ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 20

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」
内田四方蔵「金沢の100年」 ほか

・・・R大正時代・・・


 明治と昭和の間に挟まれた大正の14年間はデモクラシーの波にのって議会政治の確立を目指す憲政
擁護運動が高まり、民衆が生活の権利を主張し政治の上にも力を伸ばしてきた時代です。
 1914(大正3)年におこった第一次世界大戦により日本は工業を発達させ輸出を増やし戦争景気に沸き
ましたが、大戦が終わると一転不況に陥り関東大震災がこれに追い討ちをかけました。
  
 金沢の村でもようやく文明開化の波が押し寄せ大正の末に金沢村は金沢町へと発展します。 
  
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


憲政擁護運動
(第一次護憲運動)

<西園寺内閣の総辞職>
 1912(明治45)年明治天皇が逝去、年号は大
正に変わりました。
 当時陸軍は日韓併合で日本の植民地にした
朝鮮の備えを固めるために兵力増強案を出
しましたが、西園寺公望内閣はこれをはねつ
けたため、陸軍大臣上原勇作は辞職し後任の
大臣を送らなかったため現役武官制をとっ
ていた内閣は総辞職に追い込まれました。
<大正の政変>
 西園寺公望のあとは桂太郎(長州出身の陸
軍大将)が三度目の首相となると軍閥(長州
閥)横暴との世論が高まり桂内閣打倒・憲政
擁護運動の波は全国に広がりました。
 1913(大正2)年2月政友会(立憲政友会)、国
民党(立憲国民党)の議員たちが桂内閣を弾
劾する決議案を衆議院に提出、政友会の尾崎
行雄は激しく桂内閣を非難する演説を行い
国会議事堂の前には多くの民衆がつめかけ
ました。政府は民衆を騎馬警官や憲兵で押さ
えつけようとしましたが、人々は政府系の新
聞社を攻撃、交番を焼き討ちしたりして、遂
に桂内閣は2ヶ月足らずで総辞職しました。 
<山本権兵衛内閣>
 桂太郎のあとは元老たちの推薦で薩摩閥の
中心人物で海軍の長老の山本権兵衛が首相
となりました。山本内閣は政友会の主義を尊
重することを声明し政友会も協力、原 敬ら
三人が入閣しました。
 山本内閣は陸海軍大臣の現役武官制大臣を
予備役や後備役の軍人たちにまで広げるよ
うに改め軍の横暴を防ぐようにしたり、文官
任用令を改正して政府の主だった役職に役
人以外の者でも任命できるようにしました
が、1914(大正3)年シーメンス事件に海軍の
軍人が関係していることを追及され倒れま
した。
 桂、山本の軍人首相のあとは明治以来の政
界長老で庶民的な人気の高い大隈重信が首
相となりました。

<遅れてやってきた文明開化>
 横浜に初めて電灯がついたのは1890(明
治23)年(ガス灯はこれより早く1872年)で
すが金沢の地に電灯が引けたのは1912(大
正1)年12月で横浜に遅れること20余年、大
正のはじまりと共に明るい夜が開けまし
た。
 電話の開通も横浜の1878(明治11)年に対
して金沢では1921(大正10)年と文明開化
の波はゆっくりしたものでした。

金沢区特設電話表
(横浜開港資料館蔵、松本なみ家文書)

1921(大正10)年のもの。電話加入者は37でした

横浜からの鉄道が東海道線(1887年)、横 須賀線(1889年)、横浜線(1908年)と金沢方 面には向わないで開通された上に、道路の 整備が遅れたため金沢の地は三方山に囲 まれ、陸路による他地区への交通は大変不 便でしたが、明治の後半から大正にかけて 池子境や富岡の相次ぐトンネルの開通に より横須賀や横浜方面の交通が開け大正 年間には乗り物も馬車から乗合自動車へ と変わりました。

八幡橋(磯子区)と金沢・逗子を結んだバスの
時刻表
(横浜開港資料館蔵、小泉元久家文書)

1920(大正9)年のもの。

<金沢に上陸した孫文>
 日清戦争後列強の進出に悩まされ北清事
変に敗れた清朝は1911(明治44)年辛亥革
命で倒れ、革命の指導者孫文が臨時大統領
となり中華民国を建設しましたが、革命勢
力が弱く清朝時代の軍閥の袁世凱に初代
大統領の座を譲りました。
 孫文は袁世凱一派の軍閥政治に反対して
郷里の広東で臨時政府を組織しますが戦
いに敗れ1913(大正2)年日本に亡命を企て
台湾経由で横浜に密航しましたが、刺客の
目から逃れるために8月、横浜で小船に乗
り換え市街地から離れた人家まばらな金
沢の富岡海岸に上陸、逗子の乗合自動車で
東京の隠れ家に着きました。
 1916(大正5)年袁世凱が失脚すると三民
主義(民族主義・民権主義・民生主義)の実
現のために尽力し中華民国政府の後を継
いだ国民政府により国父と崇められまし
た。蒋介石の国民政府はその後大陸を追わ
れ、台湾に逃れます。 

孫文上陸記念碑(金沢区・富岡) 慶珊寺山門わきに碑文と共に建てられています

<産業のようす> −盛んになった温室園芸− 大正時代の金沢の農業は田が減る傾向が 見られ金沢村では畑が増えてきて花の栽 培が盛んになり六浦荘村とともに宅地化 がやや目立ってきました。 金沢村ではナス、タマネギに収穫が多く 1924(大正13)年には米は第三位に落ちる という大きな変化を見せ大麦、ネギ、キュ ウリがこれについでいます。 六浦荘村では依然米が他を離して首位で ナス、キュウリの順ですが両村とも野菜が 増加傾向にあります。

明治の末から富岡地区の温室が普及しカ ーネーションの切花のほか苗も販売し花 の栽培が次第に盛んになっていき1922(大 正11年)8月には富岡花卉園芸組合も結成 されこの地方の重要な産物へと発展して いきました。

富岡植物園といわれた鈴木春乃園 (金沢区役所・翔べ金沢より)

−最盛期を迎えた漁業− 大正時代の金沢の漁業は海軍による野島 のあいつぐ埋め立てや関東大震災の被害 を受けながらも野島を中心に発展し最盛 期を迎えました。 漁業戸数は六浦荘村で若干の減少があり ましたが金沢村では各漁場とも30%前後の 増加がありました。これは六浦荘村が湾 内の漁に留まっていたのに対して金沢村 はより広い東京湾への出漁が多かったこ とが原因と考えられています。 漁獲高は野島は各漁場の中でもが群を抜 いており動力船3隻を使って漁獲物を運 搬し、組合の共同事業として1922(大正11) 年には13505円の純益をあげていました。 漁獲物の仕向け地は殆ど横浜と京浜方面 で野島、州崎、三分は横須賀にも出荷して いました。 1922年の各地の漁獲状況は次の通りです

−新しい産業の芽生え− 明治時代まで農漁業を中心とした金沢の 村も大正期にはいると農漁業以外の職業 が少しづつ増えてきました。 1923(大正12)年には金沢村では農漁業以 外の者が当時の戸数939戸の17%を超えて おり、六浦荘村では30%以上にものぼり、村 の様子も変化してきたようです。 明治44年12月金沢村に渡辺製鋼工場が創 業、大正2年に従業員20人(男8人、女12人) で2400円の生産をあげています。同年8月 には金沢村信用組合(鹿島源左ェ門組合長 )が設立され翌年には六浦荘信用組合(相 川文五郎組合長)が誕生しました。 当時の金沢は避暑・避寒に好適で八景の 景勝とともに各地からの遊覧客で賑わい 旅館、料理屋などが数多くみられ大正の末 頃の様子を伝えている「武州金沢六浦案内 」は16軒の旅館、料理屋を紹介しています。

武州金沢六浦案内(横浜開港資料館蔵)

金沢村は住民の増加と観光地としての発 展の中で1926(大正15)年1月町制をしいて 金沢町となりました。

<関東大震災と金沢> 1923(大正12)年9月の関東大震災は京浜 地方から神奈川県下地域にかけて大きな 被害を与えましたが、金沢村の被害は特に ひどく久良岐郡下では最大で、なかでも州 崎は深刻な被害を受けました。 金沢村では全戸数の9割近くが全壊また は全焼し、死者43人負傷者は200人を超え ました。 六浦荘村は約57%の家屋が被害を受け死 者12人負傷者は85人に及びました。 道路は横浜、横須賀の国道のトンネルが 全壊または半壊し、富岡・谷津間は山崩れ があり金沢・六浦荘間にも陥没があり村 道は全部交通不能となりました。 農地は亀裂や陥落で耕作はできなくな り、富岡付近で盛大だった花づくりは全く 需要が途絶え大損害を蒙り、沿岸の海底隆 起により漁業も甚大な被害を受けました。

関東大震災の被害 (金沢区役所・翔べ金沢より)

<大正デモクラシーと新教育運動> 大正のはじめ吉野作造は民本主義を唱え 政治の目的は民衆の利益・幸福の追求にあ りと主張しましたが、教育においても民衆 を重んずるという原則の中で新教育運動 が起こされました。横浜市域でもこれら の運動が展開されその実例の中に金沢、 三分両小学校の名があげられています。 金沢小学校には1920(大正9)年11月から 1925(大正14)年1月まで延べ51日の「教授 批評会記録」が残っていて、授業を午前中 にして午後から批評会を開き全職員が出 席して遠慮の無い批判をしていますがそ れによると、職員は型にはまらない子ども の自由な発想を求め、そのような指導が好 ましいものとしています。

1919(大正8)年当時の金沢小学校 金沢小学校の校舎は1911(明治44)年から1924 (大正13)年までは町屋神社の隣にありました。

<金沢で働いた野口英世> 明治から大正にかけて国際的な学者とし て活躍した野口英世は若かりし頃金沢村 大字柴の検疫所で働いていました。 1899(明治32)年5月海港検疫官補として 赴任した野口は同年9月横浜港の沖合に停 泊する船舶から病人2人を隔離して病棟に 移し検査を重ねてペストと思われる症状 を示していることを報告しました。検疫所 は伝染病研究所に検査を依頼して北里柴 三郎、志賀潔の手によってペストと確認さ れ野口は翌年10月、中国で発生したペスト 治療のために組織された国際医療団に北 星柴三郎の推薦をうけて加わり、その後国 際的に活躍するようになりました。 野口が働いていた検疫所は1973(昭和43) 年検疫業務が中区の港湾合同庁舎に移る と共にその役割は終わりましたが、跡地は 長浜野口記念公園(詳細はこちら)として一般 に公開されることになり、公園内には長浜 検疫所の旧事務棟を外観復元した音楽ホ ールの「長浜ホール」が整備され旧細菌検 査室は野口英世関係資料が並べられた展 示室として生まれ変わりました。

野口英世博士(中村澄夫氏蔵)

<鏑木清方と金沢> 鏑木清方は明治・大正・昭和の三代にわた って活躍した日本画家ですが小さい頃か ら広重の画を見て金沢八景の素晴らしさ を知り特に「江戸名所図会」などにより金 沢の地へ憧れたようです。 1918(大正7)年家族と共に州崎の東屋に 長期にわたり滞在して金沢の入海の風景 が気に入り、翌年には谷津の君ヶ崎に東京 深川の米問屋として知られた木村徳兵衛 氏旧宅を譲り受けて、茅葺屋根の離れを増 築して「遊心庵」と名づけ、別荘として夏は 勿論しばしば休養の地として1939(昭和 14年)まで滞在しました。

遊心庵での鏑木一家 (八柳サエ・鏑木清方と金沢八景) ―左から長女清子、清方、次女泰子、妻照―


大正時代
U(1912
   〜1925)
1914
 第一次世
界大戦勃
発
1915
 対華21ケ
条要求


1918
 シベリア
出兵開始

1920
 日本、国
際連盟に
加入


1923
 関東大震
災

 


第一次世界大戦への参加

<世界大戦はじまる>
 19世紀末以来ヨーロッパでは新興のドイツ
帝国が急速に発展を遂げ、皇帝ヴィルヘルム
二世の積極的な世界政策の下にイギリスに
対抗して中近東に進出、同じゲルマン民族の
オーストリアと同盟を結び、これにイタリア
が参加、三国同盟を結成しましたがイギリス
はフランス、ロシアと三国通商を結びドイツ
を包囲する体制をつくりました。
 1914年(大正3)年6月オーストリアの皇太子
がオーストリアのバルカンへの進出に反対
するセルビアの一青年によって暗殺され、オ
ーストリアは一ヵ月後セルビアに宣戦を布
告し、オーストリアと同盟を結んでいるドイ
ツが参戦、これに対してロシア、フランス、イ
ギリスがセルビアを助けて戦争に加わり第
一次世界大戦がはじまりました。
<日本の参戦>
 日本政府(第二次大隈内閣)は外務大臣加藤
高明が中心となり、欧米列強の関心がヨーロ
ッパに集中しているすきに東アジアにおけ
る日本の勢力を強化する良い機会と考え、日
英同盟を根拠に1914(大正3)年8月ドイツに
宣戦を布告しました。
 日本の陸軍は中国の山東半島に上陸、ドイ
ツ領の膠州湾を攻撃し海軍基地の青島を陥
れ、海軍はマーシャル、マリアナ、カロリン諸
島を次々に占領しました。
<対華二十一ヶ条要求>   
 ドイツの根拠地を東アジアから一掃する事
に成功した日本は満州をはじめ、中国の全土
に日本の勢力を広げようとします。
 ヨーロッパ諸国は中国にまで目を向ける余
裕は無く、又中国では孫文が中心となった辛
亥革命により清朝が倒れ、中華民国が成立し
ましたが国内は不安定な状態でした。
 この様子を見た日本は1915(大正4)年1月
中国政府に二十一ヶ条にわたる要求(詳細は
こちら)を突きつけました。
 中国政府はやむなく要求に応じましたが中
国国民の間には強い反日感情が高まり、又欧
米列強は日本に警戒心を強めます。 
<ロシア革命とシベリア出兵>   
 1917(大正6)11月ロシアでは皇帝の専制政
治に反発する労働者や農民、兵士たちが戦争
に反対して革命をおこし、ロマノフ王朝は倒
され政権はレーニンの率いる労働者、兵士の
ソヴィエト政府に移り世界で始めての共産
主義国家が誕生しました。
 ソヴィエト政府は単独でドイツと講和条約
を結び、戦争から手を引きましたが、翌年フ
ランス、イギリス、アメリカの各国は革命の
影響が広がるのを怖れ、連合してシベリア方
面に軍隊を送り、日本にも派兵を求めました
 日本政府(寺内内閣)はロシア革命に干渉す
るとともにこの機会にシベリア方面に勢力
を広げようとして進んでこれに参加、多くの
兵を送りたちまちのうちにバイカル湖から
東の一帯を占領し各国が撤退したあともな
お居座り続けたため、国内的にも国際的にも
非難を受け1922(大正11)年ようやく撤兵し
ました。
 日本のシベリア出兵は尼港事件などの悲劇
の中で3000人以上の死者を出して当時の金
で10億円の戦費をつぎこみ、殆ど得るところ
なく終わりました。
 


成金景気と米騒動

<大戦景気>   
 明治時代の末から慢性的な不況と財政危機
に悩まされていた日本経済は第一次世界大
戦をきっかけに、かってない好景気を迎えま
す。
 日本は参戦しましたが、アメリカと同じよ
うに直接的な被害を殆ど受けず、欧州列強が
目を向けられない間に中国市場を独占して
更に全世界に日本商品を売り込みました。
 特に世界的な船舶不足のため海運業や造船
業はきわだった活況を呈します。
 紡績、織物などの軽工業や機械、製鉄、化学
などの重化学工業の生産も著しく増えまし
た。工業生産額全体では第一次世界大戦中に
約5倍に増加して農業生産を追い抜き世界的
な工業国に発展、第一次世界大戦が日本経済
に与えた影響は計り知れないほど大きなも
のでした。 
<成金の誕生>    
 このような好景気はあちこちに、にわか金
持ち=成金を生み出しました。船成金、鉄成
金、糸成金、鉱山成金、株成金などがつぎつぎ
にあらわれました。しかし戦争が終わると共
にこれらの成金たちも消えてしまいます。
<米騒動の勃発>    
 大戦による経済発展の反面、工業労働者の
増加と人口の都市集中は米の消費量を増大
させ、輸出の増加による国内の物価騰貴によ
り庶民の生活は苦しくなる一方でした。
 1917(大正6)年頃から米価は次第に上昇し
翌年に入ると急上昇したため、人々の生活は
脅かされ同年7月富山の漁村の主婦たちが米
価の高騰を阻止しようと運動を始めました。
 この運動はたちまち全国に広がり8月には
大都市をはじめ各地で米騒動が起きました。
 政府は外米の輸入や米の安売りを行うと同
時に軍隊まで出してその鎮圧に当たり、1ヶ
月あまりの後ようやく騒動はおさまりまし
たが寺内内閣は世論の激しい非難のなかで
9月退陣しました。


大戦の終結と戦後の恐慌


  
<原内閣の成立> 
 米騒動の責任をとって寺内内閣が退いた後
1918(大正7)年9月に政友会総裁の原 敬が陸
軍、海軍、外務大臣以外の大臣をすべて政友
会から選んではじめての本格的な政党内閣
をつくりました。
 原 敬は岩手県出身で藩閥政治家ではなく
日本で始めて衆議院に議席を置く総理大臣
だったので平民宰相と呼ばれ、すぐれた指導
力を発揮して教育施設の拡充、交通機関の整
備、産業の振興、国防の充実などに積極政策
を推進しました。
 しかし藩閥や軍閥の力は、なお強く国民の
間に評判の悪いシベリア出兵も続け、軍備拡
張による税負担や公債の増加に加えて汚職
事件の発生などで次第に世論の支持を失い、
1921(大正10)年東京駅で一青年によって暗
殺されました。
 そのあとは高橋是清内閣が政友会の総裁に
なって内閣を引き継ぎます。 
<ベルサイユ条約>
 第一次世界大戦はアメリカの参戦やドイツ
国内経済の破局によって1918(大正7)年ドイ
ツ帝政が倒れ終わりを告げました。
1919年1月から対独講和会議(パリ講和会議)
が開かれ6月にはベルサイユ条約が締結され
ました。
 敗れたドイツは国土の一部とすべての海外
植民地を失い、巨額の賠償金支払い義務を負
い空軍の保有を禁止され陸海軍も大幅な軍
備制限を受けました。
 日本はドイツの持っていた山東省の権益を
引き継ぐことを認めさせ赤道以北の旧ドイ
ツ領南洋諸島を国際連盟から委任統治する
ことになりました。
<五・四運動と三・一事件>
 パリ講和会議では英・米・仏・伊とならんで
五大国となった日本でしたが、中国の国民の
間に山東省の旧ドイツの権益を日本が継承
したことについて激しい反対運動が広まり
1919年5月4日大規模なデモが起き「打倒日本
帝国主義」の声が高まり、このため中国はベ
ルサイユ条約に調印しませんでした。
 朝鮮では日本の植民地支配に反対して独立
を求める機運が高まり、同年3月1日京城(ソ
ウル)で「独立万歳」を叫ぶ集会が行われ、運
動はたちまち朝鮮各地に広がりましたが、日
本政府は軍隊でこれを鎮圧しました。
<ワシントン会議>   
 1921年から22年にかけて東アジアに新しい
国際秩序をつくろうとするアメリカの呼び
かけによりワシントンで行われた会議には
米、英、仏、日本、中国などの9ヶ国の代表が
参加して海軍の軍備縮小と日本をめぐる東
アジアと太平洋地域の国際問題が討議され
ました。
 この会議で米・英・仏と日本の間で締結され
た4ヶ国条約では太平洋地域の平和を維持
することが約束され、日本がドイツから引き
継いだ南洋諸島に海軍基地を増やすことは
出来なくなり日英同盟もこの条約の発効と
同時に廃止されました。
 ワシントン会議によりこれまで戦争ととも
に進められて来た海外への進展は第一次世
界大戦の終結と共に抑えられことになり、
中国には山東省の権益も返還、明治以来増や
し続けてきた陸海軍の軍備も縮小されるこ
とになりこののちの幣原外交は国際連盟の
強調方針に従って、しばらくは平和への道を
歩むことになりました。 
<戦後恐慌の到来> 
 第一次大戦中の好景気は産業の発達と好調
な輸出や海運などの収入によってもたされ
たものですが、戦争終結により各国の生産力
が回復すると輸出は不振となりたちまち不
景気の波に襲われます。
 特に重化学工業は輸入品が増加して国内の
生産を圧迫し、1920(大正9)年には株式市場
が暴落し、また綿糸、生糸の売れ行き不振に
より相場が下落して倒産する会社が続出し
戦後恐慌と呼ばれる不況に見舞われます。
<関東大震災> 
 1923(大正12)年9月神奈川県相模湾沖合に
震源地をもつマグニチュード7.9の大地震が
発生しました。
 京浜地区では工場や事業所の殆どが倒壊あ
るいは焼失し、戦後の不景気に苦しんでいた
日本経済は手痛い追い討ちをかけられ震災
恐慌と呼ばれる大不況に陥りました。
 震災の混乱の中で朝鮮人や社会主義者が暴
動を企てているというデマが流れ、戒厳令が
敷かれた中で住民の作った自警団や警察、憲
兵などにより朝鮮人や社会主義者が虐殺さ
れ社会主義者の大杉 栄も憲兵大尉の甘粕正
彦によって殺されました。


大正デモクラシー
(詳細はこちら)の波


 
<社会運動の高まり>
 第一次世界大戦を通じてもたらされた世界
的な民主主義の風潮の高まりなどの影響を
受けて、大戦が終わる頃から日本国内でもさ
まざまな社会運動がおこりました。 
−労働運動−
 運動の中心となったのは1912(大正1)年に
鈴木文治らによって結成された友愛会で大
日本労働総同盟から日本労働総同盟と名前
を変えて一日八時間労働、最低賃金制、普通
選挙の実施、治安維持法の改正などの要求を
掲げて活動しました。
 1920年には日本最初のメーデーも行なわれ
大逆事件以後政府の厳しい弾圧のもとで「冬
の時代」を過ごしていた労働運動や社会主義
運動も次第に活発になりました。
−社会主義運動−
 長らく鳴りを潜めていた社会主義運動もロ
シア革命の影響や労働運動の高まりにつれ
て息を吹き返しました。
 1920年には堺利彦、山川均、大杉栄などが中
心となって日本社会主義同盟がつくられ、つ
いで1922年にはソ連のモスクワに本部を置
くコミンテルン(国際共産主義組織)の日本
支部が秘密のうちに結成されました。
 しかし1923年におこった関東大震災の混乱
の中で社会主義者や労働運動家が虐殺され
るなど政府の圧迫や政党内部の対立もあり
運動は苦難の道が続きます。
−農民と部落開放運動−
 農村では第一次世界大戦による米価上昇の
結果、地主と小作人の貧富の差が広がり地主
に対して小作料の軽減を要求する小作人た
ちの争議が頻繁におこるようになり1922(大
正11)年には賀川豊彦、杉山元治郎らによっ
て日本農民組合が作られ労働者と手を組ん
で、いくつかの無産政党(社会主義政党)を作
る原動力となりました。
 また被差別部落の住民に対する社会的差別
を自主的に撤廃しようとする部落解放運動
も本格的に展開されるようになり1922年に
結成された全国水平社を中心に運動は根強
く進められるようになりました。全国水平
社はその後部落開放同盟に発展しました。
−婦人の開放運動−
 新しい時代の波は女性の権利や地位を向上
させる運動をおこしました。
 1911(明治44)年に平塚雷鳥らを中心とする
青鞜社(詳細はこちら)が作られましたが1920
(大正9)年には市川房枝、奥むめ等も加わっ
て新婦人協会も作られ、婦人参政権運動も行
なわれるようになりました。
<第二次護憲運動>   
 原首相と高橋首相の政友会内閣のあとには
加藤友三郎(海軍大将)、山本権兵衛という軍
閥内閣が続きましたが1923(大正12)年虎の
門事件で山本内閣が退陣した後は枢密院議
長の清浦奎吾が大部分の大臣を貴族院議員
から選んで内閣をつくりました。 
 立憲政友会、憲政会、革新倶楽部はこれを衆
議院を無視する反立憲政治の内閣として護
憲三派を結成して、清浦内閣打倒を目指す第
二次護憲運動を展開しました。
 1924(大正13)年5月の総選挙では護憲三派
が圧倒的な勝利を収め政府側の政友本党は
惨敗、このため清浦内閣は総辞職し第一党
となった憲政会の総裁加藤高明が首相とな
り政友会総裁の高橋是清と革新倶楽部の犬
飼毅も入閣して護憲三派内閣が成立しまし
た。
<普通選挙法の成立>    
 日本に国会が開設されたのは1890(明治23)
年ですが選挙権は納税額により、男子のみに
与えられていました。
 大正時代になると普通選挙を要求する国民
の声が高まり、加藤高明の護憲三派内閣の時
になって普通選挙法案が1925(大正14)年成
立、納税額には関係なく男子25歳以上の者は
選挙権を、30歳以上の者は被選挙権を持つよ
うになりました。この法案では女子の選挙権
を認めないなど沢山の欠点もありましたが
多くの農民や労働者たちにも政治への門戸
が開かれるようになりました。
<治安維持法>  
 加藤内閣は普通選挙法と共に治安維持法
を成立させました。これは第一次世界大戦
後の社会主義運動の高まりに対応したもの
で普通選挙の実施などにより活発化が予想
される無政府主義者や共産主義者の活動を
取締まるのが目的でしたが、次第に労働運
動や農民運動に弾圧が加えられるようにな
ります。  


大衆文化の芽生え

 大正年間には日本は資本主義の飛躍的発
展と工業化の推進を背景に社会の都市化と
大衆化が進みましたが、これに伴い都会の
中流家庭を中心に西洋風の生活様式がひろ
がり様々な芸術やスポーツが花を咲かせま
した。
 自然科学・技術の分野では本多光太郎のK
・S磁石鋼の発明、野口英世の高熱病の研究
などすぐれた業績が生まれました。
 文学・思潮の面では武者小路実篤、有島武
郎、志賀直哉らの白樺派が華々しい活躍を
見せました。また芸術の分野では1907(明治
40)年以降文部省美術博覧会(文展)が開か
れ日本画では平福有穂や鏑木清方らが活躍
しました。洋画では二科会から梅原龍三郎、
安井曽太郎が出て、竹久夢二は美人女性の
風俗画で広く庶民の心をとらえました。
 演劇では歌舞伎、新派劇が次第に大衆化し
て新劇では1913(大正2)年島村抱月が芸術
座を結成し、松井須磨子が人気スターとし
て世の注目を集め新劇の普及に大きく貢献
しました。


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