ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 22
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」
内田四方蔵「金沢の100年」 ほか
・・・(21)昭和から平成へ・・・
1945(昭和15)年8月ポツダム宣言に受諾により太平洋戦争は終わり、日本はようやく平和を取り戻し ました。 新しい憲法が制定され民主主義国家として生まれ変わった日本は経済大国として発展し、国民の生活 も豊かになりましたが反面公害問題の深刻化、犯罪の増加と凶悪化、教育の混乱など様々な問題が発生 しました。 金沢の町も戦後まもなく磯子区から独立、金沢区となりましたが開発が進むにつれ、宅地造成や海岸の 埋め立てで町並みも大きく変容しました。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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戦後日本の出発 |
<占領下の改革> −占領と戦後処理− 1945(昭和25)年9月2日東京湾上のミズーリ 号上で降伏文書の調印が行なわれ連合国軍 の占領政治が始まりました。 その中心となったのはアメリカ軍を主体と する連合国軍総司令部(GHQ)で、総司令官 はマッカーサー元帥、日本は鈴木内閣に代わ って皇族の東久邇宮稔彦王が首相になり内 地・外地の軍隊の武装解除や連合国の進駐軍 受け入れなど終戦処理処理のための諸施策 が実施されましたが、戦犯の処理などで東久 邇宮は総司令部側と次第に対立して、間もな く総辞職しました。 −民主化への改革− 同年10月幣原喜重郎が首相となりGHQの 指令にもとづき、共産党などの政治犯の釈放 、治安維持法や特高警察の廃止を行い12月に は選挙法を改正して婦人参政権を認めまし た。 1946(昭和21)年元旦には天皇の人間宣言 (関連サイト)が、ついで1月4日には公職追放令 が発表されて日本は一挙に民主化・非軍事化 への改革を進めます。 −日本国憲法の制定− マッカーサー元帥の下で起草された憲法草 案が示され、それに基づいて政府案が作られ 国会で審議されたのち1946(昭和21)年11月3 日、日本国憲法が公布され翌年の5月3日から 施行されました。 新憲法の特色は(1)主権在民、(2)基本的人 権の尊重、(3)戦争放棄 がうたわれたことで す。 −経済の民主化− 経済改革は財閥解体、農地改革を柱として 行なわれました。 ・財閥解体 GHQは三井や三菱などの財閥は軍と結ん で日本を軍国主義の侵略戦争に走らせたと みて、財閥を解体して日本の経済を民主化す ることを指示、1947(昭和27)年には独占禁止 法などにより巨大な財閥の会社を分割、財閥 がもっていた株を分散させ財閥を解体しよ うとしましたが三井、三菱、住友や富士と名 を変えた旧安田などの財閥の銀行がそのま ま残り、その後日本の経済が復興するにつれ て戦前の財閥の銀行が再び大きな力を持つ ようになりました。 ・農地改革 農村では明治時代から地主の土地所有が増 え続け、戦時中は全国の農地の半分近くが地 主のものになっており小作人は高い小作料 に悩まされていました。 GHQは農村の民主化を図るため、1946年 から1950年にかけて農地改革を指令しまし た。これによって地主が持っていた土地の大 部分が国に買い上げられて小作人たちに安 く払い下げられ、小作人たちは自作農として 農業を営む道が開かれました。 −教育の改革− 新憲法の考え方に基づいて教育の機会均等 、9年間の義務教育、男女共学などをうたった 教育基本法や学校教育法が、新しく制定され ました。 都道府県や市町村ごとに教育委員会がつく られ、はじめは住民から選ばれた教育委員が 地域の要望にもとづいて運営にあたりまし た。 −政党の復活− 軍に抑えつけられていた様々な政治運動も 復活しました。 社会主義の勢力を結集して1945(昭和20)年 11月日本社会党が結成されたのをはじめ、戦 前の政友会の流れをくむ日本自由党と民政 党のあとを受けた日本進歩党の結成や日本 共産党の再建も行なわれ、新しく開かれた議 会政治に向って活発な活動がはじめられま した。 1946年4月には、はじめての男女平等の衆議 院総選挙が行なわれ、吉田茂を首相とする自 由党の政党内閣が復活しました。 −活発となった労働運動− 1845年12月に労働組合法が制定され団結権 、団体交渉権、ストライキ権が保障されまし た。 当時はインフレーションの波が激しく国民 生活を襲い、多くの人々が苦しんでいた時期 であり労働運動は俄かに活発になりました 1947年2月1日に公務員の労働組合を中心に 全国的な規模のストライキ(二・一ゼネスト) が計画されましたが、予想を越える労働運動 の激しい盛り上がりに対してGHQは厳し い態度をとるようになり、ゼネストにより日 本の政治や社会が混乱し社会主義を目指す 勢力を心配したマッカーサーは二・一ゼネス トに対して中止命令を出し、そのあとの郵政 や国鉄関係のストライキも同じように禁止 され、1948年には公務員のストライキも禁じ られ、それ以後も政府により労働運動は次第 に厳しい圧迫が加えられるようになりまし た。 これにに対して社会党や共産党に後押しさ れた労働組合は激しく抵抗、保守と革新の対 立は深まっていきました。 −戦争犯罪人の処罰−(コラム・戦争犯罪) 1946(昭和21)年5月から2年半にわたって審 理が続けられた極東軍事裁判(東京裁判)に より1948年12月東条英機、広田弘毅ら7人が 絞首刑にされました。 検察側にはこの裁判に天皇の出廷を求めよ うとする意見もありましたが、アメリカ政府 の意向で天皇の戦争責任は問われないこと になりました。 <国民の暮らし> 平和がよみがえり人々は自由を取り戻しま したが、日々の暮らしは今まで以上に大変で した。 工場も交通機関も破壊し尽くされ農地もす っかり荒れ果て、外地からの引揚者が増加す るのに対して食料の供給基地だった朝鮮や 台湾を失った上、国内の農業がまだ立ち直っ ておらず、食料の不足は特に深刻でした。 1946(昭和21)年5月には東京で大規模な米 よこせデモが行なわれ、人々はヤミ市や満員 列車に乗って買出しに出かけたりしながら も逞しく復興に向けて歩みます。 |
<新生金沢区のスタート> 金沢の人々は終戦直後の食料などの物資 不足の中で復興にはげみましたが,富岡の 一部を除いて非戦災地域だったので終戦 とともに京浜地区の戦災で家を失った人 や海外引揚者などで人口も増え、1948(昭 和23)年5月磯子区から独立して金沢区と なった時は終戦時4万人を割った人口も5 万2千人弱まで回復しました。 | |
戦後の曲がり角 |
<怪事件の勃発> 1949(昭和24)年になると保守と革新が激し く対立し、社会の混乱は一層深刻になりまし た。こんな時に7月から8月にかけて連続し て三つの謎の事件がおこりました。 7月5日国鉄の下山定則総裁が行方不明とな り翌日常磐線の綾瀬駅付近で電車に轢かれ て死体となって発見された下山事件、つい でその10日後に東京の三鷹駅で無人の電車 が暴走し20数人の死傷者をだした三鷹事件 、その約1ヵ月後福島県の松川駅付近で東北 本線を走っていた旅客列車がレールの犬釘 が外されていたために転覆し、機関士ら3人 が死んだ松川事件です。 これら三つの事件に共通していたことは、 いづれも国鉄に関係ある出来事だったこと ですが、当時国鉄では合理化のため約10万 人の人員整理計画が実行に移されようとし て組合側と激しく対立していました。 下山事件は自殺か他殺か不明のうちに終 わり、三鷹事件は裁判で国鉄労組員一人の 単独犯行とされ死刑が確定、松川事件では 国鉄労組員と東芝松川工場労組員が逮捕さ れましたが結局無罪となり真犯人は不明の ままですが、これら事件の被告の中には共 産党員の労組員が多かったため共産党に対 する風当たりが強くなり、事件ののちは労 働運動はこれまでのような激しさは失われ ました。 松本清張の「日本の黒い霧」はこれら事件 の背景としてGHQの謀略をあげています <朝鮮動乱はじまる> 1950(昭和25)年6月南北朝鮮間で戦いがは じまりましたが、この戦争は日本にも大きな 影響を与えました。 日本に駐留していたアメリカ軍は国連軍の 主力として朝鮮に出兵したので、そのあとの 日本の治安維持のためとして警察予備隊(7 万5千人)がつくられました。警察予備隊は19 52年保安隊と変わり1954年自衛隊と改めら れた頃には装備も人員も強力なものとなり ました。国民の間ではいっさいの戦力を持た ない宣言した憲法に反するという声もあが り今も憲法上の大きな問題となっています。 一方朝鮮で戦う国連軍のための大量の軍需 品がGHQの命令で日本の工場で作られる ようになり多くの工場は活発に動き出し、日 本の船で朝鮮の戦場に送られました。こうい った朝鮮特需の発生により日本経済は太平 洋戦争で受けた痛手から立ち直り、ほぼ戦前 の水準にまで回復しました。 <講和会議と安保条約> 朝鮮戦争がおこって自由主義国家とソ連や 中国との共産主義国家の対立がはっきりす るようになりました。アメリカは自由主義陣 営を強化するために日本との講和を急ぎ、共 産主義国家の同意なしに1951(昭和26)年9月 サンフランシスコの講和会議でサンフラン シスコ平和条約の調印が行なわれましたが、 この時調印したのは55の連合国のうち48カ 国でインド、ビルマ、ユーゴスラビアと中国 は出席せずソ連、チェコ、ポーランドは調印 しませんでした。 同日日本とアメリカの間で日米安全保障条 約が締結されアメリカ軍が引き続き日本に 駐留することになり、その後各地にアメリカ 軍の基地が置かれ農地をつぶしたり漁業の 妨げになることが少なくなく、石川県の内灘 や東京の砂川などで激しい基地反対の運動 が続けられ、特にアメリカ軍の統治下に置か れた沖縄には多数の基地が作られて長く島 民の生活を苦しめることになりました。 <逆コース> 朝鮮戦争からサンフランシスコ講和会議へ と国際関係が変わる中で日本国内の情勢も 変化してきました。 公職追放の人達が政界や財界へ復帰する一 方で、これまで激しい労働運動などの指導を してきた共産党員とその同調者が公的地位 や一般の職場から追放されました(レッドパ ージ)。 1952(昭和27)年5月1日のメーデーでは血の メーデー事件がおこり、これをきっかけに政 府は破壊活動防止法を国会で成立させ共産 党などの激しい反政府運動を厳しく取り締 まりました。自衛隊の軍事力が強化され、国 民の間には戦後目指してきた民主主義とは 逆の方へ歩みだした日本を心配する声も聞 こえてきました。(コラム・血のメーデー事件) | ||
経済大国へ |
<国際連合加盟> 1954(昭和29)年11月自由党の吉田に代わっ て民主党の鳩山一郎が首相になり、翌年日本 民主党と自由党が合同して自由民主党が結 成されると鳩山は積極的にソ連との国交回 復を図り1956年日ソ共同宣言に調印しまし た。これにより日本の国連加盟をソ連が支持 することになり、12月に国際連合の総会で日 本の加盟が認められました。 <安保条約の改定> 鳩山内閣のあとを受けた石橋湛山内閣につ いで自民党の岸 信介が首相となりました。 岸内閣は日米安全保障条約の改定に取り組 み1960(昭和35)年新しい安保条約に調印し ました。 岸内閣は新条約を批准するため警官隊を国 会に入れて野党議員の抵抗を押し切って衆 議院で強行採決しました。これに反対する社 会党や共産党などの政党や労働組合のほか、 学生や知識人、一般市民が参加してデモが繰 り返されました(コラム・安保闘争)。 新安保条約は参議院の議決を経ずに6月19 日自然成立しましたが、岸内閣は混乱の責任 を負う形で総辞職して予定されていたアイ ゼンハウアー米大統領の訪日も中止されま した。 <所得倍増計画> 岸首相のあとは同じ自民党の池田勇人が首 相になりました。池田内閣は安保問題をめ ぐって与野党が激しく対立したあとを受け て、寛容と忍耐の精神をスローガンに野党と 協調して経済を一段と充実させることに力 を注ぎました。 池田内閣の「所得倍増計画」は10年間で国民 所得を倍増させようとする高度成長計画で、 大型の予算を組み公共投資を増やしました がその結果、日本経済の成長率は毎年10%を 超える勢いを続け1960年代の終わり頃には 自由主義国家のなかでGNPがアメリカについ で世界第二位に達する経済大国になりまし た。 1964(昭和39)年にはアジアで初のオリンピ ックが東京で開かれ、国際社会での日本の地 位も上がってきました。 <公害問題の深刻化> 経済の高度成長は一方で様々な社会問題を 生み出しました。 急速な工業化が進められ自然が破壊され生 活環境が悪化し、自動車産業の発達により都 市の交通渋滞や交通事故の増加が問題にな ってきました。 1960年代には被害者が企業を告発した四大 公害訴訟が行なわれ原告側勝訴の判決が相 次ぎ池田内閣のあとをついだ佐藤内閣は公 害対策基本法を制定、1971(昭和46)年には環 境庁を設置しました。 <沖縄返還と日中国交回復> 沖縄はサンフランシスコ平和条約による日 本の独立回復後もアメリカの支配下にあり ましたが1960年代に入り祖国復帰運動が高 まり佐藤内閣のときにアメリカとの返還交 渉が進み、1972(昭和47)年沖縄の日本復帰が 実現、沖縄県が復活しましたが、沖縄県には 今もアメリカ軍の基地が多くあり大きな問 題が生じています。 佐藤内閣の次は田中角栄が首相となり訪中 、1972(昭和47)年に日中共同声明の発表によ り満州事変以来15年間戦争を続け、戦後もず っと交渉のなかった中国との国交回復が実 現しました。 <安定成長から平成不況へ> 1973(昭和48)年アラブ諸国とイスラエルの 間に第四次中東戦争がおこり、翌年には日本 経済もマイナス成長となり高度成長は終わ りました(第一次オイルショック)。 日本経済は1979年イラン・イラク戦争によ る第二次オイルショックに見舞われながら も企業の合理化経営やオートメ化等で不況 から脱出、安定成長への道を歩みます。 1985(昭和60)年ニューヨクのプラザホテル で米、英、仏、独、日(G5)の蔵相、中央銀行総 裁会議が開催されドルを引き下げ、マルクと 円を切り上げることを決定しました(プラザ 合意)。このあと円は急上昇し輸入物価は低 下して国内需要による経済成長が続きまし た。やがて金融機関や企業でだぶついた資金 が国内外の不動産市場や株式市場に流入し たため1987(昭和62)年頃から地価や株価が 高騰しましたが、1990(平成2)年末頃からこ れらは暴落し、金融機関は大量の不良債権を 抱え経営は悪化、経済全体に悪影響を及ぼし 複合不況と呼ばれる時代に入りました。 |