ヘルリオーズの減少交響曲。.... 佐久間學

(12/11/1-12/11/19)

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11月19日

Christmas Choral Highlights 2012
Bob Chilcott/
The Oxford Choir
OUP/MCDXMAS12


11月に入るか入らない頃になると、もう街はクリスマスモードに変わってしまうというのが、最近の日本での一般的な風物詩です。いくらなんでもそれは早すぎるのではないか、などと思っている人は、すでに世の中からは取り残されてしまっています。ここはどっぷりそんなお祭りに浸りきるのが、賢い生き方と言えるでしょう。そうすれば、美容室のスタイリストさんから、帰り際に「良いクリスマスを!」などと声をかけられたとしても、それを単なるマニュアル通りのあいさつではなく、もっと暖かい心のこもったものと受け取ることだってできるようになるはずです。
もちろん、そこまで覚悟を決めた人にとっては、イギリスの楽譜出版社が以前ご紹介したボブ・チルコットの作品集のサンプラーと同じ体裁でクリスマスの合唱曲を集めた「音見本」を無料で配布しているものを入手するのは、いとも自然な成り行きです。
そんなわけで、やはり「パナ・ムジカ」という楽譜屋さんが「先着300名!」と煽っていたオクスフォード・ユニバーシティ・プレスの販促グッズを、嬉々として手元に引き寄せるのでした。
前回同様、ここではボブ・チルコットが指揮をした「オクスフォード・クワイア」という、恐らくこの録音のためだけに集められたメンバーによる20人ちょっとの合唱団が演奏しています。女声は殆ど既婚者(オクサンホド・カワイイヤ)でしょうが、メンバーの名前を見てみると、前回も歌っている人が各パートに1人ぐらいずついるようですし、ソプラノにはあの「ポリフォニー」でも歌っている人の名前も見つかりました。いずれにしても、それぞれにきちんとした経歴を持っているシンガーの集まりなのでしょう。
それでも、前回はそれほど引き込まれるような合唱団ではなかったような印象があったのですが、今回はちょっと違います。それこそ、「ポリフォニー」みたいな、かなりハイテンションの歌い方で迫ってきます。まあ、曲がクリスマスがらみのものばかりですから、やはり張り切ってお祝いしよう、ということなのでしょうか。
ここでは、全部で17曲が歌われています。しかし、それらはほとんど知らないものばかり、作曲家の名前も、指揮をしているチルコットと、例によってプロデュースを手掛けている(今回は録音は自分ではやっていないようです)ジョン・ラッターしか、聞いたことのあるものはありません。しかし、何も心配はいりません。それぞれに2、3分の曲は、みんなとても親しみやすく、全く構えることなく、素直に心に入ってくるものばかりなのですからね。恐らく、これらの曲の大部分は、演奏会で「聴かせる」ために作られたものではなく、教会で礼拝の時に「歌う」ために作られたものなのでしょう。それは、音楽的に技巧を凝らすことよりは拙いなりにも自分で「参加」出来るような懐の深さが感じられるものです。合唱音楽が生活の中に自然に入ってきているイギリスならではのことですね。
伴奏が、ほぼ1曲おきにオルガンとピアノの二本立てというのも、変化があっていいものです。特にオルガンの録音が非常に素晴らしいことも、このアルバムの魅力を高めています。
ちょっと気にかかったのが、マルコム・アーチャーという1952年生まれの教会音楽作曲家の「When Christ was born of Mary free」という曲。7拍子という変拍子なのにとてもキャッチーなテーマが、何回も繰り返すたびにどんどん深みを増していく作品です。
最後の2曲は、このセッションではなく、ラッターが自分の合唱団と録音した以前のクリスマスCDCOLLEGIUM/COLCD 133)からコンパイルされたものです。最後のオーケストラも入って派手に盛り上がる「Esta Noche」という曲には「ラッター作曲」みたいなクレジットがありますが、これはトラディショナルをラッターが編曲したものでした。これだけ、ちょっと毛色が違ってますが、アルバム全体の心地よさを損なうほどのものではありません。

CD Artwork © Oxford University Press

11月17日

Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
The Beatles
EMI/PCS 7027(LP)


前回の「Abbey Road」では、昔のLPが手元になかったので、2009年のリマスターCDとの比較しか出来ませんでしたが、今回は「Sgt. Pepper」の国内盤、1969年のセカンド・プレス(東芝音楽工業/AP-8163)がまだ散逸を免れていたのでそれとも聴き比べることが出来ました。
長い時間の中で、ジャケットの色はかなりくすんでしまっていたことが、「新しい」LPと比べるとよくわかります。

もちろん、レーベルは当時はイギリスでは「PARLOPHONE」、日本では「APPLE」でした。

ご存知のように、この時期の東芝のLPは、帯電防止剤を多量に混入した粗悪な(いや、当時これを開発した人は最高級品だと思っていたのでしょう)コンパウンドが原料でしたので、経時変化によってそのような添加剤が表面に浮き出し、音質に悪影響を与えていました。今回も、片面をかけていると、次第に針先にゴミがたまって、音が歪んでいくのが分かります。逆に、一度そうやって表面を掃除すると、しばらくはまともな音で聴けるのですがね。
ビートルズのLPは、最初はもちろんアナログのマスターを使ってカッティングが行われていました。ですから、この東芝盤も当然アナログマスターによって作られたものです。その後、1987年に全タイトルがCD化されたことに伴い、LPCD用のデジタルマスターによってカッティングされるようになったのだそうです。1度カッティングを行って作られたラッカー・マスターからは、せいぜい数万枚のLPしかプレスできませんから、それ以上製造する時には、新たにカッティングを行う必要があるのですね。今考えれば、そこで使われたのは16ビットのマスターのはずですから、かなりクオリティは落ちていたのではないでしょうか。この時期のLPがあれば聴いてみたいものです。そして、今回は2009年に新たにハイレゾ(24/192)でマスターテープからトランスファーされたデジタルマスターによるLPということになるのです。
ですから、東芝盤は、そんな最悪なコンディションであっても、オリジナルのアナログマスターの音を反映させているはずです。それは、若干の歪みと、決して無視はできないスクラッチ・ノイズの中からも、確かにうかがえるものでした。何よりも、ヴォーカルの存在感が、デジタルマスターによるものとはまさに一線を画しています。さらに、アコースティック楽器の音色や肌触りの違いは歴然としています。このアルバムの中でそんな編成のものはA面6曲目の「She's Leaving Home」ですが、録音時にすでに歪んでいたイントロのハープは仕方がないとして、そのあとに出てくる弦楽器のふんわりとした空気感は東芝盤でなければ味わえないものでした。今回の「新しい」LPでは、その「ふんわり」がなくなって、ちょっと硬質の部分が露出している感じ、CDでは、もはやアコースティック楽器とは思えないほどの音になっています。つまり、これはあくまで個人的な好みも含まれた評価になるのですが、「1969年のLP」>「2012年のLP」>「2009年のCD」という順位になっているのです。
LPCDよりも音が良いのは当たり前の話ですが、16ビットならいざ知らず24bit/192kHzというハイレゾでトランスファーされたデジタルマスターがアナログマスターと同程度でなかったのは、やはりマスターテープの劣化のせいなのでしょう。そんな劣化の跡は、B面の4曲目「Good Morning, Good Morning」の右チャンネルのブラスに顕著に表れています。1969年の時点では、トロンボーンのペダル・トーンはそんなに歪んではいませんでした。デジタル・テクノロジーの進歩は、マスターテープの劣化に追いつくことはできなかったのですね。
ただ、今回のLPでは、こちらで明らかになった、イギリス盤のファースト・プレスでしか聴くことが出来なかった「仕掛け」が、初めて味わえることになりました。針を上げない限り永遠に続く「Never needed any other way」というポールの声、これはクセになります(「ポルノ声」ではありませんからね)。

LP Artwork © EMI Records Ltd.

11月15日

Abbey Road
The Beatles
EMI/PCS 7088(LP)


最近のLPに対する新たな見直しは、なんだかすごいことになっています。なんでも、日本のUNIVERSALが材質やプレス、さらにはマスタリングなど凝りに凝ったLPを近々発売するのだとか、このブームはさらなる広がりを見せるのでしょうか。なんと言っても、ここではクラシックのアイテムが全くないというのがイマイチなところですが、とりあえずクラシックはシングルレイヤーのSACDに集中ということなのでしょうか。究極の再生音を求めた結果が、ハイレゾのデジタル音源と、昔ながらのアナログ音源という、全く反対方向を向いている二つの流れになって表れているというのが、実に面白いところです。
そんな流れの中で、今度は「ザ・ビートルズ」の全アルバムがLPとなって発売されました。例によって最初に聴いてみるのはやはり「Abbey Road」ということになります。
まず、このLPの品番を見て、驚きです。この「PCS 7088」というのは、このアルバムが最初に発売された1969年に付けられた品番なのですよ。驚いたのは、「そこまでこだわって復刻したのね」ということではなく、イギリスで今まで頻繁にリイシューされた時には、ずっとこの品番が付けられてきていた、という事実です。恐らく、イギリスでは今までもずっとこのLPは製造されていて、店頭でも販売されていたのでしょうね。それが、新しいマスタリングでまたリイシューされた(もちろん、同じ品番で)、今回のLPはそんな扱いなのですね。
しかし、これは今までのLPとは異なり、2009年に鳴り物入りでリリースされたデジタル・リマスターCDで用いられたデジタルのマスターが使われている、というのがセールス・ポイントになっているようです。もはや、オリジナルのマスター・テープは劣化が進んでいますから、現時点では、危なっかしいアナログ・マスターよりは、丹念に修復が施されたデジタル・マスターの方が、よっぽど信頼できるのでしょう。そのデジタル・トランスファーが、すべて24bit/192kHzで行われていたのも幸運でした。かえすがえすも、DECCAの「指環」のトランスファーが24bit/48kHz(あるいはそれ以下)でしか行われなかったことが悔やまれます。
今回のLPを、2009年のCDと比べてみると、とても同じマスターから作られたものとは思えないほどの違いがありました。それを「アナログとデジタル」の違いと言ってしまっては身も蓋もないのですが、LPの方がはるかにソフトで滑らかな感じがするのですね。CDは、ちょっと聴くととても細かいところまで精緻に再現出来ているような気がするのですが、LPを聴いた後には、それはなにか不自然なものに感じられてしまうのです。まるで、最初はなかったものを新たに付け加えたような感じでしょうか。それと、ヴォーカルの暖かさとか存在感は、間違いなくLPCDを凌駕しています。
そんな違いが特にはっきり分かるのが、A面の5曲目「Octopus's Garden」です。リンゴのヴォーカルは立体的に浮かび上がっていますし、それに絡むポールとジョージのコーラスの明瞭さも、全然違います。圧巻は間奏のギター・ソロ。LPでは突き抜けるような高音がまさに「浮き出て」聴こえてくるのに、CDではとても平板、音色までも全然地味になっています。
もう1曲、B面メドレーの最後の方の「Golden Slumbers」では、ポールが「Once there's a way」と歌い出すところで背後に流れるストリングスのテクスチャーが、まるで違います。LPではきちんと弦楽器のほんのり感が出ているのに、CDではまるでシンセみたい、そのあとのブラスも、やはり別物のように聴こえます。これらは、まさに16/44.1というCDのスペックから来る限界をまざまざと感じさせるものに他なりません。
今回のLPの盤質の良さも驚異的です。普通にスピーカーで聴いていると曲間のサーフェス・ノイズは全く聴こえないほどです。これで、盤面の経時変化さえなければ完璧なのですが、それはあと何年かしないことには分からないことです。

LP Artwork © EMI Records Ltd.

11月13日

BACH
Mattheuspassie(in Dutch)
Marcel Beekman(Ev)
Marc Pantus(Jes)
Jos Vermunt/
Haags Matrozenkoor, Residentie Bachkoor
Residentie Orkest
DG/00289 4769164


前にオランダのレーベルでシューベルトを聴いたときに、フルートのオブリガート付きのリートを歌っていたフランシーネ・ファン・デア・ヘイデンの声が素敵でした。そこで、ほかになにか録音していないかと経歴を見てみたらすでに「マタイ」を録音しているというので、ちょっと前のアイテムですが聴いてみることにしました。ところが、手元に届いたCDを見ると、それはなんとオランダ語で歌われているものでしたよ。こんなの、だれも聴いた人はおらんだ。以前英語版を聴いて、かなりの違和感を抱いたことがありましたが、オランダ語ではいったいどういうことになるのでしょう。
そもそもこのCDは、オランダのUNIVERSALが制作した、完全なオランダ仕様、ジャケットにもブックレットにもオランダ語のテキストしか載ってません。タイトルも、もちろんオランダ語ですね。まあこのあたりはすぐ分かりますが、エヴァンゲリストが「Verteller」となっているのは、なんだかちょっと軽い感じがしませんか?
ドイツ語や英語で歌われている時には、曲がりなりにも意味が分かりますが、オランダ語になってしまえばもう全くの「知らない言葉」ですから、そこから何か意味を感じ取ることはできません。となると、完全に「音」として聴くしかなくなってくるのですが、そうするとちょっと面白いことが起こりました。その「音」が、なんだか中国語みたいなアジア系の言葉のように聴こえてくるのですね。全く勝手な思い込みかもしれませんが、エヴァンゲリストを歌っている人がかなり甲高い声なので、なおさら中国っぽく聴こえてきたのかもしれません。
そうなってくると、この中国語によるバッハ(ちがうって!)が、とても滑稽な響きで伝わってくるのですから、困ったものです。例えば、第2部の後半にある「Komm, süßes Kreuz」などというしっとりとしたバスのアリアも、「コム、クラッケンド、クルイス」と、やたらとカ行が強調された上に「クラッケン」みたいな「促音」が入って、なんだかとても明るい感じに変わってしまうのですね。どうも、バッハを歌うにはもっともふさわしくない言語なのでは、と思ってしまいます。中国語は(ちがうんですけど)。
もっとも、「明るさ」は言葉だけではなく演奏そのものにも原因があるのかもしれません。楽器はモダン楽器を使用、編成もごく普通の豊かさが得られるほどの人数が揃っていますし、合唱もかなりの人数がいるようです。それがCD2枚、約157分に収まってしまうほどの軽快なテンポで演奏をしているので、全体的になんだか重みのないものに仕上がっているという印象があります。イエスを歌っている人もかなり軽い声で、さっきのエヴァンゲリストと一緒になって、重厚とはまるで無縁のレシタティーヴォを繰り広げていますしね。
オーケストラはそこそこ力のある団体のようなのですが、合唱がかなり雑なのが、ちょっと気になります。コラールなどはピッチが決まらずになんとも幼稚な感じに聴こえてしまいますし、対位法が使われた合唱などはあちこちで崩壊していました。唯一「バラバ!」の減七の和音だけが、びっくりするようなインパクトを持っていたのが取り柄でしょうか。
さらに、ソリストたちもなんだか危なっかしい人が揃っているようですね。20番のアリアを歌っていたテノールなどはかなり悲惨、さらに、そのバックの合唱がやはり雑なんですよね。
お目当てのファン・デア・ヘイデンは、声自体はとても立派なものを持っていて何の破綻もないのですが、あまりに立派過ぎてちょっとバッハの様式からは離れているかな、という気がしてしまいます。49番のアリアでも、オブリガートのフルートは精一杯バロック風に演奏しているというのに、歌があまりにもロマンティックなのですからね。
こういうのは、やはり「珍盤」と言うべきなのでしょう。

CD Artwork © Universal Music BV, Nederland

11月11日

TCHAIKOVSKY
Symphonies Nos.4,5
Vladimir Jurowski/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0064


ロンドンのオーケストラのうちで、最初に自分のレーベルを持ったのはロンドン交響楽団だったのでしょうか。2000年に発足した「LSO Live」というレーベルは、録音スタッフも有名な人を集め、録音のクオリティにも神経を使っていて、すべてのアイテムをハイブリッドSACDでリリースするほど、その音には自信を持っています。それから少し遅れて2005年に自主レーベルを立ち上げたのが、ロンドン・フィルです。こちらは「LPO」という素っ気ないレーベル名ですし、特に新録音にはこだわることなく、アーカイヴ的なものもまぜこぜにしてリリースしていましたから、音に関してはそれほどこだわってはいないような印象を受けていました。しかし、最近の新録音などは、たまにすごい録音に巡り合えることもあるので、ちょっと気になりかけているところです。
今回のチャイコフスキーの4番と5番の2枚組のCDも、ちょっと耳をそばだてられるような良質の録音でした。それは、LSOの、とてもナチュラルなのだけれど、ちょっとおとなし目のサウンド・ポリシーとは対照的な、それぞれのパートがくっきり浮かび上がってくるようなとても派手なサウンドだったのです。例えてみれば、1960年代のアメリカCOLUMBIAのような音ですね。時代の流れとしては、そのようなある意味「不自然」な音づくりは、最近では慎まれる傾向にあります。もっとオーケストラ全体、さらにはホール全体の自然なバランスを大切にしようという流れでしょうか(LSOがまさにそんな好例)。
しかし、このLPOのような言わば昔のHi-Fi風の音には、なにかとても魅力が感じられます。実際にホールでは聴くことのできない、管楽器奏者の息遣いなどもくっきり聴きとれる、言ってみれば「禁断」の味に引き込まれるのですね。さらに、音がものすごくゴージャス。まさにきらびやかな音の洪水で窒息させられそうになるほどです。
そんな華やかな音で聴くチャイコフスキーが、気持ちよくないはずがありません。チャイコフスキーには、先日のダウスゴーのような禁欲的な扱いなんか必要ありません。こんな風にひたすら華やかで豪華、これが醍醐味ですよ。
そんな音の中で、ユロフスキは、まさに「禁欲」からは対極にある技を繰り出してきます。彼はまるで野獣、どんな時でもその力を緩めることはしません。ひたすら突いて突いて突きまくり、相手には瞬時の休みも与えず、絶頂が訪れて果てるまで、体の最も敏感な部分に刺激を与え続けるのです。
なんて言ってると、果てしなくエロに近づくので(エロフスキですね)もう少し音楽的な言い方に翻訳すると、彼の音楽には老練な指揮者がよく用いるような「タメ」がほとんど見られないのですね。フレーズの終わりをきちんと納めるなどというようなチマチマしたことはせず、たたみかけるように次のフレーズを重ねてきます。これで、音楽はとてもダイナミックな生命力を持つのです。しかも、そのようにただ煽っているだけではなく、必要なところではじっくりと舐めまわすように(またエロだ)ていねいに音楽を聴かせようとします。「4番」のフィナーレに現れるフルートの細かい音符のソロが、そんなところ、ここではただの早業には終わらない、もっと落ち着いた情緒が味わえます。しかし、そんな甘い気持ちに寄っているのも束の間、やがて押し寄せるクライマックスは、まさにエクスタシーのほとばしりです。
両方の交響曲の第2楽章のような、切なくこってりと歌って欲しいところでも、この「攻め」の音楽は貫かれます。べたべた付きまとうオンナはうっとおしい、とでも言いたげ、ほんと、メランコリーを排したチャイコフスキーは、なんてカッコいいんでしょう。
あ、ジャケットの「★」は最近難易度が低すぎ。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

11月9日

BRITTEN
War Requiem
Evelina Dobracheva(Sop)
Anthony Dean Griffey(Ten), Mark Stone(Bar)
Jaap van Zweden, Reinbert de Leeuw/
Netherlands Radio Philharmonic Orchestra
Netherlands Radio Choir & Children's Choir
CHALLENGE/CC72388(hybrid SACD)


最近、ブリテンの「戦争レクイエム」がなんだか頻繁に演奏されているのでは、と感じるのは単なる錯覚なのでしょうか。いや、この曲が作られたのが1962年、今年がそれから半世紀という事実が大きく関わっていることは間違いありません。実際に、この曲を委嘱したコヴェントリー大聖堂で、まさに初演から50周年に当たるその日に演奏された模様が、BSで放送されていましたね(このネルソンス指揮の映像は、もうすぐARTHAUSからDVDBDが発売になります)。さらに、少し前には小澤征爾の2種類の録音(2009年の松本と2010年のニューヨーク/DECCA)がリリース、さらにノセダとロンドン交響楽団の録音(2011/LSO LIVE)が出たばかりだというのに、こんな大曲がまたこのように別のレーベルからリリースされるのですから、今はちょっとした「戦争レクイエムインフレ」状態ですね。いや、来年の6月には、ラトルとベルリン・フィルが定期演奏会でこの曲を取り上げるのだそうです。これも、何らかの形で商品化されるのでしょうから、当分このブームは収まりそうもありません。
ストレートに「戦争」という単語をタイトルに付けたことでも分かるように、この作品はまさにストレートに「反戦」のメッセージが込められたものになっています(ブリテン自身は「ストレート」ではありませんでしたが)。それは、通常の「レクイエム」のラテン語の典礼文で作られた音楽の間に、ウィルフレッド・オーウェンの極めて直接的な英語による反戦詩をテキストとした音楽が挿入されていることで、まさにむき出しの形で「反戦」の意志を表明しているような外観に仕上がっています。さらに、その「反戦」のパートを際立たせるために、作曲家は「典礼」とは全くテイストの異なる音楽をそのテキストに与えるとともに、演奏者も、完全に隔離されたセットとしてテノールとバリトンのソロをオーケストラとは別の小アンサンブルが伴奏するという形を取りました。しかも、このアンサンブルのパートは、本来は全体のオーケストラとは別の指揮者が立てられることになっていました。
今回のズヴェーデンの演奏は、ノセダ盤よりも前の2010年にライブ録音されたものでした。そういえば、先ほどから紹介している最近のアルバムは、すべて実際の演奏会を録音したものでした。やはり、この曲を演奏するということは、同時に「反戦」のメッセージを直接聴き手に伝えたいという強い気持ちがあってのことなのでしょう。セッション録音ではそんな気持ちはかないません。音楽家がそう思いたくなるような、切実な危機的状況を現代社会は抱えている、ということになるのでしょうね。
 ただ、この作品には、はたしてそんな音楽家の気持ちをしっかり受け止めるだけの力が備わってはいるのでしょうか。全くの私論ですが、この曲の「目玉」である2人の男声ソリストとアンサンブルのパート(この演奏では、デ・レーウが指揮を担当しています)は、本体のラテン語の典礼文に基づく大編成のパートの持つ「力」に対して、いたずらにそれを殺ぐような働きとしてしか機能していないように感じられるのです。特に、ここで歌っているテノールソロは、小澤盤でも参加していたアンソニー・ディーン・グリフィーなのですが、この人の歌い方がなんとも中途半端なために、その思いはさらに強くなります。
それに比べて、「本体」の方は、真摯な祈りが込められ、深いところから熱い思いが露骨な形ではなく現れてきています。ここでのドブラチェヴァのソロはちょっともの足りませんが、初録音のヴィシネフスカヤなどでは、圧倒的にその思いは伝わります。この曲は、「本体」だけで充分その使命を果たしているのですよ。
そろそろ、ゴミみたいな余計なものを片づけて、この作品をもっときれいにして演奏する人が出て来ないものでしょうか(それは、「清掃レクイエム」)。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

11月7日

TOUCHED
Calmus Ensemble
CARUS/83.379


以前はライプツィヒのレーベルQUERSTANDからアルバムをリリースしていたライプツィヒのコーラス・グループ「カルムス・アンサンブル」は、最近はシュトゥットガルトのレーベルCARUSに移籍したようですね。「カルムス」が「カルス」から、なんて、ほとんど「おやぢ」の世界、というのは、もちろんカタカナ文化圏でしか通用しないネタです。名古屋の文化圏ではどうでしょう(それは「テンムス」)。
レーベルが変わっても、制作スタッフは同じようですので、彼らの演奏スタンスは変わってはいません。ただ、5人のメンバーの中での紅一点だったちょっと太めのアニャ・リプフェルトが、ジャケットの写真ではなんだかもっとスラっとした美人に変わっています。確かに名前もアニャ・ペッヘと別人・・・と思ったら、結婚してラスト・ネームが変わっただけのようですね。そういえば、テナーのメンバーはトビアス・ペッヘという名前でした。彼女のすぐ後ろに寄り添っている彼ですね。そういうことですか。まるで「ABBA」のような、グループ内結婚だったんですね。あそこのアグネタやフリーダみたいに離婚しないといいのですが。
このアルバムは、モンテヴェルディやパーセルといった「古い」音楽と、エルトン・ジョンやクイーンといった「新しめ」の音楽を全く同列に扱って、それを合唱を通して楽しんでもらおう、というコンセプトで作られているのでしょう。驚いたことに、それぞれの曲は全く切れ目なく最後まで続けて演奏されています。ただ、いきなり続けるのもなんだか、という曲の間には、「Interlude」という、ちょっとしたブリッジが設けられています。例えば、1曲目のスティングの「Shape of My Heart」が「heart」という言葉で終わると、コーラスがその言葉を何度も繰り返します。それが、いつの間にか次のパーセルの「Hush, No More」の頭に変わっている、というやり方ですね。これが何度も、様々なアイディアで現れますので、聴いている人は曲が変わったことに気づかずに、最後まで聴き続けてしまうかもしれません。
最も高い声部と、ソロを担当しているアニャは、その声にますます磨きがかかってきたようです。トゥッティとソロとの使い分けはとても見事ですし、ソロになった時にはかなり低い声でもしっかり響いていますしね。さっきのパーセルなどは、まさに完璧なホモフォニック、見事に溶け合ったハーモニーの一瞬一瞬には、ため息が出るほどの美しさがありました。時折男声パートのソロも出てきますが、それは少年のようにハスキーでちょっとはかなげ、それをアニャの声がまるで母親のように温かく包み込んでいる、というのが、彼らのサウンドの魅力です。決してはしゃぎすぎることのない、ちょっと暗めのテイストも、いかにもドイツ人という感じがしませんか?
鳥の声の擬音(もちろん、人の声です)の「Interlude」に導かれて登場したのが、ジャヌカンの「鳥の歌」です。この曲は、作曲者の名前を冠した、あの「アンサンブル・クレマン・ジャヌカン」の怪演がすっかりこびりついてしまった耳には、なんと新鮮に聴こえることでしょう。アニャは、決してドミニク・ヴィスのような素っ頓狂な声を出すことはありませんし、ほかの男声もひたすらおとなしい声でアンサンブルに貢献している、という感じ。ちょっと「教養が邪魔をしている」という感が無くはありませんが、そこからは「いくら鳥でも、楽しいことばかりではないのさ」というような「声」さえ聴こえてきそうな気がしてしまいます。
それだけではありません。ビル・ウィザースの「彼女が去って、太陽は消えた」という悲しい歌「Ain't No Sunshine」には、まるで死にたくなるような暗ささえ秘められてはいないでしょうか。それに答えてモンテヴェルディの「Lasciatemi Morire」ですよ。これも、そんなに死にたいのなら、死んでしまいなさい、と言いたくなるような暗さ、なんと恐ろしいアルバムが出来てしまったことでしょう。

CD Artwork © Carus-Verlag

11月5日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.6 Pathétique
Thomas Dausgaad/
Swedish Chamber Orchestra
BIS/SACD-1959(hybrid SACD)


シューベルトで、小編成を逆手にとって目覚ましい演奏を聴かせてくれたダウスゴーとスウェーデン室内管弦楽団が、今回はチャイコフスキーの「悲愴」に、同じ方法論で挑戦してくれました。つまり、普通はシンフォニー・オーケストラが演奏しているレパートリーを、「チェインバー・オーケストラ」で演奏する、という試みです。それがどのぐらい特別なことかと強調するために、国内の代理店が用意したコピーは「全38名の室内管弦楽団で『悲愴交響曲』を初披露」というものでした。
こういう宣伝用の資料というのは、決して鵜呑みにしてはならない、というのは、もはや常識です。なにしろ、こういうものを書く輩といったら、CDを売るためだったらどんな卑劣なことでもやりかねません。実際に演奏など聴いていないのに、さも聴いたかのように文章をでっちあげることなど日常茶飯事、人の目を引くためなら事実無根の事柄でも堂々と書き連ねるのですからね。となると、この「全38人」というのも、疑ってかからなければいけません。はたして、それだけの人数でチャイコフスキーの「悲愴」を演奏することなど、出来るのでしょうか。物理的に考えると、この曲では弦楽器以外に必ず1人以上いなければならない楽器を演奏する人が22人必要です(詳細はこちらあたりで)。ですから、弦楽器は残りの16人ということになるのですが、これだと例えば5.5.3.2.1程度の編成でしょうか。いくらなんでもこの曲にコントラバス1本(多くても2本)なんて無茶な話です。なんせ、第1楽章の冒頭ではすべての弦楽器がdivisiになるのですからね。
実は、ここでキングインターナショナル(あ、言っちゃった)が「38人」と書いたのには根拠があります。ライナーノーツには確かに「38 regular members」とあるのですよ。そこで、彼らの公式サイトのメンバー表を見てみると、確かに管楽器は木管も金管(トロンボーン、チューバはなし)も2本ずつ(なぜか、オーボエだけ3本)、打楽器はティンパニだけ、そこに8.6.5.4.3の弦楽器が加わるという編成なのです。これで計40人、コンサートマスターが2人いるので、どちらか片方と、余分のオーボエを除けば見事に「38人」になりますね。ただ、この編成では、「悲愴」を演奏することはできません。ここにさらにピッコロ持ちかえのフルート1(餃子ではありません・・・それは「持ちかえり」)、ホルン2、トロンボーン3、チューバ1、打楽器2を加えなければいけません。そうすると、メンバーは「47人」になりますね。これがこの団体のやり方、あくまでベースは「38人」で、曲によって足らない楽器がある場合は適宜プレーヤーを加える、ということなのですよ。したがって、キングの言う「全38名で『悲愴』」というのは全くのデタラメであることが分かります。
そんなことは、ちょっと考えればすぐわかることなのですが、これを真に受けてこともあろうに「レコード芸術」などという権威ある音楽雑誌に執筆してしまった人がいるのですから、困ったものです。
この演奏は、コントラバスだけで始まる曲の冒頭から、なんとも居心地の悪いものでした。普通のボリューム設定では全然聴こえて来ないのですね。まず、音が聴こえないことには少なくともチャイコフスキーの時代では「音楽」にはなり得ません。そして予想通り、金管が入ってくると全くバランスがおかしくなってしまい、弦楽器はほとんど聴こえなくなってしまいます。確かにこの編成で見えてくるものはあるでしょう。しかし、それはこの曲にとって必要なものなのかは疑問です。せめて、普段は同じぐらいのサイズで活動しているスコットランド室内管弦楽団が、「幻想」を録音した時のように、弦楽器も少し増員してみたらどうなのでしょう。世の中には「人数がいてこそ成立する音楽」というものも確実に存在するのですからね。8型の「悲愴」なんて、しょぼすぎます。

SACD Artwork © BIS Records AB

11月3日

PENDERECKI
Canticum Canticorum Salomonis
Olga Pasichnyk(Sop), Rafal Bartminski(Ten)
Tomasz Konieczny(Bas), Jerzy Artysz(Narr)
Antoni Wit/
Warsaw Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.572481


1926年生まれのドイツの作曲家、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェが亡くなりましたね。名前だけは有名な人でしたが、実際に作品を聴いたことはほとんどなかったので、何の感慨もありません。誰かが「ベンジャミン・ブリテンみたいな人」と言っていましたが、確かに、ブリテンが亡くなった時にも全く痛みは感じませんでしたね。ただ、新聞にあったヘンツェの追悼記事で、彼の肩書が「現代音楽作曲家」とあったのには、思わず反応してしまいました。というか、笑ってしまいました。つまり、確かに「現代」に亡くなった音楽を作る人なのですから、このように呼ばれても文句は言えませんが、他の職業でわざわざ「現代」をつけることはあり得ません。「現代民主党議員」とか「現代映画俳優」とかね。ということは、ヘンツェはただの「作曲家」ではなく、あくまで「現代音楽」の「作曲家」だったんですね。言い換えれば、今生きている作曲家には、「現代人」でありながら「現代音楽」以外の音楽を作っている人たちもいるということなのでしょう。そういう人は、亡くなった時には単に「作曲家」と肩書が付くだけなのでしょうね。
なんともくだらないツッコミですが、良識ある音楽ファンの中ではもはや死語と化した「現代音楽」という言葉が、いまだにマスメディアの中では通用していることに、軽い驚きを感じたものですから。
そこで思ったのは、いずれ近いうちに鬼籍に入るはずの1933年生まれのペンデレツキは、その時の死亡記事には、果たして「現代音楽作曲家」と書かれることはあるのかどうか、ということです。こういう、「過去」には「現代音楽」を作っていても、「現代」ではただの「音楽」しか作っていないような作曲家の事を、メディアはどう呼ぶのか、非常に興味があるところです。
恒例となったNAXOSのペンデレツキ全集のご紹介、今回は合唱曲、いや、正確には声楽曲ばかりが集められたアルバムです。ここでは1959年から1997年までの作品が5曲収められています。それがきっちり年代をさかのぼる形で並んでいるものですから、いやでも彼の作風の変遷を感じないわけにはいかないという、相変わらずの意地の悪い選曲です。
制作者の思惑通り、1986年の「ケルビムの歌」と1973年の「ソロモンの雅歌」との間には、とてつもない「断層」が横たわっていることに、だれしも気づくことでしょう。「現代音楽作曲家」と、「作曲家」との違いを、これほど雄弁に語っているアルバムも稀です。
もっと詳しく見ていくと、その前の「Kosmogonia」(1970)と「Strophen」(1959)との間にも、小さな溝があることを発見できるはずです。それは、他の作曲家、あるいはその当時の趨勢だったまさにその時代でしか通用しない「現代音楽」を飛び越えて、彼自身の作るものが「現代音楽」そのものになることが出来たという、歴史的なステップと言えるでしょう。それに比べれば、その後に訪れる「断層」など、見かけは派手でも作曲家にとってはいともたやすく越えられた壁に違いありません。というより、それは「越える」というほどのエネルギーは必要としない、もしかしたら単に「滑り降りる」だけのことだったのかもしれないのですから。
言うまでもなく、その、最も高いポテンシャルを保っていた1970年代の2つの作品が、このアルバムの中では確かなインパクトを与えてくれます。声とオーケストラが混然一体となって作りだす自然の摂理を超えた音響は、聴く者にとっては忘れ得ぬ体験となることでしょう。
これらの作品の先駆けとも言うべき、1962年の「Stabat Mater」がニ長調、そしてそこから派生した1966年の「ルカ受難曲」がホ長調の純正な和音で終わるのと同様に、「Kosmogonia」の真ん中あたりでは変ホ長調の三和音が高らかに鳴り響きます。今となっては、これが「断層」以降のために彼が張っていた伏線のように聴こえるのは、断腸の思いです。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

11月1日

BERLIOZ
Symphonie fantastique
Leonard Slatkin/
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.572886


スラトキンもリヨン国立管弦楽団も、ともにNAXOSに多くの録音がありますが、このたびスラトキンが準・メルクルの後任者としてこのオーケストラの音楽監督に就任したため、晴れて「カップル」でのアルバムを作ることが出来るようになりました。ただし、スラトキンはデトロイト交響楽団の音楽監督というポストにもありますから、こちらの方は「側室」といった感じでしょうか。
そんな「新婚さん」が初めてNAXOSに録音したのはベルリオーズの「幻想」でした。日本サイドで付けた「帯コピー」によると、「精緻なオーケストレーションがはっきりくっきり聴き取れる完全無欠な演奏」というのですから、これは楽しみです。
「幻想」の前に入っていたのが、「海賊」序曲でした。いかにもベルリオーズらしいハイテンションのイントロから、聴き手の心は弾みます。こんなものを聴いてしまうと、いったいベルリオーズのリズム感覚はどうなっていたのだと思ってしまいます。これはストラヴィンスキーの「春の祭典」などのはるかに先を行く複雑なリズムなのではないでしょうか。こういうものは、きっとスラトキンは大好きなのでしょう。まさにイケイケのテンションで、胸のすくような演奏を聴かせてくれています。
そんな熱気でほてった体を、メイン・プロの「幻想」ではひとまずクール・ダウンして欲しいと思っていたのですが、なんだか序曲の雰囲気がそのまま第1楽章の「夢」に持ち込まれていたのには、ちょっとひるんでしまいました。この音楽は、もう少し腰を据えてじっくり怪しげな雰囲気を醸し出して欲しいのに、スラトキンはやたらとせわしなく煽ってばかり、なにか違います。というか、こういうのがスラトキンのやり方なのでしょうね。なにか、表面的な効果ばかりをねらっていて、そこからはしっとりとした情感のようなものがあまり感じられないのですよ。第4楽章の「断頭台への行進」でも、メインのマーチに入る前にこれ見よがしのアッチェレランドをかけて、なんともノーテンキに大騒ぎしているだけ、ここでもぜひ欲しいと思っている「不気味さ」などは全く見当たりません。
そんな、軽くて薄っぺらな表現を助長しているのが、帯解説で強調されていた「はっきりくっきり」という録音です。確かに、この録音ではそれぞれの楽器がとても明瞭に聴こえるようにはなっています。第2楽章の「舞踏会」での2台のハープは、きっちりと右はじと左はじに定位していて、それこそ「ステレオ感」満載、昔、バーンスタインのCOLUMBIA盤でこれと同じ感じのものを聴いて感激したことを思い出しました。でも、なにをいまさら、という気がしてしまいます。
そんなこけおどしも、華やかなサウンドとして楽しめる範囲でやってくれているうちはいいのですが、自然なバランスが崩されるところまで行ってしまうと、ちょっと問題です。その楽章の途中では木管楽器が「idée fixe」を吹き始めるところで、急に音が大きくなっています。これは明らかにソロマイクのフェーダーを操作したもので、陰で弦楽器が演奏しているワルツのテーマが全然聴こえなくなるほどの巨大な音像が眼前に広がります。次の楽章「野の風景」では、コール・アングレに応えるオーボエは「遠くから」聴こえてこなければいけないのに、まるでステージ上にいるかのように目立った音になっています。こういう勘違いの録音からは、決して「精緻なオーケストレーション」などは味わうことはできません。
極めつけは、最後のトラックに入っている「コルネット・オブリガート付きの第2楽章」です。ここでは、オーケストレーションに華を添えるべきコルネットが、まるでソロ楽器のようにでしゃばった音で聴こえてきますから、はっきり言って邪魔。このコルネット・バージョンが好きだった人も、ここまでやられてはこるねっとのけぞってしまうのではないでしょうか。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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