ーファミリー版ーよこはまの歴史11

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P12

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(明治時代U)
(大正時代)

…(]T)明治・大正時代A [横浜港の発展と関東大震災]…



 市制施行により区から市になった横浜の町は日本一の貿易港となった横浜港と共に発展、大正時代になる
と京浜工業地帯を中心とする一大工業地区ができ活況を呈しましたが、第一次大戦後の不況と続く関東大
震災により壊滅的な被害を受けました。

 アジア・アフリカに植民地を拡大するヨーロッパ諸国の対立は激しさを増し、アメリカや日本も参戦する
第一次世界大戦に突入しました。

世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <帝国主義と民族主義運動>
 ヨーロッパの先進国は19世紀の末から20世紀
のはじめにかけてアジア・アフリカの植民地化
をすすめ領土拡大や多民族の支配を行い帝国主
義と呼ばれる時代に入りましたが、アジアや東
ヨーロッパにはこれに抵抗する民衆による民族
運動が活発になりました。
(参考図・アジアの植民地アフリカの植民地) 一方、ロシアでは労働者や兵士を中心とした社 会主義革命がおこり、世界ではじめての社会主 義国家が誕生しました。 [ア ジ ア] <インドの国民会議> 1877年のイギリス領インド帝国の成立後、イギ リスはインドへの支配を強めたため、インド人 の民族運動が盛んになりました。 イギリスはこの運動をやわらげるため1885年 ボンベイでインド人による最初の国民会議を開 催させました。この会議は以後毎年開催されま したが次第に民族意識を強め反英の立場を強め て来たので、1905年イギリスのインド総督がベ ンガル分割令を定め国民会議派の分断を図ろう としましたが、1906年国民会議派はカルカッタ で大会を開き、イギリスに抵抗しました。 <ガンディーと非暴力不服従運動> イギリスは第一次大戦中インドから兵器と物 資を得るため、戦後にインドの自治を認めると 約束していましたが、1919年に出されたインド 統治法では形式的な自治を認めただけで、一方 でローラット法を出して民族運動の弾圧を強化 しました。 1919年ローラット法反対の抗議集会を開いて いた国民会議派の人々に対して、イギリス軍が 発砲して数百名の死傷者を出すという事件が発 生し、以後ますます反英運動は盛んになり、国民 会議派の人々はガンディーの指導の下に非暴力 不服従運動を行い運動はインド全土に広がりま した。イギリスは1935年新インド統治法を定め、 ある程度の自治を認めながら支配を続けようと しましたが、独立運動を抑えることは出来ませ んでした。 <青年トルコ党革命> オスマントルコは長い間スルタンの支配が続 き、近代化が遅れていましたが1880年代の末頃 からドイツが盛んに進出する中で、1889年トル コの改革を目指す軍人や学生が中心になって、 青年トルコ党が結成されました。 1908年軍人エンヴェル・パシャの指導の下にミ ドハト憲法(1876年制定され翌年廃止されたア ジアで最初の民主的な憲法)の復活を要求、スル タンはこれを認め無血革命を成功させました。 革命後は国会の開設などヨーロッパを見習っ て近代化を目指しましたが、外国の干渉やトル コ領内のスラブ人の民族運動などで改革は挫折 し混乱が続きました。 <日清戦争> 1876年の日朝修好条規により朝鮮への政治的、 経済的な進出を続ける日本と、朝鮮を従属国と みなしていた清国との対立が激しくなっていき ました。 1894年朝鮮に東学党の乱がおこり朝鮮は乱を 鎮めるため清国に出兵を頼み、清は5隻の軍艦 と3千人の兵を朝鮮に派兵しました。 日本もこれに対抗して直ちに出兵、清に対して 東学党の乱の徹底鎮圧を提案しましたが、拒絶 され7月末日本は清軍に対して奇襲攻撃をかけ 日清戦争が始まりました。 日本軍は海陸に連戦連勝し、1895年下関条約に より清は朝鮮の独立を認め遼東半島、台湾を日 本に譲り渡し、賠償金約3億円を支払うことにな りました。 これに対して極東で南下する機会をうかがっ ていたロシアはフランス、ドイツと共に日本に 対して遼東半島の返還を求め、清に返還させま した。(三国干渉) <義和団事件(北清事変)> 清が日清戦争に敗れ、その弱体化が明らかにな るとヨーロッパの強国は競って清への侵略をは じめました。これに対して清の国内では外国勢 力を追い払おうとする動きが強まり1899年義和 団の蜂起がおこり清朝はこの勢力を利用して外 国勢を追い出そうと考え各国に宣戦を布告しま した。 しかし日本、ロシアを中心に8カ国が計2万の軍 隊を出動させ、これを鎮圧しました。 1901年北京議定書が結ばれ清は多数の賠償金 の支払いの他、外国軍隊の北京駐留を認めるこ とになり中国の半植民地化が一層進みました。

列強の中国進出(1900年頃の中国)
<日露戦争> 義和団事件が終わり、各国は兵を引き上げまし たがロシアは中国東北部から朝鮮へと支配を広 げようとして居座っていました。以前から朝鮮 へ進出していた日本はこれに脅威を感じ、国内 には三国干渉に対する反感も強く打倒ロシアの 声が高まりました。 1904年2月日本はロシアに対して宣戦を布告し て日露戦争が始まりました。日本軍は旅順や奉 天の攻撃では多くの死傷者を出しましたが、190 5年5月の日本海海戦には大勝利を収めアメリカ 大統領の仲介でポーツマス条約が結ばれ、戦争 は日本の勝利に終わりました。 このためロシアは東アジアへの進出をあきら め、東ヨーロッパのバルカン半島への進出を目 指します。 <日本の韓国併合> 1897年朝鮮は国の名を大韓帝国と改めました。 ポースマス条約で日本の韓国における特権を 認めさせた日本は韓国への勢力を強めていき、 1907年の第三次日韓協約では日本は韓国の行政 ・司法の実権まで手に入れました。 これに対して韓国人の反日運動は高まり1909 年初代韓国統監の伊藤博文が韓国人愛国者の安 重根に暗殺されましたが、日本は軍部を中心に ますます韓国への介入を強め、1910年日韓併合 条約を結び朝鮮総督府をおいて韓国を植民地と しました。こうして519年続いた李氏朝鮮は滅び 、韓国は日本の支配下に入りました。 <中国の辛亥革命> 中国では外国の侵略がますます進みましたが、 これに対してなすすべの無い清朝政府に対して 留学生などの新しい知識人の中からは清朝政府 を倒して漢民族の主権国家樹立を目指す革命運 動が起り始めました。 この革命運動の指導者となった孫文は1905年、 日本に来て東京で三民主義を唱え中国同盟会を つくりました。 革命運動が高まる中、1911年5月清朝政府はイ ギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの四カ国か らの借金の担保とするため鉄道国有化令を出し て、民営鉄道を国有化しようとしました。 これに対してまず四川省で大規模な反対運動 がおこり、やがて暴動となり10月に武昌の軍隊 が蜂起して革命政権を樹立しました。革命の火 はたちまち中国全土に広がり11月末までに24省 のうち14省が清朝政府からの独立を宣言しまし た。12月には孫文が臨時大統領となり中華民国 の建国を宣言して南京に臨時政府を発足させま した。 これに対して清朝政府は袁世凱を総理大臣に 任命し革命の鎮圧を期待しましたが、袁世凱は 革命派との間に清帝の退位、共和制の実現と引 き換えに袁が臨時大統領に就任するという協定 を成立させ、清朝最後の宣統帝(溥儀)は退位し 清朝は滅びました。 大統領になった袁は議会を無視して独裁権力 をふるったので、革命派は袁の打倒を目指して 立ち上がりましたが失敗、孫文は日本に亡命、袁 も1916年に亡くなるとその後は政権をめぐって 各地で軍閥が争う不安定な時代が続きました。      (関連サイト・金沢に上陸した孫文) <中国の五・四運動> 第一次世界大戦がはじまると日本は"日英同盟 を理由に参戦しました。 1914年中国のドイツ租借地青島を占領、更に翌 年ヨーロッパ諸国が中国を顧みる余裕がないの に乗じて二十一ヶ条の要求をつきつけ、そのた め中国の反日感情は急速に高まりました。 大戦後のパリ講和会議では中国は山東省の返 還、二十一ヶ条の取り消しなどを求めましたが 認められず、1919年5月4日北京でベルサイユ条 約と二十一ヶ条要求に反対する学生らを中心に 抗議運動がおこりました。運動はたちまち中国 全土に広がり、中国民族運動の原点になりまし た。 一方日本支配下の朝鮮でも1919年3月1日ソウ ルに知識人が集まってデモ行進を行い(三・一 運動)日本は武力でこれを鎮めましたが、その後 も民衆の独立運動は根強く続きました。 <第一次国共合作> 中国で民族運動が高まる中、1919年孫文が中国 国民党を再興する一方で陳独秀を委員長とする 中国共産党が結成されました。 孫文は革命運動を進めるには中国共産党と手 を結ぶ必要があると考え1924年第一次国共合作 を成立させました。孫文は翌年亡くなりました が1925年5月30日の五・三〇事件をきっかけとし て労働者を主力とする反帝国主義が急速に発展 、運動は蒋介石に受け継がれます。 1926年蒋介石の率いる国民革命軍が北伐(北方 の軍閥政府を倒して全国統一しようとする軍事 行動)をはじめ、国民革命軍は翌年には上海、南 京を占領しましたが、共産党の勢力拡大を恐れ た蒋介石は1927年上海でクーデターをおこして 共産党を弾圧、南京に国民政府を樹立しました。 これにより第一次国共合作は解消され、中国共 産党は農村を基盤に勢力を伸ばし共産党と国民 党は中国国内で激しく争うようになりました。 [ヨーロッパ] <フランスのドレフュス事件> 1870年には始まった第三共和制は大統領や政 府の権限が弱く、しかも多数の小党が分立して いたため政権は不安定でした。 1894年ユダヤ人の将校で共和主義者のドレフ ュスが逮捕されフランス陸軍の機密をドイツに 漏らしたとして終身刑に処せられました。共和 主義者や社会主義者はドレフュスの無罪を訴え 、軍部や保守派と対立しましたが、1906年ドレフ ュスの無罪が確定し、以後保守派の力は弱まり、 フランスの政治は安定に向かいました。 (コラム・文豪ゾラとドレフュス事件) <ロシアの血の日曜日事件> 近代化の遅れたロシアでは皇帝による独裁政 治が続いていましたが、日露戦争によって国民 の窮乏はますます進み、1905年1月約10万の労働 者たちが首都ペテルブルグで皇帝に賃上げや日 露戦争の即時中止を訴えて行進中、軍隊に射撃 され3000人を超える死傷者を出すという血の日 曜日事件がおきました。 これをきっかけに全国でストライキや暴動が 多発して第一次ロシア革命が起りました。 政府は民衆の不満を抑えるため、国会の開設な どを約束した「10月勅令」を出したため革命の勢 いは一時衰え、9月に終わった日露戦争の戦地か ら軍隊が帰ってくるとその力によって革命勢力 は押さえつけられ革命は失敗に終わりました。 <ロシア革命> 世界大戦後、物資の不足と国民生活の窮迫が続 いていたロシアでは、1917年首都ペトログラー ドで大規模なストライキがおこったのをきっか けで労働者とそれに協力する兵士を中心として 革命がおこり労働者と兵士の代表機関であるソ ヴィエト(労兵協議会)が各地に生まれ皇帝は退 位、ロマノフ王朝は滅びました(三月革命)。 その後資本家の利益を代表する政党が中心と なって臨時政府がつくられましたが地方では三 月革命を推進したソヴィエトが大きな力を持っ ていました。臨時政府は戦争を続ける政策をと ったため民衆の不満が高まり、レーニンを指導 者として臨時政府に対する反対運動が高まって いきました。 レーニンは11月トロッキーらとともに武装蜂 起によって臨時政府を倒し、ソヴィエト政権を 樹立しました(十一月革命)。ソヴィエト政権は 直ちにドイツと講和のための交渉を行い1918年 3月単独講和を結び、国内では土地の私有権の廃 止や重要産業の国有化を行い、1922年ソヴィエ ト社会主義共和国連邦が樹立されました。 <三国協商の成立> 資本主義の進んだイギリスは早くから植民地 政策をとっていましたが、やがてフランスやロ シアとともにドイツも植民地政策をとりはじめ 1884年にはアフリカのトーゴランドとカメルー ン、南太平洋のビスマルク諸島を獲得しました。 イギリスにとってアフリカへのドイツの進出 は脅威であり、同じくアフリカに先に進出して いたフランスと1904年英仏協商を結び、1907年 には中近東への進出を進めている共通の敵ドイ ツに対抗するため、英露協商を結び、先の露仏同 盟とあわせイギリス、フランス、ロシアの三国協 商が成立、ドイツ、イタリア、オーストリアの三 国同盟と対立する関係になりました。 [アメリカ] <米西戦争> 大陸横断鉄道開通後、アメリカの資本主義は急 速に進み、1880年代にはイギリスと並んで世界 第一の工業国になりました。 ヨーロッパの列強は国外に植民地を求めて発 展していきましたがアメリカは国内の広大な領 土を開拓しながら発展、1890年頃国内の開拓が 終わると海外進出を図るようになり、1895年ス ペイン領キューバが独立運動をおこすと、アメ リカはキューバにある権益を守りキューバ人の 独立を守るという名目でスペインに宣戦、勝利 をおさめキューバは独立出来ましたが、事実上 アメリカの保護国となりました。この戦いでア メリカはスペインからフィリッピン、プエルト リコ、グァムを獲得し以後更に帝国主義政策を 進めラテン・アメリカ、太平洋、中国への進出を 企てていきました。 [アフリカ] <スーダンのファショダ事件> 列強によるアフリカ分割や植民地化が進む中 でアフリカを縦断して植民地化を進めてきたイ ギリスと、横断して植民地化を図ってきたフラ ンスが1898年スーダンのファショダで衝突、両 国の間に緊張が高まりましたがドレフュス事件 などで国内に動揺のあるフランスが譲歩して、 スーダンはイギリス支配下におかれ1904年、英 仏協商が結ばれ、フランスのモロッコでの優位 とイギリスのエジプトでの優位が認められまし た。 <ブーア戦争> 1814年、オランダ植民地だった南アフリカのケ ープがイギリス領になり原住民だったブーア人 達は奥地へ移り、オレンジ共和国とトランスバ ール共和国を建国しました。 イギリスは1899年両国を併合しようとしてブ ーア戦争をおこしました。この侵略は国際世論 の大きな非難を受け、ブーア人の強い抵抗を受 けましたが1902年これを制圧してイギリス領と し、1910年ケープ、トランスバール、オレンジ等 合わせて南アフリカ連邦を成立させました。 <モロッコ事件> −第一次モロッコ事件− イギリスによってモロッコにおける優越権を 認められたフランスに対して不満を持つドイツ 皇帝が1905年、モロッコのタンジュールに上陸 してフランスの進出に反対する表明を行い、モ ロッコの領土保全、門戸開放を主張して列国の 会議開催を要求しましたが、翌年のアルヘシラ ス会議でイギリスがフランスを支持したため、 ドイツの主張は敗れ、フランスに有利な協定が 成立しました。 −第二次モロッコ事件− 1911年、モロッコで内乱がおこりフランスが出 兵すると、これに対抗してドイツが軍艦を送り、 両国間には一時険悪になりましたが、この時も イギリスがフランスを援助したためドイツは譲 歩してフランス領コンゴの一部を得てフランス のモロッコ領有を認め、翌年モロッコはフラン スの保護国となりました。 このようにモロッコをめぐるフランス・イギリ スとドイツの対立はバルカン半島をめぐる紛争 とともに国際的な緊張を高めました。 <第一次世界大戦>(詳細はこちら) アジア・アフリカに植民地を拡大するヨーロッ パ諸国の政策はお互いの対立を一層激しくし、 ついに1914年第一次世界大戦が始まりました。 大戦にはヨーロッパの殆どの国とその植民地 、中国や日本、そしてのちにはアメリカ合衆国も 参戦して世界的な規模の戦争となりましたが、 1918年ドイツ、オーストリアなど同盟国の敗北 で終わり、この戦いでヨーロッパ諸国は国力を 弱め、逆にアメリカは急速に力を強めました。 <国際連盟の成立> 第一次世界大戦の反省から国々の協力で平和 を守ることを目的とした国際連盟が作られまし た。しかし国際連盟を作ることを提案したアメ リカは議会の反対にため加盟できず、ソ連、ドイ ツの加盟も認められなかったので全世界的な組 織にはなれず、国際的な重大問題は連盟の外で アメリカを中心に解決される傾向があり、また 侵略に対する制裁手段が経済的封鎖に留まった ため戦争防止の決定策にはなりませんでした。 <ワシントン会議> 1921年アメリカのワシントンで9カ国が参加し て軍縮問題や太平洋地域や中国問題についての 会議が開かれました。 この会議ではアメリカ、イギリス、フランス、日 本の間で太平洋地域の安全をめぐる四ヶ国条 約、中国の独立と領土の保全を定めた九ヶ国条 約が結ばれ日本は中国に青島、山東省の利権を 返し、二十一ヶ条要求を破棄しました。 更に海軍の軍備制限については海軍軍縮条約 が結ばれ米・英・日・仏・伊の主力艦の保有トン数 の割合を5・5・3・1.67・1.67としました。

 <横浜市の誕生>
 1889(明治22)年4月1日、従来の横浜区は市制
の施行により横浜市となりました。
 区域の設定にあたっては横浜区に続いてい
る久良岐郡の町村を市域に入れるかどうかが
問題になりましたが、郡区の意見は一致せず、
知事は当時の区の地域に市制を施行すること
に決め、市の境界を東は本牧村境、西は戸太村
境、南は中村境、北は大岡川口にしました。
 開港当時僅か101戸だった横浜はこの時既に
戸数25,849戸、人口は116,193人にもなってい
ました。
最初の市役所(「図説・横浜の歴史」より)
初代横浜市長には横浜区長だった増田知が 就任しましたが、就任早々の第一回市会で共 有物事件を背景として、地主派と商人派の議 員が対立して市会は混乱に陥り増田は責任を とって辞任し、僅か8ヶ月の在任に終わりまし た。 <貿易の進展> 明治中頃には横浜港での船舶の出入りも増 え、貿易額も増加して港湾の整備も急ピッチ で行なわれました。 ー港の整備ー 港に出入りする船舶の増加に対して政府も 本格的に港湾設備を整えることになり、イギ リス人技師パーマーに依頼して1889(明治22) 年第一期工事を始めました。工事の途中で防 波堤コンクリートの亀裂発生による中断、パ ーマーの急死、日清戦争などがあり工事は大 幅に遅れましたが1896(明治29)年には工事が 完了、鉄造りの大桟橋や二本の防波堤が出来、 1899年から1914年にかけて建設された新港埠 頭の第二期工事などにより国際港としての基 盤が整いました。
イギリス波止場に設置された鉄造桟橋は1896年 に竣工、全長730メートル幅12メートルで現在の大 桟橋の原型です(有隣堂・横浜絵地図より)
ー税関の設置ー 開港とともに横浜村の中央部に神奈川運上 所がつくられましたが、1871(明治4)年にはそ の仕事を一部裁判所に移し、翌年には横浜税 関と名を変えました。関税の仕事は貿易が発 達するとともに増えてきたので、1873年には 本町一丁目に新しい税関をつくることになり ました。 1882(明治15)年県庁が火災に遭い新築する ことになったとき、税関の建物は県庁に譲り 渡され、1885年現在地に建設されました。 ー貿易の変遷ー 1890(明治23)年代はじめ迄は横浜港は輸出 入とも全国の7割前後を占める日本一の港で したが輸入は1893年に神戸に抜かれ、輸出は 常に一位でしたが、1898年には全国の5割以下 となりました。 横浜の地盤低下と神戸の上昇は大阪を中心 に急速に発達した綿紡績業などに支えられた 神戸が輸出入港として発展したことによるも のです。 横浜港の輸出では開港以来、生糸が50%以上 を占め、明治中期までは茶がこれに次いでい ましたが、インド・セイロン茶に押され停滞し 代わって絹織物や絹ハンカチが増加しました 輸入では大消費地東京の輸入港としての性 格が濃く綿織物や綿糸、砂糖、鉄鋼、機械など 多品目に亘りました。
<商工業の発展> 貿易が進展し資本の蓄積が進む明治の後半 には貿易港の特性を生かして輸出工業が盛ん になり、明治から大正にかけて横浜の商工業 はめざましい発展を遂げました。 ー商法会議所ー 開港後の横浜では貿易商人たちは組織をも たず、商取引の上では外国人に圧倒されてい たため横浜商人の有力者たちが集まって1880 (明治13)年横浜商法会議所がつくられ、1895 (明治28)年には横浜商業会議所(後の横浜商 工会議所)が設置されました。 ー横浜正金銀行ー 横浜では開港以来外国為替や銀貨の供給が 外国の銀行に握られていましたが、中村道太 ら財界の有志たちは「日本人の銀行をつくり 商業の実権を取り戻そう」と銀行設立の運動 を始め、西南戦争後の紙幣の乱発による激し いインフレで貨幣の価値が下がり、銀貨の異 常な値上がりに苦しんでいた政府もこの運動 を推進して1880(明治13)年、本町四丁目に横 浜正金銀行(のちの東京銀行、現在は東京三菱 銀行)が生まれ、1887年の「横浜正金銀行条例」 で外国為替専門となり日本の貿易金融の中心 となりました。
横浜正金銀行・1904年(横浜・都市と建築の100年 より)[画像をクリックすると現在の姿になります]
横浜正金銀行が成長、安定する明治30(1897) 年代になって横浜商人による商権が確立して 、それまで長い間外国商人によっておさえら れていた横浜の貿易の主導権がようやく日本 のものになりました。

 関外の発展

 開港以来日本の貿易の中心となった横浜には多く
の人々が集まってきました。
 横浜に集まってきたのは生糸や茶などを扱う商
人のほか、商店で働く丁稚や奉公人、貿易品の国内
の運送に携わる人々や人力車の車夫、港で働く沖仲
仕などあらゆる職業の人々でした。
 横浜に集まってきた人々が暮らす場所は貿易の舞
台となった関内周辺の関外とよばれるところで、広
大な水田地帯であった吉田新田が埋め立てられた
伊勢佐木町や長者町などでは食料や雑貨を並べた
商店ができ、劇場や食堂なども作られました。
 伊勢佐木町には勧工場(様々な品物を扱う商店が
一つの建物の中に集まり陳列販売を行なった所)、
呉服商、洋傘商など人々の暮らしを支える多くの商
店や娯楽のための劇場が作られ、明治後期には外国
人やそのほか各地から人々で、日本一の繁華街とい
われるほどの賑わいを見せていました。
 関外は開港当時から横浜に集まった人々の暮らし
の場であるとともに、関内や居留地と郊外の村々と
をつなぐ場所でもありました。
明治後期の伊勢佐木町の賑わい
(横浜開港資料館蔵・着色絵葉書)
ー軽工業の発展ー 1890(明治23)年代から日本では紡績業を中 心とした軽工業が発達、第一次産業革命が始 まったと考えられていますが、当時横浜では 石鹸、染色、鋳物、製油、電線製造、織物など各 種の軽工業が盛んになり、明治の後半から大 正にかけ横浜の輸出工業は全盛時代を迎えま した。 メリヤス工業は日清・日露戦争の時は軍需品 として生産が著しく増加、日本の重要な産業 となりましたが、横浜でも1906(明治39)年に 絹メリヤス工業が始まり上海やインドにも輸 出されるようになり、横浜は日本一の絹メリ ヤス産地となリました。 <近代産業の発展と関東大震災> -重工業の発達と京浜工業地帯- 日本の重工業は20世紀の初めごろから目ざ ましく発展しましたが、横浜でも工業地帯が まず横浜港を中心とした高島町あたりに発達 し、その後平沼町から神奈川、鶴見と海沿いに 発展していきました。 1915(大正4)年頃からヨーロッパの工業都市 を見て帰ってきた浅野総一郎をはじめとした 実業家たちは、新しい工業地帯は海を埋めた てて拡張することが最も良策と考えて、鶴見 から川崎にかけての葦原や海岸沿いの低湿地 を次々と埋め立て、そこに新しい工場を建設 し京浜工業地帯が生まれました。
1914(大正3)年6月に始まった第一次世界大 戦は、戦争のため生産が伴わなくなった連合 国側からの日本に対す軍需品や日用品の注文 が増え、特に造船および海運はとりわけ活況 を呈し鉄鋼、造船、電気などの重工業部門の工 場が鶴見、川崎の臨海地域に次々と建てられ 好景気を生み出しました。
鶴見・浅野造船所・大正期
(横浜開港資料館蔵)
横浜、川崎の町もこの影響で工場労働者の数 が多くなり、それに伴って町には料理屋や劇 場(映画館、寄席)などが立ち並ぶようになり たいへん賑わいました。 ー銀行の倒産ー 1918(大正7)年11月第一次世界大戦が終わる と貿易は輸入超過が目立ち、海外輸出をあて にしていた日本の生産物は国内にあふれ、銀 行は回収不能や預金の引き出しに悩まされる ようになりました。 横浜でも1920(大正9)年5月名門の茂木合名 会社が破産し、そのため茂木惣兵衛が経営す 第七十四銀行と横浜貯蓄銀行が休業、ついで 左右田銀行も休業、経済界は混乱しましたが、 11月に横浜興信銀行(現在の横浜銀行の前身) が七十四銀行と横浜貯蓄銀行の整理事務を受 けつぎ、ようやく混乱はおさまりました。
左右田銀行取付さわぎ
(図説・横浜の歴史より)
ー関東大震災ー 1923(大正12)年9月1日の関東大震災に見舞 われた横浜地区は大きな被害を受けました。 特に中心部は江戸時代後期以来の埋立地だ ったため地盤は軟弱であり、山下町では居留 地の面影を残した洋館は一斉に倒壊し一瞬の うちに廃墟となり建物の中にいた人や通行人 は殆ど逃げる間もなくガレキの下敷きになっ て、押し潰されてしまいました。 更に地震と同時におこった火災が追い討ち をかけ、家屋の焼失・倒壊面積は1309万平方メ ートルに及び宅地総面積の8割にも達し、死者 21384人、行方不明1951人にも及びました。
震災で被害を受けた日本大通リ付近・1923年
(横浜開港資料館蔵・着色絵葉書)
火災と余震に襲われた混乱の中で「朝鮮人が 井戸に毒を入れる、暴動をおこす」というデマ が流れ、たちまち全市に広がって大騒ぎにな り、各地に武装した自警団が組織され警察や 自警団の手で朝鮮人が殺される事件が起きま した。政府は戒厳令を発動して軍隊を横浜に 出動させ事態はようやく収束しました。 <横浜の労働争議> 第一次大戦後の不況の影響で横浜船渠や内 田造船、浅野造船等では労働者を次々と解雇 し工場の閉鎖しました。 一方労働運動は友愛会の結成以来、1918(大 正7)年の全国的な米騒動を経て、さらに団結 が強められてきておりストライキやサボター ジュで対抗、各所で労働争議が相次いでおこ り労働者と資本家及び経営者という対立が表 面化するに至りました。 ーメーデーー 日本での第一回メーデーは1920(大正9)年5 月2日に行なわれましたが、その前日横浜では 日本初のメーデーともいわれる労働祭が横浜 公園で行なわれました。これは横浜港の港湾 労働者がつくった「横浜港仲仕同盟会」の創立 総会を兼ねて行なった労働祭で、その後3年間 続けて横浜公園で行なわれ8時間労働制、団結 権やストライキ権の制限撤廃、普通選挙法の 促進、生活権の確立などを決議、デモや活発な 演説が行なわれましたが、実際には警察の規 制が強く1923(大正12)年のメーデーはデモに 参加する労働者より警戒の警官の数が多かっ たといわれています。
横浜のメーデーを伝える新聞記事
(「横浜貿易新報」1920年5月2日付)

 横浜市開港記念会館

 開港50周年を記念して、市民の寄付によって大正
6年竣工しました。
 敷地は町会所の跡地で、かっての外国人居留地と
の接点となっていた場所です。
 関東大震災でドームや屋根が壊れ、内部も焼失し
ましたが平成元年、市制100周年を記念してドーム
と屋根が創建時の姿に復元され国の重要文化財に
指定されました。
 わが国の大正建築を代表する建物として市民に
親しまれています。
大正6年竣工時の開港記念会館
(横浜開港資料館蔵)
[画像をクリックすると現在の姿になります]

1889
 市制をしく
 初代市長増
田 知、議長
原 善三郎

1905
 京浜電鉄
品川〜神奈
川間が開通
1906
 本牧三渓園
市民に公開

1908
 横浜鉄道、
東神奈川〜
八王子間開
通(横浜線)
  〃
 横浜福富町
に最初の劇
場「喜音満
館」できる
1909
 開港五十年
記念祭、市歌
・市章できる

 
1913
 浅野総一郎
、安善・末広
町の埋立に
着手
1914
 京浜間の電
車運転(国
電)はじまる
1915
 レンガ造二
階建横浜駅
舎が高島町
に完成 

1917
 開港記念館
横浜開館が
本町に建て
られる


1921
 市内電車
(横浜電鉄)
が市営とな
る
  〃
 市図書館、
開館する 

1923
関東大震災
、大きな被害
をうける

1925
 野毛山公園
が開かれる

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