がぶり寄り、抛れ。.... 渋谷塔一

(05/1/31-05/2/26)


2月26日

DEVIENNE
Flute Quartets
Barthold Kuijken(Fl)
寺神戸亮(Vn)
Sara Kuijken(Va)
Wieland Kuijken(Vc)
ACCENT/ACC 24162
前回のゾーンを酷評したのは、実はこのアルバムを同じ時期に聴いていたからです。「フラウト・トラヴェルソ」という、フルートのオリジナル楽器のまさに第一人者であるバルトルト・クイケンを聴いてしまえば、モダンフルート奏者が片手間に演奏したトラヴェルソの醜さなど、瞬時に分かってしまいます。ちなみに、全くの偶然なのですが、ゾーンとクイケンが使っている楽器は、ともに、アウグスト・グレンザーという、例のフリードリッヒ大王の楽器も作っている18世紀の職人のオリジナルをもとに、ルドルフ・トゥッツという現代の職人が作ったコピーだったのです。ゾーンの方は低音がCまで出せる6キータイプ(クイケンは1キー)という違いはありますが、同じ人が作った楽器でも、出てくる音楽は吹く人によって全く違ってしまうという、ある意味当然のことが再確認されたのでした。
クイケンといえば、「クイケン3兄弟」として、兄のジギスヴァルト(ヴァイオリン)とヴィーラント(チェロ、ガンバ)とともにセットとして語られることが多かったものです。ところが、このアルバムではヴィオラに「サラ・クイケン」、いくら料理がおいしくてもそこまでは(「皿、食いけん?」)という、聞き慣れない名前が見られます。実は、この方はジギスヴァルトの娘、オリジナル楽器の「第2世代」としてシーンを引っ張ってきた3兄弟も、ついに「跡取り」が登場するほどの年代になってしまったのですね。
フランスの作曲家フランソワ・ドゥヴィエンヌは、10歳で「ミサ曲」を作曲したという、まさに彼より3歳年上のあのモーツァルトのような「神童」ですが、ファゴットとフルートの演奏家として名をなしたこともあり、木管楽器、特にフルートのための曲は、18曲の協奏曲を始めとして、さまざまなジャンルで夥しいものを残しています。それらは、演奏家/作曲家にありがちな単なる技術の誇示には終わらない、小粋な趣味に彩られた愛すべき作品ばかりです。ここでクイケンたちが繰り広げる演奏からは、その魅力を存分に味わうことが出来ます。なにより素晴らしいのは、クイケンたちとは仲間と言っても良い寺神戸亮と、バルトルトとの絶妙のアンサンブル。トゥッティではまるで同じ楽器のようにぴったり寄り添うエモーション、そして、掛け合いで見せる小憎らしいほどの対話の妙。ある瞬間には細かい音符でハモっていたかと思うと、次の瞬間には全く別のパートでそれぞれの顔を見せているという、スリリングなまでの切り替えの早さも、たまりません。
4曲収録されている四重奏のうち、Op.16-3Op.66-1は、これが世界初録音となります。いずれも短調の曲ですが、特にOp.16-3では、ドゥヴィエンヌに良く見られる短調と長調の移り変わりに込められた深い情感に、引き込まれずにはいられません。そんな魅力を味わえるのも、バルトルトの卓越したテクニックと抜群のセンスがあってのこと、常にオリジナルのフィールドで先頭を走ってきた演奏家だからこそなし得たものなのです。

2月24日

MOZART
Flute Concertos, Symphony No.41
Jacques Zoon(Fl)
Martin Pearlman/
Boston Baroque
TELARC/CD-80624
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCT-2051(国内盤)
ジャック・ゾーン(「ズーン」という表記もあるぞ〜ん)というフルーティスト、ちょっととらえどころのない人のような印象があるのは、私の思い違いでしょうか。オーケストラのプレーヤーとして、ロイヤル・コンセルトヘボウ、ヨーロッパ室内管、ボストン響などの首席奏者という、誰しもうらやむポストを歴任(その間に、パユが居ない間のベルリン・フィルのオーディションに「落ちた」という経歴も付け加えましょうか)していながら、なぜかひとつところには留まっていられないような「飽きっぽさ」みたいなものを感じてしまうのです。
それはともかく、オーケストラでは木管のフルートを吹いていたゾーンですが、もちろんそれはベーム式のモダン楽器でした。しかし、このモーツァルトの協奏曲では、バックを務めるのはオリジナル楽器の団体、ボストン・バロックです。いったいどういうことになるのでしょう。というのも、フルーティストの世界では「モダン」と「オリジナル」の間には厳然たる棲み分けが存在していて、いやしくもメジャー・オーケストラの首席を務めたり、ソリストとして活躍している人がオリジナル楽器を吹くなどということは、まず考えられないからなのです。最近ではバロックあたりのレパートリーを演奏する場合にはノン・ビブラート奏法を取り入れたり、ピッチの低い木管の楽器を使ったりして、「オリジナル風」の音色や雰囲気に似せることはありますが、楽器自体はベーム式のメカニズムを持つ「モダン」楽器なのですから。
しかし、最初のニ長調の協奏曲が半音低いピッチで始まり、ソロフルートが聞こえてくると、それは紛れもないオリジナル楽器であることが分かりました。そこでライナーを見てみると、ゾーンが使っているのは18世紀後半に作られた6キーフルートのコピーだというのです。ということは、彼はもはやモダンフルートにも飽きてしまい、オリジナルのステージでも華々しいキャリアを築き上げようと考えはじめたのかもしれませんね(そういえば、来日した時のリサイタルでは、すでにこんな楽器を使っていたような・・・)。
しかし、両方のカテゴリーで一流となるのは、ゾーンの才能を持ってしてもかなり難しいことであるのは、この協奏曲をしばらく聴いていると分かってきます。黎明期のオリジナル業界ならいざ知らず、現在の最先端のトラヴェルソ(オリジナルフルートのこと)奏者と肩を並べようとするには、あまりにも技術的な瑕疵がが多すぎるのです。最大のネックは音程。バックのオケとのピッチの差はひどいものですし、殆ど「音痴」といっても差し支えないほどのソロは、聴いていて辛くなるほどです。楽譜も、きちんとした原典版ではなく、間違いだらけの慣行版を使用しているのも、「オリジナル」の志からは程遠いところにあるものです。
カップリングの「ジュピター」でも、ゾーンはフルートパートを吹いています。パールマンの指揮は、かなり恣意的なものが入ったロマンティック趣味のもの。それはそれで構わないのですが、すべてのパートが強調されたメリハリのないバランスからは、脂肪太りのモーツァルトの姿しか見えてこず、緊張感やスリル感などは味わうべくもありません。木管、特にゾーンのフルートを異常に強調した録音にも、罪の一端はあるのでしょう。あのヌケの良いテラーク・サウンドは、いったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

2月15日

SCHNITTKE
Faust Cantata
Marina Prudenskaja(Alt), Matthias Koch(CT)
Justin Lavender(Ten), Andreas Schmidt(Bar)
Andrey Boreyko/
Carl-Philipp-Emanuel-Bach-Chor
Hamburger Symphoniker
BERLIN/0017762BC
BERLIN CLASSICS」というレーベル、旧東ドイツの「DEUTSCH SCHALLPLATTEN」の膨大なカタログをCD化して出すだけだと思っていたら、最近はきちんと新録音も行っているようですね。これは、20041023日と24日に録音されたという、まさに出来たてのもの。この日はサンクト・ペテルブルク生まれのアンドレイ・ボレイコが、ハンブルク交響楽団の首席指揮者に就任したお披露目の演奏会、その模様が収録されているのが、このアルバムです。
俊英ボレイコがこの日のために組んだプログラムは、シュニトケの「ファウスト・カンタータ」、それをはさむように、バッハのコラールBWV431BWV331、そして最後にバッハ/ウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」という、とことん凝ったものでした。
シュニトケが1983年に作った「ファウスト・カンタータ」は、正確には「『身を慎み、目を覚ましなさい』−ヨハン・ファウスト博士の物語」というタイトル、「カンタータ」と言うよりは、「受難曲」に近い構成を持った40分ほどの声楽とオーケストラのための曲です。テキストには、例のゲーテのものではなく、それ以前、1587年にフランクフルトの印刷業者ヨハン・シュピースによって編まれた「ヨハン・ファウスト博士の物語」が使われています。下着フェチの話ですね(それは「パンスト博士」)。
曲の始まりは、まるでバッハの「マタイ受難曲」のような、一定のリズムを繰り返す低音に支配されています。ところがそのリズム、バッハのように足を引きずるような重々しいものではなく、どこか楽天的な趣が漂っています。それがいったい何のリズムであるかは、それから20分ほど経ってから明らかになるという、シュニトケならではの周到な仕掛けが、ここには張り巡らされているのです。それに乗って歌われる合唱は、まるでブラームスの「ドイツ・レクイエム」のような雰囲気の重厚なもの、ただ、オーケストラがそれとは全く無関係な音楽をやっているのが不気味です。そう、これはシュニトケの様式の典型的な現れ、異なった複数の様式を同じ時間帯の中に置いて、そこから新たな視界を広げるというユニークなものなのです。
そんな、無調やクラスターと言った雑然とした風景が一段落した時に、突然甘く華麗な、殆どR・シュトラウスと言ってもいいような音楽が流れてきます。それはメフィストフェレスの「二重唱」、つまり、シュニトケはこのテキストからこの悪魔の二つの人格をカウンターテナーとアルトに振り分けていたのです。それまでは、カウンターテナーによって歌われる「卑屈な」メフィストフェレスだったものが、ここで「勝ち誇ったような」アルトの人格がヴォカリーズで加わるという仕掛けです。それに続くのが、アルトによるまさに堂々としたアリア、しかも曲調は紛れもない「タンゴ」、これが最初の仕掛けだったのですね(ちなみに、シュニトケは1995年に同じ素材で3幕からなる「オペラ」を作っていますが、そこでもこの「タンゴ」は堂々たる存在感を主張しています)。
この曲は、1989年にデ・プリーストによって初録音されています(BIS)が、ボレイコの演奏はそれに比べると格段の明晰さを持って、キャラクターが彩られています。ただ、枠組みとなったバッハのコラールは、合唱の出来があまり良くなくて、狙ったほどの効果は現れていません。「リチェルカーレ」も、ちょっと精度が甘いのが、残念です。

2月10日

BARTÓK
The Piano Concertos
Zimerman, Andsnes, Grimaud(Pf)
Pierre Boulez/
Chicago Symphony Orchestra etc.
DG/477 5330
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1225(国内盤 2月23日発売予定)
先日のマーラー歌曲集に続いて、ブーレーズの傘寿(さんじゅ。「傘」の略字が「八」と「十」を組み合わせたものだから。決して「さんじゅの川」のお迎えが近いからではありません)記念企画「ブーレーズ2005」のシリーズ、今回はバルトークのピアノ協奏曲です。全部で3曲あるバルトークのピアノ協奏曲、LP時代には2曲ずつのカップリングが普通でしたが、CDになると、全3曲が1枚に収録できるようになってしまいました。それだけでもお得な気持ちにさせられるというのに、このアルバムでは、なんと3曲それぞれに3人のソリストと3つのオーケストラをあてがうという、とてつもなく贅沢な企画が実現されてしまいました。1枚CDを買うだけで、まるで3日分のコンサートを味わうことが出来るなんて、これ以上のお買い得はないまさに「夢のような」アイテムです。こんなことが可能になったのも、ひとえにブーレーズのお陰、いつの間にか、このかつては作曲家だった指揮者は、世界のどんなオーケストラとでもいともたやすくコンサートや録音が出来るという「巨匠」になってしまっていたのです。
「指揮者」としてはまだ駆け出しの頃だった1967年に、ブーレーズはダニエル・バレンボイムと、バルトークのピアノ協奏曲のうちの1番と3番をEMIに録音しています(562623 2)。これを聴き直してみると、当時のブーレーズがいかに挑戦的な音楽を仕掛けているかが如実に分かります。中でも聴きものは「1番」。演奏しているニュー・フィルハーモニア管(現フィルハーモニア管)の技量の問題もあるのでしょうが、そこからはまさに崩壊寸前の危なっかしい音楽、聴きようによっては、バルトークがこの曲に込めたであろうアンバランスな側面が、ストレートに伝わってきます。逆に「3番」では、よく批判の対象となるこの曲のロマンティックな面を逆に強調して皮肉るという残酷なアプローチがとても魅力的な「怪演」となっています。
シカゴ響とツィメルマンという組み合わせの今回の「第1番」では、バレンボイム盤で見せた殆ど「混沌」に近い様相は、わずかなリズム的な甘さを残しただけできれいさっぱり姿を消してしまっています。その代わり現れたのは、洗練の極地と言っても良い滑らかな音楽です。第2楽章でのピアノのオスティナートに乗って繰り広げられるクレッシェンドの、なんとスマートなことでしょう。
「3番」では、かつてアイロニーの対象であったものを自らの表現として取り込むという、見事なまでの世界観の転換が見られます。グリモーのひたすら柔らかいタッチに彩られて、異様にテンポの遅い第2楽章を持つこのバルトークは、殆どリチャード・クレーダーマンのような感触を持つに至ったのです。救いがあるとすれば、アンスネスとの「第2番」でしょうか。この若者の一途なひたむきさには、しばしの爽快感と共に、バルトークが本来持っていたはずの攻撃的な側面を感じることが出来ます。
かつてブーレーズがまだ「巨匠」とは呼ばれていなかった頃に、私たちに突きつけた問題提起、その解答がこれだったとしたら、こんな寂しいことはありません。誰が聴いても安心して鑑賞できる音楽を創り出すことを「円熟」と言うのであれば、ブーレーズに限ってはそんなものは願い下げです。そうは思いませんか?

2月9日

LLOID WEBBER
The Phantom of the Opera
Gerald Butler(Bar)
Emmy Rossum(Sop)
Patrick Wilson(Ten)
Simon Lee/Orchestra and Choir
SONY/S2K 93522
(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICP 690-1(国内盤)
アンドリュー・ロイド・ウェッバーの名作「オペラ座の怪人」がジョエル・シュマッカーの手で映画化され、現在公開中です。ご存じ、地下の土を掘る虫のお話(それは、「オケラ座の怪人」)。ロイド・ウェッバー自身がプロデューサーとして制作に関わっているだけあって、音楽的な面での充実ぶりには期待を大きく上回るものがあります。特に、バックのオーケストラに注がれた情熱には驚くべきものがあり、その結果ここで聴かれるサウンドは、ちょっと普通の劇場で味わえるものとは次元の違う、華麗で深みのあるものになりました。この録音セッションの写真を見てみると、アビー・ロードの「スタジオ1」を埋め尽くしたメンバーは、誇張ではなく100人近く、この贅沢なサウンドが録音技術ででっち上げられたものでないことが、はっきり分かります。そして、ロイド・ウェッバーの永年のオーケストレーターであるデヴィッド・カレン(この人は、あの「レクイエム」のオーケストレーションも担当していたことを、今回知りました。ロイド・ウェッバーには、このような職人的なスキルはあまりないのでしょうか)が映画のために新たに手を入れたスコアから、サイモン・リーの指揮によるこのオーケストラは、実に血の通った音楽を導き出してくれました。その一つの成果は、第1幕(!)の最後、クリスティーヌとラウルの二重唱「All I Ask You」にぴったり寄り添うオーケストラの息づかいでしょうか。間奏では、完全にソリストを食ってしまっていますし。
クリスティーヌ役のエミー・ロッサムは、本来は低音が魅力なのでしょう。「The Phantom of the Opera」の出だしなどは、思わずゾクッとさせられるほど素敵。ただ、高音に関しては、サラ・ブライトマンそっくりのポルタメント以外には、あまり惹かれるものはありません。その点、ラウル役のパトリック・ウィルソンは完璧。英語のテキストを美しく伝えることの出来る、理想的なディクションとイントネーション、そして音色です。ただ、ファントム役のジェラルド・バトラーの、フレーズの最後で音程を下げるという「シャウト唱法」には、かなりの違和感を感じざるを得ません。舞台にはなかった幼少時代のエピソードを敢えて加えた映画版では、確かに求められているキャラクターには違いありませんが、ミュージカルとしては明らかなミスキャストでしょう。
本編では本物のベル・カントの吹き替えに甘んじてしまったカルロッタ役のミニー・ドライバーがエンド・ロールで歌う「Learn to Be Lonly」という曲が、ロイド・ウェッバーの最新作ということになるのでしょうが、往年の名曲に比べるととことん魅力に乏しい駄作です。ここまで数多くのヒットを放ってきたのですから、もはや「枯渇」を恥じる必要はありません。
ちなみに、このCDは、2種類あるそのサントラ盤のうちの、「スペシャル・エディション」という2枚組のアルバムです。もう1種類、1枚だけの「通常盤」と違うのは、セリフも含めてサウンドトラックに収められているすべての音が入っているということ。オペラ(これは、一般名詞)で言えば「全曲盤」(それに対して、「通常盤」は「ハイライト」)に相当することになりますが、きちんとひとつの作品として聴くためにはこの形の方がお勧めです。なぜか国内盤の場合、これが初回限定でしか手に入らないので、真のミュージカルファンの反発を買ってしまうのは必至です。これは、87年のオリジナル・キャスト盤にも拮抗しうるクォリティを持つアルバムなのですから。

2月7日

The Very Best of Beverly Sills
Beverly Sills(Sop)
V.A.
EMI/586317 2
以前、ちょっと立ち寄った喫茶店での事です。そこはいつも有線でクラシックを優先的に流しているのですが、その日は「清教徒」の第2幕、それも有名な“狂乱の場”が掛かっていました。普段は何が聴こえてこようが、たかが有線・・・・と、曲名当てくらいしかしないのですが、その時だけは別。主役を歌っていたソプラノにすっかり魅せられてしまいました。“狂乱”と言うにはあまりにも楽しげで、つやつやしててまさに天衣無縫。それまでに親しんでいたサザーランドやデヴィーア、そして当時流行っていたボンファデッリとはあまりにも違う派手な歌声だったのです。さっそく、持っていたケイタイで有線に問い合わせる始末。そのエルヴィラこそが、ビヴァリー・シルズだったのです。
もともと私は、アメリカのコロラトゥーラが好き。昔、NHKで「こうもり」を見た時のメラニー・ホリディのキュートさが頭に焼き付いているのでしょう。確かに異端かもしれませんが、彼女たちのあっけらかんとした歌い口はイタリアやフランス、ドイツ系の歌手とは違う独特の味わいがあると思うのです。
今回のEMIのTHE VERY BEST OF SINGERSのシリーズ第3弾に、ついにそのビヴァリー・シルズが登場。私がひそかに小躍りしたのは言うまでもありません。2枚のCDに彼女の歌声がぎっしり。あまり細切れではなく、大部分が「セヴィリアの理髪師」、「リゴレット」、「ドン・パスクヮーレ」、「椿姫」の4つのオペラからの聴き所という嬉しいものです。
実のところ、色々な解説本を見ても、彼女の歌はあまり高く評価されてはいません。椿姫に至っては、「シルズの暗みのかかった声はこの役では魅力を発していない」とか。しかし、聴いてみると全くそんなことはないのです(これを暗いというなら、コトルバシュはどうするんだ!)。逆に明るすぎると思えるほど、最後の二重唱「パリを離れて」での喜びに満ちた輝かしい歌は、とてもこの3分後に息絶える人のものではありません。もちろんリゴレットもそうなんです。何を歌っても喜ばしい、そして美しい。これが彼女の長所でもあり、欠点でもあると思うのは私だけではないでしょう。
しかし、良く考えてみると、何を歌っても明るくなってしまうのはあのパヴァロッティだって同じこと。先日「ドン・カルロ」のDVDを見ましたが、ここでも彼の明るさは際立っていました。しかし、テノールなら許されて、ソプラノだと「何だか感情表現が下手だよね」と言われてしまうのは何故なのでしょう?やはり、全てはマリア・カラスが基本になっているのでしょうか・・・・。
そんな疑問を抱きつつ、彼女のヴィオレッタを聴いていると、逆に切なくなってしまうのは、私の一方的な身びいきのせいなのかもしれません。

2月6日

KONTRASTE
Gregorianki und Jazz im Dialog
John Voirol(Sax)
Pater Roman Bannwart/
Schola Romana Lucernensis
MUSIQUES SUISSES/MGB CD 6214
ジャケットにはネウマ譜(そんな野球選手がいましたね。「星ネウマ」)の中にコントラバス・サックスが挟まっている写真、サブタイトルが「グレゴリオ聖歌とジャズとの対話」というのであれば、このアルバムの内容は殆ど聴く前に分かってしまいます。サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院聖歌隊の演奏が異常なセールスを記録したり、グラウンド・ビートで味付けされた「エニグマ」がヒットしたりと、グレゴリオ聖歌を巡って大ブームが巻き起こったのは、まだ記憶に新しいところです。今ではすっかりそんなブームも去ってしまったというのに、今度はジャズとのコラボですか。いい加減にして欲しい・・・と思いつつ、演奏家を見てみると、そこにはなんとローマン・バンヴァルト神父の名前があるではありませんか。先ほどのシロス修道院も採用していた「ヴァチカン公認」の、ちょっとロマンティックな趣味が入った「ソレム唱法」ではなく、もっと正統的だといわれている「計量リズム唱法」をとってきたスイスのマリア・アインジーデルン修道院で、半世紀以上も聖歌隊の指揮を行ってきたバンヴァルト神父に、こんなところでお目にかかれようとは。
このアルバムで彼が指揮をしているのは、「スコラ・ロマーナ・ルツェルネンシス」という、彼自身の名前を冠したルツェルンの合唱団です。30年以上の歴史を持つ、グレゴリオ聖歌を専門に演奏するためのこの団体は、女声が含まれているというのが大きな特徴でしょう。確かに、もっぱら男声だけで歌われることの多いこの聖歌に女声が加わることによって、鑑賞するための音楽としての魅力が増しているのがよく分かります。収録曲の大半を占めるのが、10世紀に作られたアインジーデルの写本による単旋律の聖歌ですが、これを、例えば「Gaudeams omnes in Domino」では、男声と女声が交互に歌った後、最初に戻って混声のユニゾンになるという具合に、実にカラフルな聴かせ方をしてくれているのです。更に、「グレゴリオ=単旋律」と思いこんでいた耳にはちょっと新鮮な体験も待っています。残りの半分は14世紀に作られたという「エンゲルベルク写本」によっているのですが、これはもはや時代的にはポリフォニー、そこでは単旋律ではない、オルガヌムの入った2声や3声のグレゴリオ聖歌を聴くことが出来るのです。この合唱団は、陰気な抹香臭さなどさらさらない明るい響きで「ハモるグレゴリオ」という私にとっての初体験を見事に価値のあるものにしてくれました。
これだけで、もう充分なものを与えてくれているのですが、なぜか、そこに3人のサックス奏者による「ジャズ」の演奏が加わります。オルガヌムの最低音を補強したり、単旋律をハーモナイズするという「共演」が一部で見られますが、基本的には全く別のものとして、「聖歌」の間に演奏されています。聖歌にインスパイアされたテーマで即興演奏を行うというのが基本コンセプトなのでしょうが、それこそ、3声のコラール風の和やかなものから、フリージャズ的な激しいものまで曲ごとに驚くほどの多様性を見せてくれていて、なかなか楽しめます。しかし、正直、これがあったからといって、このアルバムに何か価値が加わったかというと、それは疑問。そこには互いに影響を与えないものが、ただ存在しているだけという、極めて消極的な意味しか見出すことは出来ず、「コントラスト」という制作者の狙いは見事に空振りしているとしか思えないのです。

2月4日

MOZART
The Piano Concertos Vol.7
Matthias Kirschnereit(Pf)
Frank Beermann/
Bamberger Symphoniker
ARTE NOVA/82876 64008 2
普段何気なく接していたのに、何かをきっかけにした途端、なんだか気になる存在になってしまう・・・・・。これは別に、中学生の初恋ではありません。高見盛でもありません(それは「どすこい」)。
私にとってのキルシュネライトがまさにそんな存在。すでに、今作でモーツァルトの協奏曲は第7集、それも私の好きな激安レーベルARTE NOVAからの発売であったにもかかわらず、新譜が出ても別に手を出す気にもなりませんでした。これが新進の歌手などだったら、とりあえずどんな声か聴いてみようと、購入してしまうのですが。何しろ私にとっての「本命」(これはモーツァルトのピアノ協奏曲についてですよ)は、なんといってもアルフレード・ブレンデルですから。旧録の全集も良いし、最新の録音はとにかくほめまくり。他の人なんて目に入る余地もなかったのですね。
このマティアス・キルシュネライトは「Mr.スタインウェイ」との異名を取る、今年43歳になる中堅ピアニスト。日本にも度々来日し、演奏会や講習会を開き、まさに「知る人ぞ知る」といった人でもあります。しかしながら、アンチブランド志向を気取る私にしてみれば、スタインウェイを全面に出さなくては名前が売れないのか?などと、正直ちょっと反発してみたくもなったせいもあり、なおのこと聴く気がしなかったのかも。
しかし、今回の第7集をちょっと耳にしたところ、その美しい音色にくらくらっと来てしまいました。まさに老舗の高級ブランドの音とでも言うのでしょうか。オーソドックスだけど、華やかで、隅々までしっかりと作ってあって、耐久性もあって、廃れないデザインで。例えるなら「ジョルジョ・アルマーニのスーツ」のような音楽です。(しかし価格帯はエンポリオ・・・・)本当に今まで敬遠していたことを心の底から後悔しました。慌てて以前のものを全部購入しよう!と心に決めたくらいです。
今回収録の作品は、とりわけ明るい曲想を持つ第17番と、中期の名作、第7番「ジュノーム」です。この17番が絶品!地中海の海を思わせる美しい第1楽章、ここでのオーケストラとピアノの目配りの行き届いた対話に耳を傾けてください。そして憂いを帯びた第2楽章。しっとりとしたピアノの音色を楽しみましょう。最後の第3楽章。弾むような主題をとことん歯切れ良く奏するキルシュネライト。確かなタッチを実感です。
曲の終りで、ピアノとオーケストラが楽しげに歌い交わす部分、モーツァルトを聴く喜びが胸一杯に溢れること間違いなしです。

2月2日

Acoustic YMO
The TOY BOX
WAVE MASTER/WWCA-31066
「といぼっくす」というのは、磯田健一郎(音楽プロデューサー)、大城正司(サックス奏者)、長生淳(作曲家・ピアニスト)など、普段はクラシックのフィールドで活躍している十数人のメンバーが集まって結成された「ポップ・アコースティック・バンド」です。今回彼らが挑戦したのは、1970年代の終わり頃、一世を風靡した「テクノ・ミュージック」の先駆的な存在、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の同名のデビュー・アルバムの完コピでした。このジャケットを、オリジナルのLPと比較すれば、彼らがこのアルバムに込めた意気込みは明白でしょう。メンバーの青春時代を彩ったであろうテクノ・サウンドを、自らの手で生楽器によって再現してみようという一途な思いが、ここには込められています。
YMOのサウンドの中核をなすのは、もちろんシンセサイザーです。ただ、制作に当たっては、坂本龍一によるきっちりとしたスコアが作られていたと聞いています。いったん楽譜になったものを、おそらく当時は冨田勲のところでも触れたMC−8あたりを使って、マニピュレーターの松武秀樹が逐一打ち込んでいったのでしょう。したがって、「といぼっくす」が、そのシンセサイザーの各パートをサックスやアコーディオン、そしてさまざまなパーカッションによって置き換えていけば、かなりの高い近似値で、YMOそっくりのサウンドを作り上げることは可能になってきます。
その企ては、殆ど完璧なまでに成功したように見えます。LPのA面の最初と最後に入っていた「コンピューター・ゲーム」という曲は、まだファミコンもプレステもファミレスも(違うって!)なかった時代のゲーム機の音をそのまま使ったものですが、それを彼らは「よくぞここまで」と感嘆させられるほど見事に生楽器だけで再現しています。そんな単純な音ではなく、複雑なシンセの音が幾重にも交錯するメインの曲の中でも、さまざまな工夫を試みて、スィープ音やピッチベンドになりきっている姿は感動的ですらあります。なにより、各プレーヤーの技術の確かさには舌を巻かずにはいられません。これだけの名人が集結したからこそ、高い次元での「完コピ」を成し遂げることが出来たのでしょう。
しかし、それほどの精密な作業の成果であるにもかかわらず、その中にはある種の「ゆるさ」が漂っているのはなぜなのでしょう。いくら、細野晴臣のチョッパー・ベースのパートが全く抜けていたからといって、「コズミック・サーフィン」のテーマがパーカッションのバックによってアルト・サックスで始まった時、なぜかチンドン屋のイメージが眼前に広がってしまったのは、ちょっと出来過ぎ。「トンプー(東風)」あたりのグルーヴ感のなさも、決してパーカッションが高橋ユキヒロほどのタイトなビートをキープ出来ていないせいだけではないはずです。
YMOがあのメンバーと機材によって創り上げた音楽の完成度の高さは、決して、この、殆ど勘違いといっても構わないようなおぞましいアレンジと演奏からは再現されることは不可能だと確認できたことが、このアルバムの最大の収穫でしょうか。

1月31日

LISZT
Pièces Tardives
Jos van Immerseel(Pf)
Sergei Istomin(Vc)
ZIG ZAG/ZZT 040902
同じ音を聴いても、違うものとして聴いてしまうこともあれば、明らかに違う音なのに、「前聴いたことがある?」と感じたりするのも人間の感覚の不思議なところです。さて、このリストです。なんと言っても、インマゼールが2台のエラールを弾き分けているのが特色。そもそもエラールの音色自体、現代のピアノとはかなり違います。一つ一つの音が歯切れよく、繊細で粒立ちのよさが特徴ですが、逆に言えば残響に乏しく薄い響き、そして何よりも、あまり大きな音が出ないのです。この音色を念頭において、リストはあの華やかな作品を書上げていたのです。(どんなにあがいても、リストの時代にはスタインウェイなどありませんでした。)この時代(1830年頃)、ピアノの性能が格段に進歩したのは、リストやショパンのおかげだというのも有名な話です。リスト自身、工場に出向きあれやこれや意見していたというのですから。
ただしリストの場合は、その作曲技法がピアノの性能と反比例した・・・というか、御存知の通り、初期は鍵盤の端から端までムラなく使う曲を書いた人なのに、後期から晩年の作品は恐ろしい程に音を切り詰めたもの。ですから“超絶技巧練習曲”などでは、エラールで演奏したとしたらちょっと物足りないかもと思えるのですが、「晩年の作品」と題された今回のようなアルバムなら却って味わい深いものになるのは、聴く前から想像がつきまんねん
実際に聴いてみたところ、想像以上の美しさ。冒頭に置かれた“夜”。この曲は本当にはじめて聴きましたが、これこそどこかで聴いた事のあるような感じ。これは途中で出てくるメロディが、同時期の作品である“ハンガリー戴冠ミサ曲”のなかで使われている印象的なフレーズにそっくりなんだ。と気が付くのにたっぷり30分かかりました。確かに夜のイメージのある静かな曲で、この1曲だけでも晩年のリストの至った境地がわかるというものです。
有名な、ほとんど無調に近い“灰色の雲”。使われている音もわずかで、まるでつぶやきのようなぽつぽつとした世界です。現代のピアノで聴くと、まるで現代音楽のようにすら響くこの作品ですが、エラールで聞くと、不自然さが全くありません。これはなぜなのでしょう。そう。隙間を楽しむ感覚とでもいうのでしょうか。
このアルバムは、チェロ曲も収録されているのが嬉しいところで、こちらもあまり聴く機会のない“エレジー”など、リスト好きなら泣いて喜ぶような選曲です。イストミンの使用している楽器も当時のもの。それも有名な由緒ある楽器ではなく、作者の名前もわからないような古い楽器です。この鄙びた音色がまたたまらなく、聴いていると難だか体の中心を風が通り抜けていくような虚無感を感じてしまいます。この感覚がなんとも新鮮で嬉しいのです。

1月31日

FAURÉ
Au bord de l'eau
Felicity Lott(Sop)
Christopher Maltman(Bar)
Graham Johonson(Pf)
HYPERION/CDA 67333
イギリスの名レーベル、hyperionを御存知ですか?ここのレーベルがスゴイのは、とにかく全集にするのが好きなところ。まず思い浮かぶのが、例のレスリー・ハワードの力のこもったリスト大全集でしょう(「レスラー・ハワード」)。そして忘れてはいけないのが、シューベルト歌曲全集ですね。リストの方は、ほとんどハワードの演奏に拠るものですが、シューベルトの方の演奏家の顔ぶれは、まさに世界中から名歌手を集めた感じ。今が旬のボストリッジや、ゲルネ、バンゼの名ももちろん含まれていて、まさに「世界遺産」のような大偉業なのです。他にも「ロマンティックピアノ協奏曲集」など、マニア垂涎のシリーズが目白押し。やはりクラシック好きなら外せないレーベルだと思うのです。
そんなhyperionレーベルが、このたびフォーレの歌曲全集に着手しました。記念すべき第1集は、「川のほとりにて」というタイトルがついています。これはOp8-1の歌曲のタイトルですが、アルバム全体が「水」の雰囲気で統一されているのもオシャレです。「水夫たち」で始まり、「幻想の水平線」で締めくくる。なんともセンスの良い選曲ではないでしょうか。
フォーレの歌曲と言うと、どうしてもアメリンク、スゼーの名盤を避けて通ることは出来ません。もちろん私も、昔これにハマった一人。この5枚組を手にしていなかったら、全く違った人生を歩んでいたかもしれないくらい大切なものでした(25年前の私にとって、1万円というのはまさに法外な買い物でしたが)。そのくらい思いいれがあったものですから、当然どの曲を聴いてもスゼーとアメリンクの歌声が真っ先に浮かんでしまいます。しかし今回のアルバムで、曲の印象のいくつかを「更新」することができたのでした。例えば「5つのヴェネツィアの歌」、その第1曲の「マンドリン」。これも私の中にはアメリンクの歌い口がしみこんでいました。軽やかで優しくて、ちょっとコケティッシュ、そんなイメージを作品に与えていたものでしたが、今回のロットの歌はそれを見事にそして鮮やかに覆してくれました。とにかく色っぽいこと。それに続く「ひめやかに」も伸びやかで幅広くて、まるでR・シュトラウスの4つの最後の歌のように重く輝きます。
バリトンのマルトマンによる「幻想の水平線」も素晴らしい演奏です。スゼーの知的なちょっと冷たい響きの声とは違い、とてもふんわりした優しい声。はるかなる世界への憧れをこんなにも切なく歌われるのを聴くのは、想像以上の喜びでした。
確かにスゼーとアメリンクの演奏は名演ですが、あまりにも純粋すぎて、フォーレの一つの面しか伝えていないのかもしれない・・・と遅まきながら気がついたような気がします。レクイエムもそうですが、フォーレの音楽は純粋だと思っている人も多いことでしょう。しかし、それだけではない、すごく多面的なものを持ち合わせているんだとしみじみ感じました。
ただし、ピアノのグラハム・ジョンソンについてはちょっと?です。シューベルトもフォーレもシューマンも同じように巧く弾けるなんて人は、私は信じないぞって言ってもいいですか・・・・。

きのうのおやぢに会える、か。


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