ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 21

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」
内田四方蔵「金沢の100年」 ほか

・・・S昭和時代(太平洋戦争まで)・・・


 昭和と年号が変わった翌年の1927(昭和2)年には金融恐慌がおこり、多くの銀行や会社が倒産、1929年
には世界恐慌により日本経済は完全に行き詰まりファシズムと戦争への道を歩みました。
 大陸侵攻から太平洋戦争に突入した日本は1945(昭和20)年原爆投下とともに無条件降伏、ようやく平
和の光がさしこみます。
 
 金沢の町では湘南電車の開通により人口も増加、1936(昭和11)年には横浜市に編入され町の賑わいも
増しましたが、やがて戦時体制に組み込まれ人々は苦難の末終戦を迎えました。 
  
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


不況と弾圧

 第一次大戦後の1920(大正9)年の経済不況
(戦後恐慌)についで1923(大正12)年の関東
大震災により日本経済は大きな打撃を受け
ました。
 会社の経営は苦しくなり、そこに金を貸し
付けている銀行の経営も不安な状況を続け
ていました。
<金融恐慌の勃発>
 大正天皇が逝去、年号が昭和に変わった19
26年加藤首相死亡のあとは若槻礼次郎が憲
政会総裁となり内閣を引き継ぎました。
 翌1927(昭和2)年3月若槻内閣が出した震
災手形の処理に関する議会中、片岡大蔵大
臣の失言(詳細はこちら)により銀行の取り付
け騒ぎが発生し全国各地の銀行が休業しま
した。翌年4月には神戸の大商社の鈴木商店
(のちの日商岩井の前身)の経営不振により
同社へ多額の貸し付けを行なっていた台湾
銀行の経営も苦しくなり、これを救済するた
め若槻内閣の出した緊急勅令案が政友会に
同調した枢密院で否決され、若槻内閣は総辞
職しました。
 台湾銀行は休業、鈴木商店も倒産し取り付
け騒ぎは全国の銀行をおそい休業する銀行
が続出しました。  
<田中義一内閣の誕生>
 憲政会の若槻内閣が倒れたあとは反対党
の政友会総裁の田中義一が総理大臣となり
元首相の高橋是清が大蔵大臣となってモラ
トリアム(支払猶予)と日銀非常貸出しを実
施して取り付け騒ぎはおさまりました。
 混乱は一応鎮まりましたが経済界が立ち
直ったわけではなくインフレーションが激
しくなり国民の生活は一層苦しくなるばか
りでした。
 またこの間中小銀行は財閥の大銀行に合併
されるところが多く不景気とインフレーシ
ョンの中で財閥などの大資本は大きくなっ
ていきました。  
<第一回普通選挙>
 1928(昭和3)年2月にはじめての普通選挙が
行なわれましたが、田中首相の政友会は第一
党になったものの立憲民政党との差は僅か
一議席に過ぎず過半数は得られず社会民主
党、労働者農民党など無産政党の候補者も8
人が当選しました。
<厳しい弾圧>
 総選挙で共産党系の活動が目立ったため、
これを警戒した田中内閣は総選挙の終わっ
た翌月、治安維持法を適用して共産党系の
活動家やその同調者を大量に検挙して労働
者農民党などを解散させました。
 更に政府は緊急勅令で治安維持法を改め
て最高刑を死刑にしたり思想犯を取り締ま
る特別高等警察(特高)を強化し弾圧の嵐が
吹き荒れました。

 <湘南電鉄の開通>
 湘南電鉄は1927(昭和2)年6月に着工され
1930(昭和5)年4月黄金町・浦賀間、金沢八
景・湘南逗子間が開通して金沢文庫・金沢
八景の両駅が開業、7月には湘南富岡駅が
開業しました。
 これより以前京浜電鉄は品川・横浜間を
開通しており1931(昭和6)年12月両電鉄と
も日ノ出町まで路線を延長、1933年4月両
電鉄は品川・浦賀間に相互乗り入れの直通
運転を開始して待望の東京直行が実現し
ました。
 なお両電鉄は1941(昭和16年)合併して京
浜急行電鉄となりました。

湘南電気鉄道の株式募集広告・部分、 開通直前のもの(横浜開港資料館蔵)

<海水浴場と避暑客> 1930(昭和5)年の湘南電鉄(現在の京浜急 行)の開業により京浜方面からの交通の便 が開けるとともに、この地域への来訪者が 増え海水浴客や避暑客で町は賑わうよう になり、1932年に8月には滞在客が町屋の 79人を最高に金沢町には400人近くにもな りました。 これらの滞在客による観光収入は一夏で 2万円にもなり、当時の金沢町の米の生産 やのりの養殖の総額がともに4万円ほどで あったのに比べると大きな財源となり折 からの不況の中で町の経済を大きくうる おしました。

当時の海水浴場は海の公園となって現在 でも横浜で唯一の海水浴場として人々に 親しまれています。

1930年8月には県立金沢文庫が開設され、 観光客は夏ばかりではなく四季を通じて 訪れるようになり、また交通の便が良くな ったことから移住者も増え昭和初年の10 年間に金沢町では戸数で70%以上、人口で も50%を超す勢いで六浦荘村でもそれぞれ 55%、33%の増加となりました。

<平潟湾の埋め立て> 大正時代海軍が野島から現在の横須賀市 浦郷町にかけての一帯を航空隊の飛行場 と関連施設を設置するために埋め立てを 始め昭和初期には広大な海軍の施設が出 来ました。 昭和に入ると海軍の大規模な埋め立てと は別に住宅地などの需要で沿岸の埋め立 てが各地で行なわれました。1930年6月の 「金沢八景埋立地図」(松本ナミ家文書)に は関東大震災で隆起した平潟湾の一部土 砂をさらって内川の沿岸を埋め立て住宅 地を造り別荘地として売り出す広告をし ていますが湘南電鉄の開通により東京、 横須賀、逗子方面への交通が便利になった と宣伝しています。 埋め立てに対しては景観の破壊や水害の おそれから住民の反対運動もありました が平潟湾は東西北の三方から埋め立てが 進み住宅地として発展した反面、八景の美 観は次第に失われていきました。

六浦荘埋立地図(宅地の販売広告) 横浜開港資料館蔵、松本なみ家文書

<不況と町財政> 1929(昭和4)年10月にはじまる世界恐慌 は金沢の町にも及び人々の暮らしにも不 況の影が忍び寄り、次第に町の財政も苦し くなリました。 町税の滞納は1929年の300余円に対して 1932年には2500円となり、町では学校の先 生の給料賃上げを一年間ストップして町 長などの給料も町へ寄付したりしてしの ぎました。 この頃湘南電鉄の開通などで交通が便利 となった金沢に移住者が増え小学校高等 科の授業料を値上げしたり、校舎増築のた め小学校基本財産の県農工債券の売却な ど町財政のやりくりをしています。 <横浜市に合併> 1936(昭和11)年金沢町と六浦荘村は横浜 市に編入され磯子区に属することとなり 久良岐郡は消滅しました。 すでに農業関係は1932年には横浜市農会 に加入しており、漁業関係も1929年1月に 横浜市水産会に加入、湘南電鉄の開通など により横浜市との関係は密接になってい たので合併はスムースにいったようです

横浜市に合併された頃の金沢八景駅 (角田孝氏蔵)

<農業と花の栽培> 農村の不況も長引き農家経済の立て直し は難しくなり農家の子弟は次第に離村し て京浜工業地帯や横須賀方面の軍施設な どに吸収され、戦時下にはさらにこの傾向 は強まっていきました。 1928年と1934年の対比では金沢町、六浦 荘村とも農家の戸数は大きく減っていま す。

耕地については金沢村で田の若干の増加 が見られる外は畑は金沢町、六浦荘村とも 減少しています。 この中にあって富岡の花栽培は温室ブー ムの中でますます盛んになり富岡のカー ネーションは全国的に有名なものとなり ました。しかし太平洋戦争開戦を前に観 賞用の花は不要不急とされ農林省の作付 け制限により露地物の作付は禁止、温室は とりこわしなどによって富岡の花づくり は消滅してしまいました。 <衰退する漁業> 明治から大正にかけて盛んになった漁業 は昭和期に入ると座礁船からの重油流出、 漁業資源保護のための発動機船による魚 獲の禁止、海軍の埋め立て拡大、工場廃水 の増大などにより戦時下には次第に衰退 を辿りました。 <軍事基地化へ> 金沢地区一帯は小山に囲まれて上空など から見えにくい地形が注目され軍都横須 賀に近いこともあって、戦雲が濃くなると ともに各種の軍需物資の進出も相次ぎ兵 器生産の工業地帯となりました。 1934(昭和9)年11月富岡に日本飛行機会 社が設立されたのをはじめに日本製鋼、大 日本兵器、石川島航空の各工場が続々進出 、海軍関係施設も横浜海軍航空隊が設置さ れたのをはじめ、追浜には海軍共済病院が 、六浦、釜利谷、大川の各町にまたがって海 軍航空技術廠支廠が作られ金沢の地は軍 事基地へと組み込まれていきました。

浜空神社(富岡市総合公園内) 富岡総合公園の一角にはソロモン群島ツラギで玉砕 した横浜海軍航空隊員338人の霊が祀られています

こういった海軍関係施設の進出により19 36(昭和11年)10月六浦荘村では全戸の3割 が海軍工廠などの職工で占められ、町屋で も1940年11月やはり同じ状況でしたが、他 地域からの流入も多くなって住宅難とな り県の委託で、同潤会が工場従業員のアパ ート建設を進めています。

海軍航空技術廠支廠跡記念碑 (釜利谷第二公園内)

また海軍の埋め立てによって野島の南側 (野島水路)が半ば泥土で埋まったため194 5年野島運河が開削されて、金沢の入江と 東京湾はこの運河で連結、野島山には1945 (昭和20)年トンネルが掘られ、小型飛行機 の格納庫が作られました。

野島トンネル(金沢区・野島公園)

<小柴・池子の海軍施設> 1937(昭和12)年3月海軍は艦隊燃料・食料 貯蔵庫建設のため、当時の柴町の約三分の 二にあたる七十四町歩の土地を強制買い 上げして、地下燃料貯蔵用タンク30基をつ くりましたが、殆ど使用することなく終戦 となり再接収により米軍の基地となりま した。 更に海軍は逗子・池子に接した六浦の民 有地を買収して谷戸田注填場(池子弾薬 庫)として使用しましたが、終戦によりこ れも米軍の基地になりました。

小柴の艦隊燃料基地は米軍施設に接収され ましたが、池子の米軍住宅拡張と引き換え に返還する交渉が進められています。

<戦時下の金沢> −町内会の活動− 日中戦争の勃発以来、軍需生産の拡大の 中で生活必需品の生産減により1939(昭和 14)年秋から物価は高騰し売り惜しみ、買 占めなどヤミ取引が横行し政府は不足の 大きな品目から配給統制を実施していき ました。 1939年11月地下足袋の切符制から始まり 翌年10月までに繊維製品、米、麦、砂糖、マ ッチ、木炭などまでつぎつぎと切符制とな りこれらの配給事務が町内会の仕事とな りました。そのほか貯蓄や資源回収、報国 隊の編成、出征兵士の歓送迎から遺家族の 扶助、防空活動など町内会の仕事は増え続 けました。 松本家に残る金沢町町屋の「町内会記録」 には当時の町内会活動の状況が記されて おり人々を末端の町内会組織をつうじて 戦争に巻き込んでいった様子がわかりま す。 −−−−−−−−−−−−−−− 15年7月、州崎の消防署でラジオを設置するため 金沢・六浦地区で寄付することになり、町屋に十五 円の割り当てがあり、同時に監視哨のタスキを新 調し、残置灯を付けた。 10月、第三次防空演習に参加、これに五百二十円 金支出。12月、東京港開港反対決議のため二回、横 浜に出張。この年砂糖、マッチの購入票交付申込み を受付け、六月第一回で三百八十三戸、約二千人に 配給し、七月三百七十余戸、約二千人、八月同戸数 で約千九百人に配給。10月には新体制講習会を四 日間にわたってひらき、日独伊三国同盟の成立を 祝った。 この年総支出約千六百円の三分の一強を警防団 費に当てている。また、応召および入営者十四人、 老人二人に対し生活扶助として五月から翌十六 年一月まで毎月五円づつを送っている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−

六浦の防空演習(翔べ・金沢より)

−金沢の学童疎開− 国民学校令の公布により横浜市金澤国民 学校となった金沢小学校は太平洋戦争の 戦局悪化につれて、525名の児童たちが194 4(昭和19)年8月から1年3ヶ月の間中郡東 秦野村(現神奈川県秦野市)に集団疎開を しました。 当時疎開生活をした児童たちは後日次の ように語ってています。(記念誌 かなざ わ) 「食べ盛りなのにいつも盛りきり一杯、い つも空腹だった。そのためおおばこの葉を 食料として採集したり、桑の実を食べて口 中紫色にしたり、畑から空豆を盗んでたべ たりした。」‐‐‐‐松本さん 「当時家が商売をしていたので砂糖があ った。母がそれを茶筒に入れて持ってきて くれた。行李の中に大事にしまい毎晩そこ から少しずつなめていたら、しばらくして 蟻がぎっしりと入ってしまった。二度とそ の砂糖をなめることが出来ず、涙が出るほ どくやしい思いをした。」‐‐−中島さん

疎開先 金蔵院の庭で(記念誌 かなざわより)

−富岡の空襲− 1945(昭和20)年2月頃から横浜市内各所 に米国機による爆撃がひんぱんにあり5月 の横浜大空襲に続き、翌6月にはB29が363 機、P51が30機来襲し、中区本牧から海軍航 空隊基地や兵器工場のある富岡方面を爆 撃、爆弾は富岡駅とその周辺に落ち駅は吹 き飛ばされ、近くの民家59戸も同じように 吹き飛ばされ12戸が全焼し多くの人々が 死傷しました。 この空襲で亡くなった人は戸板に乗せら れて慶珊寺に運ばれましたが戦後慶珊寺 境内にはこれらの人々のために供養塔が 建てられました。

富岡空襲犠牲者の供養塔 (金沢区富岡・慶珊寺境内)

<角田武夫が描いた金沢> 角田武夫は1884(明治17)年に金沢に生ま れ1900(明治33)年から1942(昭和17)年ま で小学校の教員として活動するかたわら 金沢を描きつづけた画家です。 当時金沢は横須賀軍港や横浜の後背地 として急激に都市化が進み、明治以来の 景観は大きく変わろうとしていました。 角田が故郷を描きつづけた風景は失わ れた金沢の自然を今に伝えています。

大川堤の桜(角田孝氏蔵) 角田武夫は1933年から8年間に200点以上の 風景画を残しています

前のページへ
次   へ
トップページへ


昭和時代
(1926
   〜1945)
1927
 金融恐慌
勃発
1928
 第一回普
通選挙実
施

1930
 浜口首相
東京駅で
狙撃され
る
1931
満州事変
勃発

1932
 5・15事件
おこる 
1933
 日本、国
際連盟を
脱退


1936
 2・26事件
おこる
 〃
 金沢区が
横浜市に
合併
1937
 蘆溝橋事
件発生
1938
 国家総動
員法発令
1939
 ノモンハ
ン事件
1940
 日独伊三
国同盟締
結
1941
 太平洋戦
争はじま
る


1945
 8・6広島
に原爆投
下
 8.8ソ連が
対日戦争
に参加
 8・15ポ
ツダム宣
言受諾


 


中国への内政干渉

<山東出兵>
 当時の中国は孫文のあとをついだ蒋介石が
広東の国民政府を率いて全国統一を目指し
て北伐の戦い(北方の軍閥政府を打倒する戦
い)を進め1927年には南京に国民政府をつく
り北京の張作霖を攻略しました。
 田中内閣はワシントン会議で後退した中国
での権益を確保する必要から、親日派の張作
霖を支援するため、在留邦人の生命財産を保
護するという理由で山東省に出兵しました。
<張作霖爆殺事件> 
 北伐軍の勢いは強く、日本政府は北京は蒋
介石に渡して張作霖の下で満州の権益を拡
大しようとしましたが張が協力的でなかっ
たので翌年関東軍(満州駐屯の日本陸軍)の
手によって張の列車を爆破して張を殺害し
ました。
 この事件は中国のみならず諸外国からも強
い非難を受け、国内でも野党の民政党などか
ら攻撃をうけ田中内閣は総辞職に追い込ま
れました。
 満州事変がおこったのはこの三年後です。
 

軍縮と経済のゆきづまり

<外交路線の変更>   
 田中義一内閣が倒れた後は民政党の浜口雄
幸が首相となり外には平和外交を進め、内で
は不景気の中に沈みきった経済の建て直し
に力を注ぎました。
 浜口内閣の外務大臣には幣原喜重郎が就い
て、山東出兵や張作霖爆殺で再びこじれ出し
た中国との関係を正常化するために話し合
いによる平和外交を進めました。
<ロンドン海軍軍縮会議>    
 一方アメリカやイギリスとも強調して世界
の平和のための軍備縮小にも取り組みます。
 1930(昭和5)年イギリスの提唱により英、米
日、仏、伊の5カ国の代表によりロンドンで海
軍軍縮会議が開かれ巡洋艦以下の補助艦の
保有トン数の割合を米英は各10、日本は6.97
5とすることなどを決めました。
 この決定に対して海軍は不満を示し統帥権
干犯として激しく非難し、野党の政友会や右
翼も反対の声をあげましたが、浜口内閣は反
対論を押し切って条約を批准しました。これ
がもとで浜口首相は東京駅で狙撃され重傷
を負い翌年死亡します。
<産業の合理化>    
 インフレ下の物価高に苦しむ国民の生活
を安定させるために産業の合理化によって
競争力のある商品を作り輸出を増加させよ
うするのが浜口内閣の方針でした。
 産業の合理化は一方で労働者の負担を大
きくして多くの失業者を出すことになり労
働運動が激しくなり浜口内閣を苦境に立た
せました。 
<金解禁>    
 1930(昭和5)年1月、金の輸出入を自由化す
ることによって為替相場を安定させ輸出を
促進して景気を回復することを狙いに金の
輸出解禁(金解禁)を行いました。
 しかし1929(昭和4)年10月ニュヨーク株式
市場で株価の大暴落がおこり、その影響は忽
ち全世界に広まって世界恐慌になりました。
 日本の金解禁は"嵐の中で雨戸を開ける"よ
うな状態となり輸出は減り、金の流出は激し
くなり、1931年には再び金輸出を禁止するに
至りました。
<昭和恐慌>    
 1930(昭和5)年から翌年にかけ日本経済は
どん底に陥りました。アメリカ向けの生糸を
はじめ中国やインド向けの綿布の輸出が大
きく減り株価、物価、工業生産なども30%前後
下がるという状況でした。失業者も増加、労
働争議も激しくなり長く激しいストライキ
が全国各地に相次いで起こります。
<農村の苦しみ>     
 恐慌の打撃は農村で特に深刻でした。
 生糸の輸出がふるわないため、繭の値段が3
分の1に下がり朝鮮米や台湾米が大量に入っ
てくるのに加え冷害、津波、台風、干ばつなど
の被害が続き農民たちの生活は悲惨な状態
となりました。(コラム・昭和恐慌と農村)
 
 1930(昭和5)年11月は浜口首相は東京駅で
右翼の青年によってピストルで撃たれて重
傷を負い翌年4月同じ民政党の第二次若槻
内閣が誕生します。 


軍部の台頭


  
<満州事変>
−事件の背景− 
 1928(昭和3)年中国では蒋介石の北伐が成
功して満州(中国東北部)は南京の国民政府
の支配下に入った上に日本軍に殺された張
作霖の子の張学良が満州で盛んに抗日運動
を盛り上げていました。
 そのため南満州鉄道株式会社(満鉄)を中心
に日露戦争以来広げてきた日本の権益が脅
かされることになりました。
 この頃日本国内では経済不況、満州を中心
とした対外問題の危機、軍縮条約への反発な
どが政党政治の無力によるものと考える傾
向が強まり関東軍を先頭に軍部を中心とす
る軍事力発動の考え方が出てきました。 
柳条湖事件 
 1931(昭和6)年9月奉天(現在の瀋陽)郊外の
柳条湖で満鉄の線路が爆破される事件がお
きると関東軍はこれを中国側の仕業と発表
して直ちに軍事行動をおこし奉天、長春など
南満州の主要都市を占領しました。
 若槻内閣は戦火の不拡大方針を声明しまし
たが関東軍はこれを無視してつぎつぎと軍
事行動を拡大し、同年11月から翌年2月まで
にチチハル、錦州、ハルビンなど満州各地を
占領、満州事変が始まりました。
 若槻内閣は軍部を抑えることができず、193
1(昭和6)年12月に退陣し、かわって政友会の
犬飼 毅が新内閣を組織しました。
−満州国建国− 
 関東軍は満州に新政府を樹立し日本の自由
になる独立国を作ろうとする計画を進め、日
本が列国の非難にさらされる事を怖れた政
府の反対を無視して1932(昭和7)年2月まで
に東三省(黒龍江、吉林、奉天)の要地を占領
すると3月には清朝最後の皇帝であった溥儀
を執政(のち皇帝)として「満州国」の建国を
宣言させ事実上の支配権を握りました。
 日本からは大勢の農民が開拓団として移住
し、日本の資本で産業の開発が進められまし
た。
<国際連盟からの脱退>
 満州を侵略された中国は国際連盟に提訴、
国際連盟からはイギリスのリットン卿を団
長とする調査団が満州に派遣され1932(昭和
7)年10月連盟にリットン報告書が提出され
それに基づいて1933年ジュネーブで国際連
盟の総会が開かれ、リットン調査団の報告は
可決されました。
 これを不満として日本代表の松岡洋右は総
会を退場、翌年3月日本は国際連盟から脱退
することを通告しました。以後日本は軍国主
義の道を歩み国際的に孤立していきます。


政党内閣の崩壊


 
<血盟団事件>
 日本国内では1930年代(昭和5〜14年)に入
るとロンドン軍縮問題や満州問題、都市や農
村の窮乏など内外の危機が迫る中、軍部の青
年将校や右翼団体による政党政治家や財界
指導者に対するテロの動きがおこり1932(昭
和7)年2月に金解禁の時の蔵相だった井上準
之助が、3月には三井合名理事長団 琢磨が相
次いで血盟団員によって暗殺されました。
<五・一五事件>
 ついで5月15日には海軍青年将校の一団が
首相官邸を襲って犬飼首相を暗殺、これに呼
応して青年将校や右翼の農民たちの一派が
警視庁、日本銀行、東京近郊の変電所を襲撃
しました。襲撃は失敗しましたが、こうした
行動は政府に大きな衝撃を与え、元老の西園
寺公望は陸軍の政党内閣反対論を考慮して
次の内閣の首相には海軍の長老斎藤 実を推
薦しました。
 斎藤は軍部、貴族院、官僚勢力、政党から大
臣を選び挙国一致の内閣が作られました。
 政党の勢力は次第に弱くなり軍部及び官僚
の力が強くなり政党内閣は終わりを告げま
した。
<学問・思想の弾圧>
 満州事変をきっかけとして日本国内には国
家主義(ナショナリズム)の機運が急激に高
まり軍部と結びつきながら活動を進め、自由
主義的・民主主義的な思想や学問も厳しい取
り締まりを受けました。
 1933(昭和8)年には自由主義的刑法学説を
唱えていた滝川幸辰京都帝国大学教授が大
学を追われ(滝川事件)、1935年には憲法学者
美濃部達吉の天皇機関説が軍部や右翼から
日本の国体に反すると攻撃され大きな政治
問題となりました(天皇機関説事件)。
<二・二六事件> 
 軍部(特に陸軍)の政治的発言力は次第に大
きくなりましたが1936(昭和11)年2月26日陸
軍の一部の急進的な青年将校たちは1400余
人の兵を率いてクーデターをおこして首相、
蔵相、内大臣などの官私邸、警視庁などを襲
撃して蔵相高橋是清、内大臣斎藤 実らを殺
害し侍従長の鈴木貫太郎に重傷を負わせま
した。陸軍当局は青年将校に同情する声もあ
る中でこの処理に戸惑いましたが、海軍側の
強硬鎮圧方針や天皇自身の強い意向(コラム・
昭和天皇と二・二六事件)もあり結局鎮圧に乗り
出しました。
 反乱軍は決起後の具体的プランを持たなか
ったこともあり、「兵ニ告グ」というラジオ放
送や告示に応じてまもなく原隊にもどり青
年将校たちは自殺あるいは降伏して事件は
鎮まりました。
<戦時体制へ> 
 岡田内閣は事件の責任をとって総辞職し、
外交官出身の広田弘毅がつぎの首相となり
ました。
 軍部はさらに勢いを強め陸海軍大臣の現役
武官制を復活させ、広田内閣は軍部の政治的
発言力が強まる中で"広義国防国家"の建設
を掲げ莫大な軍事予算を計上するとともに
ナチスドイツと日独防共協定を結び、国内で
はメーデーの禁止や言論活動を厳しく制限
して軍国主義国家への道を足早に進めます。

日中戦争とノモンハン事件

 満州をはぼ完全に支配することに成功した
日本は次に中国の華北方面へ進出しようと
機会をうかがっていました。
<盧溝橋事件>
 1937(昭和12)年7月北京郊外の盧溝橋付近
で日本軍と中国軍が衝突、この事件の報告を
受けた近衛内閣ははじめ事件不拡大方針を
とっていましたが、陸軍や政府部内の強硬派
の意見におされ強硬方針を打ち出し日本と
中国は8年余りに及ぶ全面戦争(日中戦争)に
突入しました。
<南京事件>
 日本軍ははじめ、ごく短期間で中国を制圧
出来ると考えていましたが、中国側の根強い
抵抗のため苦戦することとなり大部隊を増
援して同年12月に国民政府が首都としてい
た南京を占領しました。
 国民政府は首都を揚子江中流の漢口に移し
ましたが、国民政府が撤退したあとの南京で
は日本軍は多数の一般住民や捕虜を殺害し
たため国際的に激しい非難を浴びて、かえっ
て中国人の抗日感情を高めました。 
<戦争の長期化>
 南京から漢口へ移った国民政府を追撃して
日本軍も奥へ奥へと進みましたが、蒋介石は
重慶へと移り米、英、ソの援助の下で抗日戦
を展開して、戦争は果てしない泥沼の戦いに
なります。
 長編小説「麦と兵隊」が作られたのもこの頃
のことです。(コラム・麦と兵隊)
<ノモンハン事件>
 1939(昭和14)年5月から9月にかけて満州と
モンゴル人民共和国(外モンゴル)の国境に
近いノモンハンの大草原で、日本とソ連軍の
間に激しい戦闘が行なわれました。
 この戦いは両国の国境をめぐる争いでした
が満州の日本軍(関東軍)は大型戦車を中心
とする近代的装備のソ連軍の前に手痛い打
撃を受けて敗北しました。
 これまで日本は満州に強力な軍隊を送り機
会があればシベリアに進出しようとしてい
ましたが、この敗北により北方への進出の困
難さを知り、代わりに南方へ目を向けるよう
になりました。
<新体制運動>
 1940(昭和15)年頃から中国での戦いを勝ち
抜くために新しい体制をつくろうという新
体制運動がおこり、同年10月には総理大臣の
近衛文麿を総裁に大政翼賛会が発足しまし
た。総裁の下には各都道府県の知事が支部
長として就任し、全国民は隣組同士助け合っ
て戦争を遂行する国の政治に協力すること
になり、政友会や民生党をはじめ無産政党の
社会大衆党も解散して大政翼賛会の下に組
み込まれることになりました。
 すべての労働組合も解散して新しく作ら
れた大日本産業報国会に組み入れられ、ひ
たすら戦いに必要な軍需物資の増産に励む
ことになりました。


太平洋戦争

<仏印への進駐> 
 日本が中国大陸へ進出を強めている頃、ヨ
ーロッパでは独裁政権をつくったドイツ、イ
タリアがイギリス、フランス、ソ連と対抗し
ながら勢力を拡大していました。
 日中戦争がおこってからの日本の戦いはそ
の後も大きな進展はなく、勝利への見通しも
立たず軍需物資は目に見えて不足していま
した。
 このような苦しい状況を打開する道を求め
て軍の目は仏領インドシナ(仏印)に向けら
れました。
 重慶の蒋介石を倒すには英、仏、米、ソの援
助物資の補給路となっているインドシナを
制圧する必要があり、日本は1940(昭和15)年
9月に軍隊を送りました。
<日独伊三国同盟>  
 1939(昭和14)年ドイツとイタリアは英、仏
を敵として第二次世界大戦を始めました。
 日本もこの年ノモンハン事件の敗北によ
り南方への進出を考えるようになり英、仏と
インドネシアを支配するオランダとも対立
することになり独、伊と同じ立場に立つ三国
で軍事同盟を結びました。
<ABCD包囲陣>  
 北部仏印に軍隊を送った日本は蒋介石への
援助物資の補給路をたちきることは出来ま
したが、米は日本に対して石油やくず鉄の輸
出を禁止、海外の日本資産を凍結しオランダ
も日本との石油輸出協定を廃止して、日本を
取り巻くA(America)B(Britain)C(China)
D(Dutchland)の四ヶ国がABCD包囲陣を
つくって日本に対する経済封鎖を強めてい
きます。 
<もたつく日米交渉>  
 中国との戦争は進展なく南方への進出は逆
に包囲された日本はアメリカとの話し合い
によって戦争を回避しようとして1941(昭和
16)年4月から日米交渉が始められましたが、
交渉はまとまらず7月になると陸軍は南部仏
印に軍隊をおくりました。
 アメリカは日本に強い不信感を持ち話し合
いの道は閉ざされました。
 10月半ばになると開戦をためらう近衛首相
は陸軍大臣東条英機と対立、近衛内閣は総辞
職し、東条が首相となりました。
<開戦と緒戦の勝利>  
 1941(昭和16)年12月8日に日本陸軍はマレ
ー半島に上陸し、海軍はアメリカ海軍の重要
基地であるハワイの真珠湾を攻撃するなど
日本は東南アジア、太平洋地域で軍事行動を
開始しアメリカ、イギリスに宣戦を布告して
太平洋戦争が始まりました。
 日本軍ははじめハワイでアメリカ太平洋艦
隊の主力を、マレー半島沖でイギリス東洋艦
隊の主力を壊滅して1941(昭和16)年12月中
にグァム島、香港を翌年1月にはフィリッピ
ンのマニラ、2月にはマレー半島、シンガポ
ール3月には蘭印(現インドネシア)4〜5月
にはビルマ(現ミャンマー)、フィリッピン
全島などを相次いで占領し開戦以来半年足
らずで東南アジアの殆ど全域を制圧しまし
た。
<戦局の悪化>  
 アメリカは総力をあげて巨大な物量をつ
ぎこんで反攻に転じます。
 日本海軍は1942(昭和17)年6月ミッドウエ
イ海戦で敗北し翌年2月には陸軍がガダルカ
ナル島から退却、5月にはアリューシャン列
島のアッツ島の日本軍は全滅しました。
 1944年7月には中部太平洋の要地サイパン
島がアメリカ軍に奪われ、アメリカ軍はここ
にB29の基地を作り日本の各地に激しい空襲
を行い日本の敗北は次第に濃厚になります。
 1945(昭和20)年3月には硫黄島がアメリカ
軍に奪われ、東京大空襲では10万人を超す市
民が死んだといわれます。
 4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸、6月
下旬には日本軍10万人、民間人10万人の死者
という大きな犠牲者を出して沖縄戦は終わ
りました。 
<戦時下の生活>(コラム・戦時下の暮らし)
 経済生活の上でも戦時体制は強まり、全力
をあげて軍需生産の増大が図られ国民の生
活は切符制や配給制など衣服にわたり圧迫
され、次第に国民は物資の不足や飢えに苦し
みます。
 戦争の為の徴兵により労働力不足が深刻に
なり学徒動員によって中学生以上の学生、生
徒が軍需工場に動員され、女子も女子挺身隊
として工場などで働かされました。
 本土空襲の危険が迫ると小学生は地方に疎
開させられ親と離れ不自由な生活を送りま
した。
 人々はこのような苦しみに耐えながら、ひ
たすら我慢を続けるほかありませんでした。
<敗    戦>
-ポツダム宣言-  
 1945(昭和20)年2月ルーズヴェルト、チャー
チル、スターリンの三巨頭によりヤルタ会談
が開かれドイツ降伏後の処理についてヤル
タ協定が結ばれましたが、その秘密協定とし
てソ連がドイツ降伏後、2〜3ヶ月後に対日参
戦することが極秘のうちに決められました。
 ヨーロッパではすでに1943(昭和18)年7月
イタリアが連合国に降伏し、1945年5月には
ドイツも降伏、日本は孤立無援となりました
 同年7月ベルリン郊外のポツダムにトルー
マン、チャーチル、スターリンの米、英、ソ三
国首脳が会談し対日戦後処理と日本に対し
無条件降伏を呼びかけることを決め、ポツダ
ム宣言を発しました。
−原爆投下と戦争の終結−  
 日本政府はソ連を仲介とする和平に望みを
かけ鈴木首相ははじめポツダム宣言を黙殺
しましたがアメリカは8月6日まず広島へ、9
日には長崎へ原子爆弾を投下して一瞬のう
ちに市街を壊滅させ、多くの一般市民を殺害
しました。
 8月8日にはソ連が日本に宣戦を布告して満
州、南樺太、千島に侵攻しました。
 8月10日、14日の再度にわたって午前会議が
開かれ鈴木貫太郎首相の要請により昭和天
皇が裁断を下すという形でポツダム宣言の
受諾が決定され、8月15日正午昭和天皇自身
のラジオ放送(コラム・玉音放送)により国民に
明らかにされました。
 9月2日東京湾内に停泊中のアメリカ軍艦ミ
ズーリ号で日本と連合国の降伏文書調印式
が行なわれ太平洋戦争は終結しました。