AUの商売。 佐久間學

(19/5/28-19/6/18)

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6月18日

LISE DAVIDSEN
Lise Davidsen(Sop)
Esa-Pekka Salonen/
Philharmonia Orchestra
DECCA/483 4883


1987年生まれと言いますから、今年で32歳になるノルウェーのソプラノ歌手、リーゼ・ダヴィドセンのデビューアルバムです。ジャケットには彼女のアー写だけ、タイトルも彼女のフルネームという、まさに「デビュー」にふさわしいデザインですね。なんたって、ルックスが抜群ですからね。太ってませんし(それは「デブー」)。彼女は2018年5月にDECCAとの専属契約を結んでいますが、この破格の扱いからは、この歌手がいかにこのレーベルで期待されているかが分かります。
彼女は、まずはメゾ・ソプラノとしてキャリアをスタートさせたようです。その頃には、「ノルウェー・ソリスト合唱団」のメンバーとして活躍していました。この合唱団は、今ではBISレーベルから多くのアルバムをリリースしていますが、彼女が在籍していたのはその前のようですね。ただ、2016年にリリースされた「As Dreams」というアルバムでは、1曲だけソリストとして参加していました。そのほかにも、DACAPOやCHANDOSといったレーベルからも、彼女が参加したアルバムは出ていました。
その頃にはもうソプラノに転向し、多くのオペラハウスで歌うようになっていました。そして、今年の夏には「タンホイザー」のエリーザベトとしてバイロイト音楽祭でのデビューを飾ることになっています。
彼女のデビューアルバムに選ばれたのは、その「タンホイザー」の中からの有名な2つのアリアと、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」をメインとした曲目です。というよりは、シュトラウスとの因縁がかなり重視された選曲のようですね。というのも、「タンホイザー」は、彼が1894年にバイロイトで指揮をした演目で、その時にエリーザベトを歌っていたソプラノ歌手に一目ぼれして、その数週間後には結婚してしまうのですからね。
そして、このアルバムで歌われているシュトラウスの歌曲は、その妻パウリーネのために作られています。
さらに、「4つの最後の歌」に関しては、1950年にロンドンで初演されたときと同じオーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団がこのアルバムでは演奏しています。その時の指揮者はフルトヴェングラーだったのですが、ソロを歌ったのはキルステン・フラグスタート、ダヴィドセンと同じノルウェーの大歌手でした。
シュトラウスは、この前年に亡くなっているので、この曲を実際に聴くことはできませんでした。タイトルも、「4つのオーケストラ伴奏の歌」だったものが、出版社によって「4つの最後の歌」と変えられてしまいました。実際はこれが「最後」ではなく、もう1曲、このアルバムでも歌われている「Malven」が作られているというのに。
サロネンの小気味よいビートに乗って最初の曲、「タンホイザー」の殿堂のアリアが聴こえてきたときには、まるで、同じ北欧のソプラノ、ビルギット・二ルソンの再来かと思ってしまいました。その声は、ずっしりとした重みがあるにもかかわらず、高い音はいともしなやかに伸びていたのです。そこには、ドラマティック・ソプラノにありがちな過剰なビブラートは全くありませんでした。そんなものには頼らなくても、いくら高い音でも楽々と出せてしまうのでしょうね。バイロイトでは、間違いなく大喝采を浴びることでしょうし、世界中のオペラハウスに立つ彼女の姿は、これからは頻繁に目にすることができるようになるのでしょうね。
シュトラウスの「アリアドネ」の中の「Es gibt ein Reich」とか、オーケストラ伴奏の歌曲を聴いていると、今度は同じレパートリーでよく聴いていたジェシー・ノーマンを思い出しました。ノーマンほどの桁外れのパワフルさこそないものの、表現の巧みさにはとても良く似たところがあるような気がします。いずれのフィールドでも、彼女の活躍は約束されています。
このアルバムでは、バックのオーケストラの木管やホルンが、歌手のピッチとの間にほんの少し違和感があるのが、ちょっとした瑕疵でしょうか。

CD Artwork © Decca Music Group Limted


6月15日

Flute Music from the Harlequin Years
Thies Roorda(Fl)
Alessandro Soccorsi(Pf)
NAXOS/8.579045


タイトルが「ハーレクイン」となっていたので、あの女性向け恋愛ライトノベルを連想して、いったいどんなアルバムなのかと思ってしまいましたよ。
いや、それは全くの勘違い、「ハーレクイン」は英語読みですが、フランス語では「アルルカン」、イタリア語だと「アルレッキーノ」となって、「道化役者」のことなんですね。このジャケットのひし形の模様は、そのアルルカンの衣装の特徴的なデザインなのでした。
それが音楽にどう結び付くのかというところで、フランスの芸術家、ジャン・コクトーの登場です。甘いものが好きなんですね(それは「黒糖」)。「アルルカン」というのは、彼が1918年に出版した小冊子「Le Coq et l'Arlequin(雄鶏とアルルカン)」のタイトルに使われていた言葉でした。この中でコクトーは、それまでの音楽の潮流であったワーグナーに代表される「ロマン主義」と、ドビュッシーが確立した「印象主義」を「アルルカン」に模して強烈に攻撃します。そして、それに対抗してエリック・サティの音楽を「雄鶏」という言葉で擁護したのです。「これからの音楽は、シンプルで素朴なものが求められる」という主張でしょうか。具体的には、サティの周辺に集まった作曲家たち、いわゆる「六人組」のメンバーの音楽を支持するという表明です。
この主張は、第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパ文化に対する一つの指標として、「六人組」、あるいはフランス音楽のみならず、他国の作曲家にも大きな影響を及ぼすことになりました。そんな時代の一つの流れを、ここでは「アルルカンの年」と言っているのです。
このアルバムでは、そのような時代に活躍した11人の作曲家のフルートのための作品が紹介されています。それらの作曲家は必ずしも「六人組」のシンパだけではなく、ワーグナーやドビュッシーの信奉者も含まれていますから、作風は必ずしもコクトーの主張に沿ったものとは限らないあたりが、ユニーク、その中には、世界初録音のものもありますから、とても興味深い内容となっています。
取り上げられているのは、「六人組」の中からはオネゲル、ミヨー、オーリック、プーランクの4人、そこにフランス人のブレヴィル、ルーセル、デュカス、イベール、さらにフランス以外のタンスマン(ドイツ)、ハルシャーニ(ハンガリー)、アンタイル(アメリカ)が加わります。
最初を飾っていたのが、初めて名前を聞いたフランスの作曲家、ピエール・ド・ブレヴィルの「Une flûte dans les vergers(果樹園のフルート)」という、曲自体も初めて聴く(世界初録音)ものです。まずは、フルートだけで始まるのですが、その時に聴こえてきた高音の美しさに、驚かされてしまいました。それは、まるで日本の篠笛のような素朴な響きの中に、言いようもない魅力を秘めていたのです。途中からはピアノも入ってきますが、その絡みも絶妙です。これは、新しいレパートリーになるかもしれませんね。
ところが、聴き進んでよく知っている曲になると、なにか音楽がもっさりとしていることに気づきます。とても生真面目に演奏しているのですが、それが自然な流れを遮っているのですね。さらに、低音になるととても空虚な音のように聴こえてきます。ピッチもこのあたりは低め。
ライナーの中にこのロールダというフルーティストはカルク=エラートの作品も録音しているとあったので、確かめてみたら、しっかりこちらで聴いていました。確かに、この時にはテクニックは素晴らしいものの、音にはなじめませんでしたね。
実際、今回も聴き続けているうちにその不思議な低音と、だらしない歌い方にはだんだん我慢が出来なくなってしまいました。
とは言っても、プーランクのリコーダーとピアノのための作品「Villanelle」をピッコロで演奏したものとか、こちらも初録音のバルトークやコダーイの弟子のハルシャーニの「フルートとピアノのための3つの小品」などは、とても魅力的、ぜひ他の演奏家でも聴いてみたいものです。

CD Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd


6月13日

BRUCKNER
Symphony No.4
Andris Nelsons/
Gewandhausorchester Leipzig
DG/479 7577


現在40歳のラトビア出身の指揮者アンドリス・ネルソンスは、かつてはそれほどのカリスマ性は感じられない普通の指揮者だったような気がしますが、最近になって俄然その存在感を見せつけるようになってきたのではないでしょうか。なんせ、現在はボストン交響楽団とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団という最高ランクの2つのオーケストラの指揮者を任されているのですからね。さらに、来年のウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」の指揮者に決定しているぐらいですから、もはやだれにも負けないステータスを手中にしていると言えるでしょう。
レコーディングでは、現在はDG(ドイツ・グラモフォン)の専属アーティストとして、シェフを務める2つのオーケストラと、それぞれ別の作曲家の交響曲のツィクルスを逐一制作中です。ボストン交響楽団とはショスタコーヴィチ、ゲヴァントハウス管弦楽団とはブルックナーです。
さらに、ウィーン・フィルとも、こちらはなんとベートーヴェンのツィクルスが進行中です。まだCDはリリースされてはいませんが、すでに2016年から録音は始まっていて、ベートーヴェンの生誕250年にあたる2020年に、おそらく全集という形でまとめてリリースされるのではないでしょうか。同時に、その年にはウィーンでコンサートも開催されるそうです。もはや、DGにとってはかつてのカラヤンやバーンスタイン並みのアーティストと同じ扱いになっているのでしょう。
今回は、2017年に録音され、2018年にリリースされていたブルックナーとしては第2弾にあたる「交響曲第4番」を聴いてみました。まずは、レコーディング・エンジニアをチェックです。それこそ、カラヤン、バーンスタインの時代では自社のエンジニアがトーンマイスターを務めるのは当たり前だったのですが、もはやこのレーベルはそのような制作の現場は完全に「下請け」に任せるようになってしまいましたから、それぞれに別のエンジニアが担当しています。ネルソンスの場合も、ボストン交響楽団との録音では、そのオーケストラの専属エンジニア、ニック・スクワイヤがクレジットされていましたが、ゲヴァントハウスでは、なんと「ポリヒムニア」のスタッフが参加していましたよ。
「ポリヒムニア」というのは、かつてのPHILIPSのエンジニアが集まって作った録音チームです。当然、そこではPHILIPSレーベルのトーンポリシーが貫かれているはずですから、かつてのDGではまず考えられないことが起こっていることになりますね。
もっとも、最近では、たとえばバーンスタインのベートーヴェン全集のBD-Aへのリマスタリングなどは、ポリヒムニアが行っていますし、DG からのライセンスでPENTATONEからリリースされているマルチチャンネル盤(たとえばクーベリックのベートーヴェン)なども、当然リマスタリングはポリヒムニアですから、最近ではある程度のつながりは生まれていたのでしょう。
ただ、最初の録音から手掛けるというのは、初めてお目にかかりました。これはかなりショッキング。とは言っても、出来上がったものは、ネルソンスが作り上げようとしている、まさに新しい時代のブルックナーにふさわしい、とてもクリアな音に仕上がっていました。彼のブルックナー(第2稿ノヴァーク版)は、派手に鳴らすところは鳴らしきる半面、とても静かなところではほとんど聴こえるか聴こえないほどまでに静かな音を出させています。そんなメリハリのきいた音楽が、ここでは見事に再現されています。第3楽章の冒頭で、ホルンがはるか彼方から聴こえてきたと思っていたら、見る間にすぐそばに近づいてきたような錯覚に陥ったのは、もしかしたら録音上の仕掛けがあったのかもしれませんね。
このツィクルスでは、必ずワーグナーの小品がブルックナーの前にカップリングされています。今回は「ローエングリン」の第1幕への前奏曲。そのサクサクとした運びが、アルバム全体の雰囲気を予感させているようです。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


6月11日

Live in Tokyo. 2016
Denis Bouriakov(Fl)
石橋尚子(Pf)
LIVE NOTES/WWCC-7839


昨日、来日中のフルーティスト、デニス・ブリアコフのリサイタルに行ってきました。2009年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場のオーケストラの首席奏者に就任したと思っていたら、いつの間にか(2015年)ロサンゼルス・フィルの首席奏者になっていたのですね。
メイン・プログラムは、なんとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をフルートで演奏する、というものでした。以前シベリウスを聴いた時もショッキングでしたが、今回はさらに難易度の高いチャイコフスキー、それが生で聴けたのですから、それはもう圧倒的、聴き終わった後はほとんどめまいがするほどのクラクラとした感じに陥ってしまいましたよ。低音から高音まで全くムラのない響き、どんなに細かい音符でもすべて聴き手に届けることができる信じられないテクニック、彼は間違いなく、並みのフルーティストとは一線を画した高みに到達しているのだ、と確信しました。
その時に会場で販売していたのが、このCDです。2016年の東京でのリサイタルのライブ録音でした。国内盤の新譜はほとんどチェックしていないので、こんなものがあったことをすっかり見逃していました。
この中には、おそらく当日の曲目が、アンコールも含めて全て収録されているのでしょう。ごく普通のフルート・リサイタルで演奏されるような曲が並んでいます。
最初は、かつては多くのフルーティストがこぞって演奏していたヘンデルのロ短調のソナタです。それは、とても端正な中にも、余裕をもってバロックのヴィルトゥオーシティを見せつけてくれるものでした。
そして、シャミナードの「コンチェルティーノ」、サン=サーンスの「ロマンス」、ユーの「ファンタジー」といった「定番」が続きます。もう、それらは、様々のレベルの演奏を耳にタコができるほど聴いてきましたが、まるで次元の違う音楽が聴こえてきます。完璧に磨きこめば、ここまでのものが出来るのかといいう驚きがありました。
そして、おそらくこのリサイタルのメインと思われる、フランクのソナタです。もちろん、これはヴァイオリンとピアノのための作品をフルートで演奏したものですが、ブリアコフの手にかかるともはやフルートのオリジナル曲としてしか聴くことが出来なくなってしまうほどです。これも、競合盤はたくさんありますが、その最上位に置かれるものでしょう。特に、ゆっくりした第3楽章の息も詰まるような緊張感は、たまりません。ただ、このトラックの1:13あたりから数秒間、録音機材のトラブルによるノイズが聴こえます。ライブでの事故ですから仕方がありませんが、何らかのコメント(言い訳)は必要でしょうね。商品ですから、何もしないで良いわけはありません。
ここまでで、もう十分彼の魅力を堪能したと思っていたら、その後にもっとすごいものが待っていました。それは、サン=サーンスが作った「6つの練習曲 Op.52」というピアノのための練習曲集の6曲目「ワルツの形式で」を、ブリアコフ自身がフルートとピアノのために編曲したものです。ここで、ブリアコフは昨日のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と同じ「クラクラ感」を味わわせてくれたのです。フルートでは絶対に吹けないだろうということを、軽々とやっているのですから、もう脱帽です。
その後のアンコールでも、ショパンの「幻想即興曲」をピアノとフルートに編曲して演奏してました。彼の場合は、そのような編曲のスキルもあるのですから、もうなんだって彼にしか吹けないような超難度の曲に仕上げることが出来てしまいますね。
それはそれですばらしいことなのでしょうが、昨日のチャイコフスキーでは、真ん中の楽章があまりにあっさりしていたのには、軽い失望感がありました。これは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いた時にも感じたことです。
そもそも、そういうものはヴァイオリン以外では演奏できないのかもしれませんね。いや、ゴールウェイだったら、あるいは完璧な演奏が聴けたかも。

CD Artwork © Nami Records Co., Ltd


6月8日

GADE
Erlkönigs Tochter, Fünf Gesänge
Sophie Junker(Sop), Ivonne Fuchs(MS)
Johannes Weisser(Bar)
Lars Ulrik Mortensen/
Danish National Vocal Ensemble
Concerto Copenhagen
DACAPO/8.226035


デンマークの作曲家ニルス・ゲーゼが1854年に作曲し、最終的には1864年に改訂を行ったカンタータ、「妖精王の娘」の最新録音(2017年)です。このレーベルには、すでに1996年に録音された全曲盤があったのですが、今回は1864年版の最新のクリティカル・エディションによる世界初録音です。さらに、以前の録音はデンマーク語で演奏されていましたが、これは1855年に出版されたドイツ語版による、やはり世界初録音になっています。
ゲーゼの一世代前のデンマークの作曲家クーラウが1828年に「妖精の丘」という劇音楽を作っていますが、デンマーク人にとっては「妖精」というのはなじみ深いタームなのでしょうね。
今回はドイツ語版ということで、タイトルもドイツ語で「Erlkönigs Tochter」となっているのですが、その「Erlkönig」というのは、有名なシューベルトの歌曲「魔王」のオリジナルのタイトルですよね。実際に、今回のゲーゼの作品の中でも、状況は全く違いますが、シューベルトの曲の中で印象的な「Mein Sohn(息子よ)」という言葉が頻繁に聴こえてきます。ですから、シューベルトも「魔王」ではなく「妖精王」というタイトルに変えてほしいと要請したいと思います。
物語は、デンマークの中世のバラード(叙事詩)をもとにしたもので、こんなあらすじです。
領主オーロフは翌日に自分の結婚式を控えていますが、もう一人招待客を呼びたいと、自ら馬に乗って出掛けて、連れてくることにします。もう日も落ちたので、母親は盛んに心配し、通り道にある妖精の丘には、くれぐれも近づかないように助言します。
しかし、オーロフは妖精の丘に入ってしまいました。やがて遠くから妖精たちの声が聴こえたかと思うと、妖精王の娘が、オーロフに体を摺り寄せて「一緒に踊りましょうよ」と誘惑を仕掛けます。オーロフがそれを拒絶すると、娘は「断ると、血を見ることになるよ」と迫ります。
次の朝、オーロフの母親は、お城の門の前に立って息子の帰りを待っています。そこに、青ざめた顔で馬に乗ったオーロフが帰ってきます。しかし、彼は母親の前でこと切れてしまいます。
ゲーゼは、この物語をあくまで「カンタータ」という形でまとめ上げました。そこで重要な役割を果たすのが、合唱です。まるでバッハの「カンタータ」のように、曲全体の最初と最後には、オーケストラ伴奏の合唱によって、シンプルなメロディのコラール風の歌が歌われるのです。それは、最初も最後も、音楽素材は全く同じものを使うことによって、統一感を図っています。これを歌っているデンマーク国立ヴォーカル・アンサンブルは、とても澄みきってはいるものの、いくぶん土俗的な響きも残した声を駆使して、とても深みのある音楽を作り上げています。そして、バックにはピリオド・オーケストラのコンチェルト・コペンハーゲンが控えていますが、ここでは「ロマン派」のピリオド楽器を使っていますから、例えば鳥の声を模したフルートなどは、あくまでアクロバティックなオブリガートを提供してくれています。
そして、3つの場面に分かれた物語の中では、ソリストたちが、それぞれにドラマティックな歌を聴かせてくれます。ノルウェーのバリトン、ヨハンネス・ヴァイセルのオーロフは、最初のころはちょっと頼りのない感じがしますが、徐々にテンションが上がっていき、最後の臨終の場面などは圧倒的な表現力を披露しています。ドイツ系スウェーデン人のメゾソプラノ、イヴォンネ・フックスの母親は淡々と母親の情感を歌っています。そして圧巻はベルギーのソプラノ、ゾフィー・ユンカーの妖精王の娘です。彼女の歌う誘惑の歌は、もう艶めかしいのなんの。妖しさと恐ろしさが見事に伝わってきます。
カップリングの合唱団だけのア・カペラで歌われる、ゲーゼのライプツィヒ時代の「5つの歌」は、まるでメンデルスゾーンのような、ドイツ・ロマン派の合唱曲そのものです。

CD Artwork © Dacapo Records


6月6日

VAUGHAN WILLIAMS
A Cambridge Mass
Olivia Robinson(Sop), Rebecca Lodge(Alt)
Christopher Bowen(Ten), Edward Price(Bar)
Martin Ennis(Org)
Alan Tongue/
The Bach Choir, New Queen's Orchestra
ALBION/ALBCD020


「トマス・タリスの主題による幻想曲」、あるいは「南極交響曲」という、とても難しい曲(それは「難曲」)を作ったことで知られているイギリスの作曲家、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは、宗教曲も数多く残しています。その中で、1922年に作られた4人のソリストと無伴奏の二重合唱のための「ミサ曲ト短調」は、それこそタリスの時代を彷彿とさせるシンプルなテーマを穏やかなハーモニーとポリフォニーで包みこんだ名曲です。それは、主にイギリスの音楽家によって数多く録音され、そのCDもたくさんリリースされています。
それとは別にもう一つ、彼には「ミサ曲」というタイトルの作品があります。1872年に生まれたヴォーン・ウィリアムズは、1890年に王立音楽院に入学して、イギリス近代音楽の始祖とも言えるヒューバート・パリーの下で学び始めますが、1892年からはそれと並行してケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで音楽と歴史を学びます。そこで、博士課程の課題として作られたのが、その「ケンブリッジ・ミサ」です。
それは1899年には完成し、彼は晴れて博士号を獲得します。この時期、彼はベルリンでマックス・ブルックにも師事していますし、もう少し後にはパリでモーリス・ラヴェルにも師事するのですから、とても勉強家だったのですね。
しかし、この作品が初演されるのは、それから1世紀以上も経った2011年のことでした。その、「世界初演」の時のライブ録音が、このCDです。指揮者は楽譜の校訂を行ったアラン・タング、彼は、チェリビダッケやロバート・ショーに師事し、かつてはBBCのプロデューサーだったという、イギリス音楽のスペシャリストです。
この「ケンブリッジ・ミサ」は、後の「ミサ曲ト短調」とは、声楽の編成が4人のソリストと二重合唱であること以外は、多くの点で異なっています。まず、こちらには大編成のオーケストラが加わります。そして、曲の構成も、通常の「ミサ曲」では必ず演奏される「キリエ」、「グローリア」、「アニュス・デイ」が丸ごとカットされているという大胆さです。
つまり、ヴォーン・ウィリアムズは典礼のための「ミサ曲」を作るつもりはさらさらなく、あくまでコンサート用のピースとして多くの聴衆に向けての曲を作ったのでしょう。テキストが短いにもかかわらず、全体の演奏時間も45分と、「ト短調」の25分を大きく上回っています。
ですから、曲はいきなり金管楽器の華やかなファンファーレに導かれて「クレド」から始まることになるのです。これは全体が4つの曲に分かれていて、その最初の「Credo in unum Deum」そんな華やかさの中で、重厚な合唱が活躍します。続く「Qui propter nos homines」では、4人のソリストも加わってまるでヴェルディの「レクイエム」のような壮大な世界が広がります。最後近くの「Crucifixus」というキリストが十字架にかけられるシーンもとてもドラマティック。
さらに、テノールソロとトランペットのファンファーレで導かれる復活のシーン「Et resurrexit tertia die」は、派手なフーガが合唱によって歌われます。そしてアタッカで、「Amen」のフーガへと突入します。
次はオーケストラだけで演奏される「Offertorium」という楽章です。ソナタ形式で作られた10分ほどの曲で、その第1主題は先ほどの「Et resurrexit tertia die」がそのまま使われています。第2主題は、ピチカートをバックに木管楽器が美しく歌う、ほのかにブラームスのテイストが感じられる部分です。
そして、「サンクトゥス」、「オサンナ」、「ベネディクトゥス」のあと、「オサンナ」が繰り返されて全曲が終わります。その後には、ライブならではの拍手が1分近く入っています。
アンコールでは、ヴォーン・ウィリアムズの恩師パリーがここで演奏しているバッハ合唱団のために作った「Brest Pair of Sirens」という、ワーグナーの「マイスタージンガー」によく似た感じの勇ましいオーケストラ付きの合唱曲が歌われています。

CD Artwork © Albion Records


6月4日

冗談音楽の怪人・三木鶏郎
ラジオとCMソングの戦後史
泉麻人著
新潮社刊(新潮新書)
ISBN978-4-10-603842-6


この間テレビを見ていたら、「僕は特急の機関士で」という、もはや記憶の彼方にある歌の歌詞の一部を埋める、という問題が出ていました。
僕は特急の機関士で
可愛い娘が駅ごとに
いるけど3分停車では
○○するヒマさえありません
この「○○」に言葉を入れるのですが、その時の解答者には分からなかった答えが即座に分かってしまったのには、我ながら驚いてしまいました。もちろん、その曲が作詞も含めて三木鶏郎という作曲家の作品だったことも、しっかり覚えていました。しかし、3分もあれば楽々○○ぐらいはできてしまうのでは、と思ってしまいますけどね。でも、なんたってこの「特急」のモデルとなった「つばめ」は、東京―大阪間を8時間もかけて走っていたそうですし、なんと、途中の浜松では電気機関車から蒸気機関車に変わってしまうというのですから、時間はいまよりずっと緩やかに流れていたのでしょう。
なんてことを考えていたら、数日後に新聞広告でこんな本が出ていることを知って、さっそく入手してみましたよ。
現物を手にすると、「帯」には「伝説の傑物、初の評伝」とありました。ですから、さぞや体系的な「評伝」なのかと思って読みだすと、初めのあたりは鶏郎が作ったアニメの主題歌などを巡る著者の想い出などを綴ったエッセイのようなものが続きます。そして、半分近く読み進んだところで、初めて「評伝」らしいものが登場するという構成になっていました。この本の元になった原稿は、月刊誌に連載されていたものだそうですから、もしかしたら最初のうちは軽く何本かのエッセイを予定していたものが、途中で本格的な評伝にしてみようと思い始めたのかもしれませんね。
いずれにしても、この著者ならではのマニアックな筆致には圧倒されます。おそらく著者のところには、書籍やソノシートなどの「原資料」が数多く収集されているのでしょうね。さらに、放送台本の現物などにもアクセス出来ていますし、必要であれば実際に当時の関係者とのインタビューを行ったりと、そのフットワークの軽さには舌を巻きます。
そんなリサーチの結果見えてきたのは、単なる評伝ではなく、鶏郎の活躍のエリアを切り抜くことで明らかになったあの時代の世相の生々しい姿そのものでした。そこからは、敗戦を迎えてアメリカ軍に占領された放送局の社屋の中から、それまでには日本には存在してはいなかった音楽バラエティのラジオ放送を発信させていく様子が、とても生き生きと浮かび上がってきます。それぞれの登場人物のキャラが際立っているのですね。
ただ、ここでは、彼の音楽的なルーツが、いまいち伝わってきません。確かに、学生時代に多くのレコード(ほとんどがクラシック)を聴いたとか、ヴァイオリン、ピアノ、声楽のレッスンを受けたという話は紹介されていますが、肝心の作曲家としての素養が、どのように形作られてきたのかが、よく分からないのですよ。
そこで「山下達郎のBrutus Songbook」などを引用しているあたりは、達郎同様、アカデミズムとは無縁のところで自ら作曲のノウハウを身に着けたことを示唆しているのかもしれません。
最後のあたりに、先日「実写版」が公開されたディズニーの「ダンボ」が初めて日本で公開された時の吹き替え版(当時は「日本語発声版」)を制作した時の話が載っています。そんな仕事もやっていたんですね。アメリカからわざわざ吹き替え担当の監督がやってきて、声優のオーディションから関わっていたなんて、すごいですね。
ところで、「そう」で文章が始まると、「そうなんですよ」というニュアンスを感じてしまいますが、それでこの本を読んでいくと最後がつながりません。著者は「そういえば」という意味で使っているということに気づきませんでした。そう、そんな使い方がありましたね(これはどっち?)。

Book Artwork © SHINCHOSHA Publishing Co., Ltd.


6月1日

L.MOZART
Missa Solemnis
Arianna Vendittelli(Sop), Sophie Rennert(Alt)
Patrick Grahl(Ten), Ludwig Mittelhammer(Bas)
Alessandro de Marchi/
Das Vokalprojekt(by Julian Steger)
Bayerische Kammerphilharmonie
APARTE/AP205


今年、2019年は、レオポルド・モーツァルトの生誕300年にあたるのだそうです。ご存知、あのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの父親ですね。息子の音楽的な才能を見出して、小さいころから英才教育を施したということで有名ですが、彼自身の作品に関しては、「おもちゃの交響曲」の作曲家(最近では、それすらも怪しくなっています)、ということ以外ではまず語られることはありません。
そんな中で、生誕300年に便乗して、彼の「ミサ・ソレムニス」の久しぶりの録音の登場です。これは、かつては息子の作品としてケッヘル番号まで付けられていました。それなのに、後の研究でレオポルドの作品であることが分かり、新全集ではリストから外されているのだ、と、巷では説明されていますね。
しかし、この「ミサ・ソレムニス ハ長調」は、それとは全く別の音楽のように見えます。その「K.115」というのは、4声部の混声合唱とオルガンのために作られたハ長調のミサ曲なのですが、「Kyrie」、「Gloria」、「Credo」と続いた後、「Sanctus」の9小節目で作曲が終わっています。しかも、楽譜は全て合唱のために書かれていて、ソリストのパートは存在しません。それに対して「ミサ・ソレムニス」では、伴奏はオーケストラですし、曲の構成も全然違います。もちろん、テキストはミサの典礼文が最後まで作曲されています。さらに「Gioria」や「Credo」は何曲かに分かれていてそれぞれ合唱やソロ、アンサンブルとバラエティに富んだ音楽が続いています。
ただ、例えば「Gioria」の最後の「Cum Sancto Spiritu」や、「Credo」の中の「Et incarnatus est」、「Et resurrexit」などは、合唱の部分は確かに全く同じ音楽です。ですから、このK.115は、「ミサ・ソレムニス」を作る際の下書きだったのではないかと言われています。
この曲は1981年6月9-12日に、KOCH SCHWANNレーベルによって世界で最初に録音されました。演奏はローランド・バーダー指揮の聖ヘドヴィッヒ大聖堂合唱団とドームカペレ・ベルリン、そしてアーリン・オージェーなどのソリストです。
それ以来、この曲を録音した人はいなかったようですが、2004年にCARUSからクリティカル・エディションが出版され、生誕300年ということで満を持して録音されたのが、このCDということになるのでしょう。
まずは、そのオーケストラの編成に注目です。基本的には、弦楽合奏にトランペットとホルンがそれぞれ2本ずつ加わった形です。さらに、通奏低音とティンパニが加わります。そして、ソプラノのアリアとなっている「Benedictus」だけには、なぜかフルートのオブリガートが付いているのです。全部で50分ほどかかる曲の中で、ほんの5分程度の出番だけのためにフルート奏者が待機していたことはまず考えられませんから、おそらくこれを最初に演奏したオーケストラに、弦楽器あたりでフルートも演奏できる団員がいたために、その人のため加えられたパートだったのではないでしょうか。先ほどのCARUSの楽譜では、「フルートかヴァイオリン」という注釈がありましたね。もちろん、今回のCDはセッション録音ですから、この部分だけのためにフルート専門の奏者が用意されていました。
そして、通奏低音が入っているというのも、レオポルドが活躍していた時代の音楽が反映されています。これは、一応オルガンを想定して作られていたのでしょうが、このCDでは、同じ奏者がオルガンと、曲によってはチェンバロを演奏しています。このチェンバロが、「Crucifixus」の前奏でティンパニとトランペットに重ねられてパルスを演奏している箇所があるのですが、それはなんとも神秘的な響きとなっていました。
間違いなく、レオポルドの作曲の才能も息子に劣らずかなりのものであったことが分かる素晴らしい作品ですが、このCDではそのコロラトゥーラに対応できていないソプラノのソリストと、あまりに消極的な歌い方に終始している合唱のせいで、その真価を伝えるには至っていませんでした。

CD Atrwork © Little Tribeca, Bayericher Rundfunk


5月30日

Estonian Incantations 1
Ain Agan, Paul Daniel, Andre Maaker, Marzi Nyman(Guit)
Weekend Guitar Trio
Kaspars Putniņš/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
TOCCATA/TOCN0002


全く聞いたことのない作曲家のアルバムを数多くリリースしてきたイギリスのマニアックなレーベルTOCCATAが、「TOCCATA NEXT」という新シリーズを始めました。これは、特定のテーマに基づき、多くの作曲家の作品をコンパイルすると同時に、ジャンルを超えたレパートリーも紹介する、というものなのでしょう。
その最初のリリース分の中に、プトニンシュ指揮のエストニア・フィルハーモニック室内合唱団が参加しているアルバムがありました。とは言っても、ここでのメインは「ギター」なんですけどね。
このアルバムの中で演奏されているのは、全て世界初録音となる、ギターと合唱とのコラボレーションの結果生まれた作品たちです。それらを委嘱したのは、エストニアの南部にあるヴィリャンディという街で行われている「ヴィリャンディ・ギター・フェスティバル」と、その芸術監督であるギタリストのアイン・アガンです。アガンは、気心の知れた4人のエストニアの作曲家たちに、それぞれに全く異なるコンセプトの作品を作らせました。
まずは、1975年生まれのタウノ・アインツの「Vista(鞭打ち)」です。あいつは作曲家であると同時にポップス・バンドのキーボード奏者も務めていて、器楽と合唱の両面で作曲や編曲を数多く行っています。そこではトルミスの男声合唱曲をメタル・バンドと共演させたりしています。
この曲は、アインツがエストニアの各地に伝わる民俗的な詩を集めた「Estonian Incantations(エストニアの呪文)」という本に触発されて作られました。そのタイトルが、そのままアルバムタイトルにもなっています。編成は、合唱にマルチ・ナイマンのエレクトリック・ギターのソロが加わります。「鞭打ちへの呪文」と「痛みへの呪文」という2つの楽章から成り、「協奏曲」というサブタイトルが付いています。
最初の楽章は、まるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような変拍子でリズミカルな曲。ギターはほとんど合唱のバッキングに徹しているようですが、時折見せるソロは、リバーブをきかせたかなりヘビーでダークなものです。
次の楽章になると楽想はガラリと変わって、ほとんど癒し系と化します。合唱はあくまで清らか、ギターもリリカルなフレーズで応えます。最後のあたりでは、合唱に「ホーミー」も加わっているでしょうか。
2曲目は、1956年生まれのスヴェン・グリュンベルクの「Kas ma Sind leian?(私はあなたを見つけようか?)」という、7弦のアコースティック・ギターと合唱のための作品です。アンドレ・マーカーのゆったりとしたギターのソロで始まり、全体が民謡のテイストに支配されている曲です。
3曲目は、3本のエレクトリック・ギターと合唱のための「See öö oli pikk(夜は長かった)」です。1966年生まれの作曲者のロベルト・ユルヘンダルは、ここで演奏している「ウィークエンド・ギター・トリオ」のメンバーです。ここでのギタリストたちは、「エレクトロニクス」というクレジットでそれぞれにシンセサイザーなども演奏しているようです。まずはそんな電子音で神秘的な雰囲気が醸しだされる中、シンプルなギターのフレーズの中を、合唱がゆるやかに流れていきます。後半には、宇宙的な壮大なサウンドが広がります。
4曲目は、1969年生まれのラウル・ソートの合唱と2本のギターのための「Vaikusestki vaiksem(沈黙よりも静かに)」です。ここでのギターは、先ほどのアイン・アガンのフレットレス・セミアコと、サウスポーのポール・ダニエルのエレキです。合唱は、まるでグレゴリア聖歌のような単旋律に、中世的なハーモニーを付けたシンプルなものですが、最後にはヴォイパのようなパフォーマンスも見せています。
そして、最後には、合唱が1曲目のアインツが「...teid täname(ありがとう)」で始まる歌詞に付けた短い曲を様々なアレンジで歌った後に、それぞれのギターたちが即興演奏で応えるという曲です。最後は全員のソロが静かに入り乱れ、アルバムも終了します。

CD Artwork © Toccata Next


5月28日

STRAUSS/Ein Heldenleben
BRAHMS/Alto Rhapsody
Yvonne Minton(MS)
Lorin Maazel/
Ambrosian Singers
The Cleveland Orchestra, New Philharmonia Orchestra
DUTTON/CDLX 7347(hybrid SACD)


1977年にマゼールが当時音楽監督を務めていたクリーヴランド管弦楽団と行った「英雄の生涯」の「4チャンネル」録音です。この頃になると、この録音方式のブームには陰りが見られるようになりました。たとえば、あのカラヤンは1970年代にはDGとEMIという2つの大レーベルに「二股」をかけていて、そのうちのEMIからは、かなりの数の「4チャンネル」のLPをリリースしているのですが、それは1978年1月の録音分で終わっていて、それ以降はEMIとの契約は続いているのに、もう普通のステレオのみになってしまいます。まあ、この時期はデジタル録音がメジャーレーベルでも実用化され始めますから、カラヤンの関心はそちらに移っていたのかもしれませんが。
しかし、マゼールはまだまだこの方式には大きな可能性を期待していたのでしょうか。今回のSACDには、オリジナルのジャケットを飾ったこんな写真を見ることが出来ます。
これは、まさにこの数年前にブーレーズがニューヨーク・フィルと行った「4チャンネル」録音と同じスタイルではありませんか。あの時とは微妙に配置が異なっていますが、指揮者の周りをプレーヤーが囲んでいるというのは同じです。
そのオリジナルのライナーノーツも、ここでは復刻されていました。それは、この作品の解説だったのですが、そこには「英雄の生涯」は「ソナタ形式」で出来ていると書いてあるのですね。そもそも、この作品についてはそんなに思い込みはないので、あまり深い知識はありませんでした。一応、6つの部分に分かれていて、それぞれに「英雄のなんたら」というサブタイトルが付いている、ぐらいは知ってましたから、それぞれの部分は、単にそういう設定を描写したものだ、と思っていました。今回改めて聴いてみると、確かに、その6つの部分は見事にソナタ形式の第1主題、経過部、第2主題、展開部、再現部、コーダに呼応していましたね。シュトラウスは、こうして曲を作っていたのでしょう。
しかし、そのようなサブタイトルはスコアには全く記されてはいないことも、最近知ることが出来ました。確かに、シュトラウス自身がそのようなものを表明したことはあったのですが、最終的には、それこそマーラーの「交響曲第1番」のように、全ての「表題」を取り去っていたのでした。ですから、現在では作曲家の意思とは離れて、慣例としてその表題がコンサートのプログラムやCDのライナーを飾っているということになるのでしょう。もっとも、ワーグナーの「ライトモティーフ」でも、それを「発見」したのはあくまで後の研究者で、作曲家自身はそんな言葉すら使ってはいなかったのですから、それと同じことなのかもしれませんね。
マゼールは、このサラウンドの音場を目いっぱい利用して、スペクタクルな音楽を展開していました。特に、普通の録音ではあまり目立たないハープは、本来は2台のところを4台に増員しています。それは、リアの右と左にくっきりと分かれていて、フレーズを受け継ぐ様子までがきっちり聴こえてきます。
そのハープは、確かに上の写真では指揮者の後ろにありますが、写真ではその右側にある木管群が、録音ではリアの左から聴こえてきます。これまでの録音でも見られたことですが、RCAの場合はミキシングの際に大幅に定位を操作しているのでしょう。ですから、弦楽器も写真では全て指揮者の前に並んでいますが、実際には曲の冒頭でチェロやコントラバスが右後方から聴こえてくるというサプライズが待っています。いわゆる「英雄の戦場」でのトランペットのバンダも、はるか後方から聴こえてきます。
カップリングが、ロンドンで録音されたニュー・フィルハーモニア管弦楽団との、ブラームスの「アルト・ラプソディ」です。これは、アメリカでの録音とは全く異なるしっとりとしたサウンドでした。そして、音場もリアは残響だけで、楽器も合唱も全てフロントに半円状に広がるというノーマルなものでした。

SACD Artwork © Vocalion Ltd


さきおとといのおやぢに会える、か。



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