ーファミリー版ーよこはまの歴史12

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P13

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(昭和時代)

…(]U)昭和時代 [太平洋戦争まで]…



 関東大震災ののち昭和恐慌に襲われた横浜は日清、日露戦争からの軍需による京浜工業地帯の発展に伴い
工業生産都市として発展しますが、太平洋戦争の勃発により、1945年大空襲を受け壊滅、8月15日の終戦の日
を迎えました。
 第一次大戦後アメリカに始まった大恐慌は全世界に及び、やがてドイツやイタリア、日本などにファッシズ
ムが台頭、1939年第二次世界大戦がはじまりファシズム諸国の敗北によりようやく世界に平和への道が開け
ました。

世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

 <パリの不戦条約>
 第一次大戦後ドイツでは政情不安が続き、また
巨額の賠償金に苦しんでいました。
 一方戦いに勝ったイギリスも債務の返済や貿
易の不振などで不況に陥り失業者が激増してい
ました。
 またフランスも戦争によって国土が荒らされ、
そのうえロシアに投じた資本が革命によって失
われたため、経済に大打撃を受けていました。
 ヨーロッパの衰えに対してアメリカは大戦後、
工業生産が全世界の42%を占めるなど経済が発
展し、特に1920年代には空前の繁栄期になって
いました。
 1928年アメリカの国務長官ケロッグとフラン
スの外務大臣ブリアンの呼びかけにより、15カ
国(のちに63カ国)の間で不戦条約が結ばれ、国
際紛争を武力によって解決しないことを約束し
ました。
 しかし自衛の為の戦争は認め、違反した場合の
制裁規定もなかったため実際の効果は上がりま
せんでした。

 <世界恐慌はじまる>
 第二次大戦後のアメリカは空前の経済的繁栄
を見せ、ヨーロッパ諸国の経済も立ち直り、戦前
の水準に回復してきました。
 しかし資本家と労働者の貧富差の拡大、商品の
過剰生産、農産物の価格下落、ソ連の社会主義化
などにより資本主義期国の市場は次第に狭まっ
ていきました。
 1929年10月24日(木)、ニューヨーク市ウォール
街の株式取引所で株価の大暴落がはじまり、か
ってない規模の大恐慌が起りました。

 経済恐慌の原因
 
 一般に経済恐慌は過剰生産が行き詰まり、消費者の
 購買力が弱い時に株価の暴落で口火がきられます。
 一般大衆の消費力が少ないために商品が売れなく
 なり在庫が増大して、企業が銀行への借入金を返済
 できなくなる。そして企業の倒産がおこり失業者が
 増大していきます。購買力が弱いから農産物の価格
 も下がります。
 アメリカの経済学者ガルブレイスは、1929年大恐慌
 の原因として、国民所得の配分が著しく不平等であ
 ったことをあげています。堅実な中産階級が成長し
 ておらず、また株式会社や銀行の組織が不健全であ
 ったことも、容易に企業が倒産した理由にあげてい
 ます。(大恐慌1929)
世界の金融の中心であるアメリカの恐慌はた ちまち他の資本主義国にも及び、世界経済を大 混乱に陥れました。 大恐慌が広まると世界中に倒産する会社が続 出、町は失業者で溢れました。アメリカでも失 業者が15百万人にもおよび深刻な不景気が世 界を覆いました。 世界恐慌の結果、各国の工業生産力は大幅に 低下し、また恐慌によって職を失った人も世界 中で35百万人から5千万人に達したといわれま す。
<ニューディール政策> アメリカは大恐慌によって工業生産は半分に 、貿易は三分の一に減り、失業者は増大する一方 でした。 1933年フーバーに代って民主党のルーズヴェ ルトが大統領になるとニューディール政策と呼 ばれる大規模な改革を始めました。それは自由 経済に政府が積極的に介入、政府の指導により 経済再建を行おうとするものでした。 外交面ではソ連を承認して国交を開き、ラテン アメリカから軍隊を引き上げ、友好的な通商関 係を開き、アメリカ経済は次第に立ち直ってい きました。 <ファシズムの台頭> 世界的な恐慌の進行に対して、各国はさまざま な対策を行ないました。イギリス、フランスなど は高い保護関税を設けて本国と植民地を結ぶ閉 鎖的で自国本位のブロック経済の樹立を図りま した(持てる国)。そのため自由貿易体制が損な われ世界貿易が縮小、一方有力な植民地や市場 を持たないドイツ、イタリア、日本など(持たざ る国)は苦境に陥り、国内的には軍事態勢を強化 し自国の経済圏の確立を図るため、近隣諸国へ の侵略を強めました。 こういった状況の下でイタリアではムッソリ ーニが、ドイツではヒトラーが出てファシズム が台頭し、第二次世界大戦を引き起こしました。 -ヒトラーの登場- 第一次大戦の敗戦国ドイツは多額の賠償金の 負担に苦しんだ上に世界恐慌で社会不安は一層 増大しました。こういう情勢の下でヒトラーに 率いられたナチス党はその勢力を拡大して1932 には社会民主党を抜いて第一党になりました。 ヒトラーは失業者救済などの社会主義的な政 策を掲げ、翌年首相になると労働組合をはじめ 社会民主党ほかすべての政党を次々と解散、193 4年に大統領が亡くなると総統に就任し名実と もに完全な独裁者となり、民主主義を否定し、こ れに反対する者やユダヤ人を迫害し文化統制や 教育の支配を強めていきました。 (コラム.ユダヤ人迫害)
ニュルンベルクのナチス党大会
ハーケンクロイツ(卍)、NSDAP(ナチスの略称) と記された旗を持って整然と行進する党員 (山川出版社・世界史研究より)
-スペイン内乱- 1930年代のヨーロッパはナチスなどのファシ ズムの進出に対してすべての反対勢力を集め、 「人民戦線」を作ろうという動きがおこりました 1936年にはスペインの人民戦線が総選挙で大 勝し、人民戦線内閣が出来ました。これに反対す る特権階級や右翼、軍部の勢力を背景に7月軍人 出身のフランコ将軍がモロッコで反乱をおこし 本土に侵攻しました。 ドイツやイタリアは反乱軍を支持して武器や 兵器を送り援助、これに対し欧米諸国からの義 勇軍が政府側に参加して戦いました。 1937年ドイツ空軍がスペインの町ゲルニカを 空襲、町をほぼ全滅させました。スペインの画家 ピカソはこの爆撃に衝撃を受け、戦争を告発し た大作「ゲルニカ」を完成ました。 (コラム.ピカソとゲルニカ) スペインの内乱はファシズムと反ファシズム の対立の場になりましたが、1939年反乱軍が首 都マドリードを占領、人民戦線政府を倒してフ ランコが独裁者となりました。 この内乱をきっかけにイタリア、ドイツが接近 し、やがて日本が加わって1937年には日・独・伊 防共協定が成立、1940年に日・独・伊三国同盟に 発展しました。 <ロンドン海軍軍縮会議> 世界的不況の中で1930年アメリカ大統領とイ ギリス首相の提案で、ロンドンで海軍軍縮会議 が開かれアメリカ、イギリス、日本の間で補助 艦(小型巡洋艦と駆逐艦など)の保有割合を10: 10:7とすることが定められました。 これに対して日本では軍部を中心に激しい反 対運動がおこり、首相の浜口雄幸が東京駅で狙 撃され重傷を負うという事件が発生し、軍部が 勢力を強めていくきっかけになりました。 日露戦争の勝利によって中国東北部(満州)の 南満州鉄道の権益を得た日本は、その沿線を発 展させるため、多くの資本をつぎこみ、日本はこ こに織物や鉄製品を輸出し鉄鉱や石炭を輸入、 こうして日本は中国東北部や朝鮮に勢力を広げ 、そこから食料や原材料を得ることによって国 力を取り戻そうとしました。 <満州事変> 1931年9月中国の奉天(現在の瀋陽)の北にある 柳条湖で鉄道の爆破事件(柳条湖事件)が発生、 これをきっかけに日本軍は戦争を始め、中国東 北部を占領、翌年占領した地域に満州国をつく り、清朝最後の皇帝溥儀を執政(のち皇帝)とし ました。 日本軍は1933年には熱河省も占領して停戦協 定を結び、日本軍が満州に駐屯すること、満州は 日本の権益を尊重することなどが決められまし た。 1933年2月、国際連盟は総会を開き、リットン調 査団の報国書に基づき満州国の不承認を賛成多 数(反対は日本のみ、タイは棄権)で決議、日本は 国際連盟を脱退、続いてワシントン、ロンドンの 軍縮条約からも脱退して国際的に孤立し戦争へ の道を進みます。。
リットン調査団・スーツ姿がリットン卿
(外務省・外交資料館蔵)
<日中戦争> 1937年7月7日、盧溝橋事件が発生、日本の軍部 はこれを機会に中国の支配を目指し、日中戦争 がはじまリました。 中国では国民党と共産党の対立が続いていま したが、日中戦争の開始をきっかけとして蒋介 石と毛沢東が手を結び、9月末に第二次国共合作 が成立しました。 日本軍は上海、北京、南京、武漢などの主要都市 を占領しましたが、中国側も広大な土地を利用 しして根強くこれに抵抗、アメリカ、イギリス、 ソ連も中国を支援したので戦争は次第に長期化 しいきました。 <ミュンヘン会談> 1938年3月ドイツはオーストリアを武力で併合 、さらにチェコスロバキアのズデーデン地方の 割譲を要求しましたが、チェコが強く抵抗し、問 題解決のために9月、ドイツのミュンヘンでドイ ツ、イギリス、イタリア、フランスの四カ国会談 が開かれズデーデン地方はドイツに割譲されま した。この結果ドイツの大帝国建設の野心は更 に強まり、1939年3月にはチェコ全土を支配下に 入れ更にポーランドへとドイツの野望は高まり ました。ここに至って英仏も強硬な態度に出て、 ポーランド相互援助条約条約を結び、ドイツと 対決する姿勢を示しました。 (ナチス・ドイツの侵略図) <第二次世界大戦> −大戦がはじまる− 1939年8月、ソ連と不可侵条約を結び、東部国境 への不安をなくしたドイツは9月1日ポーランド への侵攻を開始しました。  これに対してポーランドへの安全保障と援 助の約束からイギリス、フランスはドイツに宣 戦、第二次世界大戦が始まりました。 ポーランドはドイツ軍の雷撃戦(戦車などの 機械化部隊と空軍が一体となって攻撃する戦 法)の前に4週間で降伏しました。 中立を表明したソ連も独ソ不可侵条約の付属 秘密議定書に基づいて9月17日ポーランドに侵 入してドイツとともにこれを分割しました。

 ポーランド分割
 
 ポーランドは14〜16世紀には、東ヨーロッパでは最
 も栄えた国でした。しかし貴族全員の投票で、王を選
 んでいたこともあって王位をめぐる争いが続きまし
 た。
 この争いに乗じて1772年ロシア、プロイセン、オース
 トリアの三国によって第一次ポーランド分割が行な
 われポーランドは領土の三分の一を奪われてしまい
 ました。
 1793年にはロシア、プロイセンにより第二次分割が、
 続いて1795年にはロシア、プロイセン、オーストリア
 によって第三次分割が行なわれポーランドは独立国
 としての姿を消しました。
第二次大戦が開始されるとロシア、ドイツ、オースト リアはともにポーランド人の協力を必要としたため ポーランドの独立を約束、大戦終了後ポーランドは 共和国としての独立を宣言、ベルサイユ条約は民族 自決の原則によってこれを承認しましたが、国土は 分割前の半分にも達せず、多くの異民族を含むもの で国境紛争の火種を残しました。 1939年9月ドイツが侵入するとソ連も東方から侵攻 してポーランドは両国間で分割され1941年独ソ戦が 開始されると間もなく全土はドイツ軍の占領下にお かれました。
1940年4月、ドイツはデンマーク、ノルウェーへ の攻撃を開始、5月には中立国のオランダ、ベル ギーを強行突破してフランスへ攻め込みました これに対してイギリス、フランスの両軍は敗戦 を重ね、6月14日にはパリが陥落、ドゴール将軍 はロンドンに亡命6月22日、休戦条約が結ばれ、 以後北フランスはドイツの支配下におかれ、南 フランスには親ドイツ派のビシー政府がおかれ ました。

  ドゴール将軍とレジスタンス
 
 フランスは降伏とともに結ばれた休戦条約で国土
 は大きく南北に分割され、北部はドイツ軍の直接
 占領下におかれ、南部はペタン元帥がビシー(中部
 フランスの保養地)に政府を置きました。
 これに対しロンドンに逃れたドゴール将軍はBB
 C放送を通じて対独レジスタンス(抵抗)の呼びか
 けを行い、ロンドンで「自由フランス軍」を組織し
 て抗戦継続を目指しました。
 ドゴールの呼びかけは、やがてフランス全土に広
 がり、1944年6月連合軍のノルマンディ上陸作戦を
 きっかけにレジスタンス軍の総反撃が始まり、8月
 パリが解放されドゴールは帰還し臨時政府の首相
 となりました。
BBCを通じてドイツ軍に抵抗をよびかける
ドゴール(山本耕二・祖国フランスを救え)
1940年6月にはドイツと同盟を結んでいたイタ リアもイギリス、フランスに対して宣戦し、8月 にはドイツ空軍によるイギリス本土への爆撃が 始まりましたが、チャーチル首相の下、イギリス は激しい空襲にも徹底抗戦を続け、ヒトラーは イギリス上陸作戦を実施することが出来ません でした。 −独ソ戦の開始− ドイツは農作物や工業原料などを確保するた めに1940年から41年にかけてバルカン諸国への 侵入をはじめました。 このためバルカン諸国の一つであるルーマニ アに進出していたソ連との関係が悪化、ドイツ は独ソ不可侵条約を破棄して1941年6月、ソ連に 大軍を送りレニングラード(サンクトペテルブ ルグ)に迫りましたが、ソ連の抵抗にあいこれを 突破することは出来ませんでした。 これに対してイギリスはソ連と英ソ相互援助 条約を結びアメリカも大量の物資をソ連に供給 して反ドイツの立場を明らかにしました。 一方ドイツ軍はイタリア軍とともにアフリカ のエジプト、クレタ島、リビア地方でもイギリス と戦端を開くなど1941年には戦争は全ヨーロッ パからアフリカにまで拡大しました。 (図・第二次大戦中のヨーロッパ) -太平洋戦争- 中国との戦いが長びいていた日本はフランス がドイツに降伏すると南方進出の足がかりをつ くるため、フランス領インドシナに進駐しまし た。 これに対してアメリカは在米日本資産の凍結 と石油の日本への輸出禁止をもってこれに対抗 、イギリス・オランダ・中国とともにABCD包 囲陣をつくって日本を圧迫しました。 1941年10月陸軍大将の東条英機が日本の総理 大臣になると12月8日アメリカ、イギリスに対し て宣戦し太平洋戦争が始まりました。 最初日本はフィリッピン、シンガポール、マレ ー半島、ジャワなど西太平洋の広大な地域を次 々と占領して優勢でしたが、1942年6月ミッドウ エイ海戦でアメリカに敗れてから劣勢となり、 サイパン、フィリッピン、硫黄島、沖縄などを次 々と占領され日本本土も激しい空襲を受けまし た。 -ドイツと日本の無条件降伏- 1941年末アメリカが参戦、1943年1月ドイツ軍 はソ連のスターリングラードの戦いで大敗、15 万人の兵が死亡しました。 アメリカ、イギリス両軍は北アフリカからシチ リア島を経てイタリア本土に上陸、9月イタリア は降伏、1944年6月米英軍はフランス北部のノル マンディーの上陸作戦を開始、8月にはパリを奪 還してドイツへ進撃、ソ連軍もドイツへ攻め込 んで、ドイツ軍は総崩れになり1945年4月ヒトラ ーは自殺、5月7日ドイツは無条件降伏しました。 またソ連は1941年に結んだ日ソ中立条約を一 方的に破棄して1945年8月日本に宣戦、日本はア メリカの手により広島と長崎に原爆を投下され 8月15日に無条件降伏を受け入れ、こうして第二 次世界大戦は連合国側の勝利に終わりました。

 <震災の復興>
 関東大震災に見舞われた横浜から最初に復
興の叫び声を上げたのは生糸商人で、横浜が
廃墟の中から立ち上がるには、生糸関係の問
題を解決することが必要で、また政府や金融
機関の援助を受けるためにも有利であったか
らです。
 国も9月27日帝都復興院官制を公布、東京、横
浜二大都市に関する復興内容が示され港湾お
よび陸上設備、上下水道、電気、ガス、衛生、教
育施設に至るあらゆる面での復興を図る計画
がつくられ公営復興事業費だけで総額1億820
5万円に達しました。
復興なった日本大通リ・昭和初期
(横浜開港資料館蔵)
<復興期の建築> 関東大震災で壊滅した横浜が直ちに復旧を 図ったのは港湾施設でしたが、建築では生糸 検査所の再興が急がれました。本町通りに面 した旧敷地を裁判所と交換し、北仲通りの現 在地に1926(大正15)年に第一期、次いで1932 年第二期工事が完成して復興がなりました。 延床面積は50804uに及ぶ大建築であり、横 浜における震災復興計画中最大規模といわれ ています。
旧生糸検査所(現在の横浜第二合同庁舎)
震災復興計画には当時欧米で流行した新し いスタイルやデザインが取り入れられ、帝冠 様式(西洋建築の建物に日本のお城風の屋根 を乗せた建築)のはしりとされる神奈川県庁 (1928年)、横浜税関(1934年)も建築され横浜 三塔として注目を集めました。

 横浜三塔

 神奈川県庁舎、横浜税関、開港記念館は僅か100メ
ートル以内に三つの塔が立ち並び、かっては遠く東
京湾口からも見ることが出来、その塔屋の形がトラ
ンプの絵札にイメージされそれぞれキング、クイー
ン、ジャックと呼ばれ市民に親しまれてきました。

横 浜 税 関

(神奈川県庁はこちら)・(開港記念館はこちら)
<昭和恐慌と横浜> 第一次大戦後の戦後恐慌と続く関東大震災 による不景気は1927(昭和2)年の金融不況、つ いで1929年の世界大恐慌に及んで日本の経済 はどん底に陥り昭和恐慌といわれる大不況時 代に入りました。 恐慌の打撃はことに中小企業で大きく、倒産 や解雇、賃金不払いなどが相次ぎ、街にあふれ 出た失業者はやがて農村に帰り、農村の過剰 人口は生活苦を生んでいきました。 労働争議も大規模なものとなり1923(大正13 )年の横浜船渠争議、1925年の総同盟に指導さ れる富士瓦斯紡績争議、1929年の市電共和会 のストライキは全国的に注目されました。 しかし争議の多くは敗北して、一部の要求は 認められたものの指導者には厳しい弾圧が加 えられ、働く人々は争議だけでなくメーデー への参加や失業反対運動、生活擁護のための 消費組合の結成といった方法で活動の場を広 げていきました。
横浜船渠工信会交渉決裂・昭和4年
(有隣堂・神奈川県の歴史<下>より)
<商業港から商工業港へ> 明治から大正にかけての横浜港は軽工業を 中心とした貿易港で主な輸出品も生糸、絹織 物、綿糸、綿織物、茶などでその大部分は他府 県から集めるといった状態でした。そのため 商品の通過港または商業港の性格が強かった のですが、日清、日露の両戦争を経て第一次大 戦の頃から急速にその姿を変え、京浜工業地 帯の発展に伴い造船、鉄鋼、染料などの工業製 品輸出も増え、港が商業港から工業港へと発 展するとともに横浜の街も第一次大戦を境に 大きく変わり都心に近く、交通便利で資本や 資源の得やすい大工業地帯を持つ工業生産都 市として発展しはじめました。
昭和期の横浜港
(100年前の横浜・横浜開港資料館)
<横浜新駅> 関東大震災後京浜地区の都市化が一段と進 み、郊外への人口の流出が増加するにつれて 私鉄の路線が続々と建設され、既成の鉄道網 と連携することが求められるようになりまし た。 大震災で焼失した横浜駅は1928(昭和3)年、 現在地に復興されましたが、新駅には東京横 浜電鉄(現・東急東横線、1928年)、京浜電気鉄 道(現・京浜急行、1929年)、神中鉄道(現・相模 鉄道、1933年)があいついで乗り入れ1933年に は市南部から伸びてきた湘南電気鉄道と京浜 電気鉄道の直通運転も実現し、新駅は横浜の 新しい顔となりました。

 横浜駅の変遷

 最初は1872(明治5)年に現在の桜木町駅に開業、二
代目は1915(大正4)年に現在の高島町一丁目付近に
開業(従来の横浜駅は桜木町駅と改称)しましたが、
関東大震災で倒壊1928年(昭和3)年に現在地に建設
されました。
 このように「横浜駅」が60年の間に次第に北へと移
動したのは京浜間の鉄道輸送量の増加の影響で大
正初期、昭和初期の二度にわたって京浜間の鉄道網
が大きな変化を遂げた結果です。
二代目横浜駅・1915開業
(1921年・横浜開港資料館蔵)

初代横浜駅・・・現在の横浜駅
<横浜市のひろがり> 横浜では関東大震災の復興が本格化される につれて、市域拡張の構想が生まれ、1927(昭 和2)年4月、保土ヶ谷など隣接町村の編入が行 なわれました。編入の結果人口は41万から52 万人へ、面積は37万平方キロから136万平方キ ロへと膨張し、六大都市(東京、大阪、京都、神 戸、名古屋、横浜)の中で人口は最下位でした が、面積では大阪、名古屋についで第三位とな りました。 −区政の施行− 広大な区域をカバーするために合併と同時 に区政が検討され10月から実施にうつされま した。 市庁舎のある関内地区を中心にそれを取り 巻く鶴見区、神奈川区、保土ヶ谷区、磯子区の 五区が誕生しました。 新たな編入地域には農村の面影を強く残す 地域もあり、横浜市は貿易都市、工業都市とし ての顔と近郊農村としての顔を持つことにな リました。 −戦時の大合併− 1927(昭和2)年に合併された農村地域は大正 末年から昭和初年にかけての私鉄の新たな開 通と沿線の開発、東海道、横須賀線の輸送強化 による住宅地化の促進、内陸への工場進出な どによる影響で次第に農業は衰退しました。 一方戦時体制の強化を図る国は合併を奨励 し、1939(昭和14)年には大規模な合併により 都市部の大半と鎌倉郡の北部が編入され現在 の市域が確定しました。
<軍需の時代> 関東大震災、昭和恐慌と大きな打撃を受けて きた京浜工業地帯も埋立、鉄道、電力などの基 盤整備が進むにつれていち早く回復していき ました。 神奈川県は工業生産額で1937(昭和12)年に 愛知、1940年に兵庫を抜いて東京・大阪につぐ 工業県に成長しましたが、その発展の大きな 原因は満州事変、日中戦争、太平洋戦争の十五 年戦争下における軍需にありました。 製鉄、造船、自動車、電機など京浜工業地帯の 中心産業はいずれも軍需生産の中核であり、 戦時経済の重点部門となりました。 横浜でも1937年の日中戦争勃発後、軍需生産 中心の戦時統制経済が強化され、食品、繊維な どの民間向け生産が衰退し、兵器生産が中心 になっていきました。多くの工場が軍の管理 下におかれましたが太平洋戦争により米軍の 攻撃目標となり、1945(昭和20)年5月の大空襲 をはじめとする爆撃により壊滅的な打撃を受 けました。
横浜市臨港工業地・昭和期
(「横浜みやげ」・横浜開港資料館蔵)
<戦時下のくらし> 1938(昭和13)年、国家総動員法が公布され、 国民生活のすべてが戦争目的遂行の一点に絞 られ、横浜市民の暮らしは統制が強まり目に 見えて苦しくなってきました。 物資の不足が目立ち、1940(昭和15)年にはマ ッチや砂糖が切符制となり米、衣料、タバコな ど多くの品物が配給制になりました。 戦争が激しくなるにつれ食料の不足も深刻 になり人々は餓えとも戦わなければなりませ んでした。
食料の増産・老松小学校「目で見る老松のあゆみ」
(横浜市図書館蔵)
−隣 組− 町内には隣組が組織され防空演習や物資の 配給、情報伝達など互に協力し合いましたが 、隣組は大政翼賛会のもとにあり、上からの官 僚統制に組み込まれ、さらには市民の相互監 視機関ともなりました。 −学童疎開− 1944(昭和19)年、アメリカ軍はサイパン島に 上陸を開始、日本全土が攻撃される危険とな ったため都市部の市街地の国民学校では3年 生から6年生まで全員が学童疎開の対象とさ れました。 横浜市では77校の児童67664人が該当し、親 戚、知人を頼っての縁故疎開が52%、旅館・寺院 などでの学校単位の集団疎開が34%、疎開残留 が11%でした。 児童達の受け入れ先は神奈川県内の足柄下 郡、足柄上郡、中郡、津久井郡などでしたが、長 期に及ぶ親元を離れての生活と食料不足は幼 い心身にはつらい体験でした。児童たちが親 のもとに帰ったのは敗戦後数ヶ月たった1945 年10月下旬のことです。(関連サイト) −勤労動員− 中等学校以上の学生は男女を問わず、勤労動 員をかけられ、あちこちの工場で働かせられ ました。工場によってはその割合が50%を超え ていました。 佐倉鋼鉄に勤労動員に出かけ飛行機の補助 翼作りをした神奈川高女4年生は次のように 記しいます。 今まで経験しなかった鋲打ちドリルで穴あけ等少し でもひびが入ったりはいけない、ねじがゆるんではい けない、それはそれは厳しいものでした。苦しいこと も楽しいことも工員さんと一緒でした。 (「横浜の空襲と火災」第二巻) −横浜事件− 戦時下では軍や政府による言論・思想の弾圧 が行なわれましたが、神奈川県警察特高課に よる横浜事件はそのうちの最大規模のもので した。(詳細はこちら) こうした中1945(昭和20)年5月29日横浜大 空襲の日を迎えました。 <横浜と空襲> 1942(昭和17)年4月の初空襲以来、横浜は194 5年8月の終戦まで三十数回の空襲にみまわれ ました。このうち1945年4月4日、同15日、同29 日の大空襲は横浜を壊滅させました。 特に5月29日の大空襲はB29爆撃機が517機、P 51戦闘機が101機の大編隊を組んでマリアナ 基地から来襲、43万個以上の焼夷弾が投下さ れ、横浜市街地は68分で焼け野原となりまし た。 この日の空襲では罹災戸数79千戸、罹災者数 31万、死亡者3850人、負傷者1万人と多くの市 民が犠牲になりました。 このような大きな空襲爆撃が横浜の戦後復 興を困難にさせた理由の一つになりました。

 横浜大空襲と市民

 1945年5月29日の横浜大空襲に罹災した鋤柄敏子
さんは当時の模様を次のように記しています。
  
  武田さん宅に十数本落ちた。それがたちまち
  ぼうぼうと燃えてきたのである。東京で毎日
  のように空襲にあい、なれっこになっていた
  せいか武田さんのお家の方たちが親切に防
  空壕に入るようすすめたが、気をゆるしてか
  、まがさしたのか、防空頭巾をかぶりモンペ
  姿で母と三人で縁の下で身をかくしていた。
  あたりが静かになり家は燃えてくるし、縁の
  下から出てちょっと見ると、母と妹と私の真
  中に油脂焼夷弾の一本が立っていた。一瞬に
 して私の顔に破裂したのである。私は痛いも
  熱いも何も感じなかった。口の中に煙が入っ
  てくるのだけはわかった。時間はどのくらい
  たったであろう。「ひょっこり」立って自分を
  見ると左手の肉がとれ骨が見え、右手も火傷
 をしていた。顔は見えないからわからなかっ
 た。母と妹がそばにいて、母は「母さんが代わ
  ってあげたかった」と泣きながらいった。

 鋤柄さんは当時としては手厚い治療も受け整形も
したが顔と手の深い傷は消えなかった。 そして動
揺する心のよりどころを信仰に求めて、戦災孤児の
保育に力を貸す道を選びました。
                 (今井清一・大空襲5月29日)
 
戦火に追われて・5月29日中区本牧付近
(毎日新聞社蔵)
1945年8月15日正午、無条件降伏を告げる玉 音放送によって戦火はようやく止みました。

1926
 京浜第一国
道ができる
1927
 金融恐慌で
左右銀行が
休業する
  〃
 横浜市に区
制がしかれ、
中、磯子、神
奈川、保土ヶ
谷、鶴見の5
区が出来る
1928
 現在地に横
浜駅ができ
る。市営バス
運転開始。
 三.一五事
件で27人
(横浜市内)
検挙される

1930
 山下公園が
開かれる
1931
 鶴見川河口
の埋立完成
 京浜電鉄と
湘南電鉄が
日ノ出町駅
で接続する



1936
 恵比寿、宝、
大国町の埋
立が完成

1939
 港北区、戸
塚区が誕生
  


1943
 南区が誕生
1944
 西区が誕生
  〃
 学童の集団
疎開がはじ
まる
  

1945
 5月、横浜大
空襲があり
横浜中心部
は全滅する



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