Sri Lanka 133 / 2007-Aug-03 


プラッタピー、プラッタポーアpull up the people pull up the poor

M.I.A.マヤとスリランカの内戦・難民 / >プラッタピー、プラッタポーアpull up the people pull up the poor

KhasyaReport


  戦争ってなんだろう。戦争したい人や戦争で儲けをもくろむ連中は、やっぱり戦争好き? でも、誰だって飛んでくる爆弾の餌食になってこっぱみじんになるなんて嫌だ。戦争狂いの連中に巻き込まれて、難民に陥れられて家を追われ国を追われたりしたら悲惨この上ない。
 M.I.A.は戦争の悲惨と苛立ちと焦燥とに子供の時に巻き込まれた。異国に追いやられ、自閉する生活の後に彼女を追い詰めた連中への仕返しのやり方を知った。

 M.I.A.は2年前、英国ヒップ・ホップのスターとして突然に現れた。ファギーの歌うロンドン橋にラップが似ていると思うだろう。でもM.I.A.はファギーFergieじゃない。彼女は他のヒップ・ホップ・スターにない衝撃を持っていた。デビューと同時にアメリカを巻き込んでインディーズを席巻した。
 彼女は革命と難民と戦争を歌う。南インドとスリランカに流れるリズムに載せて。彼女はパーテーィ・ソングを歌った。ノリのいいアングラ・ダンス・ホールの曲だ。彼女は他のヒップ・ホップ・スターにない衝撃を持っていた。デビューと同時にアメリカを巻き込んでインディーズを席巻した。
   M.I.A.はmissing in action。戦闘中行方不明。ちょっと難解だ。歌のテーマはもっと難物だ。意味不明な歌詞がある。なんやかんや分かりにくい。でも、ノリのいいリズムでM.I.A.はラップを聴かせててくれる。ダンス・ミュージックのパホーマーとして超一流だ。
 だから、XLレーベルのM.I.A.のアルバムをソニーはいち早く日本で発売した。彼女の日本での公演もすぐに企画されて名古屋・心斎橋・渋谷・恵比寿でツアーした。アングラ・ダンスホール音楽という華麗なマイナーさがファンにはこの上なくうれしいし、彼女のデビュー曲が鮮烈で衝撃だったこともあって、3年たった今でもその熱波はヒップホップ界で冷めていない。新しい曲がリリースされる毎に彼女のダンス・ミュージックに秘められた硬派なメッセージがより明快にリスナーに伝わるようになった。
 だから、8月に発売されるM.I.A.のカーラKalaを買い求めるヒップ・ホップのファンはスリランカの内戦の実情を、スリランカ和平の専門家以上によく知ってしまう。M.I.A.がその声とからだでスリランカ内戦の現場を、空爆の瞬間を彼女の身体に生まれる不思議なリズムに乗せて、ヒップ・ホップして伝えてしまうからだ。

 
彼女のサンシャワーSunshowerやプラップ・ザ・ピープルPull up the peopleは音楽誌がこぞって喝采した。それらの喝采の中で、彼女の生い立ちが彼女の音楽に深く関わっていると詳しく教えてくれたNiraliの記事は衝撃的だった。
 なぜ彼女は偉才なの? 彼女の音楽のオリジンは何? 誰が彼女を評価しているの? あのリズムは一体何? あの歌詞は何を意味しているの? 
 それ以来、魂をわくわくさせる彼女の曲の謎を解こうとして世界中のM.I.Aファンがウェブに疑問を書き込んでいる。なぜ? なぜ? なぜ?

 
音楽誌ばかりじゃない、ワシントンポストも、ジャパン・タイムスも彼女を取り上げてインタビュー記事を掲載した。あのアエラでさえ表紙に彼女を取り上げた。
 彼女のバックボーンが衝撃だった。世界を席巻したヒップ・ホップの新星はタミルの革命活動家を父に持つ。このことが彼女の歌に潜む好戦的とも反戦とも取れる二律背反を一層際立たせた。


M.I.A. アエラの表紙にもなった AERA 2007年8月6日号

 M.I.A.の魅力は彼女が生み出す独特なリズムにあるとか、逆にハイ・キーな皮肉屋からすれば、M.I.A.のミュージックは幼稚園児の歌唱力にすぎないとか、その音楽性には常に賛否両論が付きまとう。私自身は、コニーアイランド・サイレン・フェスティバルで撮られた屋外撮影の彼女のビデオをユーチューブで見たとき、若き日の山本リンダが歌って踊っているように感じてしまったけれど、それは周囲の雑音まで丁寧に拾ってしまう安物ビデオの投稿作品だったからだ。
 ハイレゾで彼女の曲をぜひ聴いて欲しい。辛らつなメッセージが埋め込まれている音楽が一気に爆発する。

 
M.I.A. (Missing In Action = 失踪兵)。セントラル・セント・マーティンズ芸術工科カレッジ在籍中にはその名でポップアートを発表していたから、彼女自身は早い時期からM.I.A.という言葉に強いメッセージを込めていた。彼女がリリースした最初のアルバムの名はアルーラARULAR。これにM.I.A.を併せると彼女の特別な生い立ちが見えてくる。

 
M.I.A.の本名はMathangi "Maya" Arulpragasamマタンギ(マヤ)・アルプラガサムと言う。マヤは愛称だ。1977年6月17日ロンドン・ハウンスローで生まれた。
 マヤの父はエンジニアとして1971年にロンドンへやって来ている。なぜ英国へ渡ったか。そのときの事情ははっきりとしない。70年にスリランカ全土で吹き荒れた学生運動の嵐と関連付けられるのだと思う。
 あのとき、マルクス主義を標榜する学生たちがスリランカ全土で蜂起し各地の警察署を襲った。英国からスリランカに移り住んだA.C.クラークはその事情を、学生らは某国にそそのかされて武装に走った、スリランカ政府が某国大使館員を国外追放して事態は収まった、と言っている。
 革命を夢見るマヤの父はロンドンへ逃れた。そして、同士と共に1975年、タミル人のマルクス主義学生を集めて一つのグループを結成した。EROSという名のそのグループは武力革命でタミルの独立を勝ち取るという目標を建てた。
 彼女の父の名はアル・プラガサム。それ以外はなにも明かされていない。マヤのアルバム「アルーラ」は父のアクション(革命のための活動)名だった。
 アルーラはEROS結成の資金援助をしたとされているが、地下活動に入ったためマヤは生まれてこの方、父親と暮らしたことがない。月に一度、マヤの父は夜に家族を訪ねたというが、わずか10分ばかりの再会というときもあったという。革命の兵士の膝の上で遊んだ経験をマヤは語るが、父に対してはそうした記憶がない。

 1976年、EROSはアブ・ジハードと共闘を結びレバノンにスリランカ・タミルのための軍事ゲリラ・キャンプを設立、初歩の軍事訓練を始めている。当時、おもだったタミルのセクトは相互に友好的で、後にタミル・セクトの主流を握るLTTEのプラバカランもこのキャンプで実践訓練を積んだ。
 だが、状況は変わる。スリランカ北部東部が自治権を確立する可能性が見えてきた時だった。タミル・ゲリラとスリランカ政府との和平交渉が始まった。そのときタミルの各武装グループは政府との交渉権を独占しようとした。各武装グループがそれぞれに自治権確立後の北部東部での権力を握ろうとしたのだ。そして、四つのタミル軍事グループは互いに互いを攻め合っい殺しあった。
 武力に優れていたのはLTTEだった。EROSはLTTEとの戦いに敗れて解散し、マヤの父はそのとき完全に姿を消した。M.I.A.(戦闘中行方不明)となったのだ。
 英国誌オブザーバーはマヤの言葉として、このときの事情を伝えている。「タイガーは既に二つの武装グループのリーダーを殺していたわ。戦場へ送られた少年兵も殺された。最後に私のお父ちゃんの武装革命グループが狙われた。お父ちゃんは、理想のために少年兵を死に追いやることは出来ないと言ってギブアップしたの。それから何処へ行ったかわからない。EROSはお父ちゃんがいなくなったそのとき、実質的に無くなっていた」
 M.I.Aとは戦闘中(アクション)の行方不明者(ミッシング)のこと。失踪した兵士を表す。マヤのM.I.A.は彼女の暗号であり、マヤがどうしても伝えたいメッセージだ。マヤは「有名になった私のホームページを見て父がメールをくれるかもしれない」と言っている。そして、「メールをくれたって、父には会わない。あの人はきちがいだ」とも言っている。

 
アルプラガサム家はスリランカ内戦に翻弄された。
 マヤは生まれて6ヶ月で母国スリランカへ両親と姉カーリと共に英国から帰った。父がEROSで活動するためだった。間もなく弟のスグSuguがスリランカで生まれた。スリランカでは政府の目を逃れ住まいを転々と変えた。ジャフナからマドラスへ移って電気も水もない暮らしもしている。マヤは学校へ通ったが、住まいは道を遠く離れたジャングルの中の隠れ家だった。姉が腸チフスを罹った。母と三人の子供の暮らしはすぐに窮状を増した。あまりのことに叔父がスリランカのジャフナへ母と子等を連れ戻したが、その直後に1983年の、あの「黒い7月Black July」事件が起こった。
 ジャフナで政府軍兵士がタミル・タイガーに狙撃された。それが「黒い7月」事件の直接のきっかけだった。「黒い7月」という呼び方と事件の報道の仕方には「白い」側からの無邪気で、底意地の悪い蔑視を感じる。black July-Sri Lanka Guardian 2008
 事件が連鎖した。
 コロンボのタミル人が居住するペッタ商業地区がシンハラ市民による焼き討ちされ、強奪に会った。シンハラ人とスリランカ仏教界を正面から巻き込んでタミル人排除の暴動が始まった。内陸のアヌラーダプラ、カンディ、南部のガーッラへとタミル人排斥が広がった。シンハラ対タミルという対立の図式が固定され、政府軍とタミル過激派の戦闘とテロが各地で暴発した。国中が激しく揺れた。M.I.A.となったマヤの父が求めていた革命の理想は完全に消えてしまった。

 
スリランカでは毎日が爆撃の日々だった。政府軍とタイガーの兵士が闘っていた。マヤはそう述懐している。食べるものもなく生米をかじった、と言う。
 1986年、母と3人の子はイギリスへ難民として入国した。マヤはその時9歳だった。当時、彼女が知っていた英語はマイケル・ジャクソンと、そのほか数単語だけだった。母はクリスチャンに改宗した。家族は難民としてロンドンのミッチャムに公営住宅を与えられ新しい暮らしが始まった。引きこもりがちのマヤは好きな絵を描いて暮らし、TVを見て英語を覚えた。

 それ以降のヒップ・ホップのスターとしてデビューするまでの話は既に多く紹介されており、それらにはたいした差異もないからここでは記載を省く。はっきりとしているのはマヤの音楽の底流に、この9歳までの体験と記憶が常に流れていることだ。マヤはタイガーの女性兵士ではない。アーティストだ。でも、失踪兵という屈辱の思いを父に描く彼女は、そのポップな作品にスリランカの内戦を描かねばならなかった。マヤは自身も失踪兵であるかのように装う。その屈辱を噛みしめる。父のように。

 
革命家のお父ちゃんへの憧憬と忌諱。戦争の恐怖と腹立ち。難民としての孤独。貧しさ。
 だが、彼女は恨みを抱かない。戦争にも、お父ちゃんの身勝手にも負けていない。住処を転々としたスリランカでの貧しい生活にも、ロンドン郊外での貧困の難民生活にも負けない。
 けたたましい不思議なリズム、バック・コーラスを横切る短いビーム音。それは彼女の曲のパターンだが、彼女のラップがほかのラッパーと異なるのは、そこにいつも不思議な静寂が宿るのだ。おそらくそれはスリランカ北部に暮らすタミル人の持つ静寂だ。スリランカと南インドに特有の太鼓は指先で皮を叩いて鮮烈な音を打ち出す。音と音の間には彼ら特有の音楽の間、沈黙の瞬間がある。そのしじまをMC505でマヤは作り出す。不思議なリズムがそこに生まれる。
 その感覚を最もよく現しているのは著作権侵害曲とされたり、PLOの歌詞が不穏だとしてMTVに放映を拒否されたSunshowerだ。プロモーション・ビデオは南インドで撮影された。彼女が6ヶ月から9歳までを暮らしたスリランカのジャフナの土地の文化が強く匂う。ジャングルの木漏れ日。川での沐浴。熱帯の森に漂う、ある種、ヒンドウ的な諦念。しじま。子供たちの屈託のない笑い。ここにBUZZARD'S ORIGINAL SAVANNAH BANDのサンシャワーがコーラスで何度も繰り返されるが、それは失踪兵の甦生を願うやわらかな祈りのようだ。

 
デビュー曲Galangのプロモーション・ビデオには彼女のポップアートが何枚も使われている。戦車。爆撃機。手榴弾。画面を横切るタイガー。その映像の中にガラン、ガランという意味不明な(Missing in Language!)単語が飛び交う。それは歯切れのいいジュゲム語。マヤの口から放たれた言葉が爆弾のように破裂する。
 マヤは「ガラン」の意味を問われて相手を煙に巻く応えをいくつか返している。「ガラン」はジャマイカの言葉でgo on with yourselfだと言ったり、かと思うと、それはタイ料理のスパイス・ガランガルGalangalだと言ったり。
 言葉の意味などどうでもいい。言葉に実体はない。言葉は遊戯だ。マヤは不可解な言葉を作り出す。ピーチズに教えてもらったシーケンサーMC505でリズムを作って、そこに言葉を乗せる。リズムを奏でれば彼女に歌が生れる。持って生まれた南インドDNAの賜物だ。タミルの太鼓ムリガンダムの音は人の話す言葉そのものだから。リズムがそのまま言葉だから。彼女の作るリズムをジャマイカ・レゲエだとか、インドネシアのパターンだとか、果ては、スリランカへ舞い戻ってバイラだと言ってジャンル分けしようとする音楽評論家が後を絶たないけど、あまり意味のないことだと思う。

 ■マヤは彼女の音楽を自分だけのものとして開花させた。
 太鼓のリズムは政府軍の投下する爆弾の音。
 戦車の砲弾の轟音。
 タイガーの兵士が投げる手榴弾の音。
 子供時代の記憶が爆弾の破裂する音で彩られる。
 だから彼女は果敢に挑戦する。抗議する。反抗する。何度も「くそ!」とぶちまける。
 歌の中にBMWという歌詞が出てくる。スリランカ人なら誰もが思わずにたりとするだろう。その言葉にあの政治家を連想する。マヒンダ一族のお決まりの乗用車BMW。狙撃された防弾のBMW。
 だが、マヤにはそんな小ざかしいディーテールは関係ない。マヤの真骨頂はその不思議なリズムにある。不明な単語の羅列にある。言葉の意味はわからなくていい。深読みも要らない。プロモーション・ビデオを見れば曲の意味は明快にわかるのだから。マヤは行方不明の父を探し、戦争を憎み、抗議しているって。

 
Pull up the people Pull up the poorは彼女の歌のタイトル。リフレインされるラップのさびの部分だ。この「人々よ、立て」「貧しきものよ、立て」だって意味を真正面に取ることはない。プラッタピーPull up the people、プラッタポーアPull up the poorでいい。プラッタポーアを3回繰り返して声を張り上げるとマヤの気持ちがわかる。
 プラッタポーア、プラッタポーア、プラッタポーア。
 世の中はリズムで出来ている。
 彼女は自身を英国のシンガーだと言ってる。スリランカではない。タイガーではない。
 プラッタピー、プラッタポーアはスリランカで革命を夢見たお父ちゃんが繰り返し叫んでいた言葉。
 この秋、M.I.A.の日本ツアーが名古屋・大阪・東京で再び行われる。彼女のメッセージは不思議で、不遜で、強烈で、やさしい。



Tamilnation.Org.
Mathangi Maya Arulpragasam

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M.I.A plays double-dutch in a war zone