前3000年頃、余剰生産物の農業や牧畜に直接従事しない神官、戦士、職人、商人などが 増え大きな集落は都市に発展しました。各都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には守護神 を祀る神殿を設け、最高の神官を兼ねた王が神の名の下で政治を行いました。 統 一 法・・・・・四回にわたって議会で制定されたイギリス国教会の祈祷・礼拝儀式を統一した法律で15 49年と52年のエドワード六世の発布後、59年エリザベス一世により再公布され、王政復古 後の1662年チャールズ二世が復活しました。 宗教改革による宗派の対立を抑えて王権の強化と国家の統一を図ろうとしたものです。 独ソ不可侵条約・・・・・第一次世界大戦の直前の1939年、ナチス・ドイツとソ連の間に結ばれた条約で、 反ファシズムの総本山として期待されたソ連のスターリンがヒトラーと手を握ったこ とは世界を驚かせました。 イギリス、フランスへの不信をもつソ連とイギリスやフランスとの戦争と同時に戦う ことを避けようとするドイツの利害が一致して結ばれたもので、互に相手国を侵略し ないこと、一方が他の国から攻撃を受けた時は、もう一方は中立を保つことを定めまし たが、秘密付属議定書がついていて、ポーランドを独・ソ間で分割支配するとともに東 ヨーロッパに於ける両国の勢力圏を定めていました。 独立国家共同体(CIS)・・・・・1991年12月ウクライナ、ロシア、ベラルーシのスラブ系三共和国が創設、 旧ソ連構成国のうちバルト三国、グルジアを除く11ヶ国が参加。連邦制をやめてゆるや かな主権国家の連合体を目指しました。この発足を受けてゴルバチョフ大統領が辞任 してソ連が消滅。各共和国の相互関係には強弱があり、経済混乱が一層進む中、核兵器 の管理や民族間の調整など多くの問題が残りました。 独立宣言・・・・・・アメリカの独立に際し、トマス・ジェファソンが起草し大陸会議で採択されました。 (部分) われわれは自明の真理としてすべての人間は平等につくられ、造物主に よって一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および 幸福追求が含まれていること。 ナ 行 ナショナリズム・・・・・自らの民族的立場を強調する主義で19世紀ヨーロッパではドイツ・イタリア、 続いて東ヨーロッパ諸国が、統一された国民国家(民族国家)を形成するスローガンと して用いられたものは国民主義と訳されます。 19世紀末から唱えられたナショナリズムは自国家の発展のためには、他国・多民族への 侵略をも辞さない政策がとられましたが、この場合は国家主義と訳されます。 20世紀に入ると、ドイツ・イタリア・日本などでは自国の勢力拡大を求めるあまり、狂信 的となり、スーパーナショナリズム(超国家主義)といわれました。 第一次大戦後になると帝国主義諸国家の植民地となっていた開放、独立を求めて戦う ようになり、この場合は民族主義と訳されます。 ナロードニキ・・・・・・1870〜80年代、ロシアの青年知識人たちは産業革命以後の西ヨーロッパ社会を批 判し、ロシア固有の農民共同体(ミール)を基盤に、ロシアを社会主義社会に変えようとし て農民の啓蒙運動を行いました。 数千人の青年たちが「ブ・ナロード」(人民の中へ)をスローガンに農村に入って行きまし たが、一部を除き農民の理解を得られず政府の弾圧により失敗に終わりました。 ナントの勅令・・・・・1598年、フランス王アンリ4世がユグノー戦争を終結させるために発した勅令で、ナ ントはロアール川河口の都市です。 これによってユグノーに大幅な信仰の自由や、教育・公職の権利を認め、アウグスブルグ の宗教和議よりも一歩進んだものでしたが、これで宗教上の紛争が完全に終わったわけで はなく、カトリック教徒の優越権も依然として残されました。1685年ルイ14世がこれを廃 止し、再びユグノーは弾圧されるようになります。 日ソ中立条約・・・・・1941年4月、日本とソ連との間に結ばれた中立条約で、ソ連は日本とドイツの両面戦 争を避けるため、日本は南方への進出を固めるためにこの条約を締結。有効期間は5年で 相互不可侵や一方が第三国と交戦した場合の他方の中立を定めました。 ヤルタ会談で連合国に対日参戦を約したソ連は1945年4月条約の不延長を通告し、8月こ れを破棄して対日宣戦を布告、満州に侵攻しました。 ニューディール政策・・・・・アメリカ大統領ルーズヴェルトが大恐慌からアメリカ経済を救うために 実施した一連の政策で、主なものは次の通りです。 @農業調整法〜過剰生産に陥った農作物の作付面積を制限したり、農作物を政府が 買い上げ、価格の安定化を図るもの A全国産業復興法〜企業間の競争を制限するために生産の制限や価格の調整を行な うとともに労働者の賃金を引き上げ、購買力を高めようとしたもの Bテネシー渓谷開発公社(TVA)の設立〜テネシー川流域に大きなダムを築くことに より、開発や失業救済を図るもの 農奴解放令(ロシア)・・・・・クリミア戦争の敗北によって近代化の必要を感じたアレクサンドル2世が 1861年、農奴解放令を出して農民は人格的自由を与えられ、土地を分与されることになり ましたが、土地の入手は土地賠償法によって多額の資金を必要としたので農奴解放は極 めて不徹底に終わり、農奴は20世紀まで残りました。 農 奴 制・・・・・・領主が軍事力や政治権力によって農民の自由を奪い、高い地代を課する体制で農奴は移 転の自由も無く土地とともに売買譲渡されました。奴隷とは財産を所持し家族を構成して いる点が違います。 ノルマン人・・・・・ノルマンとは「北方の人」という意味で、北ヨーロッパに住んでいたゲルマン諸部族の 総称です。またフィヨルドという入り江で生活していたので「入り江の民」という意味でヴ ァイキングとも呼ばれました。 ノリマン人は人口増加による土地不足のため、海賊や略奪などを行い、九世紀以降「第二 次民族大移動」により、ヨーロッパの各地に移住して国を建て各地に混乱を起こしました。 ハ 行 バラ戦争・・・・・・百年戦争終結後の1455年におこり、散発的に85年まで行なわれたイギリスのランカスタ ー家とヨーク家を中心とした王位継承をめぐる内乱で、ヨーク家が白いばら、ランカスター 家が赤いばらの紋章をつけて戦ったのでこの名があります。 1485年ボスワースの対戦でヨーク側が破れ、戦争が終わりランカスター家のヘンリ七世が 即位してチューダー朝が成立しました。 バラモン教・・・・・アーリア人は自然現象を神とした多数の神々を信仰しており、祭壇を設けて聖火を焚 き、いけにえとして動物、乳製品、穀物などを供えてこれらの神を祭りました。 インド最古の文献「リグ=ヴェーダ」は神々への賛歌を集めたものでBC1000年までに成 立、その後に出来た三つのヴェーダとともにバラモン教の経典となりました。バラモン教 はのちインド先住民の信仰、習俗などと融合してヒンドゥー教として発展しました。 バルフォア宣言・・・・・第一次世界大戦中の1917年11月、イギリス外相のバルフォアがユダヤ人の財政的 協力を得る必要から発した宣言でパレスチナにユダヤ民族の民族的ホームの建設を認め、 その目的達成のために努力する約束する書簡を、シオニスト連盟会長におくるという形で 行なわれました。しかし他方でフサイン-マクマホン協定(1915)によりアラブ民族の独立 を承認していたため、アラブ・ユダヤ両民族のパレスチナ獲得をめぐる紛争を引き起こす 原因となりました。 パレスチナ解放機構(PLO)・・・・・・イスラエルによって奪われたパレスチナ人の権利、財産を取り戻すこ とを目的に1964年、170万人のパレスチナ難民によって結成され、武装ゲリラ闘争も展開し ました。 アラファト議長の指導で組織を充実させましたが、1982年イスラエル軍に包囲され各地に 分散、2004年アラファト議長死亡によりアッバスが議長に就任しました。 藩 王 国・・・・・・イギリス統治下のインド帝国に散在した半独立国の王侯(諸侯)領地で大小550を超え、 形の上では独立を保っていましたが、イギリスはそれぞれの国と軍事的諸条約を結び、軍 隊と政治顧問を各国に駐在させ軍事と政治の権力を握り、外交権も奪いました。 パン・ゲルマン主義・・・・・ドイツ民族至上主義の立場からドイツ帝国の下に中部ヨーロッパのドイツ民 族を統合し、ドイツの政治的、経済的支配を世界的に発展させようとする主張。 パン・スラブ主義・・・・・ロシアを中心とするスラブ系諸民族の文化的、政治的統一を図る思想とその運 動で、ロシアの帝国主義的世界政策の手段として利用され、パン・ゲルマン主義と対立、第 一次世界大戦勃発の一因ともなりました。 ヒクソス・・・・・シリア地方に住んでいたフリル人、セム人などの混成民族といわれる遊牧民で、馬と戦車 をもってシリアから中王国末期のエジプトに侵入しましたが、テーベの第十八期王朝によ りエジプトから駆逐されました。 ビサンツ帝国・・・・・広い意味ではコンスタンティヌス1一世が330年にビサンティウムに遷都してコンスタ ンティノープル(現イスタンンブル)と改称したのちヨーロッパ東部に発展したローマ帝国の ことで、狭い意味では395年にローマ帝国が東西に分かれてからギリシァ化の強まるヘラクレ イオス朝(在位610〜641)までを東ローマ帝国、それ以後をビサンツ帝国といいます。 ヒジュラ・・・・・ムハンマドは富の独占を批判し、神による「最後の審判」が近 いことを説いたため、メッカ の商人から迫害を受け622年にメディナに移住して、ここにイスラム教徒(ムスリム)の共同 体(ウンマ)を建設しました。これを聖遷(ヒジュラ)と云い、この年がイスラム暦紀元々年と なりました。 ピューリタン(清教徒)・・・・・ローマ教会と絶縁し、聖書に基づく信仰の清純さを求めたのでこの名があり ます。 イギリス国教会の儀式やスチュアート朝の教会支配に反対したため弾圧されてオランダに 亡命したリ、メイフラワー号でアメリカに渡りました。 ファシズム・・・・・第一次大戦後の資本主義の危機の中で生まれた国家主義的な独裁政治のことで「結束」 「団結」の意味を持ちます。 世界恐慌などに伴う資本主義の危機に乗じて国家主義、反資本主義、反共産主義、反自由 主義、議会制民主主義の否定を唱えました。 福音主義・・・・・新約聖書にある四福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによるキリスト伝)の教えに信仰の 基礎を求めること。 救済は神の恵みへの信仰によるという信仰説、教会の教えでなく聖書の言葉に立ち戻る聖 書主義、神と人との直接的関係を強調する万人祭司主義が特徴です。 ルター派、カルヴァン派、再洗礼派、メソジスト教会などはこの立場をとっています。 フサイン=マクマホン協定・・・・・アラブの独立に関して、第一次世界大戦中の1915年7月から16年1月ま で、アラブの指導者フサインとイギリスのカイロ駐在高等弁務官マクマホンとの間の往復 書簡によってできた協定でフサイン側はオスマン帝国への反乱を約束し、イギリス側は大 戦後の独立アラブ国家の樹立を約束しました(マクマホン宣言)。 しかしアラブ独立後の国境が不明確であり、またイギリスは他方でフランスにシリア領 有を認めるサイクス・ピコ協定を結び(1916)、1917年11月にはパレスチナにユダヤ人のコ ロニ−(国家)の設立を認めるというバルフォア宣言をしたことから、大戦後、問題は紛糾 しました。 腐敗選挙区・・・・・イギリスの産業革命により人口が減少して有権者数と議員数との間に大きな不均衡を 生じた選挙区で、例えば牧草地となったオールド・セーラムでは僅か7名の地主有権者が相 変らず2名の議員を選出していました。 府兵制と募兵制・・・・・府兵制は兵農一致の義務兵制で均田制の適用を受ける農民を農閑期に訓練をほど こして都の警備や防人として辺境の警備に当たらせましたが、農民にとって負担が重く、土 地を捨てて逃亡する農民も増え、唐朝末期には職業兵士を雇用する募兵制に移行しました。 ブラック・パワー運動・・・・・アメリカの急進的な黒人活動家によって起こされた黒人権力の樹立目指す 運動 ブルジョワジー・・・・・もともとは中世の都市の住民をいいましたが、産業革命以後は大工場を経営する 資本家を労働者階級(プロレタリアート)と対比して云うようになりました。 プロテスタント・・・・・16世紀始め、カトリック教会の改革を主張した人々によって成立した教派で、1529 年シュパイエルの国会でドイツ皇帝カール五世がルター派を禁止しましたが、ルター派の 諸侯や都市はこれに抗議(Protest)したのでこの名が生まれ以後、改革派(新教)一般にこの 名が用いられるようになりました。 文化大革命(文革)・・・・・1966年、毛沢東が「資本主義の道を歩む実権派打倒」のために発動し、76年まで 中国全土で展開された政治運動。劉少奇国家主席ら多くの指導者が失脚しただけでなく、知 識人ら多くの庶民が「紅衛兵」と呼ばれる青少年組織の迫害を受けたり、地方の農村に送ら れたりしました。各地の職場や学校でも政治集会が繰り返され、社会・経済活動が停滞しま した。 分割統治・・・・・共和政ローマは植民市に対して、ある都市に対しては投票権のみを欠くローマ市民権を与 え、他には投票権のある市民権を与え、あるいは同盟者の地位を与えるなど待遇に差別を設 けて、彼らによりよい地位を望ませて協力させました。 焚書(ふんしょ)・抗儒(こうじゅ)・・・・・秦の始皇帝は法家の李斯の意見によりBC213年医薬、占い、農 業技術以外の書物を焼かせ(焚書)、翌年儒家のうちに皇帝を謗るものがあったことで咸 陽に居住する儒家460人を生き埋めにしました(坑儒)。 フン族・・・・・・・・中央アジアの草原地帯に住んでいた遊牧騎馬民族で匈奴の一派ともいわれています。 375年その一部が黒海北岸を西に進み東ゴート族を討ち、西ゴート族を破ってゲルマン 民族大移動の原因をつくりました。 五世紀に入りアッティラの時全盛となりましたが、西ローマ帝国軍とゲルマン諸族の連 合軍にカタラウヌムの戦いで敗れ、ドナウ川流域に後退しました。ハンガリー(フンガリ ア)の名称の由来となりました。 アッティラの死後、内紛と支配下の民族の反乱により解体・滅亡しました。 ベルリン条約・・・・・ロシアとトルコの間で結ばれたサン・ステファノ条約がロシアの南下政策の成功を 示すものあったため、イギリス・オーストリアが強く反発し国際的な危機を招いたので ドイツのビスマルクが調停に入り成立したもので、その主な内容は @サン・ステファノ条約の破棄 Aルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立 Bオスマン帝国内の自治国となったブルガリアの領土縮小 Cボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権のオーストリアへの移譲 などでこれによってロシアの南下政策は再度挫折し、キプロス島を領有したイギリスが 地中海の覇権を確保しました。 ヘレニズム・・・・・ギリシァ人を意味するギリシァ語のヘレネス(Hellenes)が語源でギリシァ文化が、アレ クサンドル大王の東征を機に、オリエント文化と融合し、ポリス中心的なものから、世界的 ・普遍的なものとして展開したのがヘレニズム文化です。 ローマの文化もキリスト教文化もヘレニズム文化を受けついで発展したもので、ヨーロッ パ文化の源はヘレニズムとヘブライズム(キリスト教をユダ教からの伝統を含めて呼ぶい い方)であるといわれます。 ベンガル分割令・・・・・1905年にイギリスのインド総督カーゾンが発した法令でカーゾン法ともいいます。 民族運動の分断を図るためベンガル州をヒンドゥー教徒多住地域とイスラム教徒多 住地域の2州に分割しましたが、国民会議派を中心とする反英運動により1911年廃止 されました。 北虜南倭・・・・・北虜とは明代に北方から侵入したモンゴル人、南倭とは東南の海岸を荒らした倭寇のこと。 15世紀半ば以降、明は北方からのモンゴル系遊牧民(オイラート部、タタール部)の侵入 と南からの倭寇(海賊)の侵入に悩まされるようになりました。 ボストン茶会事件・・・・・1773年イギリス議会はイギリス東インド会社にアメリカのお茶の販売独占権 を与える茶法を定めましたが、これに怒った植民地ボストンの市民数十名がインデアン に変装してイギリス船に乗り込み、積んであったお茶を海に投げ込みました。 ホームステッド法・・・・南北戦争中の1862年にリンカーン大統領が制定した自営農地法で自作農創設 法とも呼ばれます。 共和党政権がミシシッピー川以西を開発するために立法したもので、5ヵ年間定住開拓 したものに160エーカーの土地を無償で与えることを規定しました。この法によって西 部開発や農民育成は進みましたが、投機に悪用された場合も少なくありませんでした。 またこれにより、西部の農民たちは北部を支援することになりました。 マ 行 マグナ=カルタ(大憲章)・・・・・1215年、ジョン王は貴族たちの要求をのみ、大憲章として発布しました。 内容は主に封建貴族の権利を保障、王の独裁に歯止めをかけようとしたものですが、法 の支配を明文化した点、イギリス立憲政治の基礎をなしたものとして評価されています。 マーシャルプラン・・・・・1947年、アメリカの国務長官マーシャルが提唱した「ヨーロッパ経済復興援助 計画」のことで、1948年援助受入機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が組織され 51年末までOEEC加盟16ヶ国に総額120億ドルの援助を行いました。東ヨーロッパ諸国は ソ連の圧力を受け不参加。西ヨーロッパ諸国は経済復興が進み、アメリカの影響力が増 大、冷戦の激化とともに軍事援助の色彩を帯びるようになりました。 ミュンヘン会談・・・・・1938年9月に開かれたズデーデン問題についてのドイツ、イギリス、イタリア、フ ランスの首脳会談でヒトラーの強硬な態度にドイツとの戦争を恐れるイギリス、フラン ス側の妥協的な宥和政策によりその後のナチス・ドイツの侵略を容易にし、第二次世界 大戦への道を開いたものとされます。 メソポタミア・・・・・古代ギリシャ語で「川の間の土地」という意味で現在のイラクを流れるユーフラテス 川とティグリス川に挟まれた地域です。BC3000年頃シュメール人が都市国家を築いて以 来、バビロニア・アッシリアなど多くの国家が興亡しました。 ヤ 行 ユトレヒト条約・・・・・1713年4月、オランダのユトレヒトでフランス、イギリス、オランダ、サヴォイ間で 結ばれたスペイン戦争終結のための講和条約でその主な内容は次の通りです。 (1)フランスとスペインが合同しないことを条件にフェリペ5世をスペイン王と認める   (2)イギリスはスペインからジブラルタルとミノルタ島を、フランスからニューファン ドランド・アカディア・ハドソン湾地方を得る (3)オランダはスペイン領ネーデルランドの数市を、サヴォイはシチリア島を得る (4)サヴォイとプロイセンは王号を許される ユンカー・・・・・農奴を使って土地経営を行なう地主・貴族のことで、その次男・三男は士官や官僚になっ てプロイセンを動かしました。 ユンカーとは「若旦那」という意味です。 ラ 行 ライン同盟・・・・・1806年、ナポレオンがプロイセン・オーストリアに対抗させるため、西南ドイツ11ヶ 国に結成させました。同盟内には「ナポレオン法典」が施行され、それまでの封建制度の 多くが廃止されて西南ドイツの近代化に貢献しました。 同盟に参加した国々は神聖ローマ帝国から離れていったため、神聖ローマ帝国の皇帝 フランツ二世はその称号を放棄、神聖ローマ帝国は消滅しました。 立憲君主制・・・・・憲法を制定し、君主(皇帝)が国の最高の地位であることを認めながらも憲法をもと にして政治を行うこと。 レコンキスタ(国土回復運動)・・・・・・キリスト教徒によるイベリア半島からのイスラム勢力の駆逐運 動で、レコンキスタとはスペイン語では「再征服」の意味です。 8世紀初めのイスラム勢力の侵入以後、15世紀まで800年続きました。11世紀中頃から北 方のキリスト教国(レオン王国、カスティリア王国、アラゴン王国など)によって本格的 に行なわれ、13世紀にはコルドバ、セビリア、バレンシアなどを回復、1492年にグラナダ の陥落で完成しました。 この運動も十字軍の一種であると考えられます。 ローラット法・・・・・イギリスのインド政府が、高まるインドの独立運動を抑圧するため1919年に出した 緊急刑事特別法で、インド総督に逮捕状なしで逮捕したり裁判なしで投獄する権限が与 えられました。ローラットは調査委員の名前です。 六都護府・・・・・唐は帝国の周辺に六つの役所(都護府)を置き、中央から長官を派遣して支配させましたが 長官は異民族の族長を役人にしてその地位を世襲のものにしました。 こうして唐の法律を守らせることにより広大な土地を支配しました。 ワ 行 倭 寇・・・・・・日本の賊という意味で13〜16世紀に朝鮮半島から中国沿岸にかけて活動した海賊や商人 のことです。 倭寇は14世紀中心の前期倭寇と16世紀中心の後期倭寇に分けられますが、前期倭寇は北        九州や瀬戸内海を根拠地とした日本人集団が、朝鮮を中心に中国沿岸を南下し、食料・奴婢        ・銅銭などを奪いました。後期倭寇は16世紀になって華中・華北一帯で活発化したもので、        その多くは武装して密貿易などを行なっていた中国人による活動ともいわれてます。 トップページへ