教えろっ!.... 渋谷塔一

(04/7/21-04/8/8)


8月8日

BEETHOVEN
Piano Concertos Nos.1,2&4
Valéry Afanassiev(Pf)
Hubert Soudant/
Mozarteum Orchester Salzburg
OEHMS/OC 344
前作のアファナシエフ&スダーンによる「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲3番、5番」が発売された時、「実は全集で録音されたけど、残りは発売されないかも知れない」と言う噂がまことしとやかに囁かれていました。例の如く、あまりにも異様な演奏のため、スダーンが「もう発売しちゃいやーん」と言ったとか、言わないとか、それは定かではありませんが、とにかく、私の好きな4番を聴く事は諦めていたのです。
それが突然の発売決定!自他ともに認めるアファナシエフファンの私。もちろん、店頭に並んだその日に購入したのでした。しかし、こうして原稿にするのが遅くなったのは他でもありません。最近の猛暑で夏バテ気味の私の頭には、この演奏はあまりにもへヴィだったのです。
今回も2枚組。4番から聴いてみました。冒頭のピアノソロから独特です。大抵のピアニストが呟くように奏する静かな和音の連なり。それをアファナシエフは、一音一音叩きつけるかのように、または噛み締めるかのように奏します。もちろんアファナシエフの最大の特徴である弱音の持続。思わず耳を欹ててしまいます。「まるで不整脈のような音楽」、尋常ではありません。続くオーケストラの提示部、ここはテンポが遅めとは言え、まだまだ伸び伸びとした音楽です。しかし、ピアノが入ってくると一転、「不健康な音楽」になってしまうのがアファナシエフらしいところ。本来なら、ベート-ヴェンの音楽の中でも1、2を争う、女性的で流麗な美しさが横溢する第1楽章でさえ、音楽はぶつ切りにされ、切り口を押し広げられ、その内臓を顕わにされてしまうのです(おおいっ)。これにより、確かに外見の美しさは損なわれますが、組織を形作る細胞の一つ一つの美しさを実感できるのです。まるで人体解剖図をみるような、嫌悪感とわくわく感がないまぜとなる快感。自分自身の皮膚を捲ってみると、いろいろな物があるんだなと再認識する一瞬でもあります。これこそがアファナシエフを聴く悦びかもしれません。
しかし、前述の通り、夏の暑い時は物を突き詰めて考えたくないのが本音。で、4番は涼しくなったら再度聴いてみる事にしましょう。そこへ行くと、1番、2番は比較的親しみ易い音楽と言えます。特に2番は、テンポは遅めではあるものの、アファナシエフらしくない(?)優しい音楽に満たされています。ただし、濃厚さの少ないアファナシエフを聴くくらいだったら他のものを聴きたいというのも本音ですが。と、なると今の時期は1番が一番オススメかもしれません。程よいアファナシエフらしさと、ベートーヴェンの過渡期の音楽がマッチした名演です。

8月6日

BEETHOVEN
Flute Serenade etc.
James Galway(Fl)
The London Virtuosi
EMI/585900 2
最近は、大物アーティストが所属レーベルを変えることが多くなっています。なんと言っても、その最大のものはTELDECからBMGへ移籍したアーノンクールでしょうか。彼の場合は、TELDEC自体がなくなってしまうという、いわば親会社のリストラの影響なのですが、そのBMG傘下のRCAのまさに目玉といっても構わないゴールウェイまでがDGに移籍したというニュースには、本当に驚いてしまいました。BMGには真にクラシック音楽を盛り上げていこうとする後ろ盾があったという噂を聞いていただけに、にわかには信じられない思いでした。一説では、あまりに高騰してしまったギャラを払えなくなってしまったためだとか、彼のようなスーパースターになってしまうと、ビジネス的にもさまざまな思惑が交錯してくることでしょう。
30年前のゴールウェイは、そんなビッグビジネスには縁のない、しかし野心に満ちたいちオーケストラプレーヤーでした。1969年に「世界一」のオーケストラであるベルリン・フィルに入団、首席フルート奏者として、多忙な毎日を送っていたのです。1972年に、彼がその前に所属していたロンドン交響楽団のコンサートマスター、ジョン・ジョージアディスや、首席オーボエ奏者アンソニー・キャムデンが中心になって、「ロンドン・ヴィルトゥオージ」というアンサンブルが結成されると、ゴールウェイもベルリンから駆けつけて録音に参加、それが2枚のLPとなって、Abbey Recordsからりリースされます。もちろん、こんなマイナー・レーベルは国内盤が発売されることはありませんでしたから、このLPはかなりのゴールウェイ・ファンでも、その存在すら知らなかったというレアなものだったのです。それが、今回、EMIの「Classics for Pleasure」というバジェットレーベルで、ゴールウェイが参加している演奏だけを集めたコンピレーションとしてCD化されました。しかも、値段は上がってはいません(それは「インフレーション」)。曲目は表題のベートーヴェンのセレナード、バッハのホ長調のソナタ、そして、テレマンのホ短調のトリオソナタです。ベートーヴェンとバッハは後にRCAに録音していますが、テレマンはこれが唯一の録音のはずです。
そんな、まだソリストとして活動することなど考えてもいなかった頃のゴールウェイ、しかし、その音楽のスケールの大きさと、強い存在感を主張している豊かな音には、その後のゴールウェイと何ら変わらないものがあります。というより、RCA時代に見られるソフトフォーカスのかかったゴージャスな録音に慣れた耳には、なんの飾りもないこちらの録音からは、ゴールウェイの生の息吹のようなもがはっきり伝わってきます。それが最も強く感じられるのは、キャムデンのオーボエとの丁々発止のやりとりが楽しめるテレマン。バッハあたりでは、ガンバ奏者の技量がちょっと現在の水準ではないため、やや足を引っ張られている感は否めません。それにしても、ネットで見付けた当時のジャケ写を見ると、今の好々爺ぶりなど全く想像できない風貌、ここからは、何か異端児のようなとんがった情念すらうかがうこともできるのでは。

8月4日

高橋悠治
ぼくは
12
中山千夏(Vo)
BRIDGE/BRIDGE-020
ブリッジというのは、昔の音源を復刻して、主にネットで販売している会社です。男性用下着ではありません(それは「ブリーフ」)。今回「男たちよ!」というシリーズで、70年代という激動の時代に確かなメッセージを発信していた女性アーティストたちの作品を集中的に復刻してくれました。その中に、秋吉久美子とか安田南、そして花柳幻舟、戸川昌子(な、懐かしい!・・・というか、このあたりを懐かしめる私って。)に混じって、こんなアルバムがあったのには驚いてしまいました。
まさに70年代、当時の日本コロムビアは世界で最初に商業ベースで実用化したというデジタル録音機材を携えて、国内外で意欲的に新録音を展開していました。なかでも、その会社のプロデューサー(ディレクター)だった川口義晴という人は、高橋悠治を起用して、ケージ、サティ、バッハなどのアルバムを定期的にリリース、この天才ピアニストの研ぎ澄まされた感性で全く新たな顔を持つに至ったこれらの作曲家の作品を広く世に知らしめていました。コンサートで「ゴルトベルク」を演奏したあとにすかさずそのアルバムを出す、というような、今で言うタイアップのようなことまでやっていたはずで、その刺激的な演奏はある一部の人たちには絶大な賛同をもって迎えられていたのです。そんな流れの一環で製作されたのが、このアルバムです。これは、クセナキス門下(というのは、あるいは見当はずれな言い方かもしれませんが)の作曲家として、一時期数学的な原理に基づく緻密な曲を作っていた高橋が、次第に即興性の勝った作風に変貌、さらには政治的な運動に深く関わっていくことになるという、その、まさに一人の作曲家の過渡期の姿を記録した記念碑的なものとして、本来はとらえられるべきものなのでしょう。
しかし、30年近くの時を経て、このアルバムは全く別の側面を見せることになります。録音時には作曲者高橋の単なる「駒」に過ぎなかった中山千夏の、まさにレアなソロアルバムとして、「復刻」されたのです。レーベル面やジャケットが完璧に初出のLPのものをなぞっているのとは裏腹に、ライナーノーツの文章からは、作詞者の父親のコメントや、高橋自身による「民衆の音楽を取り入れるのは、個人主義的表現をさけ、民衆の間でみがきあげられた表現をあたらしい目的にしたがって再生するためだ。」という「檄」は消え去っていました。その代わり挿入されているのが、オリジナルには一行の記述もなかった「アーティスト」中山千夏のプロフィールなのです。
「ぼくは12歳」という作品が、例えば以前ご紹介した竹田恵子の演奏によって「現代日本歌曲」としての地位を獲得したように、時間の経過は誕生時に確かに存在していたはずのメッセージをもたやすく変貌させてしまいます。「冬ソナ」によって、かの国との関わり合いが変わったと本気で信じられている風潮の中では、高橋が込めた「毒」はものの見事に消え去り、このアルバムがあたかも「ちょっとエスニックな70年代のニューミュージック」であるかのような復刻をされても、誰も疑うものは居ないのです。

8月2日

MARX
Orchestral Songs
Angela Maria Blasi(Sop)
Stella Doufexis(MS)
Steven Sloane/
Bochum Symphony Orchestra
ASV/CD CDA 1164
ヨーゼフ・マルクス(18821964)の歌曲集です。自らの作風を「ロマンティック・リアリズム」と評し、生涯のほとんどを歌曲の作曲に費やした人です。(とは言え、私が始めてマルクスを聴いたのはピアノ協奏曲でしたが。)
マルクスの活躍した時期というのは、まさに「多様化の時代」でした。マルクスと同じ、1882年に生まれた作曲家を一瞥しても、カールマン、グレインジャー、コダーイ、シマノフスキ、そしてストラヴィンスキー、トゥーリナ、マリピエーロなどの錚々たる名前が見えます。十二音音楽が発展、無調への道を辿るかと思えば、それに逆らい、敢えて古典派に戻ってみる人。民族主義を突き詰める人、ジャズに可能性を求める人、そして、頑ななまでに“古き良き時代”を守り抜く人。様々です。もちろん、マルクスは生涯ロマンティックな作品に拘り続けました。
ここに収録されているのは、彼の多くの歌曲の中から彼自身がオーケストラ伴奏に編曲したものです。その内17曲は1910年前後に書かれたもの、そして歌曲集「変容する年月」は193032年の作曲ですが、作風が大きく変わることはありません。マーラー(これはアルマの方)とツェムリンスキー、そしてR・シュトラウスを足して3で割ったらこうなります・・・・という見本のような曲。そして、ハイゼの詞による「イタリア歌曲集」はヴォルフの影響を受けています。耳に心地良い、健康的な官能に満ちています。暖かく澱んだ海の中を漂うようなオーケストラの響き、そして、当時流行の詩人たちの退廃的な言葉、作曲当時のウィーンそのものが、これらの歌曲に宿っていると言っても過言ではないでしょう。中でも「バルカローレ」。この曲が飛びぬけて耳に残ります。日本語で「舟歌」というこの曲、八分の六拍子の流れるような曲ですが、いつの間にか四分の三拍子、ウィンナ・ワルツに変貌してしまうかのような、ステキな曲です。
今回、伴奏を務めるのがボッフム交響楽団です。ドイツの小さなオーケストラで、新人の指揮者たちのキャリアの最初の方、いわば修行の場としてよく訊く名前です。こういうオケの良いところは、小回りが効くところでしょうね。この歌曲集で求められているのは、本当に多彩な音。ヴァグナー風の重厚な音から、当時流行の東洋趣味の音、ハリウッドばりの壮大な音、などの様々な世界を、少々力が入りすぎているとは言え、ここまで多面的に聴かせてくれるのはスゴイ。
1930年を越えても、メロディのある曲に拘ったのはR・シュトラウスだけではありません。無機質な調べも、それはそれで人々の慟哭を誘うのに効果的でしょうが、やはり「口ずさめる」曲は、いつの時代にも心地良いものです(気持ちを丸くする)。例え、その時は「流行遅れ」と蔑まれ、忘れ去られてしまっても、このように、時を経てから、もう一度拾い上げるだけの価値は充分にあるのですから。

7月30日

SAINT-SAËNS
Samson et Delila
Plácido Domingo(Ten)
Olga Borodina(MS)
James Levine/
The Metropolitan Opera Orchestra and Chorus
DG/073 059-9(DVD)
最近のDVDのリリースの多さに、ちょっと戸惑っているおやぢです。すでにオペラに至っては、新作はほとんどDVDのみの発売。CDで出てくるのは、昔の録音の焼き直しばかりです。今回の映像は、御存知サン・サーンスの名曲「サムソンとデリラ」。もちろん初出映像で、ドミンゴがサムソン、ボロディナがデリラという素晴らしい配役。レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団というのも、豪華な舞台が期待できるというものです。
もともとオラトリオとして書かれたこの曲、タイトル・ロールのサムソンの人物設定の弱さというか、曖昧さが逆に魅力的という、不思議な味わいを持つ作品となってます。オペラでは割愛されていますが、すぐにカッとなり易い性格で、昔からトラブルメーカーだったサムソン。神から怪力を与えられていても、その力は終ぞ良いことのためには使われることなく、ライオンを引き裂いたり、罪もない民衆を殺戮したり、物語の最後に神殿を崩壊させたり。ターミネーターも真っ青の悪いヤツでした。
しかし、サン・サーンスはそこら辺をうまくぼかし、民衆のために立ちあがるも、美しい女性の誘惑に負けてしまったかわいそうなオトコの渾身の復讐劇として、ききごたえのある音楽をつけたのです。もちろん、サムソン役のテノールが決めてになるのは間違いないでしょう。で、いつものように、ごく普通にプレイヤーにかけたところ、いきなり始まるアメリカ国歌。レヴァインが実に楽しそうに指揮をしている姿が大写しになって、「なんじゃこりゃ?」と慌ててリブレットを見る始末。何かの特別公演なのでしょうか・・・。表紙をめくると、“1998年9月28日 ドミンゴ・メトデビュー30周年記念公演”とあり、思わず納得。だから、本編も、ひたすらドミンゴがカッコよく描かれています。演出はエリア・モシンスキー。手堅い舞台を作り出すことで知られる演出家で、近作もとても判りやすいもの。怪しげなダゴンの僧たちの扮装も見ものです。彼らは手形をモティーフにした衣裳を着けていて、これがまた不気味。(この手形が、例のバッカナールで効果的に使われます)ヘブライ人の嘆きの合唱に続いて登場するドミンゴ=サムソンの貫禄溢れる歌声もたまりません。確かに声は若干衰えていますが、やはり最近のテノールでは醸し出せない独特の雰囲気。「うまいなぁ。」と感心するばかりです。デリラ役にはオルガ・ボロディナ。彼女の当たり役でもありますが、少々太ってしまったのが残念といえば残念。しかし色気はむんむんです。お約束の場面も卒なくこなし、見ている方が恥ずかしくなるほどの「あなたの声に心は開く」で、またまたドミンゴに惚れてしまいます。
このオペラで一番盛り上がるのが、例のバッカナール。妖しげな前奏、ここで踊り手の1人がなにやらどんぶりのような物を2つ取り出します。中に入っているのはペンキのようなもの。で、曲に乗りながら、そこに掌をつけ、上半身裸の男たちの背中に、次々と手形をつけていくのです。体中に手形をつけられた「ふんどし一丁」のオトコたちが並ぶ姿は壮観。鍛え抜かれた体を誇示するように踊るオトコたちの姿には、思わずドキドキしてしまいました。「これがメトの底力・・・」(違うって)。
割れんばかりの観客の拍手、そして物語は終焉に向かい走ります。ドミンゴ=サムソンの最後の呪詛、そして崩れる神殿。「これこそがメトの底力・・・・」ますます感心してしまいます。
舞台が終わっても、まだ映像は終わりません。それから延々とドミンゴへの賛辞が続きます。彼の挨拶もあります。共演者たちも、この記念すべき公演に立ち会えたことが嬉しそう。レヴァインも満面の笑みを浮かべています。
この一連の出来事を伝えるには、やはり映像があった方がええぞう、と思うのでした。

7月28日

MOZART
Requiem(Ed. Maunder)
Evgeny Almozov/
Moscow State Classic Capella
MUSICA SACRAE/MS-001
一時期、モーツァルトのレクイエムを巡って、さまざまな「版」が話題になったことがありました。そもそもモーツァルト自身の死によって、完パケが出来上がっていなかったのが混乱の始まり、とりあえず上演可能な形に仕上げた弟子のジュスマイヤーの仕事に、各方面から異議が唱えられ、「俺ならこうする」という人たちが、それぞれの立場で再構築された「レクイエム」を提案したのです。その中でも、1988年に出版された「モーンダー版」は、「オリジナル楽器によるモーツァルト」という、今でこそ誰も不思議に思わないムーヴメントの過程で生まれたもの、「これこそ、真のモーツァルトの姿」という、ある種排他的なところもなくはない、かなり思い切った手が施された版です。そのコンセプトを全うするために、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」はジュスマイヤーの創作であると決めつけて完全にカットするという強引なことも行っています。
そのような過激さのせいでしょうか、現在のところ、この版による演奏は、入手可能なものでは初演者ホグウッドのものしかありません。もはや、この版は演奏者から見放されてしまったのか、と思っていた矢先、全くノーマークのロシアの団体が録音を果たしたものが、市場に出てきました。隙間の空いたカタログを埋める、というだけでも充分に意味のあるCDです。
私たちにとっては全く知識のないこの団体、ライナーにはその意欲的な姿勢が声高にしたためられています。曰く、ロシア国内における唯一の「古楽器」の演奏スタイルを取り入れた団体である、と。実はこの録音は1994年、今から10年前ですから、その時点の話なのでしょうが、確かにロシアは古楽器、というかオリジナル楽器というものの普及(もちろん、演奏法も含めて)に関しては、かなりの後進国であるという認識は、おそらく正しいものに違いありません。それがどの程度のものか、聴いてみることにしましょう。
弦楽器の人数や、1パート4人というコーラスのサイズは、まあ妥当なところでしょうか。ただ、いかにも「オリジナル」という音はしているのですが、ピッチは現代のピッチ、ですから、モダン楽器でオリジナルの「フリ」をしているのではないか、という疑問は残ります。合唱も、特に時代を意識したというようなところは見られない、相変わらずのロシア風の大味なもの、ただ、ソプラノのソリストが、それこそホグウッド盤で歌っていたカークビーのような発声をマスターしているのが救いでしょうか(音程には問題がありますが)。では、演奏のスタイルはどうでしょう。トロンボーンのびっくりするようなアクセントとか、「キリエ」では「切れ!」と言わんばかりに合唱が音を細かく切って歌うという、最近どこかで聴いたスタイル、もしかしたら、彼らが「スタイル」と信じているものは、ある特定の演奏家の恣意的な表現スタイルではないのか、という疑問がわいてくるほど、彼らの演奏はその人のものによく似ていましたよ。
そんな、○ノンクールをコピーして「オリジナル」ぶっている可愛さや、エコーの処理やソリストのバランスが全く考慮されていないひどい録音を、大いばりで「ワン・ポイント録音」と謳っている初々しさに満ちた、まさに「珍盤」と呼ぶにふさわしいものを入手できたのは、コレクターとしての最大の喜びです。

7月26日

MERCADANTE
Flute Concertos
Mario Carbotta(Fl)
Vittoria Parisi/
I Solisti Aquilani
DYNAMIC/CDS 446/1-2
いつの間にかオペラものばかりが続いてしまいましたので、ここら辺で流れを変えなければ。いくら歌劇が好きでも、毎回というのはちょっと過激、そこで手元の新譜を眺めていたら、このフルート協奏曲集がありました。これで、やっとオペラからは離れられます。と思ったら、作曲者がメルカダンテ、やはりオペラからは逃れることは出来ません。
ジュゼッペ・サヴェリオ・メルカダンテ、あのロッシーニの少し後に生まれたイタリアの作曲家、今では殆ど演奏されることはありませんが、生前は彼のオペラは大人気で、全部で60曲以上の作品があるといわれています。様式的には、もちろんこの時代ですからベル・カント、ロッシーニ、ドニゼッティからヴェルディへ至る道のりを作った人だと、ものの本には書いてあります。晩年はナポリ音楽院の院長として、多くの人からの尊敬を集めたそうです。
そのナポリ音楽院は、彼自身が音楽家として修行を積んだところでもあります。若くして、すでに確固たる音楽家への道を目指していた彼、フルートの演奏にも長け、音楽院のオーケストラの指揮も任されていたといいます。その時期に、おそらく自分自身、ソリストとして演奏したのでしょう、全部で6曲のフルート協奏曲を集中的に作曲します。その全てが収録されているのがこのCD、もちろん全曲が収録されたアルバムは、これが初めてのものになります。「6曲」と書きましたが、実は最も有名なホ短調の協奏曲には大きなオーケストラと小さなオーケストラのための2つのバージョンがあり、それを「2曲」と数えていますので、実質的には「5曲」、それに変奏曲を1曲加えて、6曲構成の2枚組のアルバムとなっています。
華やかな技巧的を駆使した、目も覚めるようなパッセージが披露される1、3楽章、そして、豊かな叙情性をたたえた2楽章という、典型的なイタリア風の協奏曲、中でも、その最終楽章「ロンド」がイージー・リスニングにまで使われているというホ短調の協奏曲は、その親しみやすいテーマによって最も演奏頻度の高いものとなっています。ランパルやゴールウェイの名演もあって、「メルカダンテ」といえば、殆どこの曲だけを指す、というのが、現時点での彼の置かれたポジションということになるのでしょうか。
しかし、今回全ての協奏曲が一堂に会した場に居合わせてみると、その他の作品もなかなか魅力的なことに気付きます。中でも、フルート以外にクラリネットとトロンボーン(!)を独奏楽器に加えたヘ長調(「第5番」)は、変奏曲の第2楽章に続く終楽章が、まさにロッシーニを彷彿とさせる曲想となっていて、学生時代の彼が何を目指していたか、垣間見る思いです。
さて、演奏ですが、カルボッタのフルートは技巧的には申し分ないものの、ファンタジーというか、ある種のひらめきに於いて、やや物足りなさを感じてしまい、6曲全部を聴き通すのには、いささか苦痛が伴ったことを、正直に告白してしまいましょう。

7月25日

VERDI
Aida
Fiorenza Cedolins(Sop)
Dolora Zajick(MS)
Walter Fraccaro(Ten)
Daniel Oren/
Orchestra and Choir of the Theatre of San Carlo, Naples
BRILLIANT/92301(DVD)
信じられないほど低価格のCDによって、コレクターには喜びを、そして同業他社には苦々しい思いを与えてきたBRILLIANTレーベルですが、ついにオペラのDVD市場にも進出という、素晴らしいニュースです。このレーベル、DVDについては以前から手がけており、映像付きの「マタイ」全曲がなんと2000円以下で手に入るということで、ファンが狂喜したものでした。そのノリで今度はオペラです。これが喜ばずにいられるでしょうか。
今回発売になったのは4タイトル。いずれもイタリアの有名なオペラハウスでの最新のライブ映像が、やはり2000円以下で楽しめます。その中で、最も(私にとって)知名度の高い出演者が集まっている「アイーダ」を、まず見てみましょう。これは、1998年、ナポリのサン・カルロ劇場で収録されたものです。
この劇場、ヴェルディのいくつかの作品の初演も行っている由緒あるところですが、映像を見たのは初めてでした。オケピットがかなり広々としているのが印象的、下手前列に木管楽器が並んでいるというのも、珍しい配置です。その木管と、その後にいるファースト・ヴァイオリンの間を通って、日本のオペラファンにはお馴染みの指揮者、ダニエル・オーレンが登場します。イスラエル生まれの彼、なんと、頭にユダヤ人特有の帽子をかぶっていますね。その仕草は、とても活き活きしていて、そのタクトから導かれる音楽は、前奏曲の始まりから、思わず引き込まれずにはいられないような、魅力的なものです。その雄弁なオーケストラは、オペラを最後まで緊張感を伴って引っ張っていくのです。
歌手では、アイーダ役の、お馴染みチェドリンスが、ここでも圧倒的な存在感を誇示しています。力強い声、コントロールされきった表現は、現在の数多くの優秀な若手の中でも抜きんでていることが、見事に納得できる演奏です。3幕のアリアなどは絶品、その後少しコンディションを崩しますが、終幕には難なく盛り返していますから、たいしたもの。そして、アムネリス役が、ベテランのザージクです。やや音程に不安定なところがあるものの、存在感という点ではチェドリンスに負けてはいません。この二人のデュエットの、なんとスリリングなことでしょう。ラダメス役のテナーがイマイチなのが、惜しまれます。
演出は、奇を衒ったところのないオーソドックスなもの、それをとらえるカメラも、時に全景を映し、必要なところはソロのアップという、変な細工をしていない分ライブ感が良く伝わってくるものです。それでも、「凱旋の場」ではプロンプター・ボックスの中にカメラを入れて、床面スレスレのアングルから臨場感あふれる画像を届けるという粋なこともやって楽しませてくれています。
ただ、残念なのは字幕が(英語も含めて)一切入っていないということです。もしかしたら、これだけの素晴らしい映像をこんなに安く楽しむのは、他のメディアでオペラを何回も体験していて、字幕などなくても筋を追うことが出来る人にのみ許される特権なのかもしれませんね。いいんだ、いいんだ、どうせ私なんか(それは「自虐」)。

7月23日

The Woman-The Voice
Anna Netrebko(Sop)
Vincent Paterson(Dir. Chore.)
DG/073 230-9
輸入盤DVD
ユニバーサル・ミュージック/UCBG-1079(国内盤DVD
私が以前から注目していたロシアのソプラノ、アンナ・ネトレプコは、やはり型破りの才能を持った人でした。このDVDに収められているのは、以前リリースされた彼女のファースト・アルバムのプロモーション・ビデオだったのです。と言っても、彼女のスリーサイズを惜しげもなく誇示するものでは、残念ながらありません(それは、「プロポーション・ビデオ」)。今の時代ですから、クラシックのアーティストでもプロモーション・ビデオ(PV)を制作するのはそんなに珍しいことではなくなっています。○ミンゴや○ヴァロッティあたりなら、いかにも似合いそうです。しかし、このネトレプコの場合は、あのヴィンセント・パターソンという、マドンナやマイケル・ジャクソンのPVを手がけた人が監督と振り付けを担当したというのですから、気合いの入り方が違います。素材としてのネトレプコもピカイチ、監督の要求に見事に応えて、それこそMTVあたりで流れても全く遜色のない「クール」なクリップが出来上がりました。特に私が気に入ったのが、ドンナ・アンナのアリア。枯木を装ったダンサーに囲まれての独白という設定なのでしょうが、そのダンサーたちとのアンサンブルが絶妙、ちょっと今までの「オペラ歌手」だったら絶対無理だと思えるような「振り」を難なく決めているのには驚かされます。別のドレスを着た2種類バージョンを細かいカットで切り替える、というのが、いかにもPVならではのスピード感を産んでいます。ダンサーのシースルーの衣装も素敵。
ただ、実はこの程度の演出は、もはやオペラハウスではすでに始まっていることなのです。要は、それをやってサマになる歌手があまりに少ないと言うこと。ネトレプコのような人がどんどん現れれば、パターソンあたりがオペラの演出をする日が来ないとも限りませんよ。
もう一つ見逃せないのは、彼女のインタビューです。実力で成功を勝ち取ったスーパースターの、下手をしたら不遜と取られかねない、しかし率直なコメントには、好感が持てます。しょっちゅう話に出てくる「恋人」というのには、ちょっと気になりますが。そこで見られる彼女の素顔は、オペラのステージやこのPVで見られるものとはちょっと違った、例えばサンドラ・ブロックのような、少し「ファニー」なところが入ったもので、近寄りがたさよりは親しみやすさを感じるものでした。
ボーナス・トラックとして入っているのが、実際のオペラハウスでの映像です。キーロフの「ルスランとリュドミラ」こそ、しっかりした音と映像ですが、バイエルンとウィーンの「椿姫」は、ただの記録用のビデオ、特に音に関しては、とても商品としては使えないお粗末なものです。しかし、そんなショボい音の中から聞こえてくる彼女の声の素晴らしさ。そして、とてつもない存在感を見せつけるヴィオレッタ。彼女の本当の凄さは、PVなどではなく実際のオペラのステージで発揮されるという事実が、こんな「おまけ」から再確認されてしまうとは、皮肉なものです。

7月21日

VERDI
Otello
Placido Domingo(Ten)
Katia Ricciarelli(Sop)
Lorin Maazel/
Orchestra and Chorus Teatro alla Scala(Milan)
紀伊國屋書店/KKDS-124(DVD)
フランコ・ゼッフィレッリといえば、オペラの演出家としては知らないものはいないというほどの巨匠です。最初にオペラの演出を手がけたのが1948年といいますから、実に半世紀以上のキャリアを誇っているわけです。例えば秋に「凱旋」来日する小澤/ウィーン国立歌劇場の「ドン・ジョヴァンニ」にも、その古典的なプロダクションが用いられているように、彼の演出プランはすでにスタンダードなレパートリーとして世界中のオペラハウスで用いられているのです。同時に彼は、映画監督としても著名、オリビア・ハッセーが出演した「ロミオとジュリエット」(1968年)は、ニーノ・ロータの音楽と相まって、永遠の名作になっているのは、ご存じの通りです。
最近でも「永遠のマリア・カラス」(2002年)という映画が評判になったゼッフィレッリ監督ですが、少し前には「ムッソリーニとお茶を」(1999年)という、彼自身の伝記的な要素を盛り込んだ映画が公開されていましたね。バレエダンサーの男とお茶を飲む話(それは、「モッコリーニと〜」)ではなく、第二次世界大戦中のイタリアで、「敵国」に残されてしまったイギリスやアメリカの女性の逞しさを描いた作品ですが、脚本も手がけたゼッフィレッリ自身の若き日の姿が、「ルカ」と言う登場人物によって演じられていました。ここで描かれているのが、ゼッフィレッリ少年の人格形成に大きく関わったであろうエピソードです。イギリスの老貴婦人たちからは芸術に対する関心を目覚めさせられ、奔放なアメリカ人女性からは、学資の援助を受けると同時に、現代美術と、さらには淡い恋心の手ほどきまで受けるのです。この映画で印象的なのは、舞台となったイタリアの町並み。さりげなく見せるフレスコ画や石造りの回廊の中からは、ゼッフィレッリの美意識が惜しげもなく伝わってきます。
そんな、オペラ演出家と映画監督との両面で頂点を極めているゼッフィレッリが、オペラの映画を作ったというのも、ごく自然の成り行きだったのでしょう。1982年、テレサ・ストラータスを起用して「トラヴィアータ〜椿姫」を撮ったのを皮切りに、あくまでその美意識にこだわったリアリティあふれる作品を世に送ったのです。この「オテロ」(1986年)もそんな、当時最盛期のプラシド・ドミンゴをタイトル・ロールに据えた力の入った作品です。幾度となくBSなどで放送され、ビデオでも販売されていたものの、待望のDVD化となります。
なんと言っても度肝を抜かれるのは、冒頭の嵐のシーンでしょう。ステージでは絶対再現が不可能な大波に漂う帆船の姿。幾分大げさなヴェルディの音楽が、これほどのスペクタクルな映像を伴うと、なんとハマって聞こえてくることでしょう。と言うよりは、これはもはやヴェルディや、その原作であったシェークスピアすらも超越したゼッフィレッリの世界、デズデモーナの「柳の歌」という重要なナンバーさえカットすることを厭わないこだわりから生まれる、幾分暑苦しいドラマが展開される世界です。

きのうのおやぢに会える、か。


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