超ぶりっこ。.... 佐久間學

(17/2/28-17/3/21)

Blog Version

3月21日

MENDELSSOHN
Symphonies Nos. 1&3
Andrew Manze/
NDR Radiophilharmonie
PENTATONE/PTC 5186 595(hybrid SACD)


最初はケンブリッジ大学で古典学を学んでいたのが、その後ヴァイオリンを学び始め、瞬く間に「古楽のスペシャリスト」になってしまったのがアンドルー・マンゼです。
以前はリチャード・エガーとこんなアルバムを作って、ヴァイオリニストと鍵盤奏者として活躍していましたが、最近はそれぞれ指揮者としても大活躍、しっかりしたポストも獲得するようになっています。エガーの方は、クリストファー・ホグウッド亡き後のアカデミー・オブ・エインシェント・ミュージックの指揮者という、これまでの実績の延長線上のフィールドですが、マンゼの場合は指揮者としてのキャリアのスタートこそは、1996年に就任したその同じ団体の副指揮者、2003年から2007年まではイングリッシュ・コンサートの芸術監督という「エインシェント・ミュージック」の世界でしたが、その後は普通のシンフォニー・オーケストラを相手に仕事を進めていっているようです。2006年からはヘルシングボリ交響楽団の首席指揮者、そして2014年からはかつては大植英次も首席指揮者だったこともあるこのNDR放送フィル(ハノーファー北ドイツ放送フィル)の首席指揮者に就任します。
このオーケストラは北ドイツ放送(NDR)が持っている2つのオーケストラのうちのハノーファーにある方です。もう一つはハンブルクにある、最近「NDRアルプフィルハーモニー管弦楽団」と改名した、ヘンゲルブロックがシェフを務めるオーケストラです。
ただ、彼の「指揮者」としての力量は、2007年に録音された殆どデビュー盤とも言えるヘルシングボリ交響楽団との「エロイカ」を聴いた限りでは、それほど際立ったものとは思えませんでした。それから10年、今のオーケストラとの初めてのPENTATONEへの録音では、どのような姿を見せてくれているのでしょうか。というか、実はこの間のエルガーのチェロ協奏曲のアルバムで、彼はスイス・ロマンド管弦楽団を指揮していたのですけどね。その時はあくまで的確なサポートに徹していた、という印象でした。
このメンデルスゾーンの交響曲集では、「1番」と「3番」が取り上げられています。お判りでしょうが、これは彼の「大きな」交響曲の最初と最後の作品ということになります。その「1番」が始まると、まずその音がいつものこのレーベルの音ではないことに気づきます。クレジットを見るとどうやらこれは北ドイツ放送のスタッフが録音したもののようですね。それは、POLYHYMNIAの音に慣れた耳には、いかにもどんくさいものに感じられます。特に弦楽器が全く輝きを欠いているのですね。人数も少ないようで、バランス的にもちょっと不満が残ります。
ただ、良く聴いてみると、もしかしたらここではマンゼの意向でガット弦を使って演奏していたのかとも思えてきます。ビブラートも全くかけないというわけではありませんが、かなり控えめになっていますから、そのようなピリオド的なアプローチを、このオーケストラではやろうとしていたのでしょうか。ただ、木管管楽器あたりはごく普通の吹き方で朗々と歌っていますから、全体的にはなんだか中途半端なスタイルになっている感は否めません。それは、かつてノリントンが指揮をしたSWRのシュトゥットガルト放送交響楽団の演奏で味わっていた違和感と同じ種類のものです。
とは言っても、このメンデルスゾーンはなかなか新鮮な味わいをもっていました。特に早い楽章でのきびきびとしたテンポ感と、かなり鋭角的なリズム処理はなかなかのインパクトです。緩徐楽章でも、あまり思い入れを加えずにあっさり仕上げているあたりは好感が持てます。一番感心したのは、「3番」の終楽章のコーダの部分。これ見よがしに堂々と演奏する指揮者が多い中にあって、マンゼはほとんど冗談のような「軽さ」で迫っています。そんな彼の持ち味が、今後のこのオーケストラとの共演の中でどう生かされていくのか、まんず見守っていきたいものです。

SACD Artwork © Norddeutscher Rundfunk


3月18日

BACH
St Matthew Passion
James Gilchrist(Ev)
Stephan Loges(Je)
John Eliot Gardiner/
English Baroque Soloists
Monteverdi Choir, Trinity Boys Choir
SDG/SDG725


あの大震災からちょうど6年経った先週の土曜日には、マスメディアの世界は異様なことになっていますた。テレビでは普段は絶対に放送されないような地味なドキュメンタリー番組がのべつ放送されていましたし、ラジオではいつもならパーソナリティの男性アーティストは終始おちゃらけているものが、オープニングではくそまじめな口調で「被災地」からの手紙を朗読していたりします。そういう日なので、何か特別なことをやりたい、という気持ちは分かりますが、それが「その日だけ」に終わっているのが、とても情けないな、と思ってしまいます。その男性アーティストの場合は、曲が1曲かかった後には、何事もなかったようにいつもの調子に戻っていましたからね。大震災を「ネタ」にするのは、もうやめてほしいものです。
とか言って、実はその6年前にはガーディナーの「ヨハネ」を聴いて、大きな衝撃を受けていたと書いていたのでした。その時は、よもやそのちょうど6年後に今度は「マタイ」で同じような衝撃を受けるなんて思ってもみませんでした。
ガーディナーが手兵のモンテヴェルディ合唱団と、イングリッシュ・バロック・ソロイスツで「マタイ」を最初に録音したのは1988年のことでした。その頃はDGのサブレーベルARCHIVで進められていた、それまであったカール・リヒターによるモダン楽器、アナログ録音のバッハの宗教曲全集(選集)を、ピリオド楽器とデジタル録音で新たに作り直すというプロジェクトに邁進していたガーディナーでした。
それからレーベルも替わり、2016年にほぼ30年ぶりに録音されたのが、このCDです。この年には、ガーディナーたちは3月から9月までの間にヨーロッパの各都市を巡って「マタイ」のコンサートを16回行うというツアーを敢行していました。その途中ではもちろんバッハゆかりのライプツィヒのトマス教会でもコンサートは行われ、その2日後にはオールドバラ音楽祭で、DGのためにこの曲を録音した場所、「スネイプ・モルティングス」でのコンサートもありました。そして、そのツアーの最後を飾ったピサの斜塔で有名なピサ大聖堂での録音がここには収録されています。
衝撃は、やはり合唱によってもたらされました。今回の合唱は、DGの時の36人から28人に減っています。もちろん、30年前に歌っていた人は誰もいません。そういうことで演奏の質が変わることはあり得ますが、これはあまりにも変わり過ぎ、最初は、かつての端正さがほとんど失われていたことにちょっとした失望感があったのですが、聴きすすむうちにそれはガーディナーの表現が根本から変わっていたことによるものだとの確信に変わります。彼は、合唱には欠かせないパート内のまとまりやハーモニーの美しさを磨き上げる、ということにはもはや興味はなく、もっとそれぞれのメンバーの「心」を大切にして、それを表に出させようとしているのではないでしょうか。
その結果、まずはエヴァンゲリストのレシタティーヴォに挟まれた合唱が、その歌詞の歌い方のあまりのリアルさに、ほとんど「歌」ではなく「語り」に近いものに聴こえてきます。それは、コラールでも同じこと、こんなシンプルなメロディのどこにこれだけの情感を盛ることができるのかという切迫感、そこには驚愕以外のなにものもありません。
ここで聴ける「マタイ」は、まさに濃密な「ドラマ」、それが端的に表れているのが、イエスがこと切れた直後からのシーンです。最後のコラールとなる62番の「Wenn ich einmal soll scheiden」が、これ以上の緊張感はないというピアニシモで歌われ、あたりは静謐さに支配されます。そして突然の天変地異を受けての「Wahlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen」という真に迫った合唱のあとは、再び平静が訪れ、アリアを経ての最後の大合唱「Wir setzen uns mit Tränen nieder」からは、すすり泣きさえ聴こえては来ないでしょうか。その曲のエンディングで現れる奇跡には、聴く者は言葉さえ失います。

CD Artwork © Monteverdi Productions Ltd


3月16日

phase 4 stereo spectacular
nice 'n' easy
Various Artists
DECCA/483 0525


以前こちらでご紹介したDECCAの「フェイズ4」ボックスの続編です。こちらはクラシックではなく、タイトルにあるような「イージー・リスニング」系のミュージシャンのアルバムが集められています。この、当時は画期的といわれていた録音方式によるレコードは、そもそもはこういうジャンルのために開発されたものですから、こちらの方が「先」にあったのですが、なぜかクラシックより「後」に出ることになりました。
今となってはごく当たり前のマルチトラックによるレコーディングですから、正直、録音面からは、今これをわざわざ聴くという価値はほとんど見出せません。それでも、当時は確かに輝いていたアイテムが、全部でアルバム50枚分も、当時の価格の1/10以下の値段で手に入るのですから、これはそそられます。
登場するアーティストは、ロニー・アルドリッチ、スタンリー・ブラック、フランク・チャックスフィールド、テッド・ヒース、マントヴァ―ニ、エリック・ロジャース、エドムンド・ロス、ローランド・ショーといった面々です。かつては一世を風靡した人たちばかりですが、今ではすっかり忘れ去られているのではないでしょうか。
最後のローランド・ショーは、フランク・チャックスフィールドの「引き潮」などが入ったアルバムでのアレンジャーを務めていた人ですね。その、1964年にリリースされた「Beyond the Sea」というアルバムは、1965年の「The New Limelight」というアルバムとで「2 on1」の1枚のCDに収まっているのですが、ジャケットはダブル仕様で両方のものが印刷されているといううれしい扱いです。ただ、このCDでは、ブックレットのトラック表示が、それぞれ別のアルバムのものに入れ替わってるという痛恨のミスプリントが。
このように、収録時間の短いもの20枚が、そういうダブルジャケットに入って10枚のCDになっているほかは、全て表裏オリジナルジャケット仕様の紙ジャケに1枚ずつ入っています。
録音されたのは1961年から1975年まで、クレジットを見るとプロデューサーはトニー・ダマト、エンジニアはほとんどアーサー・バニスターとアーサー・リリーという二人が担当しているのが分かります。実は、この人たちはクラシック編でもほとんどのアルバムの制作を担当しているのですよ。ストコフスキーの「シェエラザード」もトニー・ダマトとアーサー・リリーが担当していますから、あんな音になっていたのは納得です。今回のボックスでの弦楽器のわざと歪ませたのではないかというほどのザラザラした音は、ジャンルを問わずに彼らのポリシーとなっていたのですね。
ですから、この中ではあまりストリングスが活躍していないエドムンド・ロスあたりが、サウンド的にはとても気に入りました。この人はバンドマスターだけではなく、歌も歌っていたのですね。ゲストにカテリーナ・ヴァレンテを迎えたアルバム「Nothing But Aces」などは最高です。
フランク・チャックスフィールドのビートルズ・アルバムでは、ジャケットが素敵ですね。録音されたのは1970年1月、前年の9月末にリリースされたばかりの「Abbey Road」からのナンバーがすでにカバーされています。
DECCAの看板スターだったマントヴァーニは、ここには1枚しか入っていません。どうやら、彼がDECCAに残した膨大なカタログの中で「フェイズ4」で録音されたものは、この「キスメット」というミュージカル・アルバムしかなかったようですね。
1953年にブロードウェイで初演され、1954年には映画版も作られたというこのミュージカルは、アラビアあたりを舞台に全編ボロディンの作品の素材を使って作られたものです。この中で歌われる有名な「Stranger in Paradise」というナンバーは、「ダッタン人の踊り」がそのまま使われている曲だったんですよ。それを全曲、こんなところで聴くことが出来るなんて。ここでは、ジョン・カルショーとは別のアプローチで「ステージ」を再現させている試みが見られます。

CD Artwork © Decca Music Group Limited


3月14日

ELGAR/Cello Concerto
TCHAIKOVSKY/Rococo Variations
Johannes Moser(Vc)
Andrew Manze/
Orchestre de la Suisse Romande
PENTATONE/PTC5186 570(hybrid SACD)


エルガーのチェロ協奏曲の2016年の6月に録音されたばかりのSACDがリリースされました。おそらく今現在では最も新しいものと言えるがー
今回の録音でのソリストは、1979年に、ドイツ人とカナダ人の音楽家同士の家族に生まれたヨハネス・モーザーです。2002年のチャイコフスキー・コンクールのチェロ部門では1位なしの2位という最高位を獲得しています。それ以降、世界中の有名オーケストラ、大指揮者との共演を果たしている、人気チェリストです。
このアルバムでは、エルガーの他にチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」と、あと3曲、チェロとオーケストラのための作品が演奏されています。そのうちのオリジナルは「カプリッチョ風小品」だけですが、「夜想曲」と「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキー自身が自作を編曲したものです。
つまり、チャイコフスキーには最初からこの編成で作られた作品が2曲ある、ということになります。しかし、その最も代表的な「ロココ」にしても、現在普通に演奏されているのは実際はチャイコフスキーのオリジナルではありません。いや、正直言って、このSACDでわざわざ「オリジナル版」と書いてあったので、初めてそのことを知ったのですけどね。
例えばあのロストロポーヴィチあたりが使っていたのは「フィッツェンハーゲン版」と呼ばれている楽譜でした。これは、この作品を献呈され、初演も行ったチェリスト、ヴィルヘルム・フィッツェンハーゲンが「改訂」した楽譜です。彼が行った改訂では、チャイコフスキーのオリジナルの曲順が大幅に変更されています。その結果、本来あった8つ目の変奏がカットされて、主題と7つの変奏の形になっています。主題では、前半と後半をそれぞれリピートさせて、テーマをより強く印象付ける工夫がなされましたし、変奏も派手なものを最後に持ってきて、とても分かりやすいクライマックスが味わえるようなものになっていました。
出版も、フィッツェンハーゲンが主導権を取って行ったため、彼の改訂が反映されたものしか、世の中には出回りませんでした。かくして、この作品はこの改訂版の形態がほぼ確定されてしまって、これで多くの人の耳に届くことになってしまいました。1950年代になって、やっとオリジナルの楽譜も出版されるようになりますが、やはり今までの慣習には逆らえなかったのと、その出版の際にはスコアだけでオーケストラのパート譜などはなかったために、このオリジナル版はなかなか実際に演奏されることはありませんでした。それが、この作品を課題曲としているチャイコフスキー・コンクールで、2002年からは「オリジナル版に限る」という指定がなされたのです。
2002年といえば、このアルバムのソリスト、モーザーが最高位を取った年ですよね。ですから、彼はここでもその「オリジナル版」を演奏しています。調べてみたら、すでにジュリアン・ロイド・ウェッバーやスティーヴン・イッサーリスなど、多くのチェリストがこの版での録音を行っていました。
初めて聴いたこのオリジナル版、確かに今まで聴きなれたものとは全然異なる印象を与えられるものでした。それは、フィッツェンハーゲン版では最後に置かれていたとても派手な「第7変奏」は、オリジナルではもっと前に置かれていた「第4変奏」だったというあたりで、かなりはっきりしてきます。そして、オリジナルでの終わり方は、フィッツェンハーゲン版では3つ目に置かれていた、ゆったりとした変奏曲のあとに、カットされていた軽やかな「第8変奏」を経て、コーダになだれ込むという形、こうすることで、より中身が深くなったように感じられます。もはや、「改訂版」を演奏し続ける理由は何もないことが確信できるのではないでしょうか。
肝心のエルガーは、デュプレを聴いてしまうとあまりにあっさりしているように感じられます。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


3月11日

Karl-Heinz Schütz plays BACH Solo
Karl-Heinz Schütz(Fl)
CAMERATA/CMCD-28329


今一番気に入っているフルーティスト、カール=ハインツ・シュッツのCDで、今頃になって気が付いたものがあったのでご紹介。国内盤は殆どチェックしていないので、こんなこともあります。このレーベルは伝統的にウィーン・フィルのフルーティストのアルバムを作っているようですね。
2015年に録音されたこのアルバムは、フルート1本だけで演奏される作品だけが集められていました。タイトルは「バッハ」とありますが、ただ「バッハ」とだけ書いてあるところがミソ、普通に「バッハ」という時に意味するヨーハン・ゼバスティアン・バッハのオリジナルは「無伴奏パルティータ」しかありません。それ以外は、限りなく偽作に近い「フルート・ソナタ ハ長調」と、真作ではありますが、オリジナルはチェロのための曲だったものをフルートに編曲した「組曲第1番、第2番」、それに、息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが作った「無伴奏ソナタ イ短調」というラインナップです。
有名な無伴奏チェロ組曲をフルートに編曲したものとしては、1980年に録音されたオーレル・ニコレの録音が有名です。チェロの最低音は「C」なので、チェロの楽譜をそのまま2オクターブ高く吹けば、それで全く同じ調で演奏できることになります。あとは、重音などを適宜アルペジオに直せば、それで「編曲」は完成します。確かに、音域がこれだけ違えば音色や肌触りは全くの別物に変わりますが、フルートでも低音と高音の使い分けをうまく行えば、チェロと同等の音楽は出来上がるのではないでしょうか。
ただ、チェロには必要ありませんが、フルートには絶対に欠かせないのが「ブレス」です。管楽器は途中で息を吸わないことには演奏を続けることはできません。ですから、ニコレはここで「循環呼吸」という「技」を使って、音をつなげてチェロのように演奏することを可能にしていました。ただ、そのLPを最初に聴いた時には「すごいな」と思いましたが、今聴きなおしてみるとなんとも不自然に聴こえてしまいます。ニコレは音を切らないことだけに腐心して、自然なフレージングが消えてしまっているのです。あくまでも個人的な感想ですが、それはまるでロボットが演奏しているようでした。
今回のシュッツの場合はごく普通にブレスして吹いている分、とても表情が豊かになっていて、別に音が途中で切れることに何の違和感もありません。音楽としてはこちらの方がより質の高いものが提供できているような気がします。そういえば、このニコレの録音は、まだCDが出来る前のDENONのオリジナル技術によるデジタル録音によるものでしたね(フォーマットは16bit/47.25kHz)。そんな、デジタルの黎明期、これに比べると、シュッツの時代はハイレゾも登場してもっと余裕のある音が楽しめるようになっていますから、演奏も録音技術の変化と呼応していたのかもしれません。
シュッツは、全ての曲に細やかな表現を駆使して、とても1本のフルートで演奏しているとは思えないほどの色彩感を与えてくれています。もちろん、バッハならではのがっちりとした構成は決して崩すことはありません。それが、息子のエマニュエルの作品になると、大幅に自由度を増した大胆な演奏に変わります。その結果、これまであまり魅力を感じることのない退屈な曲のような気がしていたものが、一変してとても立体的で起伏に富んだものに変わっています。
録音は、豊かな残響のある建物の中で行われたものでした。そのホールトーンはあくまでも心地よく響いているのですが、肝心のフルートの直接音が右チャンネルで時折ほんの少し歪んでいることが分かります。チャンネルを変えてみたり、別の機器で再生しても同じように聴こえるので、これは録音時のミスなのでしょう。いかにハイレゾになったからといって、エンジニアの耳が不確かだったら、オイソレとよい録音ができることはありません。

CD Artwork © Camerata Tokyo Inc.


3月9日

SHOSTAKOVICH
Cello Concerto No.1, Symphony No.5
Xavier Phillips(Vc)
David Grimal/
Les Dissonances
DISSONANCES/LD 009


最近、あちこちで話題になっているフランスのアンサンブル「レ・ディソナンス」がショスタコーヴィチを録音したというので、思わず触手が伸びてしまったざんす。ヴァイオリニストのダヴィド・グリマルが2004年に結成した、この「不協和音」という名前のオーケストラは、指揮者は置かずにグリマルを中心に演奏を行うという、あのアメリカの「オルフェウス室内管弦楽団」のようなスタイルをとっている団体です。最初はNAIVEなどに録音を行っていたようですが、2013年に自主レーベルを発足させ、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトなどの有名どころのライブ録音をどんどん行なってきました。
今回はショスタコーヴィチということで、本当に指揮者なしでも大丈夫なのか気になってしまいますが、彼らはすでにコンサートではラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲や、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」などもすでに演奏(もちろん指揮者なしで)しているそうですから、こんなのだったら楽勝なのでしょう。
この団体は、演奏する曲によってメンバーも増減させています。メンバーでもあるチェリストのグザビエ・フィリップスがソロを担当した「チェロ協奏曲第1番」では、かなり小さな編成、弦楽器は8.6.5.5.3のようですね。演奏している写真を見ると、木管楽器の最前列(フルートとオーボエ)の前には弦楽器は配置しないで、コンサートマスターであるグリマルとの距離を最小にしています。これで、弦楽器と管楽器とのコンタクトは密になるのでしょう。これは、もっと弦楽器が増えている「交響曲第5番」でも同じこと、フルートとオーボエは、もろにお客さんの前に全身をさらしています。
「チェロ協奏曲」の演奏は、なにかとても和やかな雰囲気が漂っているものでした。ソロもオーケストラもあまり声高にしゃべることはなく、しっかりお互いのやることを聴き合いながら合奏を楽しんでいる、という感じでしょうか。大活躍するホルンのソリストも、とても伸び伸びと吹いているようです。
「交響曲」では、それだけでは済まされない、かなり周到なリハーサルで方向性を決めてきたような形跡がうかがえます。第1楽章などは、弦楽器はほとんどビブラートをかけていません。これはかなり効果的、この曲の性格を的確に伝えるのには十分なものがあります。もちろん、管楽器も極力ノン・ビブラートを心掛けているようです。ソロ・フルートなどは、間違いなく木管の楽器を使っているのでしょうが、とても暗い音色でアタックも全くつけないで吹いていますから、暗澹たる情景を演出するにはもってこいです。
おそらく、管楽器のソロは基本的に奏者の自由に任せているのでしょう。ここではそれぞれのソリストの個性がはっきり伝わってきます。彼らは、それらを大切にしつつ、全体としては大きな流れを設定する、といった姿勢なのでしょうか。
第2楽章では、アンサンブルは完璧、とても軽快なグルーヴ感が味わえます。
第3楽章では、それまでのノン・ビブラートからはガラッと変わって、弦楽器はとてもねちっこく迫る「熱い」音楽に変わります。それに対してフルート・ソロはとても冷静にそれを見渡している、という感じ、そこからは、何か醒めた視線すら感じることが出来ます。
フィナーレでは、オープニングのテンポの変化などはそれほど劇的なものではありません。あくまで、表面的な効果を狙うよりは、内面的なもので訴えようという姿勢でしょうか。それが恐ろしいほど伝わってくるのが、最後の盛り上がりの前のとても美しい弦楽器の部分(練習番号119から)です。楽譜ではずっとピアニシモのまま淡々と演奏するような指示ですが、そこで彼らはほんの少しのダイナミックスの変化を付けています。それが絶妙の極み、まるでその後に続くバカ騒ぎをあざ笑っているかのように感じられたのは、ただの思い過ごしでしょうか。

CD Artwork © Dissonances Records


3月7日

音の記憶 技術と心をつなげる
小川理子著
文藝春秋刊
ISBN978-4-16-390607-2


今では「オーディオ」といえば、一部のマニアが専門メーカーのとんでもなく高価なアンプやスピーカーを買い求めて、ひたすらよい音を追求する趣味のことを指します。しかし、何十年か前には、そんなオーディオ機器を揃えることが、百科事典を揃えるのと同等の価値観で受け入れられていたことがありました。ほんとですよ。そんな「お茶の間にオーディオを」という需要に応えるために、冷蔵庫や洗濯機を作っていた大手家電メーカーが、それぞれオーディオ専門のブランドを掲げてオーディオ製品を販売していたのです。例えば、こんなブランド。

「オーレックス」 | 「オットー」 | 「オプトニカ」 | 「ダイヤトーン」 | 「テクニクス」 | 「ローディー」

れらを展開していた家電メーカーは

三洋電機 | シャープ(早川電機) | 東芝 | 日立製作所 | パナソニック(松下電器産業) | 三菱電機

さあ、どのブランドがどのメーカーのものか、分かりますか?全部分かる人なんていないかもしれませんね。
もちろん、今ではこんなブランドは殆ど消滅してしまいましたし、メーカーそのものがなくなってしまったものさえありますから、分からなくても全然恥じる必要なんかありません。ただ、「ダイヤトーン」と「テクニクス」だけは、今でもしっかり存在しているのです。そのうちの三菱電機のブランドの「ダイヤトーン」は、ほとんどカー・オーディオの製品ですが、パナソニックのブランドである「テクニクス」は、ピュア・オーディオのすべてのコンポーネンツでのハイエンド製品を送り出しています。ここが最近こんな新聞広告(2面見開き)を出したために、その知名度は一気に上がりました。
実は、「テクニクス」というブランドは、ある時期完全に消滅していました。他の家電メーカーと足並みをそろえるように、オーディオ機器からは撤退してしまったのですね。それが、最近のオーディオ事情の変化(たとえばハイレゾ化)を察知してか、再度この業界に参入してその昔のブランドを復活させたのです。さっきのターンテーブルの広告も、その流れを象徴する出来事です。
この本では、著者がパナソニック(当時は「松下電器産業」)に入社、希望していた部署に配属されてユニークなオーディオ製品を開発していた輝かしい時代、そこから撤退したために別の部署で活躍をしていた時代、さらに、そのブランドの最高責任者として「テクニクス」を復活させた今に続く時代までの、彼女自身の姿が自らの言葉で克明に語られています。そのような意味で、この本は、一つの企業内の歴史、あるいは業界全体の貴重な証言となっています。
そんな「証言」で、今となっては非常に重要に感じられるのが、CDが開発された頃のオーディオ技術者の対応です。それは、実際は彼女が職場に入る前のことなのですが、そのようなデジタル録音に対して、それまでアナログ録音で「原音を忠実に再現する」ことを追求してきた技術者たちは、オーディオの将来を真剣に憂えた、というのです。CDで採用されたフォーマットでは、20kHz以上の周波数特性は完全にカットされてしまいますからね。もちろん、当時のオーディオ評論家たちは、そんなことは決して口にはしないで、今となっては未熟なデジタル技術の産物に過ぎないCDの登場を歓迎しまくっていたのでした。
それと同時に、彼女は社内の上司の勧めで、プロのジャズ・ピアニストとしても活躍するようになります。そのような、まさに「二足の草鞋」を完璧に実現させた彼女の人生そのものも、語られています。このあたりは、まるでドラマにでもなりそうなプロットですね。アメリカでの活躍を勧められたプロデューサーと、幼馴染である婚約者との三角関係、とか。
それだけで十分な満足度を得られるはずだったのに、最後に余計な章を加えたために、稀有なドキュメンタリーがごくフツーのありきたりなハウツー本に成り下がってしまったのが、とても残念です。

Book Artwork © Bungeishunju Ltd.


3月4日

OPERA JAZZ BLUES
Hibla Gerzmava(Sop)
Trio of Daniel Kramer
MELODIYA/MEL CD 10 02466


このジャケットの、まるで、デブになる前のネトレプコみたいな美人はヒブラ・ゲルズマーワ、ロシア、正確にはジョージア(グルジア)西部のアブハジアに1970年に生まれたオペラ歌手です。ガッキーではありません(それは「ニゲハジ」)。まだ学生だった1994年にチャイコフスキー・コンクールの声楽部門で優勝し、1995年にはスタニフラフスキー & ネミロヴィッチ・ダンチェンコ・モスクワ・アカデミック音楽劇場でキャリアをスタートさせました。ロンドンのロイヤル・オペラハウスやニューヨークのMETにもデビュー、現在では世界中の歌劇場で活躍している、まさに世界的なプリマ・ドンナです。なんでも、彼女の母国のアブハジアでは、「ヒブラ・ゲルズマーワ・インヴァイツ」という音楽祭が2001年から毎年開催されていたのだそうですが、最近では国外、ウィーンのムジークフェライン・ザールとかニューヨークのカーネギー・ホールなどでも開催されるようになっているのだとか。すごいですね。
そんなゲルズマーワが、ジャズ・ピアニストのダニエル・クラマーとのコラボレーションでこんなアルバムを作りました。「オペラ、ジャズ、ブルース」というタイトルですから、コンセプトはそのまんまですね。
全く予想の出来ないフレーズのピアノだけのイントロから、「椿姫」の最初のアリアが始まります。彼女の声はまさに正統的なベル・カント、当然ピッチはかなり微妙なものになってしまいますが、やはりそれは「ジャズ」とはかなりミスマッチなような気がします。「オペラ」ではない、シューベルトの「アヴェ・マリア」なども歌われますが、やはりこういうしっとりとした曲はなんだか馴染みません。
それが、モーツァルトの「エクスルターテ・ユビラーテ」の「アレルヤ」になったら、俄然ノリが良くなってきましたよ。こういうアップテンポの曲だと、バックのトリオ(ピアノ、ベース、パーカッション)ともうまく合ってくれるのでしょう。次の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の終楽章のロンドになると、今度はスキャットなどを始めました。なかなかオペラ歌手でここまでやってさまになる人はいないでしょうね。ただ、やはりちょっとした「クセ」はつい出てしまうようで、ロンドのテーマのアウフタクトの前でしっかりブレスをしていて、そこで一瞬グルーヴが停滞するのが、ご愛嬌。
ドヴォルジャークの「我が母が教え給いし歌」あたりになってくると、次第に彼女の声に慣れてきたのか、同じしっとりした曲想でもずっと抵抗なく聴けるようになっていたのは不思議です。「ジャズ」という概念を捨てて、真摯に彼女の歌を味わえばいいんですね。要は、間奏の時に思い切りトリオだけで「ジャズ」をやってくれているだけで、彼女は全然「ジャズ」を歌っているつもりはないのだ、ということに気づきさえすればよかったことなのです。そうすれば、カールマンのオペレッタの中での、彼女のコロラトゥーラとピアノとのツッコミ合いも素直に笑えることになります。
最後には、祖国アブハジアのフォークソングも歌われています。これはとても素敵でした。
このCDには、いまどき珍しい「ADD」という表記が入っていました。
今となっては何のことかわからない方もいらっしゃるかもしれませんが、これはアナログ録音をデジタルでミックスしてCDにした、という意味です。録音されたのは2016年ですが、メロディアのスタジオにはアナログの録音機材しかなかったのではなく、あえてアナログで録音した、という気がします。なにしろ、ピアノといいヴォーカルといい、とてものびやかで素直な音なんですね。彼女の超高音も、何のストレスもなく再生できています。アコースティック・ベースも、なんともふんわりとした空気感が伝わってきますね。ハイレゾのデジタル録音よりも、アナログ録音の方がずっと音が良いというのは、本当のことなのかもしれません。このアルバムをLPで聴いてみたくなりました。

CD Artwork © Hibla Gerzmava


3月2日

BACH
Johannes-Passion
Verokika Winter(Sop), Franz Vitzhum(CT)
Andreas Post(Ten), Christoph Schweizer, Thomas Laske(Bar)
Rainer Johannes Homburg/
Stuttgarter Hymnus-Chorknaben
Handel's Company
MDG/902 1985-6(hybrid SACD)


全く聞いたことのない指揮者と合唱団、アンサンブルが演奏している「ヨハネ」ですが、どんなサプライズが潜んでいるかわかりませんから一応聴いてみました。とりあえず、ソプラノのヴェロニカ・ヴィンターだけは、例えばシューマン版の「ヨハネ」で知っていましたから。でも、よく見たらアンサンブルの中にヒレ・パールがヴィオラ・ダ・ガンバで参加していましたね。これはもうけもの、さらに、彼女のパートナーのリー・サンタナまで、リュートで加わっていました。ヒレの方はちゃんと写真入りのプロフィールが紹介されているのに、リーはその中にちょっと登場するだけ、というのがかわいそう。
そのほかに、なにか珍しい楽器がないかと録音の時の写真を見てみると、そこには「コントラ・ファゴット」の姿がありました。バロック時代の楽器ですから、長さが3メートル近くもあるので、すぐに分かります。ということは、もしかしたらこのあたりの楽器が補強されている「第4稿」を使って演奏しているのでしょうか。
その件に関しては、指揮者のホムブルク自身が書いたライナーノーツに、明確な説明がありました。
1749年に、バッハはこの曲の4度目の演奏を行った。そこで彼は、それまでの演奏の中で行った改訂をすべて捨て去って、25年前のオリジナル・バージョンに立ち戻った。ただ、楽器編成だけは少し大きくした。特に、通奏低音はコントラ・ファゴットまで加えて拡大されている。ここで録音されているのは、そのバージョンだ。
これだけ読むとその「1749年」に演奏された「第4稿」がここでは使われている、と普通は思いますよね。でも、この演奏で使われている楽譜はごく一般的な「新バッハ全集」であることがすぐ分かります。もちろん、それは1749年に使われた楽譜ではありません。先ほどの指揮者のコメントで楽器編成のことが述べられていましたが、それに関してはただコントラ・ファゴットを加えただけで、「第4稿」で行われたその他のもっと重要な楽器の変更(たとえば20番、35番などのアリアのオブリガート)は全くありませんでした(このあたりの詳細はこちらで)。
そんなわけで、ここではまた一つ「1749年に使われた楽譜」についての誤解が生んだ悲劇が誕生していました。
でも、確かに実際にコントラ・ファゴットを加えた演奏は非常に珍しいものですから、そのサウンドにはインパクトがあります。ポジティーフ・オルガンでは出せない低音が、ビンビン聴こえてきますからね。
さらに、合唱が「少年合唱」というのも、ちょっとユニーク。本当はこれがバッハ時代のサウンドなのでしょうが、最近ではなかなか聴く機会がありません。というか、このアルバムはこの少年合唱をメインとしたものなのでしょう。「シュトゥットガルト少年聖歌隊」というこの団体は、なんでも1900年までその起源が遡れる長い歴史を持っているのだそうです。そこの6代目の指揮者に2010年に就任したのが、ここでの指揮者ホムベルクです。そして、彼が1999年に設立した「ヘンデルズ・カンパニー」というピリオド楽器のアンサンブルが共演しています。
この合唱、もちろんテナーとベースのパートは「青年」が担当していますが、それもかなり「若い」音色なので、少年たちともよく調和して、全体としてはとてもまろやかなサウンドを聴かせてくれます。その、あまり芯のないフワフワとした感じがなんとも言えない「癒し感」を与えてくれますし、そんな声とはちょっとミスマッチに思える、群衆の合唱のポリフォニーもなかなかのもので、不思議な充足感を味わえます。
同じような軽い声でアリアも歌っているエヴァンゲリストのポストも、そんな流れとはぴったり合っています。とても心地よい「ヨハネ」を聴くことが出来ました。こんなデタラメな楽譜ではなく、ちゃんとした「第4稿」だっタラレバ

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm


2月28日

LIGETI
Concertos
Christian Potéra(Vc)
Joonas Ahonen(Pf)
Baldur Brönnimann/
BIT20 Ensemble
BIS/SACD-2209(hybrid SACD)


リゲティの最新アルバム、作曲順に「チェロ協奏曲」、「室内協奏曲」、「メロディエン」、そしてと「ピアノ協奏曲」、という、「協奏曲」の形態をとった作品が演奏されています。リゲティのアルバムは、つい最近こちらのロト盤を聴いたばかりなのに、またまた新録音の登場です。なんで今頃?と思ったら、去年2016年はリゲティ没後10年という記念年だったのでした。どちらのアルバムも確かに去年のうちにリリースされていましたね。
両方のアルバムに共通しているのが、「室内協奏曲」です。「室内」というぐらいですから、編成も室内楽的で、5声部の弦楽器はそれぞれ一人ずつしかいません。ロトたちはそこでは木管五重奏の作品を録音していたので、編成的には全て「室内楽」ということになります。でも、今回は普通に「協奏曲」というタイトルが付けられている作品が2曲演奏されていますから、普通のサイズのオーケストラと独奏楽器、という編成なのかな、と思ってしまいますよね。しかし、それは名ばかりのことで、そんな「協奏曲」でも、弦楽器は5本しか使われてはいないのです。言ってみれば「一つのパートに一人の奏者」となりますね。これって、ちょっと前まで世の中で騒がれていた「OVPP」ではありませんか。ピコ太郎じゃないですよ(それは「PPAP」)。いや、どちらも「一発屋」という点では同じことでしょうか。
いや、考えてみれば、リゲティが世に知られるようになったのは、まだYoutubeなどがなかった時代に、「動画」によってその作品が多くの人の間に広まったからだ、という見方だってできなくはありませんから、「一発屋」という点ではリゲティその人も当てはまるのではないでしょうか。その「動画」というのは、ご存知「2001年宇宙の旅」というスタンリー・キューブリックの映画です。公開されたのは1968年ですから、もう少しで「公開50周年」を迎えることになりますね。この中で、キューブリックは「映画音楽」としてリゲティの作品を何曲も使っていました。それらはまさに、当時の最新の「現代音楽」ばかりでした。なんせ、公開の1年前にミュンヘンで演奏されたばかりの「レクイエム」の音源を、この映画のとても重要な場面でのライトモティーフとして使っているぐらいですから、キューブリックのリゲティに対する嗅覚には驚くほかはありません。この映画のクライマックスともいうべきボウマン船長のトリップのシーンは、「アトモスフェール」を聴いてもらうために作ったのではないか、とさえ思えてきますからね。
今となっては、この映画でリゲティの曲が使われていなければ(当初は、別の作曲家に新曲を作らせるつもりでした)、彼の作品はごく一部のマニア以外にここまで広く知られることはなかったと断言することが出来ます。そんな「2001年〜」で使われた曲のようなテイストを色濃く残しているのが、このアルバムの最初の3曲ではないでしょうか。「チェロ協奏曲」などは、まさに「アトモスフェール」の小型版、といった感じです。
しかし、リゲティは次第にこのようなクラスターを主体にした作風を変えていきます。そして、ここで最後に収録されている「ピアノ協奏曲」では、例えばミニマル・ミュージックの影響などを受けたとされる作風を見せていますし、第4楽章では武満徹が使った音列まで登場します。しかし、全体としてはバルトークなど、彼が作曲家としてスタートした時にモデルとした作曲家の影響が見て取れます。それは、「ムジカ・リチェルカータ」という、初期のピアノ曲集にとてもよく似たテイスト。つまり、リゲティは一回りして「過去の自分」に戻っていたとは言えないでしょうか。
キューブリックが1999年公開の「アイズ・ワイド・シャット」で、この「ムジカ・リチェルカータ」からの曲を使ったのも、それで頷けます。彼は、本物の「リゲティおたく」だったのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB


おとといのおやぢに会える、か。



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