ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 19
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・Q明治時代U(内外への発展)・・・
憲法を制定、国会を開設し立憲国家としての体裁を整えた日本は産業革命も進み海外へも進出し日清、日 露と二度の対外戦争に勝利を収め、発展の時代を迎えます。 国力充実の一方では貧困や過酷な労働に苦しむ農民や労働者の姿があり、公害問題の発生とともに労働 運動や社会主義運動が芽生えてきます。 伊藤博文らによって明治憲法が起草された金沢の村も日清、日露戦争にまきこまれました。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
|||
立憲国家の成立 |
1881(明治14)年に自由民権運動の盛り上が りにこたえて10年後に国会を開くことを約 束した政府は伊藤博文が中心となって準備 をはじめました。 翌年西洋諸国の立憲制度を調査するためヨ ーロッパに渡った伊藤は、1883年帰国すると 宮中に制度取調局(現在の内閣法制局)をお き立憲政治(憲法を基礎として行う政治)の 前提となる政治機構の改革に取りかかりま した。 1884年には民選の議院に対して貴族院をつ くる用意として華族令が公布され、翌年には 従来の太政官制度に代わって内閣制度が創 設され伊藤博文が初代の総理大臣に就任し ました。(詳細はこちら) <憲法の発布> 憲法の草案は伊藤の門下の金子堅太郎、井 上毅、伊東巳代治らによって秘密のうちに 作成され、1888年には出来上がった草案を 審議するために枢密院が設けられました。 枢密院議長には伊藤が就任し、天皇の憲法 として天皇の御前で審議が行われ1889(明 治22年)2月11日大日本帝国憲法として発布 されました。 宮中では明治天皇から総理大臣黒田清隆 の手に下げ渡されましたが、この憲法は天 皇の権限が絶対であることを定めた欽定 (天皇が定めた)の憲法でした。 国会は帝国議会と呼ばれ、選挙で選ばれる 衆議院と皇族・華族と勅任議員(国家功労者 ・学士院会員・多額納税者など)からなる貴 族院の両院制でした。 <総選挙と帝国議会> 1890(明治23)年7月に第一回の総選挙が行 われました。選挙の結果定員300人のうち民 党(野党の自由党と改進党)は171人が当選 し、吏党(政府を支持する与党で大成会な ど)は衆議院の三分の一にも達しませんで した。 同年11月に山形有朋内閣の下で第一回帝 国議会が開かれると民党は内閣の提出した 予算案に抵抗、政府も民党の要求を受け入 れざるを得ない状況でした。 その後も民党の政府攻撃は続き1892年2月 の総選挙では民党の候補者に徹底的な弾圧 が加えられ、各地で流血事件がおこりまし たが民党の優位は揺らぎませんた。 1892(明治25年)松方内閣辞職後、維新の改 革に尽くして元勲といわれる人たちが顔を 揃えた第二次伊藤内閣に対しても民党は攻 撃を続けますが、自由党は次第に伊藤内閣 に接近しこれに反対する立憲改進党は自由 党と対立して政党相互の対立が目立つよう になります。 <条約改正> 初代の伊藤内閣で井上外務大臣の鹿鳴館外 交が失敗した後も歴代の外務大臣は条約改 正の努力を続けました。 第二次伊藤内閣の外務大臣陸奥宗光は大津 事件(詳細はこちら)で外務大臣を辞職した青 木駐独公使をイギリスに派遣して交渉を進 めます。 当時ロシアがしきりにアジアの極東地帯へ の進出を図っていましたが、これを警戒した イギリスが1894年7月条約改正に応じ、治外 法権は撤廃され、ついで各国との間にも改正 条約が結ばれ5年後に実施されました。 しかし残された関税自主権の回復は明治も 末の1911(明治44)年迄待たなければなりま せんでした。 |
<金沢村・六浦荘村の誕生> 1889(明治22)年4月に市町村制度が施行 され旧来の各村は合併して久良岐郡の一 部から金沢村、六浦荘村が誕生しました。 金沢村は富岡村、柴村、寺前村、谷津村、町 屋村、州崎村、野島浦、泥亀新田が合併した もので村役場は寺前に置かれました。 六浦荘村は三分村、釜利谷村が合併した もので村役場は三分に置かれましたが、い ずれも旧村は大字となりました。 また峠村は東鎌倉に入りましたがその後 1897(明治30)年に六浦荘村となりその大 字となりました。 当時の戸数は金沢村716、六浦荘村541だ ったと云われています。 | |||
日清戦争 |
<戦争の背景> -朝鮮をめぐる清国との対立- 欧米列強の東アジア進出を恐れた日本は朝 鮮が列強(特にロシア)の勢力に入れば、日本 の独立も危うくなると考え朝鮮を日本の影 響下に置こうと考えていました。 一方清国は朝鮮を属国とみなして宗主権 (他国を治める権力)を主張し、次第に日本と の対立を深めます。 朝鮮内部では親日派と親清派が対立1882年 の壬午の変、1884年の甲申の変と二度のクー デターは日清両国がお互いに軍隊を送って 鎮圧し、甲申の変の事後処理のために日清間 で結ばれた天津条約により両国は清国から 軍隊を引き上げて日清両国の衝突はひとま ず回避されます。 -国内産業の発展- 日本国内では軽工業がめざましく発展して 国産の綿糸や綿織物を輸出できるようにな りましたが、海外の市場を持たなかったため 1890年頃になると生産が消費を上回るよう になった産業界は不況に苦しむようになり、 安く米や大豆の輸入も出来る手近な海外市 場として朝鮮への関心は強まります。 当時の山県内閣も軍備に力を入れ、軍事予 算も増加し清国との対決に備えます。 <戦争のはじまり> 1894(明治27)年東学党の乱といわれる大き な農民の反乱が起きました。 反乱は腐敗した政府と経済的に支配を強め る外国への反対を叫び、朝鮮全土に広がる勢 いとなり朝鮮政府は反乱を鎮めるために、清 国に出兵を求め、清国は直ちに兵を送りまし た。 清国の出兵を聞いた日本は公使館や居留民 を保護することを理由に派兵しますが、日本 軍が朝鮮に上陸した時には東学党の乱は清 国によって鎮圧されていました。 日本は清国に対して両国が共同して朝鮮国 の改革に当たることを申し入れましたが、拒 絶されると素早く軍事行動に移ります。 1894(明治24)年8月日本は清国に宣戦を布 告し日清戦争が始まりました。 日本国内でも世論は戦争に賛成する者が多 く民党も政府を支持、日本の陸海軍は破竹の 勢いで進軍し旅順、大連や山東半島の威海衛 を陥落し清国の首都北京にせまる勢いでし た。 <下関条約と三国干渉> 北京が危うくなった1895年、清国は降伏し4 月には日清講和条約(下関条約)が調印され ました。 これによって日本は清国を退けて朝鮮を勢 力下におき、清国の領土を割かせて大陸に進 出する拠点を確保するという日本の狙いが 果たされたかに見えました。 これに対して満州(中国東北部)を南へ下っ て遼東半島に勢いを伸ばすことを考えてい たロシアはフランスとドイツと共に遼東半 島の返還を日本に迫りました。 日本はまだこれらの大国に抵抗できるだけ の力がなかったので涙をのんでこの申し出 に応じました。 日本国民は「臥薪嘗胆」を合言葉にいつかは ロシアと戦うことを覚悟して重い税を我慢 し軍備の拡張に協力しました。 | ||||
北清事変 |
<事変の勃発> 日清戦争で敗れた清国に対する欧米列強の 進出も激しく、英、仏、独、ロシアなどの各国 は主要な都市を租借して植民地化を進めよ うとします。 清国内にはこのような列強の侵略を防ぎ国 を建て直そうとする運動がおこりますが、そ の中心となったのが白蓮教の流れを汲む義 和団でのちには農民や都市の市民、知識人た ちも加わり清国政府もこれを応援したので 排外運動は次第に広がり各地でキリスト教 会が襲われ、各国公使館が包囲されました。 これに対して英、米、ロシア、仏、日本などの 八ヶ国は1900(明治33)年共同で軍隊を送り 清国も宣戦を布告して北清事変がはじまり ました。 戦いは近代的な軍備を備えた連合軍が勝ち 、敗れた清国は4億5千万両(当時の金で約7億 円)という巨額な賠償金を支払い北京、天津 地区に各国の軍隊を置くことを認めました。 この時の痛手が原因となってやがて清国政 府は革命で倒れます。 <日英同盟の成立> 北清事変に際してロシアは満州に軍隊を送 りましたが、その後引き上げず、さらに朝鮮 にも手を伸ばそうとする気配があったので 日本は当時バルカンや東アジアでロシアと 対立しその勢力拡大を警戒、恐れていたイギ リスと提携してロシアを抑えようとして、1 902(明治35)年日英同盟を締結しました。 これに対しロシアは露仏同盟の範囲を極東 にまで広げ日英同盟に対抗、ますます兵力を 増強してきていました。 <沸き立つ世論> 日本国内では三国干渉以来、国民の間には ロシアへの反感が広がっていましたが東京 帝国大学の教授らが意見書を発表したり、対 露同志会の人達が全国各地で演説会を開い て世論は開戦へと向かいました。 この中にあってキリスト教や社会主義の立 場の人達からは戦争反対の主張が行われ「万 朝報」や「平民新聞」などで内村鑑三や幸徳秋 水、堺利彦らが非戦論を展開しましたが世論 を動かすまでには至らず、日本は次第に戦争 気分一色になります。 | ||||
日露戦争 |
<開 戦> 1904(明治37)年2月、日本はロシアとのそれ までの交渉を打切り朝鮮半島西海岸の仁川 と中国の旅順でロシア海軍との戦いを開始 しました。 5月には陸軍の大部隊が朝鮮から鴨緑江を 超えて満州に進軍し戦場は一気に広がりま した。 日本軍は激戦の末に翌年1月旅順を攻略、奉 天の戦いに勝利を収めましたが、国をあげて の戦いの裏には重税と不景気の下で出征兵 士の家を守る人々の苦しみがあり、勝利を喜 ぶ声の一方では次第に厭戦気分も広がり始 め、厭戦詩も作られました。(詳細はこちら) 1905(明治38)年5月の日本海海戦でロシア のバルチック艦隊を破った日本は兵器や弾 薬の補充が困難となりもはや戦争続行も難 しくなってきており、戦いの決着がついたの を機会にアメリカ政府に講和の仲介を依頼 しました。 <ポーツマス講和条約> 1905年8月からアメリカ東海岸の軍港ポー ツマスで日本側全権大使小村寿太郎とロシ ア側全権大使ウィッテとの間で講和会議が 行われ、9月にはポーツマス講和条約が調印 されました。 <条約締結への反対> 重税と物価高、厳しい徴兵、多数の死傷者な ど日露戦争で払った大きな犠牲の割には賠 償金もなく樺太の領有も南半分だけという 講和条約の内容は国民の間に大きな不満を 呼びました。 日比谷公園に数万の人が集まって講和に反 対する国民大会が開かれましたが、大会後街 頭に流れ出た群集は政府系の新聞社をはじ め内務大臣の官邸、外務省、警察署、交番など を襲いました。(日比谷交番焼き討ち事件) 騒ぎは全国に広がり神戸や横浜の焼き討ち をはじめ、各地に講和反対の大会が開かれま した。 政府は戒厳令を発し軍隊を出動させてこの 暴動を鎮圧し、ようやく講和条約の批准に持 ち込みました。 <韓国の併合> 日露戦争中の1904年8月に日本は韓国と第 一次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して 韓国の財政と外交に介入し、戦争が終わった 1905年11月には第二次日韓協約を結び、韓国 の外交権を握って漢城(現在のソウル)に統 監府をおき初代の統監には伊藤博文が就任 し、次第に韓国の政治すべてを支配するよう になります。 韓国々民も日本の支配に強い反対運動をお こしますが日本の軍隊はこれを鎮圧し1909 年10月伊藤博文がハルビンで韓国の民族運 動家 安重根に暗殺されると日本は翌年日韓 併合条約を結び、朝鮮総督府を置いて植民地 としました。 この時から太平洋戦争が終わる迄の35年間 韓国は総督の統治の下で苦難の道を歩むこ とになります。 |