政子の「最後の詞」

 執権の義時に追討の院宣が下って朝敵となった幕府が興亡の分かれ目に立ち,幕府創立以来の危機となり主だった御家人たちは急を聞きつけて駆けつけますが、鎌倉の御家人たちは朝廷に弓をひくことなどなかったので大いに動揺します。
 この時並み居る武将たちの前にたったのが今は髪をおろして尼となった(そのため尼将軍とよばれました)亡き頼朝の妻北条政子でした。
 吾妻鏡はこのときの政子の演説を次にように記しています。

 北条政子像(鎌倉市,安養院蔵)
 「これ最後の詞なり、故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し関東を草創してより以降、官位といひ俸禄といひその恩すでに山岳より高く冥渤より深し、
・・・・・ただ命を軽んじて恩を奉ぜられんことを思う・・・・・
 並居る武士たちは霰に撃たれたように伏してある者は涙を流し、やがて武者震いをして戦場に向かいます。
 
  (冥渤=はてしなく広い海のこと)
 4年後の1225(嘉禄1)年政子は息を引きとりますが、勝長寿院で行われた葬儀には殆どの御家人が集まり、鎌倉の町は人々で市をなしたといわれます。
 


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