ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 15

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・M江戸時代U(文治政治の時代)・・・


  徳川幕府成立後家康・秀忠・家光の三代に亘る約半世紀の間は武力で大名や民衆を押さえつける政治(武断
政治)の時代でしたが、島原の乱を最後に戦乱も終わり政治制度を整え、教育や道徳を奨励する政治(文治政
治)へと変わりました。
 産業や交通も発展し世の中も次第に安定し元禄文化の花も開きます。
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


幕府政治の安定

<大名統制の緩和>
 徳川幕府成立当初は幕府の権威を高める
ため、武断政治により大名の取りつぶしな
どで沢山の浪人が出て、三代将軍家光の死
後、慶安事件(由比正雪の乱)の発生や、奴
(やっこ)と呼ばれる一部の旗本が世間を
騒がせたりして社会不安が高まりました。
 四代将軍家綱は武家諸法度を改正し殉死
を禁止したり大名の人質の廃止など大名
に対する統制をゆるめ、政治は安定期に向
かいます。

<将軍綱吉の政治> −生類あわれみの令− 五代将軍綱吉は仏教の「慈悲」や儒教の仁 (いつくしみあわれむこと)の心を示そう として「生類あわれみの令」を出しました が、極端な動物愛護や殺生禁止令だったた め多くの処罰者を出し悪政として人々の 不満を買い次の将軍家宣によって廃止さ れました。 −貨幣の改鋳− 元禄時代に入ると綱吉は贅沢な生活をし て護持院・護国寺や東大寺大仏殿などの神 社仏閣をつぎつぎと建立しましたが、一方 では鉱山の金銀産出量は減り幕府の財政 は苦しくなります。 勘定奉行の荻原重秀は1695(元禄8)年か ら元禄金銀を作り始め、一時的には幕府の 財政は立ち直りますがその後も大火・地震 や富士山の噴火などが続いた上、質の悪い 貨幣の出回りにより物価が上がり幕府の 財政はもちろん武士や庶民の生活はかえ って苦しくなりました。 −赤穂義士− 1701(元禄14)年3月浅野内匠頭が吉良上 野介に斬り付けたことから始まった赤穂 事件は翌年12月赤穂家の家老大石内蔵助 ら四十七士が主君の仇を討ち、翌年2月大 石ら46人が切腹したことで決着しました が、犬公方綱吉のもとで窮屈な生活をして いた庶民に痛快さと感動を与え世間では 赤穂浪士を義士と褒め称えました。 <新井白石の登場> 1709(宝永6)年五代将軍綱吉の死亡後家 宣が将軍になり儒学者の新井白石に登用 し白石の進言で「生類あわれみの令」を廃 止しました。 家宣の政策は白石の進言によるものが多 く将軍就任の翌年に出された武家諸法度 (宝永令)は白石の起草によるものと言わ れ礼節を尊び道徳を守る白石の儒学者ら しい思想があらわれています。 白石は朝鮮からの使節の待遇の簡素化を はかり、貨幣の品質を改め長崎貿易の制限 により金銀の流失をおさえるなど政治の 刷新に努めます。 <文治政治の行き詰まり> 白石の行った政治は「正徳の治」とよば れ綱吉の悪政とぜいたくな気風にのめり こんでいた元禄の政治を立て直そうとい う熱意と儒教の高い理想を掲げて行われ ましたが、実際の世の中の改革は次の将軍 吉宗の努力に待たなければなりませんで した。

<かねさはの領主たち>
 八木代官の支配下にあった"かねさは"
の村々は1662(寛文2)年久世大和守広之
が若年寄に就任した時に広之の領地とな
りました。
 領主となった広之は現在の能見堂跡地に
擲筆山地蔵院という曹洞宗のお寺を再興、
また翌年老中に昇進した時に円通寺に奉
納したという石灯篭が今も瀬戸神社に残
されています。
 広之が1669(寛文9)年に下総国(千葉県)
関宿城主となり所領が下総国・常陸国(茨
城県)へ移ったのちは、かねさはの地は再
び幕府領となりその後は大名米倉氏や旗
本領となりました。

久世大和守広之が奉納した石灯篭 (金沢区・瀬戸神社境内) 寛文三年卯歳四月十七日 東照宮御宝前 久世大和守源広之 と刻まれています

米倉氏の先祖は甲斐国(山梨県)に領地 を持つ武将で、武田氏に仕えていました。 米倉氏が徳川家の家臣になったのは武 田氏が滅亡した1582(天正10年)以後のこ とで、旗本から大名になったのは三代昌 尹が若年寄になった1696(元禄9)年です。 米倉氏はその後も領地を増やし1699(元 禄12)年には下野国(栃木県)都賀郡皆川 村に陣屋を置き皆川藩の初代藩主となり ます。 1705年米倉氏の領地は確定しますが、下 野や相模とならんで武蔵国の久良岐郡も その領地となっています。 米倉氏はその後陣屋を「かねさは」の社 家分村に移し、金沢藩を開き以後1871(明 治4)年の廃藩置県まで「かねさは」を横浜 支配の拠点としました。 (米倉氏の開いた金沢藩は1869年、北陸 の金沢藩と区別するために六浦藩と名 けられました)

米倉氏の領地分布図 (1705年に確定のもの・図説横浜の歴史より)

<新田開発> 金沢区域でも新田開発が行われ平潟湾 の埋め立てが行われました。 17世紀初めの平潟湾は金沢方面は釜利 谷の宿まで、六浦方面は光伝寺近くまで 海が入り込み現在の区役所や警察署、関 東学院大学などは海の中でした。 金沢方面の開発は江戸湯島聖堂の儒学 の教官だった永島祐伯(号は泥亀)によっ て進められ、1668(寛文8)年に走川(今の 君ヶ崎付近)と平潟の2ヶ所を埋め立てて 新田を開きました。 この新田は永島祐伯の号をとって泥亀 新田と名づけられましたが、今も泥亀の 名は地名として残っています。

永島泥亀屋敷図(福原新一氏蔵)

<塩づくり> かねさはの塩づくりは中世から記録が ありますが、これを引きついで江戸時代 も塩づくりが行われました。 「武蔵田園簿」によれば17世紀中頃、金 沢では六浦寺分、六浦平分、六浦社家分、 須崎村、町屋村、寺前村、谷津村、釜利谷 村で塩が作られており各生産者へは「塩 場役」という負担が課せられていました。

 かねさはの塩負担
村名 負担名 負担 負担高 六浦寺分 塩場役 塩  49俵1斗0升3合 六浦平分   々 々 474俵 六浦社家分 々 々  93俵0斗2升0合 須崎村 々 々 475俵0斗9升5合 町屋村  々  々 243俵0斗0升5合  寺前村 々 々 338俵1斗1升2合 谷津村 々 々 37俵0斗2升6合 釜利谷村 々 々 565俵0斗2升2合 釜利谷村 山手役 々 151俵0斗2升5合 山手役というのは実際に塩づくりに直接従 事していなくても塩焼きのための薪の燃料 を供給して受け取った塩で年貢を負担して いたものです。

 <かねさはへの道> 五街道とともにそこから分かれる脇往 還と言われる道路も発達して、かねさは では町屋を中心としに鎌倉や浦賀へ通 ずる道が整備されました。 金沢道・・・東海道保土ヶ谷宿から能見 堂を経て金沢へ到る道で六浦道へ入り 鎌倉へと続きます。 六浦道(鎌倉道)・・・瀬戸神社から朝比 奈切り通しを経て鎌倉へ到る道で、房 総からの海路で入る物資を鎌倉へ送る 道として重要視されました。  浦賀道・・・六浦道を諏訪之橋で分か れ浦郷を経て浦賀に向かう道で1720 (享保5)年浦賀奉行所が設置されると 一層重要な道となりました。 野島道・・・町屋神社から現在の金沢 小学校前を経て野島に到る道でここ から船で大津・浦賀へと渡りました。 白山道・・・保土ヶ谷からの金沢道を 能見台先で右へ分かれ釜利谷を経て 鎌倉に達する道で、古く鎌倉時代に 開かれた道と考えられています。

近世の金沢周辺交通図


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江戸時代
U(1651
    〜1715)

1651 由井
正雪の乱 

1653 佐倉
惣五郎、直訴

1654 隠元
黄檗宗を
伝える

1657 明暦の
大火(振袖
火事)




1682 井原西
鶴、好色一代
男をつくる

1685 将軍綱
吉、生類憐れ
みの令を出
す


1694 松尾芭
蕉、奥の細道
を出す


1702 赤穂浪
士、吉良邸へ
討ち入り

1709 正徳の
治


 







産業の進展


<農業の発達>
 農業は封建制度を維持するために最も重
要な産業であったことから幕府も諸藩も
農業を盛んにしようと努力し、農民たちも
田畑の開墾や技術の改良に力を入れ河川
の改修や貯水池の建設などの治水事業が
進み、新田の開発も盛んに行われました。

<水産業の発達>   
 水産業も大きく発展し九十九里浜の鰯漁
などは地引網が始められ、南海の鯨、鰹、鮪
や北海道方面の鰊、鮭、鱈などの漁獲も多く
ないました。
 製塩業も瀬戸内海をはじめ各地に発達し
て藩の専売事業になったのも少なくありま
せんでした。

 <鉱山の発掘>
 徳川幕府は多くの金・銀・銅山を直轄し佐
渡金山、石見銀山、足尾銅山などを経営しま
したが、諸藩も各地に鉱山を開発したので
金銀の産出は増加、元和年間(1620年前後)
にはピークに達しましたが、その後寛永年
間には減少に向かいます。

 <諸工業の発達>
 戦乱も治まり人々の生活が向上するにつ
れていろいろな商品の需要が大きくなり各
藩でもそれぞれ経済生活を豊かにするため
に、工業生産を奨励したので染織業をはじ
め陶磁器、漆器、紙、酒などの製造が各地で
盛んになりました。


都市の発展

 産業、経済の発展にともない都市も大きく
成長します。
 江戸は幕府がおかれてから急速に拡張さ
れ、大名や旗本の屋敷町を中心に大消費地
に発展しました。 
 江戸の人口は100万を超えたと考えられ、
17世紀の半ば過ぎから19世紀の始めにかけ
てはヨーロッパのどの都市よりも人口が多
かったと言われています。
 大坂は海陸の交通の便がよく、豊臣秀吉
の時代から商業が栄えていましたが、江戸
時代になると瀬戸内海を通じて西国地方は
もちろん北陸、東海地方からも米や特産物
が続々と運ばれて「天下の台所」rと言われ
ました。
 京都は昔から政治、経済の中心であった
ため多くの財貨や産物が全国から集まり、
角倉、後藤などの豪商も多く江戸初期には
人口50万ほどの大都市になりました。
 しかし元禄の頃には大坂の経済的成長が
著しく京都では貯えた資本を金融に回して
利子でくらすとか、伝統的な工芸を営むな
ど地味な暮らしの町人が多くなります。


交通の発達


近世の交通図はこちら

<五街道と宿駅>
 経済や都市の発展により陸上、水上の交
通が盛んになり様々な制度が発達しまし
た。
 特に政治の中心地江戸と経済の中心地
大坂との往来が激しくなり、江戸を中心
に五街道が発達して各街道には宿泊施設
や人馬を備えた宿駅がおかれ、要所には
関所が設けられました。 

 <沿岸航路>
 水運は鎖国政策によって大船の建造や
遠洋航海が禁止されていたので沿岸航路
が大変発達しました。
 重要な沿岸航路は江戸―上方(大坂・京
都)の航路と東回航路(出羽=―江戸)、西
回航路(出羽―大坂)があり江戸―上方の
定期便には菱垣回船と樽回船が使われま
した。


元禄文化


 文治政治時代は幕府や諸藩が積極的に学
問や教育を進め、また印刷技術が発達し書
物がひろく読まれるようになり、元禄文化
を中心とする新しい文化の花が開きます。
 <儒 学>(関連サイト・徳川幕府と儒学)
 幕府は士農工商という身分制度を維持す
るために君臣・父子などの上下の身分秩序
を重んずる儒学の一派である朱子学を奨励
し官学としました。
 一方商業や都市生活が発達し武士たちや
町民は朱子学の教えにしばられた道徳的な
生き方を好まなくなり、伊藤仁斎や荻生徂
徠などによる古学が盛んになりました。
<歴史書の編纂> 
 儒学とともに日本歴史の研究が進み、水戸
光圀は「大日本史」の編纂を始めますがこれ
を中心に水戸藩の中で育った日本中心の朱
子学を「水戸学」といい幕末の尊王攘夷運動
の大きな柱となりました。
<町人の文化> 
 経済的にも時間的にも生活に豊かさとゆ
とりができ寺小屋などの庶民教育の普及に
より町人の文化が栄えます。
 井原西鶴の「好色一代男」「日本永代蔵」な
どには町人たちの生きいきとした生活が描
かれています。
 松尾芭蕉は武士・商人・農民にも富者にも
貧者にもすべての人間に共通する永久に変
わらない心を求めて旅を重ね「野ざらし紀
行」や「奥の細道」などの作品を残しました。
  近松門左衛門の脚本による人形浄瑠璃
「曽根崎心中」が人気を呼び出雲の阿国の踊
りから始まった歌舞伎は元禄の頃急速に
発展し、当時幕府公認の劇場は京都に三座、
大坂に四座、江戸に三座あったと伝えられ
ています。
 絵画も発達、安土桃山時代の現実的・人間
的な傾向のあとを受けて武士的なものから
町人的なものに移っていきます。狩野派で
は永徳の孫探幽が幕府の御用絵師となり、
上方では尾形光琳、江戸では菱川師宣など
が活躍しました。