第一次世界大戦
<大戦の勃発と拡大> オーストリアはスラブ人の民族運動が自分の国に及ぶのを防ぐため1876年のベルリン会議で 行政権だけを得ていたトルコ領のボスニア・ヘルツェゴビナを併合しましたが、この二つの州に はセルビア人が多く住んでおり両州の併合を目指すセルビア人の激しい反オーストリア感情を 引き起こしました。 1914年6月オーストリアの圧迫に抵抗するセルビアの青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺し ました。7月オーストリアはセルビアに宣戦を布告、一週間後にはロシア、フランス、イギリスが セルビア側(連合国側)に、ドイツがオーストリア側(同盟国側)について参戦しました。 更に日本が連合国側に、トルコが同盟国側に加わり戦線は西アジアや中国にも広まり、世界的 な規模の戦いになりました。 この戦争では飛行機や戦車、毒ガスなどの新兵器が使われ、戦争の被害を大きくし戦場だけで なく後方の生産と補給が勝敗のカギとなり、戦いは国民のすべてを戦争に刈りだす総力戦とな りました。 <戦局の転換と終結> 資源の乏しいドイツは短期決戦を目指しましたが、ロシアとの東部戦線の広がりと西部戦線の フランスとの戦いの長期化により次第に劣勢となり1917年2月、挽回のため無制限潜水艦戦を開 始して無差別に民間の輸送船まで撃沈、物資を積んだアメリカ船も沈められこれまで中立を守 って来たアメリカもこれを理由に参戦、連合国側が圧倒的に有利になりました。 一方ロシアでは1917年11月革命によりソヴィエト政府が樹立され翌年3月ドイツとの間で単独 講和を結んで戦争から手を引き、オーストラリアでも11月に革命がおきパプスブルグ家が崩壊、 ドイツ国内でも各地で革命運動が活発になり同じ月皇帝は退位しオランダへ亡命パり郊外のコ ンピェーヌの森でドイツの臨時政府と連合国との間で休戦条約が結ばれ戦争は終結しました。 <パリ講和会議> 1919年1月連合国32カ国の代表が集まってパリ講和会議が開かれアメリカ大統領ウイルソンが 提唱した14ヶ条を中心として議事は進められました。 ここでも各国の利害は対立し、6月に調印されたヴェルサイユ条約は敗戦国にとって厳しいも のでした。ドイツはすべての植民地とアルザス、ロレーヌのフランスへの返還など本国の領土の 十分の一を失い1320億マルク(5百億ドル)という巨額の賠償金を課せられドイツ経済は危機に 陥ることになりました。 第一次世界大戦頃の世界
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