ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 21
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」
内田四方蔵「金沢の100年」 ほか
・・・S昭和時代(太平洋戦争まで)・・・
昭和と年号が変わった翌年の1927(昭和2)年には金融恐慌がおこり、多くの銀行や会社が倒産、1929年 には世界恐慌により日本経済は完全に行き詰まりファシズムと戦争への道を歩みました。 大陸侵攻から太平洋戦争に突入した日本は1945(昭和20)年原爆投下とともに無条件降伏、ようやく平 和の光がさしこみます。 金沢の町では湘南電車の開通により人口も増加、1936(昭和11)年には横浜市に編入され町の賑わいも 増しましたが、やがて戦時体制に組み込まれ人々は苦難の末終戦を迎えました。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
|||||
不況と弾圧 |
第一次大戦後の1920(大正9)年の経済不況 (戦後恐慌)についで1923(大正12)年の関東 大震災により日本経済は大きな打撃を受け ました。 会社の経営は苦しくなり、そこに金を貸し 付けている銀行の経営も不安な状況を続け ていました。 <金融恐慌の勃発> 大正天皇が逝去、年号が昭和に変わった19 26年加藤首相死亡のあとは若槻礼次郎が憲 政会総裁となり内閣を引き継ぎました。 翌1927(昭和2)年3月若槻内閣が出した震 災手形の処理に関する議会中、片岡大蔵大 臣の失言(詳細はこちら)により銀行の取り付 け騒ぎが発生し全国各地の銀行が休業しま した。翌年4月には神戸の大商社の鈴木商店 (のちの日商岩井の前身)の経営不振により 同社へ多額の貸し付けを行なっていた台湾 銀行の経営も苦しくなり、これを救済するた め若槻内閣の出した緊急勅令案が政友会に 同調した枢密院で否決され、若槻内閣は総辞 職しました。 台湾銀行は休業、鈴木商店も倒産し取り付 け騒ぎは全国の銀行をおそい休業する銀行 が続出しました。 <田中義一内閣の誕生> 憲政会の若槻内閣が倒れたあとは反対党 の政友会総裁の田中義一が総理大臣となり 元首相の高橋是清が大蔵大臣となってモラ トリアム(支払猶予)と日銀非常貸出しを実 施して取り付け騒ぎはおさまりました。 混乱は一応鎮まりましたが経済界が立ち 直ったわけではなくインフレーションが激 しくなり国民の生活は一層苦しくなるばか りでした。 またこの間中小銀行は財閥の大銀行に合併 されるところが多く不景気とインフレーシ ョンの中で財閥などの大資本は大きくなっ ていきました。 <第一回普通選挙> 1928(昭和3)年2月にはじめての普通選挙が 行なわれましたが、田中首相の政友会は第一 党になったものの立憲民政党との差は僅か 一議席に過ぎず過半数は得られず社会民主 党、労働者農民党など無産政党の候補者も8 人が当選しました。 <厳しい弾圧> 総選挙で共産党系の活動が目立ったため、 これを警戒した田中内閣は総選挙の終わっ た翌月、治安維持法を適用して共産党系の 活動家やその同調者を大量に検挙して労働 者農民党などを解散させました。 更に政府は緊急勅令で治安維持法を改め て最高刑を死刑にしたり思想犯を取り締ま る特別高等警察(特高)を強化し弾圧の嵐が 吹き荒れました。 |
<湘南電鉄の開通> 湘南電鉄は1927(昭和2)年6月に着工され 1930(昭和5)年4月黄金町・浦賀間、金沢八 景・湘南逗子間が開通して金沢文庫・金沢 八景の両駅が開業、7月には湘南富岡駅が 開業しました。 これより以前京浜電鉄は品川・横浜間を 開通しており1931(昭和6)年12月両電鉄と も日ノ出町まで路線を延長、1933年4月両 電鉄は品川・浦賀間に相互乗り入れの直通 運転を開始して待望の東京直行が実現し ました。 なお両電鉄は1941(昭和16年)合併して京 浜急行電鉄となりました。 | |||||
中国への内政干渉 |
<山東出兵> 当時の中国は孫文のあとをついだ蒋介石が 広東の国民政府を率いて全国統一を目指し て北伐の戦い(北方の軍閥政府を打倒する戦 い)を進め1927年には南京に国民政府をつく り北京の張作霖を攻略しました。 田中内閣はワシントン会議で後退した中国 での権益を確保する必要から、親日派の張作 霖を支援するため、在留邦人の生命財産を保 護するという理由で山東省に出兵しました。 <張作霖爆殺事件> 北伐軍の勢いは強く、日本政府は北京は蒋 介石に渡して張作霖の下で満州の権益を拡 大しようとしましたが張が協力的でなかっ たので翌年関東軍(満州駐屯の日本陸軍)の 手によって張の列車を爆破して張を殺害し ました。 この事件は中国のみならず諸外国からも強 い非難を受け、国内でも野党の民政党などか ら攻撃をうけ田中内閣は総辞職に追い込ま れました。 満州事変がおこったのはこの三年後です。 | ||||||
軍縮と経済のゆきづまり |
<外交路線の変更> 田中義一内閣が倒れた後は民政党の浜口雄 幸が首相となり外には平和外交を進め、内で は不景気の中に沈みきった経済の建て直し に力を注ぎました。 浜口内閣の外務大臣には幣原喜重郎が就い て、山東出兵や張作霖爆殺で再びこじれ出し た中国との関係を正常化するために話し合 いによる平和外交を進めました。 <ロンドン海軍軍縮会議> 一方アメリカやイギリスとも強調して世界 の平和のための軍備縮小にも取り組みます。 1930(昭和5)年イギリスの提唱により英、米 日、仏、伊の5カ国の代表によりロンドンで海 軍軍縮会議が開かれ巡洋艦以下の補助艦の 保有トン数の割合を米英は各10、日本は6.97 5とすることなどを決めました。 この決定に対して海軍は不満を示し統帥権 干犯として激しく非難し、野党の政友会や右 翼も反対の声をあげましたが、浜口内閣は反 対論を押し切って条約を批准しました。これ がもとで浜口首相は東京駅で狙撃され重傷 を負い翌年死亡します。 <産業の合理化> インフレ下の物価高に苦しむ国民の生活 を安定させるために産業の合理化によって 競争力のある商品を作り輸出を増加させよ うするのが浜口内閣の方針でした。 産業の合理化は一方で労働者の負担を大 きくして多くの失業者を出すことになり労 働運動が激しくなり浜口内閣を苦境に立た せました。 <金解禁> 1930(昭和5)年1月、金の輸出入を自由化す ることによって為替相場を安定させ輸出を 促進して景気を回復することを狙いに金の 輸出解禁(金解禁)を行いました。 しかし1929(昭和4)年10月ニュヨーク株式 市場で株価の大暴落がおこり、その影響は忽 ち全世界に広まって世界恐慌になりました。 日本の金解禁は"嵐の中で雨戸を開ける"よ うな状態となり輸出は減り、金の流出は激し くなり、1931年には再び金輸出を禁止するに 至りました。 <昭和恐慌> 1930(昭和5)年から翌年にかけ日本経済は どん底に陥りました。アメリカ向けの生糸を はじめ中国やインド向けの綿布の輸出が大 きく減り株価、物価、工業生産なども30%前後 下がるという状況でした。失業者も増加、労 働争議も激しくなり長く激しいストライキ が全国各地に相次いで起こります。 <農村の苦しみ> 恐慌の打撃は農村で特に深刻でした。 生糸の輸出がふるわないため、繭の値段が3 分の1に下がり朝鮮米や台湾米が大量に入っ てくるのに加え冷害、津波、台風、干ばつなど の被害が続き農民たちの生活は悲惨な状態 となりました。(コラム・昭和恐慌と農村) 1930(昭和5)年11月は浜口首相は東京駅で 右翼の青年によってピストルで撃たれて重 傷を負い翌年4月同じ民政党の第二次若槻 内閣が誕生します。 | ||||||
軍部の台頭 |
<満州事変> −事件の背景− 1928(昭和3)年中国では蒋介石の北伐が成 功して満州(中国東北部)は南京の国民政府 の支配下に入った上に日本軍に殺された張 作霖の子の張学良が満州で盛んに抗日運動 を盛り上げていました。 そのため南満州鉄道株式会社(満鉄)を中心 に日露戦争以来広げてきた日本の権益が脅 かされることになりました。 この頃日本国内では経済不況、満州を中心 とした対外問題の危機、軍縮条約への反発な どが政党政治の無力によるものと考える傾 向が強まり関東軍を先頭に軍部を中心とす る軍事力発動の考え方が出てきました。 −柳条湖事件− 1931(昭和6)年9月奉天(現在の瀋陽)郊外の 柳条湖で満鉄の線路が爆破される事件がお きると関東軍はこれを中国側の仕業と発表 して直ちに軍事行動をおこし奉天、長春など 南満州の主要都市を占領しました。 若槻内閣は戦火の不拡大方針を声明しまし たが関東軍はこれを無視してつぎつぎと軍 事行動を拡大し、同年11月から翌年2月まで にチチハル、錦州、ハルビンなど満州各地を 占領、満州事変が始まりました。 若槻内閣は軍部を抑えることができず、193 1(昭和6)年12月に退陣し、かわって政友会の 犬飼 毅が新内閣を組織しました。 −満州国建国− 関東軍は満州に新政府を樹立し日本の自由 になる独立国を作ろうとする計画を進め、日 本が列国の非難にさらされる事を怖れた政 府の反対を無視して1932(昭和7)年2月まで に東三省(黒龍江、吉林、奉天)の要地を占領 すると3月には清朝最後の皇帝であった溥儀 を執政(のち皇帝)として「満州国」の建国を 宣言させ事実上の支配権を握りました。 日本からは大勢の農民が開拓団として移住 し、日本の資本で産業の開発が進められまし た。 <国際連盟からの脱退> 満州を侵略された中国は国際連盟に提訴、 国際連盟からはイギリスのリットン卿を団 長とする調査団が満州に派遣され1932(昭和 7)年10月連盟にリットン報告書が提出され それに基づいて1933年ジュネーブで国際連 盟の総会が開かれ、リットン調査団の報告は 可決されました。 これを不満として日本代表の松岡洋右は総 会を退場、翌年3月日本は国際連盟から脱退 することを通告しました。以後日本は軍国主 義の道を歩み国際的に孤立していきます。 |