グッドバイ・イエロー・ブリーフ。.... 佐久間學

(10/12/23-11/1/14)

Blog Version


1月14日

BACH
Christmas Oratorio
The King's Singers
Bill Dobbins/
WDR Big Band
SIGNUM/SIGCD215


ダーク・ダックスのトップテナー、高見沢宏さんがお亡くなりになりましたね。その前にはセカンドテナーの佐々木さんが歌を歌えるような体調ではなくなってしまったためにメンバーから離脱していましたが、その時には新たなメンバーを迎えることはせず、アレンジを変えて3人体制でやってきたようですね。しかし、すでに80歳を超えたバリトンの喜早さんとベースの遠山さんの二人だけではもはやコーラスとしての体をなしませんから、このまま、この日本のコーラスグループの草分け的存在だった「ダーク」も、解散を迎えてしまうのでしょうか。あるいは、別のジャンルですが、あの「クレージー・キャッツ」のように、現存するメンバーが2人になってしまっても名前だけは残しておくのでしょうか。
同じ時期に作られた「ボニー・ジャックス」や「デューク・エイセス」がそうであったように、いやしくもお客さんにきちんとした演奏を聴いてほしいと願っているプロの団体でしたら、メンバーに欠員があった場合には適宜新しいメンバーを迎えて活動を続けるというのが、まっとうな姿です。1968年にケンブリッジ大学のキングズ・カレッジ聖歌隊出身者によって結成されたキングズ・シンガーズも、もちろんそのようなスタンスで、しかしこちらの場合はむしろ早すぎるほどのメンバー・チェンジを繰り返して、今日まで40年以上のキャリアを築きあげてきました。常に「旬」のシンガーを擁することで、高いクオリティを維持しようという、それはそれで合理的な発想なのでしょう。
さまざまなレパートリーに挑戦してきた彼らが今回挑んだのは、ドイツのジャズ・バンド、WDRビッグ・バンドとのコラボレーションでした。信じられないことですが、多くのドイツの放送局は、クラシックのオーケストラや合唱団と同じように、専属のジャズ・バンドを持っています。ケルンにある西ドイツ放送局(WDR)のビッグ・バンドも、そんな、放送を通じてジャズの世界を広めようという使命を持った団体です。これは、かつて、このバンドの首席指揮者であり、現在も客演指揮者として関係の深い、アメリカのピアニスト/編曲者(イーストマン音楽院の教授)ビル・ドビンスが、彼らのためにバッハの「クリスマス・オラトリオ」をジャズにアレンジしたものを、ケルンのフィルハーモニーで演奏したコンサートのライブ録音です。打ち上げには松茸料理が出たのでしょうか(それは「土瓶蒸し」)。
全部で6つの部分から成り、普通に演奏すればCD3枚で3時間近くかかる「クリスマス・オラトリオ」ですが、ここではCD2枚に楽々収まる2時間ちょっとのものに刈り込まれています。実際は64あるナンバーは、36曲にまでカットされました。その割には演奏時間が長いのは、アドリブ・ソロがきっちり入っているためです。そう、この編曲は、「ジャズ風」にバッハを演奏するという「スウィングル・シンガーズ」のようなユルいアプローチではなく、きっちりジャズに仕上げようという、「ジャック・ルーシエ」タイプのものだったのです。レシタティーヴォは、ほぼ原曲通りの「尺」で演奏されていますが、ギターなどによる「コンティヌオ」と、斬新なコードで、しっかりジャズになっていますよ。ただ、面白いことに、今回のリード・セクションにはフルートとクラリネットだけが使われていて、サックスが全く入っていません。あの、無神経な音色とビブラートを持つ楽器がないことによって、なにかバッハをジャズにする際の最後の一線だけは守られたな、と思えるのはなぜでしょう。
もちろん、キングズ・シンガーズは、アドリブなどは一切行わず、与えられた譜面に忠実に演奏しています。そこから生まれる、バンドとは微妙に相容れないグルーヴを味わうことこそが、このコラボの醍醐味だったのかも知れません。

CD Artwork © Signum Records

1月11日

HOLST
The Planets
Vladimir Jurowski/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0047


自主レーベルの中でもアーカイヴ色の強いLPOですが、これは2007年から首席指揮者を務めているユロフスキとの新録音です。さすがに、怪しげな放送音源などとは比べものにならない素晴らしい音を聴くことが出来ます。おそらく、他のオーケストラの自主レーベルのクオリティを充分意識しての録音だったに違いありません。そのうちに、このクオリティをより高い次元で味わえるSACDを出してはくれないか、とは、誰しもが感じることでしょう。
そんな精緻な録音のせいなのか、あるいは、ユロフスキのバランス感覚の賜物なのか、ここからは、この超有名曲であっても初めて聴くような音色が頻繁に耳に入ってきます。チェレスタとかグロッケンといった打楽器系の音が、そんな代表、たとえば、フルートの旋律をなぞるというような、オーケストレーションの「隠し味」のような使われ方をするところでも、音が混ざらないでそれぞれの楽器として聴こえてきます。さらに、今までほとんど聴こえて来なかったような楽器がはっきり聴こえてくるので、これまで気づかなかったようなフレーズがあったことにも気付かされたりします。「天王星」でのコントラファゴットなどが、その好例でしょう。
ユロフスキの演奏は、リズムに対する感覚がきわめてシャープ、という印象を与えられるものでした。1曲目の「火星」は基本は5拍子という変拍子です。ここで注意したいのは、「5拍子」には、「(2+3)拍子」と「(3+2)拍子」の2種類がある、ということです。クラシックの場合は、たとえばチャイコフスキーの「悲愴」の第2楽章のように前者(2+3)のパターンがよく見られます。これはワルツのような3拍子とあまり変わらない感覚で、それほど違和感なく受け入れやすいものなのでしょう。しかし、これがジャズやロックになると、俄然(3+2)の曲が多くなってきます。ポール・デスモンドの作った有名な「Take Five」とか、ロイド・ウェッバーのロック・オペラ「Jesus Christ Superstar」の中の「Everything's Alright」というナンバーなどですね。そして、「火星」の場合は、この(3+2)という、どちらかというとクラシックにはなじまないビートが使われているのです。ですから、たいていの演奏は、その違和感が強調された、ちょっと鈍重なものになっているのではないでしょうか。
ところが、ユロフスキの「火星」は、このリズムを逆手にとって一気呵成に運んだ結果、全くクラシックとは異なる軽快なグルーヴを打ち出すことに成功しているのです。そこに現れたものは、まさにボーダーレスの、軽快でスマートな音楽でした。その5拍子に別の3拍子のフレーズが絡むとき、まるで近未来の風景のような(いや、見たことはありませんが)一切の無駄を排したような絵が、そこからは浮かんではこないでしょうか。
3曲目の「水星」も、リズム的には厄介な曲です。ここでは、早い3拍子が基本なのですが、それぞれ2拍ずつをつないで、倍の長さの3拍子のように聴かせる「ヘミオレ」という技法が頻繁に用いられます。そこから生まれるシンコペーションのグルーヴが、やはりユロフスキの場合はとても生き生きと感じられるのです。まるで、大瀧詠一の「君は天然色」みたいですね。
ただ、終曲の「海王星」にまで、そんなシャープさが及んでくるのは、ちょっと無理があるような気がしてしまいます。いかにも宇宙の果てしない広大さをあらわしたかのような神秘的な、言い換えれば不健康な音楽なのですから、こんなに健康的に演奏されてしまうとちょっと戸惑ってしまいます。それとも、これは、あの「冥王星」が「惑星」ではないことが判明したように、太陽系にはもはや神秘などひそんでいないという、やはり「近未来」的な発想が、ユロフスキにはあったためなのでしょうか。そういえば、「木星」の有名なテーマも、かなり前向きな趣を持ったものでしたね。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

1月9日

調律師、至高の音をつくる
知られざるピアノの世界
高木裕著
朝日新聞出版刊(朝日新書
267
ISBN978-4-02-273367-2

こんなサイトを作って、音楽に関してはまずたいがいのことには目を配れているつもりでいても、実際にこんな本に出会ってしまうと、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあるのだ、と思い知らされてしまいます。というのも、ピアニストがコンサートを行う時には、演奏するホールに備え付けてある楽器を使うのが当たり前で、自分の楽器をわざわざ運びこんでくる人はそれこそホロヴィッツとかミケランジェリといった、ごく限られたマニアックなピアニストだけなのだと思っていたのですが、今では普通のピアニストでも日常的に気に入ったピアノを持ってきて演奏を行っている人がたくさんいるのですね。考えてみればこれは当たり前の話で、ヴァイオリニストやフルーティストであれば、本番の時だけ、今まで弾いたこともない楽器を使うなんて、全く考えられないことですよね。自分の楽器は、長い時間かけて使いこんでこそ、自分の思っている音楽が表現できるようになるものです。それを、ピアニストだけが、いったい今までどんな扱いを受けてきたのか全く分からない楽器をいきなり与えられて、それを弾かなければならないのですからね。
もちろん、そんな当たり前のことが出来なかったのには、ピアノという巨大な楽器が、基本的には持ち運びが出来ないものだからだ、という理由がありました。だったら、簡単に運べるようにすればいいじゃないか、と考えたのが、この本の著者、高木さんでした。そのために、調律師である高木さんは、自身で調律した完璧のコンディションにあるスタインウェイを何台も所有し、それを演奏家の求めに応じて演奏会場まで運ぶ、というシステムを開発したのです。もちろん、演奏者のひき方やクセは充分に把握したうえで、最も弾きやすいように調整し、その楽器を分解せずに運べるような機械まで開発してしまいました。これでこそ、楽器を最高の状態で演奏家に提供できて、調律師としての仕事を全うできる環境だ、と、著者は述べています。それに比べれば、ホールの楽器をほんの限られた数時間で調整するのは、単なる「応急処置」に過ぎないのだと。
時には、やはりホールの楽器を使わざるを得ない時もあって、地方の公共ホールなどでそこのピアノを調律することもあるそうですが(町立のホールとかね)、そんな時に「地元」の調律師が見せる対応について述べている一文も、やはり初めて知ることで、結構衝撃的でした。以前からそのホールに出入りしている調律師というものは、演奏者の希望などで著者のような「よそ者」が仕事に来ると、なぜかその現場に立ち会うのだそうです。自分が今まできちんと保守に関わってきた楽器に、おかしな扱いはされないようにチェックするのでしょうが、あろうことか、その際に「立ち会い料」というものを請求するのだそうです。これは、全国で行われている公然の慣習なのだとか、もちろん、著者はそんなものには応じず、毅然とした態度を貫き通すのだそうですが、なんとも醜いことが行われているのが、この業界なのですね。
そういえば、市民センターなどに行くと、例外なく「調律が狂うので、ピアノの移動は禁止します」といった趣旨の張り紙があることを思い出しました。これなども、著者に言わせれば全くなんの意味もないことなのだそうですね。ピアノは、ちょっと動かしたぐらいで音が狂うほどヤワな楽器ではなく、何よりも単なる置物ではなく「楽器」なのですから、弾いてなんぼという感覚が必要なのだ、と、彼は主張しています。これは、不当な扱いを受けている楽器へのるおもいやりの心、そんな、ピアノが楽器として思う存分に活躍して欲しいと願う深い愛情が、この本のいたるところに満ち溢れています。

Book Artwork © Asahi Shimbun Publications Inc.

1月6日

MATSUMURA
Symphonies
神谷郁代(Pf)
湯浅卓雄/
RTÉ National Symphony Orchestra
NAXOS/8.570337J


ついこの間、朝日新聞の土曜日発行の別刷りに、クラウス・ハイマンの写真がでかでかと載っていたのに驚いたことがありました。その記事は、毎回さまざまな分野での成功者、おそらく、普通の人とはちょっと違ったユニークな方法でその成功を得た人を紹介するものだったのですが、そんな晴れがましいところにこのレーベルの創設者などというちょっと場違いな人物がいたのには、正直戸惑いを感じないわけにはいきませんでした。それまでにここで紹介された面々は、確かにひと味違った、ある意味尊敬に値する側面を備えた人ばかりだったのに、例えばこんないい加減な商売をしている会社のトップが出てくるなんて。
しかし、よく考えてみると、この人選にはそれなりの意味があることに気づきます。実はこのレーベルは、クラシックCDの売り上げが、今まで1位だったあのドイツ・グラモフォンを抜いて、全世界のトップに躍り出ているのです。確かに、最近のメジャー・レーベルのクラシックに対する扱いを目にしていればそれも納得できる事なのですが、それにしても、腐ってもあの名門のドイツ・グラモフォンが、こんな新興レーベルの軍門に下ってしまったとは。
そう、ハイマンは、安売り専門のマイナー・レーベルが、世界最大のクラシック・レーベルにまで成り上がったというサクセス・ストーリーの、まさに立役者だったのです(というか、ナクソス・ストーリー)。
それほどまでに躍進したというのは、やはり他のレーベルではまず手がけないようなレアな作曲家の作品を、場合によっては全集に近いものまでに掘り起こして世に紹介してきた、という制作ポリシーの賜物なのでしょう。ほんと、ここのカタログを見ていると、世の中にはいかに知られざる作曲家がいるのかが良く分かります。
そして、そのポリシーは、日本の作曲家にも及んでいたのですね。ご存じのように、日本独自の企画としてスタートした「日本作曲家選輯」というシリーズは、古今の日本人作曲家の一大アンソロジーとして、最終的には膨大なアイテムが提供される予定だったのでしょう。しかし、リリースが20枚を超えたころ、この企画を立ち上げた日本の代理店が、急に代理店契約を返上し、NAXOS本体の子会社がその業務を引き継ぐという事態が勃発しました。新しく代理店となった日本法人は、なぜかこの企画には冷たい態度を示し、それまでにすでに録音が終わっていたものも、リリースの目処も立たないままお蔵入りとなってしまったのです。
そんなアイテムの一つ、松村禎三のアルバムが、なんと3年ぶりに陽の目を見ることになりました。ジャケットのデザインは今までのものとはうってかわって垢抜けたものに変わっていますが、そのライナーノーツは、もはや、この企画の中心人物であった片山杜秀氏の筆になるものではありませんでした。華々しく「再開」を宣言した「日本作曲家選輯」ですが、この先さらに継続させていく予定があるのかどうか、知るすべはありません。
松村禎三といえば、独特の非西欧の趣味に基づく室内楽や合唱曲は聴いたことがありましたが、オーケストラのための作品に接するのはこれが初めてです。制作期間に30年以上の隔たりのある、ともにピアノがフィーチャーされた2つの交響曲を並べて聴くことによって、どの作曲家にでも感じられる作曲技法の変化を体験するのは、楽しみでもあり、辛いことでもあります。ライナーの中にある作曲者自身の言葉が、まるで社会の変化がその元凶であるかのような言い訳に聞こえるのは、「辛いこと」の筆頭でしょうか。最後のオーケストラ曲である「ゲッセマネの夜に」を聴くにつけ、その「辛さ」は募ります。
交響曲第1番の第2楽章で聴かれる、アイルランドのオーケストラの素朴なフルートの音色あたりが、わずかな「楽しみ」だったのかも知れません。

CD Artwork © Naxos Japan Inc. & Naxos Rights International Ltd.

1月4日

MAHLER
Symphony No.2 "Auferstehung"
Ricarda Merbeth(Sop)
Bernarda Fink(MS)
Mariss Jansons/
Netherlands Radio Choir
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 10102(hybrid SACD, DVD)


ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の自主レーベル、今回は2枚組SACDに、なんとDVDまで付いてちょっと高めのCD1枚分という値段なのですから不当に安すぎ、警察に出頭した方がいいのでは(それは「自首」レーベル)。
これは、3日間にわたって行われた同じ曲目のコンサートを収録したものです。SACDは、それぞれのテイクを編集して傷のないものに仕上げたのでしょうが、DVDには初日の映像だけが使われています。ですから、SACDになった時に、この日以外のテイクが使われていれば、もしかしたらその違いに気づくことがあるのかもしれませんね。そんな楽しみも、このパッケージには込められているのでは。ですから、最初にDVDを見て(聴いて)、終楽章のソプラノ・ソロの音程がずいぶん低めだったので、これはSACDでは他の日のものに差し替えられているな、と思ったのですが、SACDでもやはり低い音程のままでした。もしかしたら、他のテイクがもっとひどくて、これが一番マシだったのかもしれませんね。
しかし、このDVDの演奏は、金管などはとてもライブとは思えないほどの完璧な仕上がりなのには、ちょっと驚いてしまいました。実は、ごく最近日本のオーケストラ、某NHK交響楽団が同じマーラーの2番を演奏したものを生収録した映像を見たのですが、それはもうひどいものでしたから。とにかく、金管の聴かせどころで、ことごとくヘクって(註:楽隊用語で、不本意な演奏をすること)いるのですよね。もしかしたら、音声だけは編集後なのかも。
ヤンソンスのこの曲に対するアプローチは、とてもスマートなものでした。決して過剰に煽りたてることはなく、マーラー指揮者にありがちな自分の感情にのめりこむ「臭さ」を感じさせることはありません。しかし、それでいて、情感豊かな表現が求められるところでは充分なカンタービレを要求しています。その結果、音楽自体は非常にバランスのとれた美しいものに仕上がっています。オーケストラは、ですからことさら個人芸を際立たせることはなく、ソロはあくまでアンサンブルの中での役割に徹しています。ポリヒムニアの録音チームの、そんな全体を包み込むような録音ポリシーも、それを助けているようです。
4楽章で登場するアルト・ソロのフィンクは、そんな流れに逆らわない、かなり軽めの声を聴かせてくれています。本来なら、もっと力の入った声が聴きたいところですが、こちらの方がヤンソンスの作り出した世界の中には、より溶け込んでいる心地よさが感じられます。ですから、先ほどのソプラノの不安定な音程が、いかにも唐突に聴こえてしまいます。
合唱も、見事に透明な音色を維持して、決して感情をむき出しにすることのない深い響きを醸し出しています。特に男声の充実ぶりは素晴らしいものがあります。合唱が出てきて数小節経ったあたりでは、マーラーが「実際に音が出なくても、出そうとしている気持ちが感じられれば吉(意訳)」という註釈を付けているベースのB♭という超低音を、彼らはいともあっさりと出しているのですからね。人数は100人程度でしょうか、マーラーとしては決して多いとは言えない人数なのですが、そこから繰り出されるピアニシモは、鳥肌が立つほどの美しさを持っています。
この人数だと、通常の合唱が入る客席のスペースには収まらず、通路を隔てた左右のブロックにも座っています。それが、最後のクライマックスの前、ソリストが歌っている間に、それまでずっと座って歌っていた合唱団員が全員立ちあがって、左右の客席にいた人たちも真ん中に集まってきます。もちろん、楽譜にはそんな指示はないのですが、これが、それこそホルンが立ちあがって演奏する(他の曲ですが)ほどのインパクトを与えてくれます。そんなことが味わえるのも、DVDによる映像が付いているおかげ、これは単なる「おまけ」にはとどまらない貴重なメッセージを届けてくれています。

SACD Artwork © Royal Concertgebouw Orchestra

1月2日

PÄRT
Cantique
Kristjan Järvi
RIAS Kammerchor
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
SONY/88697753912(hybrid SACD)


ペルトのオーケストラと合唱のための作品などが収められているアルバムです。今時珍しいスタジオ録音、しかも、これも珍しいメジャー・レーベルによるSACDというのが、ありがたいところです。さらに、3曲のうちの2曲が「世界初録音」というのですから、その価値はハンパではありません。とは言っても、ペルトは好きではない人や、ヘッドフォンで圧縮音源だけを聴いていれば満足出来るような人にとっては、なんの価値もありませんが。先日のベームのモーツァルトのように、いくら素晴らしいと言われていても、人によっては全く価値が認められないものもあるというのが芸術作品の宿命なのですからね。
タイトルとは裏腹に、このアルバムのメインと言えるのが、世界初録音である「スターバト・マーテル」です。とは言っても、作品自体はアルバン・ベルク財団によって、その名が冠された作曲家の生誕100年と没後50年(彼はちょうど50歳ある晩、亡くなったんですね)の記念に、と委嘱され、1985年に初演されていますから、すでに有名なヒリアード・アンサンブルによるECM盤など、多くの録音が世に出回っています。ただし、このときには3人のソリスト(ソプラノ、カウンターテノール、テノール)と3本の弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)という編成でした。しかし、ここで演奏されているのは、2008年に、このSACDでの指揮者のクリスティアン・ヤルヴィと、当時彼が首席指揮者を務めていたウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団からの「もっと深い響きに」という希望を受けて、5声の弦楽合奏と、3声の合唱のために作り直された改訂版なのです。
確かに、ここでトゥッティの弦楽器と、おそらく40人ほどの合唱団によって産み出される響きは、以前の小アンサンブルによるものとはまるで別物でした。これだったら、「初録音」と胸を張って主張出来るだけのものがあります。そして、これがSACDで聴ける点が、さらなる好感度を誘います。ペルトの音楽は、「癒し系」と呼ばれている割には、時として冷たく突き放されるような瞬間が感じられることがあります。それは、おそらく極度の集中力を込めて演奏された結果のある意味余裕のなさと、つい鋭さが強調されがちな録音のせいだったのでしょう(ECMの録音は、そんなのが多いような気がします)。しかし、ここで聴くことの出来る弦楽器の響きは、テンションは高いものの、その中にはしっかり暖かさの感じられるものだったのです。もちろん、リアス室内合唱団のピュアなサウンドからも、ソロからは決して得られない暖かさがもたらされています。さらに、そもそもこの編成を望んだヤルヴィ自身の目指したものが、やはり包容力のある音楽だったに違いありません。深いところでのペルトの音楽との共感、それが、ここではとても好ましい形で現れています。
ペルトと言えば、このような作風が広く知られていますが、彼の作曲家としての出発点は、もっと攻撃的な性格を持ったものなのだそうです。その頃の作品を実際に聴く機会はあまりありませんが、ここで2曲目に収録されている「交響曲第3番」は、彼がスタイルを変え始めたとされる頃の1971年の作品です。確かに、さまざまな要素が未整理のまま提示されている、という印象はありますが、現在のペルトを知っているものにとっては、なんともほほえましい気持ちになれる作品です。何よりも、金管楽器や打楽器によるスペクタクルなサウンドというのが、とても和みます。
最後の「Cantique des degrés」という曲が、アルバムタイトルの由来になっています。これは、詩篇121のテキストのフランス語訳をテキストにしています。1999年にモナコ王室からの委嘱で作られたものですが、録音されたのはこれが初めてです。レーニエ三世の即位50周年を祝うための曲だからでしょうか、今のペルトらしからぬちょっとキャッチーなテーマと、派手なサウンドが印象的です。

SACD Artwork © Sony Music Entertainment

12月30日

MOZART
Requiem
Edith Mathis(Sop), Julia Hamari(Alt)
Wieslaw Ochman(Ten), Karl Ridderbusch(Bas)
Karl Böhm/
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
DG/UCGG-9003(single layer SACD)


モーツァルトの「レクイエム」に関しては、なんせこのサイトですから新録音は殆どご紹介してきていました。もっとも、出来ることならジュスマイヤー版ではない補筆稿で演奏されているものを重点的に聴きたいな、という偏りがあるのは致し方ないことです。そんなわけで、「名盤」との誉れ高いカール・ベームの演奏などは、紹介はおろか、演奏自体すらも今まで一度も聴いたことがなかったというありさまでした。そんなことではいけないと、話題の「SHM仕様のシングル・レイヤーSACD」で発売になったのを機に、まっさらな心でベームの初体験です。愛してるよ!(それは「ジュテーム」)。
ベームのこの曲の録音は2種類ありますが、これは1956年のウィーン交響楽団とののモノラル盤(PHILIPS)ではなく、1971年にDGに録音されたステレオ盤の方です。オーケストラはウィーン・フィル、このコンビが確固とした名声を誇っていた頃のものですね。ソリストも一流ぞろいです。
しかし、いくら「名盤」とはいえ、アナログの磁気テープの経年変化は避けることはできません。それを忠実にトランスファーしたDSDマスターでは、曲が始まるや否や、ファゴットソロの部分での見事なドロップアウトまでも、生々しく聴かせてくれていました。さらに、タイム・コードで00:15付近では、明らかにノイズと思われる「シャッ」という音が聴こえます。こういう昔の録音の場合、たいてい「マスターテープに起因する雑音があります」みたいないいわけが記載されているものですが、このSHM-SACDにはなぜかこのお決まりのコメントがありません。そんな時に限ってこんなはっきりした「雑音」が見つかってしまうのですから、皮肉なものです。
しかし、さすがに限りなくアナログ録音に近い音をデジタルでよみがえらせたこのフォーマットですから、ウィーン・フィルの弦楽器の音はとても伸びやかでソフトな響きを味わうことが出来ます。録音会場であるウィーンのムジークフェラインザールの豊かなアコースティックスと相まって、まるで包み込まれるような暖かなサウンドが響き渡っています。合唱も、かなりの大人数ですのでちょっと歪みっぽいところもありますが、逆に「群」としての存在感が、強く伝わってくるものになっているのではないでしょうか。しかし、今回の国内盤で、初めてこの合唱団が「ウィーン国立歌劇場合唱連盟」と表記されているのを見て唖然としてしまいました。「Vereinigung」を最初に「連盟」と訳してしまった人がいたのですね。その間違いを誰も正そうとせず、ひたすら前の資料のコピペに徹した結果、まるでウィーン中のオペラハウスの合唱団員がすべて集まってしまったような「邦題」が定着してしまったのでしょう。
ベームの演奏は、さすが「巨匠」というべき、なんとも格調高いものでした。信じられないほどの遅いテンポ設定で繰り出される音楽は、「深い魂のほとばしり」、とか、「果てしない慟哭の表現」とか、「評論家」が好んで用いそうなフレーズによっていとも容易に「言葉」にできそうなものでした。しかし、そんな「精神性」にはいつだって胡散臭さを感じている人にとっては、これほどつまらない演奏もないのではないでしょうか。少なくとも、最近の演奏家たちによってもたらされた、新鮮なモーツァルト像を享受している人たちは、こんな演奏には全く価値を認めることはないはずです。先ほどの「合唱連盟」が、異様なテンションで常に上ずったピッチで叫び続けているものは、ワーグナーあたりでは確かな存在感を持てるのかもしれませんが、少なくともモーツァルトには、いや、本質的にはベートーヴェンでさえ、今となっては受け入れるにはかなりの忍耐を必要とするものとなっているのです。
そう、このベームの「レクイエム」を最後まで聴きとおすだけの「忍耐」は、まっとうな審美眼を持っている人にとっては拷問に近いものなのです。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

12月28日

Works for Flute and Piano in 20th Century
Mathieu Dufour(Fl)
Pascal Rogé(Pf)
CRYSTON/OVCC-00082


シカゴ交響楽団の首席フルート奏者マチュー・デュフォーは、一時期は西海岸のロスアンジェルス・フィルの首席奏者も掛け持ちするという信じられないほどのハードな活躍ぶりを見せていた、まさに現在最も脂ののっている若手フルーティストです。いや、実際はロス・フィルに移籍するつもりでご家族ともどもシカゴから引っ越しまでしたのですが、結局奥さんが新しい土地に馴染めずに、元の鞘に収まった、ということのようですね。ロスの試用期間中は、シカゴにも籍が残っていたため、「かけもち」のように見えていたようです。実際に、このハードなポストを同時に2つも務めることなどは不可能なのでした(アメリカのオケには、首席奏者は一人しかいません)。
そんな売れっ子の割にはソロのレコーディングが殆どなかったのが、ちょっと寂しいところでしたが、なんと日本で録音のセッションを持ってくれました。しかも共演がパスカル・ロジェというのですから、これはとことん魅力的。
録音が行われたのは、今年の6月27日から29日まで、しかし、場所が福井県というのには、ちょっと驚いてしまいました。別に福井でコンサートがあったわけでもなく、レコーディングのためだけにわざわざあんな(どんな?)ところまで行ってきたなんて。しかし、会場となった「ハーモニーホールふくい」の大ホールというのは、世界各地に名ホールを造ってきたあの永田音響設計の手になるシューボックスタイプの、いかにも音の良さそうなところなので、録音が売り物のこのレーベルとしては、何か期するものがあったのでしょうね。
ただ、そんなレーベルだから当然SACDだと思っていたら、ただのCDだったのには本当にがっかりです。いくらいいホールを使ったり、「DSD Recording」などという表記があったとしても、SACDでなければなんの意味もありません。
アルバムには、日本語で「20世紀作品集」というサブタイトルが付いています。それは、プーランク、ヴィドール、サンカン、デュティユー、マルタン、そしてドビュッシーといった、いわばフルート界の「名曲集」のことだったのですね。「20世紀」というのは真の意味でのモダン・フルートのための作品が数多く作られた時代、そこで生まれたのが、これらの「名曲」、それは現代のフルーティストのレパートリーとしては欠かせないものとなっています。もちろん、それが誰に向けられた「名曲」なのかという点は、ベザリーの時に言及してあります。あまりしつこいと給料が減らされるので(「減給」ね)この件はそのぐらいで。
そんな、ある意味なじみのある、というより、隅々まで知っている曲なのに、ここでのデュフォーの演奏が、「普通の」リサイタルなどで聴かれるものとはかなり異なったテイストを持っていることには、誰しも驚かされるはずです。それは、どんなフルーティストでも必ず心がけるであろう、常に楽器を存分に響かせて聴衆に自分の音楽を訴えよう、という姿勢がとても希薄なのですよ。いや、確かに、彼の演奏には技巧をふんだんに披露するという場面がないわけではありません。それどころか、そんなヴィルトゥオージティを、彼は誰よりも圧倒的に見せつけています。しかし、彼にとってはそれはごく当たり前のこと、それよりも、まるで自分自身にだけ聴かせているような、とてつもなく内省的なピアニシモをことのほか大切にしているように思えてしょうがないのですね。もしかしたら、彼の演奏は、聴衆よりも作品、あるいは作曲者に向けられたものなのかも知れません。そして、不思議なことに、そんな演奏には、聴衆はとても心を打たれるのです。
最後に置かれたドビュッシーの「シランクス」は、作品自体に派手な技巧のひけらかしがない分、そんなピアニシモがひときわ際立ちます。これは、今までのこの曲に対する概念を覆すほどの、とてつもない演奏です。

CD Artwork © Octavia Records Inc.

12月25日

VERDI
Requiem
Margaret Price(Sop), Livia Budai(MS)
Giuseppe Giacomini(Ten), Robert Lloyd(Bas)
Jesús López-Cobos/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0048


このレーベルのジャケットにはいつも楽しませてもらっていますが、今回の「★さがし」はあまりにもベタだったので拍子抜けしてしまいました。もっと、挑戦意欲を掻き立てられるような高い難易度の仕掛けを施してもらいたいものです。こちらのように。
今回のライブは、新録音ではなくアーカイヴもの、1983年にBBCによって録音された放送音源です。きのうでしたね(それは「クリスマスイヴ」)。ほぼ同じ時期に録音されたやはりBBC音源のテンシュテットのブルックナーがあまりにもひどい音だったので、ちょっと心配だったのですが、とりあえず目立った破綻はないものだったので、一安心です。というより、最初のうちこそなんとも潤いに欠けたカサカサした音が耳ざわりだったものが、聴き進むうちに、演奏のあまりの素晴らしさにそんなことは全く気にならなくなってしまいました。
まず、素晴らしいのが4人のソリストたちです。この曲の場合、ソリストに求められるのは、まさにオペラティックな堂々とした声なのですが、それだけではなく、アンサンブルでもしっかり合わせられるキャラクターを持っていないことには、聴き手を充分に満足させることはできません。ソリストとしての力と同時に、他の人との相性も必要になってくるのですね。この間のムーティ盤でのフリットリがそんな意味でのミスキャスト、完璧な相性を持った4人を集めるのは結構難しいことなのです。
しかし、この録音の時のソリストたちは、完璧にその条件を満たしていました。まずはしょっぱなの「Kyrie」で、それまでの重苦しい雰囲気を一掃してくれたジァコミーニの伸びやかな声には、圧倒されてしまいます。そして、そのあとに続くバスのロイド、ソプラノのプライス、そしてメゾのブダイが、それぞれ全く同じ方向を向いた声を披露してくれた時、この演奏は間違いなく確かな感動を与えてくれるはずだと確信したのです。
そして、その期待は決して裏切られることはなく、この卓越したソリストたちの緊張感あふれる演奏は、最後の「Libera me」で、呻くような超低音で恐ろしいまでの迫力を見せてくれたプライスが歌い終わるまで続くことになるのです。
ロペス・コボスの指揮も、ゆったりとした流れの中で存分に歌手たちの演奏をサポートしています。その上で、オーケストラが作り出すグルーヴを的確にコントロールして、この上なく劇的な場面を表現しているのではないでしょうか。中でも、切れ目なく続く「Dies irae」の中のバラエティに富んだナンバーを、巧みにつなげていく時の場面転換は見事としか言いようがありません。一例として、ここでは、冒頭の「Dies irae」のパートが途中で何度か顔を出すのですが、その最初の部分、メゾのソロの「Liber scriptus」と、ソプラノ、メゾ、テノールの三重唱「Quid sum miser」の間に現れる場面などはどうでしょう。そこに行くまでの伏線として、合唱が執拗に「Dies irae」とつぶやく中を、徐々に盛り上がった音楽は、まるでバリー・ホワイトのようなストリングスに乗って(「愛のテーマ」は絶対にここをパクってます)「Dies irae」の後半を導き出します。そして、それが収まった後に待っているのは、とても美しいファゴット・ソロのオブリガートです。この流れを、ロペス・コボスはまるで映画のようにドラマティックに描き出しているのですよね。
合唱も、技術的にはイマイチの感はぬぐえないものの、要所要所ではなかなか熱いところを見せてくれています。「Sanctus」で二重合唱になるところでは、さらになにか一皮むけたような溌剌とした声があちこちから聴こえてくるというのも、ライブならの盛り上がりのなせる業なのでしょう。
せっかくですから、最後の拍手もしっかり収録して、観客の盛り上がりを確認させてもらいたかったところです。ちょっと早目のカット・アウトが、いかにも不自然。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

12月23日

GOODBYE YELLOW BRICK ROAD
Elton John
MERCURY/UIGY-9052(single layer SACD)


SACDCDよりもはるかに良い音を聴かせてくれるのは、別にクラシックに限ったことではありません。ジャズやロックでもそれは同じこと、特にジャズの愛好家などには、未だにLPの音を大切に再生しようと日々努力しているマニアはたくさんいるほど、音にはうるさい人たちが揃っていますから、CDでは物足りない思いをしているはずです。でも、ロックの場合は、あくまで私見ですが、クラシックやジャズほど音にこだわる人はいないような気がします。細かい音にこだわるよりは、大きな音でガンガン鳴らして浸りきる、といった聴き方がメインなのではないでしょうか。
エルトン・ジョンが1973年に録音した2枚組のアルバム、「Goodbye Yellow Brick Road」が、ここで何度かご紹介した日本のユニバーサルからのシングル・レイヤー、SHM仕様というとてつもないハイスペックのSACDとしてリリースされることを聞いた時には、ですから、まあいい音にはなっているのだろうとは思いましたが、それほどの期待をしていたわけではありませんでした。単に、ロックの場合のSACDがどの程度のものなのか、あくまで参考程度に知るために買ってみた、というスタンスですね。昔持っていたLPも、当時好きだった人にあげてしまって、もう手元にはありませんから、改めて聴いてみるのもいいかな、と。
とりあえず、2007年にリリースされたコンピレーションCDMERCURY/172 6850)があったので、そこに4曲収録されていたこのアルバム内の曲と比較でもしてみましょうか。
ところが、その聴き比べの結果は驚くべきものでした。CDと今回のSACDの音は、まるで別物だったのです。どの曲でも、明らかに音の「格」が違うのですよ。SACDは、それぞれのパートの音、楽器もヴォーカルも輝きがワンクラス上にものになっていました。そして、音の質感がとてもリアルです。「Bennie and the Jets」では、最初にSEで拍手が入っていますが、CDではまるで雨の音のようにしか聞こえなかったものが、SACDでは、もっと重心の低い、しっかり一人一人の人間が手を叩いているもののように聞こえます。「Candle in the Wind」では、ピアノの音もヴォーカルもリアリティが増大、さらに、途中から入ってくるコーラスの存在感が、桁外れに大きくなっています。タイトルチューンの「Goodbye Yellow Brick Road」(「黄昏のレンガ路」という邦題は殆ど誤訳でしょう)では、今まではバックに入っていたストリングスは、当時の「ソリーナ」のようなキーボードで入れていたのだと思っていたものが、しっかり「生」のヴァイオリンに聞こえます。そもそも、ヴォーカルがダブルトラックだったことも、ここで初めて気が付いたぐらいですから、今まで聴いてきた音がいかにいい加減だったかが分かります。そして、「Saturday Night's Alright」のような、いかにも音なんかどうでも良さそうなロックンロールのナンバーが、一番違っていたのですから、びっくりです。ギターもドラムスもまるで3Dのように飛び出してくる感じ、音楽のノリさえ、別なものに感じられてしまいます。いやぁ、こんなのを聴いてしまうと、もう普通のCDにはもどれません。
ロックのろっくおん(録音)に対する偏見は、見事に吹っ飛んでしまいました。どのジャンルでも、エンジニアはしっかりとした仕事を残していたのですね。
しかし、これだけきちんとした音で聴いてみると、このアルバムには確かに存在していた暖かな肌触りが、最近の録音ではまるで感じられなくなっていることに気が付かされます。当時の2インチ幅のまるで昆布のような磁気テープを使って行われた16トラックのアナログ録音は、もしかしたら今のPro Toolsのハードディスク・レコーディングよりもはるかに情報量が多かったのかも知れませんね。なんせ、山下達郎も言っていましたが、同じデジタルでも、以前の例えばSONYPCM-3348のような、磁気テープを使ったマルチトラックとPro Toolsのマルチトラックとでは、ミックスした時の音の重なり方がまるで違うのだそうですからね。

SACD Artwork © Mercury Records Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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