ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 17
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・O江戸時代W(開国と幕末の動乱)・・・
1853(嘉永6)年ペリーに率いられた黒船が浦賀沖に現れて長かった鎖国も終わりを告げます。 開国、攘夷、尊皇、佐幕と様々な声が乱れ飛ぶ中で歴史の流れは薩長を中心とする尊皇倒幕の前に 最後の将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還して新しい時代への幕を開けました。 黒船来航で浦賀に近い金沢の村も天地がひっくり返ったような騒ぎになりました。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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開 国 |
<幕末の世界情勢>徳川幕府が鎖国政策を取っている間に世 界の情勢は大きく変わります。 18世紀の後半から19世紀の前半にかけて の産業革命により工業生産力は飛躍的に 増大しましたが、欧米各国は生産品の販売 と原料の確保を求めてアジアへの進出を 開始しました(関連サイト・欧米のアジア進出)。 アメリカは19世紀に入ると非常な勢いで 西部への開拓を進め領土を西へ西へと広 げて1848年にはカリフォルニアを併合、金 鉱の発見によりゴールドラッシュに沸く 太平洋岸に進出、捕鯨の中心も北太平洋に 移り清国との貿易や北太平洋の捕鯨のた めの中継地・補給地としての日本の開国を 求めていました。 <ペリーの来航> 1853(嘉永6)年6月アメリカ極東艦隊司令 長官ペリーは軍艦四隻を率いて相模国(神 奈川県)三浦半島の浦賀の港へ入港、幕府 に大統領フィルモアの開国を求める親書 を渡し、翌年の再来を約束して、引き上げ ました。 <開国と和親条約> 幕府は先例を破って朝廷や諸大名の意見 も聞きましたが、開国と攘夷の二つの議論 が対立しまとまらないうちに、翌年ペリー 一行は再び浦賀に現れ開国を迫ります。 幕府は横浜で交渉を行い、日米和親条約 (神奈川条約とも言います)を結びました がその内容は ・薪水、食料、石炭などを供給するため に下田、箱館の二港を開くこと ・下田にアメリカの領事を駐在させる こと などでした。 これに続いてイギリス、ロシア、オランダ とも同じような和親条約を結び200年以上 に亘った鎖国に終止符をうちました。 また日露和親条約の中で千島、樺太(サハ リン)の国境については択捉(エトロフ)島 から南を日本領と定め、樺太はしばらくの 間は国境を定めないでロシア人と日本人 が一緒に住む土地にしました。 |
<黒船来航と金沢> -六浦藩の警備- 1853(嘉永6)年ペリーの率いる四隻の黒 船が浦賀に現れ、日本側の回答を待つ間測 量をしながら金沢区の小柴沖に進んで来 ました。 六浦藩は乙舳海岸に陣を張り野島の山頂 に見張所を設置しました。見張所はペリー 艦隊が立ち去ったあとも残され番方の武 士が見張りを続けました。 六浦藩に仕えた角田家に残る角田氏由緒 書には当時の警備の様子が記されていま す。 | |||
通商条約の締結 |
日米和親条約にもとづき1856(安政3)年 アメリカの初代駐日領事となったハリス は幕府に強く貿易の開始を迫り、老中の 堀田正睦は京都に上り勅許(朝廷の許可) を得ようとしましたが、了解をとれませ んでした。 <井伊直弼の登場> 1858(安政5)年彦根藩主の井伊直弼が大 老に就任、勅許を得ないで日米修好通商条 約に調印、徳川慶福を将軍に立て十四代将 軍家茂として将軍の継嗣問題に決着をつ けようとしました。 <安政の大獄> 井伊大老が条約締結と次期将軍を強引に 決めたことから反対派は尊皇攘夷派の志士 たちと共に激しく幕政批判・井伊打倒の運 動を展開しますが、大老はまず反対派の大 名や公卿に隠居・謹慎などを申し渡し1859 (安政6)年には吉田松陰や頼三樹三郎らの 尊皇攘夷の志士たちや幕政改革を主張する 橋本左内をとらえて死罪にしました。 <桜田門外の変> 1860(万延1)年尊皇攘夷を唱え幕府に反対 する浪士たちは江戸城桜田門外で登城途中 の井伊大老を暗殺しました。 この襲撃には安政の大獄で大きな痛手を 受けた水戸藩の浪士が中心で事件の後、多 くは自殺したり捕らえられて死罪となりま したが、この結果井伊大老に代表される強 硬な路線は影をひそめ、幕府の進む方向も 変わります。 | ||||
公武合体 |
<和宮降嫁> 井伊大老に代わって老中の安藤信正(陸奥 磐城平藩主)が政治の中心となりますが信 正がとった手段は朝廷と手を結ぶことによ って尊皇攘夷派をなだめ天皇の権威を借り て幕府を立て直そうとする「公武合体」の策 でした。 そのために考えられたのが十四代将軍家 茂と孝明天皇の妹の和宮内親王を結婚させ ることで1862(文久2)年江戸城内で盛大な 婚儀が行われました。(関連サイト・和宮の生涯) 有栖川宮熾仁親王との結婚が決まってい たにもかかわらず、強引に家茂に嫁がせた この政略結婚は尊皇攘夷論者から激しく批 判され翌年安藤信正は江戸城坂下門外で水 戸藩を脱藩した浪士に襲われ傷つきまもな く失脚しました(坂下門外の変)。 <島津久光の活躍> 薩摩藩主の父島津久光は藩兵を率いて京 都に入り幕府に尊王の立場をとらせ公武合 体の政治を行わせるように考えていました が、薩摩藩の尊皇攘夷派の者たちが伏見の 寺田屋に集まっていることを知ると、これ を討たせました(寺田屋事件)。 倒幕派をおさえた久光は天皇の命を受け て江戸へ行き、幕府に尊王と攘夷を約束さ せ、公武合体への改革を迫ります。 その結果一橋慶喜が将軍後見職に、越前の 前藩主松平慶永(春獄)が政治総裁職になり 尊皇派が幕府の中で勢力を広げます。 京都守護職が新設され、会津藩主の松平容 保が就任したのもこの時のことです。 久光は意気揚々と西へ引き上げますが途 中生麦事件が起こりやがて薩英戦争に発展 し久光は攘夷をあきらめます。 | ||||
尊攘運動 |
幕府や雄藩の藩主層を中心に公武合体運 動が進められる一方で、下級藩主を中心と する尊皇攘夷派の動きが激しくなりました。 <下関事件> 尊攘運動の中心となったのは長州藩で吉田 松陰の教えを受けた久坂玄瑞、桂小五郎(の ちの木戸孝允)、高杉晋作らは幕府を倒して 天皇の政治を復活させようと考えました。 京都に入り込んだ長州藩の藩士たちは三条 実美らの公家と手を結び、幕府に攘夷実行を 迫ります。幕府は本気では攘夷実行の意思は ありませんでしたが、やむなく1863(文久3) 年5月10日を期して攘夷を実行することを諸 藩に通達、長州藩はその日から下関海峡を通 るアメリカ・フランス・オランダの船に向か って激しく攻撃しましたが、諸外国の反撃に 遭い長州藩は完敗しました。 7月には前年の生麦事件の報復としてイギ リスが7隻の軍艦を鹿児島に送って、鹿児島 城下の大半を焼き払いました(薩英戦争)。 これらにより攘夷の急先鋒だった長州藩と 薩摩藩は外国の軍事力を充分に思い知るこ となりました。 <八月十八日の政変> 長州藩のつまづきを見て薩摩藩は京都の警 備にあたっていた会津藩と協力、朝廷内部の 公武合体派の公家とも連携して巻き返しに 出た結果、次のような決定が下されました。 1、攘夷の決行は取りやめにする。 2、三条実美など長州藩に協力した公家を朝 廷から追放する。 3、長州藩が受け持っていた京都御所の門の 警備を止めさせ国もと引き上げさせる。 このクーデターの結果幕府に反対していた 長州の尊皇攘夷派が京都から追い出され代 って幕府の改革を成功させた薩摩藩の公武 合体派が朝廷で再び勢力を盛り返しました。 三条実美ら長州藩に協力した七人の公家た ちは長州へ都落ちします(七卿落ち)。 <池田屋事件> 長州藩は退けられましたが、なおも尊皇倒 幕派の浪士たちは倒幕を主張し、京都三条 の旅館「池田屋」を連絡場所にして密かに活 動していましたが1864(元治1)年6月新撰組 に襲われ、リーダー格の宮部鼎蔵や吉田稔 麿を失い大きな痛手を受けました。 新撰組は京都守護職のもとで過激派の浪 士の取り締まりに当たっていましたが池田 屋事件で有名になりその後尊皇倒幕派の浪 士たちににらみをきかすことになります。 <蛤御門の変(禁門の変)> 池田屋事件に怒った長州藩は1864(元治1) 年京都の町へ入り京都守護職の会津藩や薩 摩藩と戦いましたが重傷を負って自殺した 久坂玄瑞をはじめ攘夷倒幕の急先鋒だった 真木和泉など多くの指導者を失って退き、 薩摩藩との対立は一層深まります。 <第一次長州征討> 幕府は尊皇倒幕派に更に打撃を加えるため に「蛤御門の変」の罪を問うという理由で朝 廷から命令を得て長州藩を攻撃しました。 長州藩は前年の攘夷実行に対する仕返しと してイギリス、アメリカ、フランス、オランダ の四ヶ国の艦隊から下関の砲撃を受け、内と 外の攻撃にさらされた結果、幕府に降伏した ため実際の戦いは行われずに済み、幕府の権 威は一応保たれました。 |