戦時下の暮らし


食糧難
 太平洋戦争では戦局の悪化とともに衣服や食料
事情も悪くなり人々は配給される僅かな米に道
端の野草などを混ぜて水っぽい雑炊などをすゝ
りたくあんをかじるという粗末な食事が増える
ようになりました。
 

そば屋の前の行列(子どもたちの昭和) 人々は一杯のうどん、そばを食べるのにも寒い中長い間 並んで待ちました。

学童疎開
 東京都目黒区の一小学生は疎開先の山梨県甲府
での思い出の第一に空腹のことをあげ次のよう
に書いています。

 「暖かな日の当たる本堂の軒下でおなかをすか
したわたくしたちは、歯みがきの粉をすうっと吸
っては 一時の飢えをしのいだり、また家から薬
品といって エビオス、ワカモトなどを持ってき
てもらって食べ たりもした・・・・・・・・・・・・・・。」
                         (昭和史の瞬間より)

学童の集団疎開

学徒出陣
 1943(昭和18)年には文科系学生の徴兵猶予が廃
止され多数の学生がペンを捨てて戦場へ赴き、若
い命を捧げました。 
 「聞け わだつみの声」は戦没学生の手記として
1949(昭和24)年出版され大きな反響を呼びまし
た。

学徒出陣(1943(昭和18)年10月・明治神宮外苑)




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銃後の守り
 戦争が進むにつれ衣料も食料も極端に不足する
ようになり国民の大多数は灯火管制の暗い中で
空襲警報のサイレンにおびえ、防空壕で生活し遠
い戦場の夫や兄を思いじっと耐え忍んでいまし
た 街角には千人針の婦人の姿が目立つようにな
り、兵士たちの所へは家族の手紙や写真、薬や日
用品などをつめた慰問袋を送り戦場での無事を
祈りました。       

千人針と婦人(東京都・靖国神社蔵) 学童の集団疎開

戦場の兵士たち
 死に直面しながら兵士たちは飢えや病いとも戦
いながら地獄のような苦しみを味わいながらひた
すら家に残した妻や子、父母のことを思い故郷に
帰る日を思いつづけていました。
 
 「・・・ぼくは子どものことをいちばん考えてしか
たがない。
 あなたの手紙を見てなんだか涙がでてしかたな
く一人で泣けてくる。けれどもしかたがない。
 あなたのことについてはけっして心配はしない。
 心情がわかっている。あなたの心の底がわかっ
ているからね。
 からだをたいせつにして待ってくれ、もしからだ
のぐあいが悪かったらすぐ手当てをしてくれよ、
からだがいちばんだからね。あまり心配やほねを
おらずに妻子ともどもに元気でいてくれ・・・・・。」 
              (光文社・「無名戦士の手記」より) 

食料にする野草を摘む兵隊 (NHK取材班・責任なき戦場)