ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 9

参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・G鎌倉時代・・・

 
源頼朝は幕府を開き武家による政治を始めますが、源氏の政権は三代で終わり北条氏が執権となって政治を行います。

 二度のモンゴル襲来を撃退したあと北条氏の独裁政治となりましたが、御家人たちの信頼を失って鎌倉幕府は滅亡し南北朝の動乱の時代に入ります。 

 かねさはの郷も歴史の表舞台に登場します。

 


 日 本  で は


か ね さ は  で は


略 年 表


 
鎌倉幕府の成立

 
 鎌倉幕府の成立時期については
 @1180年(侍所設置)
 A1183年(朝廷から東国支配の承認を受けた)
 B1184年(公文所,問注所設置)
 C1185年(守護・地頭設置)
 D1190年(右近大将に任命)
 E1192年(征夷大将軍に任命)
  の諸説がありますがここでは伝統的見解の1192年としました

〈守護・地頭の設置〉
 1180(治承4)年源頼朝は鎌倉に集まった東国武士を統率するために侍所を置き1184(元暦1)年には総務を処理する公文所(のち政所となります)と武家の領地争いを裁くための問注所を置いて幕府の組織を整えました。
 平氏が滅亡した1185年には全国に
守護・地頭の設置を計画、全国支配の基礎固めを図ります。

〈義経の死と奥州平定〉
 頼朝の弟源義経は平家追討の総大将として活躍しましたが、後白河上皇の信任を得ていたことなどから、頼朝と対立します。
 義経は頼朝の追求を避けて奥州藤原氏の下に身をよせますが、1189(文治5)年藤原泰衡の軍勢に襲われ衣川の館で自害します。
 頼朝はその年兵を送り、藤原氏を滅亡させ奥州を平定しました。

〈鎌倉殿と御家人〉
 
1192年頼朝は征夷大将軍に任ぜられ武家社会の仕組みを作りますが、家人(頼朝にしたがった武士)との間を「本領安堵」(領地の所有権を認めること)という『ご恩』と鎌倉や京都の守りにあたり戦時には参戦するという『奉公』の主従関係として、家人は頼朝を鎌倉殿と云ってあがめました。

 鎌倉幕府とかねさは

 
「かねさは」の地は鎌倉からは朝比奈峠の難所を隔てるだけで一番近い港があり三浦半島や房総半島からの輸送港として鎌倉幕府にとっては重要な役割を果たしました。
 将軍源頼朝は海上運輸の平穏を祈るため内海の中心部瀬戸神社に伊豆三島明神を勧請、北条政子は水の女神、近江の竹生島明神を勧請、琵琶島弁才天としました。
(関連サイト 瀬戸神社と琵琶島弁財天

 
頼朝の弟範頼も「かねさは」の瀬ケ崎に別荘をたて鎌倉の東の守りを固め,,邸内に薬師寺を作ったのが太寧寺のはじまりとされており太寧寺には範頼の墓とされる五輪塔と地蔵があります。


伝源範頼墓(金沢区片吹・太寧寺境内)
範頼は兄頼朝に疑われ、伊豆修善寺に幽閉され梶原景時らの追討を受け最後を遂げたと云われていますが、太寧寺の寺伝では「かねさは」の地迄逃がれて太寧寺に入って自害したとされています。
太寧寺ははじめ瀬ケ崎にありましたが昭和18年追浜飛行場拡張工事のため片吹の現在地に移転し、裏山にあった伝源範頼墓もこれに従い移りました。
太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」からつけられたもので、ここには範頼公の位牌や画像などが寺宝として遺されています。

  六浦庄のうつりかわり

 「かねさは」の地も平安時代後期には武蔵国六浦庄として久良岐郡からは独立した荘園になっており、かっては仁和寺(真言宗御室派総本山)勝法院の所領となっていました。現在金沢区に真言宗の寺院が多いのはこういった事情によるもののようです。
 六浦庄は中世には四つの郷(郷)に区分されていました。庄の中心は大道から瀬戸神社までの一帯で六浦本郷とよんでいました。
 釜利谷郷は朝夷奈切通しが開かれる以前の古道が通じていたところで金沢氏初代の北条実泰の領地だったと言われています。
 金沢郷は金沢北条氏が本拠としたところで六浦本郷とは瀬戸の海峡をはさんで対岸にあたり瀬戸橋開通以前は丘陵と砂州からなる未開発地域だったようです。
 金沢郷から山を隔てた北側一帯を富岡郷と呼び一時的に鎌倉幕府の有力御家人である安達氏又は名越北条氏の一族が本拠地としていたと言われます。
 やがて荘園の支配は寺院や貴族から武士にうつっていきますが、六浦庄も史料によると1157(保元2)年常陸国北部の那珂氏一族が源義朝からこの地を与えられ、その後和田義盛が支配、和田合戦で和田一族が滅びたあとは北条氏の支配下になり朝比(夷)奈切通しの開通(1241)や瀬戸橋の完成(1305によりますます鎌倉との関係は密接になります。

中世の六浦庄

 六浦津(港)の発展

 鎌倉の海は波高く船による物資の輸送には難点がありましたが、六浦方面の海は波穏やかで船舶の出入りには安全で、生活必需品である塩作りにも適したこと、更に六浦地方は三方を山に囲まれ一方だけ海に面し、鎌倉に似た地形が軍事上幕府にとって重要な地となり,特に
1241年朝奈切通し(関連サイト 朝夷奈切通後は六浦の地は大変賑わいを見せたようです。
 六浦津の発展は遠く中国からの唐船によって貴重な文物がもたらされたことからもよくわかります。
 称名寺に伝わる青磁壷や宋版一切経などは金沢北条氏の時代に中国から輸入されたもので,六浦町の「三艘」という地名は1269(文永6)年三隻の唐船(中国船)がここに来た時につけられたとも、またその後北条
顕時や貞顕の頃までに唐船が三度来着したのでつけられた地名とも云われています。

 六浦津(港)の船着き場の一つが今の上行寺の門前にあったとされており、そこにある船繋ぎの松が当時をしのばせます。



 
船繋ぎの松(金沢区・上行寺境内)
現在の松の木は昭和21年植替えのもの

塩の道
 
「かねさは」の奥深く入った入江では潮の満ち干を利用して塩田が作られ、鎌倉人の生活必需品でした。
 
金沢と鎌倉を結ぶ道は「塩の道」とも呼ばれ、今でも金沢街道に近い光触寺には塩売り商人が旅の安全を祈ったという「塩嘗め地蔵」が見られます。



塩嘗地蔵(鎌倉市・光触寺境内)
 六浦の塩商人が鎌倉へ行く途中塩の初穂を供えましたが、帰りにはなくなっていたことから地蔵が嘗めたとされ、塩嘗地蔵の名がついたと言われています。
 光触寺に伝わる「塩嘗地蔵伝来記」によれば、六浦の海浜に夜な々光る物があり塩汲みの職人が波に洗われた砂の中を掘り出したところ石地蔵が現われたので、出世地蔵として丁寧に供養したといいます。

 金沢北条氏

 北条氏の執権時代に金沢が鎌倉幕府にとって軍事的にも経済的にも極めて重視されていたため代々本家の手にありましたが,泰時が執権を命ぜられた時弟実泰がこの地の分与を受け「金沢」を名乗ったのが金沢氏のはじまりです。
 実泰は病弱だったため短期間で幕府の要職を去りましたが,子の実時がここに別荘を設けその中に称名寺や金沢文庫を立て,一躍有名な地になりました。
 金沢家からは実時のあと,幕府の評定衆になった顕時や十五代執権となった貞顕,六波羅探題となった貞将が出て鎌倉幕府が滅亡するまでの100年あまりこの地は代々金沢氏によって治められました。



北条実時蔵(国宝,称名寺蔵,金沢文庫保管)
 小さい時から利発だったと言われ叔父の執権泰時から目をかけられ,わずか11才で小侍所別当に就き34才の時に評定衆となり鎌倉幕府を支えました。学問にも深い関心を持ち、文武両道に秀でた人として知られています。
律宗に帰依した実時ば1273(文永10)年仏教の不殺生戒(生き物を殺してはいけないという教え)に基づき瀬戸の入海に殺生禁断令をしき,あらゆる動物の殺生を禁じています。


 霜月騒動と北条顕時

 1285(弘安8)年霜月騒動により御内人平頼綱は幕府の重鎮であった安達泰盛を攻め安達一門をを滅ぼしましたが,この時安達泰盛の娘を正妻としていた北条顕時も安達一門に連座して下総の国へ謹慎を命じられます。
 1293(永仁1)年執権北条貞時の手により平頼綱が滅ばされると顕時は復権して再び引付衆に就きました。
 顕時と生き別れた安達氏出身の妻は無学祖元(円覚寺の開山)に師事,京都資寿院を開きました。


北条顕時の五輪塔(称名寺境内)


 称名寺の創建と発展(関連サイト・称名寺

 称名寺は北条実時が六浦荘の別荘に作った持仏堂が起源とされています。
 当初は不断念仏の寺でしたが実時は論争に明け暮れて,本来の教えから外れた当時の仏教のあり方に不満を持ち,1267年僧審海を招き戒律を重んずる真言律宗に改めました。
 創建当時の称名寺は僅かなお堂に仏像を安置するだけの小さなお寺だったようですが,真言律宗のお寺になってからは実時によって弥勒菩薩立像の造立が計画され,実時の子顕時時代には弥勒堂・護摩堂・三重塔などが建立され発展します。
 実時の孫貞顕は1317(文保1)年から1323(元享3)年にかけて金堂・講堂・仁王門・苑池などの大規模な造営を行い寺の拡大に大きく貢献しました。



称名寺仁王門
入母屋造りの仁王門は1818年に再建されたものですが左右の金剛力士像は1323年の作で県指定の重要文化財となっています。


 金沢文庫の成立
(関連サイト・金沢文庫

 幼い時から幕府の要職につき執権を補佐した北条実時は一方で学問にも熱心で大変な読書家でした。
 読書好きの実時が集めた本を鎌倉の邸宅から金沢の別荘に移したのが金沢文庫のはじまりです。
 文庫はその後顕時・貞顕・貞将と引き継がれますが15代執権となった貞顕の時代が最も充実して,内容も豊富で和,漢,儒仏の各分野にわたり、その名は広く全国に伝わり,僧侶をはじめ多くの人々が文庫を訪れました。「徒然草」の作者である卜部兼好や日蓮上人もここを訪れました。



金沢文庫本(称名寺蔵,金沢文庫保管)
蔵書印は室町時代の蔵書点検の際に新たに押印されたものであるとも云われてます。


 鎌倉時代
 (1192〜1333)

1192 源頼朝,征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開く

1203 比企氏の乱
 
1205 北條義時,執権となる

1213 和田合戦

1219 源実朝,暗殺され源氏滅亡

1221 承久の乱,後鳥羽上皇,隠岐へ配流

1224 親鸞、浄土真宗を開く
 
1227頃道元帰朝し曹洞宗を開く

1232 北条泰時,貞永式目を定める

1244 永平寺創建

1247 宝治合戦

1253 建長寺創建
    日蓮鎌倉に法華宗を開く

1268 北条時宗,執権となる

1274 文永の役

1275頃 金沢文庫創設

   
1281 弘安の役

 

1285 霜月騒動

1293 平禅門の乱
1297 徳政令発布

1320頃五山文学興る

1324 正中の変

1331 元弘の変(〜1333)

1332 後醍醐天皇,隠岐へ配流
1333 鎌倉幕府滅亡



北条氏の進出













北条氏の系図)




















*天皇の命令文書は綸旨,親王の命令文書は令旨といいます

〈源氏の滅亡〉
 1198(建久9)年頼朝の死後,子の頼家が18才の若さで二代将軍となりますが母の政子は、政治を北条時政をはじめとする幕府の重臣ら13人による合議制とします。
 北条氏の力は一段と強まり政子も尼将軍といわれるほどの権力をもつようになりました。
 1203年頼家の後継将軍をめぐり、北条時政は頼家の子一幡の母方である比企能員一族を滅ぼし、頼家も伊豆の修善寺に幽閉ののち殺され弟の実朝が三代将軍に就きます。
 北条家では時政の死後義時が力をつけ頼朝以来の有力御家人の和田義盛を殺し(和田合戦)二代執権として幕府内の権力を固めます。
 1219(承久1)年実朝は甥の公暁により「父のかたき」として鶴岡八幡宮の石段で殺され、公暁もまた応援をもとめた三浦義村の兵に殺されます(実朝暗殺については
こちら)。
 このようにして源氏将軍は三代で終わりその後は京都の摂関家から将軍を迎えて、北条氏が執権として政治の実権を握ります。

〈承久の乱〉
 
当時、京都の朝廷は後鳥羽上皇が院政を行っていましたが、次第に鎌倉の幕府と対立、北条義時追討の院宣(上皇の命令文書)が下され幕府軍と戦い(関連サイト・政子の詞になりますが、敗れた後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇も土佐に流されました。

 乱の後の領地処分も厳しく行われ、主として西国にあった上皇側の公家や武士の所領は北条側の手柄のあった御家人に恩賞として与えられ、東国の御家人たちが新しく地頭として送られてきました
(新補地頭・・・これに対して承久の乱以前のは本補地頭といいます)
 
義時の子泰時は乱のあとも京都にとどまり六波羅探題として朝廷へのにらみを効かせます。

〈幕府政治の完成〉
 
承久の乱の三年後義時が死に子の泰時が執権となり叔父の時房を連署にします。
 更に主な御家人を評定衆(執権に協力して政治の重要事項を合議する職)に任じ合議制により公平で間違いのない政治が行われるような仕組みをつくりました。
 泰時は1232(貞永1)年には
貞永式目をつくりました。貞永式目は51条の簡明なものですが次の室町幕府にも用いられ長く武家の法制の模範とされました。
 こうして幕府独自の法制ができて鎌倉幕府の形は完成しました。

〈北条氏の独裁体制〉
 1246(寛元4)年北条時頼が執権になり優れた手腕を発揮します。
 執権就任の翌年、一族の名越光時が前将軍の頼経をかついで時頼を討とうとする陰謀が発覚、直ちに光時を伊豆へ、頼経を京都へ送り返しました。
 翌年には有力御家人の三浦一族が
宝治合戦で滅び北条氏の独裁体制が進みます。
 一方時頼は御家人や町民に対してもぜいたくを禁じ、自らも母松下禅尼の「倹約の教え」を守り引付衆(訴訟の審理にあたる役職)を設置、裁判を公正迅速に処理するなど人々の信頼を得ました。
 


武家社会の発展

 承久の乱で朝廷が敗れたあと急速に地頭が力をのばし、幕府の威光をかさに横暴を働くようになり、貴族や大寺院などの荘園領主はしかたなく地頭と契約を結び、一定額だけの年貢を取りたてもらい,代わりに荘園の支配を任せることにしました。(地頭請)。
 更に地頭は年貢を横領したりしたので幕府は荘園を二分して片方を地頭に与えることで解決しました(下地中分)。

 地頭は農民にたいしても勝手に年貢を増やしたり、労働させたりして命令に従わない者を罰するなど乱暴なふるまいをしましたが、農民達は農作物の品種改良や二毛作をとりいれ農業生産は発達し、商業も盛んになります。

公家文化と武家文化

 鎌倉時代には政治・経済の面では新しい武家が公家社会を圧倒しますが、文化面では伝統的な公家文化が優勢で新しい武家文化はそれを取り入れ成長していきます。
 鎌倉に幕府が開かれて武家が勢力をふるうようになると、公家たちは昔の平安貴族のはなやかな生活を懐かしんで和歌の道でも平安時代の「古今和歌集」にならって藤原定家らが「新古今和歌集」を編纂しました。
 一方武家社会では北条実時が武蔵国金沢に文庫をつくって和漢の書を集め武家たちに文芸をひろめました。
 仏像作りについても、源平の戦いなどで焼かれた寺の復興のため仏像が必要とされ、東大寺南大門の金剛力士像など運慶・快慶らは武士の世らしい力強い木像彫刻を作り上げました。


モンゴル襲来

<執権時宗の登場>
 1268(文永5)年北条時宗が第八代の執権についた年、高麗王の使者がモンゴル(蒙古)の世祖フビライの国書を太宰府にもってきました。国書は幕府や朝廷に届けられ、その中には「お互いによしみを結ぼう」とありましたが「兵を動かすようになるのをどうして好もうか」とも書かれ、幕府はこれを降伏を求めるためのおどしと見て返書は送らないことにしました。
 翌年にもモンゴルの使者が来て国書の回答を求めましたが、時宗はこれを無視する一方九州に異国警備番役をおいて戦闘準備をすすめます。

<文永の役>
 元と国名を改めたモンゴル軍が1274(文永11)年高麗軍(高麗は当時元に服属していました)とともに対馬・壱岐を襲い略奪の上、博多に上陸、日本軍は太宰府まで退きましたが、元軍も日本軍の強い反撃に会って撤兵、博多湾から姿を消しました。

<弘安の役>
 文永の役の翌年フビライは使者杜世忠を日本に派遣してきますが幕府の態度は強硬で鎌倉の竜の口でこれを斬殺、博多湾の沿岸などに石塁や土塁を築き防護を固めます。
 1281(弘安4)年元軍は14万の大軍を率いて再び日本を攻撃、対馬・壱岐を占領しますが大暴風雨が襲い、船は殆ど転覆沈没して元軍は一挙に壊滅しました。
 朝廷や幕府をはじめは神仏に祈り全力を尽くして奮戦した日本にとってこの暴風雨は「神風」と信じられ、日本は神の国であるという思想が強くなります。
(関連サイト・伊勢神道の成立)


幕府の衰退と朝廷

<武士達の不満>
 
武士たちは幕府の命令に従い武器も食糧も自費で賄いモンゴル軍と戦いましたが戦いに勝っても敵の領土を征服したわけではなく、幕府は恩賞として与える土地もなく、次第に武士たちは不満を募らせます。

<永仁の徳政令>
 
守護などの有力御家人は別にして一般の武士たちは借上げとよばれる金貸しから金を借りた者も多く、一方で商業が発達して生活がふくらみ、又武士の社会では親の領地を分割して子供に分け与える習慣があったため、領地はだんだん狭くなり戦いに出なかった武士たちも生活が苦しくなり領地を手放すようになってきました。
 幕府はこれらの武士を救うために1297(永仁5)年徳政令を発布します。
 徳政令ではこの20年間に御家人が手放した領地はそっくり取り戻して良い、今後は領地の売買や質入れを禁じるーというもので御家人は一時をしのぎましたが、その後は金銭、物資を融通するものがいなくなり却って一層困窮しました。
 幕府自体もモンゴルとの戦いで財政は苦しくなり御家人たちの信頼を失い地方の荘園では悪党(悪とは反体制という意味)と呼ばれる武士が幕府の支配に反抗して騒ぎをおこします。

<幕府政治の乱れ>
 霜月騒動で安達氏が滅亡すると北条氏と肩を並べる有力な御家人がいなくなり、政治の独裁はますます強まり評定衆による合議制も有名無実となり、北条氏の執権と身内の勝手な振る舞いが多くなり、御家人たちの反発を招き、執権高時の時代には"このとき執権高時暗愚にして゛(太平記)と云われるほど政治は乱れます。

<後醍醐天皇の朝廷>
 
京都の朝廷は承久の乱で敗れたのちは院政が続き、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれて互いに幕府に頼って皇位を争っていましたが1318(文保2)年大覚寺統の後醍醐天皇が即位、自ら政治にのりだします。


 

<正中・元弘の変>
 
1324(正中1)年後醍醐天皇を中心に日野資朝,俊基らによって進められていた討幕計画が発覚、資朝は佐渡に流されました(正中の変)。
 1331(元弘1)年再び後醍醐天皇は倒幕を計画しましたがまた未然に発覚、日野資朝俊基は殺され天皇は三種の神器を持っ,て、一旦笠置山に逃れ楠正成などを味方にします。
 天皇は幕府の追跡に笠置山を抜け出しますが途中で捕えられ隠岐の島に流されました(元弘の変)。
 この時即位していた持明院統の光厳天皇に三種の神器のうち持っていた剣と玉を差し出します。


 
鎌倉幕府の滅亡
 
〈楠木正成の活躍〉
 後醍醐天皇が隠岐に流されたのちも皇子の護良親王は吉野,熊野あたりで武士を集めて幕府にて抵抗していました。
 楠正成も赤坂城の奥に千早城を築いて守りを固め独特の戦術で大軍で攻撃する幕府を悩ませます。

〈足利高氏の旗揚げ〉
 護良親王の令旨によって各地で挙兵する武士があらわれ後醍醐天皇
伯耆(鳥取県)の豪族の名和長年に迎えられて隠岐の島を脱出します。
 これを見て幕府は足利高氏に追討を命じますが、高氏は六波羅探題の指図で船上山に向かう途中丹波(京都)の篠村で幕府にそむいて後醍醐天皇に味方して、逆に
六波羅探題を滅ぼしました。

〈新田義貞の鎌倉攻め〉
 
上野(群馬県)の新田庄を本拠とする新田義貞も後醍醐天皇から北条氏追討の命令を受けて挙兵、鎌倉目指して南下して稲村崎から鎌倉に侵入、激しい戦いとなりますが、高時ほか北条一族は敗れ北条氏は滅亡し鎌倉幕府も倒れました。


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