兄は、寝てるな。.... 佐久間學

(12/11/21-12/12/9)

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12月9日

SCHUBERT
Complete Symphonies
Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre Grenoble
NAÏVE/V 5299


シューベルトの交響曲に関しては、いまだに「番号」の件が解決していません。ぜひ、早いとこなんとかしてほしいです(それは「願望」)。未完の作品の扱いで様々な意見があるのがその原因ですが、これに関して最も権威のある「国際シューベルト協会」では「交響曲は全部で8曲」と主張し、その主張に基づいて新全集を刊行しているベーレンライター社の楽譜でも、最後の交響曲、いわゆる「グレート」は、「Sinfonie Nr.8 in C」というタイトルになっています。したがって、その前の「未完成」は今まで「8番」だったものが一つ繰り下がって「7番」と呼ばれることが「正しい」ことになったのですね。

ところが、世の中には今までなじんできたものを簡単に変えられては困る、と言い出す人はいくらでもいます。その最たるものが、原子力発電所ではないでしょうか。一度事故を起こせばどれだけの被害を与えるかを目の当たりにし、もうこんなものは必要ないのだ、という「正しい」世論が形成されたにもかかわらず、いまだにその存続に固執している「間違った」人たちは数知れないのですからね。
音楽の世界でも、「昔覚えたものだから、今更変えられても困る」といった単なる郷愁だけではなく、例えば楽譜やCDのタイトルの変更には莫大の資金が必要だという「業界団体からの圧力」もあって、「正しい」作品番号がなかなか浸透しないという現実があります。モーツァルトのケッヘル番号も、「間違った」初版の番号は、おそらくこれからも使われ続けることでしょう。本当に困るのは、メンデルスゾーンの交響曲の番号です。現在「5番」と呼ばれて、さも最後の交響曲のような顔をしている「宗教改革」は、「正しく」は5曲の中では2番目に作られたものですし、本当に最後に作られたものは「3番」と呼ばれている「スコットランド」なのですからね。日本の原発がすべて無くなる日は来ても(きっとそうなると信じたいもの)、メンデルスゾーンの交響曲が「正しい」番号で呼ばれることは、永遠にないのかもしれません。
ですから、ミンコフスキが新しく録音したシューベルトの交響曲全集でも、「未完成」は「7(8)番」、「グレート」は「8(9)番」と、カッコつきで「間違った」番号を表記することで、何とか折り合いを付けようとしています。これが大人の対応というものなのでしょう。
これは、2012年の3月にウィーンのコンツェルトハウスで行われた全曲演奏会でのライブ録音です。オーストリア放送協会が録音したもので、録音スタッフには放送局の職員の名前があります。放送用のためなのか、あのだだっ広い会場で録音されたからなのかは分かりませんが、なんとも平凡な音でしかないのには、がっかりさせられます。このところ、よい録音のものばかり聴いていた反動なのでしょうが、ガット弦の高音の柔らかさがまるで聴こえてこないのでは、ちょっと辛くなってしまいます。
ミンコフスキのアプローチは、初期の作品と後期の作品との違いをことさら強調しているように感じられます。1、2、3番の終楽章などは、異様とも思えるほどの快速で飛ばすことによって、これらの作品がハイドンやモーツァルトといった先人たちの様式をきっちり踏襲していることを思い起こさせてくれます。しかし、「未完成」や「グレート」では、なんとも堂々としたたたずまいで、別格の音楽であることを教えてくれているようです。
特に「グレート」では、編成も少し増員して、厚みのある音を目指しています。弦楽器だけではなく、木管楽器はそれぞれ1人ずつ増員して「3管」になっています。さすがに「倍管」では多すぎるとの判断で、こんな中途半端なことになったのでしょうが、前列(高音)のフルートとオーボエは1番、後列(低音)のクラリネットとファゴットは2番を重ねることで、バランスをとっているのでしょう。
第3楽章のトリオでの伸び伸びとした演奏が、とても印象的です。

CD Artwork c Naïve

12月7日

FAURÉ
Requiem
Gordan Nikolitch(Vn)
Grace Davidson(Sop), William Gaunt(Bar)
Nigel Short/
Tenebrae
London Symphony Orchestra Chamber Ensemble
LSO LIVE/LSO0728(hybrid SACD)


ロンドン交響楽団のレーベルのLSOのコンサートの録音ですが、今回のメインはオーケストラではなく合唱でした。前半では、かつてECMからリリースされたクリストフ・ポッペンとヒリヤード・アンサンブルの「Morimur」というアルバムと同じコンセプト、ドイツの音楽学者ヘルガ・テーネ女史の、「バッハのシャコンヌは、前妻のマリア・バルバラの死を悼むもの」という学説に基づく、そのヴァイオリンのための無伴奏パルティータBWV1004の終曲と一緒に、合唱がそこに「隠されて」いたコラールを歌うという趣向が、まず紹介されています。
ここでは、コンサートマスターのニコリッチが、そのシャコンヌを含むパルティータを演奏、そして、後半のフォーレではオーケストラのメンバーから成るアンサンブルが、合唱のバックを務めています。
指揮をしているのは、ナイジェル・ショート。カウンター・テナーとして、イギリスの多くの合唱団に参加、1994年から2000年までは、「キングズ・シンガーズ」のメンバーとしても活躍していた、あのショートです。「シンガーズ」脱退後2001年に指揮者としての道を歩みだし、その際に創設した合唱団が、ここでも演奏している「テネブレ」です。
前半の「テーネ版」バッハの「シャコンヌ」がニ短調で終わったところで、アタッカでいきなりオルガンとオーケストラで同じニ短調のアコードが響き渡ります。これが、フォーレの冒頭の和音、曲はそのまま「レクイエム」になだれ込みます。ここで、バッハからフォーレという200年近くのスパンがいとも楽々と乗り越えられたと感じられたのは、共に「死を悼む」という意志が込められた曲だという意味がしっかり伝わって来たからなのでしょう。あるいは、サウンド的に、バッハの音楽には不可欠なオルガンのペダル・トーンが、フォーレになって初めて響き渡ったからなのかもしれません。
そう、ここで使われている版は、ジョン・ラッターが校訂した1893年稿に基づくものなのですが、そのオーケストラの編成は楽譜に記載されている「無くてもよい」という指示を忠実に守った、最小限の楽器によるものだったのです。元の編成からトランペット、ファゴット、ティンパニがなくなった分、相対的にオルガンの比重が高まることになったのでしょう。
この編成でのラッター版を聴くのは初めてです。というか、恐らく演奏される機会(つまり、楽譜が売れる機会)を増やすためでしょうが、楽譜に堂々とこのような省略の指定があったことも、初めて気が付きました。常々、同じ1893年稿でも、もう一つのネクトゥー・ドラージュ版との違いがあまりにも大きいので、ちょっと胡散臭いところのある版だとは思っていたのですが、このような扱いを見つけて、改めてその「疑惑」は強まります。
「テネブレ」は、ソリストのパートもメンバーが歌っているという超ハイテク合唱団です。今までありそうでなかなか聴く機会がなかったイギリスの精鋭メンバーの集まった少人数でのフォーレは、そのソリストも含めて完璧な演奏を聴かせてくれました。何よりも全く迷いのない精密なピッチには驚かされます。例えば、「Agnus Dei」の中ごろ、テナーのパートソロが「sempiternam requiem」とハ長調で終止した後で、ソプラノパートだけが「Lux」と「ハ」の音を伸ばしているうちに、突然変イ長調に変わるという、この曲の中で最も美しい瞬間を演出するために、ソプラノはその「ハ」の音をほんのわずか低めにとっているのですね。この音はハ長調では根音ですが、次の変イ長調では第3音になるので、このピッチだととても美しく響くことを、計算しているのですよ。
フルヴォイスの時にちょっと明るめになるのが、このコンサートの「死を悼む」というコンセプトにわずかに背いているかな、と思えるだけ、そんな制約がなければ極上のフォーレの「レクイエム」です。ステーキにしたら、美味しいでしょうね(それは「極上フィレ」)。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

12月5日

NIELSEN
Symphonies Nos.2&3
Alan Gilbert/
New York Philharmonic
DACAPO/6.220623(hybrid SACD)


あのウィーン・フィルと同じ年に創設され、アメリカで最古の歴史を誇るオーケストラがニューヨーク・フィルです。しかし、最近はひところのような華やかさに欠けるのでは、と感じるのはなぜでしょう。そもそも、現在の音楽監督が、日系のアメリカ人、アラン・タケシ・ギルバートだと認識している人が、どれほどいるのでしょう。ちょっと古い話ですが、2009年に日本有数の音楽出版社である音楽之友社から刊行された「世界のオーケストラ名鑑」というムックでは、当時はロリン・マゼールが音楽監督だったこのオーケストラに関する記述の中で、「次期音楽監督は、ケント・ギルバート」と紹介されているのですから、「アラン・ギルバート」という名前を知っている人がほとんどあらん(おらん)という日本の音楽ジャーナリズムの実態が知れようというものです。なんせ、彼が世界的な注目を集めたのが、「客席の携帯電話の音で、マーラーの9番の演奏を止めた男」としてですから、あまりにもさびしすぎます。
さらに、最近のこのオーケストラは、知る限りではCDなどをほとんど出していません。これはどこも同じこと、メジャー・レーベルにとっては、いまやオーケストラの録音などはお荷物以外の何物でもないのです。
それでも、サンフランシスコ交響楽団などは、自分たちのレーベルを作って、華々しく頭角を現してきましたが、「古参」のニューヨーク・フィルは、どうもそのようなことにはあまり積極的ではないような気がします。ライブ映像の配信などはある程度行っているようですが、地道にCDを作ることは、ほとんどやっていないのですね。
そんな状況の中で、突然リリースされたのが、このニールセンです。しかも、レーベルはマイナー中のマイナー、DACAPOですから、驚いてしまいます。実は、このデンマークを代表する作曲家は、2015年に生誕150周年を迎えるそうなのです。そこで、それに向けて彼の交響曲や協奏曲をニューヨーク・フィルによってまとめて録音するという「ニールセン・プロジェクト」が企画され、そのCD(いや、SACD)を、このデンマークのレーベルが制作することになりました。その第1弾が、この交響曲第2番と第3番がカップリングされたアルバムです。
前回書いたように、このレーベルの音へのこだわりはハンパではありません。今回も、やはりTimbre Musicが録音を担当していて、ものすごい音を聴かせてくれています。ただ、「2番」は2011年に録音されているのですが、その頃はまだ「DXD」で録音する体制は出来ていなかったようで、録音時には24bit/96kHzのフォーマットを使い、ポストプロダクションだけDXDというやり方でした。もちろん、2012年になってから録音された「3番」では、最初から最後までDXDが用いられています。
前半に収録されているのは、「3番」の方です。「広がりの交響曲」という副題が有名ですが、なぜか代理店は「おおらかな交響曲」で通しています。どうでもいいことですが。これは、まさに目の覚めるような録音、煌めくばかりのオーケストラ・サウンドが眼前に「広がり」ます。いままでSACDで聴いた時にたまに感じた「スカスカ感」が全くない、中身の詰まったまさにアナログ感満載の音です。第2楽章で、舞台裏から唐突に聴こえてくるソプラノとバリトンの歌声も、充分な「広がり」を見せています。
ところが、後半に入っている「2番」(こちらは「4つの気質」が標準タイトル)になると、音がワンランクしょぼくなっています。弦楽器の高音の伸びがちょっと不足していて、その結果音色に柔らかさがなくなっているのですね。もちろん、こちらでもあったように、録音時期が異なれば、それだけで音は変わってしまいますからなんとも言えませんが、これは録音フォーマットの違いが如実に現れた結果だと思いたくなってしまいます。SACDとは、そんな違いまでも聴き分けることのできるメディアなんですね。

SACD Artwork © Dacapo Records

12月3日

NØRGÅRD
Libra
Adam Riis(Ten)
Stefan Östersjö(Guit)
Fredrik Malmberg/
Danish National Vocal Ensemble
DACAPO/6.220622(hybrid SACD)


デンマークの「DACAPO」レーベルは、非常に良い音で録音されているという印象がありました。もちろん、SACDも積極的にリリースしています。ここで多くの録音を手掛けているのが、プレベン・イワンとミッケル・ニマンドという二人のエンジニアのチームが作った、「Timbre Music」というスタジオです。彼らは、かつて「B & K」と呼ばれていたDPA(Danish Pro Audio)のマイクをメインに使って、とても透明性のある録音を実現させています。さらに、録音フォーマットも「DXD(Digital eXtreme Definition)」という、今まではノルウェーの「2L」というレーベルでしか見たことのない超ハイレゾPCM24bit/352.8kHz)の規格を使っています。サンプリング周波数は、CDのちょうど8倍ですね。
DXD」というのは、「ピラミックス」というDAWでおなじみのマージング・テクノロジーズが開発したPCMのフォーマットです。同じデジタル録音でも、SACDではCDのようなPCM(Pulse Code Modulation)ではなくDSD(Direct Stream Digital)というフォーマットが使われています。ですから、SACDを作るためには最初からDSDで録音するのが一番のような気がしますが、実際のSACDで、DSDによって録音されたものはあまり見かけません。ほとんどは、ハイレゾのPCMで録音したものをマスタリングの際にDSDに変換したものなのですね。というのも、DSDでは、イコライジングやダイナミックス、リバーブといった編集作業をリアルタイムに行うことが出来ないのだそうです。ですから、そのような作業が必要となるものは、最初はPCMで録音するしかないのですよ。しかし、PCMの場合、マージングの資料によると、いわゆる「ハイレゾ」と呼ばれているフォーマットの中でも最高の192kHzでも、アナログ録音を忠実に再現できるDSDに比べると、まだ特性は不足していたというのです。

それが、さらにサンプリング周波数を高めたこのDXDを使うことにより、ほぼDSDと同等の特性が確保できるのですね。つまり、DXDで録音されたものは、DSDの弱点であった編集のしにくさが克服された上に、DSDと同等の「アナログに迫る」音が得られるということになるのです。
というのが「ウリ」の、今回のアルバムは、ペア・ノアゴーという1932年に生まれたデンマークの作曲家の合唱曲を集めたものです。ノアゴーは、いにしえのセリーなどに基づいた独自の作曲語法を持っている人ですが、多くの「現代作曲家」のようにロマンティックな作風に転向することなく、自らの道を歩いているような気がします。別に、体系的に彼の作品を聴いたわけではないのですが、このアルバムに収録されている3つの曲の中で、最も新しい「白昼夢(代理店による邦題)」が、最もとんがっているようなイメージを受けたものですから。
タイトルの曲の「リブラ」(1973年)は、全部で10曲から成る大曲です。編成もテノールのソロ、ギター・ソロ、2つの合唱団、そして2台のビブラフォンというかなり大きなものです。ギターだけで演奏される曲も2曲あります。そのギターの音は、この録音のおかげでとてもリアル、さらに、大活躍しているテノールも、突き刺すような張りのある声がもろに立体的に聴こえてきます。後半に入ってくるビブラフォンは、逆にとてもしっとりとした音色で、全体の音場に見事になじんで、風景化しています。そこに、「コラール・クワイア」と「アカペラ・クワイア」という2組の合唱団が、まるで聴き手を包み込むように別々の距離感で聴こえてきます。全員のメンバーで演奏される最後から2番目の曲が、とてもゆったりとした時間の流れで、和みます。
さっきの「白昼夢」(1989年/2002年改訂)と、もう1曲「回路(これも代理店の邦題ですが、恐らく誤訳でしょう。この季節は必要ですが・・・それは懐炉?)」(1977年)では、無伴奏合唱のサウンドがとても生々しく伝わってきます。そんな、ある意味では恐ろしい録音に耐えているこの合唱団の水準は、ものすごいものがあります。個人的には、テナーの音色にちょっと違和感がありますが。

SACD Artwork © Dacapo Records

12月1日

Coloratura
Anu Komsi(Sop)
Sakari Oramo/
Lahti Symphony Orchestra
BIS/BIS-1962 SACD(hybrid SACD)


「コロラトゥーラ」という、そのものズバリのタイトルで迫るフィンランドのソプラノ、アヌ・コムシの最新アルバムです。こちらは2011年の秋に録音されたものですが、フォーマットはしっかり24bit/96kHz、前回のドヴォルジャークも録音機材は同じDAWですから、コスト的には何の影響もないはずなのに、なぜ48kHzだったのでしょう。
そんなフル・スペックで展開されるコロラトゥーラは、とても生々しいものでした。時折、飽和寸前のレベルで録音されているところが出てきますが、そんなところでもしっかり、まるでアナログ録音のような「破壊感」が現れているぐらいですからね。
最初に入っているのが、グリエールの「コロラトゥーラ・ソプラノとオーケストラのためのコンチェルト」です。この曲は、かつてネトレプコがテレビで歌っているのを聴いて、この曲と、それを歌っていた人にすっかりハマってしまったという思い出があるので、つい、その時のネトレプコの強靭な歌い方を期待してしまいますが、コムシのアプローチはもっと穏やかなものでした。これはこれで、なにか包み込むような魅力にあふれていて素晴らしいものです(それにしても、あの頃のネトレプコはどこへ行ってしまったのでしょう)。ただ、後半の、それこそ「コロラトゥーラ」で迫る部分では、ことさらにテクニックは強調しない淡々とした歌い方なので、華やかさを期待している人には物足りないかもしれません。
確かに、続くトマやドリーブ、そして有名なアリャビエフの「ナイチンゲール」なども、名人芸で圧倒するという例えばグルベローヴァのようなインパクトはありませんから、「まあ、こんなものなのね」という感じがあるのは事実です。
しかし、その次の、あまりに有名なモーツァルトの「夜の女王のアリア」では、別の面で圧倒されることになります。単なる声によるアクロバットのような印象の強いこの曲に、コムシは全く別の意味を持たせていたのです。それは、「言葉」の重さを強調すること。冒頭の「Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen」というフレーズの「 kocht(煮えたぎる)」という単語に込めたモーツァルト(シカネーダー?)の意志の強さをこれほどまでに感じさせてくれる演奏には、いまだかつて出会ったことがありません。メインのコロラトゥーラでも、後半の三連符のあたりからいきなりシフトアップして猛烈な勢いで疾走するというような表現も、とても斬新です。
最後の、シベリウスのソプラノとオーケストラのための交響詩「ルオンノタール(大気の精)」は、「コロラトゥーラ」とは無縁の、深遠な世界がたまりません。
そして、その前に入っているのが、恐らくこのアルバムの目玉であろう、この録音の直前に初演されたばかりの、彼女のために作られたモノドラマ「存在の機械」という、聴きごたえのある作品、そして演奏です。コムシは、このような「現代作品」に関しては、スペシャリストとして認められている人なんですね。この作品は、クラシックの作曲家ではなく、ジョン・ゾーンというジャズのサックス奏者として知られているミュージシャンの手になるものです。ゾーンはこのように「前衛的」な作曲活動も幅広く手掛けているということですが、実際に聴いたのはこれが初めてです。3つの部分から成るこの作品、最初の部分ではほとんどシェーンベルクのような、時代遅れの無調の世界が広がっていたのにはちょっとひるんでしまいましたが、あのような無機的な音列を使っているのに、何か肉感的なものが感じられるのは、ひとえにコムシの豊かな表現力の賜物でしょう。最後の部分などは、ほとんど「よがり声」のような、エロティックなものです。バックのオーケストラの緻密な演奏(即興ではなく、きちんと記譜されているのでしょう)も、刺激的です。
指揮をしているのは、彼女のパートナー、サカリ・オラモ、こんな曲でサカリがついたら、どうするのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB

11月29日

DVOŘÁK
Symphony No.9
Claus Peter Flor/
Malaysian Philharmonic Orchestra
BIS/BIS-1856 SACD(hybrid SACD)


BISの品番の付け方が変わりましたね。今までは「BIS-SACD-○○○○」もしくは「BIS-CD-○○○○」だったものが、上のように「SACD」や「CD」が最後に来るようになりました。どうでもいいことですが、この方が並べたときには凸凹がなくなってきれいですね。というより、BISはこれで今までのようにCDSACDとをランダムに出していくという方針を、はっきり示しているのではないでしょうか。SACDに一本化すれば、こんなことをする必要もないのに。
リリースされたのはこの前の「8番」よりも後ですが、録音はこちらの方が2年ばかり前の2009年です。ただ、最近は正直に録音フォーマットを記載するようになったライナーによると、どちらも24bit/48kHzのPCMなのだそうです。SACDで出すのなら、ちょっとこれでは物足りないスペックですね。実際、時折SACDを聴いていて不満に感じられる弦楽器の質感が、ここではかなりスカスカに感じられてしまいます。ただ、同じレーベルで同じスペックのベルゲン・フィルの場合は、もっと高密度の音が楽しめているので、一概にスペックだけで左右されるものではないのかもしれません。現に、ショルティの「指環」(こちらはBDオーディオですが)などは、同じスペックでも全く不満は感じられませんからね。
録音データをもっと詳しく見てみると、「新世界」と、カップリングの「チェコ組曲」を録音したのが、2009年の8月、もう1曲、「わが故郷」序曲は翌年2010年の9月です。つまり、「新世界」などは、クラウス・ペーター・フロールがこのオーケストラの音楽監督に就任した最初のシーズンが終わったオフの時に録音が行われたことになりますね。
確かに、ここで聴かれる「新世界」には、なにか指揮者とオーケストラが完全には一体化していないもどかしさのようなものが感じられます。基本的に、このオーケストラは湿っぽい情緒といったものには無縁の表現でサラッと演奏しようとしているところを、指揮者がなにか「重み」を付けたくて小技を要求しているような気がするのですね。その結果、全体の流れがとても整合性にかけたような仕上がりになっているところが、なんとなく目についてしまうのです。
ただ、第1楽章などではそんなチグハグなところがあったものが、曲が進むにつれてそれほど気にならなくなっていきます。もしかしたら、指揮者がそんな流れを悟って、あまり抑えつけずに団員の好きなようにやらせようと思うようになって行ったのかもしれません。いや、これはあくまで憶測にすぎませんが。でも、第3楽章のスケルツォの軽やかさや、トリオののびのびとした歌い方などは、まさにオーケストラの自発性が満開という感じがしてしまいます。
フィナーレも、最初のファンファーレからして何の気負いもなく軽々と吹いているあたりは、金管奏者の余裕のようなものを感じてしまいます。そう思って聴いていると、このオーケストラのメンバーは、誰もいっぱいいっぱいになって演奏しているようなところはないのですね。がむしゃらにならなくても、あっさり弾けてしまうような名手の集まりなのでしょうから、すべてのフレーズが「余裕」にあふれているように感じられます。
「チェコ組曲」も、そんな意味で、臭さたっぷりの「民族性」などは全く見当たらない、スマートさにあふれています。それでいて、しっかりドボルジャークらしさは感じられるのですから、これは恐るべきことです。もちろん、甘ったるいところなんかはありません(それは「チョコ組曲」)。
その1年後に録音された「わが故郷」では、後半の生き生きとした部分で、そんなオーケストラにだいぶ指揮者が馴染んできたことがうかがえるような、もはやなにも迷わずに突進する潔さが現れているのではないでしょうか。
とは言っても、「8番」のようにさらに伸びやかな演奏になるまでには、もう少し時間が必要だったのかもしれませんね。

SACD Artwork © BIS Records AB

11月27日

音響技術史〜音の記録の歴史〜
森芳久、君塚雅憲、亀川徹共著
東京藝術大学出版会刊
ISBN978-4-904049-25-9

最近の録音技術は日々進歩をしていますから、それに関する資料もすぐヒビが入って古くなってしまいます。インターネットの情報はあまりにもいい加減ですし、専門的な書籍の大半は、あまりにも出版されてから時間が経ち過ぎていて(この世界、5年前の知識など全く役に立ちません)何の価値もありません。そんな中で、たまたま見つかったこの本は、1年半ほど前に出版されたもの、ギリギリで現在でも通用する情報が載っているのでは、という期待を持って入手してみました。
出版社が「藝大」というのが気になるところですが、恐らくこれはそのような芸術系大学での教科書として作られたものなのでしょう。ところが、いかにも教科書っぽい地味な装丁のなかに、恐らく、この教科書を使って「音響学」あたりの講義を受けるであろう大学生などは、その現物すら見たこともないようなオーディオ・パーツである「ムービング・コイル」タイプの「カートリッジ」の超拡大断面図などというものがあったのには、ただならないものを感じないわけにはいきません。

期待通り、本文は、最新の技術情報まできちんと網羅した、とても丁寧に作られたものでした。それは、エジソンが「フォノグラフ」を発明する以前に、すでに音を記録する機械「フォノトグラフ」を発明したレオン・スコットという人物の存在から始まります。ただ、それは単に「記録」するだけで「再生」はできなかったものが、今世紀になってコンピューター処理によって再生もできるようになったのだそうです。このあたりから、すでに音響史を塗り替えるような記述です。
それに続く歴史は、今までに多くの資料からすでに得られていた事柄が並ぶことになるのですが、著者(大半は森さんが執筆しています)の語り口には単に文献をなぞるだけの素っ気なさは全くなく、何か実況中継を見ているような生々しさが込められているものですから、とても楽しく読めてしまいます。辛抱の足らない学生たちも、これにはきっと飽きることは無いでしょう。それは、先ほどのエジソンの発明の場面もそうですし、さらにはLPレコードを発明したピーター・ゴールドマークの仕事ぶりの記述などにもいかんなく発揮されています。
そのような、歴史的な出来事の一つとして、「デジタル録音」も語られています。NHKによる世界初のデジタル録音機のデモの様子や、その後ソニーによって開発され、やはり世界初の共通規格によるデジタルメディアとなったCDの誕生の経緯などは、筆者が当事者と極めて近い立場もあったことによって、劇的な記述となりました。これはまさに「当時」ならではの生々しい語り口です。なんせ、その時に共同開発者のフィリップスが主張したのは、14bitという規格だったのですからね。それを、あくまで将来的な望みを託して最後まで16bitを譲らなかったソニーの姿勢は、立派だったというほかはありません。その頃は、開発に携わった人たちが、このフォーマットがLPよりすべての点で優れたものであり、それまでになかった最高のクオリティのものであることを信じて疑わなかったことも、ここからはまざまざとうかがえます。これは、当時の様子を伝える、まさに「一次資料」です。
もちろん、筆者はそんな過去の事例にはこだわらず、より高音質のフォーマットであるSACDについても、しっかり言及します。ただ、ここではあくまでそのソースがDSDによるものと限定しているのは、やはり1年半前の認識なのでしょう。現在のSACDのソースや配信ソフトの大半を占めるハイレゾPCM音源についてもきちんと語られていたならば、言うことはなかったのですが。
いずれにしても、いやしくも録音メディアに関わっている人ならば、ここに示されている情報ぐらいは最低限知っておかなければいけません。

Book Artwork © Tokyo Geidai Press

11月25日

最新クラシックのSACDカタログ&ガイドブック
レコード芸術&Stereo
音楽之友社刊(
ONTOMO MOOK
ISBN978-4-276-96223-1

2000年頃に日本のソニーとオランダのフィリップスによって共同で開発された、それまでのCDよりもはるかに広いダイナミック・レンジと周波数レンジを持つ新しい音楽メディアSACD(言うまでもなく、「Super Audio Compact Disc」の略称、「Sex And the City DVD」ではありません)は、その2つのメーカーの主導で華々しくデビューを飾り、SONYUNIVERSALのレーベルから一時期かなりの数のアイテムがリリースされました。しかし、ほどなくして、そのようなメジャー・レーベルは、ぱったりとSACDに対しての興味を失ってしまいます。CDというフォーマットはすでに音楽再生の媒体としてはすっかり成熟していましたから、少しぐらい音がよくなったとしても、CDとの互換性のない製品のために消費者がそれ以上の投資をすることは期待出来なかったのでしょうね。
ただ、そんな中にあって、外国のマイナー・レーベルでは、しっかりその可能性を認めて、細々とSACDをリリースしてくれていました。さらに、その頃相次いで創設されたオーケストラの自主レーベルが、多くのところで最初からSACDを採用していたことも、見逃すわけにはいきません。
一方、日本国内では、一部のマイナー・レーベル以外ではほとんど黙殺されていたSACDですが、さるオーディオ・メーカーが、メジャー・レーベルの音源の積極的なSACD化を進め、2009年には、なんとあのDECCAの古典的な名録音、ショルティの「指環」全曲をSACD化するという偉業(当時は、誰しもそう信じていました)を成し遂げました。そこで、一気にオーディオ・ファンを中心にSACDへの熱が高まり、それまでの、CDも同時に演奏できる2層のハイブリッド・タイプだけではなく、SACDのみのシングル・レイヤー・タイプが、メジャー・レーベルから大量にリリースされるようになったのです。
そんな流れに乗って、こんなムックが発売されました。まさに格好のタイミングで、誰もが求めていた「ガイドブック」が出た、と喜ぶべきなのでしょう。
ところが、今までにリリースされたSACD全体の中では、国内で作られたものなどほんのわずかしかないというのに、このムックでは「国内盤」、つまり、国内のメーカーが製造したものか、外国で作られたものを日本向けに品番を変えて販売したものだけしか扱わないという、なんとも不思議なことが行われています。つまり、このページでも頻繁にご紹介してきた「2L」、「BIS」、「CHALLENGE」、「CHANNEL」、「DA CAPO」、「LINN」、「LSO」、「PENTATONE」、「RCO」・・・といった、SACDを語る上では欠かすことのできないレーベルの製品については、一部の国内仕様品を除いては全く触れられていないのです。これは、「片手落ち」などというハンパなものではなく、ほとんど「手足をもがれた」状態に等しいのですよ。一体、これを編集した人たちは、本気でSACDの「ガイド」を作ろうと思っていたのでしょうか。
ただ、彼らが国内盤を偏愛している理由については、思い当たらないわけでもありません。国内盤のSACDというのは、輸入盤に比べると価格が異常に高いのですね。例えば、EMIのハイブリッド盤などは、全く同じ曲目でマスターも全く同じものが輸入盤では国内盤の四分の一の価格で購入できますし、ほとんどが国内盤でしか手に入らないシングル・レイヤーのSACDに至っては、1枚4500円という、ベラボーな価格設定なのです。お分かりでしょう?そんなぼったくりに、利益を共有するこのお粗末なジャーナリズムが加担しないわけがないのですよ。
お粗末なのは、原稿を寄せている「センセー」方も同じことです。「当初から、デジタル・サウンドは、最低でもSACDの規格以上のものがタタキ台になってほしかった」などと、バカなことを口走っている人に、「デジタル・サウンド」を語る資格はありません。そもそも、CDが出来た「当初」には、SACD並みの規格など、どこにも存在していませんでしたし、その頃の「評論家」はこぞってCDの音質を褒めそやしていたのですからね。

Book Artwork © Ongaku no Tomo Sha Corp

11月23日

BEETHOVEN/Symphony No.3
MENDELSSOHN/Symphony No.4
Bruno Weil/
Tafelmusik Baroque Orchestra
TAFELMUSIK/TMK1019CD


カナダのターフェルムジーク・バロック・オーケストラが新たに立ち上げた自主レーベルについては、先日ご紹介しました。その時は以前SONYから出ていた昔のアイテムの移行品だったのですが、今回はこのレーベルによる最新録音、言ってみればデビュー作です。なんせ、今年の5月のコンサートのライブ録音ですからね。まだ、湯気が立っているほどですよ。
録音を担当しているのは、SONY時代に引き続き「TRITONUS」だったのは、嬉しいことです。というか、彼らはレーベルに関係なく、ずっとこの録音スタジオのクライアントだったようですね。現在では、かつてあったようなレーベル独自のサウンド・ポリシーというものは失われてしまいましたが、このようにアーティストがどのようなプラットフォームでも常に同じスタッフに録音を任せるということで、しっかり独自の「音」を主張できるようになっているのでしょう。そういう意味で、オーケストラの自主レーベルというものも、結果的に大レーベルの言いなりではない自分たちのサウンドを打ち出せる絶好の場となりうるものなのかもしれません。
収録曲はメンデルスゾーン、ベートーヴェンの順に入っているのですが、あえて「エロイカ」から聴いてみましょうか。なんせ、このオーケストラの編成は、弦楽器が7.6.4.4.3という、通常のモダン・オーケストラの半分以下の陣容ですから、この曲のような堂々としたイメージが固定化されているものではどんなことになるのか、とても興味がありますからね。
予想通り、この「エロイカ」はとても小気味よいものでした。いや、それはすでに20世紀後半の多くのピリオド・オーケストラによって味わっていたものではあったのですが、そのような流れがいったんモダン・オーケストラでも試みられた後での、まさに一皮むけた21世紀の「ピリオド」の新しいスタイルがここでは感じられたのです。
それがどういうものなのかを的確に言い表すのは困難ですが、なにか、すべての面で吹っ切れた奔放さのようなものは、その一つの表れなのではないでしょうか。ここでは、長い年月をかけて培われてきたであろう、ベートーヴェンの演奏の「伝統」のようなものは、ものの見事に消え去っています。
そんな風に思える一つの例は、第1楽章の展開部のちょうど真ん中あたり、次第に合奏が盛り上がって最後はFmaj7の緊張した和音で終止した後、その緊張を解くかのように弦楽器だけで減7くずれ→属7と解決していく4小節間の間です(280-283)。この部分を、今までの「伝統的」な演奏ではかなりの「ドラマ」を演出していたものでした。それは、「ピリオド」の先駆けであった「ハノーヴァー・バンド」や「ロンドン・クラシカル・プレーヤーズ」であっても少なからず行われていました。しかし、ここでのヴァイルの指揮は、いとも淡々と楽譜通りに進んでいくだけ、余計な仕草は一切差し挟まない潔さです。どんな場面でも一瞬たりとも立ち止まらず突き進むスタイルは、ありそうでなかったもの、おそらく、このあたりがこれからの「世界標準」になってくるのでは、という思いに駆られるほどです。
トリトヌスの録音は、ヴァイオリンのガット弦の繊細さを、しっかりとした力強さに変えていました。そこからは、ベートーヴェンに対する明晰な意図さえ受け止めることが出来るでしょう。そんな流れの中で、第2楽章で聴こえてくる鄙びたオーボエの音色などは、的確なインパクトとなっています。
ところが、なぜかカップリングの「イタリア」では、テンポはもたついているし、管楽器のテクニックは冴えないし、徒(いたずら)に鈍重な表現に終始しているのが不思議なところです。ライブだからこんなこともあるのでしょうが、もしかしたら、ヴァイルはメンデルスゾーンにこそ「重み」を持たせたかったのかもしれません。しかし、それはちょっと賛同しかねる企てです。

CD Artwork © Tafelmusik Media

11月21日

DEBUSSY
Orchestral Works
Jos van Immerseel/
Anima Eterna Brugge
ZIG-ZAG/ZZT313


1987年にジョス・ファン・インマゼールによって創設された「アニマ・エテルナ」は、今年創立25周年を迎えることになりました。初めて知ったのですが、この名前は創設者インマゼール(Immerseel)の名前を、ラテン語に訳したものだったんですってね。Immer=eterna(永遠の)、Seel=anima(魂)ということになるのでしょうか。そうなると、この団体はまさにインマゼールあってのユニットなわけですから、単独でほかの指揮者とコンサートやレコーディングを行うことはできないのでしょうね。「ヴァン・ヘイレン」や「ボン・ジョビ」みたいなものでしょうか。
しかし、かつてCHANNELレーベルでインマゼールのフォルテピアノの伴奏をしていたころは、ごく普通のピリオド・オケだったものが、今ではインマゼールは専業指揮、守備範囲もロマン派まで広がっていたな、と思っていたらもはやこんな印象派まで手掛けるようになっていたとは。
もちろん、時代が変わっても、「その当時演奏されたのと同じもの」を目指すというコンセプトには変わりはありません。今回のドビュッシーでも、そんな、19世紀と20世紀をまたぐ頃にフランスで使われたであろう楽器が使われています。もちろん弦楽器はすべてガット弦を使用、ハープは「エラール」、チェレスタは「ミュステル」と、メーカーまでしっかりクレジットされていますよ。
さらに、弦楽器のサイズでも、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンがともに「12人」で演奏されているのも、ドビュッシーの指定にしっかり従ったものになっています。ここでの曲目「映像」の中の「イベリア」では、その真ん中の「夜の薫り」という部分で弦楽器が細かく分かれている(ディヴィジ)のですが、そこをドビュッシーはしっかり12人分のパートを指定しているのですね。「幻想」あたりではヴァイオリンは10人以下で済ませていましたが、ここでは最低12人はいないことには、楽譜通りの音が出てこないのですから、仕方がありません。ついでに、その「映像」の曲順も、通常の「ジーグ」、「イベリア」、「春のロンド」ではなく、「春のロンド」、「ジーグ」、「イベリア」という、作曲者の死後、1922年にアンドレ・カプレが演奏した時に採用した順番になっています。カプレはドビュッシーと親密な関係にあった人ですから、この曲順にはおそらく作曲家の意向が反映されているのでは、というのと、この方がより音楽的だというのが、インマゼールの主張です。
最初に演奏されているのは、「牧神の午後への前奏曲」です。フルート・ソロはかなり渋い音色、現代のコンサートではかなり目立って聴こえてくるはずのものが、ずいぶん奥まった感じになっていて、ほかの楽器が入ってくると、このフルートは完全に目立たなくなってしまいます。というよりは、この録音ではあえてドビュッシーが用いたすべての楽器がきちんと聴こえてくるようなバランスにしたのでは、と思えるほど、普通はあまり気にならないフレーズや音色が印象深く伝わってきます。これは、ちょっとすごい録音ですよ(「TRITONUS」が手がけたものです)。そこからは、ドビュッシーのまさに天才的なオーケストレーションの極意が、透けて見えるようです。特に、打楽器のほんのちょっとした扱いが全体の響きにもたらす影響は絶大であることがはっきりわかります。有名なのは、最後に現れるサンバル・アンティークでしょうが、それ以外にも「隠し味」は数知れず、ドビュッシーの魔術に酔いしれるひと時でした。
続く「海」と「映像」という大曲も、そのような感覚的な魅力は満載です。やはり、チェレスタはミュステルに限ります(今はもう製造されていません。見捨てるには惜しい楽器です)。しかし、何か流れに背いたフレーズの作り方とか、ほとんど生気が感じられない「イベリア」とか、いつもながらインマゼールの指揮ぶりにはがっかりさせられてしまいます。

CD Artwork © Outhere Music France

おとといのおやぢに会える、か。


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