「あげる」は「する」じゃない。「教育あげる」じゃ日本語にならないから、「教育を与える」と訳してみる。いや、これでもまだ、ぜんぜん日本語らしくない。 「あげる→与える→授ける」と同意語を膨らませるとアデャーパナヤ・デナワは「教育を授ける」という言い回しがぴったりと当てはまる。そうか、シンハラ語では「教育する」とは言わないで「教育を授ける」と言うのか。 私たちは「教育する」という言い回しを普段、使っている。「する」と「授ける」では語彙のステータスがずいぶんと異なる感じがする。 「教育する」と言うと、いかにも「する」側の押し付けが幅を利かすし、教育者先生には高圧的なイメージが射しているかな。これもアデャーパナヤ・デナワという言い回しを知る前はそんなこと思わなかったけど。 教育は「授ける」もの。provide education であってcontrole someone by educationではない。 何を授けるのかそれでも、provide educationと言うと、まだまだ「教育を施す」などとヒンミンタイサクのホドコシみたいな用語を朽ちた小屋にほったらかした金庫から持ち出してくる方もおられる。話を先に進めよう。シンハラ語の「アデャパーラ・デナワ」は「教育を授ける」という意味。では、誰が、何を、「授ける」のか? 昨年のウィジャヤ新聞「アダToday」にこんな文章が載っていた。写真ジャーナリストのサラシ・ネトミニーසරසි නෙත්මිනී が教育に関するエッセイでこんなことを記している。
この言葉を補足して記事はこう続く。
インドの村の子供たちが法律を学ぶことによって村の不正を正していったという事例に共感したサラシーは学校教育の重要性をスリランカの新聞にこう記した。そして、彼女は、自律というかけがえのないものを学校教育が子供らに授けるのだと訴えている。 サラシーが記事の中で使ったアワボーダヤඅවබෝධය ということばはUNDERSTANDINGと訳される。日本語ではどう訳されるだろう。サラシーが言うのは、東洋的な意味での覚醒、アジアの熱帯の島国の、子供たちのこころが何物かをつかんで目覚めること、自然とそう「なる」ことを意味する言葉なのだが。 日本では教育が「する」もの、「施しもの」に成り下がってしまった。最高裁は昨日、教育を「する」に引き摺り下ろした行政権にひれ伏して、教育は「する」ものだと声をそろえて追認した。「授ける」教育者は教育の場を追われてどこへ行くのか。 hhttp://www.ada.lk/features/15-234904 |