ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 8

                                                     参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・F平安時代・・・

 朝廷は平安京遷都により政治の建て直しをはかりますが、藤原氏が勢力を強めた摂関時代ののち、院政へと政治の実権は移ります。
 律令制による土地制度が崩壊し、それを背景として武士勢力が台頭し平氏が政権を握りますが、源氏はこれを滅ぼし、本格的な武家政治へと向かいます。

 枕草子や源氏物語などのかな文字による物語や絵巻物など、国風文化と云われる日本独自の文化の花が開いたのもこの時代です(平安時代の文化については
こちら)。

 
 日 本  で は  

か ね さ は  で は

略 年 表
 
桓武天皇の即位
 
 781(天応1)年光仁天皇のあとを受けて桓武天皇が即位し政治の改革を進めます。

<長岡京の建設>
 
天皇は人心一新をはかるため藤原種継を責任者として長岡京の建設にかかりますが、種継は785(延暦4)年暗殺され、容疑者として皇太子だった早良親王が淡路島に流される途中死亡するなどの事件がおこり792(延暦11)年都づくりは中止されます。

<平安京遷都>
 
早良親王のたたりなどで長岡京をあきらめた天皇は794(延暦13)年平安京へと都を遷し1000年の都がはじまります。
 平安京は奈良の都(平城京)より少し大きく東西約4.6km、南北5.3kmで平城京と同じように朱雀大路を中心に左京、右京に分けられ東西に市がもうけられました。

<蝦夷征討>
 
東北地方の蝦夷と都の朝廷の間では既に8世紀の後半から対立が続き、朝廷は太平洋側では多賀城(仙台市の北方)を築きそこに陸奥の国府を置き、日本海側では秋田付近に進出していました。
 780(宝亀11)年蝦夷の豪族が反乱を起こし多賀城も占領されました。
 797年征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は蝦夷征討を進め岩手県盛岡市付近まで平定し、以後大きな反乱は見られなくなりました。

<政治の建て直し>
 桓武天皇は農民の負担が大きすぎて弱体だった兵士の制度を健児制に変えたり、班田収受制度の乱れを直すため従来6年に一度の口分田支給を12年に一度にして実行しやすくしたり、地方政治の乱れを直すため勘解由使(令外の官)を置き、また格式の編纂などで、律令制度が世の中の変化に対応出来るようにさまざまな改革を試みました。

 能見堂址と筆捨ての松

 金沢八景の起源として知られる
能見堂跡地には大正時代まで大きな松の木がありました。
 平安時代前期の宮廷絵師で巨勢派の祖といわれる巨勢金岡が東国の親族を訪ねて旅をした時に、能見堂跡付近から眺めた「かねさは」の絶景を写生しようとしましたが、あまりの美しさに書くことができず、とうとう松の木の根本に絵筆をすててしまったという話が伝えられています。
 この松は幹周3メートルもあり枝振りのよい木だったようですが大正8年秋の暴風雨で幹の途中で折れて、その幹と根株だけが残っていましたが太平洋戦争中に航空燃料の不足を補うために松根油の原料に掘り出されてあとかたもなくなりました。


 
能見堂擲筆山(江戸名所図会・部分)


「かねさは」と藤原道長伝説

 
能見堂縁起によると、寛仁年間(1017〜1020)御堂関白藤原道長公がここに来てここからの素晴らしい眺めを見て、草庵を結んだのがはじまりとされています。
 また谷津の浅間神社についても同じ頃来遊した道長公が能見堂から「かねさは」の景色を見て、正面のすぐ目の下に見えるこんもりと松の茂った森を塗桶の形に似ていることから塗桶山と名づけ、そこに浅間大神(
木花咲耶姫)を勧請したと伝えられています。
 当時の「かねさは」は東国の草深い村で藤原道長が来遊した史実はありません。金沢八景の景観の素晴らしさを伝えるために生まれた伝説と考えらています。


谷津・浅間神社(横浜市,金沢区)

 武蔵国税所雑物注進状

 平安時代の「かねさは」を含む久良岐郡の様子を伝える文書が滋賀県の金剛輪寺に残されています。
 この文書は「武蔵国税所雑物注進状」と呼ばれるもので嘉永元年(1169)の武蔵国久良郡における茜、紫(いずれも染料)小葛布(葛の蔓を繊維として織った布)の税額量(所当)、収められた額(所済)を記したものです。
 これによると税の割り当てが人から土地に変わってきたこと(大○、久友は課税単位となる名=みょう、人の名をつけた土地)や国衙に税所(さいしょ)ができて国司の遙任(平安中期から国司の長官=守=は任命されても現地に赴かないため、現地には税所、田所、健児所などの留守所という組織が出来てきます)などがわかります。


武蔵国税所雑物注進状
(複製,横浜市歴史博物館蔵・部分)

 武蔵国の検非違使設置

 律令政治の崩れにより地方も乱れ、朝廷も都から離れている武蔵国の秩序を維持するために苦労したようです。
 
日本三代実録(清和天皇、巻五)によると
「貞観3年(861)11月16日丙戍武蔵国に郡ごとに検非違使一人を置く。凶猾党を成し。群盗山に満つるを以ってなり。」  とありますが当時諸国に配置された検非違使が郡ごとに一人づづというのは例がなく武蔵国の治安の乱れが分かります。
 特に"しゅう馬の党゛と云われる馬を使う運送業者が都への貢ぎ物の略奪を重ねましたが、これら盗賊団の頭は地方の豪族達だったといわれます。


 平子(たいらこ)氏の活躍


 公地公民の制度がくずれ平安後期には武士団があらわれますが、久良岐郡には平子氏が現在の磯子を中心に勢力を伸ばしていました。(金沢区は1948年に磯子区の一部から分離、独立しました)
 平子氏の出身については源頼義にしたがって「前九年の役」に出陣した三浦平太夫為通の子孫である弘長が平子の姓を名乗ったのがはじめという説、
武蔵七党の最有力武士団だった横山党から分かれたという説がありますが、弘長の子有長は源頼朝の御家人となり、一族の子孫は越後の上杉氏の家臣として活躍しました。



真照寺(横浜市磯子区)
平子有長は1184(元暦1)年,館のそばにあった真照寺を再興して平子一族の菩提寺にしました。

 源頼朝と三浦一族

 1180(治承4)年源頼朝が兵を挙げた時に真っ先に駆けつけようとしたのが「かねさは」の奥座敷にあたる三浦半島の衣笠にいた三浦一族です。

 <三浦氏のはじまり>
上総に住みついた高望王の四男だった良文は大船の村岡で村岡五郎良文と名のっていました。
 良文の孫平太夫為道は源頼義にしたがって「前九年の役」に出陣、その功績が認められて三浦半島を与えられ三浦の姓を名のるようになりました。
 そして為道は三浦半島のほぼ中央にあたる場所に衣笠城を築きました。


 
衣笠城址(横須賀市)
 古東海道の重要な道筋に建てられた山城で源平盛衰記に”衣笠こそ聞こえたる城よ・・・”とあり平安時代の末にはすでにかなり知られた城だったようです。


<衣笠合戦>
 頼朝挙兵の知らせを聞いた三浦一族は棟梁の大介義明以下衣笠城を出発しますが、途中酒匂川の氾濫などで手間取っているうちに,頼朝が石橋山で大庭景親に敗れたことを知りやむなく衣笠城にもどります。
 平家方の猛攻により、義明は衣笠城篭城を決意、義明は死を覚悟、一人で城に残り、他の一族郎党を房総に向かわせます。


三浦義明廟所(横須賀市・満昌寺)
 
中央の宝篋印塔は三浦義明の、右の五輪塔は義明の妻の供養塔と伝えられています。

 義明は衣笠城で最後を遂げますが、安房国で頼朝を迎えた義明の子孫たちはその後も頼朝にしたがって平家追討に功績を残し、鎌倉幕府の重臣として活躍しました。


和田義盛旧里碑(神奈川県三浦市)
頼朝の挙兵を助けた義盛は三浦義明の孫にあたりますが、木曽義仲や平家追討に活躍、鎌倉幕府では侍所別当(御家人を統率する役所の長官)に任ぜられました。旧里碑は三浦氏の子孫が1921(大正10)年館の跡に建てた碑です。


 










 
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 平安時代
 (794〜1192)


794 平安京へ遷都


805 最澄,天台宗を開く
806 空海,真言宗を開く


810 薬子の乱




842
承和の変



858 藤原良房,摂政となる(摂関政治はじまる)


866 応天門の変  
  

894 遣唐使廃止


901 菅原道真,太宰府に左遷される


935 平将門の乱


939 藤原純友の乱


969 安和の変


1002年頃枕草子がつくられる


1007年頃源氏物語がつくられる


1016 藤原道長,摂政となる


1019 刀伊(女真族),対馬、壱岐、筑前に来寇


1028 平忠常の乱


1040 長久の荘園整理令

1045 寛徳 の荘園整理令

1051 前九年の役(〜1062)
1052 この年から末法に入ると考えられた
1053 宇治平等院鳳凰堂落成


1069 延久の荘園整理令


1083 後三年の役(〜1087)

1086 白河上皇院政を行う
(院政のはじまり)
1095 この年,院に北面の武士がおかれる

1124 良忍,融通念仏宗を始める


1126 中尊寺金色堂落成



1156 保元の乱

1159 平治の乱

1167 平清盛太政大臣になる

1175 法然,浄土宗を開く
1177 鹿
谷の変

1180 源頼朝,伊豆に挙兵



1183 平家の西国落ち
1185 平氏滅亡(壇ノ浦の戦)
   〃 源頼朝,諸国に守護、
    地頭を置く
1191 栄西,臨済宗を伝える


 
摂関政治




(藤原氏の系図)

<藤原北家の進出>
 藤原北家房前の子孫冬嗣は蔵人頭(天皇の秘書役)となり、朝廷で大きな勢力を得て825(天長2)年当時の最上位だった左大臣までのぼります。
 当時朝廷の中では藤原氏が僅かの差で橘氏、伴氏(大伴氏が改姓)、源氏、紀氏をおさえていました。冬嗣の子良房は842(承和9)年伴建岑、橘逸勢らが謀反を企てたとして流罪とし(承和の変)、伴、橘両氏の勢力を弱める一方、妹の子順子が生んだ道康親王を皇太子(後の文徳天皇)としてますます勢いを強め、遂に太政大臣になります。

<摂関政治のはじまり>
 
858(天安2)年文徳天皇の死亡により、清和天皇が即位しましたが僅か9才だったため良房が天皇に代わって政治をおこなうようになります。
 これからのち藤原氏は自分の娘を天皇と結婚させ、生まれた子を天皇にし天皇の外戚(母方の親類)となることにより摂政とか関白の地位に就いて、政治を支配するようになります。

<応天門の変>
 
866(貞観8)年平安京の朝堂院(朝廷の儀式を行うところ)の入口にある応天門が炎上しました。
 良房は大納言伴善男、紀豊城らを犯人として流罪、藤原氏と対立していた伴、紀氏は没落します。

<摂政から関白へ>
 876(貞観18)年陽成天皇が10才で即位良房の養子となった基経が摂政となりましたが陽成天皇は16才で退位、基経の推薦により光孝天皇が55才で即位しますが基経は引続き天皇に代わって政治を行います(関白)。
 そして次の宇多天皇が即位すると基経は天皇から正式の関白の地位をあたえられました。
阿衡事件はこの時のことです。

<菅原道真>
 891(寛平3)年藤原基経が死亡すると宇多天皇は関白を置かずに自ら政治にのりだします。
 天皇は文章博士として活躍した菅原道真を朝廷に迎え、右大臣に登用、道真も天皇をよく助けますが、宇多天皇のあとをついだ醍醐天皇の時に藤原時平の計略により、太宰府に左遷され、903年(延喜3年)59才の生涯を終えました。
 道真の霊はその後清涼殿にもあらわれ時平を悩ませたといいます。
関連サイト


荘園の成立

<荘園の始まり>
 奈良時代に口分田が不足したり農民たちが重い税に苦しんで逃亡したため、耕作地を増やすため朝廷は三世一身の法や墾田永世私財令を出した結果、貴族や寺院が農民を使って土地を開墾していき私有地としたのが荘園のはじまりです。

<勅旨田と公営田>
 貴族や寺院が荘園を増やすようになると皇室や役所でも土地を拡げて荘園にしていきます。
 皇室では天皇の命令で土地を開墾する「勅旨田」を、役所では強制的に農民を集めて土地を開墾させて「公営田」という名の荘園を拡げます。

<不輸と不入の権>
 荘園は地方にも広がり豪族たちが土地を開墾して私有地としますが、荘園にかけられた税金を払わず中央から派遣された国司と衝突し不輸の権(中央の役所に手続きをして税金を納めなくてもよい権利)や不入の権(荘園への立ち入りを禁止する権利)を得て税金から逃れます。

<荘園の寄進>
 更に国司の干渉を排除するために、荘園を中央の貴族や寺院に寄進しします。なかでも藤原氏のもとには多くの荘園が寄進されて不輸・不入の権が与えられました。
 但し寄進といっても名目上のことで、藤原氏の荘園となっていても実際は寄進した人(開発領主)が荘園を支配する管理人(荘官)となって寄進した先(本家、領家)に収穫物の一部を差し出すだけでした。

<名主の発生>
 重い税のため逃げ出した農民は荘園にもぐりこみ荘民となって開墾に従事しますが、やがて収穫も増えて名田(みょうでん)とよばれる自分の土地をもつ農民(名主)となります。
 

地方政治の乱れ

 公地公民による律令の政治が崩れると地方でも政治が乱れ、国司たちも公地を私有地として支配(国衙領)したり、農民から取りたてた税を一部しか国に納めず自分のものにしたりしました。
 中央では藤原氏の一族が高い地位の官職を独占しているため、それ以外の貴族たちは進んで地方の国司になることを希望して私腹を肥やしたのです。
 国司は任命されても国衙(役所)に赴任しないで代理(目代=もくだい)をおくって収入だけを都の屋敷に運ばせたり、反対に任期が終わっても戻らない者もいて国衙は政治の場所ではなく、役人になった土地の豪族たちが国司の命令に従って農民から税を集めるだけの場所になってしまいました。


摂関政治から院政へ

<延喜・天暦の治と安和の変>
 このような政治の乱れに対し醍醐天皇とそのあとの村上天皇は摂政も関白もおかずに自らの手で律令国家の建て直しをはかりますがこの二代の政治をそれぞれの年号をとって「延喜・天暦の治」といいます。
 まず荘園の整理に着手、902(延喜2)年荘園整理令を出し、また延喜式の制定など一時的に藤原氏をおさえますが、10世紀の後半藤原実頼が関白になると左大臣源高明を追放(安和の変)、再び勢いをもりかえします。
 対立する人物や氏族をすべて退けた藤原氏が以後100年の間、天皇の外戚として政治を独占しました。
<摂関政治の全盛>

 ”この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば”

 と詠み御堂関白と称された藤原道長は天皇家の外戚関係を確立、摂関政治の全盛時代を迎えます。
 道長の子頼道も摂政から関白となって外戚関係と荘園からの収入によって安定した政治を続けました。

<後三条天皇の即位>
 
1068(治暦4)年藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位、天皇中心の政治を目指します。
 天皇は記録荘園券契所(記録所)をつくり従来はあまり効果の上がらなかった荘園整理を進めます。国司の重任(再任)をやめさせたり藤原氏と対立しながら自らの手に政治を取り戻そうとします。

<院政のはじまり>
 1086(応徳3)年8才で堀河天皇が即位したことから上皇となった白河上皇が政治をみることになり、院政がはじまりました。
 白河上皇は源氏(村上源氏)の人々を公卿にしたので藤原氏に代わって源氏が重要な官職を占めるようになります。
 今まで藤原氏に寄進されていた荘園も院(上皇)に寄進され、受領(ずりょう、実際着任した国司のトップ)から院へいろいろな物が差し出されるようになります。
 白河上皇は堀河、鳥羽、崇徳の三代の天皇の時院政を続け、次に鳥羽上皇・後白河上皇の院政が続きますが、武家政権の時代になると力を失います。

<院政と仏教>
 院政を行った上皇たちは熱心に仏教を信仰しましたが、寺院の建立や度重なる熊野詣のための費用を国司たちに頼るようになり、国司たちも自分の地位を守る為これに応じました。
 反面寺院や僧兵の勢力は増大し、国司と争ったり、朝廷や院に無理な要求をするようになりますが、これを鎮めたのが武士団を率いた源氏や兵士の棟梁たちです。
 



武士の登場






















(*1)国司の官位は守・介・掾・目の順でした




















<武士の起こり>
 律令体制が崩れるとともに、中央の政治力は地方に及ばなくなり、地方が乱れてくると荘官や名主は荘園が他から侵入されるのを防ぐため、荘園で働いている農民に武器を持たせて自衛集団をつくります。これが武士のはじまりです。
 自衛集団は地方豪族や名主たちの下に集まり「武士団」という組織になります。

<武士団のまとまり>
 武士団は豪族たちが中心だったため、初めは互いに対立しましたが、やがて都からやってきた貴族の下にまとまります。
 このまとまった大きな武士団の中心人物(棟梁)が清和天皇の子孫である源氏(清和源氏)や桓武天皇の子孫である平氏(桓武平氏)です。

<承平・天慶の乱>
 平将門の祖父にあたる高望王は桓武天皇の曾孫(ひまご)でしたが、平という姓をもらい上総の介
(*1)となり任期が終わっても都に帰らず、そのまま上総に住みつき土地を開発して大地主となります。
 935(承平5)年将門は伯父の国香を殺し(平将門の乱)一族を支配下におきます。
 更に939(天慶2)年常陸の国
衙を焼き払い「新皇」を名乗り王城を築きますが940年国香の子平貞盛と下野の押領使の藤原秀郷によって滅ばされます。

 伊予の(*1)であった藤原純友は任期が終わっても都に帰らず瀬戸内海の海賊となっていました。
 939(天慶2)純友は讃岐の国府を襲撃し九州の太宰府を攻め、一帯を荒らしまわりました(純友の乱)。941年になって源経基や小野好古がこれを平定しましたがこの二つを承平・天慶の乱といい朝廷に大きな衝撃を与えました。

<武士の進出>
 武士団が成長してくると武力が充分でない朝廷も武士団の力を頼りにするようになります。
 1019(寛仁3)年「
刀伊の入寇」の時は太宰府長官が北部九州の武士団の力でこれを退け、朝廷でも藤原氏が源氏の武士を使って警備に当たらせ、院政の頃には平氏が仕えるようになります(北面の武士)。



源氏と平氏







































(*2)藤原清衡は藤原経清の実子でしたが経清が死んだあと母が清原家に嫁いだため清原姓を名乗りました









































 源氏は源経基が藤原純友の乱を鎮めたことから瀬戸内海を中心に勢力を持ち、平氏は関東地方に勢力をもっていましたが1028(長元1)年、源頼信が平忠常の乱を平定してからは、源氏が平氏に代わって関東地方に勢力をうつし、平氏の勢力は近畿地方や瀬戸内海にうつりました。

<東国の源氏>
 
関東地方は都から遠く離れ、中央の支配がよく行き届かないところでしたが、ここで源氏は勢力を伸ばしていきます。
 関東の北、東北地方は更に朝廷の目が届かない地方で、蝦夷と呼ばれる人々が住んでいましたが次第に朝廷に従うようになり「俘囚」(ふしゅう)とよばれ朝廷に服属していました。
 俘囚の長の中から勢力を伸ばしてきたのが安部氏でしたが安部頼時の時代に南下して、国司の命令にも従わなくなりました。
 
・前九年の役
 
朝廷は源頼信の子頼義を陸奥の国守とし鎮守府将軍という地位も与えて安部頼時の征討に向かわせますが頼時の子貞任、宗任の勢力が強く、頼義は出羽の清原氏に応援を頼みようやくこれを平定します。

 
・後三年の役
 
前九年の役を鎮めた源頼義とその子義家は官位も上がり、源氏を助けて活躍した清原武則も安部氏の所領であった陸奥六郡(現在の岩手県付近)を支配するようになりますが、清原氏一族の中で清原清衡と家衡との間に争いがおこり源義家は清衡を助け家衡を滅ぼします。
 義家はこの戦いで武士たちの信頼を得て名声をひろめ、一方清衡は藤原の姓に戻り
(*2)奥州藤原氏発展の基となります。

<西国の平氏>
 
源氏によって関東を追われた平家は近畿地方や瀬戸内海に勢力をふるうようになり平正盛の頃には白河上皇の信任を得て、
北面の武士の中心となり、上皇や院の警備に務め正盛は但馬守になります。
 正盛の子忠盛は瀬戸内海の海賊を支配下に置き西国に平氏勢力を築きました。

<保元・平治の乱>
 朝廷では近衛天皇の死後後白河天皇が即位すると鳥羽法王と子の崇徳上皇が対立、摂関家では関白となった藤原忠道と弟の頼長が対立していましたが、1156(保元1)年鳥羽法王が死ぬと崇徳上皇は頼長と結んで源為義、為朝、平忠正らの武士を招き、天皇側は忠通と結び為義の子義朝、忠正の甥平清盛らがついて親子、兄弟が敵味方に別れて戦います(保元の乱)。
 この戦いは天皇側の勝利に終わり、敗れた崇徳上皇は讃岐に流され頼長は自殺、清盛は忠正を、義朝は為義を処刑、為朝は伊豆大島に流されました。

 保元の乱ののち、後鳥羽上皇お気に入りの藤原通憲(信西)と藤原信頼が勢力を争い、武士では源義朝と平清盛が対立し1159(平治1)年義朝と信頼の軍は通憲を殺しましたが、清盛の反撃により信頼は殺され義朝は尾張で家臣長田忠致の裏切りにより殺されました((平治の乱)。

 
<平氏の全盛と滅亡>  
 平清盛は武士としてはじめての太政大臣になり、娘徳子を高倉天皇の皇后にする一方、宋 との貿易を活発に行い"平氏に非ざれば人に非ず”と云われたほど一門は隆盛をきわめます。
 平治の乱で伊豆の蛭
小島に流された源頼朝は1180(治承4)年北条時政とともに伊豆の目代(国司の代官)山本兼隆を襲撃、その年一度は石橋山で敗れますが関東一帯の武士を見方にして平氏を攻略、1185(文治1)年壇ノ浦に平氏を滅ぼしました。  (源平の戦いはこちら