バイエル放送交響楽団。.... 佐久間學

(10/8/2-8/21)

Blog Version


8月21日

クラシック侍
杉ちゃん & 鉄平
FOXTROT/AVCA-29821

「ホフヌング音楽祭」とか「P.D.Q.バッハ」、あるいは、それらをパクッた「山本直純」など、昔からクラシック音楽をネタにして楽しく遊ぼう、という試みはたくさんありました。アイディアとしてはかなり陳腐な、例えば似たようなメロディをクラシック以外のところから持ってきて、元のクラシックの中に挿入するといったような他愛のないものなのですが、それが見事にハマると思いがけないほどの「笑い」が生まれます。正直「P.D.Q.」のネタなどは殆どワンパターンなのにもかかわらず、それがあまりに突拍子のない組み合わせだったりするものですから、無防備に聴いていると思わず爆笑しかねません。もし電車の中でヘッドフォンで聴いていたときにそんな姿をさらけ出すと、車内の全員から奇異の視線を浴びることになってしまいますよ。
そんなばからしいことは、直純で終わっていたのかと思っていたら、思いがけないところでその精神が脈々と生き延びていたのを知りました。それは、さるラジオでのトーク番組を聴いているときでした。いつもなら、新しいアルバムをリリースしたアーティストがやって来て、出来たばかりのCDを作るときにどんな気持ちだったのか、などという、どうでもいいようなことをしゃべっていくコーナーなのですが、そこで、そんな場には似つかわしくない「ヴァイオリン」の演奏などが聞こえてきたのですよ。やはり、同じようにニューアルバムのプロモーションなのですが、そこに、クラシックっぽいメロディが登場していたので、なんともびっくりしてしまいました。しばらく聴いていると、それは、かなり高度な仕掛けを施した、そんな「お笑いクラシック」だったのですね。
それは、岡田鉄平という、桐朋の大学院まで出て、コンクールの入賞歴もあるというヴァイオリニストと、杉浦哲郎という、小さい頃からピアノを学び、さまざまなバンドで編曲の「修行」を積んできたという経歴を持つピアニスト兼アレンジャーの二人から成るユニット「杉ちゃん & 鉄平」でした。2004年に、「お笑い」に特化したクラシックを演奏するために結成されたもので、今までにすでに数枚のアルバムを出していたのですが、あいにくそれには気づかずに、やっと、この最新アルバムできちんとご対面です。
今回のコンセプトは、タイトルからも分かるように、「江戸時代にクラシック音楽が伝わってきたら、こんなものになったのでは」というようなものだそうです。確かに、江戸時代といえばまさに「クラシック」の時代そのもの、バロックからロマン派までをカバーしていますからね。でも、「ロマンポルノ」じゃないですよ(それは「エロ時代」)。
そして、その「仕掛け」は、というと、元のクラシックのメロディを日本風の音階(あるいは旋法)に置き換えて遊ぶ、というものでした。バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」のオブリガートを、なんともなよなよとした「小唄」風に変えてしまい、タイトルも「仏よ、人の望みの喜びよ」と変えるというセンスは、なかなかですね。まあ、それは「そんなものか」とあしらえるほどの出来だったのですが、同じような手法で作られた「タイプライター侍」では、思わずのけぞってしまいましたよ。お察しの通り、これはルロイ・アンダーソンの「タイプライター」が元ネタ。あの忙しいメロディを「日本風」にすると、チャンバラ映画のBGMそっくりになってしまうのですね。原曲の「チン・シャッ」という音が、刀を鳴らす音に見事にシンクロするのですから、たまりません。もう一つ、ラヴェルの「ボレロ」が元ネタの「墓礼路」では、エンディングの「ラ♭・ソ・ファ・ミ♭・レ♭・ド」が、これほど「日本風」にハマるなんて、と、大爆笑でした。
でも、岡田さんのヴァイオリンはうま過ぎ。バッハの無伴奏パルティータでは、あまり演奏が素晴らしいので、どこで遊んでいるのか、殆ど分からないほどでしたよ。

CD Artwork © FOXTROT・jEo・J&K

8月19日

HISAISHI
"LAPUTA"Castle in the Sky
時任康文/
フィルハーモニック・ウィンズ 大阪
PRIVATE/YGMO-1009

「おやぢ」始まって以来の吹奏楽です。今や吹奏楽は教育現場では合唱を押しのけて普及が進んでいて、小学校あたりでも合唱団はなくともブラスバンドはちゃんとしたものが存在する、という、かつては考えられなかったような状況になっているのだそうです。
ですから、吹奏楽をやる人が増えれば、当然吹奏楽を聴く人も増えて来るはずで、今ではレコードやさんの店頭では「吹奏楽コーナー」が設けられるほど、多くのCDが出ています。にもかかわらず、これまでに2000点近くのアイテムをご紹介してきた「おやぢ」では、金管アンサンブルを除いては、この木管楽器と金管楽器(と、打楽器)だけによるアンサンブルを取り上げることはありませんでした。それは、ひとえに担当者が吹奏楽に対してあまりよいイメージを持っていないからなのです。特に、吹奏楽のオリジナル曲ではなく、普通のオーケストラ曲を吹奏楽に編曲したときの違和感には、耐えられないものがあります。吹奏楽には弦楽器がありませんから、そのパートをクラリネットやサックスといった管楽器で置き換えて演奏しているのが、そんな違和感の最大の原因です。なぜ、オリジナルの瑞々しい弦楽器の響きを、わざわざそんな代用品で聴かなければならなのでしょうか。
そんな吹奏楽をなぜ聴く気になったのかというと、それはここで指揮をしているのが時任康文さんだったからです。近々、個人的にこの時任さんの指揮で演奏する機会があるものですから、いったいどのような方なのか、興味がありまして。実際、ネットを探してもちゃんとしたプロフィール用の写真すらないものですから、そもそもどんなお顔をしている方か、というあたりから分からないものでして。
お顔に関しては、ブックレットに何点かの鮮明な写真がありましたので、リアルなイメージがわくようになりました。そこで、肝心の「吹奏楽」を聴いてみることになるわけです。
これは、2010年の4月に行われた、大阪にあるプロの吹奏楽団の演奏会のライブ録音です。前半にはレハールやシュトラウスの有名なオペレッタをモチーフにした作品、そして、後半には久石譲の「ジブリ」のテーマ音楽というラインナップです。覚醒剤ではありません(それは「アブリ」)。
オペレッタを編曲しているのは、鈴木英史さんという、この世界では有名な方(だそう)です。ここでは、オリジナルをそのまま吹奏楽に移すというのではなく、自由に「吹奏楽」のサウンドが最も生きるような形に直しているところに好感が持てます。ですから、クラリネットが朗々と弦楽器のメロディを演奏するというような場面が殆どないのには、安心させられます。さらに、重要なところで打楽器の活躍が目立つのも、新鮮な驚きです。マリンバあたりを大胆にフィーチャーしたそのサウンドは、とてもユニークに感じられます。でも、「メリー・ウィドウ」で「ワルツ」が登場しなかったり(アンコールでは出てはきますが)、「こうもり」とは本来無関係のはずの「雷鳴と電光」が半分近くを占めるといった、ちょっと不思議なセンスには、たじろいでしまいますが。
ここでの時任さんの指揮ぶりが、聴いていてとても気持ちの良いものでした。オペラでのキャリアがあるということは知っていましたが、アリアの歌わせ方とか、エンディングの盛り上げ方がとても堂に入っているのですね。おそらく、これは実際に指揮をされると、さらに気持ちのよいものなのではないでしょうか。楽しみになってきました。「チャイ4」の最後など、かなり盛り上がることでしょう。
ただ、「ジブリ」の方は、素材のつまらなさがもろに出てしまって、あまり楽しめませんでした。なぜ「もののけ姫」に、米良さんが歌ったあの歌が入っていないのでしょう。「ポニョ」って、「トトロ」とおんなじメロディなんですね。

CD Artwork © Philharmonic Winds Osakan

8月17日

PURCELL
Dido and Aeneas
Malena Ernman(Dido), Judith van Wanroij(Belinda)
Christopher Maltman(Aeneas), Hilary Summers(Sorceress)
Deborah Warner(Dir)
William Christie/
Les Arts Florissants
FRA MUSICA/EDV 1610(DVD)


こちらで予言していたように、パーセルの記念年であった昨年に、こんな素晴らしいDVDがリリースされていました。2006年5月にウィーンで初演されたオペラ・コミークとネーデルランド・オペラとの共同プロダクションが、200812月にオペラ・コミークで上演された時に収録されたものです。
そもそも、この作品では作曲家の自筆稿というものは紛失、正確な楽器編成も分からないし、あったはずの「プロローグ」も消滅しています。ですから、上演、あるいはレコーディングに際しては、演奏者なり演出家が何らかの手を加える必要が出てきます。ここでの指揮者、クリスティも、今までにこの作品を何度となく手がけていますが、そのたびに新しいアイディアを盛り込んできています。今回は、演出家のデボラ・ワーナーとともに、斬新なプロローグを付け加えていましたね。それは、歌手ではなく俳優(かなり立派な胸を持つ女優)が、ジーンズに胸の大きく開いたT-シャツという「現代」の衣装でテッド・ヒューズ、T.S.エリオットやイェーツの「現代」の詩を朗読する、というものでした。
音楽が始まると、主人公であるカルタゴの女王や、その恋人のトロイの王子たちは、それらしい時代の衣装で登場、それに対して、現代の制服を着た小学生ぐらいの女の子が群衆として参加したり、4人のマッチョな芸人が、なんとサーカスもどきのロープ芸を披露するといったあたりが、やはりそのような「現代」と「古代」という多層世界の混在を意図したものなのでしょう。確かに、ある意味荒唐無稽なプロットを隠すのには、それは見事な効果を上げています。
そう、前回のCDの時も触れましたが、「自らの誇りを守るためには、死をもいとわない」というこの物語のモチーフが、どうにもリアリティに欠けるものですから、そのあたりを映像ではどのように扱っているのか確かめたい、というのが、このDVDを購入した最大の理由だったのですよ。「音」だけで聴いていると、その「死」に至るプロセスが、いかにも唐突、いつの間にかディドは死の床にいるといった印象がぬぐえなかったものですから。
さすがに映像では、そのあたりは充分な説得力をもっていました。こちらで見られるように、かつては美しすぎたエルンマンのディドが、寄る年波には勝てず、首のあたりに浮き出る「筋」が、年相応の醜さを見せつけていたり、ジュード・ロー似の精悍なマスクのモルトマンのエネアスが、頭髪だけは大幅に後退していたとしても、遠目には話の進行を妨げるようなことはありません。ピクニックのシーンでの二人の恥かしくなるほどのいちゃつきぶりなどは、後の破局には欠かせない伏線として設定されているのでしょう。そして、問題の諍いのシーン。一度はディドと別れて故郷に帰る決心をしたエネアスが、「やっぱり、残るよ」と言っても、ディドは「行ってしまえ!」と、頑として聞き入れません。その時のエルンマンの表情の厳しいこと。これだけの拒絶にあってしまえば、いかにオトコがなだめすかしてもその怒りが収まるわけはありません。それは、誇りとかプライドを傷つけられたための怒り、といったかっこいいものではなく、ほとんど「あてつけ」に近いヒステリックなもののように見えてしまいます。これは怖いですよ。あまりの剣幕にエネオスはすごすごと退場してしまいますが、その直後にディドは、こんな時のために肌身離さず持っていた毒薬をあおって、ほんとに死んでしまうのですからね。
一度でも裏切ったものには、たとえ死を賭しても制裁を加えたいというオンナの「あてつけ」、色香の衰えたエルンマンだからこそ、そんな恐ろしさが、見事に伝わってきたのでしょう。
「ジョモ」と「エネオス」は、めでたく統合を果たしたというのに。

DVD Artwork © François Roussillon et Associés

8月15日

MAHLER
Symphony No.2(Version for two pianos)
Christiane Behn, Mathias Weber(Pf)
Daniela Bechly(Sop), Iris Vermillion(Alt)
Claus Bantzer/
Harvestehuder Kammerchor
MUSICAPHONE/M 56915


マーラーの交響曲第2番の「2台ピアノ版」というものの、なんと、世界初録音なのだそうです。もちろん、この原曲には第4楽章にアルトのソロ、そして最後の第5楽章にはそれに加えてソプラノソロと混声合唱が入りますが、それはオリジナル通りに用いられています。ですから、正確には「2台ピアノ、ソプラノソロ、アルトソロ、合唱版」ということになりますね。これは、実際のコンサートのライブ録音ですが、当然、合唱には指揮者が必要、そうなると、ソリストや合唱、そして指揮者がどのタイミングで入場しているのか、気になりませんか?
ところで、この指揮者、クラウス・バンツァーという名前が記憶の片隅にあったので調べてみたら、8年も前の「おやぢの部屋」でこんなCDを紹介していたのですね。ただの指揮者ではなく、作曲家でもあったのですよ。窃盗犯ではありませんが(それは「ピンク・パンサー」)。そして、その「ジャズ・ミサ」の演奏メンバーとして、ここでも演奏しているピアニスト、クリスティアーネ・ベーンの名前もありました。世の中、狭いですね。
実は、このベーンという方が、今回の「初録音」には大きく寄与されています。コンスタンティン・フロレスという人の書いたライナーノーツによると、この方のひいおじいさんのヘルマン・ベーンという人は、ハンブルク時代のマーラーの親友で、パトロンでもあった法律家でしたが、同時に彼はピアニストでもあり、さらにブルックナーやラインベルガーにも師事した作曲家でもあったのです。彼は、マーラーの楽譜の出版にも助力を惜しみませんでしたし、交響曲第2番のベルリンでの全曲初演にあたっても、多大の援助をしています。マーラーも、彼の作曲家としての能力を高く評価していたそうです。そして、出来たばかりの「2番」のスコアを、「もっとも安全だから」と、ベーンに託して、旅に出かけます。マーラーがいないときに、ベーンはこっそりそのスコアを2台ピアノ用に編曲していました。旅から帰ったマーラーにそれを見せると、彼は「すばらしい!」と狂喜乱舞、ベーンの家で3楽章までを一緒にピアノで弾いたのだそうです。
この楽譜は1895年、初演に先立ってフリードリヒ・ホフマイスターから出版、1910年にはウニヴェルザールからそのリプリントが出版されています。ただ、自筆稿は長い間ベーンの遺族のもとにあったものを、最近クリスティアーネが「発見」して、その「ハンブルク初演」を試みようとしたことから、この20081117日のコンサートとその録音のCD化が実現したのです。
と、なかなかドラマティックな背景を持つ版ではありますが、これを聴いたところで感じられるのは、現代とは全く異なる当時の音楽の聴かれ方でした。新しく作られた曲をフルオーケストラで演奏する機会などはそうそうありませんから、その曲を知るためにはこのような「代用品」は欠かせなかったのですね。「サラウンド録音」などで、かなり本物に近い体験を得られるようになるには、まだ1世紀ほどの時間が必要でした。
まあ、ふつうのオーケストラ曲であれば、それなりの補正をきかせて聴くことも可能なのでしょうが、この曲のように合唱が入ってくるとなると、それはちょっと困難になってきます。我々は、マーラーの指定した18型のオーケストラと拮抗出来るほどの大人数による合唱の深い響きをすでに知ってしまっています。そこに、こんな40人にも満たない薄っぺらな合唱を聞かされても、「しょぼい」と感じるだけなのですよ。しかし、2人の女声ソリストたちだけは、そんな大オーケストラがバックにいるつもりでがなりたてているものですから、フィナーレのバランスと言ったら、ほとんど収拾がつかないほどになってしまっています。
図らずも、マーラーの卓越したオーケストレーションの妙味を再認識した、というのが、今回の最大の収穫だったのではないでしょうか。

CD Artwork © Klassik Center

8月13日

BEETHOVEN
Symphonies nos. 4 & 6
Jan Willem de Vriend/
The Netherlands Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC72361(hybrid SACD)


マーラーの「巨人」のハンブルク稿で初めてその名前を知った指揮者のデ・フリエント(彼は、ヴァイオリニストとして有名だったんですね)とネーデルランド交響楽団とのコンビが、ベートーヴェンの交響曲の録音を始めたようです。その第1弾が「4番」と「6番」、なかなか渋いところです。
前回のマーラーでも、透明感あふれる録音には好感が持てましたが、今回もそれは裏切られることはありませんでした。その音の印象は、まるでかつての東ドイツの国営企業DEUTSCHE SCHALLPLATTENが、ドレスデンのルカ教会で行った一連の録音に見られたような、深さの中にも鋭さをたたえたものでした。そう、あのスイートナーやケーゲルの名盤で耳に焼きついている、まさに「いぶし銀」といった感じの音ですね。
もちろん、こちらは最新の高解像度デジタル録音なのですが、そのように「デジタル」を極めていくと、たどり着いたところがアナログ録音だったというあたりが、興味深いところです。ESOTERICから出ているアナログのマスターテープからのSACD、みたいな感じですね。
そんな、とびきりみずみずしい音の中から聞こえてきたのは、最近のベートーヴェン演奏ではもはや一つのスタンダードとなっている、モダン・オーケストラによる、限りなくピリオド楽器に近いものを目指す演奏、いわゆる「ピリオド・アプローチ」でした。弦楽器は出来ることならガット弦を使用し、ビブラートはかけないのが原則、金管楽器や打楽器はピリオド楽器そのものを使います。木管楽器は、メカニズムはモダンですが、フルートなどはより素朴な音色の木製の楽器に持ち替えることが、ここでは推奨されています。いや、ガラス製ではありませんよ(それは水晶)。さらに、その時代の奏法を採用すれば、当然フレージングなども聴きなれたものとは変わってくることでしょう。
そんなやり方を極限まで徹底させたことで知られているのが、ノリントンの指揮するシュトゥットガルト放送交響楽団でしょうね。ただ、彼らのベートーヴェンの場合、さらにその上に指揮者の強烈な個性が加わっていたため、エモーショナルな部分が突出して聞こえてきて多少真摯さには欠けるという印象は避けられませんでした。彼に限ったことではありませんが、本来は、当時の演奏習慣を踏まえた上で、作曲者が楽譜に書いたことを再現することを最優先に考えていると思われている「古楽器系」の指揮者が、実は軒並み自己表現に終始しているのには辟易してしまいます。もちろん、その最も醜い例が、あのアーノンクールであることは、言を待ちません。
その点、このデ・フリエントの場合は、楽譜(ライナーに記載はありませんが、デル・マー版であることは間違いないでしょう)が求めているものをまずきっちり音にしようという姿勢が強く感じられます。まさに、作曲家の意図を語らせることに全力を傾けるというやり方、それは、こういう風潮の中ではとても貴重なもののように思われます。
例えば、トランペットやホルンなどはナチュラル管を使うだけで全く違う音楽が生まれてきますから、それ以上の細工を弄するのはかなり余計なことなのだな、ということが、この演奏を聴くと良く分かります。ティンパニなども、楽器自体がすでに雄弁に語っています。特に「4番」の第1楽章に出てくるピアニシモでのロールが、とても軽いバチを使っているのでしょうか、まるでスネアドラムのように聞こえてきますよ。こんな表情豊かなティンパニなんて、聴いたことがありません。かと思うと、「6番」ではまさに「雷鳴」そのものの激しい音に、驚かされます。そういえば、この曲では、この楽章以外にはティンパニは使われてはいないのでしたね。2楽章での、弱音器を付けた弦楽器(これも、楽譜の指定)のテクスチュアも、この優秀な録音と相まって、ゾクゾクするほど伝わってきます。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

8月11日

FAURÉ
Requiem
Olesya Golovneva(Sop)
Klemens Sander(Bar)
Georges Prêtre/
Rundfunkchor Berlin
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
WEITBLICK/SSS0112-2


このWEITBLICKというレーベル、確かにドイツの会社には違いないのですが、そこから発売されているCDはほとんど日本国内に向けられたものだ、という点では限りなく「国内盤」に近いものだ、というあたりが実体なのでしょうね。
ですから、「輸入盤なのに、日本語のライナーを付けてくれた」などと喜ぶ必要など、さらさら無いことになります。逆に、そんな思い入れたっぷりの「感想文」などは、邪魔になることはあっても、決して役に立つものではないのですからね。それは、「帯」に印刷された、ただ闇雲に購買意欲を煽るだけという、なんとも志の低いコメントにも言えることです。「何というかムーディーな演奏なのです」なんて、これを書いた人はあとで読みかえして恥ずかしくはならないのでしょうか。さらに、その「帯」には、カップリングの曲名が「『夜想曲』(合唱付)」と、おかしな表記になっていますよ。いかにも「大サービスで、合唱も一緒についていますよ」みたいな、スーパーのチラシ的な発想、こんなことでありがたがるクラシック・ファンなんているのでしょうか。そもそも、まともなコンサートでドビュッシーの「夜想曲」が演奏されるときに合唱が入らないことなんて、まずありえませんし。しかも、このCDには、その合唱に関するコメントが(ソリストすらも)全くないというのも、困ったことです。最低限合唱指揮者の名前ぐらいはないことには。もちろん、録音された2007年3月の時点では、このベルリン放送合唱団の指揮者はサイモン・ハルジーのはずですけどね。
と、相も変わらずこの業界の「勘違い」には、すさまじいものがありますが、もちろんそんなものはCD自体の価値には何の関係もないことです。ここでは、そんな、まともに紹介もされていない合唱がなかなか充実していてとても楽しむことが出来ました。かなりの大人数のようですが、きっちり抑制のきいた歌い方に徹している各パートは、しっとりと落ち着いた「いぶし銀」のような輝きを発しています。
しかし、そんなきっちりとした「仕事」をこなしている合唱を預けられたというのに、指揮者のプレートルはなんともだらしない演奏に終始しているのがとても残念です。いや、「だらしない」などと言ったら熱狂的なファンには怒られてしまうかもしれませんね。それは、確かに起伏に富んだ極めてダイナミックな演奏には違いないのですが、テンポを大きく揺らしたり、フレーズの後半で大見えを切るといった、それこそメンゲルブルクの「マタイ」でも聴かされているような大時代的なテイストには、到底付いていけないのですよ。一番いけないのは、メンゲルブルクの場合はオケも合唱もしっかりその指揮についていっているというのに、プレートルの場合はかろうじてその意思が伝わっているのはオーケストラだけ(それでも、とても完全にコントロール出来ているという状態ではありません)だということ、合唱などはハルジーに仕込まれた全く別の、もっとすっきりとした音楽を目指しているのがはっきり分かってしまうのですからね。というか、プレートルは、この素晴らしい合唱を、勝手な思い入れでめちゃくちゃにしてしまっているのですよ。
さっきのしょうもない帯原稿には、「クリュイタンス以来の名盤」などという惹句が踊っています。しかし、その1952年に録音されたクリュイタンスの演奏は、当時はそれしかなかったこの曲のフル・オーケストラバージョンの楽譜をとことん追求して彼なりの一つの信念を結実させたものなのです。プレートルの演奏には、そこでまざまざと感じられた、すべてのパートにわたって存在していた確固たる方向性などは、薬にしたくてもありません(その「薬」って、暗い箪笥の中に入ってたりして)。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion

8月9日

BACH, VIVALDI
Concertos
Salvatore Accardo(Vn)
Severino Gazzelloni(Fl)
Maria Teresa Garatti(Cem)
I Musici
PENTATONE/PTC 5186 149(hybrid SACD)


PENTATONEというのは、さすがはもとPHILIPSの残党が作っただけあって、今はもう影も形もなくなってしまったそのオランダの名門レーベルのカタログの復刻も熱心に行っています。ただ、このレーベルは「マルチチャンネルのSACDでリリース」というポリシーを掲げているだけあって1970年代の「クワドロ」、つまり「4チャンネル・ステレオ」のマスターを使って、現代の「サラウンド」のソースを作るという「Remasterd Quadro Recording」、略して「RQR」というものを商品としてリリースすることになります。「クワドロ」という、昔懐かしい単語を引っ張り出してきたのが興味深いところです。カブトムシの仲間ではありませんよ(それは「クワガタ」)。ところで、PHILIPSは往年の「4チャンネル戦争」ではどの方式をとっていたんでしたっけね?
そんな、PHILIPSのアナログ録音のSACDへのマスタリング、今までに相当数(その中には、マズアとゲヴァントハウスのペータース版によるベートーヴェンの交響曲全集なども含まれています)のものがリリースされていたのですが、あいにくそれらを聴く機会はありませんでした。DECCADGでは、なかなかすごい結果が報告されている中にあって、かつてのPOLYGRAM仲間のPHILIPSがどの程度のクオリティのものなのか、最新リリースの「イ・ムジチ」を聴いてみることにしましょうか。
ただ、PENTATONEの場合、必ずしもオリジナルのカップリングやジャケットにはこだわらない方針のようですね。録音年月などは表記されていますが、ジャケットは全く新しいものに変わっています。曲目が、バッハのチェンバロ協奏曲、ヴァイオリン、フルート、チェンバロのための三重協奏曲、そしてヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲ということで、その3つのソロ楽器の一部がデザインされた、一見素敵なものです。ところが、タイトルで隠れる前の写真が、実はブックレットの裏表紙になっているのですが、フルートがこんなことになっていましたよ。

こんな風にキーが同じ位置に並ぶようにセットしたのでは、フルートを演奏することは出来ないのですよ。楽器のことを何も知らない人がデザインして、それをチェックできなかったという「非音楽的」なスタッフが作った商品、というのがミエミエなのですから、がっかりしてしまいます。
間違いはそれだけではなく、演奏者の名前のスペルが「Gazzellonii」とか「Accardoi」となっていますし、ブックレットの最後のページに掲載されている同じアーティストの既発売盤のリストで品番が全く別のものになっているのですから、そのお粗末さは度を超していませんか。これに比べれば、「1985年」なんて、かわいいものです(意味不明)。
SACDから聞こえてきたアナログ音源は、予想していたのとはちょっと違っていました。もっと上品でサラッとしたものをイメージしていたのですが、実際にはもっと骨太で、個々の楽器の音がしっかり聞こえてくるようなサウンドだったのです。これが本来の音なのか、「疑似サラウンド」の結果、いくらか変わってしまったものなのかは、元のLPを聴いたことがないので、なんとも言えません。
そんなはっきりした音の中でひときわ目立つのが、強靭なチェンバロです。特にバッハの協奏曲ではソロとして扱われていますが、それが録音されたのが1973年、この時代には、「バロック」といえども、当然のことのようにモダン・チェンバロが使われていたのですね。確かに、その頃の写真を見るとガラッティはいかにも頑丈そうなモダン・チェンバロの前に座っていました。

かつて、リアルタイムに「イ・ムジチ」を聴いていた頃には、彼らの演奏するバロック音楽の数々は、いとも優雅に聞こえてきたものでした。しかし、実体はこんなことだったのですね。昔あこがれていた年上の美しいお姉さん、しかし、大人になって改めて写真を見てみたら、それはいとも醜い厚化粧の女だった、そんな感じでしょうか。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

8月6日

SIBELIUS
Concerto in D minor
Denis Bouriakov(Fl)
Robin Davis(Pf)
BEEP/BP40


このレーベルは、イギリスのフルーティスト、ウィリアム・ベネットが自分の録音をリリースするために作ったものです。おそらく、ポーラ・ロビソンPERGOLAレーベルのように、過去に他のレーベルから出ていたものの管理なども行うような性格も持っているのでしょうね。今までは、国内ではムラマツとか山野楽器といった特定の店舗でしか入手できませんでしたが、やっと普通のルートで流通されるようになりました。ちなみに、このレーベルのエグゼクティブ・プロデューサーはベネット夫人の美智恵さん。彼女もやはりフルーティストで、さる日本人フルーティストと結婚していたのですが、なぜかベネットのもとへ走ってしまったという方です。昔のことですが。
カタログの中には、ベネットのソロだけではなく、弟子のデニス・ブリアコフと2003年に共演したバッハのドッペル・コンツェルトなどもありました。今回(と言っても、リリースは昨年のことですが)晴れてその「弟子」が一本立ちしたソロアルバムが「師匠」のレーベルからリリースされたことになります。それだったら、なんの支障もないでしょう。
1981年にウクライナに生まれたブリアコフは、モスクワの大学を卒業したのち、2000年からはイギリスの王立音楽院でベネットの教えを受けています。2004年に卒業後は、フリーランスのフルーティストとして活躍していましたが、2008年からはニューヨークのメトロポリタン歌劇場オーケストラの首席奏者を務めています。ロシア圏のフルーティストでこのようなインターナショナルなポストを獲得した人は、今までほとんどいなかったのではないでしょうか。
このアルバムは、すべてヴァイオリンのための作品をフルートで演奏しているという意欲的なものです。その目玉は、なんといってもシベリウスのヴァイオリン協奏曲でしょう。確か「師匠」もベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をフルートで演奏していましたね。シベリウスをフルートで吹いたのは世界初の試みなのだそうですが、これは、完璧なテクニックに裏付けされた、素晴らしい演奏です。特に、良く響く豊かな低音をフルに生かしての、まさにヴァイオリン顔負けの華麗な演奏には、舌を巻くほかはありません。さらに、音色の多彩なこと。単に力だけで迫るのではなく、実に表情豊かに歌ってくれています。時には、ヴァイオリンをしのぐほどのハッとさせられるような瞬間があって、その才能の豊かさを感じさせてくれます。
しかし、そんなブリアコフをもってしても、第2楽章のような息の長い音楽では、ちょっとヴァイオリンには太刀打ち出来ないようなところも見えてしまいます。でも、彼のことですから、将来はそんな限界を打ち破ることも可能なのではないでしょうか。さらに、ここではオーケストラではなく、ピアノによるリダクション伴奏になっています。ピアノのデイヴィスは確かにスケールの大きな演奏で頑張ってくれてはいますが、どうしてもシベリウスの持つ世界観が極めて限定された形でしか伝わってこないのも確か、そのあたりも含めて、さらに完璧な形になったものを、いずれは聴かせてくれることでしょう。
その他の小曲では、胸のすくような演奏が繰り広げられています。サン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」までもがフルートで出来てしまうのは驚きですが、中でもチャイコフスキーの「メランコリックなセレナーデ」が出色でした。文字通り「メランコリック」なテーマの歌わせ方が絶品、これはまさに「血」のなせる業でしょう。そして、エンディングの超ピアニッシモときたら、感涙ものですよ。
彼が日本の聴衆の前に初めて姿を現したのは、2007年のフルート・コンヴェンションの時でした。友人がその時の模様をこちらで熱く語っています。あわせてご覧下さい。

CD Artwork © Beep Records

8月4日

WAGNER
Scenes and Arias
Simon O'Neill(Ten)
Pietari Inkinen/
New Zealand Symphony Orchestra
EMI/4 57817 2


1971年にニュージーランドに生まれたワーグナー・テノール界の期待の星、サイモン・オニールのソロアルバムです。もちろん、曲目はすべてワーグナーの舞台作品からのものです。このジャケット写真を見ると、ちょっとキアヌ・リーブスに似てません?これはジークムントでしょうが、みみず腫れの特殊メークがすごい迫力ですね。ただ、その傷跡があまりに膨れているので、その中にPA用のマイクでも仕込んであるのでは、と、痛くもない腹を探られるかもしれませんね。いずれにしても、METを皮切りに、今では世界中のオペラハウス、もちろんバイロイトでも活躍しているイケメンヘルデン・テノール、彼の「旬」の声を満喫することができるのか、楽しみです。
その前に、このジャケットには「父と子」みたいなサブタイトルが入っていますね。そのココロは、というと、アルバムの曲順は作曲された年代に従っているのですが、最初に歌われているローエングリンは、最後に登場するパルジファルの息子だ、ということなんですって。それがどうしたという気がしませんか?それだったら、いっそ同じテノールのロール同志でミーメとジークフリートを両方歌ったりすれば、養子ですが「父と子」の共演が実現していたのに。
そんなわけで、アルバムはまず「ローエングリン」の「In fernem Land」から始まります。バックを務める、インキネンの指揮するニュージーランド交響楽団が、なんか精度の悪さ(特に木管)を見せているのが、ちょっと気になります。それと、サウンドがやけに薄っぺら、これからワーグナーが始まるのだぞ、という感じにはちょっとなれません。しかし、そんなオケに乗って聞こえてきたオニールの声は、まさに待望久しい本物のヘルデン・テノールだったので、まずは一安心です。頭に抜けるような芯のある声、カウフマンのような繊細さはないものの、その分ストレートに迫ってくる迫力がなかなか魅力的です。
ただ、声自体にはとても惹きつけられるものの、細かい表現などは幾分物足りないところがあるのも事実です。次のトラックの、「ワルキューレ」からの「Love Duet」というタイトルでくくられたジークムントの3曲の抜粋(しかし、さっきの「父と子」同様、このアルバムのタイトルのセンスは、どこかピントがずれてます)などでは、それがもろに現れてしまっていました。特に2曲目の、本当に繊細さと、そして甘さまでもが要求される「Winterstürme wichen dem Wonnemond」での一本調子の歌い方は、今までの多くの名演の前ではやや影が薄く感じられてしまいます。さらに、そこにジークリンデ役で一声登場するスーザン・ブロックの、的確には抑制されていない声には唖然としてしまいますし。この人は、「パルジファル」でのクンドリー役も惨めでした。
このアルバムでは、「のど休め」という意味なのでしょうか、オーケストラだけの曲も演奏されています。「神々の黄昏」からの、「ジークフリートのラインの旅」と、「葬送行進曲」です。それらは、最初に感じられてしまったオーケストラの「薄さ」がもろに現れた、なんともワーグナーらしからぬ音楽であったのには、先ほどのソプラノ歌手以上の失望感を抱かざるを得ませんでした。異様に遅いテンポをとって演奏されたこの曲たちからは、それらが担うはずの、ドラマを盛り上げるための役割が全く感じられないのですよ。死にもの狂いで挑んでもらいたい金管の咆吼からも、なにか醒めたものしか聞こえてはきませんでした。こんな方向、ある意味スマート(「理知的」という本来の意味で)なワーグナーも、最近では多くの選択肢の一つに入るようになってきているのでしょうか。少なくとも、舞台で上演されるときにこんなオケだったら、つまらないだろうなあというのが、正直なところです。

CD Artwork © EMI Music Ltd.

8月2日

MOZART
Flötekonzert・Oboenkonzert
Irena Grafenauer(Fl)
François Leleux(Ob)
Günter Wand, Collin Davis/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR/900710


最近出来たばかりのバイエルン放送の自主制作レーベルBRからは、最新の録音はSACDでリリースされていますが、ちょっと昔のアーカイヴだと、CDになってしまうのですね。別にサラウンド・トラックがなくても、2チャンネルだけのSACDで構わないのに、まだそういう意識は主流にはなっていないようですね。ちょっと残念。
このアルバムでは、かつてバイエルン放送交響楽団の首席奏者だった2人がソロを担当している、モーツァルトの協奏曲を聴くことが出来ます。まずは、1977年から1987年までフルートの首席奏者を務めていたイレーナ・グラフェナウアーのソロで、ト長調のフルート協奏曲です(彼女は、20歳という異例な若さで、首席に抜擢されました)。録音されたのは1981年、指揮者は、あのギュンター・ヴァントです。放送音源ですから当然ライブ演奏の収録だと思いきや、コンサート会場のヘルクレス・ザールでのセッション録音だというのには驚きます。
グラフェナウアーといえば、1979年のミュンヘンでの国際音楽コンクールで優勝した時のことを、今でも鮮明に思い出します。確か、同じ時に工藤さんと酒井さんという二人の日本人が入賞したのですよね。その時の模様をFMで聴いたのですが、グラフェナウアーの音はそんな日本人たちとは桁外れに芯があってまろやかだったのが印象的でした。それ以来彼女のファンになってしまったのですが、最近は新録音も見かけませんし、いったいどうしているのでしょう。
久しぶりに聴く彼女の音は、やはり素晴らしいものでした。ただ、当時70歳になっていたヴァントがバックでは、それほど自分の主張を出すことは出来なかったのでしょうか。なにしろ、コンチェルトの録音でありながら、ソリストよりもオーケストラを重視したバランスになっていますからね。ちょっともったりしたテンポに乗って繰り広げられる音楽は、明らかにヴァントを聴かせるものでした。セッション録音だったら録りなおせる程度のフルートのミスがそのままになっているのも、「力関係」の結果なのでしょうか。実は、同じ曲を彼女は1988年にPHILIPSに録音していますが、こちらはネヴィル・マリナーのサポートでもっと軽やかなものに仕上がっていましたね。その時にはきちんとベーレンライターの原典版に従った演奏になっていましたが、81年の時点ではまだ慣用譜を使っていたようですし。
ここで面白いのが、オケにもフルートが入る第2楽章です。その頃のもう一人の首席奏者は、確かアンドラーシュ・アドリアンだったはずですが、彼がソリストを食ってしまうほど張り切って吹いているのが、良く分かるのですよ。1980年にクーベリックと録音したモーツァルトの交響曲では、曲によってこの二人がそれぞれ吹いているのですが、それを聴くと実力の差は歴然としています。それにもかかわらず、アドリアンはこの24歳の小娘には負けたくなかったのでしょうね。これは、1971年にカラヤンがEMIに録音した同じ曲でのゴールウェイとブラウとは全く逆のケースになっています。
オーボエ協奏曲の方は、もう少し後の時代、1993年から2005年まで在籍していたフランソワ・ルルーがソロを吹いています。2001年の、これはライブ録音です。さっきの録音とは、明らかにポリシーが異なる、全体のアンヴィエンスを大事にするという音が心地よく響きます。ここでの指揮者コリン・デイヴィスは、ヴァントのように自己主張をせず、ひたすらソリストの陰に回っているのも、心地よいものです。そんな伸び伸びとした環境で、ルルーは極上の演奏を聴かせてくれていました。なんと言っても素晴らしいのが、歌心あふれる第2楽章です。多彩な音色を使い分け、まるで聴衆の反応を確かめるかのように繰り出してくるさまざまの「技」、これこそが、本当の意味でのライブ録音の醍醐味なのではないでしょうか。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH.

おとといのおやぢに会える、か。


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