大正デモクラシー

   第一次世界大戦に参加した世界の諸国では広く民衆の動員が行なわれましたが、特に連合国では
  この戦争をデモクラシー(民主主義)対オートクラシー(専制主義)の戦いであると意義づけたこと
  もあって大戦のさなか世界的にデモクラシーの機運が高まりました。
   日本ではこういった世界の大勢の影響と明治末期以来の民衆が政治的に登場するという新しい
  情勢を背景として民主主義的風潮が広まり民主主義的、自由主義的改革を要求する運動となりま
  した。
   運動は1913(大正2)年の第一次護憲運動にはじまり元老、貴族院、枢密院、軍部などの特権階級の
  権限を弱め普通選挙の実現、議会政治・政党政治の確立、民衆の政治参加の拡大を目ざしました。
   理論的には吉野作造の民本主義、美濃部達吉の天皇機関説などをよりどころとして既成政党から
  労働運動、社会主義運動も含み1919〜20(大正8〜9)年には大運動となりましたが1925年に普通選
  挙法と同時に治安維持法が制定されこの運動は終わりました。 

吉野作造像
政治学者の吉野作造は英語のデモクラシーを 「民本主義」と訳し主権が天皇にある明治憲法 の下でも政治は国民本位に行なわなければな らないと説いて普通選挙や政党内閣の実現を 強く訴えました。

美濃部達吉像

憲法学者の美濃部達吉は法律論の上から統治
権の主体は国家であり、国家の元首である天皇
はその最高機関であって(天皇機関説)、憲法の
条規に従って統治権を行使するとしても、天皇
の政治は国家と国民の意思が結びついて行な
われるべきものであると説き、選挙を通じて国
民の意思が反映される議会政治の実現を主張
しました。

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