フェニキアの商人と古代シンハラ文字

シンハラ語質問箱 Sinhala QA63
2006-2-07 2015-May-19


シィギリヤの岩山に刻まれたシンハラ古代文字。そのルーツを探って行くとフェニキア商人の足跡が見える。古代ランカー島の歴史ととシンハラ文字は航海民族と関係していた…
 

シーギリの岩山に刻まれた古代シンハラ文字

 十数年、スリランカと付き合っているけど、私はあちこちの町や村へ出かけて朝市をふらついて食材を集め、食堂で飯を食い、民家を訪ねて土間に入り浸る。そんなことばかりだった。観光地というところへは、行かない。観光地に土着の食文化はない。
 でも、シーギリへ行ってみた。それはシンハラ語の古代、ニパータの中に「ニ」という文字が存在したことをこの目で直接確かめたかったからだった。
 土地の人がクルドゥ・ギーと呼ぶ4,5世紀から10世紀あたりまでの古代のシンハラ歌がシーギリの切り立つ岩山の壁に彫られている。
 シーギリは岩山そのものがライオンに見立てられている。岩のライオンは北を向き、インドから攻め入るタミル王国軍を威嚇する。ちょっと状況は複雑だが、カッサパというシンハラ王がタミル軍を引き連れてインドから攻めてくる弟モッガラーナに抗するためにシーギリ山城城は建てられたという。山頂にカッサパの王宮がある。その王宮へ向かう細い登り道。底の卵白を塗り固めた壁が続いている。
 5世紀末、シーギリ城はモッガラーナのタミル軍に攻略されカッサパの時代が終わる。シーギリ城は廃墟となったが、カッサパの時代ごろから仏僧の修行する岩山となっていたため仏陀の功徳を求めてこの山を訪ねるシンハラ人が5世紀から10世紀にかけて後を立たなかった。

 このシーギリの岩山を訪れるシンハラ仏教徒にはある目的があった。シギーリの皇女に会うこと。シーギリの皇女とは岩壁に描かれた薄い絹のベールを上半身にまとう女性たちのフレスコ画だ。シンハラの男たちはその皇女に恋をした。
 山頂にカッサパの王宮がある。その王宮へ向かう細い登り道。底の卵白を塗り固めた壁が続いている。
 その壁を鉄筆で引っ掻いて男たちは恋文を書いた。言ってみれば落書きだが、それは一人の言語学者によって古代のシンハラ歌謡文学として現代によみがえった。

古代のシンハラ歌謡文学には謎がある

 男たちに歌われた古代の恋文は数え切れないほど沢山ある。歌は四行詩で、小さな文字で彫り込まれていた。
 それらの歌の中に「蓮華を手に取り」というフレーズの一歌がある。


シーギリの落書き


シーギリのクッティヤに彫られたブラーフミー文字


 なぜ、そんなに詳細に知っているかって? 単純なことだ。<シーギリ・グラフィティ>という本の中に「蓮華を手に取り」の歌が紹介されているからなのだ。

Senarath Paranavithana / Sigiri Graffiti/ Oxford University Press 1956

 シーギリの落書きは「シーギリ・グラフィティ」というノスタルジックな題名の本が登場したことで世界中に知れ渡るようになった。シーギリの岩山王宮に描かれた美女群は英国人が近世に再発見したことで世界に知られ、シンハラの古代歌謡がつぶさに採集されたことで4,5世紀にさかのぼるシンハラ語の様子までうかがい知れるようになった。
 現代シンハラ語では「手にte-ni」を「アティンatha-in→ athin」と言う。「手」を表す「アタ」に助詞の「-イン」が付いて「アティン」となる。この「名詞+助詞」という単語の塊りを「名詞の屈折変化」と捉えるのが形式的なシンハラ語文語文法で、この語形は名詞の与格形とされるのだが、これを「名詞+形態素(助詞)」と捉えて見るのだ。そう、日本語のように、だ。
 「手に」と日本語で言えば、それは「手+に」という単語と辞に分かれる。「アティンatha-in→ athin」の古形が「アタ二atha-ni→ atha-ni」だったのなら、そのニは日本語の助詞「に」と同じ文法関係を「手」と結んでいたとも読み取れる。いや、そう読み取るほうが自然にシンハラ語が理解できる。

 シンハラ語は日本語の学校文法で読み取れるとすれば、シンハラ語の古代の助詞「ni」は大変な役割を担うことになる。

古代シンハラ語のブラーフミー文字

 シンハラ人がシーギリの皇女にささげた恋文は4,5世紀ごろから書かれたもの。でも、ここにはさらに古い文字が残されている。それはシンハラ人がブラックマーと訛るブラーフミー文字だ。シーギリの岩山の正面にある噴水の道。ここをまっすぐ岩山へ向かうとき土産物売りがたくさん押しかけてくる当たり。ブラーフミー文字はその岩山の登り口にある。ここには文字の意味を紹介する看板も立っている。
 シンハラ語が今の変体少女文字っぽいスタイルを編み出す以前、こうしたガチガチの文字をシンハラ人は使っていた。案内板によれば「この洞穴は何々坊という坊さんに捧げる」と彫ってあるらしい。岩山修行の僧侶に瞑想のための洞窟をささげることはシンハラ国王の功徳だった。入り口からもう少し離れて右へ行くと、よりはっきりとブラーフミー文字の刻まれた洞窟もある。

 さて、このブラーフミー文字、どこかで見覚えがある。アメリカ大陸にこれと同じような文字がある。
 北アメリカの東海岸や南アメリカのブラジルにこうした文字がシーギリのブラーフミー文字と同じように岩に彫られている。下の写真は『紀元前のアメリカ』(バリー・フェル、草思社1981)に載っているもの。パーカーの『古代セイロン』に紹介されているスリランカの文字を一緒に並べたので比較してほしい。


古代セイロン Ancient Ceylon / Parker,H 1909


『紀元前のアメリカ』(バリー・フェル、草思社1981

アメリカ大陸の文字はフェニキア人が残したと言われている。フェニキアは海洋を駆け巡った古代の商業国家。彼らはフェニキア文字をアメリカ大陸に書き残している。
 フェニキアの商船は中国へも行った。それならフェニキア文字が中国航路の途中にあるスリランカに刻まれていても不思議はない。
 ロバート・ノックスの『セイロン史』にはカンディの町の近くに訳の分からない文字を刻んだ岩があるという記述がある。これはブラーフミーの文字か。それともフェニキアの文字か。もしや、フェニキア商人のことだ、タルシシ船に積んだ葡萄酒をスリランカの海岸から山中に運んで、カンディの山の中にまで売りに出かけたのかも?