ーファミリー版ーよこはまの歴史10

    ーファミリー版ー よこはまの歴史 P11

  参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(明治時代T)

…(])明治・大正時代@ [文明開化と横浜]…



 明治新政府による廃藩置県により横浜の町も神奈川県に編入され、区政がしかれ新しい政治が始まる一方、
ガス、電気が灯り、鉄道が開通する文明開化の世の中となって人々の生活も大きく変わりました。

 ヨーロッパ社会ではドイツが統一を実現、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地化が進む中でロシアが南
下、衰退するオスマン帝国をめぐって各国が対立、緊張が高まっていきました。

世 界  で は世界史略年表へ)

よ こ は ま  で は

略年表

[アメリカ]
 <大陸横断鉄道の開通>
 南北戦争ののち鉄道の建設を軸にアメリカ経
済は急速に発達します。
 1869年、アメリカ西海岸のサンフランシシコと
東部の工業地帯シカゴを結ぶ、はじめての大陸
横断鉄道が開通しました。
 この鉄道によって西部の開拓が進み、1890年代
には西部の未開発地帯(フロンティア)がなくな
り、その後アメリカは太平洋、カリブ海地域に勢
力を広げていきました。
 同じ年、スエズ運河も開通して太平洋、大西洋、
インド洋がつながり世界はより密接に結びつく
ようになりました。
[ヨーロッパ] <普仏戦争> ドイツ統一を目指すビスマルクは、残った南ド イツ地方のカトリック信徒に対するフランスの 影響が強かったため、フランスとの対決は避け られないものと考えていました。 1868年スペインに革命がおこり女王イサベラ はフランスに亡命、代わってプロイセン王国の 遠縁にあたるレオポルドが新国王の候補とされ たのに対して、フランスはこれに反対、プロイセ ン国王に抗議してレオポルドのスペイン国王就 任を辞退させましたが、エムス電報事件でプロ イセン国民は怒り、フランス側もこの処置に反 発して普仏戦争がおこりました。
ドイツ・シュバイエル西南方のワイセンブルグにおけ る両軍の交戦(1870年4月、パリ・カルナバレ美術館蔵)
戦争はプロイセン軍が優勢に戦いを進め、フラ ンスのナポレオン3世を捕虜にしてパリを包囲 し、1871年ベルサイユ宮殿でヴィルヘルム一世 がドイツ皇帝の位についてドイツ帝国が誕生、 ドイツの統一がなりました。 <パリ・コミューンの結成> 普仏戦争で捕虜になったナポレオン3世は退位 してフランス第二帝政は崩壊、パリではトロシ ュを首班として国民防衛政府が結成され第三共 和制が発足しましたが、プロイセンに包囲され 1871年降伏し、2月にベルサイユで仮の講和条約 を結びました。しかし条約はアルザス・ロレーヌ 地方の大部分をドイツに割譲するなど不利な内 容だったため、パリ市民は強く反発して3月に史 上初の労働者や市民からなる自治政府のコミュ ーンを結成しました。 パリ・コミューンはドイツ軍の支援を受けたテ ィエールらの政府軍に対して善戦しましたが、 保守的な地方の農民の支持を得られず、パリに 孤立、5月には政府軍によって鎮圧され、9月ティ エールは大統領に就任しました。
パリ・コミューン(上)1871年3月蜂起したパリの民衆は 政府をベルサイユに追いやり、全市を掌握しました。 写真は市庁舎に築かれたバリケードどコミューン兵士。 (下)同年5月多数のコミューン側の民衆がペール・ラミ ェーズ墓地で政府軍に銃殺されコミューンは鎮圧されま した。(パリ・カルナバン美術館蔵)
<ベルリン会議> クリミア戦争に破れたロシアは1856年に結ば れたパリ条約で南下政策が挫折しましたが、187 0年からの普仏戦争でフランスのナポレオン3世 が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけパリ条 約を改訂することに成功、黒海艦隊を再建しま した。 オスマン帝国の弱体化が進む中でロシアは同 じスラブ民族の独立を援助するという名目(パ ン・スラブ主義)でトルコに攻め入りましたが、 トルコの要請によりイギリス軍がマルマラ海に 派遣されたので、ロシアはトルコとの間でサン・ ステファノ条約を結びました。 この条約に反対のイギリスやパン・ゲルマン主 義を進めるオーストリアがこれに反発、ヨーロ ッパの緊張は高まります。

  オスマン帝国の衰退
  
 アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる領
土と地中海の制海権を握ったオスマン帝国は、スルタ
ン(専制君主)と大宰相を頂点とする中央集権機構と家
柄によらず能力のあるものを登用して、16世紀には最
盛期をむかえました。(図・オスマン帝国の最盛期)
 しかし17世紀を過ぎると軍事・政治の面で衰退の兆し
が現れ、西ヨーロッパ諸国は近代的技術や軍隊を武器
に、オスマン帝国内の民族・宗教問題の紛争を足がかり
にして中東への進出を開始しました。
 オスマン帝国の弱体化の原因は繁栄を支えた中央集
権体制のゆるみにありました。
 スルタンが遠征をはじめとして軍務・政務に直接携わ
らなくなり、ハレム(女性専用の居室)や宦官が国政に
介入して大宰相をはじめとする官僚の間には賄賂、コ
ネ、浪費などがはびこり、また帝国の主な軍事力だった
騎士たちがたび重なる遠征の負担に耐えきれなくなり
、国の財政の悪化や政府と地方地主の対立など帝国内
部から衰退しはじめました。
(図像をクリックすると拡大します)
ここでドイツのビスマルクが仲介に入り、ベル リン会議を開催しましたが、列国の圧力によっ てサン・ステファノ条約が破棄され、ベルリン条 約が結ばれてロシアの南下政策は再び挫折し、 代わりにオーストリアがバルカンに進出しまし た。
ベルリン会議(中央に起立しているのがビスマルク 、小学館・大日本百科事典より)
<三国同盟> ドイツを統一したのちビスマルクは敵対関係 にあったフランスを孤立させるため、1873年、ロ シア、オーストリアとの間に三帝同盟を結びま したが、1878年バルカン問題でロシアとオース トリアが衝突したために、この体制は崩れてし まいました。 そこでビスマルクは1879年、オーストリアと独 墺同盟を結び、ロシアとは1881年にオーストリ アと一緒に三帝協商を結んで、通商関係の連携 を続けました。 その後ビスマルクはイタリアに接近して1882 年にオーストリアとともに三国同盟を結びまし た。 こうしてビスマルクは国際秩序の再編成に成 功、各国のバランスの上に一応の平和は保たれ ましたが、東方問題をかかえるヨーロッパ諸国 にとっては長続きするものではありませんでし た。

   東方問題
 近代ヨーロッパの列強各国がオスマン帝国の衰退に
乗じ、その領土と支配民族への介入を目指したために
起った国際政治上の問題でヨーロッパ側から見た呼
び方ですが、19世紀以降の東方問題はバルカン問題と
もよばれています。
 東方問題は19世紀を通じてオスマン帝国の衰退、そ
れに伴ってバルカンをはじめとする帝国内の被支配
諸民族の解放運動、そしてこれらをめぐる列強間の利
害対立の中で展開し、第一次世界大戦勃発の一つの原
因となりました。
 
 オスマン帝国は内政の腐敗などにより、すでに17世
紀から衰退がはじまり、19世紀になるとその衰えは著
しくロシアは長年の願望であったダーダネルス、ボス
ポラス両海峡の制覇を企て、ロシア・トルコ戦争を繰
り広げていましたがイギリスはロシアの南下をイン
ドへの通路への脅威とみて、ヨーロッパの勢力均衡と
オスマン帝国の保全を主張しました。
 19世紀中頃になると列強諸国がオスマン帝国をめぐ
り、自国の利益を追求する外交を行なう一方でバルカ
ン諸民族の独立運動が盛んになりました。
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<アレクサンドル二世の暗殺> ロシアでは1861年、皇帝アレクサンドル二世に よって農奴解放令が出されましたが、農民の生 活は苦しくなるばかりで地主による農民支配が 続き、しばしば農民一揆が起りました。 1863年、ロシア支配下のポーランドで反乱が起 ると皇帝は反動的は政治姿勢をとるようになり ましす。 1870年に入ってナロードニキとよばれる人々 が現れ農村への啓蒙運動を行いましたが、農民 達の理解を得られず、政府の厳しい弾圧にあっ て失敗に終わりました。 そのため革命への展望を失ったナロードニキ はアナキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無 主義)に走るものが出て皇帝や政府高官の殺傷 を目指すテロリズム(暴力主義)が活発となり、 1881年アレクサンドル二世はテロリストによっ て暗殺されました。
ナロードニキ(レービンによって描かれたナロード ニキ逮捕の瞬間、モスクワ・トレチャコフ美術館蔵)
[アジア・アフリカ] <中国の洋務運動> アロー戦争後の中国では太平天国の乱の鎮圧 をした曽国藩や李鴻章などの漢人官僚によって 西洋の軍事技術の採用を中心に富国強兵運動が 行なわれました。これを洋務運動といい、武器製 造工場をはじめとして、機械工場の建設や西洋 風の陸海軍の創設、外国語学校の設置などが積 極的に行なわれましたが、この運動はあく迄も 君主独裁に基づく清王朝の維持を目的とするも ので、中国社会の近代化を目指すものではあり ませんでした。 <日本の明治維新>(詳細はこちら) 日本では1853年ペリーの来航により長い間続 いた鎖国が終わり、攘夷倒幕運動を経て1868年 大政奉還により翌年天皇を中心とした明治新 政府が誕生、その後ヨーロッパやアメリカの文 化を取り入れて近代国家への道を歩みます。 <日朝修好条規> 富国強兵、殖産興業をおしすすめる日本政府は 江華島事件をきっかけに17世紀以降清国の属国 的立場にあった李氏朝鮮に強い圧力をかけて、 日本人の領事裁判権を認めること、日本の朝鮮 への輸出は無関税にするなどの不平等条約を含 む日朝修好条規を結びました。これにより朝鮮 半島における日清両国の対立は深まっていきま した。 <イギリス領インド帝国の成立> インドではセポイの反乱の翌年1858年にムガ ル皇帝は退位させられムガル帝国は滅び、東イ ンド会社に代わってイギリス政府が直接インド を統治することになりました。 1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ね ることを宣言してインド帝国が成立、インドは イギリスの完全な植民地となりました。 インド帝国はイギリスの直轄地と藩王国とか ら構成されましたが、イギリス政府は保守的な 旧王国の国を残すことでインド人が団結して反 抗することを防ぎ、のち鉄道建設などでインド から莫大な利益を得ました。 <フランス領インドシナの成立> プラッシーの戦いでイギリスに破れたフラン スはインド進出をあきらめインドシナ半島へ目 を向けます。 1858年、ベトナムでフランス人宣教師が迫害さ れたことを口実にフランス軍はベトナムに出兵 、戦いを有利に進めたフランスは1862年サイゴ ン条約でベトナムの一部の領土の一部をとり、 また翌年にはカンボジアを、1883年にはベトナ ムを保護国としました。 これに対して1884年、古くからベトナムを属国 とみなしていた清(中国)は兵を送り、フランス との間に戦争となりりましたが、フランス軍は 清軍を破り、翌年清の天津で条約が結ばれ、清朝 はベトナムに対するフランスの保護権を認めま した。 その後1887年にフランスはインドシナ諸地域 を統合、インドシナ連邦を成立させて支配下に 入れ、以後インドシナをフランスの植民地にし ました。

  東南アジアの植民地化
                (関連サイト・欧米のアジア進出)
 オランダは17世紀以来東南アジアに進出しジャワ島
などをオランダ領東インドとしていました。
 またスペインはフィリッピンを植民地としていまし
た。
 イギリスは1826年、シンガポール、マラッカなどから
なる海峡植民地をつくり1866年にはビルマをインド
帝国(イギリス植民地)に併合し、1895年にはマレー半
島南部にマライ連邦を作りました。
 1887年にはフランス領インドシナが成立して、東南ア
ジアはただ一国独立を守っていたタイ(シャム)を除き
すべて植民地化されました。
(図像をクリックすると拡大します)
<エジプトがイギリスの支配下に> 16世紀からオスマン帝国の支配下にあったエ ジプトは、1805年ムハンマド・アリーが太守と なってトルコからの独立を目指し近代化を進 めました。 しかしこの間イギリスをはじめとする列国の エジプトへのへの干渉が強化され、特に1869年 のスエズ運河株購入はエジプトに対するイギ リスの発言権を強めました。 このような外国の圧迫はエジプト人の民族意 識を刺激して、1881年エジプトの陸軍大臣アラ ービー・パシャは「エジプト人のためのエジプ ト」と叫んで蜂起、独立のための反乱をおこし 広く大衆の支持を受けましたが、イギリスはス エズ運河の利権を守るために兵を送り、これを 鎮圧してエジプトを保護下におきました。

   スエズ運河とイギリス
  
 1858年、フランス人レセップスはスエズ運河の建設
を開始、フランスとエジプト政府の協力で1869年地中
海から紅海へ抜けるスエズ運河を完成させました。
 運河はフランスとエジプト政府の共同出資による万
国スエズ運河株式会社によって管理されていました
が、イギリスは財政難に陥ったエジプト政府からその
株を買収して最大の株主となり、以後次第にエジプト
の財政・内政への関与を強め、アラービーの反乱後、運
河を軍事占領しました。
 第二次大戦後の民族運動の高まりにより1954年イギ
リス軍は撤退、1956年ナセル大統領のスエズ運河国有
化宣言を機に、スエズ戦争が起こりましたが国際世論
の高まりによりようやく運河はエジプトのものにな
りました。
スエズ運河(1869年ポートサイドで行なわれた 開通式、フランス・コンピエーニュ宮殿蔵)

 <新政府と横浜>
 ー新旧権力の交代ー
 鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍は東に向
かい、1868(明治元)年3月には江戸に近づいて
きましたが、外国人居留地を抱える横浜では、
外国軍隊も警備を引き受けて新政府を助け、4
月に行なわれた幕府から新政府への政権交代
は平和のうちに行なわれました。  神奈川奉
行所は政府に引き渡され神奈川裁判所となり
、運上所は横浜裁判所、戸部役所は戸部裁判所
と改称されましたが、旧神奈川奉行所の職員
と行政機構はそのまま引き継がれました。
 6月には神奈川裁判所が神奈川府と改められ
、総督東久世通禧がが神奈川府知事に任命さ
れました。(その官庁は従来どおり神奈川裁判
所)
 ー神奈川県の成立ー
 1869(明治2)年9月、神奈川府は神奈川県と改
められ寺島宗則が県知事になりました。
 1870(明治3)年神奈川裁判所が神奈川県庁と
改称されましたが、この前後から県庁の扱う
仕事は整理され横浜、横須賀の両製鉄所は大
蔵省へ、電信機は民部省へ、灯明台・運上所は
大蔵省へ、司法関係は司法省へと移管されま
した。
 1871(明治4)年7月、政府は廃藩置県を行いま
したが、横浜地域は神奈川県に編入され初代
神奈川県令(知事)には陸奥宗光が任命されま
した。
明治初年の神奈川県庁(「ファー・イースト」1871年 2月16日号から・横浜美術館蔵)
<行政組織の変更> -横浜町会所- 神奈川県庁の前身は神奈川裁判所でしたが、 1889(明治22)年に市制がしかれる前の横浜市 役所の前身は町会所がこれに近い役割を果た しました。 明治になって神奈川奉行の仕事は神奈川府 知事がそのまま引き継いだといえますが、そ の下の町役人は従来のままでした。横浜では 刈部清兵衛、石川徳右衛門、石井源左衛門の三 名と各町名主が運上所脇にあった町会所に詰 めて町の行政を行なっていました。 1868(明治元)年6月には従来の総年寄や名主 をやめ、新たに一名づづにして、総年寄には刈 部清兵衛、名主に小野兵助が選ばれました。 その後総年寄は市長、名主は副市長と名を変 えましたが、この頃までの横浜の町の政治は 殆ど江戸時代と同じで、新政府は暫くの間は 旧来の地方行政機構と町(村)役人をそのまま 存続させて地方統治に利用しました。 -区制施行ー 1871(明治4)年5月頃から県は戸籍調査のた め、全県を25区に分け、各区に戸長、副戸長を 置きました。この区政は幕府時代の自治的な 町や村を一応無視して上から画一的に定めよ うとしたものです。 1872(明治5)年になると政府は名主、年寄な どの古い町役人の呼び方はすべて廃止して、 戸長、副戸長と改称、町会所にいた町役人も廃 止されて町会所は貿易商などの商人の集会所 となりました。 1873年(明治6)年、県は全県を20区に分け、区 内の村々をいくつかの番組に編成しなおして 、区には区会所をつくり、区長をおき番組には 戸長を置きましたが横浜は第一区でもとの横 浜はその中の一番組でした。 1874年には区、番組の名称はなくなり大区、 小区となり第一大区の中では、本町は第一小 区、元町は第五小区にに編入されましたが、政 府は府・県ー大区ー小区という中央集権的行 政機構を設定して新たな国家体制を作り出す ための改革政策に着手したのです。 <学制の実施〜寺子屋から学校へ〜> 1872(明治5)年に出された学制により江戸時 代から全国に普及していた寺子屋、私塾その 他の教育機関はすべて政府の管轄下におかれ 大学・中学・小学の制度に組替えられました。 -学舎から小学校へー 学制にもとづき県は1873(明治6)年2月、「小 学規則」を制定し男女とも近くの小学校へ入 学することを決めました。第一番小学壮行学 舎(明治6年3月創立)、第二番小学如春学舎、第 三番小学同文学舎が横浜の中心部につくられ ましたが、1875(明治8)年三校が合併して一番 小学横浜学校が出来ました。 学制が制定された後、県では師範学校の設置 を進めます。それまでは寺小屋の先生などが 簡単な講習を受けて教壇に立っていましたが 教師養成のため横浜、日野(現在東京都)、羽島 、浦賀と四つの教員養成所がつくられました。 -私学校ー 横浜には早くから外国人がいたこともあっ てキリスト教系の女子の学校も多く、フェリ ス女学院をはじめ横浜共立学園、成美学園、横 浜双葉学園などがつくられ、横浜の女子教育 へ大きな役割を果たしました。 高島嘉右衛門が私費3万円を投じて伊勢山下 のガス会社の隣の広大な敷地に高島学校を建 設し開校したのは1871年(明治4)年12月のこ とで、一時は700人もの生徒がいましたが、187 3年神奈川県に譲渡、翌年火災にあいその後再 建されませんでした。 1882(明治15)年には横浜の有力商人が発起 人となって横浜商法学校ができました。
伊勢山下の高島学校(横浜開港資料館蔵)
<文明開化> 幕末の開港以来、横浜には外国人居留地を通 じて欧米の新しい文物や知識が入って来るよ うになりましたが、政府も熱心にこれを取り 入れたので、当時の人々の生活の仕方は大き く変わりました。 -ガス灯と電灯ー 高島嘉右衛門はフランス人技師プレグラン の指導の下、伊勢山下にガス製造所を建設し て1872年9月に大江橋から馬車道、本町通りに かけて日本最初のガス灯がともりました。 ガス灯に遅れること18年、横浜に電灯がつい たのは1890年のことで、横浜共同電灯会社に よるものでした。 当時の電灯は故障が多く、 明るさもガス灯に及ばなかったので、このあ と一般に普及するには相当の時間がかかりま した。
復元されたガス灯(横浜市・本町小学校正門前)
-水 道ー 1871(明治4)年3月、多摩川の水を引き、神奈 川駅を横断して高島町まで約12キロメートル、6セン チ四方の木の樋を埋め込み桜木川の川底を掘 り、大小の木の樋で各戸に分水し、1873年に工 事が完了したのが横浜上水のはじまりです。 下水道はブラントンの「横浜の下水、道路整 備計画」に基づき1871年、居留地に下水道が敷 設され、1881年には三田善太郎の設計により 関内日本人街で石造下水道の敷設がはじまり ました。 -電信と郵便ー 駅逓頭の前島 密が1871年1月東京・京都36時 間、大坂まで39時間の官営飛脚を設けて公私 にかかわらず書状を扱ったのが今日の郵便制 度のはじまりと考えられています。7月に横浜 郵便役所が民家を借りて開設され、1874年新 庁舎をつくり翌年、郵便役所から横浜郵便局 へと名を変えました。
横浜郵便局開業乃図
(三代広重画・神奈川県立博物館蔵)
-鉄 道ー 1872年5月、横浜・品川間が開通し仮営業を始 めました。9月には横浜・新橋間が全線開通し、 明治天皇が出席して盛大な開業式が行なわれ 、翌日から営業が開始されて横浜から東京へ 行くのには馬車を使っても約4時間かかって いたのが僅か1時間足らずで行けるようにな りました。 当時人々は蒸気車を陸蒸気と呼んでいまし たが、運賃が高くて一般の人々はなかなか利 用できなかったようです。
横浜停留所・1872年竣工(有隣堂・横浜絵葉書より)
<横浜もののはじめ> 開港場となった横浜は日本の表玄関として 欧米文化を取り入れ、横浜から数々のものが 日本中にひろまっていきました。 -日刊新聞ー 日本最初の日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊 されたのは1870(明治3)年12月です。時の県令 井関盛良は横浜の有力商人原善三郎、茂木惣 兵衛などに呼びかけ、弁天通りの英仏語学所 (現在の国の横浜第二合同庁舎付近)に仮の事 務所を設け新聞を発行しました。 -和英辞典ー 医者であり宣教師でもあったアメリカ人の ヘボンは1859(安政6)年10月来日、聖書和約や 布教に備えて日本語を学び1867年(慶応3)年、 日本で始めての和英辞典「和英語林集成」を出 版しました。(ヘボン博士の逗留表札) -写 真ー 下岡蓮杖は伊豆の出身ではじめ画家を志し て勉強していましたが、銅版写真を見てその 素晴らしさに感動して写真家になろうと決意 して1860(万延元)年べアメリカの写真師ウン シンと知り合い写真術を学び、1862(文久2)年 野毛に横浜最初の写真館を開きました。同じ 頃長崎に上野彦馬が出て、東西同時に2人の職 業写真家が誕生しました。
下岡蓮杖顕彰碑(横浜市中区・馬車道)
-パ ンー 1860年内海兵吉がフランス軍艦に乗組んで いたコックから手ほどきを受け、焼き始めた のが日本でのパン製造のはじまりです。フラ ンスパンの製法を学んでゲンコツパン等を売 り出しました。 -ビールー 居留地にいた外国人にはビールを愛好する 者も多く、本国から輸入していましたが、製造 から時間をおくため味が悪く、ビール醸造所 の開設が計画され、1869(明治2)年山手46番地 に日本最初のビール醸造所「ジャパン・ヨコハ マ・ブルワリー」ができました。 1872(明治5)年アメリカン人ウィリアム・コ ープランドが山手天沼につくったスプリング ・バレー・ブルワリーの製品「天沼ビアザケ」は 外国人との交際に盛んに利用されました。 -石 鹸ー 堤磯右衛門が横須賀製鉄所で働いていた時 フランス人技師ボエルから製法を習って工場 を設立、苦労の末に1873年洗濯石鹸として7月 から売り出したのが国産石鹸のはじめです。 その後やし油をもとにして化粧石鹸製造に も成功し、堤の石鹸は国内で名声を得ると共 に、中国にも輸出されるようになりました。
横浜三好町石鹸製練所(横浜開校資料館蔵)
<横浜三紛争と民権運動> 明治になって地方の政治がととのっていく 一方、役人による専制的な政治が行なわれる ようになってくると、開国場横浜に住み貿易 によって独自の地位を築いていた貿易商人や 市民と役所との対立が目立つようになり、横 浜三紛争と呼ばれる事件が相次いでおこりま した。 -瓦斯局事件ー 1870(明治3)年に高島嘉右衛門が始めたガス 会社は経営が苦しくなり、町会所へ譲渡、1875 年7月県の瓦斯局となりましたが依然として 苦しく経営不振が続いていました。 そんな折、1877年7月今西区長は高島に創業 者功労金として13500円を支払ったことが新 聞に報道されると市民は区長の独断に怒り、 横浜裁判所に告訴しました。 1878年横浜裁判所は一審で市民の要求を退 けましたが市民は上等裁判所へ控訴、原善三 郎、小野光景らが仲裁に入り、高島は贈与金を 返還して瓦斯局との関係を断つこととして、 事件は一応解決しました。 -歩合金問題ー 歩合とは貿易商の外国人に品物を売った時、 売上金の1000分の5を区会所が徴収して積み 立てていたもので、その中から区費相当分を 区役所に納めていました。 1878年、瓦斯局訴訟をきっかけとして、今度 は歩合金を納めていた貿易商人たちが区費 の使途について区戸長に不信を抱き、歩合金 からの区費への納入拒否、今まで積み立てて いた歩合金の取り戻し、その自主管理、そして 区戸長の公選化を要求するにいたりました。 第一大区会では区戸長公選の嘆願書を県に 提出しましたが、県では嘆願書を却下、組合総 代の一人、原善三郎を拘引するなど強硬手段 をとったため組合員たちは抗議、各地で集会 を開き不穏な動きとなったため、歩合金の徴 収と保管、区への引渡しは組合総代に一任す ることで決着しました。 -共有物事件ー 1873(明治6)年以来町村の事務は官選の区・ 戸長の手に移り町会所やその他の共有物も区 ・戸長が管理することになりました。

  共有物
 
 共有物とは町会所の敷地・建物・付属地、瓦斯
局の敷地・建物、十全病院、商業学校などのこと
で、これらは横浜の貿易商の積み立てている歩
合金で買った財産であるから貿易商組合のも
のであり、共有物であるという考えによって、
貿易商人たちは共有物件取り戻しの訴えをお
こしました。
 
1889(明治22)年、共有物のうち瓦斯局、学校、 報時所、十全病院の敷地・建物などを本町部内 町民の共有とし、町会所の敷地、建物、付属地 、瓦斯局貸付金と利子を本町ほか十三町に返 すという貿易商らの共有物分有案に対して、 沖県知事はこれを第一大区のもとに据え置こ うとし訴訟に発展しましたが、1894年日本銀 行総裁川田小一郎の仲裁で共有物のすべてを 横浜市の財産とすることで事件は終わりまし た。 -民権運動と横浜ー 自由民権運動の盛んであった1880(明治13) 年から1882年頃にかけて、神奈川県下にも豪 農を中心とする政治結社がつくられ民権運動 が高まってきました。 横浜ではすでに瓦斯局事件や歩合金事件な どで区・戸長の責任を追及、区戸長の公選化を 要求する問題にまで発展し、全国の民権運動 のさきがけとして高く評価されていましたが 、瓦斯局訴訟を主導した戸塚千太郎、早坂仕有 的らは政治結社「鶯鳴社」を結成、1880年には 豪農、商人、代言人(弁護士の前身)、書生など を中心とした「顕猶社」という政治結社が出来 ました。
横浜顕猶社の諸規則(東京経済大学図書館蔵)
この外に数社の政治結社、演説団体があり、 各地で演説会を開き、民権を伸ばし、国力を盛 んにすることを聴衆に訴えました。 また民権論者たちは生糸商人と居留地外国 人が対立した荷預所を応援し、商圏回復のス ローガンの下に、全国的運動へと世論は高ま っていきました。

  聯合生糸荷預所事件
 
 日本の貿易は居留地貿易という形で始められま
したが日本側に不利な取引慣行が開始以来続いて
いたため、1881(明治14)年9月、横浜の大生糸商人
原善三郎らは「荷預所組合」という同盟をつくり、
生糸を独占的に集荷するようにしましたが、外国
商人は強く反発して取引は中断されました。
 日本商人側でも横浜商人と産地荷主の利害調整
が激しくなる一方で、直輸出(居留地の外国商人の
手を経ない形の輸出)論者の生糸商人批判、荷預所
反対の動きが強まり11月には妥協して取引を再開
することとしました。
 この運動は不利な外国との貿易取引を改善しよ
うとする「商圏回復」が唱えられ、国民的な運動の
性格を持つようになりました。

1868
 横浜裁判所
(のちの県
庁)が開かれ
る
 〃 横浜軍
陣病院(本格
的な洋式外
科)が開設
1869
 電信が始ま
る
 〃 吉田橋
が鉄橋とな
る
1870
 メレ・ギタ
ー、日本で初
めての女子
教育学校を
開く(フェリ
ス女学校の
前身)
 〃 「横浜毎
日新聞」発刊
1871
 横浜地域、
神奈川県に
編入される
 県に羅卒
(巡査の前
身)が置かれ
る
1872
 横浜・新橋
間に鉄道が
開通する、ガ
ス灯点灯
1873
 学制施行に
より壮行学
舎、如春学舎
が関内に設
けられる(後
の横浜学校)
 〃 原善三
郎が「横浜生
糸会社」をつ
くる
 〃 茂木惣
兵衛らが横
浜に水道を
つくる
1874
 十全病院が
できる





1880
 横浜正金銀
行が本町に
設立される
 〃 横浜商
法会議所(の
ちの横浜商
工会議所)が
できる

1882
 
 横浜商法学
校(のちのY
校)が開校

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