春、遠く。.... 佐久間學

(14/6/27-14/7/15)

Blog Version


7月15日

STRAVINSKY
Le Sacre du Printemps, Petrouchka
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 15


「火の鳥」に続いて、ついにロトとレ・シエクルが「ペトルーシュカ」と「春の祭典」を録音してくれました。これで、ストラヴィンスキーの初期を代表する3つのバレエ音楽が全て彼らの演奏で揃ったことになります。
「初演当時の演奏を再現」ということを最大のセールスポイントにしている彼らのプロジェクトですから、まず楽譜の吟味は外せません。特に、何かと混乱の多い「春の祭典」に関しては、ロトは多くの一次資料や文献を動員して、全く新しい楽譜を用意しているようでした。つまり、基本的には作曲者の自筆稿をベースとしたうえで、初演や校訂に関わった指揮者の書き込みの入った楽譜なども重視し、あくまで「1913年5月29日の初演の時に出ていた音のスコアの再構築」を実現させるという姿勢です。これは、つい先日、マーラーの「ハンブルク稿」でも用いられた手法ですね。そこからは、当然現行の印刷譜とは異なる部分が多々見受けられるようになるはずです。
マーラーの場合は、そんな作業は出版社がイニシアティブをとって行われた結果、その演奏で使われた楽譜はめでたく出版されることになりましたが、こちらはそのような「幸せな」結果は全く期待できそうもありません。それは、ジャケット裏やブックレットに「今回の録音は、ブージー・アンド・ホークス社の特別の許可によって行われた。同社によって出版されている1967年版が、一般に演奏するための唯一の権威ある楽譜であることに変わりはない」という、ちょっと無念さの込められたコメントを読めば明らかです。ロトによって作られた、ある意味「原典版」は、この作品の権利を持っている出版社から出版されることなどあり得ないばかりか、その楽譜による演奏を録音する時にさえも「特別な許可」(初演100周年にちなんでの例外的なお墨付き)が必要なのですからね。
具体的にどこが「1967年版」と異なっているかは、ブックレットに掲載されたインタビューの中でロトがごく控えめに述べていますが、聴いてはっきりわかるのが、あと1分ほどで全曲の演奏が終わるという、練習番号186から189までの間の弦楽器です(このCDだと、トラック1303:26から03:35まで)。それまでの流れでフォルテで進んでいる音楽は、ここでもそのままフォルテ、弦楽器はアルコ、というのが「1967年版」なのですが、そこをロトたちはピアノ、しかもピチカートで演奏しているのですよ。ネットの情報では、初期のスコアはそうなっているということなので、例えばモントゥーとかアンセルメの録音を聴いてみたのですが、どれも普通にアルコで演奏しているようでしたね。ですから、このロトの演奏はとてつもなくユニーク、ここを聴くためだけにこのCDを買ってもいいのでは、というほどの衝撃があります。
ただ、惜しいのは、ジャケット(ブックレットも)の曲目表記でこんな間違いをおかしていること。それこそ、これも楽譜を精査している間に見つかった間違いが訂正されているのかな、と思ったりもしましたが、これに関する言及はどこにもないので、単なるミスプリントなのでしょう。責任者は減給です。
もちろん、使っている楽器はすべて20世紀初頭のものばかり、フルートなどは素朴な音色がとても心地よく響きます。アルト・フルートは、音色は申し分ないものの、やはり音があまり通らないので、埋もれてしまいがちに聴こえます。それと、他の楽器はすべて製作者まで表記されているものが、「ペトルーシュカ」で使われているチェレスタのクレジットがありません。ちょっとチェレスタらしくない固い音なので、もしかしたらジュ・ド・タンブルかも、と思っても、確かめることはできませんでした。ピアノはきちんとプレイエルと書いてあるのに(これもとてもやわらかい音)。
弦楽器が対向配置なのも、ストラヴィンスキーのセカンド・ヴァイオリンの使い方がよく分かる、有意義なものです。

CD Artwork © Actes Sud

7月13日

GUDMUNDSEN-HOLMGREEN
Mixed Company
Paul Hiller/
Theatre of Voices
London Sinfonietta
DACAPO/8.226114


このジャケットは、板壁に画鋲やセロテープでで止めた紙片の劣化の具合が、なんともレトロです。そんなジャケットといい、「混ざり合った仲間」みたいなタイトルといい、なんともつかみどころのないCDです。もちろん、この曲を作ったペレ・グズモンセン=ホルムグレンという、これを録音した時点で80歳となっていたデンマークの長老作曲家のことなども、その名前すら初めて聞くものでしたからね。そんなものを聴いてみようという気になったのは、ひとえに指揮がポール・ヒリアーだということと、このレーベルの録音の良さを味わいたいからでした。
気になるエンジニアは、予想通りプレベン・イヴァンでした。もうそれを見た時点で、今回も音に関しては裏切られることはないという確信がわいてきます。データを見るとしっかり32bit/352.8kHzというDXDですしね。ただ、それがノーマルCDでしかなかったことには、ちょっと失望させられます。せっかくのDXDですから、せめてSACD、欲を言えば24/192BAで聴いてみたいものです。つまり、そういうものが欲しい人は、ハイレゾ・データをダウンロードしてくれ、ということなわけで、確かにそれはこちらで販売されてはいましたが、そのスペックは24/88.2という、なんか中途半端なものでした。それでも、CDよりはマシなので、比較のために7曲のうちの3曲だけを購入して、試聴をしてみます。
CDでも、1曲目の「Run」などは楽器のパースペクティブがはっきりわかるような見晴らしの良い音場が体験できていたので、なかなか捨てたものではないな、と思っていましたが、それよりほんの少しだけ解像度の高いハイレゾ・データでは、それのさらにワンランク高い音が聴こえてきたのには、正直びっくりしてしまいました。全部で7つの部分から成るこの作品の中で、これはロンドン・シンフォニエッタの10人のプレーヤーだけで演奏されるもの。いきなり聴こえてくるバス・クラリネットのパルシヴなフレーズによって、とても緊張のある音の世界に誘われるものですが、そんな刺激的な楽器のそれぞれの音色が、まるで違うのですよ。特にヴァイオリンの艶やかさがCDではまるで失われています。
ダウンロードした残りの2曲は、合唱だけの曲「Sound I」と「Sound II」です。合唱とは言っても、実際は4人だけ、ですからそれぞれのパートはソロになるのですが、その声の深みが、やはりCDと比べてしまうと雲泥の差です。CDでは上っ面の声しか聴こえないのが、ハイレゾでは歌っている人の、それこそ「人格」まで感じられてしまうほどですからね。
ですから、これがSACDであれば、さらに元の録音に近づいた生々しい音を味わうことが、確実にできることになります。というか、ハイレゾではなぜ24/192DSDでダウンロードできないのでしょうか。これでは、まるで「蛇の生殺し」ですね(「蛇の煮っ転がし」ではありません)。
なぜ、タイトルが「混ざり合った仲間」なのかは、様々な要素がこの作品では「混ざり合って」いるからなのでしょう。デンマーク人のグズモンセン=ホルムグレンが作品のモティーフとして使ったのはイギリスの作曲家ダウランドのもの、それを演奏するのは、イギリスが本拠地のオーケストラと、デンマークが本拠地の合唱団、といった具合です。デンマークの合唱団?いや、ついうっかりしてこの団体はずっとアメリカの団体だと思っていたのですが、確かにヒリヤーによって1990年に創設された時にはベースはアメリカ、メンバーはアメリカ人とイギリス人だったものが、ヒリアーが2004年にデンマークに移住してからは、そこで全く別のメンバーによる同じ名前の団体が出来ていたのですね。
その合唱は、まるでペルトのような安息感を与えるものから、ベリオのようなとんがったものまで、振幅の大きいこの作品が求めるものを驚異的なスキルで音にして行きます。そんな山あり谷ありの末にたどり着く平穏な世界は、型どおりではあっても心を打ちます。

CD Artwork © Dacapo Records

7月11日

After Hours
The King's Men
CHOIR OF KING'S COLLEGE/KGS0006


以前モーツァルトの「レクイエム」を聴いていたキングズカレッジ合唱団の自主レーベルから、こんな「ポップス」アルバムが出ました。しかし、演奏しているのは「キングズカレッジ合唱団」ではなく、「The King's Men」という団体です。これは、「キングズカレッジ合唱団」の「男声」パートの大学生のうちから選抜された14人のアンサンブルです。そういう意味で、このCDの紹介としてウェブに公開されている代理店(キングインターナショナル)のインフォは、不正確です。
似たような名前で、やはり同じようにこのキングズカレッジ合唱団のメンバーによって作られた「キングズ・シンガーズ」というのがありますが、それは卒業しても活動を続けています。しかし、こちらはあくまで「現役」の合唱団員によるアンサンブルですから、当然メンバーは毎年入れ替わります。
いや、メンバーだけでなく、実はアンサンブルの名前まで替わっているんですよ。この「ザ・キングズ・メン」というのは、今回のCDで初めて使われる名前、それまでは「コレギウム・レガーレ」と言っていたそうなのです。確かに、SIGNUMレーベルなどに何枚かのアルバムがありましたね。この名前は、ラテン語で「キングズカレッジ」のことなんですってね。なぜ名前を替えたのかは分かりませんが、新たに自主レーベルからCDを出すという決意の表れかなんかなのでしょうか。あるいは、今回のようにいきなり「ポップス」を出すということで、アンサンブルとしてのコンセプトが以前とは違ってきていることの表れなのでしょうか。確かに、以前も黒人霊歌のアルバムなどを出してはいましたが、今回のようにアースやジャクソン・ファイブまで踏み込んだレパートリーというのは初めてなのでしょうからね。
実は、今回も「穏健」なところでそんな黒人霊歌が1曲だけ歌われています。その「Swing Low, Sweet Chariot」を、2001年に録音された「コレギウム・レガーレ」名義のものと比べてみると、アレンジがガラッと変わっていました。最初のあたりはそれほど違ってはいないのですが、今回はそのあとのリズミカルな処理が、より「ポップ」な仕上がりになっています。
それにしても、最初のトラックでビーチ・ボーイズの「I Get Around」が聴こえてきたのには、驚いてしまいました。もちろん楽器などは入っていないア・カペラなのですが、あのキングズカレッジ合唱団の団員が「ボイパ」まで使って演奏しているのですからね。ところが、驚いたのはそこまで、とことんハーモニーは磨き上げられて素晴らしいのに、そして、限りなくオリジナルに近いアレンジなのに、そこからはオリジナルの持っていた魅力が全く伝わってこないのですよ。その原因は、彼らのあまりにもお上品な振る舞いです。確かに、ビーチ・ボーイズといえばコーラス・ワークは欠かせませんが、ブライアン・ウィルソンのコーラス・アレンジはかなり野暮ったいテイストを持っているものでした。それをただ「コーラス」の部分だけをきれいに磨き上げたところで、この曲、このグループの「ロックン・ロール」としてのグルーヴは、殺がれることはあっても決して増すことはないのです。
同じように、ジャズのスタンダード・ナンバーとして、例えばマンハッタン・トランスファーのコーラスでよく知られている「A Nightingale Sang in Berkeley Square」からも、「ジャズ」としてのテイストは完全に消え去って、心地よいハーモニーが響くだけです。
いったい、このアルバムは、誰に聴いてほしくて作られたものなのでしょう。クラシック・ファンにとっても、ポップス・ファンにとっても、これほど中途半端なものはありません。あるいは「コーラス・ファン」だったら喜ぶとでも思っているのでしょうか。タイトルは「放課後」。本業が終わった後に、仲間内で軽くハモろうか、というのは別にかまいませんが、この程度のもので商売をしようという根性は腐ってます。

CD Artwork © King's College, Cambridge

7月9日

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤征爾×村上春樹著
新潮社刊(新潮文庫)
ISBN978-4-10-100166-1

単行本が出たのが2011年の11月、それから3年も経っていないのに文庫化が「解禁」になるというあたりが、5年以上は待たされる東野圭吾との違いでしょうか。こんなに早いと、「ついこの間ハードカバーを読んだのに」という気持ちになってしまいます。
いや、「読んだ」と言っても、それは「立ち読み」という読み方でして。こんなタイトルの本が平積みになっていれば、どうしても手が伸びてしまうじゃないですか。ほんのチラッと目を通すつもりが、気が付いたらほとんど半分近く読んでしまっていたというだけの話です。ただ、そのあたり、小澤さんと村上さんがグールドかなんかのレコードを聴いて、「そこが走ってる」とか言い合っているようなところは、確かにスラスラ読めてしまうのですが、それだけで終わっているような気がして、その続きを読むためにその分厚い本を買おうという気には、全然なれませんでした。クラヲタの「熱い語らい」を傍で聴いていることほど退屈なものはありませんからね。
そのうち、その本の中で二人が実際に聴いていた音楽、というものを収録したCDまでが発売されました。当然のことですが、それはすべてが本に登場したレコードと同じというわけではなく、レーベルの関係で同じ曲を別の演奏家が演奏しているものも含まれているものでした。いくら「古楽器による演奏」といっても、インマゼールとレヴィンでは別物ではないか、という気がするのですがね。
そんな「まがいもの」が出た数ヵ月後に、この文庫本は発売になりました。あまりのタイミングの良さに一瞬たじろいでしまいますが、価格も半分以下になっていてお買い得、これだったら、最後まで読んで退屈しても、そんなに落ち込むことはないでしょう。
しかし、そんな腰の引けた読み方をあざ笑うかのように、まだ「立ち読み」していなかったところにはものすごいものが横たわっていました。レコードを聴きながらあれやこれや言い合うというシーンは、このあたりになってくるとあまりなくなってきて、そんなことよりも小澤さんが実際にそんなレコード上の「巨匠」(それは小澤さん自身も含めて)についての実体験を語るあたりが、とてつもないインパクトをもって迫ってくるようになっていたのです。これこそは、小澤さんでなければ語ることのできない、一つの「歴史」ではありませんか。往年の二大巨匠、カラヤンとバーンスタインについての、実際に音楽家として高次元の関わりを持った人によって語られる「事実」の、なんと重みのあることでしょう。データでしかお目にかかったことのない有名なプロデューサーなどが、平気で「親友」なんて言われて登場してくるのですからね。
それにしても、小澤さんの記憶の確かさ、細かさには驚かされます。それはあとでも述べられていますが、実際に録音現場にいたときの記憶が、その録音を聴くことによって甦るという、ある種の潜在意識の覚醒みたいなことが起こっていたのでしょうね。拡声器からの音によって。ただ、そんな中で「バーンスタインがウィーン・フィルとマーラーの2番を録音していた現場に立ち会っていた」という話は、村上さんも不思議がっていましたが明らかに記憶違いのような気がします。同じ時期にロンドンとウィーンで別のオーケストラとこんな大曲を録音していたなんて、いくらバーンスタインでもまずあり得ません。いや、本当にこんな録音(+映像)が存在していたら、すごいことなのですが。
文庫化で新たに収録された村上さんのエッセイは、とても素晴らしいドキュメンタリーでした。小澤さんの普通の人の尺度をはるかに超えた情熱には打たれます。おそらく、今ではほとんど語られることもないあの「天皇直訴」も、そんな情熱のなせる業だったのでしょうね。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Co., Ltd.

7月7日

KARG-ELERT
Complete Works for Flute
Thies Roorda(Fl)
Nata Tsvereli(Pf)
NAXOS/8.573269-70


1877年生まれ、ライプツィヒ音楽院でカール・ライネッケに学び、1919年にはマックス・レーガーの後任として同音楽院の作曲と音楽理論の教授に就任、終生その職にあったというジークフリート・カルク=エラート(カーク=エラート)というエリート作曲家の名前は、おそらくフルート関係者の間でのみ知られているのではないか、という気がするのですが、どうでしょう?一応彼はオルガンやハルモニウムのための作品が有名だ、とされていますし、合唱曲のCDも出ていますが、なんと言っても当時のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席フルーティストであったカール・バルトゥツァットに触発されて作った多くのフルートのための作品の方が、間違いなく「実用に供している」のではないかと思うのですがね。
その中で、もっとも頻繁に、たとえば音大の卒業演奏会などでは定番となって演奏されているのが、「ソナタ・アパッショナータ」というフルート・ソロのための作品です。ほんの5分足らずの作品ですが、ちょっと無調っぽいテイストの中に見え隠れするロマンティシズムは、単なる「教材」を超えた魅力を持っています。
実は、これを吹いてみたくて、楽譜を入手してみたのですが、いざ自分で演奏しようとすると、その独特の音列にたじろいでしまい、なかなかものにすることができませんでした。そんな時に、同じ作曲家のフルートのためのエチュードがあるというので買ってみたのが、この「30のエチュード」という国内版の楽譜です。
今回、NAXOSから世界で初めてという、カルク=エラートの全フルート作品を集めた2枚組のCDが出ました。実は、彼は全部で24曲ものフルートのための作品を残しているそうですが、印刷されたもの以外は全て失われてしまっているのだそうです。つまり、出版されて命拾いした作品の全てが、このCDに収められているということになるのでしょう。
もちろん、「アパッショナータ」はしっかり入っていましたが、その中に「30のカプリース」という作品があるのに注目です。もしやと思って各曲のタイトルを見てみると、それはさっきの「エチュード」と全く同じではありませんか。実は、この作品には「ソロ・フルートのための新しいテクニックのグラドゥス・アド・パルナッスム」というサブタイトルが付いていました。「グラドゥス」なんたらというのは、「教則本」の代名詞(クレメンティの同名楽譜を揶揄している、ドビュッシーの「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」という曲がありましたね)ですから、これはまさに「エチュード」そのものだったのですね。
そこで、いまだに全曲は自分の楽器から音になって出ていないこの「カプリース」を聴いてみると、ここにはとても幅広い音楽のエキスがちりばめられていることが分かります。かろうじて仕上げた「1番」は、思った通りバッハの無伴奏パルティータそのものですし、「ヘンデル風に」というタイトルの「3番」も、ちょっと?は付きますが、ヘンデルと思えなくもありません。そこから全音音階は出てくるわ、12音に近いものは出てくるわ、最後を締めくくる「30番」は長大な「シャコンヌ」になってるわで、もうお腹いっぱいです。おそらくこの「エチュード」、いや「カプリース」を全部仕上げたら、「アパッショナータ」だけではなく、どんな曲でも吹けるようになるに違いありません。
それにしても、このアルバムから見えてくるカルク=エラートの作風のヴァラエティには驚かされます。基本、ドイツの後期ロマン派を継承するものなのですが、「点描派風組曲」という作品では、ゴーベールやフランク、そしてドビュッシーの影がはっきりと見られます。
演奏しているロールダは、良く響く低音と、確実なテクニックには感服するものの、何か音が重苦しく、特にピアノ伴奏が入った時のピッチが低めなのが、アルバム全部を聴きとおした時には辛く感じられてしまいます。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

7月5日

Abbey Road Sonata
1966 Quartet
松浦梨沙, 花井悠希(Vn)
林はるか(Vc), 江頭美保(Pf)
DENON/COCQ-85069


どうせすぐ消えてしまうだろうと思われていた1966カルテットも、クイーンやマイケル・ジャクソンなどと目先を変えつつ、これが5枚目のアルバムですと。まあ、そこそこマニアックなところも主張しているようで、そんなところに惹かれるファンもいるのでしょう。
今回も、アートワークに関しては脱帽です。このジャケットの写真、オリジナルと同じ服装に、腕や足の位置まで同じという凝りようです。こちらに、これを撮影した時の映像がありますが、ここまでのものを撮るまでには、かなりの手間がかかっていたんですね。車が通るときにはすぐ逃げなければいけませんし、ポール役の花井さんは舗道にスリッパを脱ぎ捨てて裸足で横断歩道に立ちます。惜しいかな、オリジナルは歩きながら撮った何枚もの写真から選んでいるので、ズボンの裾などは前に跳ね上がっていますが、こちらは止まったところを撮ってますから、裾は垂れ下がったままです。
さらに、ブックレットの裏側まで、こんな風にほぼ忠実に再現されています。こちらも、プレートの部分は合成しているので、実体感が全くないのが惜しいところ。
ところで、このアルバムでは、どこを見ても「アビイ・ロード」という不自然な日本語表記になっていますが、これはまさにプロデューサーの高嶋弘之が、最初にオリジナルのLPが出たときに巻き帯に使った表記が、そのまま公式なものになってしまったからです。今だったら「アビー・ロード」という自然な表記になっていたものを。
ビートルズをクラシックのアーティストがカバーするというありきたりの企画はいくらでもありますが、今回のこのアルバムのように、ビートルズの曲の間にクラシックの曲を挟んで編曲する、という、それよりワンランク手の込んだ企画だって、まだビートルズが現役で活動している時代に作られたジョシュア・リフキンのアルバムを始めとして、今までに星の数ほどもあったはずです。ですから、そんな中で抜きんでた存在であろうとすれば、まず問われるのは編曲のセンスでしょう。クラシックとビートルズが見事に一体化して、今まで誰も思いつかなかったような姿に変わったとすれば、そこからは感動が生まれますが、それはとてもリスキーな賭け、一歩間違えば、往年の山本直純の編曲作品(ビートルズとは限りません)のような、許しがたいほどにみっともないものに変わるだけです。いかに、ビートルズが実際に使ったスタジオで録音しようが、そんなものは何の足しにもならなくなってしまいます。
そう、さっきのジャケット写真で分かるように、彼女たちはわざわざロンドンの「アビー・ロード・スタジオ」まで出かけていって、そこの「スタジオ2」で3日間にわたる録音セッションを持ったのでした。
結果的には、まあダサく見えない程度の仕上がりにはなっているでしょうか。しかし、ここで起用された編曲者のうちの一人はとんでもない「イモ」でした。彼が担当した分はまさに駄作です。何しろ、クラシックのネタをそのまま見せてしまうというお粗末さ、聴いていて悲しくなってしまうほどです。そこへ行くと、もう一人の方は決して「元ネタ」を明かさずに、そのテイストだけを曲に取り入れるというしっかりとしたスキルを持っていますから、聴く方も真剣になって「受けて立つ」みたいな気持ちが奮い立つほどです。見事だったのは「A Hard Day's Night」。伴奏がどこかで確かに聴いたことがあるものなのになかなか思い出せずにいると、最後になってそのテーマの断片が出てきて「これだ!」とわかる仕掛けです。ビートルズが実際に録音の時に用いたホンキー・トンク・ピアノを使った「Lady Madonna」は、ガーシュウィンのイントロがかっこよすぎ。「The End」で、3人のギター・ソロを完璧にコピーしているのも素敵です。ただ、歌のメロディ・ラインのコピーがいまいちなのが、とても気になります。

CD Artwork © Nippon Columbia Co., Ltd.

7月3日

MESSIAEN
Turangalîla-Symphonie
Angela Hewitt(Pf)
Valérie Hartmann-Claverie(OM)
Hannu Lintu/
Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE 1251-5(hybrid SACD)


「トゥランガリーラ」なのか、「トゥーランガリラ」なのか、はたまた「トゥーランガリーラ」なのかはっきりしてほしい日本語表記ですが、10ある楽章の表題も混乱の極みです。第8楽章の「Developpement de l'amour」などは、素直に「愛の展開」と訳してしまうとなんだか素っ気ないと思ったのか、「愛の敷衍」などと読み方すら分からないような難しい言葉を使ってごまかそうとしている一派もあったりしますから。
「交響曲」とは言っても、実際はピアノとオンド・マルトノを独奏楽器とする「二重協奏曲」、打楽器の種類がやたらと多いという、メシアンならではの独特の編成です。そんな、極彩色をふんだんに放つサウンドを録音で味わうには、ちょっとCDでは物足りないと日頃から感じていたら、やっとSACDが発売になりました。とは言っても、SACD自体はもうすでに出てはいたのですが、それは1977年のプレヴィン盤(EMI)というアナログ録音からのトランスファー、しかもシングル・レイヤーなのに2枚組という理不尽なものでしたから、もはや市場にはありません(というか、それを出したメーカー自体がなくなってしまいました)。
そういうわけで、これはハイレゾ・デジタル録音による最初のSACDとなるわけです。もちろん5.0のマルチ・トラックも収録されていますから、それなりの装置のあるご家庭ではこの稀有なサラウンドを味わえることになります。ダイニングの食卓には酢のご用意が(それは「皿うどん」)。
そんな幸せなオーディオ環境にある方が、このSACDをサラウンドで聴いたらオンド・マルトノが「超笑えるところ」から聴こえてきた、という貴重なレポートをネットに公開されていました。いったいどんなところだったのでしょう。まあ、勝手に笑ってなさいとしか言えませんが。
あくまでピュア・オーディオにこだわる「おやぢの部屋」では、そんな「邪道」には目もくれずひたすらステレオ音場での体験に邁進です。そこでは、確かにオンド・マルトノのバランスが飛びぬけているように聴こえます。今まで聴いてきた16種類ほどの録音を全て聴き比べてみると、それが単なる気のせいではないことも分かります。例えば第2楽章「愛の歌1」で、始まってしばらくしてヴァイオリンとのユニゾンでオンド・マルトノが艶めかしいテーマを奏でるところでは、ほとんどのものがオケの中の一楽器という位置づけでヴァイオリンに溶け込むようにこの楽器を扱っています。ナガノ盤(2000TELDEC)やフォンク盤(1999PENTATONE)だとヴァイオリンしか聴こえないほどです。しかし、ここでは逆にヴァイオリンはほとんど聴こえず、まさにソロとしてのオンド・マルトノのくっきりとした音像が拡がります。ソリストのアールマン・クラヴリーは、そんな録音だからこそ、以前のヤノフスキ盤(1992RCA)やトルトゥリエ盤(1998CHANDOS)やカンブルラン盤(2008HÄNSSLER)では分かりにくかった彼女の表現力の大きさを存分に発揮、この作品でのこの楽器のソロとしての存在感を思い切り主張しているようです。そのクライマックスは第10楽章「終曲」。後半に現れる「愛のテーマ」で、オンド・マルトノの妖艶なビブラートがフル・オーケストラの壁を突き破って響き渡るとき、そこにはエロティシズムの世界が赤裸々に広がります。
リントゥは、この前のリゲティでも見られたように、作品に対する「現代作曲家」からの呪縛を軽々と解き放ち、自由に羽ばたかせることを可能にした世代の指揮者なのでしょう。その奔放さは、見事に開花しました。
このフィンランド放送交響楽団では、首席フルート奏者のペトリ・アランコが去ってから、そのポストが長らく空席になっていました。その席が、この5月に、オーディションを経て入団された日本人のホープ小山裕幾さんによって埋められたそうです。このSACDが録音されたのは今年の1月ですから、まだ小山さんは参加していませんが、いずれこのコンビの録音が出ることを期待しましょう。

SACD Artwork © Ondine Oy

7月1日

KARAJAN/STRAUSS
Soloists
Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
Royal Concertogebouw Orchestra
Wiener Philharmoniker
DG/00289 479 2686 GM12(CD & BA)


今年はリヒャルト・シュトラウスの生誕150年とカラヤンの没後25年が重なる年、そこでリリースされたのがこんなLPサイズのボックスです。CDが4枚収納されているLPのダブルジャケットが、3つ入っています。その12枚の内訳は、初出のLPのカップリングにほぼ従って、DGでのアナログ録音が6枚とデジタル録音が1枚、DECCAのカルショー制作のコンピレーションが1枚、そして1960年のザルツブルク音楽祭のライブ録音が3枚です。これを足しても11枚にしかなりませんが、あとの1枚は、アナログ録音6枚分を、24bit/96kHzでトランスファーしたPCMデータが収められたBAです。それに、ザルツブルクの「ばらの騎士」のリブレットまで入った80ページにもなる分厚いブックレットが同梱されています。これには、オリジナルのライナーノーツなどのほかに、現物の「録音記録」の、まるで本物のような精巧な写真が載っています。
実は、この中の6枚のアナログ録音に関しては、国内盤でシングル・レイヤーSACDがほぼ同時に発売されていました。つまり、このボックスの12枚目とほとんど同じ内容(BAには、ボーナストラックとして「サロメ」と「ドン・ファン」の1943年の録音と、この元のLPのどこにも入っていなかった「メタモルフォーゼン」が入っています)のものが、別のハイレゾ・パッケージで出ていたのですね。しかし、このSACDは、なぜか恐ろしく強気な価格設定なので、6枚全部買った時の半額以下の値段で、音質的にはそれと全く同じか、もしかしたら優れているBAを含んだこの豪華ボックスが丸ごと買えてしまうという、信じられないようなことが起こります。
ところがそのうちの1枚、オーボエ協奏曲とホルン協奏曲第2番がカップリングされているSACDで、不良が発生していたという噂が。オーボエ協奏曲の冒頭の、チェロだけが「レミレミ」と2回繰り返すイントロが丸ごと欠落しているというのです。つまり、頭からいきなりオーボエのソロが始まるということですよ。そこで、ボックスの方ではどうなのか確かめてみたくなって、それならば買ってみよう、と思ったのですよ。そういうことが気になると、こんなことになってしまう性分なものですから。
結果的には、このBA(もちろんCDも)にはそんな欠落はありませんでした。さらに、日本のメーカーにはドイツでマスタリング済みのデータが送られてくるようですから、そうなるとミスったのはドイツのマスタリング・エンジニア、ということになりますね。そんなことをやらかしたのはどいつだ!
そんな、ひょんなことから買ってしまったボックスですが、そのオーボエ協奏曲は、実はあのジェームズ・ゴールウェイがベルリン・フィルに入団して最初にDGに録音したものだということが分かって、ちょっとびっくりしているところです(その数日前に、EMIの有名なベートーヴェンのトリプル・コンチェルトに参加しています)。さらに、このあたりの録音には、ゴールウェイが参加している曲がごっそりありましたよ。思いがけないプレゼントに、幸せをかみしめているところです。
せっかくなので、BAに入っているものを全部聴いてみると、カラヤンの録音ポリシーの遷移がはっきりわかってきました。1960年代は、まだ個々の楽器がはっきり聴こえるシャープなものだったのが、1970年代に入ると、まるで全体を紗幕で覆ったような、とてもなめらかなのだけれど何の刺激もない音に変わってしまいます。これはまさに「カラヤン・サウンド」が完成される過程にほかなりません。そこからは、プレーヤーの個性が(ゴールウェイですら)次第にはっきりしないものに変わり、全てが「カラヤン色」に塗りつぶされる様子が、恐ろしいほどくっきりと見えてきます。これがカラヤンの「耳」、彼がCDのスペックで満足しきっていたのも、納得です。
もっと恐ろしいのは、さっきの不良品に対するメーカーの姿勢。公式サイトでは不良品の交換に関する告知は一切ありません。買った人が不良に気づかなければ、品物だけ引き上げて、黙っていようという魂胆なのでしょうか。

CD & BA Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

6月29日

HOSOKAWA
Orchetral Works・1
Stefan Dohr(Hr)
児玉桃(Pf)
Anssi Karttunen(Vc)
Jun Märkl/
Royal Scottish National Orchestra
NAXOS/8.573239J


思い出したようにNAXOSからリリースされる「日本作曲家選輯」ですが、これはもちろん21世紀の初頭に華々しくスタートした同名のシリーズとは、全く別のもの、この間のハツィスが「Canadian Classics」というシリーズのカテゴリーで扱われていたのと同じように、「Japanese Classics」というような呼び方の方が誤解を招きません。
あくまで日本人としてのアイデンティティをベースに、世界的な視野で作曲活動を行い、多くの団体からの委嘱の要請が引きも切らない細川俊夫の、全てこれが世界初録音となる作品です。
細川の中にある「日本的」なファクターの最大のものは、その独特の時間軸の扱いなのではないでしょうか。西洋音楽の大前提は音を「管理」すること、そのためには「音」そのものだけではなく、それが鳴り響く「時間」までもが管理の対象となっています。つまり、時間軸に「目盛」を付けることによって発生されるパルス(ふつう、それを「リズム」と呼びます)を、音楽の重要な要素とみなしているのです。しかし、細川の音楽からは、その「目盛」が完璧に消え去っています。
ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、そしてロンドンのバービカン・センターの三者からの委嘱によって2010年に作られた「ホルン協奏曲『開花の時』」では、始まったことすらわからないほどのあいまいなところから、弦楽器のE♭の音が聴こえてきます。そこには「目盛」どころか、「開始点」すら存在していません。それはそのまま時間の中を漂うだけ、時折聴こえてくる繊細な打楽器の音は、決してその時間を束縛しようとするものではありません。こんなゆったりとしたたたずまいを何度か経験したことに気づくのには、ほんの一瞬で充分です。それは、リゲティの名作「ルクス・エテルナ」。あのア・カペラの音響世界がもたらしていたものと、このあたりの感覚は、驚くほどの類似性を見せています。
しかし、この作品全体の振幅の大きさとそれがもたらすインパクトは、リゲティとは全く別物であることも、すぐに分かります。次第に音の密度が高くなるにつれて、そこからはほとんどエクスタシーのようなものを感じられるようになります。そこにはある種のなまめかしささえ伴っているとさえ思われるのは、そのような極端な振幅が、幾度となく繰り返されるからに違いありません。最後にホルン・ソロによってもたらされる「雄たけび」、そして、単音で始まった音楽が、最後はE♭とB♭の2つの音による5度音程によって終止することが何を意味するかは、明白です。細川って、見かけによらずエロ。
2曲目の「ピアノとオーケストラのための『月夜の蓮』」には、「モーツァルトへのオマージュ」というサブタイトルが付いています。それは、この曲が作られた2006年に、「モーツァルト・イヤー」にちなんで委嘱元の北ドイツ放送が設定した課題に応える意味で、モーツァルトのピアノ協奏曲の断片が最後に引用されているからです。ソロ楽器が持続音を出せないピアノであることで、ここではもっぱらアルペジオによる時間軸との戦いが見られます。その中に放り込まれたモーツァルトは、それがいかに細川の世界から遠いところにあるものであるかの指標としての役割を見事に果たしています。
3曲目の「チェロとオーケストラのための『チャント』」(2009年)は、それまでとガラリと変わったチェロのダイナミックな「あえぎ」によって、勇ましく始まります。日本の「声明」をモティーフにしているそうですが、それがちゃんとわかる形で現れるわけではなく、例えば長二度とか長七度の下降といった声明特有の音程が使われている程度のこと、他の曲もそうですが、添付されている作曲家自身の解説などは、あまりあてにしない方が良いに決まってます。
それにしても、これらの音楽が持つ繊細な粒立ちを見事にとらえた録音は見事としか言えません。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

6月27日

BARTÓK
Kossuth, Concerto for Orchestra
Cornelius Meister/
ORF Radio-Sympnonieorchester Wien
CPO/777 784-2(hybrid SACD)


スーパーで牛乳を買う時には、常に奥の方から日付の新しいもの、つまり賞味期限が長いものを選ぶというのは、消費者が自分を衛るための当然の権利です。いきおい、この「おやぢ」のアイテムも、そんな「消費者的自衛権を行使」した結果、着いたばかりの新しいものから手を付けていくことになります。そうなると、いつの間にか聴かないCDが大量に残ってしまいます。いくら「権利」だからといって、闇雲に拡大解釈をしたりすると、そんな弊害が出てきます。なんてね。
ということで、なんと1年前に入手したものが今頃のレビューで登場となりました。演奏しているのはウィーン放送交響楽団です。かつてはいかにも放送オケらしく、新しい音楽を専門に演奏していたものですが、最近の首席指揮者ベルトラント・ド・ビリーのもとではオペラも含めたもっと幅広いレパートリーで勝負していたようですね。このSACDでは、このオーケストラに、2010年から首席指揮者のポストを獲得したコルネリウス・マイスターが指揮をしています。だいぶ前の噂ではマルクス・シュテンツがこのポストに就任することになっていたのに、いったい何があったというのでしょう。というか、このマイスターという名前は初めて聴いたような。ただ、日本ではだいぶ前に新国立劇場にデビューしているそうですし、このオーケストラと一緒に来日も果たしていますから、それなりの知名度はあるようですが。1980年の生まれと言いますから、まだ30代前半、これから頭角を現してくるのでしょうか。
タイトル曲は、バルトークの「大オーケストラのための交響詩『コシュート』」です。やはり1年前にやっていた朝ドラのように、夫の姉にいびられる嫁の話ではありません(それは「小姑(コジュート)」)。「コシュート」というのは、コシュート・ラヨシュという、実在の人物のことです。バルトークの祖国ハンガリーがオーストリア帝国の支配から立ち上がろうとした1848年のハンガリー革命の時の英雄です。結局革命が成就することはありませんでしたが、彼はハンガリー人の心の中にずっと残っているのだそうです。
バルトークがこの曲を作ったのは1903年のこと、まだ20代初めの若者の時でした。なんでも、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」を聴いて衝撃を受け、この曲を作ろうとしたのだそうですね。確かに、その描写性を表に出した構成といい、オーケストラの使い方といい、いたるところにシュトラウスの影響を見ることが出来ます。そのクライマックスは、なんと言っても戦いの模様を描写した8曲目(作品全体は切れ目なく演奏される10曲から出来ています)でしょう。まるで大砲の音を模したようなバスドラムの一撃などは、ほとんどチャイコフスキーの「1812年」ではありませんか。しかも、曲の中では相手軍であるオーストラリア帝国の「国歌」までが聴こえてきますから、なおさらです。これは、あのハイドンが作った有名なメロディなのですが、それが敵国のものだということで微妙にデフォルメされているのが不気味です。
それと全く同じ、「負」のイメージを持った引用をやっているのが、このアルバムのカップリング、それから40年後に作られた「管弦楽のための協奏曲」です、それは、ご存じ4曲目の「中断された間奏曲」の中に現れる、ショスタコーヴィチに対する揶揄です。そういう意味では、「オケコン」は「コシュート」の進化形?
もし、マイスターがそう思って、こんなカップリングを企てたのだとすれば、この「オケコン」のなんとも言えないユルさが理解できるような気がします。そんな無理なこじつけを押しつけられて、オケのメンバーはきっと当惑していたのでしょう。でも、こんな刺激の少ない「オケコン」もある意味魅力的。長い目でこのチームを見守っていきたいものです。音楽に賞味期限なんてありません。

SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

おとといのおやぢに会える、か。


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