ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典          P 3
              ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                            参考文献日本の宗教(村上重良)
                                             
     神道の成立(高取正男)
                                             
        日本の神々と社(読売新聞社)
                                                               神道事典(弘文堂)
  ほか 

・・・中世(鎌倉時代〜室町時代)の神道・・・


伊勢神道の成立

 建久3年(1192)源頼朝は鎌倉に幕府を開きましたが、源頼義が石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡(現在の材木座付近)に勧請(分霊)して創建した鶴岡八幡宮を現在の地に移し幕府の守護神としました。 
 源氏三代につづく北條氏執権の時に文永、弘安の役と二度も外国の攻撃を受けて高まった日本国という国家意識はこれにつづく建武の中興と南北朝の対立で天皇の政治上、軍事上の力が復活して強まるとともに、天皇を中心とする日本を神の国とする神国思想へと発展します。

 こういう政治の激動を背景に鎌倉末期から南北朝時代にかけて伊勢神宮外宮(*1)の神職度会(わたらい)氏によって伊勢神道(度会神道)が成立します。

 伊勢神道は古代王朝勢力の復活の立場にたって、当時の仏教中心の本地垂迹説に対して、神道を儒教、仏教、道教よりもすぐれた最高の教えとし神国思想を理論づけしました。
 南朝の武将北畠親房が著わした「神皇正統記」は伊勢神道の影響をうけて書かれたものといわれますが”大日本は神国なり”と書きおこしています。

 また伊勢神道の教典「神道五部書」は内宮に対する外宮の地位を高め内外両宮同等を理論づけました。
 
 伊勢神道は天照大御神の”お告げ”として生活上特に清浄や正直の心を尊び物事の道理と生活の秩序を重んずべきことを説いています。

 南朝が敗北したあとは伊勢神宮にたいする室町幕府の圧迫が強まり、伊勢神道の発展は阻まれましたが、室町時代に生まれた吉田神道をはじめ、近世以降の習合神道説に大きな影響を与えました。

 こうした中で伊勢神宮は民衆の間に深く浸透します。昔から伊勢神宮は天皇以外の奉幣(供え捧げること)や参詣を禁じていましたが、財政の窮迫により御師(おんし)とよばれる布教師が全国の信者の家を巡回し布教や祈祷などを行い、神宮を庶民的な信仰の場として広げていくきっかけをつくりました。
 これが後世各地の伊勢講や神明社(伊勢神宮の分霊を祀った神社)の発生や伊勢詣での流行につながりました。

 伊勢詣で(伊勢参宮)
 御師の活躍などにより全国的なひろがりをもった伊勢信仰は周期的に集団的な参宮が流行し、おかげまいり、ぬけまいりと呼ばれました。これは伊勢の神のおかげで、日常の規制をぬけだして参宮をはたすという意味です。
 集団の参宮は中世末から伊勢講を基盤にして起こり江戸時代には数百万という大規模なものになり、東北と真宗の盛んな地方を除いて、殆ど全国から老若男女が伊勢に押し寄せました。
 神札が天から降ったとして村々でおかげ踊りがはじまり人々は歌い踊りながら伊勢へと向かいましたが、幕府はこの騒ぎをきびしい封建社会の安全弁とみなして静観し、かえって参宮の便宜をはかりました。


鶴岡八幡宮(鎌倉市)

(*1)伊勢神宮
 伊勢神宮は内宮と外宮からなりますが、内宮は当初皇居の中に祀ってあった天照大御神(アマテラスオオミカミ)を垂仁天皇25年(BC4年)の時現在地に祀ったとされます。
 外宮は食物の神である豊受大御神(トヨウケオオミカミ)を雄略天皇22年(478年)に丹波国より現在地に迎え、天照大御神のお食事をつかさどる御饌津神(ミケツカミ)として毎日朝夕天照大御神に神饌を差し上げることとしたといわれます。


 伊勢神宮内宮正殿(カラーブックス・保育社)


 伊勢神宮外宮正殿、右は御饌殿(日本の神々と社・読売新聞社)


修  験  道
 
 原始社会以来の山岳信仰(詳しくはこちら)は仏教や道教、神道と結びついて発展し、中世には山伏の宗教として修験道が成立しました。

 修験道は役の小角(えんのおづぬ)を開祖として南大和の大峰山系と呼ばれる吉野、金峰山、大峰から紀伊国の熊野にかけてのけわしい山岳地帯を霊場とし、金峰山を拠点とする山伏たちは、真言宗の当山派をつくり、熊野を拠点とする山伏たちは天台系の本山派をつくりました。
 古い歴史をもつ全国各地の山岳霊場の多くは、中世末までに当山派と本山派の系列に組み込まれましたが特別の伝統をもつ九州の彦山(英彦山)、備前国の児島五流などの山伏たちは独立を保ちつづけました。

 修験道の修行は山中の修行によって超自然的な霊力を身につけることを目的としていますが、密教の修法(儀式)を中心に神道、陰陽道をとりいれ、自然との一体化による即身成仏(人間がこの世で生身のままで悟りを開き仏になること)を説いています。

 中世の山伏は農村、都市に霞(縄張り)をつくって、加持祈祷を修め霊場への先達(先導)をつとめました。山伏は封建社会の境界を自由に越えて行動し源平、南北朝、戦国時代などの戦乱では戦闘に参加し、破れた武将などが山伏を頼り、山伏に姿を変えて逃亡した例も少なくありません(*2)

 江戸時代に入ると、山伏はきびしく統制されて自由な旅を禁止されたため、その多くは農村や都市に住みついて里山伏となりました。

 

 
(*2)
山伏姿

 歌舞伎の勧進帳では源義経の一行が頼朝の追求をのがれるために、奥州に向かう途中安宅関で関守富樫にとがめられ、山伏姿の弁慶が勧進帳を読み上げ怪しまれた義経を折檻してようやく通過しますが、この時山伏姿のいわれにつて弁慶と富樫のやりとりがあります。


法螺貝を吹く山伏(吉野山蔵王堂、日本宗教事典より)


吉 田 神 道
(唯一神道、卜部神道)

 伊勢神道は王朝勢力の復活をもとめる勢力と連なっていたことから南朝の敗北による旧勢力の没落とともに急速に影響力を弱め、伊勢信仰そのものも
もっぱら農民、商工業者の現世利益(げんぜりやく、死後の極楽世界のこと=来世利益=ではなく現世で実際に得られる利得や幸せ)的要求にこたえて普及する方向に展開します。

 吉田神道はこの空白の時期に登場し仏教、儒教、陰陽道を吸収して独自の神道説を体系化しました。
 吉田家は神祇大副(じんぎたいふ、神祇官の次官,)を代々世襲してきた卜部氏が京都の吉田神社を預かったことから吉田性を名乗ったものです。(神祇官の長官=神祇伯は白川家の世襲)
 吉田神社は春日神社の分社で藤原氏北家(*3)の氏神であったことから卜部氏は藤原氏に連なって勢力を伸ばしました。
 吉田神道を大成した吉田兼倶(1435〜1511)が父のあとをついで,ほどなく応仁の乱により吉田神社は焼失しました。朝廷と幕府は戦乱で諸国の神社が衰え、神事がすたれたため神事の復興と神祇統一を求めていました。
 これに答えて兼倶は吉田神社の復興と代々卜部氏が受け継いできた神道説によって吉田神社による全国の神社を統一を進めるとともに、現世利益をかかげて農民、商工業者の間に進出しました。
 吉田神道では神は万物の霊、人間の心となって広く存在し、神道は心を安定させ、鬼神の働きを防ぐ道であり心と肉体の働きを正しくする内清浄(内なる心の清め)と外清浄(肉体的な清め)の修行を説きました。
 
 吉田神道はこののち明治維新により各公家の神社支配が否定される迄、幕府の保護をうけながら江戸時代には全国の殆どの神社を支配下に置きその教義(教え)と修法(儀式)は全国の神社に浸透しました。



 吉田神社(京都市)
 本殿は慶長6年(1601)の再建で国の重要文化財。


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