味噌ネタ。.... 佐久間學

(13/12/29-14/1/16)

Blog Version


1月16日

MAHLER
Symphony No.8
H. Harper, L. Popp, A. Auger(Sop)
Y. Minton,H. Watts(Alt)
R. Kollo(Ten), J. S.-Quirk(Bar), M. Talvela(Bas)
Georg Solti/
Wiener Staatsopernchor, Wiener Singverein,
Wiener Sängerknabenn
Chicago Symphony Orchestra
DECCA/478 5006(BA)


1971年にウィーンのゾフィエン・ザールで録音されたショルティ/シカゴ交響楽団のマーラーの8番が、BAになりました。このツィクルスの中でも白眉と言える演奏と録音の仕上がりだったはずのものです。もちろん、レーベルはDECCAです。そのDECCAを統括するUNIVERSALBAのリリースには積極的なのはでっか(めっちゃ)うれしいことです。
最初に出たときはもちろんLPでしたが、当然2枚組でした。ということは、最後までは3回盤面、あるいは盤そのものを交換する部分が出てくることになりますが、その最後の変わり目、つまり2枚目のB面は「マリアをたたえる博士」の「Blicket auf」というソロから始まっています。そこから曲の最後までは1130秒しかかかりませんから、片面でたったそれだけというのはかなりぜいたくなカッティングということになります。とは言っても、その最後の部分はオーケストラ、ソリスト、合唱が混然一体となって超盛り上がりますから、このぐらい余裕を持たせないと肝心の部分の音がしょぼくなってしまいますね。
このLPを買った時は、なんせ長い曲ですし、いちいち裏返すのも面倒くさいので、この2枚目のB面だけを繰り返し聴いていたものでした。ルネ・コロが歌う最初の歌詞が「い〜げた」と、仙台にあるお茶屋さんの名前のように聴こえていたのはご愛嬌、その正式なドイツ語を知ったのは、かなり経ってからでした。そのリリカルな歌に続いて現れる合唱の質感、そして最後に迎えるとてつもないクライマックスを、何度となくその度肝を抜かれるような録音で堪能していました。
やがてこのLPCD化され、途中で盤をひっくり返さなくても最後まで聴けるようになったものの、そこからはかつてLPでは味わえた血がほとばしり出るような生々しさは全く味わうことができませんでした。すでにそのあたりで、CDのスペックにはそれとは知らずに限界を感じていたのでしょう。それが、やっと24/98のハイレゾで味わうことが出来る日がやってきました。ハイレゾデータそのものはすでに配信されてはいたのですが、やはりこういうものは「フィジカル」で持っていたいものです。確かに、このBAに添付されていたブックレットには、ケネス・ウィルキンソン+ゴードン・パリーという、夢のようなエンジニアに加えて、使われた録音機材までもがしっかりクレジットされていましたからね。もちろん、それらはすでに知っていたことばかりですが、このように「紙」の上に印刷されていることが、なんたって重要なのです。
手元には、最新のCDとして、2011年にリリースされたボックスに含まれていたもの(478 3200)がありました。

一見オリジナルジャケットのようでいて、下の部分のテキストがCDサイズ用に少し拡大されています。ただ、もっと前のCDと比べても全く同じもののように聴こえるので、マスター自体はそのあたりのものなのでしょう。これと今回のBAとは、同じ個所にトラックナンバーが入っていますから、それぞれの場面で逐一比較をすることが出来ます。その違いは、まさにドラマティック。新しくトラックの頭を聴き合うと、それぞれのメディアは、全く予想通りの音を聴かせてくれていたのです。合唱の存在感、ソロ・ヴァイオリンの肌触り、金管の滑らかさ、ソリストの生命感、いずれをとっても別物です。ただ、いかに「神様」が二人も録音に携わっていたとしても、この巨大な音の塊の全てを完璧にテープに収めるのは至難の業だったはずです。とくに、合唱でそのあたりの破綻が見られるところが多々あるのですが、CDではそれがもろに不快な音場として迫ってきます。対してBAでは、それがアナログ録音の可能性をギリギリまで追求した結果として、温かく見守れるものに変わります。あのLPの生々しさは、見事に蘇りました。

BA Artwork © Decca Music Group Limited

1月14日

BACHARKADEN
Wolfgang Katschner/
Calmus Ensemble
Lautten Compagney
CARUS/83.381


お気に入りのコーラス・グループ、「カルムス・アンサンブル」のニューアルバムは、ドイツのオリジナル楽器のアンサンブル「ラウッテン・カンパニー」との共演でした。タイトルは「バッハ・アルカーデン」、「もう亡くなっているのだから、バッハは歩かんでん」という、関西弁のツッコミに応えるように、せわしなく歩き回っているアーティストたちの写真がジャケットになっていますね。
ドイツ語の「Arkaden」は英語では「アーケード」、ライナーノーツによれば、このアルバムのコンセプトは、コラールという支柱の上に広がっている丸屋根から降り注ぐそのコラールの現在、過去、未来の姿を、アーケードの中を歩く人たちに聴いてもらいたい、というものなのだそうです。だから、みんな歩いているんですね。
そんな、分かったような分からないような御託に惑わされるよりは、実際にその演奏を聴いてみれば、彼らがいったい何をやりたいのかは、すぐにはっきりするはずです。それは、時代と、そしてジャンルさえも超えた音楽を、バッハのコラールを主たる素材にして作り上げた、ということになるのでしょうか。なんと言っても、カルムス・アンサンブルのボーダーレスな活動はお馴染みのものですし、この、初めて聴く器楽アンサンブルも、「アーリー・ミュージック」と言いながらその編成にサックスやマリンバが入っている時点で、カビの生えた「古楽」の世界とはそもそも無縁な団体であることが分かるはずですからね。本来はかなり大人数の団体のようですが、ここではフルート、サックス、ガンバ、打楽器、テオルボの5人が参加、テオルボ奏者のヴォルフガング・カッチュナーが全体の指揮を担当しています。コーラスは5人組ですから、総勢10人ですね。
1曲目のバッハのモテットBWV225が、軽快なパーカッションのリズムに乗って始まった時には、ある種のデジャヴュのようなものを感じてしまいました。これは、まるで1974年の「Love Songs for Madrigals and Madriguys」という、シンセサイザーをバックにスウィングル・シンガーズ(正確には「スウィングルII」)が歌っていたアルバムではありませんか。いにしえの音楽に現代風のリズミカルな伴奏を付け、合唱はあくまで軽やかでハスキー、これは、絶対スウィングルがモデルだったに違いありません。そういえば、アルバムの中ほどのBWV645のオルガン・コラール「Wacht auf, ruft uns die Stimme」のスキャットも、初期のスウィングルそっくりですね。
それに続いて、「現代」という意味合いで取り上げられているのがアルヴォ・ペルトの「Fratres」。そもそも楽器指定のない音楽ですから、この合唱が入った編成ではその中世回帰の嗜好が際立ちます。そして、そのあとにもう1回バッハを挟んだ後、6世紀のスパンを飛び越えて本物の「中世」であるギョーム・デュファイにつなげるというのも、予想された展開でしょう。ここで「現代」もしくは「未来」とされているのは、このペルトとジョン・タヴナー(彼は、もう「過去」になってしまいましたが)というあたりが、いかにもな気がします。
最後近くに、BWV227のモテットが演奏されています。これを聴けば、「時代を超えた」バッハがどのようなものかが、如実に分かるはずです。「Trotz dem alten Drachen」でのショッキングな叫び、「Gute Nacht, o Wesen」でのひたむきなリリシズム、それを彩る「モダン」なバック、こんな生々しいバッハは、なかなか聴けるものではありません。
ところで、サックスの出番は?確かにパーセルの「ディドの死」あたりで、まるでショームのような音色でこの楽器が鳴っていることがありましたね。しかし、やはりそれは本来の使われ方ではなかったようで、ボーナス・トラックでの有名な偽作のメヌエットでは、思いきりジャジーなソロを披露して、ストレスを発散させているようでした。これこそが、この「現代」に於いては「最前線」の音楽、つまり「前衛」と呼ばれるべきものです。

CD Artwork © Carus-Verlag

1月12日

CHOPIN & SCHUMANN
Piano Concertos
岡田博美, Constantino Catena(Pf)
Claudio Brizi(Org, Cond)
Wolfgang Abendroth, Johannes Geffert,
Elide D'Atri, Carmen Pellegrino,
Alessandro Maria Trovato(Org)
CAMERATA/CMCD-28293


イタリアの長靴のつま先の先、シチリア島の西の端に、トラーパニという街があります。そこのサン・ピエトロ教会には、なんとも不思議な外観を持つオルガンが設置されています。このジャケット写真に写っているのがその現物ですが、なんと演奏台(コンソール)が3つもあるのですよ。手鍵盤(マニュアル)は、真ん中の演奏台が3段、両サイドは2段ずつですから、全部で7つのマニュアルということになりますね。
そんなぶっ飛んだオルガンを作ったのは、フランチェスコ・ラ・グラッサというビルダーでした。なんでも彼はほとんど独学でオルガン製造の技術を身に着けたというある意味「天才」だったそうで、なまじ伝統的な技法を学ばなかった分、こんな独創的な発想が湧いたのでしょう。彼は1836年にこのオルガンの製造に着手し、11年後の1847年に完成させます。
この楽器に魅せられて、その可能性を最大限に発揮させた演奏を行ってきたのが、このアルバムで中心的な働きをしているオルガニストのクラウディオ・ブリツィです。もちろん男性、かわいくもありません(それは「プリティ」)。彼は多くのオーケストラ曲を、何人かのオルガニストの協力のもとに演奏してきたそうです。まさにオーケストラそのものがこの楽器の中に秘められていると考えたのでしょうね。このアルバムのメインタイトル「The Hidden Orchestra」とは、そのような意味を持つものだったのです。
そうなってくると、やはりこの楽器が作られたロマン派の時代の花形楽器、ピアノとの共演がしたくなるのは自然の成り行きなのでしょう。ロマン派にこだわった彼らは、まさにこのオルガンが完成した年と同じ1847年に作られた「エラール」とともに、ショパンとシューマンのピアノ協奏曲を録音することを企てました。
このピアノは、まさにこれらの協奏曲が生まれた時代に使われていたもので、当時と同じ鄙びた音を奏でる楽器です。それは、このロマンティックなオルガンと一緒に演奏される時には、まさに「同時代」の響きを生むに違いありません。もちろん、この録音を行った人たちは、そのような「期待」の上に、今まで聴いたことのないような「古くて新しい」コラボレーションの成功を確信していたはずです。
確かに、ショパンのピアノ協奏曲第2番では、それなりの音色的な融和が、特に第2楽章には確かに見られて、幸福な瞬間を体験することは困難ではありませんでした。いや、もしかしたら、ここでこそ彼らの「期待」が見事に成就していたのかもしれません。おそらくそれは、あまり動きを伴わない、音色だけで勝負できるような作られ方をしている楽章だったせいなのでしょう。しかし、両端の動きの激しい楽章では、少なからぬ違和感を抱く時間の方が多かったかもしれません。その主たる要因は、オルガンのあまりの運動能力の欠如です。それは、楽器が本来持っている特質なのでしょうが、そこに多くの人間が演奏に携わっていることも加わって、およそオーケストラの機敏さとはかけ離れた音楽しか提供できていなかったのです。
それでも、ショパンの場合はそのような弱点はそれほど気にはなりません。しかし、シューマンになるとそうはいかないことがはっきりしてきます。第2楽章のピアノとの掛け合いで、この楽器にこの協奏曲を演奏することは不可能であることが露呈されてしまうのです。

この部分の弦楽器による合いの手のアーティキュレーションは、このオルガンではとても楽譜通りの鋭い演奏はできません。これに気が付いてしまうと、このバカでかいオルガンはまるで見世物小屋の出し物のような安っぽいものにしか聴こえなくなってきます。大の大人が6人もかかって出している音は、殆どサーカスのBGM程度のものにしか思えなくなってくるのです。それでシューマンのピアノ協奏曲を演奏したというのは、冗談にしてはたちが悪すぎます。

CD Artwork © Camerata Tokyo Inc.

1月10日

Let It Snow!
Albrecht Mayer(Ob)
The King's Singers
DG/00289 479 1907


本当はクリスマスの時に聴きたかったアルバムですが、諸般の事情で手元に届くのが大幅に遅れてしまい、こんな間抜けな時期に「ジングル・ベル」を聴くことになってしまいました。まあ、一応「冬」がテーマになっているようなので、あまり深く突っ込まなければ大丈夫なのでしょうが。
まず、最初のサプライズは、キングズ・シンガーズがDGレーベルに登場した、ということです。今まで多くのレーベルを渡り歩いたこのグループも、いまではSIGNUMレーベルでコンスタントにリリースを重ね、気が付いたらもう20枚以上のアルバムを出していたというのに、さらにパートナーを変えようというのでしょうか。「生涯現役」とか言って。
いや、おそらくそんなわけではないのでしょう。なんと言っても、今回のアルバムはDGのアーティストである、ベルリン・フィルの首席オーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーの企画によるものなのですからね。今まで様々なアーティストと共演してきたアルブレヒトが、小さな合唱のアンサンブルと共演したいと思った時に、真っ先に思いついたのが、昔からのファンだったこのキングズ・シンガーズだったというわけです。実は、アルブレヒトは子供のころは合唱団に入っていたほどの合唱好き、家には、キングズ・シンガーズのアルバムがたくさんあるというのですね。ですから、彼らはレーベルの枠を超えてゲストとして出演しただけの、「一夜限りのアバンチュール」だったのでしょう。
アルブレヒトとシンガーズは、もちろん今回が初めての共演となりました。しかし、お互いは和気あいあいとした中でレコーディングを行っていたことは、このジャケット写真を見るだけでよく分かります。ちょっとおちゃめなシンガーズの間で、なんだか恥ずかしそうにしているアルブレヒトが、かわいいですね。よく見ると、最前列に座っているのは最古参のデイヴィッド・ハーレイと2012年にメンバーに加わったばかりのクリストファー・ブルーアートン、こんな扱いから察するに、ハーレイの引退もそろそろ、ということなのかもしれませんね。
そのブルーアートンの前任者だったバリトンのフィリップ・ローソン(頭が薄く、髭の濃い人)が、ここではなんとオーボエ・パートの編曲を一部担当しているというのも、ちょっとしたサプライズです。本当に「歌うこと」以外にも才能を持った人たちの集まりだということが、よく分かります。
シンガーズは、今までに何度もクリスマスアルバムを出していますから、レパートリー的には充分、そんな、長年歌い込んだ名曲に、アルブレヒトのオーボエが絡みつく、というのが、基本的なアレンジのプランのようです。しかし、彼のオーボエの音の、なんとまろやかなことでしょう。いや、「まろやか」というのは、かなり情緒的な形容でした。彼は、もっと知的なやり方でオーボエとコーラスの共演というあやうい組み合わせから、ちょっと間違えばミスマッチに陥りかねない事態を回避していたのです。それは、必要とあれば自身のオーボエの周波数帯域から、オーケストラの中では欠かせない突出した倍音を消し去り、もっとなだらかな分布に変えて、巧みにコーラスと溶け合うような音色に変えるという手法でした。アルビノーニの「アダージョ」あたりで、そのプランは見事に開花、ソロとトゥッティとの絶妙な対比は、ため息が出るほどの美しさです。
オーボエ奏者のソロアルバムというアイデンティティを示すために、この中の2曲ではアルブレヒトがひとりでコーラスを伴わず演奏しています。ヘンデルの「サラバンド」はオーボエ2本とコール・アングレ1本という編成(もちろん、多重録音)、バッハの「クリスマス・オラトリオ」からの「シンフォニア」では、そこにさらにベルリン在住のチェンバリスト、荒木紅さんのチェンバロとオルガン(これは「持ち替え」)が加わって、重厚な味を出しています。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

1月8日

名曲の暗号
楽譜の裏に隠された真実を暴く
佐伯茂樹著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-21063-9

AMAZONのカスタマーズレビューで、「茂木大輔」さんという方がこの本を絶賛されていましたが、これは、あの茂木さんご本人なのでしょうか。しかし、もぎ(もし)「なりすまし」だったとしても、それは本物の茂木さんでも間違いなく書きそうな内容でした。つまり、あのマニアックな茂木さんですら手放しで絶賛することをはばからないような、これはものすごい本なのですよ。
はからずも同じ時期に出版された前回の書籍と比べると、その違いがより明確になるはずです。あちらはあくまで「ファン」というか、音楽に関してはシロートの仕事ですから、頼りとするのは自分の感性のみ、作品にまつわる胡散臭い俗説なども真に受けて、ひたすら自分に都合の良いように作品をねじ曲げてありがたがるという姿勢が前面に出ています。まあこのような人の場合、ご自分の感想を謙虚に述べているうちは害はありませんが、それをまわりの人がありがたがるようになってくると、事態は深刻です。困ったものですね。
対して、本書の著者の佐伯さんは、膨大な資料と論理的な思考をもとに、あくまで客観的に作品の本質に迫るという、本物の「マニア」のスタンスを貫いているのですから、最初から勝負にはなりません。以前ご紹介したこちらの本よりも、さらにワンランク上がった「至高の」知識を、貪らせていただきましょう。
まず、冒頭で、ベートーヴェンの「交響曲第5番」の、それこそ冒頭のモティーフについて、例の「運命が扉を叩く」という俗説を全否定してくれています。あの「運命〜」云々は、もともと胡散臭いものであるのは最近では周知の事実とされていて、さすがに前回の著者もそれを受け入れてはいますが、それでも「音楽がそのように聴こえる」と開き直っているのが、笑えます。もちろん、佐伯さんは同時期に作られた「交響曲第6番」との関連で、カール・ツェルニーが言ったとされる「鳥の鳴き声がヒントになった」という説を支持しています。
メンデルスゾーンの「交響曲第4番」の改訂についても、彼の姿勢は明確です。このサイトでは、一体何が真実なのかはっきりしていなかった中で、とりあえずこちらで書いたようなところに落ち着いてはいました。そんな中で、ここではその2つの楽譜のそれぞれの成り立ちを詳しく知ることが出来、一気に確証を得ることが出来ました。きちんと、どちらもファクシミリが出版されていたのですね。ですから、耳で聴いただけでは分からなかった第3楽章トリオでの2番ホルンの音形まで、ここでは知ることが出来ます。この改訂、出来としてはいわゆる「改訂稿」の方が元の形のように思えるところもあったのですが、このように新しい楽器が出てきたことに影響された跡(一応推測ではありますが)まで突きつけられれば、もはや信じないわけにはいきません。
一番驚いたのは、ドヴォルジャークの「交響曲第9番」での2番フルートのパートの話です。常々、この曲では1番フルートを差し置いて2番フルートが多くの個所でソロを吹くことには、何か不自然なものを感じていました。まあ、2番をやった時には堂々とソロが吹けたので気持ちがよかったのは事実ですが、普通の曲の2番ではまずあり得ないことですからね。しかし、これも著者の自筆稿のリサーチによって、単なる印刷ミスであることが発覚してしまいます。これは、いわゆる「原典版」でもそこまで踏み入ってはいなかっただけに、かなりショッキング。2番奏者の唯一の楽しみが、これからはなくなってしまうのでしょうか。
これだけ明確に今までの「誤謬」を正しているにもかかわらず、最後のコントラファゴットについての部分では、ちょっと文章の詰めが甘く、著者の言いたいことが正確に伝わっていないのでは、と思えるのが、少し残念です。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

1月6日

至高の音楽
クラシック 永遠の名曲
百田尚樹著
PHP研究所刊
ISBN978-4-569-81603-6

処女小説「永遠の0」が映画化され、大ヒットとなった百田さんは、実は筋金入りのクラシック・ファンであったことを世に知らしめるエッセイ集です。なにしろ、お持ちのレコードやCDは2万枚以上と言いますから、これはそんじょそこらの「マニア」だったら裸足で逃げ出すほどの物量、それだけで尊敬してしまいます。
この本は発売されてすぐ買ったのですが、暇な時に読もうとそのままにしてありました。しばらくしてたまたま車の中でかけていたラジオから、関西弁のやたらハイテンションの声で、クラシックについて熱く語っているのが聴こえてきました。その方は、番組の進行役の坂本美雨を相手に、有無を言わせぬ迫力で、クラシックの魅力をとうとうと、まるで何かに憑かれたようにしゃべり続けていたのですね。この時代に民放FMでこれだけクラシックについて無心に語れる人に、とてつもない違和感を覚えたものです。しばらく聴いているうちに、どうやらこの方はこの本の著者で、そのプロモーションのためにここに出演しているのだな、と分かりました。まあ、普段は、新しいアルバムを出したロックかなんかのアーティストが出ている番組ですから、そんなノリで登場していたのでしょう。確かにこのトークは、そんなアーティストと同じような滑らかな口調で、ひたすらクラシックの素晴らしさ、ひいてはそんなことをテーマにしているこの本の素晴らしさを、飽くことなくまくしたてていたのでした。
家へ帰って実際に本を読んでみると、最初の章と最後の章が、さっきまでしゃべっていた内容と全く同じものだったのには驚きました。これも、ニューアルバムの中のタイトルチューンを丸ごと番組でかけてもらう手法とよく似ています。卑しくもクラシック・ファンともあろうものが、こんなあからさまな形でクラシックを扱うなんて、許せません。それが、さきほどの違和感の主たる原因だったのでしょう。
いや、日ごろ寡黙さこそがクラシック・ファンの資質だ、という信条があるものですから、こんな「明るい」人種に出会うと、何か大切なものを土足で踏みにじられているような感じをつい持ってしまうのが、「暗い」クラシック・ファンのいけないところなのでしょう。
やり方はともかく、この本からは著者のクラシックに対する熱い思いは間違いなく伝わってきます。それも、極めて「古典的」な思いだというあたりが、ある種のすごさを感じさせるものなのでしょう。2万枚という枚数についても「自慢ではなく恥ずべきこと」と、ちょっと意外なコメントがきけるのが、嬉しいところです。たくさん集めるよりは、「1枚のレコードを宝物のように」聴く方がずっといいことを知っている人なら、音楽に関しては安心できるな、という気がします。
その「2万枚」にしても、「ゴルトベルク」だけで、編曲も含めて100枚以上お持ちになっているというのですから、その内訳はそれほど多くはないのかもしれませんね。確かに、「いずれ誰かが録音するかもしれない」と書かれている、マリウス・コンスタンの編曲によるラヴェルの「夜のガスパール」のオーケストラ版は、すでにプティジラールの指揮によるCDを始め、最近ではこんなのも出ているのに、どうやらまだ入手されてはいないようですから、そのようなレア物に対する執着は、あまりお持ちになっていないのかもしれませんね。このあたりから察するに、百田さんは「ファン」ではあっても決して「マニア」ではないように思えてしまいますが、どうなのでしょうか。
ひとつ気になるのは、表紙に写っているスコアが、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭」のものだということです。一緒にCDが写っているように、この本ではサンプル音源が付録になっていますが、その中にはこの曲は入っていませんし、本文の中でも登場していないのですよね。これは、デザイナーの勘違いだろーま

Book Artwork © PHP Institute

1月4日

BERLIOZ
L'Enfance du Christ
Yann Beuron(Ten), Vélonique Gens(Sop)
Stephan Loges(Bar), Alastair Miles(Bas)
Robin Ticciati/
Swedish Radio Symphony Orchestra & Choir
LINN/CKD 440(hybrid SACD)


ベルリオーズの「キリストの幼時」という、よほどの用事がないことには聴かない曲は、例えば同じ作曲家の代表作と言われる「幻想交響曲」や「レクイエム」とはかなり異なったテイストを持っています。そんな、ほとんど気が触れたのではないかと思われるほどの非日常的な佇まいがベルリオーズの姿だと信じきっている人にとっては、この作品はまるで別の人が作ったのではないかというほどの静謐さを湛えています。
そのわけは、この作品の成り立ちを知れば納得できることでしょう。当時の楽壇でも彼に対する印象は、ベルリオーズにとっては偏見に満ちたものでした。そこで、彼はそれを逆手にとって、たまたま思いついた「ベルリオーズらしくない」メロディに歌詞を付けて、「羊飼いたちの別れ」という合唱曲を作り、当時は忘れ去られてしまった往年の作曲家という設定で架空の名前をでっち上げ、その作曲家の作品として演奏したのです。確か、フリッツ・クライスラーも、同じようなことをやっていましたね。
この「いたずら」は大成功、批評家たちはこぞってこの作品を絶賛したのです。これで溜飲を下げたベルリオーズは、これが実は自作であったことを公表、今度は堂々とこの「路線」で、「羊飼い〜」の前後に曲を書き足して、全3部から成るオラトリオ「キリストの幼時」を完成させたのです。
以前、スコットランド室内管弦楽団と共に素晴らしい「幻想」を聴かせてくれたティチアーティが、今回はスウェーデン放送管弦楽団とともに、この大作を録音してくれました。もちろん、今ではペーター・ダイクストラが音楽監督を務めているスウェーデン放送合唱団も演奏に加わりますから、この、重要なポイントで合唱が活躍するオラトリオにとっては頼もしい限りです。
作品はマタイによる福音書の第2章に登場する「エジプト逃避」のエピソードを元にしたものです。第1部「ヘロデの夢」ではヘロデ王がキリストが生まれたことを知り、自身の地位が脅かされるのを防ぐために生まれたばかりの幼児を皆殺しにしようとする様子が、ほんの少し荒々しい音楽で語られます。しかし、マリアとヨゼフのもとに天使が現れて、エジプトへ逃げるように告げる時の天使の言葉は、遠くから聴こえるオルガン(「あるいはハルモニウム」という指示もあり、ここでは、ごく薄いストップで演奏されています)とともに、やはりオフステージの音場の女声合唱によって清らかに歌われています。
さらに、第2部「エジプトへの逃避」では、ベツレヘムの馬小屋の前で、聖家族を見送った羊飼いたちの合唱が聴かれます。これが先ほどの「羊飼いたちの分かれ」ですね。いかにも素朴で敬虔な曲です
そして、第3部「サイスへの到着」では、砂漠の中を旅した聖家族が、エジプトのサイスに到着しても、どの家でも門を閉ざして彼らを受け入れてはくれない中で、さる家の家長が暖かく迎え入れてくれ、そこで歓迎の宴を催してくれます。その時に演奏されるのが、フルート2本とハープという編成によるとても美しい曲です。エピローグではその後のキリストの奇跡が語られ、静かな合唱が全曲を締めくくります。
ここでは、オーケストラは終始柔らかい音色と落ち着いた表現で、淡々とこの物語を彩っています。フルートとハープのトリオでも、奏者たちが見事に自分の主張を消して、まるで「祈り」のような静かな音楽を届けてくれています。ソリストたちも、とても滑らかな声で、安らぎを与えてくれます。これで合唱にもう少しイノセントな面があれば完璧だったのですが。
そんな繊細さを余すところなくとらえているのが、LINNの録音による、SACDのハイレゾ音源です。実は、この音源はNMLからも配信されています。しかし、128kbpsAACというスペックのその音からは、残念ながらSACDが持っていた音楽のテクスチャーは完璧に失われてしまっています。

SACD Artwork © Linn Records

1月2日

MUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition(arr. Breiner)
Peter Breiner/
New Zealand Symphony Orchestra
NAXOS/8.573016


ムソルグスキーの「展覧会の絵」の、最新のオーケストラ版の登場です。編曲を行ったのは、1992年にBeatles Go Baroqueという痛快なアルバムを、同じNAXOSに録音したスロヴァキア生まれの才人、ピーター・ブレイナーです。この、「バロック風ビートルズ」は非常によくできたアレンジで、ビートルズの曲と、バロックの大家の作品の双方に対してのリスペクトがしっかり感じられるものでした。何しろ、バッハの「組曲第2番」を、フルート協奏曲という形までそのままに下敷きにして、見事にビートルズを演奏しているのですからね。「ポロネーズ」などは、しっかり中間部の技巧的な変奏も入れたうえで、「Hey Jude」になっていますよ。
なんせ、「展覧会」と言えば、クラシックだけでなく和楽器やロックにアレンジされたり、全編シンセサイザーで演奏されたりと、あらゆるジャンルで使われている「素材」ですから、これから新しいものを作ろうというのはかなり大変なことでしょう。クラシックの場合は、モーリス・ラヴェルの仕事が一つのスタンダードにもなっていますから、そこにもまず一つの壁がありますしね。
今回のブレイナーの方針は、あくまで「古典的なオーケストラの編成」にこだわって、新しいサウンドを作り上げる、というものでした。これは、まるで映画のサントラのようなゴージャスな仕上がりを目指したものなのでしょう。
そのような迫力のあるサウンドは、素晴らしい録音があってこそ真の力を発揮するものです。そこで、おそらくブレイナーは、編曲の段階からしっかり録音された時の音を考えながら作業を進めていたのではないでしょうか。特に打楽器に関しては(彼は打楽器奏者でもあります)、バスドラムにはダイナミック・レンジと超低音の伸びを担わせ、グロッケンやスネアドラムには音色に彩りを添えさせるというように、大活躍をさせています。もちろん、原曲にはなかった生き生きとしたリズムを強調することも忘れてはいません。金に糸目はつけませんから(それは「スネオドラム」)。
さらに、それぞれの楽器は普通にオーケストラで使われるものですが、それを常識にはとらわれない組み合わせによって、今まで聴いたことのないような音色を出すことにも力を入れています。例えばラヴェルの場合では、「古典的」なオーケストラには登場しないアルト・サックスなどを使って独特の味を出していましたが、ブレイナーはそのような「反則技」に頼ろうとはしていないのです。ですから、そのサックスの音があまりにも有名な「古城」での最初のソロは、ファゴットに2オクターブと5度上の音のピッコロを重ねるという隠し味で、まるでオルガンのような味を出しています。
さらに、彼はラヴェルのように新たに小節を挿入したり、プロムナードを割愛したりはせず、基本的にピアノ譜(もちろん、ラヴェルが元にした改訂版ではなく、原典版)に忠実な「尺」を守っています。ただ、なぜか「テュイルリー」だけは半音低く移調しています。そのために、前のプロムナードの最後の「ファ♯・ソ♯・ド♯」というフレーズだけを半音下げて、違和感なくつなげるようにしています。おそらく、そこでトランペットにメインのメロディを吹かせるために、ロ長調というシャープ系ではなく、変ロ長調というフラット系に直したのではないでしょうか。どうしてもトランペットの音色が、ここでは欲しかったのでしょう。次の曲の頭が半音高く聴こえるのは気にしないようにしましょうね。
フルート吹きにとってうれしいことに、「殻を付けた雛」では、前打音をピアノ譜通りに一部を省いています。ラヴェル版のA♭に付く全打音は、実はかなり吹きずらいんですよね。

最初CDで聴いて、あまりに録音が素晴らしいのでハイレゾデータ(24bit/96kHz)まで買ってしまいました。こちらではさらに迫力と輝きを増した音が味わえます。パッケージとしてBAも出ていますので、そちらもお勧めです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

12月31日

Jurassic Awards 2013
今年も第2回(笑)ジュラシック・アウォードの発表の時がやってきました。今年も、絶対に役に立たないランキングをご覧くださいね。
その前に、カテゴリーごとのエントリー数の昨年比を見てください。 こんな感じで、今年はオペラの躍進には目覚ましいものがありました。やはり、VさんとWさん関係のリリースが格段に多かった影響なのでしょう。そんな風に、世の中の流れを敏感に反映している「おやぢの部屋」です。
■合唱部門
山田和樹指揮の東京混声合唱団による「武満徹全合唱曲集」は、全く期待していなかっただけに、その素晴らしさには衝撃を受けました。プロの合唱団も捨てたものではありません。次点として、数多くリリースされたブリテンの「戦争レクイエム」の中から、その原点ともい言うべき自演盤を。これは、BAで蘇った録音も見逃せません。
■オーケストラ部門
なぜか、新しい録音には「これぞ」というものがなく、最後に滑り込んだジェームズ・ジャッドのマーラーの「交響曲第1番」が大賞になってしまいました。初期のデジタル録音ですが、とてもCDとは思えない音には驚かされました。次点も、昔のアナログ録音によるクーベリックのマーラーの「交響曲第3番」。もちろん、SACD化が最大のメリットになっています。
■オペラ部門
これは文句なしに「コロンのリング」です。原曲を半分の長さにしたというアイディアとともに、演出の斬新さには完全にやられました。次点は、これも昔の映画をBD化した「ジーザス・クライスト・スーパースター」です。
■フルート部門
ペーター=ルーカス・グラーフの日本でのリサイタル盤には、様々な面で刺激を受けました。ここまで現役で活躍できるのは奇跡です。次点はゴールウェイの名盤のオリジナルジャケットによる復刻版です。彼にも、グラーフの年齢まで頑張ってほしいものです。
■書籍部門
記念年にちなんだ「ヴェルディ/オペラ変革者の素顔と作品」は、時宜を得た素晴らしいものでした。著者ご本人(たぶん)からのコメントが寄せられたのも、高ポイント。「嶋護の一枚」は、実は著者から直接本を贈っていただいたもの。いや、そんなことを差し引いても教えられることの多い本でした。
■現代音楽部門
そろそろ「現代音楽」というカテゴリーは、いらなくなるのかもしれません。そんな中で、ラベック姉妹がミニマル・ミュージックに挑戦した「Minimalist Dream House」は、今の「現代音楽」の姿を見せてくれていました。
■ポップス
PPMの初出音源による「Live in Japan, 1967」は本当に素晴らしいものでした。必ずしもベストではない機材でも、演奏が良ければ全く気になりません。また、CTIの「春の祭典」がハイレゾ音源で聴ける日が来るなんて、思ってもみませんでした。

ハイレゾに関しては、やっと環境が整ったのでいろいろ試している最中ですが、正直こんな不完全な形で広まってしまうのでは後々問題が出てくるのではないかという失望感を味わっています。なにしろ、「e-onkyo」では、ファイルの名前すらまともに付けられないのですからね(ソートをかけたら曲順が変わってしまいました)。基本的なところを押さえないままに走り出しては、本当に良いものの足を引っ張るだけです。中には、単にアップサンプリングしただけのものをハイレゾと偽って販売しているものもあったりしますからね。

12月29日

MAHLER
Symphony No.1
James Jadd/
Florida Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMA 1957118


先日ご紹介した「嶋護の一枚」という本の中で「マーラーの交響曲第1番のPCM録音の中ではベスト」と興奮気味に語られていたジェームズ・ジャッド指揮フロリダ・フィルのCDを入手しました。その記事の中では「入手困難」という状態だったものが、実は2011年にこんなバジェット・シリーズでリリースされていたのでした。
この「Musique d'abord」というシリーズは、なかなか気の利いたデザインで、一見デジパックのような感じはしても、素材はすべて紙、「地球にやさしい」ということでしょうか。そして、何より驚いたのが、この、よくあるLPに似せた印刷面を裏返すと、なんと、普通は銀色や金色に輝いている録音面が、真っ黒になっていることです。

思わず、これはダミーかなんかが間違って紛れ込んだのではないか、と思ってしまいました。30年近くCDに接してきましたが、こんなのを見たのは初めてでしたからね。でも、恐る恐るCDプレーヤーに入れたら、ちゃんとトラックが表示されたので一安心です。もちろん、音もちゃんと出てきましたよ。いや、それは単に「出てきた」なんて次元のものではありませんでした。正直、CDでこれほどの音が聴けるなんて思いもしなかったような、それは今まで感じていたCDの限界などはるかに超えてしまうほどの、瑞々しく繊細な音だったのです。
それは、まるで録音の良否を試すために作られたような、この曲の出だしを数分聴くだけで分かります。冒頭の弦楽器のフラジオレット(ハーモニクス)の、まさに倍音の絶妙な混じり具合はどうでしょう。あるいは、それを生み出す弓の松脂と弦との摩擦音。そんな静寂の中で、ピッコロを含む木管楽器がユニゾンで奏でる四度下降の崇高な響き。クラリネット2本とバスクラリネットが奏でる深みの中にもまろやかさをたたえたアンサンブル。そして、絶妙な距離感をもって遠くから聞こえてくるトランペット。これらの音場が全く自然な広がりを見せているのは、別にこのCDがまっ黒だったせいではなく、まさにエンジニアのピーター・マッグラスの卓越した耳と、彼が用意したワンポイントマイク、SCHOEPSKFM-6Uとの賜物でしょう。

そんな繊細さの極みとは対極の、エネルギッシュな爽快感を味わいたければ第4楽章の頭などはいかがでしょう。シンバルの一撃に続くバスドラムの超低音に、まず度肝を抜かれます。そして、金管の咆哮のまろやかさ、そこにはきっちりと奏者の姿まで分かるほどのリアリティが感じられます。さらに、その間隙を縫って湧きあがってくる弦楽器の、これもまさに60人の弦楽器奏者の集まりであることが如実に分かるテクスチャーが、見事に表現されています。なにしろ、この実際にたくさんの人が演奏しないことには出て来ない滑らかな質感は、CDのスペックでは絶対に出すことはできないと思っていましたから、これは驚き以外のなにものでもありません。
指揮者のジャッドは、日本のオーケストラとも共演していてそれなりの知名度はあるものの、決して広く知られた人ではありません。しかし、このマーラーを聴くと、オーケストラを自由自在に操って、なんとも優雅な音楽を作り上げています。第2楽章の絶妙の「タメ」は、とてもアメリカのオーケストラとは思えないほどの粋な味、もっとも、第3楽章はちょっと調子に乗り過ぎ、という感もなくはありませんがね。彼は、ここで演奏しているフロリダ・フィルの音楽監督を1987年から2001年までの長期にわたって務めていましたが、この時期がこのオーケストラにとって最も輝いていたものだったことがよく分かる、信頼関係が見て取れる演奏です。
しかし、このオーケストラは、ジャッドが去った2年後には破産してしまい、この世から姿を消してしまったのです。「しまった」と思った時には時すでに遅し、今のアメリカにはミネソタ管弦楽団など、そんな火種を抱えているオーケストラはまだまだあるようです。

CD Artwork © harmonia mundi s.a.

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17