搾れる花.... 佐久間學

(14/9/15-14/10/3)

Blog Version


10月3日

MOZART
Requiem
Sandrine Piau(Sop), Sara Mingardo(Alt)
Werner Güra(Ten), Christopher Purves(Bas)
Laurence Equilbey/
Acceutus
Insula Orchestra
NAÏVE/V 5370


ついに、ロランス・エキルベイの合唱団アクサンチュスがモーツァルトの「レクイエム」を録音しました。しかし、このアルバムのジャケットを見てみると、その3つの名前の上にでかでかと掲げてある文字が気になります。「インスラ・オーケストラ」というのでしょうか、聞いたことのない名前でちょっとヒワイ(それは「インラン・オーケストラ」)。それもそのはず、これはこの合唱団を作った指揮者のエキルベイが2012年に自ら創設した、まさに出来たばかりのオーケストラだったのです。それにしても、この「インスラ」という言葉は何なのでしょうね。
実はこの「insula」という単語はラテン語で、もともとは「島」という意味です。この単語から派生した「インスリン」という言葉は有名ですね。血糖値を下げる薬でしょうか。これは膵臓のランゲルハンス島から分泌されるために、その「島」をとってこのように命名されたのですね。ということは、このオーケストラを聴くと血糖値が下がるという、糖尿病患者にとってはうれしい効能があるというのでしょうか。いや、この言葉には、他に「集合住宅」という意味もあります。このピリオド・オーケストラは、経験のあるセクション・リーダーを中心にして、若い人たちを集めて結成されているようですから、そんな「集合体」という意味合いをネーミングに持たせたのかもしれませんね。
ただ、このオーケストラが目指しているのが、「今日の大ホールでも通用するような音」というのが、ちょっと引っかかります。そういうことを目的に「改良」されてきたのがモダン楽器なのですから、それをやりたいのなら普通にモダン楽器を使えばいいのに、と思ってしまいます。ピリオド楽器を演奏するということは、単にその時代の楽器を使うということだけではなく、演奏様式までも含めてその時代の音楽を再現するという意味があるはず。ひいては、そのような様式を生んだ演奏環境までも、可能な限り再現する必要があるのではないでしょうか。ですから、このような姿勢は、明らかな矛盾をはらんでいます。現実には「ピリオド・オーケストラ」が「大ホール」で演奏するというケースは日常的に存在していますが、それは本当は間違ったことなのだ、という認識は必要です。
そんな団体が2014年の2月に録音を行ったのは、ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂でした。その時の写真がブックレットに載っていますが、いかにも音が響きそうな高い天井と硬い材質の壁面による礼拝堂です。もちろん、ここに1000人規模のお客さんが入ることはありませんから、これこそが、「ピリオド」のロケーションということになるのでしょう。さっきの「大ホールでも通用する音」は、ここではとりあえず必要ないような気がします。
いともノーテンキな軽やかな足取りで「Introitus」が始まったとたん、やはりこの指揮者と彼女に率いられた演奏家たちには多くを望めないことは明らかになってしまいました。なにか、肝心なものが足りません。合唱にしても、テナーなどは今回はかなり頑張ってテンションの高さをアピールしているというのに、ソプラノがいつもながらのユルさなのですからね。オーケストラも、管楽器はバンバン聴こえてくるのに、弦楽器は本当に必要なフレーズが、その管楽器に隠れてしまっています。逆に、しっとり歌ってほしいところで無駄に張り切っているものですから、その部分だけ不必要にヒステリックに聴こえるだけですし。
そして、最大の誤算はこの礼拝堂のとてつもない残響でした。なにしろ、「Kyrie」のエンディングなどでは、休符の時間内にはとても残響が収まらないものですから、まるで無意味な時間が経過することになってしまいます。これがブルックナーだったらゲネラル・パウゼとしての意味も持てるのでしょうが、モーツァルトではただ間抜けなだけです。

CD Artwork © Naïve

10月1日

MOZART
Symphonies Nos. 40 & 41
Evgeny Svetlanov
Swedish Radio Symphony Orchestra
WEITBLICK/SSS0162-2


スヴェトラーノフとスウェーデン放送交響楽団とのライブ録音シリーズは、おそらく「ヒストリカル」という範疇に入るものなのでしょうが、そういうものにありがちないい加減な音ではないところが救われます。ここでは1988年と1993年に録音されたものが収録されていて、1988年の方はまだアナログ録音です。この頃にはもうレコード会社はほとんどデジタル録音に移行していましたが、放送局ではまだアナログだったのですね。いずれにしても、このスウェーデン放送の録音は、バランスはいいし音はきれいに伸びてるし、その辺のいい加減なメジャー・レーベルの音をはるかにしのぐ素晴らしいものです。
ここで演奏されているのはモーツァルトの最後の2つの交響曲、「スヴェトラーノフがモーツァルト?」というなんとも言えない違和感が、聴きたくなった動機です。その違和感の要因は、あまりにもモーツァルトには似つかわしくないおっかない顔でしょうか。例えばノリントンやコープマンのようにヘラヘラ笑いながらのモーツァルトならハッピーな気持ちで聴けますからね。もっとおっかない顔のアーノンクールみたいない人だってモーツァルトをやっているではないか、とお思いでしょうが、あいにく彼が演奏しているのはモーツァルトとは似て非なるものなのですから。
まず「40番」、こちらがアナログ録音ですが、クリア感から言ったらデジタルの「41番」を超えています。この曲を、予想通りスヴェトラーノフは異様に遅いテンポで始めます。ただ、テンポは遅くてもとても爽やかな流れに乗っているので、ベタベタした感じは全くありません。彼は、こういう音楽を作ることも出来たんですね。力を込めて重々しく、というシーンは、ですからここではまず出てきません。それだからこそ、例えば第1楽章で展開部が終わって再現部に入るところのちょっとした「タメ」が、非常に効果的に感じられます。
ただ、第2楽章あたりはあまりに流れ過ぎていて、それをそのテンポでしっかり繰り返していますから、ちょっと退屈に思えてしまいます。そんな「流れ」を作っているのが、例えば第3楽章でよく見られる楽譜にはないスラーではないでしょうか。本当はそういうところできちんとメリハリをつけてもらいたいような気もしますが、これが彼のモーツァルトなのでしょう。
ところで、第3楽章の01:09あたりでソロ・フルートの定位が、突然左から右に変わるということが起こっています。まるでフルート奏者が2人いるように聴こえますが、そのつながりがとても不自然、おそらく本番でフルートが出そこなったので、別のテイクを使って編集したのではないかと思うのですが、本当はどうなのでしょう。昔、ブーニンがN響でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏した時にも、生中継でブーイングもののものすごいミスを犯した部分を、後に編集して放送していましたから、「放送音源での編集」というのもありうるのでしょう。
それからほんの5年後の「41番」では、かなり様子が変わっていました。テンポはごく普通の軽快なものですし、なにか猛烈な推進力のようなものが感じられます。録音状態が違うこともあるかもしれませんが、指揮台を踏み鳴らす音とか、指揮者のうなり声などもはっきり聴こえてきて、音楽以外のところでもものすごく力が入っていることが分かります。
もちろん、そういうパワー全開の演奏ですから、他の指揮者のようなちょっとしたかわいらしい仕草(たとえば、先日フィラデルフィア管弦楽団と来日したヤニック・ネゼ=セガンが見せたようなとことん細やかな表情)などは薬にしたくてもありません。というか、そんなことをやられたら、おそらく気持ち悪くなってしまうことでしょう。
あくまで骨太のモーツァルトは、フィナーレのエンディングではついに雄大なテンポに変わって、堂々と終わるのです。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion

9月29日

RIMSKY-KORSAKOV
Scheherazade
Leopold Stokowski/
London Symphony Orchestra
DECCA/4787667(LP)


UNIVERSALDECCA部門では、今までに録音を売り物にしたCDのボックス・セットを何種類か出していました。それは「DECCA SOUND」というのが2巻、「MERCURY LIVING PRESENCE」というのがやはり2巻です。それらは40枚以上の、紙ジャケットでオリジナル・ジャケットを再現したCDと、さらにはそれぞれ6枚組のLPボックスとがセットになっていました。もちろん、LPはジャケットからレーベルまでオリジナルを忠実に復刻したものです。
今回、同じような規格で「フェイズ4」が、やはり40枚組のCDと、6枚組のLPとが同時期に発売になりました。タイミング的にはCDの方がリリースは先だったのですが、ちょっとした手違いでまだ届いていないところに、遅く出たLPの方が先に着いてしまいましたよ。それはそれで、とてもうれしいことでした。というのも、このボックスの最大の期待は、ストコフスキーの「シェエラザード」がオリジナル・ジャケットで手に入るということでしたからね。それが、縮小サイズでおもちゃみたいなCDではなく、「原寸大」のLPを最初に手に入れることになりました。
1965年にリリースされたこのLPは、おそらくしばらく経ってから国内盤のLPが発売になりました。その時にDECCAと提携していたキングレコードが用意したジャケットは、オリジナルとは全く異なる、全体が真っ黒の中にストコフスキーの指揮姿が入っている、というデザインだったと思います(もしかしたら、記憶が多少ゆがめられているかもしれませんが)。それははっきり言って「つまらない」デザインのジャケットでした。それが、ある日輸入レコード屋さんでオリジナルのイギリス盤をみて、そのあか抜けたデザインにすっかり魅せられてしまいました。さらに、こんな素敵なジャケットを、なぜキングはこんなひどいものに変えてしまったのか、と、怒りに似た思いも抱いたことをはっきりと覚えています。
そんな、ずっと欲しくてたまらなかったLPが、やっと自分のものになりました。この思いは、きっとわかる人にはわかってもらえることでしょう。
もちろん、これ1枚だけではなく、他の5枚と一緒になったものには、このサブレーベルについての詳細な解説が掲載されている豪華ブックレットが付いています。それを読んでみると、なぜ「フェイズ4」というのか、という積年の問題が解けました(クイズ4)。この「phase」という単語は、よく技術的な現場で「位相」などと訳されていますし、この方式では10チャンネル(のちに20チャンネル)のコンソールを使って、まず4チャンネルのテープに録音されますから、そのあたりのテクニカルな意味合いがあるのだと思っていたのですが、実際はもっと観念的なもののようでした。ここでの「phase」は「段階」という意味だったのですね。曰く、世界で最初にステレオ・レコードが発売された1958年が、「第1段階」、その後、ステレオ録音の様々な技術が開発されるごとに新たな「段階」に入り、1962年にこの録音方式が開発されて、それは「第4段階」に突入したのである、という具合ですね。具体的にはたくさんのマイクを使って一つ一つの楽器を録音、それを様々な音場に設定して、迫力のあるサウンドを作り上げる、といったことなのでしょう。
元々はポップスの録音用に開発されたこの方式は1963年から徐々にクラシックの録音にも用いられるようになり、1964年にはついにストコフスキーという大物までが参加するようになります。
今回のLPでは、まず保存されていたマスターテープの「転写」がものすごいことになっていました。音楽が始まる前に、盛大に「プリエコー」が聴こえてきます。さらに、もともとかなり歪みがあった金管や打楽器は、さらに派手に歪んでいることが分かります。ストコフスキーがレコードに求めたものがどんなものだったのか、それがさらに増幅されて感じられる音でした。CDではこれがどのように聴こえるのか、比較するのが楽しみです。

LP Artwork © Decca Music Group Limited

9月26日

DURUFLÉ, V. WILLIAMS, HOWELLS, TAVENER, MOORE
Music for Remembrance
Christine Rice(MS), Roderick Willams(Bar)
Robert Quinney(Org)
James O'Donnell/
Britten Sinfonia
The Choir of Westminster Abbey
HYPERION/CDA68020


1997年にイギリス王室のダイアナ妃が亡くなった時に、その葬儀が執り行われたのがイギリス国教会である「ウェストミンスター寺院(Abbey)」でした。その時に、式典の音楽を担当していたのが、ここの聖歌隊、「ウェストミンスター寺院聖歌隊」です。ところが、ロンドンにはもう一つ、こちらはカトリックの教会である「ウェストミンスター大聖堂(Cathedral)」というのがあります。当時のその聖歌隊の指揮をしていた人が、このCDでの指揮者、ジェイムズ・オドネルだったのです。オドネルは、2000年にマーティン・ニアリーの後任者として、「ウェストミンスター寺院聖歌隊」の指揮者に就任したのでした。なんとも紛らわしい。
もっと紛らわしいことに、オドネルは「ウェストミンスター大聖堂聖歌隊」時代の1994年に、今回と同じデュリュフレの「レクイエム」を録音しているのです。しかも、同じこのHYPERIONレーベルに!
その、「旧盤」では、オルガン伴奏の「第2稿」が用いられていましたが、今回2013年2月に録音された「新盤」ではオルガンと室内オケという編成の「第3稿」で演奏されていますし、「Pie Jesu」のソロも、少年のトレブルだったものが大人のメゾ・ソプラノに変わっています。このソリストの変更には、この作品の成立に関する基本的な認識が、以前と少し変わっていることが関係しているのかもしれません。
このCDのタイトルは「追憶のための音楽」、そしてここに集められているのは、明らかに2つの大戦の犠牲者に対する「追憶」の意味の強いメッセージが込められた作品です。つまり、デュリュフレの「レクイエム」にも、はっきりと第2次世界大戦の犠牲者への思いが込められているという認識です。これは別に観念的な話ではなく、はっきりとした「証拠」が最近になって発見されたということなのです。1990年代の後半に、アメリカの音楽学者Leslie Sproutが第二次世界大戦時のフランスの政権であった「ヴィシー政権」の資料の中から、今まで知られていなかった、作曲家に対する「委嘱」活動の記録を見つけたのだそうです。それによって、ヴィシー政権は、第3帝国に対しての「文化的なプロパガンダ」として、81人もの作曲家に作品を委嘱していて、その中にこのデュリュフレの「レクイエム」も含まれていたことが分かりました。ただ、1941年に委嘱されたのは「交響詩」なのですけどね。
ちなみに、「委嘱料」は最初は「交響詩」ということで1万フランの予定でしたが、このような大作になったために、結局3万フランが支払われたのだとか。そして、「レクイエム」は、194711月2日に、戦没者の追悼のために作られたほかの2つの作品と一緒にラジオ放送という形で初演されました。
ですから、今までの解説などには必ず登場していた「楽譜出版社からの委嘱によって作られた」というフレーズは、正確ではなかったことになります。もちろん、楽譜に記された「à la mémoire de mon père 父の想い出のために」という献辞も、額面通りには受け取れないでしょう。「鎌倉幕府の成立年代」ではありませんが、こういう新しい史観が出てくると、ちょっとドキドキしますね。いや、「キャバクラ」じゃなくて・・・。
オドネルが、「Pie Jesu」のソリストにクリスティン・ライスという「カルメン歌い」を起用したのも、そのような強い意志をこの曲に求めたのであれば納得できます。このような成り立ちを知ってしまっては、もはや少年のか細い声はとてもこの曲にふさわしいとは思えなくなってしまいます。
もちろん、カップリングのヴォーン・ウィリアムズ、ムーア、ハウエルズ、タヴナーたちの作品も、「追憶」、もっと言えば「反戦」のメッセージが込められたものばかりです。タヴナーの「The peace that surpasseth understanding」での、ロシア正教の聖歌が一瞬途切れた後に襲うオルガンの強奏は何を意味しているのでしょう。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

9月25日

The Golden Age of Danish Partsongs
Paul Hillier/
Ars Nova Copenhagen
DACAPO/6.220568(hybrid SACD)


このレーベルでSACDで出ている合唱曲だったら、どんな時でも期待以上のものを聴くことが出来ました。それは、演奏ももちろんですが、録音の素晴らしさには、いつもほれぼれとさせられてしまいます。ですから、今回も「パートソング」なんてそんなに面白みはないレパートリーのはずなのに、まずは、このプレベン・イヴァンの手になるDXD録音の冴えを聴くだけでも損はないと、買ってみました。
データを見てみると、このアルバムでは2011年の5月と2012年の5月の2回に分けて、同じ会場でセッションが行われています。さらに、それぞれのセッションの時のメンバーの違いも、しっかり記載されています。それによると、2012年のセッションでは、それぞれのパートで1人ずつメンバーが増えていることが分かります。まず、その辺の違いが聴き分けられるか、試してみましょう。
これは、かなりはっきり音が違っているのが分かります。やはり2012年の方が人数が増えた分、全体の厚みが増しています。さらに、録音自体も、2012年の方がよりピュアな音が聴こえます。2011年の分はやや細部のフォーカスが甘く、合唱の音も少し薄っぺらだったものが、2012年の分では音の密度がより高まっています。いや、もちろんこれはあくまでも比較の問題で、どちらも卓越した録音には違いありません。2011年のものだって、すでにその辺のありきたりの録音が裸足で逃げ出すほどの凄さを持っているのですからね。当然のことですが、それはあくまでSACDレイヤーで味わえるもの、CDレイヤーでは「ありきたり」の音に変わります。
「パートソング」というのは、イギリスあたりで盛んに歌われた、仲間が数人集まって楽しく合唱できる曲、という理解しかありませんでした。それが、実はこのデンマークあたりでも、大きな勢いで盛んに作曲され、歌われていたのですね。その「黄金時代」と言われているのは、19世紀の前半ごろだったということです。
しかし、あのポール・ヒリアーが、そんな、言ってみれば歌っては楽しいけれども、真剣に聴くだけの価値があるかと問われたらちょっと躊躇しそうな曲ばかりを集めてアルバムを作るなんて、まずあり得ません。現に、ここで歌われているのはそんな「19世紀」の作曲家のものだけではなく、20世紀、それもかなり「現代」に近いところで作られたものも含まれています。そう、ヒリヤーがここで本当に聴いてほしかったのは、そのような、陳腐な「パートソング」の精神を受け継いで、現代でも鑑賞に耐えうるものを作り上げた人たちの作品だったのでしょう。まさに「心の歌」(それは「ハートソング」)。
とは言っても、そんな鋭い視点からの演奏を聴いていると、19世紀の作品の中でも、すでに単なる「パートソング」にはとどまらない、もっと未来を見据えた確かな志を見ることもできます。それが、1817年生まれのニルス・ゲーデの「5つの歌 op.13」です。ここではその中から3曲だけ演奏されていますが、2曲目にあたる「睡蓮」などは、高度な対位法を駆使した緊張感あふれる作品に仕上がっていて、そこからは確かなメッセージが伝わってきます。同じゲーデの作品で、このアルバム中唯一の男声合唱曲「ヴァルデマール王の狩り」で、彼らはこの6/8拍子の勇壮な曲をとことん「美しく」歌っています。これは、もしかしたらヒリヤーの仕掛けた「ジョーク」だったのかもしれませんね。
そして、「現代」の視点からの「パートソング」の再創造とでも言えるのが、1931年生まれのイブ・ネアホルムの1994年の作品「Mine denske kilder」(英訳から推測すると「私のデンマークの原点」といった意味でしょうか)です。5つの小さな曲から出来ていますが、ここからはかつての「ロマンティック」な姿は消え去り、もっとローカリティを強調した民族的な素材が、逆に現代的なテイストを主張しています。これなどは、まさに「合唱組曲」として、普遍的な命を持ち得るものなのではないでしょうか。

SACD Artwork © Dacapo Records

9月23日

Alles Hat Seines Zeit
Lalá Vocalensemble
HÄNSSLER/CD 94.702


前回と同じシリーズ、品番も1番しか違わない連番です。このプロジェクトの母体である「Interkultur」のサイトでは、なんと合唱の「ワールド・ランキング」などというものが公開されています。その最新チャートによると、この「ララ・ヴォーカルアンサンブル」は総合トップ100では4位、そして「ポップ、ジャズ、ゴスペル、スピリチュアルズ」では1位というランキングです。
オーストリアのリンツで2005年に結成された4人組のア・カペラ・グループで、編成はまさに「古典的」なソプラノ、アルト、テナー、ベースという「四声体」です。ですから、まずこのCDで聴けるのが、レーガー、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームス、そしてブルックナーの「無伴奏混声合唱」を4人だけで歌っているトラックです。ブルックナーなどが入っているところは、さすがご当地リンツのグループですね。
録音は、明らかにポップス寄りのエレクトロニクスを駆使した音になっています。リバーブももちろんデジタル・ディレイなどが使われているのでしょうし、極端なオン・マイクでブレスの音もとてもはっきり聴こえます。そういう音で、こういう「クラシック」を演奏すると、確かに音的にはちょっと違和感がありますが、音楽そのものは紛れもなくシューベルトやブルックナーなのですから、逆にそのミスマッチを楽しめてしまいます。おそらく、オーストリアの若者たちの体の中には、しっかりとそういった「ご先祖」たちの作品がひとつの「財産」として脈打っているのでしょう。こういう、基本的にポップスを志向している人たちでも、ごく自然にそういう昔の歌を口ずさめるような、ある意味文化的なバックボーンがあるのでしょうね。それでこその「クラシック」、メンデルスゾーンの「Abschied vom Walde」(「緑の森〜よ」という訳詩で有名)が、例えば日本の某混声合唱団がくそまじめに歌っているのとは全く別次元の、まるで鼻歌のようなアプローチであっさりと歌われているのを聴くと、「クラシック」に対する彼此の根本的な心構えの違いを感じないわけにはいきません。
いや、「鼻歌」と言ったのはものの喩えでして、彼らの歌はハーモニーからディクションから、そしてニュアンスから「合唱」として完璧なのですから、いやになってしまいます。さらに、ソプラノのイリア・フィアリンガーさんの、ピュアそのものなのに、その中には男の一番弱いところを刺激するようなはかなさを秘めている声には、完全に打ちのめされてしまいます。
アルバムは、そのあとにオーストリア民謡による合唱曲に続いて、なんと「ヨーデル」までが登場しますよ。「こんなものまで、よう出るな」と思っていると、続いて聴こえてきたのは、前回のアルバムでも登場していた「ニューヨーク・ヴォイセズ」ではありませんか。こちらでは、彼らの1989年のGRPからのデビュー・アルバムの最後を飾っていた、ピーター・エルドリッジの方のオリジナル曲「Come Home」の完コピ(いや、きちんと楽譜が出ているようです)が演奏されていました。なんという偶然でしょう
そのあとに、まさに彼らの本領発揮と言えるオリジナル、「Fawada」が歌われます。オーバー・ダビングも駆使して、まさにさっきのランキングのチャンピオンにふさわしい、ア・カペラの極致によるアフリカ音楽の世界が繰り広げられます。このアレンジがあまりにすごいので、それに続くポップスの「クラシックス」、トトの「ロザンナ」やアースの「セプテンバー」が、ちょっと陳腐に感じられてしまうというとても贅沢な不満も。多分、これはアレンジャー(アルヴィン・ステイプル)のせいでしょう。
これを録音した時には、ジャケ写でも分かるようにテナーのメンバーがドレッド・ヘアのちょっと「合唱」のイメージから遠い人でしたが、現在では普通のあっさりとしたヘアスタイルの人に替わっています。

CD Artwork © hánssler CLASSIC im SCM-Verlag GmbH & Co.KG

9月21日

TUESDAYS
Christoph Mac-Carty/
Dekoor Close Harmony
HÄNSSLER/CD 94.701


合唱コンクールのシーズン真っただ中ですね。日本で「合唱コンクール」と言えば、たいがい日本合唱連盟と朝日新聞が主催するもののことなのでしょうが、同じ時期にNHKが主催する「Nコン」も行われ、両方に出場する団体などもいたりしますから、ちょっとややこしくなってしまいます。しかし、どちらのコンクールも、朝日新聞といい、NHKといい、全く別の意味での問題を抱えた組織のお世話になっているのですから、なんだか心配になってきますね。
世界に目を向けると、「Interkultur」という組織が、全世界のアマチュア合唱団を集めて大規模なコンテストなどを行っているようですね。そんなコンテストで優勝した合唱団に、CDを録音させて全世界で聴いてもらおうというプロジェクトが、「The Choir Project」というもの、このHÄNSSLERレーベルがそれに協力してCDをリリースすることになったのだそうです。その第1弾として、2枚のCDが紹介されました。まずは、このオランダの団体、「Dokoor Close Harmony」というところを聴いてみることにしましょう。
本当は、この名前をきちんと日本語で表記すればいいのでしょうが、オランダとか北欧の固有名詞の読み方はかなり不思議ですから、これを正確に発音する自信はありません。「クロース・ハーモニー」は普通の合唱用語ですが。
ですから、「DCH」と頭文字を並べるのが、最も無難で姑息なやり方でしょう。ダイエット食品会社ではありませんよ(それは「DHC」)。この合唱団は、オランダのユトレヒト大学の学生による30人ほどの合唱団です。日本だと「〇〇大学混声合唱団」みたいな言い方になるのでしょうね。創立されたのは1985年ですが、その時からもっぱらジャズやゴスペルなどを中心に演奏する団体でした。もちろん学生ですから毎年メンバーは入れ替わりますが、初代の指揮者ヨハン・ローゼは長い時間をかけてハイレベルの合唱団に育て上げました。
そして、2008年からは、クリストフ・マカーティが指揮者として雇われます。1969年生まれのマカーティは、ジャズ・ピアニストとして活躍していましたが、2005年から合唱の指揮も始めるようになったのだとか。彼によってDCHはさらに飛躍的にレベルアップがなされました。
この「ご褒美」のCDは、2011年9月と2013年6月の2回に分けて録音されています。ですから、当然この間にはメンバーが変わっているはずですが、そんな違いは全く感じられない、いずれも素晴らしい演奏を聴くことが出来ます。彼らのレパートリーはジャズが基本で、その上にゴスペルや、さらにはヒップホップまでと幅広いものになっているようですが、その前にまず「合唱」としてのクラシカルなトレーニングがしっかりなされているように感じられます。文字通り「クロース・ハーモニー」の一点の曇りもない見事な響きは、「普通の」合唱団よりもしっかりしたものをもっているのではないでしょうか。そして、その上に、今度はあくまで「ジャズ」や「ソウル」のテイストをふんだんに漂わせたソロが加わります。このソリストたちの見事な歌い方は、とても「大学生」が「趣味」でやっているとは思えないほどの、「プロフェッショナル」なものを感じることが出来ます。これは恐るべきことです。
演奏されている曲は、ほとんど知らないものばかりですが、その見事なハーモニーとグルーヴ感には圧倒されてしまいます。そんな中で有名なディジー・ガレスピーとフランク・パパレリの「チュニジアの夜」などは、指揮者のマカーティ自身のアレンジも冴えわたって、まさに感動的です。彼のピアノ・ソロも素敵。
DCHは「ニューヨーク・ヴォイセズ」のダーモン・ミーダーとも交流があるようで、彼が書いた「Love Psalm」という曲がここで「世界初録音」されています。タイトル通りのしっとりとした「愛の聖歌」が、リズミカルな曲の多いアルバムの中でひと時の安らぎを与えてくれています。

CD Artwork c hänssler CLASSIC im SCM-Verlag GmbH & Co.KG

9月19日

The Man with the Golden Flute
James Galway(Fl)
Various Musicians
RCA/88843026332


ゴールウェイがRCAからリリースしたすべてのアルバムが、初出のジャケットデザインですべてそろうという、夢のようなボックスの登場、CD71枚、DVDが2枚というものすごいボリュームです。
もちろん、これらのものはほとんどがすでに何度も何度も発売になっているものですが、今ではオリジナルの形ではLPはもちろん、CDでも入手することはまずできません。現在流通されているものは、オリジナルの収録曲を微妙に変えたり、コンピレーションとして、何の脈絡もなくあちこちの音源から寄せ集めたりと、ヒットメーカーならではの「売らんかな」の姿勢が輸入盤、国内盤を問わず見え隠れしていたものばかりです。それが、こんな風にすべてのアルバムがきちんとリリースされた時のままの姿で入手できるようになったということの意味は、かなり大きいはずです。添付された2センチ以上の厚さのあるブックレットには、録音データがきちんと記載されているのも貴重です。ゴールウェイのディスコグラフィーとして、これほど完璧なものもないでしょう。
ただ、一部のデータに間違いが見つかったのと、正確を期すという観点からは、ちょっと疑問なところも。ゴールウェイがRCAの専属アーティストとして最初に録音セッションに臨んだのは1975年のこと、ロンドンのキングズウェイ・ホールで5月20日と21日の2日間にマルタ・アルゲリッチと録音したプロコフィエフとフランクのソナタが、第1弾アルバムとしてその年の11月にリリースされます。そして、同じセッションで、5月の22日から24日にかけて録音され、翌年の5月にリリースされたのが、フルートの小曲を集めた「Showpieces」というタイトルのアルバムです。しかし、このアルバムは数年後のリイシューの際に、品番(LRL1-5094)はそのままに、タイトルを「The Man with the Golden Flute 黄金のフルートをもつ男」という、ジェームズ・ボンド・シリーズのタイトル「The Man with the Golden Gun 黄金銃を持つ男」をもじったものに変えられています。もちろん、ジャケットそのものも別のものになりました(写真の真ん中)。ですから、ブックレットでこのタイトルのLPが「Released May 1976」となっているのは間違いなのですよ。後にこのタイトルはゴールウェイその人の代名詞として使われるようになり、つまりはこのボックスのタイトルともなるわけで、いまさら変えることもできない事情は分かりますが、「資料」としては最初のタイトルとジャケット(↓)を使ってほしかったものです。
実は、これ以前にも、ゴールウェイは他のレーベルで何枚かのアルバムを作っていました。それらのもののうち、後にRCAレーベルとして発売されたものも、ここには含まれています。写真の左、1973年にPICKWICKというレーベルに録音され、1982年にRCAからLPが出たモーツァルトの協奏曲もそんなものです。翌、1974年にEURODISCに録音されたやはりモーツァルトの協奏曲も、1977年にはRCAレーベルとしてリリースされています。このうちの1973年のものが、1986年のPICKWICK1999年のRCA「還暦ボックス」、そして今回と、3種類のCDが手元にありましたので、聴き比べてみました。1986年盤は問題外の鈍い音ですが、1999年盤ではヒス・ノイズを消したうえで、イコライジングによって生々しい音に変えています。しかし、今回のマスタリングでは、ヒス・ノイズは聴こえるものの、自然な艶やかさが味わえます。全部のタイトルを聴いたわけではありませんが、一応「24/96でアナログテープからトランスファー」というのは本当のようで、他のものもおおむねあまり手を加えていない自然な音が聴こえます。
このボックスの途中で、録音はアナログからデジタルに変わります。その第1作が、写真の右の1981年に録音されたライネッケのソナタと協奏曲です(このカップリングでCD化されたのは、これが初めてでらいねっけ?)。いかにも「デジタル」を思わせるジャケットのデザインとともに、「SONYの機材を使用」というクレジットが、時代を感じさせてくれます。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

9月17日

DVOŘÁK/Symphony No.8
JANÁCEK/Symphonic Suite from Jenufa
Manfred Honeck/
Pittsburgh Symphony Orchestra
REFERENCE/FR-710SACD(hybrid SACD)


アメリカのオーケストラの中でも古い歴史を誇るピッツバーグ交響楽団は、プレヴィンやマゼールが音楽監督を務めていた時期もあり、かなりのハイ・ランクのオーケストラですが、最近では知名度はいまいちなのではないでしょうか。しかし、2008年にオーストリア出身のマンフレート・ホーネックが音楽監督に就任してからは、また新たな黄金時代を迎えようとしているように見えます。
そのコンビが、録音の良さでは定評のあるREFERENCE RECORDSから、年間2枚程度のSACDをコンスタントにリリースすることになったのだそうです。その第1弾はR.シュトラウスの交響詩でしたが、それに続いて発売になったのが、このドヴォルジャークとヤナーチェクをカップリングしたコンサートのライブ録音です。
SACDになっていたのでも分かる通り、これはまず録音面での優秀さを前面に押し出したプロジェクトになっています。ブックレットでわざわざ1ページを割くという異例の待遇で紹介されているのが、録音を担当した「サウンドミラー」という録音プロダクションです。メジャー、マイナーを問わず多くのレーベルで制作に携わっていますが、ここの設立者のジョン・ニュートンは、PHILIPSSACDの規格の開発にも携わったというものすごい人、今回の録音でも、録音からポスト・プロダクションまですべてDSDで行っています。
これはもう、その素晴らしい録音に圧倒されます。とても透明性の高い響きが、美しいホールトーンとともに収録されているうえに、個々のパートの密度がぎっしりと凝縮した厚みを持っていますから、極上のアナログ録音を聴いているような錯覚に陥るほどです。
そんな、とても滑らかな肌触りのサウンドで聴こえてきたドヴォルジャークの「交響曲第8番」は、とてもショッキングな演奏でした。今まで何度もいろいろな録音を聴いたり、なにより1度ならず実際に演奏に加わったこともある、言ってみれば「隅から隅まで知り尽くしている」はずの曲にもかかわらず、まるで初めて聴いた曲のように感じられるサプライズが、至る所に隠されていたのですよ。まずはしょっぱなのフルート・ソロ。この、音符からはとても想像できないような生き生きとした表現はいったい何なのでしょう。そのあたりは、ホーネック自身のライナーノーツで「これは、四角四面に楽譜通り吹くのではなく、あたかも鳥が歌っているように演奏すべき」と述べられていますが、まさにこのフレーズは鳥のさえずりそのものではありませんか。「目から鱗が落ちる」とは、まさにこのようなことを言うのでしょうね。
ホーネックがここで大切にしたかったのは「チェコの魂」なのだそうです。そのために取り入れたのが極端な「ルバート」。第3楽章で最初のテーマが帰ってくるところでの大げさな身振りあたりが、そんなルバートの最たるもの。実際にこの演奏を「生」で聴いていた人たちは、ここで一様に息を呑んだことでしょう。そして、フィナーレはまるで「お祭り」のよう、冒頭のトランペットは壮大なファンファーレではなく、いとも軽やかな祭囃子に聴こえます。もちろん、あの長大なフルート・ソロも、まるで「踊ってちょうだい!」と言わんばかりの「祭の笛」に変わります。
そんな指揮者のプランを、オーケストラのメンバーは見事に実際の「音」として現実のものにしています。その見事な一体感は、スキルを超えた特別な信頼感によってもたらされたもののように思えてしまいます。
ヤナーチェクの「イェヌーファ」は、同名のオペラから、ホーネックのコンセプトに従ってチェコの作曲家のトマーシュ・イレが編曲したオーケストラのための組曲です。いくつかのアリアや嵐の情景描写などが続けて演奏されますが、それぞれの曲の間がまるでライヒのようなマリンバのパルスによって違和感なく滑らかにつながっています。こちらも、「チェコの魂」が凝縮されたような素晴らしい演奏です。

SACD Artwork © Reference Recordings

9月15日

Romantic Works for Flute and Piano
古賀敦子(Fl)
宮田真夕子(Pf)
GENUIN/GEN 13540


2012年に録音され、2013年にリリースされたという、だいぶ前のCDですが、このレーベルの古賀さんが参加している他のアルバムと一緒に、日本の代理店がまとめて国内販売をかけたので、今頃の発売となりました。日本人アーティストのアルバムということで、英語、ドイツ語の他に日本語のライナーノーツも付いています。
そのライナーによると、フルーティストの古賀敦子さんは福岡市の生まれ、桐朋学園高校からパリのコンセルヴァトワールに進み、大学院にも進学、多くのコンクールで賞を得ているそうです。現在はドイツを中心に活躍なさっているようですね。ピアニストの宮田さんも、やはりドイツを本拠地にして活躍されているそうです。
このアルバムは、タイトルの通り「ロマン派」のフルートとピアノの作品が集められています。まあ、実際は20世紀になって作られた曲もありますが、あくまで「ロマン派の作曲技法で」といった意味合いなのでしょう。それは、まるで一晩のリサイタルのセットリストのように、お客さんに様々な体験をしてもらおうとの配慮がうかがえる、しゃれた選曲です。
まず、最初はヴィドールの「組曲」で、宮田さんの持つテクニックと音楽性を、存分に披露してくれます。彼女の音は、それほどのパワーは感じられませんが(特に低音)、その繊細さは聴くものを驚かせてくれます。この曲は非常に難易度の高いもので、まずは運指の段階でかなりのハードルの高さが設けられていますが、彼女はそんなものはごく当たり前のようにクリアしています。その上で、実に細やかな表情を施しているのですね。おそらく彼女の最大の「武器」は、とことんまで磨き上げられたピアニシモなのではないか、と思えるほど、頻繁に駆使しているそのピアニシモの音色には魅力があります。
そのあとに、見かけは優しい小品をはさむというのが、この選曲の粋なところです。まずは、バッハ+グノーの「アヴェ・マリア」です。これを、グノーが編曲の際に付け加えたイントロと22小節目の繰り返しを省いて、あくまでバッハのオリジナルをベースにした「アヴェ・マリア」を演奏しています。その繰り返しの部分で一瞬びっくりしますが、これが「バッハ派」としてのスタイルなのでしょう。
もう1曲の「小品」は、マスネの「タイスの瞑想曲」です。別名「ずんだ瞑想曲」(それは「大豆」)。こういう「名曲」を取り上げるのには、逆に勇気が必要なのでしょうが、案の定彼女の演奏はちょっと淡白すぎて、これぞという魅力に欠けているような気がします。
そして、さらに技巧の限りを尽くしたボルヌの「カルメン幻想曲」へとつながります。これは、まずイントロのピアノの雄弁さに驚かされます。あくまでフルーティストの華やかさを目立たせるために、あえて目立たないように弾くピアニストが多い中にあって、この主張の強さはかなりのインパクトを与えてくれます。したがって、普段この曲を聴く時のように、フルーティストの技巧に耳がいくというのではなく、次々に新鮮なアイディアを提供してくれているピアニストの方に、より注意がはらわれることになります。もし、このピアニストに拮抗するほどの主張をフルーティストが持っていたのなら、どれほどすさまじい演奏が実現したことでしょう。
さらに、「箸休め」の、ゴーベールの「マドリガル」(これも、あっさりとした、センスの良い演奏)を挟んで、おそらくこのアルバムのメインとなる正真正銘の「ロマン派」の作品、シューベルトの「しぼめる花変奏曲」が演奏されます。ここではもう、うらやましくなるほどのピアニシモが、表現にとてつもない深みを与えてくれていました。特にテーマでは、フルート曲というよりも、元のリートのテイストが強く感じられました。
最後は、まさに「アンコール」という体裁でサン・サーンスの「白鳥」、考え抜かれたプログラミングに脱帽です。

CD Artwork © GENUIN Classics

おとといのおやぢに会える、か。


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