餡とルー、混ぜ。.... 佐久間學

(05/9/12-05/10/4)

Blog Version


10月4日

STRAVINSKY
Firebird Suite
SHCHEDRIN
Piano Concerto No.5
Denis Matsuev(Pf)
Mariss Jansons/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
SONY/82876703262001
(輸入盤)
ソニーレコード
/SICC-279(国内盤 11月2日発売予定)

SONYの品番の付け方が変わりましたね。まるでパソコンソフトのシリアルナンバーのようなこの脈絡のなさは、このレーベルが「SONY/BMG」という巨大なコングロマリットの一部になってしまったことと関係があるのでしょうか。
昨年12月、「ガスタイク」でのライブ録音、ストラヴィンスキーの「火の鳥」1919年版組曲と、シチェドリンのピアノ協奏曲第5番が収録されています。いずれも、オーケストラのとても美しい響きが存分に楽しめる仕上がり、安心して身を任せられる心地よさがあります。
「火の鳥」は、ヤンソンスにとっては初めての録音になるのでしょう。ここでもいつもながらの彼のクレバーさが光っており、新鮮な味わいをもたらしてくれました。「イントロダクション」冒頭のコントラバスのピチカートからして、妙な曖昧さのない小気味よいもの、続く管楽器のシンコペーションのやりとりも、明晰そのものです。全体的に遅めのテンポをキープして、たっぷりした「歌」を随所で聴かせてくれているのも嬉しいところ、「王女たちのロンド」でのオーボエ・ソロや、「子守歌」でのファゴット・ソロの味わい深さは聞きものです。
1932年生まれのロシアの作曲家、ロディオン・シチェドリンについては、ビゼーの「カルメン組曲」を打楽器と弦楽合奏という形に編曲したユニークな作品によって、ある程度知られているのではないでしょうか。交響曲から映画音楽まで、さまざまなジャンルで120曲以上の作品を世に送っており、現在でも精力的に作曲を行っている人です。ピアノ協奏曲は、2003年に「第6番」を作っていますが、ここで演奏されているのは「第5番」、1999年に作られ、ムストネンのピアノとサロネン指揮のロスアンジェルス・フィルによって初演されました。今まで録音が出た形跡はないので、おそらくこのCDが世界初録音となるのではないでしょうか。
さまざまな作曲技法上の変遷をたどってきたシチェドリンですが、このピアノ協奏曲第5番はかなり古典に回帰したオーソドックスなものです。楽章構成も、急−緩−急という昔からある協奏曲の形、すんなり心に入ってくる親しみやすさがあります。ただ、協奏曲とは言っても、この曲の場合ピアノ独奏の扱いはこれ見よがしの技巧をひけらかして華々しく目立たせる、といったものではなく、あくまでオーケストラと一体となって音楽を紡いでいく、といった趣が強くなっています。
全体を通して強調されているのが、継続されるビート、第1楽章ではまるで心臓の鼓動のような一定のリズムに支配されたシンプルな楽想に、まず惹き付けられるはずです。それを縫うようにして弦楽器によって奏でられるたっぷりとしたハーモニーも、魅力的です。ほんと、バイエルン放送交響楽団の弦楽器の、何と深みのあることでしょう。これなどは、先日ご紹介した日本の若いオーケストラでは絶対に出すことの出来ない味です。第2楽章では、冒頭にちょっとモーダルなピアノのカデンツが入り、弦楽器やオーボエ、トランペットなどが、息の長いフレーズをたっぷり歌い込みます。第3楽章は殆ど「常動曲」といった趣、ここでは、マツーエフのリズム感の良さが光ります。ひたすら16ビートが続く中で、時折三連符なども交えて、圧倒的なドライブ感を見せてくれています。
今の時代にほどよくマッチしたシチェドリンの音楽、もっと頻繁に演奏されても良いのではないでしょうか。モスバーガーのメニューにもなったことですし(それは「タンドリー」)。

10月2日

Feels Good
TAKE6
AVEX/YICD-71005


1988年にWARNER傘下のREPRISE(リプリーズ)という匂い消しのような(それは「ファブリーズ」)レーベルからデビューしたア・カペラグループ「テイク・シックス」は、2002年の「Beautiful World」までに8枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバム、そして1枚のベストアルバムと、全部で10枚のアルバムをリリースしています(国内規格でもう1枚ベストアルバムが出ました)。そのデビュー作「TAKE6」を聴いて彼らの完璧なハーモニーに魅了された私は、たちまち大ファンになってしまいました。何より驚いたのは、それまで私が愛して止まなかった「ザ・シンガーズ・アンリミテッド」という4人組のコーラスグループが多重録音で時間をかけて作り上げた、多くの声部が入り交じった精緻なハーモニーを、6人のメンバーがいともやすやすと「一発録り」で成し遂げてしまっていたことです。そのアルバムに収められていたスピリチュアルズの持つ敬虔なテイストも、魅力的なものでした。その時、私はスタジオでしかなしえなかった「アンリミテッド」の世界をリアルタイムに再現する卓越したジャズコーラスグループの誕生を知ったのです。
しかし、彼らの音楽の方向性は、「ジャズ」のテクニックは維持しつつも、やはり「R&B」であったことは、それ以後のアルバムから窺えるようになります。次第にア・カペラだけではなく、しっかりファンキーなバンドがバックに入るようになってくると、その印象はさらに強まってきました。ですから、この「おやぢの部屋」を始めてからも新しいアルバムは出ていたのですが、いまいち、紹介する気にはなれなかったのです。
そんな彼らが2004年、古巣REPRISEを離れ、自分たちのレーベル「TAKE6 RECORDS」を創設します。そんな新しい環境での第1作がこれ、まさに原点回帰といった趣の全曲ア・カペラというアルバムだったのには、喜びもひとしおです。まるで、ちょっと浮気をしていた恋人が、出会った時のままの初々しさで戻ってきた(あ、あくまでたとえですからね)ような嬉しさが、そこにはありました。
このアルバムの中での私のベスト・トラックは、「Family of Love」という、まさに「アンリミテッド」のセンスが全開のソフトなナンバーです。ここで繰り広げられているハーモニー・ワークの素晴らしいこと。まるで夢のようなひとときが体験できることでしょう。「Lamb of God」というスピリチュアルズ・テイストの曲も良いですね。このタイトル、ラテン語だと「Agnus Dei」、そんな格調高いヨーロッパのミサ曲にも拮抗できうるほどの世界観が、ここにはあります。びっくりしたのは、「Just in Time」というスタンダードナンバーのカバー。これは、まさに「アンリミテッド」が1977年の同じタイトルのアルバムで取り上げていた曲ではありませんか。スクラッチノイズの入ったローファイなどというお遊びも交えて、それは確かに彼らの先達へのオマージュになっています。
そして、日本盤だけのボーナス・トラックが、三木たかしが作った「Flowing with Time」という、最近よく耳にする曲です。メロディーの美しさが、テンション・コードの中で見事に生かされた素敵なアレンジ、こういうものを聴いてしまうと、彼らの音楽はジャズもR&Bも飛び越えたもっとグローバルなものであることに、自ずと気づかされてしまいます。

2000年6月1日にテレマンの「イエスの死」で始まった「おやぢの部屋」も、今回でめでたく1000アイテム目を迎えました(902番目からは「2」となって、ブログでも公開されています)。ここまで続けてこられたのも、ひとえに皆さんのおかげです。ありがとうございます。5年という年月の中では、「おやぢ」を取り巻く状況も大きく変わらざるを得ませんでした。なによりも、この1000回目をピアノ曲やリートで飾れなかったのが心残りです。しかし、先ほどの曲の邦題(って、こちらが原曲ですが)「時の流れに身をまかせ」というスタンスで、これからもずっと続けていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願いします。

10月30日

PAULET
De Profundis
Véronique Le Guen(Org)
Joël Suhubiette/
Choeur de chambre les Éléments
HORTUS/HORTUS 036


このHORTUSというフランスのレーベル、少し前にデュリュフレのレクイエムを、この同じ演奏家で聴いた時に初めて目にしたものです。実はあのCDも録音されたのは1999年、それがなんの前触れもなく店頭に現れて、そのあとはそれっきり姿を消したまま、という不思議な挙動を見せていたものでした。最近になって、10年以上前に録音されたデサンクロやリストの「Via Crucis」(演奏者は別ですが)などというものが初登場した時には、取り扱いに困ってしまったものです。今さら「新譜」でもありませんし。ただ、デュリュフレでの合唱はちょっと凄かったので、他に取り上げられるものはないかとあちこちあさっていたら、こんなものを見つけました。2004年の録音ですから、まだまだ「新譜」です。
ライナーによると、指揮者のジョエル・スービエット(と読むのでしょうか)は、「シャペル・ロワイヤル」、「コレギウム・ヴォカーレ・ヘント」、あるいは「レ・ザール・フロリッサン」といった、HARMONIA MUNDIレーベルでお馴染みの合唱団に長いこと所属、また、フィリップ・ヘレヴェッヘの助手を務めるなどして、合唱指揮者としての腕を磨いてきた人なのだそうです。1997年に、自分の合唱団として、この「レ・ゼレマン室内合唱団」を結成、このレーベルに限らず録音を行ったり、最近ではオペラ指揮者としても活躍しているとか、いずれ、もう少しメジャーなステージで脚光を浴びることもあるかもしれませんね。
1962年生まれの作曲家、ヴィンセント・ポーレは、この、スービエットたちによる合唱曲2曲と、オルガンソロを4曲収録したCDが、デビューアルバムとなります。もちろん、私のお目当ては合唱曲なわけですが、タイトルにもなっている例の詩編129「深き淵より」というア・カペラ曲は、まさに期待通りの作品、そして演奏でした。切れ目なく続く3つの部分から成るこの曲は、冒頭のベースによる暗く深い音色で、まず聴き手を惹き付けます。個々の歌手の声ではなく、あくまでマスとして聞こえてくるその響きは、とてつもない存在感を持っていたのです。それが、型どおりテナー、アルト、ソプラノと重なっていく時に味わえる、「次はどんな音色が加わるのだろう」というちょっとした期待感には、堪えられないものがあります。そこに、ほんの少しだけ期待を裏切るという絶妙のさじ加減で新しいパートが入ってくるのですから、たまりません。作曲家はここで意図して不協和音、というよりは、完璧に「間違った」音を用意しているのですが、その扱いも素晴らしいものです。そこからは、ちょっとアヴァン・ギャルドを気取った、その実オーソドックスな作風が透けて見えてきます。次の部分は、まるでリゲティの「ルクス・エテルナ」のようなクラスターの世界、そして最後の部分は、同じパターンの繰り返しの上に、さまざまなフィル・インがアラベスクのようにからみつくという、ミニマルっぽい世界です。いずれの場面でも、合唱が技術的な破綻を見せることは全くありません。そこにあるのは、作曲家が書いた音符に、肉感的なまでに音としての実体が加わった姿です。デュリュフレで見せてくれた「猥雑さ」は、ここでも健在でした。
もう一つの合唱曲、16世紀の古いスペインのテキストによる「Suspiros」という、弦楽器を伴う作品では、さらに土俗的なエネルギーが加わって、なにやら怪しげな宗教儀式のような風景が広がります。そういえば、このアルバムのサブタイトルは「宗教作品」、しかし、そこにあるのは敬虔な信仰心というよりは、もっと生々しい信条の吐露でした。たっぷり脂ののった(それは「極上のトロ」)。

9月28日

BRAHMS
Symphony No.1
千秋真一/
R☆Sオーケストラ
キングレコード
/KICC-555

千秋真一という、全く無名の指揮者のデビューアルバムが、殆ど「ブーム」と呼んでも差し支えないほどの注目を集めています。まるで、3匹の子豚(それは「ブーフーウー」)。それを受けたこのアーティストに対する扱いがいかに破格であるかは、今月号の「レコード芸術」でのこのレコード会社の広告の一番最初にあったものが、1ページをまるまる使った、このアルバムの宣伝コピーだったという事からも分かります。さらに、このアルバムは通常のCD店のみならず、何と書籍を扱う本屋さんの店頭でも販売しているのですから、この指揮者のファンというのは、クラシック音楽の愛好家といった範疇では全くとらえることのできない、大きな広がりを見せていることを窺い知ることが出来ます。
千秋真一は、1981年生まれといいますからまだ24歳、指揮者としてはまだまだ「半人前」という年齢ですが、フランスで行われたあの権威ある「プラティニ国際指揮者コンクール」で優勝したあとにはトントン拍子にキャリアを重ね、今ではパリの「ルー・マルレ」という1875年に創設された歴史ある「非常勤」オーケストラ(音楽監督は最近東京都響常任指揮者に就任したジェイムズ・デプリースト)の常任指揮者を務めるまでになっているのですから、その実力は恐るべきものがあります。その彼が、指揮者としての確固たる資質を世に知らしめたのが、殆ど伝説的な報道をされたR☆S(「ライジングスター」と読みます)オーケストラとのデビューコンサートでした。彼は学生時代から学内のオーケストラを指揮して、そのカリスマ的な魅力は知られていたといいますが、そんな彼の下で演奏したいという才能溢れる若者、千秋の大学時代の友人のみならず、千秋の評判を聞きつけて参加した海外のコンクールでの優勝者などで結成されたのが、このオーケストラです。彼らは千秋とは絶対的な信頼関係で結ばれており、そのコンサートは各方面で絶賛されることとなったのです。
今回のアルバムには、そのコンサートのメインプログラム、ブラームスの交響曲第1番が収録されています。ただ、これは、そのデビューコンサートのライブ録音ではなく、新たにセッションを組んで録音されたものです。最近のオーケストラの録音状況を見てみると、日常的に行われているのは、経費を少しでも節減するためにコンサートをそのまま録音して製品にするという安直な道、今回のように、CDのためにわざわざホールを借り切って録音するという事自体が、経費には目をつぶっても、より完成度の高いものを届けたいという制作者の良心の表れ、そして、それを引き出したのが、他ならない千秋の並はずれた才能なのでしょう。もちろん、その才能の中には、この情報社会で通用するだけの外的な魅力(「ルックス」とも言う)も含まれているのは、言うまでもありません。ご覧下さい、このジャケットのポートレート、「繊細でいて粗野」という、それだけで惹き付けられるものがありません?(しかし、なぜ写真ではなくマンガ的なドローイングなのでしょう)
その演奏は、まさに若さに満ちた爽快なものでした。それは、一つのことを信じてそれに向かって邁進する、という、「大人」が忘れかけているものを思い出させてくれる魅力を存分に味わうことが出来るものです。弦楽器の人数がちょっと少なめのため、ブラームスには欠くことの出来ない深みのある響きが全く出ていないとしても、それを補って余りある「力」を、私達はここからは感じるべきでしょう。
カップリングが、ちょっとしたお遊びなのでしょうが、千秋がコンクールで課された「間違い探し」を実際に音にしたものです。これを聴けば、彼がいかに優れた耳を持っているかが分かります。凡人である私には、109小節目からのティンパニしか見つけることが出来なかったのですから。

9月26日

Rock Swings
Paul Anka
VERVE/475102US盤)
VERVE/602498826003
EU盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCU-1068(国内盤)

ポール・アンカといえば、私達はまず1950年代から1960年代にかけてまさに一世を風靡したアイドル的なポップス・シンガーとしての姿を思い浮かべることでしょう。1957年、16歳の時に自作の「ダイアナ」という曲でいきなり大ヒットをとばした彼は、その歌詞にあるような「早熟な若者」というイメージで、数多くのヒット曲を世に送ります。しかし、そのような単なるアイドルで終わらなかったのが、彼のすごさです。1962年に公開された映画「史上最大の作戦The Longest Day」の中でミッチ・ミラー合唱団によって歌われた同名の主題歌は、彼にソングライターとしての確かな能力が備わっていることを証明してくれたのです。さらにその後にフランク・シナトラのために書かれた「マイ・ウェイ」こそは、彼の作品(この曲については作詞のみの担当)として永遠の命を持ちうる名曲となりました。
もちろん、彼は現在までとぎれることなく歌手としての活躍は続けています。ほとんど「歌手生活50年」みたいなとてつもないキャリアを誇っているわけですが、デビューが若い時だったせいでしょうか、実はまだ60代半ば、まだまだバリバリの現役アーティストなのです。
そんなポールの最新作は、タイトルそのもの、ロックの名曲をスウィング・ジャズでカバーしようという試みです。ボン・ジョヴィ、ヴァン・ヘイレン、エリック・クラプトンあたりの「王道」だけではなく、ニルヴァーナのような「オルタナティブ」までにも挑戦しようという姿勢には、並々ならぬ意欲が感じられます。
最初の曲、ボン・ジョヴィの「イッツ・マイ・ライフ」が始まったとたん、ここでポールたちが拠り所にしたものは、スウィング・ジャズが持つ力をとことん信じることだったのが分かります。確かにそこにあるのはボン・ジョヴィに違いはないのですが、それは見事に、最初からビッグバンドのために作られた曲のように聞こえてきたのですから。このことは、ヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」という、どう考えてもスイングにはなり得ない曲の場合、鮮烈に印象づけられることになります。あの特異なシンコペーションを持つイントロのリフは、4ビートに置き換えられるやいなや、「ロック」の持つ力強さは消え去り、「ジャズ」という、ある意味大人の音楽に見事に変貌していたのです。もちろん、このような状況下では、ポールの声の中にはデヴィッド・リー・ロスのエネルギッシュなヴォーカルの片鱗も見いだせないのは、当然の成り行きでしょう。
その代わり、私達が気づくのは、元の曲が「ロック」であったときには感じにくかった「歌」としての完成度です。激しいビートの陰に隠れてちょっと見つけそこなってしまったリリシズムが軽快な4ビートの中で蘇るとき、失われてしまったスピリッツ以上の収穫があったと思うのは、私が「大人」になった、あるいはなってしまった証なのでしょうか。
すでに充分「大人」になっていたクラプトンが書いた「ティアーズ・イン・ヘヴン」でさえ、この曲をヴァースから始めるという大胆なアレンジを施したランディ・カーバーの手によって、さらにアダルトな味に変わってしまったことからも、スウィング・ジャズの持つ力には確かに底知れぬものがあることが分かります。そして、ポール・アンカは、その事をいまだ衰えぬ張りのある声で、知らしめているのです。もちろん、少し甘めの声で(それは、「アンコ」)。

9月23日

CAPLET
Le miroir de Jésus
Hanna Schaer(MS)
Isabelle Moretti(Hp)
Quatuor Ravel
Bernard Tétu/
Solistes des Choeurs de Lyon
ACCORD/476 742 8


アンドレ・カプレの「イエスの鏡」については、大分前に1996年に録音されたMARCO POLOをご紹介したことがありました。今回のものはこの曲の世界初録音である1992年のACCORD盤、長らく廃盤だったものが、晴れてUNIVERSALから再発となりました。
カプレという人は、ご存じのようにドビュッシーと同時代の作曲家です。他の作曲家に対しては常に厳しい批評をしていたドビュッシー(ワーグナーに対する当てつけは有名ですね)ですが、このカプレには一目置いていたと言いますから、何か共通したセンスを彼の中に見出したのでしょうね。その結果、彼らの共同作業として、ドビュッシーのピアノ曲のオーケストレーションや、逆にオーケストラ曲のピアノリダクションが生まれることになります。しかし、カプレの作風はドビュッシーとは明らかに異なる方向を向いていました。絵画に喩えれば、ナイフで厚塗りされた油絵ではなく、柔らかい絵筆で描かれた水彩画、それも色数のごく限られたもののような肌触りでしょうか。しかし、第一次世界大戦に義勇兵として従軍した際に被った毒ガスが元で、46歳という若さで亡くなったということもあって、その作品は殆ど知られることはありませんでした。
この「イエスの鏡」は、その不幸な戦争の直後に作られたものです。この曲も、1924年にあのクレール・クロワザのソロによって初演されたものの、長らく忘れ去られていたものが、この録音によって再び脚光を浴びることとなったのです。最近は他のCDも多数出ているようですね。
曲は、受胎告知から聖母被昇天という聖母マリアの生涯にイエスの生涯を映し出した、アンリ・ゲオンの15編から成るソネット(14行詩)がテキストになっています。その15編は5編ずつ、「喜びの鏡」、「哀しみの鏡」、「栄光の鏡」という3つのグループに分けられ、それぞれの最初に楽器だけによる「前奏曲」が加えられ、計18曲で出来上がっています。楽器は、元々は弦楽四重奏とハープ1台という編成、そして、9人編成の女声合唱が加わります。この録音ではさらにコントラバスが加わって低音が補強されています。このあたりは、作曲者にはそれほどのこだわりはなかったようで、現にリヨンで行われた初演の時には広い会場に合わせてオーケストラと大きな合唱、そしてハープが2台用いられたと言いますから。先ほどのMARCO POLO盤でも弦楽合奏になっているのは、そのせいなのかもしれません。
殆どレシタティーヴォに近いメゾのソロ(最後の曲では、本当の「語り」になっています)をバックで支えるこれらの楽器の雄弁さは、注目に値します。それは、全く異なる情景を描いているそれぞれのパートのキャラクターを見事に知らしめるもの、特にキリストの受難がテーマの「哀しみ〜」での深い表現には胸を打たれます。中でも、ハープによる重たい歩みの描写は感動的です。このグループの前奏曲も、この演奏のような完璧なユニゾンで弾かれると、まるでアルヴォ・ペルトのような世界が広がるのが、素敵(「癒しの鏡」)。
この作品での女声合唱の扱いは、例えば各々の曲のタイトルを装飾的に読み上げたり(このアイディア自体は非常に魅力的)、メゾのソロを盛り上げたりと、前面に出てくることはありません。そんな、ちょっと欲求不満を感じた合唱ファンには、もう少し前に作られた「野の墓碑銘」という、7分程度のア・カペラ曲のカップリングが嬉しいのでは。ここには、カプレ独自の世界が柔らかい女声合唱で広がるのを存分に味わうことが出来ます。

9月19日

MAHLER
Symphony No.1
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.137


ノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団による「ピリオド・アプローチ」シリーズ、ついにマーラーの登場です。ガーデニングには欠かせません(それは「腐葉土」)。このような話題満載の輸入盤、ぜひ多くの人に買って頂きたい、という輸入元の心意気は、音を聴く前から伝わってきます。まず、外側に巻いてある「タスキ」。日本語によって演奏者や曲目が記載され、演奏に関する短いインフォメーションが付くという、例えばNAXOSあたりでは全てのものに付いている「オマケ」が、こういうことをあまりやらないこの業者(キングインターナショナル)のものに付いています。それだけではありません。今回は何とブックレットにまで日本語の解説が印刷されているのです。普通、こういう輸入盤のブックレットの場合、英語、ドイツ語、フランス語あたりが並んで掲載されているものは珍しくありませんが、そこに日本語が最初から印刷されている、というのは、私が知る限り非常に珍しい例です。先ほどのタスキには「Printed in Japan」と書いてあるので、おそらくこのブックレットだけは日本で印刷されて、日本の市場にしか出回らないものなのが、ちょっと残念ですが。最初からヨーロッパやアメリカのメーカーが日本語も印刷、さらにDVDではオペラの対訳に常に日本語が付く、という時代は果たして来るのでしょうか。
いずれにしても、そこまでして読んでもらいたいという、このノリントン自身によるライナーノーツは、確かに興味深いものがあります。今回特にマーラーの1番に「花の章」を加えて演奏していることへの彼のこだわりは、吉田さんという方のとても分かりやすい訳文によって的確に伝わってきます。しかし、現実にはこの「花の章」は、マーラー自身があえて初稿から取り除いたもの、ここでノリントンが行っている最終稿の中にこの楽章だけを挿入するという方法は、彼がライナーで述べている「この響きはマーラーが自ら指揮した時に耳にしたもの」という主張に対して少しばかりの矛盾を含むものであることは、否定できません。
もっとも、そのあたりのシビアな詮索は、この曲をあくまで「標題音楽」として捉えるというノリントンのアプローチを知ってしまえば、それほど重要なことではなくなることでしょう。事実、この演奏を聴くことによって、まさに目の前に具体的な情景が浮かんで来るという、ちょっと今までこの曲からは味わうことの出来なかった体験が得られるという面で、ノリントンの際だった「直感」のようなものは改めて評価出来るのではないでしょうか。その結果、1楽章あたりではまるで緊張感の伴わない、ほのぼのとした情感が喚起される場面があったとしても、それを指揮者が感じた作曲家からのメッセージとして受け入れるだけの度量の広さが、求められてくるのです。
それよりも、彼が「ピュア」だと信じて疑わないノンビブラートの弦楽器による冒頭のフラジオレットから、なぜこのような「濁った」響きが出てしまうのか、といったような点については、真剣に議論する必要はあるのではないでしょうか。もっと言えば、例えば最終楽章の練習番号42番から入ってくるビブラートをたっぷりかけたオーボエ・ソロの中には確かに存在する「歌」が、その前の41番から奏でられる弦楽器の中には、なぜその片鱗すらも見出すことができないのか、きちんと検証した上で、この時代の音楽に対する「ピリオド・アプローチ」の功罪を判断する姿勢が、私達に求められてはいないでしょうか。

9月16日

KODÁLY
Works for Mixed Choir Vol.1
Péter Erdei/
Debrecen Kodály Chorus
HUNGAROTON/HCD 32364


録音されたのは2004年の6月と9月、コダーイの混声合唱曲を作曲年代順に網羅しようという最新の全集です。これが第1集、全部で3集まで出る予定だとか。意外に少ないなと思われるのは、「混声」に限っているからなのでしょう。「同声」のものを含めれば、かなりの量になるはずです。
年代順という事で、最初の2曲はコダーイがまだ学生だった頃の大昔の(古代、ではありませんが)作品、「ミセレレ」と「夕べ」というその曲は、何か重苦しく暗い印象を持つものです。それは、これを演奏しているデブレツェン・コダーイ合唱団の、かなり垢抜けない歌い方によるものなのかもしれません。あまり解像度の高くない、はっきり言って「お粗末」な録音も、それを助長するものでした。
しかし、その次の曲、それから20年を経てコダーイが本格的に民謡収集を始め、その成果を盛り込んで作った多くの児童合唱曲の一つである「ジプシーがチーズを食べる」の混声合唱バージョン(さらに25年後に改訂されたもの)になったとたん、まるで別の合唱団のように生き生きとした音楽が聞こえてきたのには、正直驚いてしまいました。発声も心なしかクリアになっていますし、何よりもそのリズムのシャープなこと。このあたりが、まさに彼らの「血」が持つ、音楽に対するシンパシーのなせる業なのでしょう。
そういう意味で、このアルバムの中で最も大きな曲、そして最もよく知られている曲である「マトラの風景」こそは、そのシンパシーが遺憾なく発揮され、格別な魅力で迫ってくるという見事な仕上がりになっています。テクニックや、サウンドの完成度からいったら、おそらく日本のアマチュア合唱団の方が格段に高いものを持っているに違いありません。しかし、この演奏からほとばしり出る何物にも代え難い「味」には、そうおいそれとはお目にかかる事は出来ないはずです。指揮者のエルデイの歌わせ方は、「洗練」からはほど遠いもの、一瞬、今まで聴いてきた「マトラ」とはあまりに異なる素朴なたたずまいにとまどいすら覚えるものでした。しかし、その中に秘められた民謡を素材としたフレーズの何と美しいことでしょう。それは、歌っている人全員が持っている、このメロディに対する共感がそのまま音となって伝わって来ていると、確かに感じられるものだったのです。そして、そのメロディを彩るまわりのサブテーマ、実は、今まではこれが何とも無機的なものと感じられて、いたずらに技巧を凝らした無意味なもののようにしか思えなかったのですが、ここでは全てのものにきちんと意味を持たせることが出来ることが、はっきり分かるではありませんか。ある種のショックすら伴う、これは新鮮な体験でした。
もう1曲、バルトークでお馴染みの「青髭」に素材を求めたトランシルバニアの民謡に基づく「アニー・ミラー」も、その対話形式の対比の妙が音楽的な魅力にまで昇華されていて、聴き応えのあるものでした。
もちろん、中には「忠誠の歌」のように、ある機会のために作られた単に高揚心を煽るだけの駄作も含まれていますが、それらも包括した全ての作品を紹介し、コダーイの全体像を知らしめるという意味で、これは貴重なアルバムです。

9月14日

SONORITE
山下達郎
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCL-10228

1998年の「COZY」以来、7年ぶりのオリジナルアルバムは、マルセル・モイーズが作ったフルートの教則本のようなタイトルになりました(あちらは、最後のEにアクサンが付きますが)。そんなに間が開いたとは思えないのは、その間にON THE STREET CORNER 31999年)というひとりア・カペラ・アルバムと、「RARITIES」(2002年)という、アルバム未収録の曲を集めたものを出していたせいなのかもしれません。
山下達郎は、もちろん曲を作って歌うというミュージシャンとしての才能はトップクラスのものがありますが、それだけではなく、商品としてのアルバムを作り上げ、さらにはそれを流通させるという、プロデューサーとしての才能にも非常に長けているのは、ご存じの通りです。特に、彼のようなジャンルの音楽に欠かせない、「音楽を録音する」という点でのスキルには、並々ならぬものがあります。彼は、自身でDJを務めるラジオ番組を持っていますが、その中で、今まで体験してきたレコーディングについてしばしば述べている場面がありました。その時に、レコーディングの現場がアナログからデジタルに変わった時期に、最も苦労をしたと語っていたのは、我々クラシック・ファンにとっては興味深いことでした。デジタル録音が登場した時には、私達は諸手をあげて歓迎をしていたはずです。ダイナミック・レンジは広いし、ノイズは少ないし、まさに良いことずくめの媒体であるCDが出現したために、今まで持っていたLPを、役立たずの場所ふさぎとして処分してしまった人は一体どのぐらいいたことでしょう。実は、音としてはアナログ録音はデジタルをしのぐものがあるということに人々、特にクラシック関係の人が気づくには、少し時間が必要でした。それから20年を経て、やっとアナログと同等の音を保存できるSACDという媒体を手中にすることが出来たのですから。
しかし、そんなデジタル録音の欠陥など、達郎のような現場の人間は最初から痛いほど分かっていたのだそうです。ですから、今までのアナログの音をデジタルで可能にするために、まさに血のにじむような苦労が必要だったと、しみじみと語っていたのでした。
そして、今回の録音を行う頃には、同じデジタルでも「ハードディスク・レコーディング」というテクノロジーが登場していました。これもやはり、実際に使ってみてさまざまな「弱点」を感じることになります(「ハイリスク・レコーディング」)。なんでも、繊細な音には滅法強いのに、爆発的な音には弱いのだとか。そのような機材を前にして、達郎は音楽の表現自体を、機材に合わせて変えていくようになったという、またまた私達には興味深い事実を明らかにしてくれています。例えば、ベースとキーボードがこの機材では相性が悪かったので、思い切ってベースを省いてしまったら、結果的に面白いアレンジが誕生したとか、ヴォーカルのテイストも張り上げるような歌い方はあまりしなくなったとか、音楽の表現を作り上げる要因の中に録音機材までもが重要な位置を占めているという、クラシックの世界ではまずあり得ないことを知らされたのでした。
といっても、このアルバムの中での私のお気に入りは、NHKのアニメの主題歌としてさんざん聴かされたカンツォーネ「忘れないで」と、ホーンセクションをバックにした殆どバカラックのコピー「白いアンブレラ」という、非常にアナログ的な曲なのですがね。

9月12日

MOZART
Violin Sonatas, 1781
Andrew Manze(Vn)
Richard Egarr(Fp)
HARMONIA MUNDI/HMU 907380


快調にアルバムをリリース、獲得した賞も数知れずという、オリジナル楽器界のスーパースター、マンゼによる、モーツァルトのソナタ集です。このジャケット、もちろんモーツァルトのシルエット(影絵・人の名前なんですってね@トリビア)があしらわれた素敵なデザインですが、そのデジパックを開いてみると、その中からは、なんと演奏者のマンゼとエガーの、ちょっと怪しげなポーズのやはりシルエットが現れたのには笑ってしまいました。もしやこの2人は・・・。

それはともかく、「1781年のヴァイオリン・ソナタ」というタイトルのこのアルバムには、モーツァルトとは犬猿の仲だったザルツブルクの大司教ヒエロニムス・コロレードと決別して、晴れてウィーンでの自由な作曲家生活を始めたという記念すべき年の作品が中心に収められています。「作曲家」とは言ったものの、今も昔も作曲だけで食べていけるほど世の中は甘くはありません。ザルツブルクの宮廷音楽家という「定職」を棒に振って、いわば「フリー」というか、殆ど「フリーター」に近い身分になってしまったのですから、まずは糊口をしのぐための収入源を見つけなければなりません。そうしなければ、フルコースはおろか、定食すらも食べられなくなってしまいます。それは、やはり今も昔も変わらない「レスナー」への道です。そんなお得意様の1人が、ヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマーというお金持ちの娘、この人はなかなか才能のあるピアニストだったらしく、しばしばモーツァルトと2人で「2台のピアノのための協奏曲」や、「2台のピアノのためのソナタ」を公開の場で演奏しています。ただ、彼女は体重と身長のバランスが著しく悪く(つまり、○ブ)、容姿に人から好ましいと思われる要素が著しく少なかった(つまり、○ス)ために、モーツァルトとは「先生と生徒」以上の関係にはならなかったという事です(彼女の方は、モーツァルトに「本気で惚れこんじゃって」いたそうですが)。そんな彼女に献呈され、世に「アウエルンハンマー・ソナタ集」と呼ばれている6曲のうち、このアルバムにはK.376K.377K.380の3曲のヴァイオリンソナタが収められています(ちなみに、ここで表記されているケッヘル番号は、年代的にはなんの意味も持たない「第1版」のものです。マンゼほどの人が、あえて「第6版」を使わなかったのは、そろそろ「新ケッヘル」が出るために、「第6版」すら意味が無くなって、「第3版」であるアインシュタイン番号と同じ道をたどるという事なのでしょうか)。
そんな、上流階級のサロンの雰囲気を色濃く持つ曲から、バロック・ヴァイオリンのマンゼとフォルテピアノのエガーは、まるでベートーヴェンあたりが備えていてもおかしくないような緊張感溢れる世界を見せてくれています。マンゼの途方もない表現力の幅は、恐怖心にもつながろうかという荒々しいものから、まるですすり泣くような繊細なものまで、殆ど予測不能に近いものがあります。それを支える20年来のパートナー、エガーとの絶妙のアンサンブル、「これは一つの楽器ではないか」と思えた場面が幾度有ったことでしょう。
K.377の第2楽章の変奏曲が、まさに絶品です。短調によって語られるメッセージの濃いこと。長調に変わるところの絶妙な味も、たまりません。そして、10年後に「魔笛」のパパゲーノのアリアとして生まれ変わる事になる(これって、「ガセビア」?)K.376の第3楽章ロンドでは、ピアノフォルテによるそのロンド主題に「モデラート」レジスターによって音色が変えられている部分があります。モーツァルトの時代にはちょっと「反則」っぽいこの処置、彼らの手にかかればなんでも許せる気になるのは、不思議なものです。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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