借り。.... 佐久間學

(15/10/5-15/10/23)

Blog Version

10月23日

REVOLUTION
Emmanuel Pahud(Fl)
Giovanni Antonini/
Kammerorchester Basel
WARNER/0825646276783


ベルリン・フィルの首席フルート奏者、エマニュエル・パユの久しぶりのソロアルバムは、なんと「革命」というタイトルでした。そういえば、少し前に彼が世界に羽ばたくきっかけとなった神戸国際フルートコンクールへの公的援助が打ち切られることに対しての、自治体への嘆願書みたいなものをネットで見かけましたね。そんな貧しい日本の文化政策を立て直すために、まずは「革命」を起こして腐りきったアベ政権を倒そう、という意気込みが込められたアルバムなのでしょうか。
もちろん、そんな勇ましいことを考えるようなパユではありませんから、それはあり得ません。この「革命」というのは、ほとんど固有名詞として使われる「革命」、つまり「フランス革命」のことです。そういえば、分かりにくいかもしれませんが、このジャケットの背景となっているのは、その「革命前夜」の象徴的な出来事「球戯場の誓い」を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドの有名な絵画の下書きですね。完成された作品はもちろんみんなちゃんとした服を着ていますが、この下書きではみんな全裸なのが興味深いですね。その前で、パユはそれこそ「レ・ミゼラブル」にでも出てきそうないでたちで空中浮遊をしています。
そう、ここでは、そんなフランス革命の時代に作られたフルートのための協奏曲が演奏されているのです。このような、ある時期を切り取ってその時代の作品を取り上げるという企画は、以前ベルリンのフリードリヒ大王をキーワードとした「The Flute King」に続いてのものとなります。今回はそれよりも少しあとの時代のフランス、という設定です。
そういうコンセプトで取り上げられたのが、ドゥヴィエンヌの協奏曲第7番ホ短調、ジアネッラの協奏曲第1番ニ短調、グルックの協奏曲ト長調、そしてプレイエルの協奏曲ハ長調です。この中ではドゥヴィエンヌの曲がかなり有名で多くのCDが出ていますが、それ以外はなかなか聴く機会はないはずです。
他のEMIのアーティスト同様、パユもレーベルの名前が変わったことには何の影響も受けなかったかのように、以前と同じかつてのEMIのプロデューサー、スティーヴン・ジョンズのもとで今回もアルバムを制作しています。ただ、ちょっと興味を引くのが、フィリップ・ホッブスとロバート・カミッジというエンジニアの名前です。この二人はLINNのプロデューサー兼エンジニアと、そのアシスタントではありませんか。LINNのスタッフが元EMIの録音を行うなんて時代になってしまったのですね。
聴こえてきたのは、まさにLINNのきめ細かなサウンドだったのでうれしくなりました。まさか、パユをこんな素敵な録音で聴けるなんて、思ってもみませんでしたよ。いや、まずパユが出てくる前のオーケストラの序奏で、その刺激的なサウンドとアグレッシブな音楽性に引きつけられてしまいました。実は、バックのオケがどこかなんてことは全くチェックせずに聴きはじめたのですね。改めてクレジットを見ると、それはジョヴァンニ・アントニーニ指揮のバーゼル室内オーケストラでした。どうりで、すごいはずです。彼らの演奏するベートーヴェンに衝撃を受けたことを、いまさらながら思い出しました。
そのオーケストラは、コンチェルトのバックにはあるまじきハイテンションの演奏で音楽をぐいぐい引っ張っていきます。もちろん彼らはノン・ビブラートの弦楽器と、びっくりするような音色のピリオドの金管楽器でめいっぱい迫ります。正直、こうなってくるとフルート・ソロなんかどうでもよくなってくるほどの存在感です。全く思いがけないところで、お腹がいっぱいになってしまいましたよ。
パユ?・・・。早い楽章での目の覚めるような軽業には圧倒されますが、ゆっくりとした楽章でのいつもながらの無気力な(本人はしっかり「抑えた」音楽を演出しているつもりなのでしょうが)吹き方には、まるでおかゆしか食べなかったあとのような空腹感しか味わうことが出来ませんでした。

CD Artwork © Parlophone Records Limited


10月21日

STRAVINSKY
Le Sacre du printemps
Teodor Currentzis/
MusicAeterna
SONY/88875061412


テオドール・クレンツィスとムジカエテルナのアルバムとしては、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の新録音が待たれるところですが、それは来年にならないと入手できません。その代わりと言ってはなんですが、2013年に録音されていた「春の祭典」がリリースされました。
彼らの本拠地はロシアのペルミのオペラハウスですが、これが録音されたのはドイツのケルンでした。この年に彼らは「ルール・トリエンナーレ」という、ドイツのルール地方(「ルール工業地帯」って、むかし習いましたね)のボーフム、エッセンを中心に毎年行われている芸術イベントに参加していたのだそうです。「トリエンナーレ」というと、普通は「3年おき」という感じですが、ここでは3年ごとにテーマというかコンセプトが変わるというような意味合いです。
2013年の10月5日と6日に、かつては工場だったような建物で、ストラヴィンスキーの「春の祭典(Rite of Spring)」が演奏された後に、ドミトリー・クルリャンツキーという、クレンツィスと同世代の作曲家が作った(?)「春の騒動(Riot of Spring)」という曲が「演奏」されていました。この「騒動」の模様をネットで見ることが出来ますが、それはほとんど「フラッシュ・モブ」のノリで、指揮者のクレンツィスがヴァイオリンをかき鳴らすのを合図に、オケのメンバーがそれぞれの楽器を勝手に鳴らし始めるというものです。そのうち、メンバーがステージから客席に降りてきて、お客さんの前で音を出すだけではなく、中には自分の楽器をお客さんに貸してあげて弾いてもらうようなシーンも見られるようになります。そんな、15分ほどの「作品」です。
タイトルからも分かるように、これはもろ「春の祭典」のパロディ、メインの「祭典」の精神のようなものを別の形のパフォーマンスとして表現していたのでしょう。
これを含めて、このコンサートのライブ録音をそのまま出しても面白かったのでしょうが、商品としてのCDではそこまでやるのは憚られたのでしょう、ここに収録されているのは、このコンサートの次の日の7日から9日までの間に、近くのケルンで行われたセッションによって録音された「春の祭典」だけです。お客さんがいないところでは「騒動」は成立しませんから、必然的にコンテンツは「祭典」だけの35分というコンパクトなものになりました。
これを聴いて、彼らによるモーツァルトのオペラを聴いた時と同じような、とても自発的で伸び伸びとしたものを感じることが出来ました。それぞれの楽器が、まるでオペラの登場人物のようにそれぞれの個性をとことん主張しているのですね。それは、冒頭のファゴットのソロに続くバスクラリネット、コールアングレ、Esクラリネット、アルトフルートといった、普段はあまり目立たない楽器たちがそれぞれにしっかり「歌」を聴かせてくれていることからも分かります。例えば、これとは全く逆のアプローチでひたすら淡々と演奏させている同じレーベルのブーレーズ盤あたりと比べてみると、まるで別の曲かと思うほどの違いが感じられることでしょう。かれはぶれずに指揮をしていました。
もう1ヵ所、今まではどの演奏でも気づかされることのなかったのに、今回初めて意識した、「春のロンド」の最初に現れて、そのパートの最後を締めくくるフレーズの持つ、抒情性です。1回目はEsクラとバスクラ、2回目はEsクラとアルトフルートによる平行15度(2オクターブ)進行によるこの単純なメロディが、こんなに哀愁に満ちていたなんて。
そして、何よりも圧巻なのが、トゥッティで盛り上がるところのとてつもないドライブ感です。それはまるで、ヘビメタのように重心の低いエネルギーですべてのものをなぎ倒すほどの力を持ったものです。うっとりするようなリリシズムと、頭をからっぽにして浸れるヴァイオレンス、そのどちらもてんこ盛りの爽快感が、ここにはあります。

CD Artwork © Sony Music Entertainment


10月19日

MOZART
Li Ratto dal Serraglio
Filippo Morace(Osmino), Francesco Marsiglia(Belmonte)
Sandra Pastrana(Constanza), Gabriele Sagona(Selim)
Carlos Natale(Pedrillo), Tatiana Aguiar(Bionda)
Giovanni Battista Rigon
I Polifonici Vicentini, Orchestra del Teatro Olimpico
BONGIOVANNNI/GB 2476


先日フランス語版「魔笛」というゲテモノを聴いたばかりなのに、またまたモーツァルトのドイツ語のオペラを改変したもののCDが出ました。今回は「後宮」のイタリア語版です。
「魔笛」同様、こちらも改変を行った張本人の名前はわかっています。それは、ペーター・リヒテンタール。こちらでやはりモーツァルトの「レクイエム」を、なんと弦楽四重奏に編曲していた、モーツァルトおたくのアマチュア音楽家です。本職は医者ですが、オーストリア・ハンガリー帝国の役人として、イタリアのミラノに赴任していました。そこでモーツァルトの長男であるカール・トーマス・モーツァルトと友人になります。そして、リヒテンタールとカールの二人は、作曲家の死後はほとんど顧みられなくなったモーツァルトのオペラをミラノのスカラ座で上演するために奔走したのです。その甲斐あって、1800年代の初頭には、彼の主なオペラはほとんどスカラ座で演じられることになりました。
しかし、「後宮」の場合は、そのトルコ趣味の故に、なかなか取り上げられなかったため、リヒテンタールはまずは単にテキストをイタリア語に直したものを作り、それは1824年にはブライトコプフから出版もされました。しかし、彼は後にさらにこの作品の魅力を彼の同時代の趣味に合わせたものに作り替えようと、新たな「改訂」を行います。そして、1838年に完成したのが、このCDに録音されているバージョンです。彼としては、良かれと思って行った多くの改変は、しかしそれほど受け入れられず、結局当時はスカラ座で上演されることはありませんでした。同じオペラハウスでイタリアで初めて「後宮」が上演されたのは1952年のことだったのです。もちろん、これは普通のイタリア語バージョン、ここでは若かりしマリア・カラスが出演しています。スカラ座のカラス
このリヒテンタールの1838年の改訂版は、長いことミラノ音楽院の図書館に保存されていましたが、それを用いて2012年の5月に世界で始めた上演を行ったのが、イタリアのヴィチェンツァにあるオリンピコ劇場でした。しかし、このCDライナーノーツを執筆したマルコ・ベゲッリさんが、「この初演は、おそらく最初で最後の上演となるであろう」というフレーズでその分を終えているのが、何とも異様です。
このCDは、その上演のライブ録音、まずはごく普通に序曲が始まりますが、それがとても貧しい音だったのに失望させられます。録音レベルが低いのがまず気になりますし、弦楽器がかなり少なめのオーケストラの演奏が、何ともしょぼいのですよ。少人数でもやりようはあるはずなのに、そのアンサンブルはもうガタガタ、とてもプロのオーケストラとは思えません。
そして、当然アリアはイタリア語で歌われ、セリフの部分は、リヒテンタール自身が作ったレシタティーヴォ・セッコに変えられています。さらに、何よりもヘンなのが、オリジナルではセリフだけだったセリムが「歌って」いることです。まあ、別に歌いたいなら歌わせてもかまわないのですが、そのセリムとコンスタンツェ(ここでは「コンスタンツァ」)のデュエットなどというものはオリジナルにはもちろんありませんから、当時の他の作曲家の作品が流用されているのです。それは、ペーター・フォン・ヴィンターという人のものなのですが、いかにもロッシーニの亜流といった、モーツァルトの趣味とはかなり隔たりのある音楽なのですね。
そして、本来3幕構成だったものを「オペラ・ブッファ」の基本形である2幕に直した際に、第1幕の最後に長大な「フィナーレ」をでっち上げていますが、それがいかにもごちゃまぜのとんでもないものになっています。
そこでCD1は終わって、2枚目には「第2幕」が入っているのですが、とてもそこまで聴き続ける勇気はありませんでしたよ。やはり、こんなものは未来永劫再演されることはあり得ません。ベゲッリさんは、とても正直な方でした。

CD Artwork © Bongiovanni


10月17日

NYSTEDT - BACH/
Meins Lebens Licht
Grete Pedersen/
Nowegian Soloists' Choir
Ensemble Allegria
BIS/SACD-2184(hybrid SACD)


このレーベルから定期的にリリースされているペーデシェン指揮のノルウェー・ソリスト合唱団の2年ぶりのニューアルバムです。今回のアルバムには昨年99歳の天寿を全うしたノルウェーの作曲家で合唱指揮者のクヌット・ニューステットを悼む意味が込められており、そのニューステットの作品と、彼が大きな影響を受けたバッハの作品が演奏されています。
そもそも、ニューステットというのは、1950年にこの合唱を作った人、それ以来40年間指揮者を務め、彼はいわばこの合唱団を「自分の楽器」として、多くの合唱作品を作ることになるのです。そして、1990年にはニューステットは引退、その地位は、現在のペーデシェンが引き継ぐのですね。
およそ30人から成るこの合唱団は、もちろんその長い歴史の間には多くのメンバーが入れ替わっています。実は、前回のアルバムの時のメンバーと今回を比べてみたのですが、たった2年の間に半数以上が別の人になっていましたから、その出入りは思った以上に激しいようです。そして、今回のメンバーの写真の中に、なんだか日本人のような顔立ちの人がいたのでメンバー表を見てみたら、テナーに「ツジ・マサシ」という名前の方が見つかりました。この方は、辻政嗣さんというベルリン在住のテノール歌手。こんな風に、決してノルウェーや北欧にこだわらない人選が行なわれるようになっているのでしょう。そういえば、明らかにイギリス人のような名前の方もいましたね。
その辻さんのFacebookが見つかったので読んでみたら、普段はベルリンで活動されていて、時折ノルウェーを訪れているような感じでしたね。ですから、この団体は日本の「合唱団」のように年中一緒に行動を共にしているというのではなく、コンサートやレコーディングの時に集中的にリハーサルを行って本番を迎えるという、まさに「ソリスト」たちの集団なのでしょう。
バッハの作品では、葬送の意味を持ったモテットが2曲演奏されています。まず、BWV118の「O Jesu Christ, meins Lebens Licht」という、このアルバムのタイトルにもなっている曲です。これは1737年頃に、屋外での葬送のために作られたもので、オリジナルは伴奏に多くの金管楽器(コルネット、リトゥス、トロンボーン)が使われていて、弦楽器は入っていませんでした。「リトゥス」という珍しい楽器が使われることはそうそうありません。ここでは、それを1747年ごろに別の機会で使った時に弦楽器を加えた「第2稿」から、金管楽器を除いてオプションのオーボエとファゴットとオルガンを加えた版で演奏されています。そんな伴奏に乗って淡々と歌われるコラールと、それに絡み付く装飾的な対旋律、この合唱団は、そこから真摯で深い哀悼の思いを捧げているようです。
もう一つは、BWV227「Jesu, meine Freude」という、一番規模が大きく広く親しまれているモテットです。ここでは、合唱団はいくらか明るめの音色で、積極的に前向きの音楽を作っています。
そして、ニューステットの作品たちはほとんどが初めて聴いたものですが、それぞれの時代に作られた、いずれも聖書にテキストを求めたそれぞれに特徴的な作品が楽しめます。1995年に出版された「Be not afraid」で聴かれる軽快なオスティナートなどは、今まで抱いていた彼のイメージを少し覆すようなものでした。
そして最後に、彼の最も有名な作品「Immortal Bach」が演奏されます。バッハのBWV478「Komm, süßer Tod」というコラールをまず普通に演奏した後、各声部の時間軸を大幅に拡大して、そこで生まれるクラスターの響きの中にバッハの音楽の持つ永遠性を感じ取る、というものですが、1987年に作られたこの曲は先ほどの1990年に行われたニューステットがこの合唱団を去るイベントでも、重要な役割をもって演奏されたと言います。今回の録音では、部分的に弦楽器を重ねてこの曲が持つ広大な世界をさらに広々としたものに感じさせてくれます。最後に収束する変ホ長調の響きの、なんとピュアなことでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB


10月15日

STRAVINSKY/
Le Sacre du Printemps, Petrouchka, L'Oiseau de Feu
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASMSA-01/02(single layer SACD)


ロトと、レ・シエクルのヒットCD、「春の祭典、ペトルーシュカ」「火の鳥、オリエンタル」の2枚をシングルレイヤーSACDにして一つのパッケージに収めたものが国内制作でリリースされました。レーベルから提供されたオリジナルのマスター(フォーマットは明記されてはいません)をDSDに変換してマスタリングを行ったのは、そのレーベルの国内代理店キングインターナショナルの関連施設、キング関口台スタジオのマスタリング・エンジニア辻裕行氏です。
キングインターナショナルでは、最近ではCDでリリースされていたHARMONIA MUNDIのアイテムを国内盤でシングルレイヤーSACDとして出しているようですから、その流れでACTES SUDのアルバムも出されることになったのでしょう。なんたって、「春の祭典」は「名盤」と採点されたからこそレコードアカデミー賞の大賞をいただけたのでしょうからね。
アルバムの体裁は、既発の2枚のCDをそのまま2枚のシングルレイヤーSACDにして、デジパックに収めたというものです。アートワーク的には、ジャケットは「春の祭典」、ブックレットは「火の鳥」のそれぞれのオリジナルのジャケットを使い、曲目だけは全部表記するという形になっています。そのブックレットも、オリジナルのブックレットに掲載されているロトのインタビューと、オーケストラのメンバーと使用されている楽器のリストをそのまま忠実に翻訳したものが載っています。そこに、独自の企画として、管楽器の歴史に詳しいライターの佐伯茂樹氏の、とことんマニアックなエッセイと、曲目紹介が加えられています。オリジナルの「春の祭典」のCDにあったミスプリントも見事に直っていましたね。
シングルレイヤーSACDの音も、とても素晴らしいもの、最初にCDを聴いたときの物足りなさが、ことごとくクリアされているという爽快感がありました。ストラヴィンスキーではありませんが、「火の鳥」の余白に入っている「オリエンタル」というディアギレフの異国趣味コンピレーションの中で聴こえてくるタンバリンの存在感はまるで別物です。「火の鳥」の最後の高揚感も、CDでは明らかにリミッターがかかったように聴こえたものが、何のストレスもなくフォルテシモまで歪みなく聴こえてきます。そして、なんと言っても弦楽器の肌触りはCDでは絶対に味わえないもの、改めて、これだけの音がCDという規格のために無残に劣化している現状に腹を立てずにはいられません。
と、油断していると、ブックレットや帯では例えば「時代楽器」というようなわけのわからない言葉が出てくるのですから、「やっぱりな」という感じ、普通に「ピリオド楽器」とすれば、はるかに理解度は深まるものを。さらに、さっきの楽器のリストでは、楽器の製作者まできちんと表記されているのですが、その中のフルートについて「ボンヴィル製吹き口」などという訳が出てくると、ちょっと引いてしまいます。原文の「embouchure」は確かに「吹き口」という意味ですが、フルートで「吹き口」と言えば、唇を当てる部分のこと、その部分だけを簡単に取り換えることなどできませんから、これは「頭部管」と訳すのが正解でしょう。
マスタリングに関してもちょっとした疑問が。おそらく録音の新しい「春の祭典」の方はトラックの位置などもそのままトランスファー出来たのでしょうが、「火の鳥」ではキングの辻氏が新たにトラックを付けたような形跡があって、オリジナルとは微妙に異なったタイミングになっています。その中のトラック17「イワン王子の不意な登場」では、位置が大幅にずれていて、オリジナルは楽譜通り弦楽器のトレモロの部分ですが、キング盤ではそのあとのホルン・ソロが出てくるところになっています。これは明らかなミス、やっぱりキングインターナショナル、せっかくいい仕事をしているのに、どっかちぐはぐなところが出てきてしまうという体質は、変わらないのでしょう。

SACD Artwork © Actes Sud


10月13日

BEETHOVEN
Symphony No.6, Overture"Egmont"
近衛秀磨
読売日本交響楽団
NAXOS/NYCC-27293


近衛秀磨と読響が1968年に録音した音源のマスターテープから、ナクソス・ジャパンによってハイレゾ・デジタルリマスターが施されたCDの第2弾です。以前ご紹介した第1弾は2月21日の録音でしたが、今回のものはその1か月後、3月20日と21日の2日間にわたって、同じく杉並公会堂で録音されたものです。いずれもエンジニアなど、スタッフのクレジットは一切ありませんが、おそらく同じチームによって行われたものなのでしょう。
とは言っても、この2枚の音を比べてみるとだいぶ違っていることが分かります。今回の方がよりくっきりとした音のように感じられますし、テープの保存状態も、いくらか良好なようです(それでも、1ヵ所、かなり目立つ劣化のあとが確認できました)。ただ、今回気になったのがちょっと不思議なエコー成分の処理です。オーケストラの弦楽器の並び方は向かって左からファースト・ヴァイオリン、セカンド・ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そしてチェロの奥にコントラバスという標準的なものですが、ファースト・ヴァイオリンのエコーがなぜか反対側から聴こえてくるのですね。それはエコーとは言えないほどのかなりはっきりした音なので、まるでファースト・ヴァイオリンが左右に分かれているかのように聴こえてしまいます。これに気づいてしまうと、かなり煩わしいものです。
演奏されているのは、ベートーヴェンの「田園」と「エグモント」序曲です。「田園」については、菅野冬樹氏による下ろしのライナーノーツの中で、近衛が初めてヨーロッパに行った時に体験したフランスの田園風景が、この曲の演奏に反映されているのではないか、と述べられています。それが本当なのかどうかは知る由もありませんが、確かに今回の「田園」の演奏では、前回の「運命」よりははるかに充実した指揮者とオーケストラの姿が見えてきます。特に管楽器セクションは、1ヶ月前とは見違えるようなレベルの高い演奏を聴かせてくれています。
ここでの近衛は、音楽を恣意的に捻じ曲げることはせずに、あくまで自然の流れに任せているように思えます。第1楽章のとても心地よいアンサンブルからは、まさに至福の時が体験できます。この楽章の460小節目から(9:48付近)、楽譜にはないホルンが聴こえてくるのは、「近衛版」だからなのでしょう。
第2楽章になると、この時代の指揮者にしては珍しい、とてもサラッとしたインテンポの音楽になったので、逆に少し戸惑ってしまいます。フレーズの終わりでタメを作る、といったありがちな表現は全く見られず、あくまで淡々と流れるような情景の描写に徹しているのは、少し物足りない思いもしますが、演奏の格調はとても高いものに仕上がっています。
第3楽章はちょっと重たいテンポで、あまり羽目を外さないような音楽、指定された繰り返しも行っていません。続く第4楽章ではコントラバスがかなり気合を入れて華々しく暴れまわります。そして、ピッコロの一瞬の叫びも、とても明確に録音されています。このあたりを近衛だったらかなりいじるのではないか、という予想は見事に外れ、ピッコロのパートに関してはオリジナル通りだったのも、ちょっと意外でした。バーンスタインあたりでもかなり手を加えていたはずなのに。
ですから、最後の楽章もいともまっとうな、アゴーギグではなくあくまでダイナミックスによって語ろうとするとても大きな音楽に聴こえます。「近衛版」がこの楽章で確認できたのは、49小節目(1:43付近)、木管をヴァイオリンと同じリズムにして、フレーズの終止感をはっきり出しているところでしょうか。
「エグモント」では、なにかオーケストラのアンサンブルが決まらないところが気になります。終わり近くでは金管だけが暴走していますし、「田園」ほどの完成度は見られません。
この曲の最後では、まだ残響が消えていないところで音がスッパリ切れています。このリマスタリング・エンジニアのお粗末な仕事には唖然。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.


10月11日

VERDI
Aida
Anja Harteros(Aida)
Jonas Kaufmann(Radamès)
Ekaterina Semenchuk(Amneris)
Antonio Pappano/
Orchestra e Coro dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia
WARNER/0824646106639


新しく録音された「アイーダ」の3枚組CDが、対訳付きの豪華ブックレットに収まって3000円ちょっとで買えるというのですから、うれしいですね。あんこは入っていませんが(それは「たい焼き」)。いろいろ事情もあるのでしょうが、もはやこのレーベルのような大会社が見捨ててしまったと思われていた、セッション録音によるオペラ全曲盤がまだ作られていたことを、素直に喜びたいものです。
「このレーベル」というのも、やはり時代の流れで単純には語れなくなっています。表面上は「WARNER」ですが、ほんの数年前までは「EMI」と言っていたレーベルです。ただ、この、2者の関係も微妙に変化しているようで、当初2013年の時点では何が何でもWARNER、みたいな姿勢だったものが、最近ではEMIのサブレーベルであった「PARLOPHONE」という名前がきちんとクレジットされるようになってきたようで、「かつてはEMIだった」という情報がこのように目に見えるようになったのには、一安心です。
セッション録音とは言っても、そこはこの時代ですからローマでコンサート形式の「アイーダ」を上演するにあたって、そのリハーサルと並行してマイクを立てて録音したものです。その模様がブックレットの写真でうかがえますが、オーケストラの弦楽器は16型と、普通のオペラハウスのピットの陣容よりも潤沢な人数が揃っています。金管の再低音にはバルブ・バス・トロンボーンを縦にひん曲げた「チンバッソ」という楽器の姿も見えますね。さすが、イタリアのオーケストラです。しかし、こちらで述べられているように、ヴェルディがこの作品のために指定した楽器は、この「チンバッソ」ではありませんでした。
それはともかく、この大編成のオーケストラの響きはとても柔軟性に富むものでした。ダイナミック・レンジがとても広いのですよね。前奏曲などほんとに聴こえるか聴こえないかという音で始まりますから、この時点で音量を上げたりするとそのあとでとんでもない大音響になった時にびっくりしてしまうことになります。このあたりは、この3年後に作られた「レクイエム」とよく似た音響設計ですね。ただ、いかんせんこれはただのCDですから、それはただ音が大きくなったり小さくなったりというだけのことで、その結果得られるはずのえも言われぬピアニッシモの肌触りなどは、望むべくもありません。
そんな、ちょっと物足りない録音ではありますが、このオーケストラの魅力はしっかり伝わってきます。このステージではソリストたちはオーケストラの中、トロンボーンと打楽器に挟まれた位置で歌っているので、その息遣いがすぐ近くで感じられるという利点からでしょうか、木管楽器などの演奏はとてもソリストにシンクロしています。というか、フルートがこれほどソリストに寄り添うようなパートだったことに、初めて気づかされました。
もちろん、これを入手したのはカウフマンがラダメスを歌っていたからです。最近はワーグナーをあまり聴く機会がなくなっているのがちょっとさびしいところで、彼がいったいどこへ向かおうとしているのかを確かめたい、という気持ちもありました。実際、彼がイタリア・オペラを歌う時には、ワーグナーとは明らかに歌い方を変えていますし、その結果はそれほど悪いものではありませんでした。しかし、ここで「アイーダ」の全曲を歌っているのを聴いてみると、やはりそこにはちょっとした「無理」が感じられてしまいます。彼は持てる能力を総動員してラダメス歌いになり切ってはいるのですが、その「努力のあと」が見えてしまうのですよね。その象徴的なものが、ソット・ヴォーチェの多用です。確かに、音楽的にはとても効果的で、演奏の品位は高まるものの、そこからはイタリア・オペラには欠かせない「開放感」のようなものがほとんど感じられないのですね。やはり、このジャンルでのカウフマンは、本来の力を出し切ることが出来ないのでは、と思えてしょうがありません。

CD Artwork © Parlophone Records Limited


10月9日

MOZART
Les Mystères d'Isis
Chantal Santon-Jeffery(Pamina), Marie Lenormand(Mona)
Renata Pokupic(Myrrène), Sébastien Droy(Isménor)
Tassis Christoyannis(Bochoris), Jean Teitgen(Zarastro)
Diago Fasolis/
Flemish Radio Choir, Le Concert Spirituel
GLOSSA/GCD 921630


現在のパリのオペラ座(ガルニエ宮)の前身である「オペラ」が、1801年にモーツァルトの「魔笛」を上演しました。しかし、そもそも「魔笛」はドイツ語のテキストをセリフと歌で綴るという「ジンクシュピール」のスタイルで作られたものです。フランスでも同じスタイルで作られた「オペラ・コミック」というジャンルはありましたが、それは格式の高い「オペラ」では決して上演されることのないものだったのです。ですから、「魔笛」を上演するためには、テキストはもちろんフランス語に変える必要はありますし、さらにセリフの部分をレシタティーヴォに直して、「グランド・オペラ」のスタイルに改めなければいけなかったのです。
そこで、フランス語による台本はエティエンヌ・モレル・ドゥ・シェドヴィルが担当、レシタティーヴォを作ったりする音楽的な面はルートヴィヒ・ヴェンツェル・ラハニトが引き受けるという布陣で「改訂」を行うことになりました。しかし、このラハニトの仕事は、そんなただの「改訂」の範疇を大幅に逸脱した、とんでもないものに仕上がることになるのです。
1746年にボヘミアに生まれ、最初はホルン奏者、後に作曲家となってパリを中心に活躍するようになるラハニトは、作曲家というよりは、様々な作曲家の作品を集めて新しい作品として構成する「パスティーシュ」の作り手として有名な人だったようです。今でいえば、新垣隆のような感じでしょうか(ちょっと違う?)。そもそも、タイトルを「魔笛」ではなく「イシスの神秘」とした時点で、何か胡散臭いものが感じられるはずです。生臭いというか(それは「イワシの神秘」)。登場人物の名前も、オリジナルと同じなのはパミーナとザラストロだけ、タミーノはイスメノール、そして夜の女王はミレーヌ、パパゲーノはボッコリス(この2人の表記が、代理店が作った帯では間違っています)、パパゲーナはモナに変わっています。ですから、それぞれの設定も微妙に変わり、「対」として登場していたまるで小鳥の化身のようだったパパゲーノとパパゲーナも、ごく普通の牧童と侍女になっています。
とりあえず序曲はまっとうに始まります。しかし、「3つのアコード」の少し前になんだかちょっと変わっているような気がしたのも束の間、その「アコード」がなんとも間抜けな音型に変わっていました。そして幕開けは、なんとザラストロの登場です。まずは全く「魔笛」らしくないレシタティーヴォ・アッコンパニャートで、グランド・オペラ版「魔笛」、いや、「イシスの神秘」の物語が始まることになります。
オリジナルをそのまま使った部分は、おそらく半分もないのではないでしょうか。まず肩透かしを食うのが、夜の女王だったミレーヌが歌い始めたアリアが、あの有名なコロラトゥーラ満載の曲ではなく、なんと「ドン・ジョヴァンニ」の中のドンナ・アンナのアリアだったこと。もう少しすると、同じ作品の「シャンパンのアリア」が、三重唱で歌われるのですから、大笑いです。これは、どうやら「オペラ」にはこの難しいアリアを歌える人がいなかったための措置のようですね。ただ、もう1曲の少しやさしい夜の女王のアリアは、今度はパミーナが歌うようになっていましたよ。
他の作品からの転用はまだまだあります。「ティトの慈悲」のヴィッテリアのロンド「Non piú difiori」などという地味な曲もミレーヌのアリアに変わっていますし、ボッコリスとモナのデュエットでは「フィガロの結婚」からの伯爵のナンバーが使われています。
最後はミレーヌもザラストロに許されるという幕切れ、そこで流れているのはオリジナルと同じ合唱でした。最初と最後だけは同じものを使ったというのが、ラハニトのモーツァルトに対するせめてものリスペクトだったなんて、悲しすぎます。そんなものでも、全部で6シーズン、トータルで128回も上演されたんですって。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH


10月7日

仙台フィル宇和島ライブ 2015
佐藤久成(Vn)
宇野功芳/
仙台フィルハーモニー管弦楽団
SAKURA/SAKURA-5


仙台を本拠地に活躍しているプロオーケストラの仙台フィルは、これまでに山下一史や山田和樹などの、正式な指揮者の元で録音を行ったCDを何枚かリリースしています。そんな中で、なんとあの宇野功芳氏が指揮をしたCDが出たということを知りました。いちおう先月末に発売になったようですが、仙台フィルの公式サイトやFacebookページでは全く何のお知らせもなかったので、これはどういう素性のものなのかは大変気になります。何しろ宇野功芳氏ですからね。もちろん氏がプロのオーケストラの指揮をして、それをCDにしていることは知っていましたが、なんでその相手が仙台フィルだったのでしょう。しかも四国の宇和島での録音とは。
録音されたのは今年の4月11日ということなので、最近は事細かにオーケストラの活動状況を報告してくれている仙台フィルのFacebookページでタイムラインをさかのぼってみると、確かに彼らが宇和島に行ってコンサートを行った時のレポートがありました。宇和島というのは、かつての仙台藩主だった伊達家の、いわば「分家」といった感じで、伊達家によって興された街ですから、仙台市とは深い縁がありました。今年は、その宇和島伊達藩が出来てから400年と、宇和島市と仙台市が姉妹都市となってから40年が経った年にあたるのだそうで、その記念式典の一環として仙台フィルが呼ばれたそうなのです。そのレポートの写真からは、多くの宇和島市民に温かく迎えられている仙台フィルと、宇和島市の観光を楽しむ団員の様子が生き生きとうかがえました。
ただ、そのコンサートの様子は、それほど詳しくは報じられてはいません。写真も協奏曲が終わった時のソリストのものしかなく、指揮者の写真はおろか、名前すらどこにも紹介されてはいないのです。少なくとも、そこからは「すばらしい指揮者とのすばらしい演奏会が体験できた」という空気は全く感じることはできませんでした。これはいったいどういうことを意味するのでしょう。
このコンサートがなぜ宇野氏と、ヴァイオリニストの佐藤久成氏を迎えて行われ、録音までされたのかは、その仕掛け人である、演奏会場の宇和島市立南予文化会館の館長、宇神幸男氏のライナーノーツによって知ることが出来ます。宇神氏と言えば、宇野氏を「師と崇めて」いる音楽評論家として有名ですし、音楽をテーマにした小説も書いていますが、「本職」はこういうポストの方だったのですね。
それによると、2013年に同じ会場で佐藤氏のリサイタルが開催された時に、宇野氏がトークで参加するためにこんな遠くまでやってきたことが、今回の演奏会、そして録音のきっかけだったのだそうです。
このCDはAmazonで簡単に入手できました。一応オープン価格ということでしたが、ここでは税込3,780円、とても立派な価格設定ですね。届いたCDの帯を見ると、このように「DSD」とか「超高品位録音」などという文字が躍っていますから、疑いもなくSACDだと思っていました。それならこの価格は納得です。ところが、よく見てみるとこれはただのCD、録音の時のスペックが5.6DSDだったというだけの話でした。見事に騙されましたが、それよりも「超高品位録音」という言葉がとても引っかかります。「録音」が「品位」などという曖昧なファクターに支配されるなどということがあるのでしょうか。
実際に聴いてみると、それはごく当たり前の、例えば「生録」を趣味としているアマチュアが録音したようなとても素直なものでした。なにしろ編集も何もしていない一発勝負ですから、予期せぬノイズなどが派手に入っていますが、それは一つの「記録」としてはとても興奮を誘われるものでした。そこからは、佐藤、宇野各氏のやりたいことがストレートに伝わってきます。それはまさに両氏の「品位」までをもつぶさに感じさせてくれるものでした。

CD Artwork © Office AMS


10月5日

MOZART
String Quartets K.387 & K.458
Hagen Quartett
MYRIOS/MYR017(hybrid SACD)


モーツァルトの故郷ザルツブルクで生まれ育ったハーゲン家の4人の兄弟姉妹は、ともにモーツァルテウム音楽院で弦楽器を学び、弦楽四重奏団を結成しました。しかし、諸事情でセカンド・ヴァイオリンだけは他の人に替わり、1981年からプロとして活動を始めます。当時は元気だったドイツのDGという大レーベルに所属し、ハイドンからショスタコーヴィチまでを網羅する数多くのアルバムをリリースしました。
現在ではDGとは袂を分かち、ドイツのとても小さなレーベルMYRIOSのアーティストとして、今までに3枚のアルバムを作っていました。もうデビューから30年以上、それなりに年を重ねているはずなのに、ジャケットの写真を見ると、ハーゲン兄弟はそれぞれに美人でイケメン、髪もフサフサです。それに対して、セカンド・ヴァイオリンのライナー・シュミットだけはごく普通の風貌、さらに頭髪が少し少なめになっています。もしかしたら、ハーゲン家には、禿げんような遺伝子が伝えられているのかもしれませんね。
そして、2014年の12月に録音されたモーツァルトの「ハイドン・セット」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲の中から2曲が収録された最新のアルバムがリリースされました。とは言っても、これは正式に発売されるのはまだ先の話、ドイツとオーストリアでは11月、そのほかの国でのリリースは来年の1月の予定になっています。それが、日本だけは、先ほど彼らが来日した時のグッズとして演奏会場で販売するために、どこよりも早く現物が届いていたのです。ですから、コンサートに行った人は、一足先に入手できたことになります。「フラゲ」ですね。それが、なぜかわまりまわって手元に届いてしまいました。
この弦楽四重奏団の評判はずっと昔から聞いていましたが、DG時代の録音はそれほど食指が動かなかったので聴いたことはありませんでした。それが、この家内生産的にとても素晴らしいSACDを作っているレーベルに移ったということで、まずは絶対に裏切られることのない音を味わうために聴いてみました。そうしたら、その、あまりに「モーツァルト」とは距離のある演奏に驚いてしまいましたよ。これは、「楽しい気持ちになるために」音楽を聴こうという人からは、猛反発を食らいそう。いたるところに不思議なポーズ(空白)が設けられていたり、ダイナミックスを極端に表現したり、流れるようなメロディをあちこちでせき止めたり、それこそ「喫茶店」のBGMにこそモーツァルトの音楽がふさわしいと思っているような人にとっては、「許しがたい」ものに仕上がっているのですからね。
しかし、余談ですが、その「喫茶店のBGM」ですら、そんな穏やかな音楽ばかりではなくなっているのが、今の時代です。先日「謝罪の王様」という映画のON AIRを見ていたら、その舞台となった紛れもない「喫茶店」で流れていたのは、何とも棘のある「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」でした。よく聴いてみるとピッチも低め、おそらくピリオド楽器による演奏だったのでしょう。少し前まではこのような場所にはふさわしくないと思われていたピリオド系のごつごつとした演奏も、もはやBGMとして聴かれるだけの「市民権」を得ていたのですよ。
そう、ここで聴くハーゲンたちのモーツァルトは、まさにそんな「ピリオド系」の演奏でした。何かのインタビューで、ファースト・ヴァイオリンのルーカス・ハーゲンが「アーノンクールに多大な影響を受けた」と語っていましたが、まさにそんな、最もとんがった「ピリオド系」がここでは展開されていました。そんな、ノン・ビブラートの繊細なテクスチャーまでが再現されている録音で、この刺激的な演奏を聴くのは、至上の喜びです。
こんな、ちょっとした「手違い」は、この素晴らしい演奏と録音を貶めるものでは、決してありません。Facebookページではちゃんと謝っていることですし。

SACD Artwork © Myrios Classics


おとといのおやぢに会える、か。



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