ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 19

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・Q明治時代U(内外への発展)・・・


 憲法を制定、国会を開設し立憲国家としての体裁を整えた日本は産業革命も進み海外へも進出し日清、日
露と二度の対外戦争に勝利を収め、発展の時代を迎えます。
 国力充実の一方では貧困や過酷な労働に苦しむ農民や労働者の姿があり、公害問題の発生とともに労働
運動や社会主義運動が芽生えてきます。 

 伊藤博文らによって明治憲法が起草された金沢の村も日清、日露戦争にまきこまれました。
 
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


立憲国家の成立

 1881(明治14)年に自由民権運動の盛り上が
りにこたえて10年後に国会を開くことを約
束した政府は伊藤博文が中心となって準備
をはじめました。
 翌年西洋諸国の立憲制度を調査するためヨ
ーロッパに渡った伊藤は、1883年帰国すると
宮中に制度取調局(現在の内閣法制局)をお
き立憲政治(憲法を基礎として行う政治)の
前提となる政治機構の改革に取りかかりま
した。
 1884年には民選の議院に対して貴族院をつ
くる用意として華族令が公布され、翌年には
従来の太政官制度に代わって内閣制度が創
設され伊藤博文が初代の総理大臣に就任し
ました。(詳細はこちら)
<憲法の発布>
 憲法の草案は伊藤の門下の金子堅太郎、井
上毅、伊東巳代治らによって秘密のうちに
作成され、1888年には出来上がった草案を
審議するために枢密院が設けられました。
 枢密院議長には伊藤が就任し、天皇の憲法
として天皇の御前で審議が行われ1889(明
治22年)2月11日大日本帝国憲法として発布
されました。
 宮中では明治天皇から総理大臣黒田清隆
の手に下げ渡されましたが、この憲法は天
皇の権限が絶対であることを定めた欽定
(天皇が定めた)の憲法でした。
 国会は帝国議会と呼ばれ、選挙で選ばれる
衆議院と皇族・華族と勅任議員(国家功労者
・学士院会員・多額納税者など)からなる貴
族院の両院制でした。
<総選挙と帝国議会> 
 1890(明治23)年7月に第一回の総選挙が行
われました。選挙の結果定員300人のうち民
党(野党の自由党と改進党)は171人が当選
し、吏党(政府を支持する与党で大成会な
ど)は衆議院の三分の一にも達しませんで
した。
 同年11月に山形有朋内閣の下で第一回帝
国議会が開かれると民党は内閣の提出した
予算案に抵抗、政府も民党の要求を受け入
れざるを得ない状況でした。
 その後も民党の政府攻撃は続き1892年2月
の総選挙では民党の候補者に徹底的な弾圧
が加えられ、各地で流血事件がおこりまし
たが民党の優位は揺らぎませんた。
 1892(明治25年)松方内閣辞職後、維新の改
革に尽くして元勲といわれる人たちが顔を
揃えた第二次伊藤内閣に対しても民党は攻
撃を続けますが、自由党は次第に伊藤内閣
に接近しこれに反対する立憲改進党は自由
党と対立して政党相互の対立が目立つよう
になります。
 <条約改正>
 初代の伊藤内閣で井上外務大臣の鹿鳴館外
交が失敗した後も歴代の外務大臣は条約改
正の努力を続けました。
 第二次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光は大津
事件(詳細はこちら)で外務大臣を辞職した青
木駐独公使をイギリスに派遣して交渉を進
めます。
 当時ロシアがしきりにアジアの極東地帯へ
の進出を図っていましたが、これを警戒した
イギリスが1894年7月条約改正に応じ、治外
法権は撤廃され、ついで各国との間にも改正
条約が結ばれ5年後に実施されました。
 しかし残された関税自主権の回復は明治も
末の1911(明治44)年迄待たなければなりま
せんでした。

<金沢村・六浦荘村の誕生>
 1889(明治22)年4月に市町村制度が施行
され旧来の各村は合併して久良岐郡の一
部から金沢村、六浦荘村が誕生しました。
 金沢村は富岡村、柴村、寺前村、谷津村、町
屋村、州崎村、野島浦、泥亀新田が合併した
もので村役場は寺前に置かれました。
 六浦荘村は三分村、釜利谷村が合併した
もので村役場は三分に置かれましたが、い
ずれも旧村は大字となりました。
 また峠村は東鎌倉に入りましたがその後
1897(明治30)年に六浦荘村となりその大
字となりました。
 当時の戸数は金沢村716、六浦荘村541だ
ったと云われています。

<大日本帝国憲法と金沢>
 伊藤博文らによって憲法の草案が作られ
ようとしていた頃、国内では自由民権運動
が高まっていました。自由民権運動家たち
は政府がつくる憲法草案に強い関心をも
っており博文は騒がしさを避けて横浜か
ら船で一時間あまりのところにある金沢
の地とその近くにある陸軍の砲台用地で
無人島だった横須賀の夏島を草案作成の
地に選びました。
 この地で草案の作成にあたったのは博文
のほか金子堅太郎、伊東巳代治、井上毅ら
の政府要人でした。
 -東屋での盗難事件-
 草案作成が始まった当時伊藤博文は夏島
の別荘に、伊東巳代治と金子堅太郎は東屋
に、井上毅は野島旅館に泊まっていました
が1887(明治20)年8月6日夜東屋の伊東の
部屋に泥棒が入り、重要書類の入った鞄が
盗まれるという事件が起こりました。
 鞄は翌朝裏の田んぼから発見され幸いに
も書類は無事でしたが、金子と伊東は東屋
を引きはらい、離れ小島だった夏島の博文
の別荘に合宿することになりここで憲法
草案が完成しました。

憲法草創の碑(金沢区・州崎町) 1935(昭和10)年東屋庭内に建てられ、その後 いったん野島公園に移され近年になって現在 の州崎町に再度移されました。

<伊藤博文と金沢> 憲法草案作成のため金沢を訪れた伊藤博 文は海山の美しく人情豊かなこの地を気 に入り、草案完成後も折を見てここを訪れ 1897(明治30)年には夏島とは別に州崎に 別荘を建ててくつろいだひと時を過ごし たようです。 この別荘は現在野島に移されましたが、 かって大正天皇や皇太子裕仁親王(現在の 昭和天皇)、韓国皇太子をはじめ多数の皇 族や政府高官が訪れています。建物は戦後 になって伊藤家から一時日産自動車に移 りましたが1959(昭和34)年に横浜市の所 有となりました。 また博文は北条氏の滅亡後衰退した金沢 文庫の復興にも熱心で、1897年称名寺の 塔頭だった大宝院への文庫再興に力を尽 くしました。

伊藤博文別荘(金沢区・野島公園)

<日清・日露戦争と金沢の人々> 清国との戦いは金沢の人々の大きな関心 を集め、六浦荘村の住民だった布川悦五郎 の日記にも戦争について触れられていま す。この日記には戦死した兵士のことも記 されており金沢村出身の兵士が戦死し葬 儀が州崎の龍華寺で開かれたことが記載 されていますが、日清戦争は金沢の人々を も巻き込んでの戦いとなりました。

軍資金献納についての書類 (横浜開港資料館蔵・小泉元久家文書) 金沢の住民の中には日清戦争に際して政府に 軍資金を献納する者も多く、この書類は1895 (明治28)年に小泉蔵右衛門が1円を献納した 時のものです。

日露戦争は日清戦争よりはるかに大きな ものとなりより多くの住民が戦争に参加 しました。 区内の旧家松本なみ家には金沢村出身の 兵士についての記録があり明治37年12月 の時点では61人の人々が大陸に渡ったと あります。 またこの記録には61名の兵士たちに対し て真綿を慰問品として贈ると記してあり 寒さ厳しい大陸での生活がうかがわれま す。 戦争の激化に伴い、戦意を高めるため様 々な行事が行われました。 少年音楽隊の結成もその一つです。

 日露戦争はポーツマス条約の締結によ
って終わりましたが、戦争の残した様々
な問題は金沢の人々の負担として残りま
した。
 なかでも政府が戦時中に行った特別税
を戦後も軍備拡張や産業基盤育成のため
に実施し続けたことは人々の暮らしに大
きな影響を与えました。これにより村々
の経済力は低下し、1906(明治39)年の金
沢区域を含む久良郡の町村税の滞納者は
戦前の五倍強になったと云われ、戦勝の
かげには人々の大きな苦しみがありまし
た。

戦艦三笠(横須賀市・三笠公園)
戦艦三笠は東郷平八郎が率いる連合艦隊の 旗艦として活躍、日本海海戦でロシアのバル チック艦隊を壊滅させました。

<村の産業> 日本各地で軽工業からはじまった産業革 命が重工業へと進む中で金沢の村を支え た産業は農業と漁業、塩業の一次産業でし た。 ―農 業― 金沢村の住民の多くは農民で1877(明治 10)年頃の史料によると区内には約263ヘ クタール(1ヘクタールは約3000坪)の田と 約235ヘクタールの畑があり、 また区内に は釜利谷村を中心に約886ヘクタールの山 林が広がり、こうした山林では薪や炭が生 産されていました。 生産物は特に多くの人口を抱える東京や 金沢から最も近い市街地である横浜に供 給され金沢地区は東京や横浜の食料庫や 燃料庫としての役割を果たしていました。 これらの地域での農作物は米と雑穀が主 体でしたが、横浜の市街地が拡大し人口が 急増するに従い市街地向けの野菜や果樹 の栽培も増加、明治30年代(1897〜1906年) には泥亀新田では蓮根の栽培が始まり州 崎ではトマト、パセリ、アスパラガスなど の西洋野菜やタマネギの栽培も盛んにな りました。 富岡を中心に花の栽培も盛んになりチュ ーリップやスイセンなどが作られ、明治40 年代(1907〜1916年)には温室フレームが 広まってきて品種もフリージア、バラ、カ ーネーション、ダリアへと大幅に拡大され ていきました。

富岡青砥山の芍薬園 (明治45年「伸びゆく富丘写真史」) 明治6年青砥の加藤太亮氏がしゃくやく、 チューリップ、スイートピーの栽培に成 功しました。

―漁 業― 農業と並ぶ主要産業だった漁業は横須賀 軍港の隣接地としての制約を受けながら 沿岸漁業中心に発展しました。 漁獲物の内容はアイナメ、カレイ、タイ、 コチ、アナゴ、ハゼやタイラギ、ミル貝など 現在とあまり変わりはなく漁法は手繰り 網と地引き網が多かったようです。 「金沢歴史年表」によると1883(明治10)年 には金沢湾に海苔養殖場が作られ、1890年 に内務省勧農局が牡蠣の養殖を試み、190 9年には農商務省水産講習所が金沢村に牡 蠣養殖場を設けてフランス式の養殖試験 を行ったとあり古くから養殖漁業にも目 を向けていたことが分かります。

富岡海岸での地引き網 (横浜開港資料館蔵)

―塩 業― 平潟湾の製塩は古くから行はれ特に州崎 村と町屋村はすでに南北朝時代から行わ れており、塩は明治時代にはこの地区の特 産物として知られ、各地で開かれた博覧会 へも出品されています。 塩の生産量については1877(明治10年)の 町屋村の記録があり、この村では約1.5ヘ クタールの塩田から年間約60トンの塩が とれ、村で働く労働者や塩商人もかなりの 人数に達し塩業は金沢の重要な産業でし た。 その後この地方の塩田は塩専売法の施行 のあと1910(明治43)年に製塩地整理の法 律が施行され金沢・六浦の塩田は廃止され ました。

横浜写真「金沢の塩田」・明治時代 (横浜開港資料館蔵)

<別荘地となった金沢> 横浜居留の外国人が金沢の富岡村に避暑 地として逗留するようになると横浜の日 本人商人や東京の政財界人もこの区域へ 避暑避寒に訪れ別荘を置くようになりま した。 夏は涼しく冬は暖かく交通の便も良く史 跡にも恵まれたこの区域の海岸沿いの地 は別荘地としての条件が整っていました。 伊藤博文が州崎に別荘を作ったのは1897 (明治30)年ですがそれよりも早く三條実 美が富岡に建てた別荘はフスマに金箔を 吹き散らした豪華なものだったといわれ ています。 このほか富岡では松方正義が慶珊寺の前 に別荘を持ち井上馨、大鳥圭介などのほか 日本画家として有名な河合玉堂が大正時 代につくった二松庵と呼ばれる別荘は今 も残っています。 *二松庵は残念ながら平成25年10月16日の火災により 焼失しました。

二松庵表門(金沢区富岡町) 屋敷の中に二本の松があったのでニ松庵と 名づけられたといわれます


明治時代
U(1888
    〜1911)
1888
 市町村制
公布
1889
 大日本帝
国憲法制
定
1890
 第一回帝
国議会開
催 
1891
 大津事件
発生


1894
 日清戦争
勃発
1895
 三国干渉



1899
 条約改正
(治外法権
の撤廃)


1902
 日英同盟
締結

1904
 日露戦争
勃発






1910
 日本、韓
国を併合
1911
 大逆事件
発生
 〃
 条約改正
(関税自主
権の回復)







日清戦争

 <戦争の背景>
 -朝鮮をめぐる清国との対立-
 欧米列強の東アジア進出を恐れた日本は朝
鮮が列強(特にロシア)の勢力に入れば、日本
の独立も危うくなると考え朝鮮を日本の影
響下に置こうと考えていました。
 一方清国は朝鮮を属国とみなして宗主権
(他国を治める権力)を主張し、次第に日本と
の対立を深めます。
 朝鮮内部では親日派と親清派が対立1882年
の壬午の変、1884年の甲申の変と二度のクー
デターは日清両国がお互いに軍隊を送って
鎮圧し、甲申の変の事後処理のために日清間
で結ばれた天津条約により両国は清国から
軍隊を引き上げて日清両国の衝突はひとま
ず回避されます。
 -国内産業の発展-
 日本国内では軽工業がめざましく発展して
国産の綿糸や綿織物を輸出できるようにな
りましたが、海外の市場を持たなかったため
1890年頃になると生産が消費を上回るよう
になった産業界は不況に苦しむようになり、
安く米や大豆の輸入も出来る手近な海外市
場として朝鮮への関心は強まります。
 当時の山県内閣も軍備に力を入れ、軍事予
算も増加し清国との対決に備えます。
<戦争のはじまり>   
 1894(明治27)年東学党の乱といわれる大き
な農民の反乱が起きました。
 反乱は腐敗した政府と経済的に支配を強め
る外国への反対を叫び、朝鮮全土に広がる勢
いとなり朝鮮政府は反乱を鎮めるために、清
国に出兵を求め、清国は直ちに兵を送りまし
た。
 清国の出兵を聞いた日本は公使館や居留民
を保護することを理由に派兵しますが、日本
軍が朝鮮に上陸した時には東学党の乱は清
国によって鎮圧されていました。
 日本は清国に対して両国が共同して朝鮮国
の改革に当たることを申し入れましたが、拒
絶されると素早く軍事行動に移ります。
 1894(明治24)年8月日本は清国に宣戦を布
告し日清戦争が始まりました。
 日本国内でも世論は戦争に賛成する者が多
く民党も政府を支持、日本の陸海軍は破竹の
勢いで進軍し旅順、大連や山東半島の威海衛
を陥落し清国の首都北京にせまる勢いでし
た。
<下関条約と三国干渉>
 北京が危うくなった1895年、清国は降伏し4
月には日清講和条約(下関条約)が調印され
ました。 
 これによって日本は清国を退けて朝鮮を勢
力下におき、清国の領土を割かせて大陸に進
出する拠点を確保するという日本の狙いが
果たされたかに見えました。
 これに対して満州(中国東北部)を南へ下っ
て遼東半島に勢いを伸ばすことを考えてい
たロシアはフランスとドイツと共に遼東半
島の返還を日本に迫りました。
 日本はまだこれらの大国に抵抗できるだけ
の力がなかったので涙をのんでこの申し出
に応じました。
 日本国民は「臥薪嘗胆」を合言葉にいつかは
ロシアと戦うことを覚悟して重い税を我慢
し軍備の拡張に協力しました。


北清事変

<事変の勃発>   
 日清戦争で敗れた清国に対する欧米列強の
進出も激しく、英、仏、独、ロシアなどの各国
は主要な都市を租借して植民地化を進めよ
うとします。 
 清国内にはこのような列強の侵略を防ぎ国
を建て直そうとする運動がおこりますが、そ
の中心となったのが白蓮教の流れを汲む義
和団でのちには農民や都市の市民、知識人た
ちも加わり清国政府もこれを応援したので
排外運動は次第に広がり各地でキリスト教
会が襲われ、各国公使館が包囲されました。
 これに対して英、米、ロシア、仏、日本などの
八ヶ国は1900(明治33)年共同で軍隊を送り
清国も宣戦を布告して北清事変がはじまり
ました。
 戦いは近代的な軍備を備えた連合軍が勝ち
、敗れた清国は4億5千万両(当時の金で約7億
円)という巨額な賠償金を支払い北京、天津
地区に各国の軍隊を置くことを認めました。
 この時の痛手が原因となってやがて清国政
府は革命で倒れます。
<日英同盟の成立>    
 北清事変に際してロシアは満州に軍隊を送
りましたが、その後引き上げず、さらに朝鮮
にも手を伸ばそうとする気配があったので
日本は当時バルカンや東アジアでロシアと
対立しその勢力拡大を警戒、恐れていたイギ
リスと提携してロシアを抑えようとして、1
902(明治35)年日英同盟を締結しました。
 これに対しロシアは露仏同盟の範囲を極東
にまで広げ日英同盟に対抗、ますます兵力を
増強してきていました。
<沸き立つ世論>    
 日本国内では三国干渉以来、国民の間には
ロシアへの反感が広がっていましたが東京
帝国大学の教授らが意見書を発表したり、対
露同志会の人達が全国各地で演説会を開い
て世論は開戦へと向かいました。
 この中にあってキリスト教や社会主義の立
場の人達からは戦争反対の主張が行われ「万
朝報」や「平民新聞」などで内村鑑三や幸徳秋
水、堺利彦らが非戦論を展開しましたが世論
を動かすまでには至らず、日本は次第に戦争
気分一色になります。


日露戦争


  
<開 戦> 
 1904(明治37)年2月、日本はロシアとのそれ
までの交渉を打切り朝鮮半島西海岸の仁川
と中国の旅順でロシア海軍との戦いを開始
しました。
 5月には陸軍の大部隊が朝鮮から鴨緑江を
超えて満州に進軍し戦場は一気に広がりま
した。
 日本軍は激戦の末に翌年1月旅順を攻略、奉
天の戦いに勝利を収めましたが、国をあげて
の戦いの裏には重税と不景気の下で出征兵
士の家を守る人々の苦しみがあり、勝利を喜
ぶ声の一方では次第に厭戦気分も広がり始
め、厭戦詩も作られました。(詳細はこちら) 
 1905(明治38)年5月の日本海海戦でロシア
のバルチック艦隊を破った日本は兵器や弾
薬の補充が困難となりもはや戦争続行も難
しくなってきており、戦いの決着がついたの
を機会にアメリカ政府に講和の仲介を依頼
しました。
<ポーツマス講和条約>
 1905年8月からアメリカ東海岸の軍港ポー
ツマスで日本側全権大使小村寿太郎とロシ
ア側全権大使ウィッテとの間で講和会議が
行われ、9月にはポーツマス講和条約が調印
されました。
<条約締結への反対>
 重税と物価高、厳しい徴兵、多数の死傷者な
ど日露戦争で払った大きな犠牲の割には賠
償金もなく樺太の領有も南半分だけという
講和条約の内容は国民の間に大きな不満を
呼びました。
 日比谷公園に数万の人が集まって講和に反
対する国民大会が開かれましたが、大会後街
頭に流れ出た群集は政府系の新聞社をはじ
め内務大臣の官邸、外務省、警察署、交番など
を襲いました。(日比谷交番焼き討ち事件)
 騒ぎは全国に広がり神戸や横浜の焼き討ち
をはじめ、各地に講和反対の大会が開かれま
した。
 政府は戒厳令を発し軍隊を出動させてこの
暴動を鎮圧し、ようやく講和条約の批准に持
ち込みました。
<韓国の併合>   
 日露戦争中の1904年8月に日本は韓国と第
一次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して
韓国の財政と外交に介入し、戦争が終わった
1905年11月には第二次日韓協約を結び、韓国
の外交権を握って漢城(現在のソウル)に統
監府をおき初代の統監には伊藤博文が就任
し、次第に韓国の政治すべてを支配するよう
になります。 
 韓国々民も日本の支配に強い反対運動をお
こしますが日本の軍隊はこれを鎮圧し1909
年10月伊藤博文がハルビンで韓国の民族運
動家 安重根に暗殺されると日本は翌年日韓
併合条約を結び、朝鮮総督府を置いて植民地
としました。
 この時から太平洋戦争が終わる迄の35年間
韓国は総督の統治の下で苦難の道を歩むこ
とになります。


近代産業の発展


 
<産業革命>
 日本の近代産業は政府の後押しにより先ず
製糸、紡績、織物などの繊維工業を中心とす
る軽工業主体の第一次産業革命から発達し
ました。
 日清戦争前後の1890年代(明治23〜32年)に
は工場が増え、最新式の機械が据え付けられ
て大量生産がはじまり輸出も増加しました。
 日露戦争前後の1900年代(明治32〜42年)に
は軍備を強化するためもあって特に重工業
の発展が目覚しく第二次産業革命が急速に
進められ、明治の終わり頃には資本主義の経
済体制が出来上がりました。
<劣悪な労働条件>
 工業の中心である製糸、紡績などの繊維関
係の工場で中心となっていた貧しい農村出
身の女工たちは、安い給料で寄宿舎の狭い部
屋に詰めこまれ長時間の労働にしばられ、病
気、逃亡、自殺などの悲劇が数多く生まれ、そ
の模様は細井和喜蔵の「女工哀史」の中にも
伝えられています。 
 重工業に多い男子工員も特に鉱山労働者は
落盤や出水、ガス爆発などの事故に晒されな
がら低賃金で長時間の重労働に従わなけれ
ばなりませんでした。
 農村では地主の土地所有がますます進んで
高い小作料を搾り取られる小作人や没落し
ていく自作農が更に貧しくなり、次男、三男
や娘たちは出稼ぎ、日雇いのほか人身売買の
ような形で都会へ流れ出して、悪条件下の工
場などに雇われるほかありませんでした。
 日本の産業革命を支えたのはこうした非人
間的ともいえる厳しい労働条件の中で働く
人達とその背後にある封建制の名残りの強
い農村でした。
<足尾鉱毒事件>   
 1887(明治20年)年頃から栃木県足尾町にあ
る足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川に流入して川
の魚が大量に死に、洪水のたびに田畑の作物
が枯れるという事故が起こりました。
 農民や漁民たちは何度も鉱山側に改善の要
求を出し数千人が上京し政府に対しても抗
議行動を行いましたが、政府は重工業を中心
とした第二次産業革命の時期を迎えて全国
の銅の三分の一を生産する足尾銅山を重視
して銅山側をかばいながら農民たちを弾圧
して1900年に治安警察法が制定されると運
動の指導者の多くは捕らえられてしまいま
した。
 栃木県出身の代議士田中正造は国会で政府
を追求し、ついには天皇に直訴する手段に訴
えました。
 のち政府は鉱毒防止対策をとりますが、た
れ流しの根本的改善は行われず、かえって反
対運動の中心地だった谷中村を渡良瀬川の
洪水に備えた遊水地にするため廃村とし村
民を北海道に移住させるというものでした。
 この事件は日本の公害問題の原点とも云わ
れます。


労働運動の夜明け

<労働組合の結成>   
 日清戦争後、労働者たちは劣悪な労働条件
を改善するために団結するようになります。
 1897(明治30)年にはアメリカから帰国した
高野房太郎らが職工義友会をおこしますが、
これに片山潜たちも加わって労働組合期成
会が結成され、その指導の下に鉄工組合や日
本鉄道矯正会などの労働組合が作られ、待遇
改善や賃金引き上げを要求する労働争議が
しばしば起こるようになりました。
 農村でも農民運動の中心には小作人組合が
活躍するようになります。
<社会主義の芽生え> 
 ―社会主義政党の誕生― 
 労働組合が結成され労働運動が展開される
とともに、それを指導する考えとして社会主
義思想が芽生えるようになり、1898(明治31)
年には阿部磯雄、片山潜、幸徳秋水らが集ま
って社会主義研究会を作りました。
 1901年にはこれを母体として日本で最初の
社会主義政党である社会民主党が結成され
ましたが政府は治安警察法によってただち
に解散を命じました。
 社会主義を唱える政党がはじめて公認され
たのは1906年に堺利彦らが中心になって結
成した日本社会党で普通選挙の要求、足尾鉱
毒事件の応援などの活動をしましたが、これ
も翌年には解散を命ぜられ政党として活動
する道のりは険しいものでした。
 ―平民社―
 社会主義運動に対する取締りは厳しくなり
ますが1903(明治36)年には幸徳秋水、堺利彦
らが平民社をつくって「平民新聞」を発行、フ
ランス革命の時の自由・平等・博愛を主張、19
05年1月政府の弾圧と経営難から廃刊になる
まで社会主義の立場から日露戦争に反対し
続けました。 
<大逆事件> 
 1908(明治41)年第二次桂内閣が成立すると
社会主義運動に対する取り締まりは一段と
厳しくなり1910年には明治天皇暗殺を計画
したという理由で多くの社会主義者が逮捕
され、その翌年に処刑されました。
 政府はこの大逆事件をきっかけに社会主義
運動を弾圧するため警視庁内に特別高等課
(特高)を設置し社会主義者の活動や労働運
動は衰え「冬の時代」に入ります。

  前のページへ

次   へ
トップページへ