QアンドA82
主語って何ですか?

シンハラ語に限らず南アジアの言語は主語にこだわらない。主語を必要としないことだって普通だ。これって主語なの?って首を傾げたくなるのだって文に現れる。ジェームス・W・ガイアが様々に変則するシンハラ語の主語を紹介している。


No-82 2008-Mar-03 2015-Apl-22

 

私"に"シンハラ語が話せる

  南アジアの言語は主語を使わないことが多い。文に主語がない。二つの意味で主語がないのです。
 ひとつは実際に文に主語がないということ。シンハラ語には主語のない文が何気に何処にも現れます。そう、ちょうど、日本語のように。
 もうひとつの主語がない分というのはちょっと厄介で、「私が/は」と言う代わりに、「私に」や「私を」という言い方で主語を表すということ。主語=サブジェクトだとすれば、そのサブジェクトが「私が/は」で始まらず、「私に」で始まってしまうのです。「私はシンハラ語が話せます」と言うところを「私にシンハラ語が話せます」と言わないとシンハラ語ができることにならない。「私にシンハラ語が話せます」なんて言ったら、シンハラ語が「私に」話しかけて来るなどと頓珍漢に受け取られるかも、と思うのだけど、いや、そんなことはない。「私シンハラ語が話せます」は紛うことなく「私シンハラ語が話せます」と言っているのです、シンハラ語では。

○ マタ  ジャパン-バサ プルワン  මට ජපන් බස පුළුවන්
    私に  日本語    できます
× ママ  ジャパン-バサ プルワン  මම ජපන් බස පුළුවන්
    私は  日本語    できます
 
 文法に沿って解釈すれば、「話せる」という可能を表す文では「私は」という主格主語を使わないで、「私に」という与格主語を用いる、というわけなのですが、いやいや、ここでわかった気分になってはいけません。だって、「私に」では主語にならないだろう?  

 シンハラ文語は動詞語尾が主語の認証・種別に対応して変化するので余計に主語の省略が起こるようになります。英語も主語の別によって三単現の-sという動詞語形を変化させるのですから、ここから主語が暗視できて主語の省略ができそうな感じがする。主語と述部動詞の語形の一致は主語を省略させるといえるはずですが、インド諸語のような綿密な主語と動詞語形の対応はないのでそうはいかない。じゃ、なんで三単現の一致なんてあるのかしら。


 もうひとつの主語がない分というのはちょっと厄介で、「私が/は」と言う代わりに、「私に」や「私を」という言い方で主語を表すということ。主語=サブジェクトだとすれば、そのサブジェクトが「私が/は」で始まらず、「私に」で始まってしまうのです。「私はシンハラ語が話せます」と言うところを「私にシンハラ語が話せます」と言わないとシンハラ語ができることにならない。  タダ、ここのところは厄介な解釈が必要で、「シンハラ語が話せます」なら「シンハラ語」が主語で「話せます」がそれを受ける動詞だろうということになる。「私は」というのは主語じゃなくて「主題」だということになる。助詞の「は」は副助詞(係助詞)だから主語を表さない、トピックだ、というわけだ。  日本語で「私にシンハラ語が話せます」なんて言ったら、シンハラ語が「私に」話しかけて来るなどと頓珍漢に受け取られるかも、と思うのだけど、いや、そんなことはない。「私シンハラ語が話せます」は紛うことなく「私シンハラ語が話せます」と言っているのです、シンハラ語では。

「私にシンハラ語が話せる」を格で捉えると、

 例えば、日本語で
  「私にはシンハラ語が話せます」
と「に」の後に「は」を入れて言った場合、どうだろう。これを「私には-話せます」と文意を受け取って「シンハラ語が」を目的語のように捉えると、SOVの関係になる。  ちょっとアクロバットだけど、これを格で捉えると、

  私には  シンハラ語が  話せる
  与格主語    対格       述部動詞

のようになる。いや、なりうる。何でこんな風に格文法を持ち出したかといえば、シンハラ文法ではこんな文法理解のやり方で主語を捉えているからだ。
 何でそんな面倒くさい解釈するの?って、そう、ここからがシンハラ語の「ものの捉え方」の面白さが始まるからなのです。

 「シンハラ語が話せる」ではなくて「シンハラ語を話す」というとき、主語の「私」はどうなるでしょう。やはり与格主語というけったいな形をとるのか。
 いえ、「話す」というときは「私は/が」という主格、普通の主語を使います。
 
  ママ  ジャパン-バサ カターカラナワ මම ජපන් බස කථාකරනවා
   私     日本語     話します (私は日本語を話します)
  マタ  ジャパン-バサ プルワン මට ජපන් ස පුළුවන්
   私に  日本語    できます  (私には日本語ができます)
 
   以上のことをガイアのシンハラ語研究から読み直して見ましょう。

 ジェームス・W・ガイアの「Subject, Case, and INFL in Sinhala」に「シンハラ語では主格以外にも様々な格が主語になる」として与格・対格・具格の名詞が挙げられています。この下の表をご覧ください。

シンハラ例文出典 Subject, Case, and INFL in Sinhala /James W. Gair
The man runs
 ミニハ(男は)+ドゥワナワ(走る/意志を持って)→男が走る
 主格/主語 + 動詞(意志動詞)/述語
The man runs (involuntarily)
 ミニハ・タ(男・には) + ディウェナワ(走る/自らの意志は無く)→男が走る
 与格/主語 + 動詞(無意志動詞)/述語
I see the elephant now
 マ・タ(私・に) + ダェン アリヤ・ワ(今、象を)+ペーナワ(見える)→私は今、像を見ている
 与格/主語 + 対格/目的語 + 動詞(無意志動詞)/述語
The man might fall into the river
 ミニハ・ワ(男・を)+ガンガ・タ(川・に)+ワェテーウィ(落ちただろう)→男は川に落ちたのだろう
  対格/主語 + 与格/目的語 + 動詞(無意志動詞・推量形)/述語
There police there
 エヘー(そこに) + ポリシ・イェン(警察/警官によって)+ いる→そこに警察(警官)がいる
 処格/補語 + 具格/主語 + 存在動詞(生命体/動く物の存在を表す)/述語
The gorvernment gives support for that
 アーンドゥ・ウェン(政府によって)+エーカ・タ(それに対する)+アーダーラ・ドゥンナ(援助が与えられた)
政府がそれに対して援助を行った
 具格/主語 + 与格/目的語 + 動詞(意志動詞)/述語
ゴシック文字の日本語はガイアの例文に添えられたシンハラ例文(左)の英訳(右)をそのまま日本語にしたもの。



 シンハラ例文の英文訳も、当方で加えたその日本語訳も形式的な主語の形を取っています。
 ところが、シンハラ例文をそのままに読むならば、主語は「~が」ではなく「~に」だったり、「~を」だったりしなければなりません。下のシンハラ例文で日本語訳過程を説明する文節ごとの訳はシンハラ文の単語が持つ本来の(形式的な)意味をそのままになぞったものです。

 和訳の説明に意志動詞・無意志動詞とあるのは、他動詞・自動詞とほぼ対応します。ガイアの説明では他動詞、自動詞となっていますが、ここのところがシンハラ語の主語の大切なところなので、あえてシンハラ文法で用いる意志動詞・無意志動詞という用語を使いました。
 例えば3の「私は今、象を見ている」ですが、「見ている」はシンハラ例文で「ペーナワ」です。シンハラ語では「みずから見ようとして見る」ときは「バラナワ」を、「自然と見える」ときには「ペーナワ」を使います。これは英語のLook(他動詞)とSee(自動詞)の違い、日本語の「見る」と「見える」の違いに順ずるのですが、シンハラ語ではバラナワを意志動詞、ペーナワを無意志動詞というように分けます。そして、この無意志動詞がシンハラ語的な「主語」の意味を作るのです。

 日本語での「見る(バラナワ)」と「見える(ペーナワ)」の使い分けはマルでシンハラ語のように行われます。「私が見る」、「私に見える」というように「が」と「に」を使い分けるからです。「が」は主格、「に」は与格を表します。ここではともに主語を表しますから、「私が」は主格主語、「私に」が与格主語です。日本語でもシンハラ語の与格主語文と同じ仕組みが作られているのです。
 「天皇陛下にあらせられましては」の「天皇陛下に」は与格主語。日本語では古代、尊敬を表す主語に与格が用いられました。日本語の与格主語はヒエラルキーを表わす時に使われましたが、シンハラ語では使い方が違います。
 シンハラ語の与格主語は無意志動詞に呼応します。感情、生理現象(怒る、とか、空腹だ)も与格主語で表します。

 同様に「~に/によって…される」、「~を/をして…になる」という日本語の言い回しが当てはまるシンハラ語の主語は具格主語、対格主語という捉え方が出来ます。4,5,6の例文も和訳では最終的に「~は」という主格主語の言い回しになっていますが、シンハラ語の言い回しを直訳すれば「~によって」、「~をして」と言ってるのです。なんか面倒だな、って感じるでしょうけど、ここにとても大切な「シンハラ語の気持ち」が隠されていると思えてなりません。  はたして、これらを与格・対格などの斜格が表わす「主語」と呼ぶべきか。  どうも違うように思えるのです。そうまでして主語と呼ばなければいけないのか。  スリランカという風土に「主語」という文法概念はなじまないような。適切ではないような気がします。
 主語はいらない。主語のいらない風土で暮らす人々が日本語の島以外にも、こうしてアジアの南の島にも暮らしている。