教育は「する」ものではないということ
「教育する」をシンハラ語でどう言うか?  Sinhala QandA78

first up date unknown rewrite 2018-Nov.07


 シンハラ語で「教育」を「アデャーパナヤ」と言う。これを動詞化すると「アデャーパナヤ・デナワ」となる。
「アデャーパナヤ・デナワ」は「教育する」ということ。いや、でもそれはちょっと違う。シンハラ語では教育を「する」と言わない…




 「教育」を動詞化すれば「教育する」。
これをシンハラ語に、そのまんま直訳すればアデャーパナヤ・カラナワになる。日本語の「する」動詞が名詞を動詞化してしまう便利な添加物であるように、シンハラ語の「カラナワ」動詞も名詞の後に付ければ名詞を動詞化する。

 セッラム・カラナワ 遊び+する→ 遊ぶ
 カイモノ・カラナワ 買い物+する→ 買い物する

 もちろん「カラナワ」は動詞なので、単独でも使える。

 カランネ・ナェ する+ない→ してない

   ところが、「カラナワ」は「教育」を動詞化するときは使わない。アデャーパナヤ・カラナワの代わりにアデャーパナヤ・デナワと言う。デナワはgive のこと、「あげる」の意味。
 
 教育 アデャーパナヤ අධ්‍යාපනය
 教育あげる アデャーパナヤ・デナワ  අධ්‍යාපනය දෙනවා
 (教育+あげる→教育する)

 「あげる」は「する」じゃない。「教育あげる」じゃ日本語にならないから、「教育を与える」と訳してみる。いや、これでもまだ、ぜんぜん日本語らしくない。
 「あげる→与える→授ける」と同意語を膨らませるとアデャーパナヤ・デナワは「教育を授ける」という言い回しがぴったりと当てはまる。そうか、シンハラ語では「教育する」とは言わないで「教育を授ける」と言うのか。

 私たちは「教育する」という言い回しを普段、使っている。「する」と「授ける」では語彙のステータスがずいぶんと異なる感じがする。
 「教育する」と言うと、いかにも「する」側の押し付けが幅を利かすし、教育者先生には高圧的なイメージが射しているかな。これもアデャーパナヤ・デナワという言い回しを知る前はそんなこと思わなかったけど。

 教育は「授ける」もの。provide education であってcontrole someone by educationではない。

何を授けるのか

 それでも、provide educationと言うと、まだまだ「教育を施す」などとヒンミンタイサクのホドコシみたいな用語を朽ちた小屋にほったらかした金庫から持ち出してくる方もおられる。話を先に進めよう。
 シンハラ語の「アデャパーラ・デナワ」は「教育を授ける」という意味。では、誰が、何を、「授ける」のか?
 昨年のウィジャヤ新聞「アダToday」にこんな文章が載っていた。写真ジャーナリストのサラシ・ネトミニーසරසි නෙත්මිනී が教育に関するエッセイでこんなことを記している。

ඒ අධ්‍යාපනය තුළින් මිනිසුන්ට ස්වයං විනයක් ඇති කරගන්න පුළුවන්.

教育は人々に自己規律(自律)を生じさせることができる。


 この言葉を補足して記事はこう続く。

මෙහිදී තමන් අතින් වැරැද්දක් වූ විට ඒ වැරැද්ද පිළිගන්න, ආර්ථික ප්‍රතිලාභ තකා වැරදි වැඩ නොකරන්න, ඒ ශික්‍ෂණය ඇති වෙනවා නම් තමයි ශිෂ්ටසම්පන්න වෙන්නෙ. ඒ අවබෝධය ළමයින්ට පාසල් කාලයේ සිට ලබා දිය යුත්තේ ඒ නිසායි.

 …過ちを犯したなら自らが過ちを受け入れて、その過ちを放って置かずに、自らを律することによって自身で受け入れられるようになったなら、それは教育の立派な成果だ。そうした(自律の)意識が生まれるように子供らに教育を授けることが学校の使命だ。
සරසි නෙත්මිනී / පාසල් අධ්‍යාපනයේ සිට නීතිය අධ්‍යාපනය ලබාදීම ඉතා වැදගත් 26 04 2017 Wijeya Newspapers 学校教育における法律教育の重要性

 インドの村の子供たちが法律を学ぶことによって村の不正を正していったという事例に共感したサラシーは学校教育の重要性をスリランカの新聞にこう記した。そして、彼女は、自律というかけがえのないものを学校教育が子供らに授けるのだと訴えている。
 サラシーが記事の中で使ったアワボーダヤඅවබෝධය ということばはUNDERSTANDINGと訳される。日本語ではどう訳されるだろう。サラシーが言うのは、東洋的な意味での覚醒、アジアの熱帯の島国の、子供たちのこころが何物かをつかんで目覚めること、自然とそう「なる」ことを意味する言葉なのだが。
 日本では教育が「する」もの、「施しもの」に成り下がってしまった。最高裁は昨日、教育を「する」に引き摺り下ろした行政権にひれ伏して、教育は「する」ものだと声をそろえて追認した。「授ける」教育者は教育の場を追われてどこへ行くのか。

hhttp://www.ada.lk/features/15-234904
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 参考/「教える」「教わる(学ぶ)」の表現は次の通り。

教える  ウガン-ワナワ උගන්වනවා
学ぶ(教わる) イゲナ-ガンナワ ඉගෙනගන්නවා



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