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ぼくらの舟歌。.... 渋谷塔一

(02/5/29-02/6/19)


6月19日

ENCORE
Russell Watson(Ten)
DECCA/470 300-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1063(国内盤 6月26日発売予定)
まるでスティングかボノ(U2)のような、ハスキーな声と、最盛期のパヴァロッティもかくやと思われるほどのベル・カントを自在に使い分け、あらゆるジャンルの歌を完璧に歌いこなすイギリスのシンガー、ラッセル・ワトソンのデビューアルバム「The Voice」は、発売以来、全世界で150万枚のセールスを記録しているそうです。このセカンドアルバム「Encore」も、すでに本国イギリスでは昨年10月に発売になって以来、ずっとクラシックチャートの1位に居つづけているという、驚異的な人気を誇っています。これほどまでにリスナーにアピールする理由はいくらでも挙げることができますが、まずは、最初にも述べた多彩な声の魅力でしょう。それは、1曲目、ヴェルディのオペラ「ナブッコ」の中の合唱曲をアレンジした「行け、わが思いよ、黄金の翼にのって」で、存分に堪能できます。ちょっと低めのロックシンガーのような声で始まったものが、サビの部分でいきなり朗々たるベル・カントに切り替わる瞬間には、誰しも驚きを隠すことは出来ないはずです。ここではオリジナルのテノールのための極めつけのアリアも3曲(「冷たい手を」、「星は光りぬ」、「清きアイーダ」)歌われていますが、ワトソンのベル・カントはデビューアルバムの時よりさらに磨きがかかっています。「ラ・ボエーム」からのアリア「冷たい手を」では、何と、ごく限られたテノールにしか出すことができないといわれている「ハイC(高いドの音)」を、軽々と出しているではありませんか。声の魅力は尽きません。例えば、「サムホェア(ウェスト・サイド・ストーリー)」ではクラシックとポップスの中間の、言ってみれば「ミュージカル」の歌い方で、この曲にもっともふさわしい表現を見せてくれているのです。
次の魅力は、ゲスト陣。アンドレア・ボチェッリとセリーヌ・ディオン、あるいは、シャルロット・チャーチとジョシュ・グローバンといった組み合わせで有名なデュエット・ナンバー「プレイヤー」を、あの懐かしいLuLu60年代に「いつも心に太陽を」という、同名の映画の主題歌でブレイク)と共演しているなんて!もう一人、ライオネル・リッチーとのデュエットでは、完璧にR&Bテイストのバラードが聴けるのもうれしいものです。おまけに痩せられるし(それはダイエット)。
しかし、何と言っても最大の魅力は、どんな種類の歌を歌っても完璧にそのジャンルの最高のアーティストさえも超えてしまうような才能でしょう。「オ・ソレ・ミオ」では、ホセ・カレーラスよりも輝きのある声を聴かせてくれますし、TVシリーズの新「スター・トレック」のテーマ曲「ホェア・マイ・ハート・ウィル・テイク・ミー」では、ジョン・ボンジョヴィよりもノリの良いグルーヴ感が心地よく響きます。

6月16日

MOONLIGHT SERENADE
Till Brönner(Tp)
Simon Rattle(Speaker)
Die 12 Cellisten der Berliner Philharmoniker
EMI/CDC 557319 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCP-66029(国内盤 6月26日発売予定)
最近のEMIのクロスオーバー系のアルバムに見られるように、クラシックのアーティストにもかかわらずポップスの扱い、輸入盤とはジャケ写もタイトルも全く異なっています。輸入盤のタイトルは「'Round Midnight」、いわずと知れたセロニアス・モンクの名曲ですね。もちろん、国内盤にもこの曲はきちんと収録されていますから、「ムーンライト・セレナーデ」というタイトルがダサくても文句を言うことはありません。
前作South American Getawayでむせ返るように熱い音楽を聴かせてくれた「ベルリン・フィル 12人のチェリス」たち。今回の彼らのテーマは「アメリカ」です。スピリチュアルズからブロードウェイ・ナンバー、映画音楽、ジャズと、アメリカ音楽を語る上で欠かせないジャンルの曲が網羅されているのは、ドイツ人の生真面目さと言うやつでしょうか。もちろん、今回彼らのために作られたオリジナル曲もふんだんに盛り込まれています。
そのオリジナル、一番の収穫は、メキシコの指揮者であり作曲家でもあるセルジオ・カルデナスの新作「ザ・フラワー・イズ・ア・キー」でしょう。「モーツァルトに捧げるラップ」というサブタイトルでも分かるように、チェロの小気味よいオスティナートに乗って結構シュールなラップが展開されます。そのラップの「語り手」は、あのサー・サイモン・ラトル、もちろん、綺麗なクイーンズ・イングリッシュは、アフリカ系アメリカ人のスラングだらけのラップとは別の世界のものです。モーツァルトの「名曲」が何曲隠れているか、数えてみましょう。どういう気配りからか、ここに収録されている三枝成彰の「ラグタイム」は、12小節単位のブルース・コードによる安直な作品。それに対して、クラシックの分野でも実績のある(ベルリン・ドイツ響の元首席)人気ジャズ・トランペッター、ティル・ブレナーをソリストに迎えての「アメリカ2002/イン・メモリアル」というロバート・ブルックマイヤーの曲は、聴き応えがある力作です。このブレナーがフリューゲル・ホルンで参加、アレンジも担当した「ラウンド・ミッドナイト」も、このアルバムの白眉といえましょう。
その他のカバー曲では、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」が素敵。あの独特の、クラリネットとサックスによる「グレン・ミラー・サウンド」がチェロだけの合奏から聴くことができるのは、ある種の奇跡とも言えるでしょう。しかし、チック・コリアのRTF時代の名曲「スペイン」は、チック・コリア(Pf)、ジョー・ファレル(Fl)、スタンリー・クラーク(Bas)の3人による超絶技巧ユニゾンが余りに印象強く刷り込まれていることもあって、今回のような生ぬるい「安全運転」には違和感をおぼえざるを得ません。せめてエリントンの「キャラヴァン」ぐらいの果敢なアプローチがあっても良かったのに。
してみると、国内盤のボーナス・トラックの「サムホエア」(バーンスタイン)あたりが、彼らの魅力が最大限に発揮できたカバーとして喜ばれるのではないでしょうか。

6月14日

PIANO MEXICANO
Cyprian Katzaris(Pf)
PIANO21/21002
ついにニッポンがグループリーグを通過し、世間はFIFAワールドカップ一色。あちこちにコーヒー茶碗の破片が(割るど、カップ・・・)。私も、「アイーダ」を職場でガンガンかけてエールを送ることにしましょう。さて、以前まとめて購入したカツァリスのCDですが、その中で一番面白かったのが、やはり決勝トーナメント進出を決めたメキシコにちなんだ「ピアノ・メキシカーノ」と名づけられたこの1枚です。
ショパンやバッハ、ベートーヴェン、そしてリストといった正統派の曲から新しい味わいを引き出すことでお馴染みのカツァリスが、何故メキシコ音楽を?と訝しく思う人もいるでしょうが、これが聴いてみるとなかなかはまります。第1曲目の「メキシコのこだま」。前奏で、一瞬リストの「超絶技巧練習曲」を彷彿させますが、曲が始まってみると、紛れもなく南米の熱い音楽です。確かに曲のつくりはいたって単純で、内容や精神性がどうのこうのとは、とてもいえるものではありませんが、実に味わい深いメロディですし、何よりカツァリス本人がとても楽しそうに弾いているのが手にとるようにわかるのです。
しかし、ここに収められている作曲家の名前は、普通に生きていれば全く馴染みがない人ばかりですね。せいぜいマニュエル・ポンスとミゲル・ヒメネスを知っていれば「メキシコ音楽上級者」と認知してもらえるのではないでしょうか。あと一人、フヴェンティーノ・ローザスですね。名前は知られなくとも、この人の書いたワルツ、「波涛を越えて」は曲を聴けば誰もが知っている(はず)です。運動会で使われたり、あと遊園地のメリーゴーランドの曲と言えば心当たりのある方も多いでしょう。ショパンとまでは行かなくても、なかなか優雅な旋律で聴いていて心地良いものです。
で、ホセ・ローロンによる「波涛を越えてによるワルツ=カプリース」を繋げたところがさすがカツァリス。これを弾きたいがためにこのアルバムを企画したのでは?と思えるほど力入ってます。あのゴドフスキーがショパンのエチュードを編曲したように、ローロンがローザスを編曲した曲で、ばりばりの超絶技巧を駆使した作品なのですが、いかんせん原曲がのどかなだけに、どんなにやりたい放題をやらかしても、くどくなることもなく、ひたすら気持ちよい時間が流れていくのです。これはいいぞう。
そのまま聴き進んで、ルーベン・M・カンポスによる「メキシコの20のメロディ」に突入。単純ながらも楽しいメキシコ音楽を楽しむことができます。「波涛を越えて」の元ネタも収録されていて、これもカツァリスの施した仕掛けなんだろう、とにやにやできるというものです。
CDの案内に「メジャー・レーベルでは絶対に企画書が通らないだろう」と書かれていたアルバムですが、確かに、こんなの実際にCDにして喜ぶ人は、今のところこのカツァリスとアムランくらいなものかもしれません。もちろん、クレショフやヴォロドスだって考えてはいるでしょうけどね。

6月12日

MOZART
Symphonies No.39 & No.34
Hubert Soudant/
Mozarteum Orchester Salzburg
ARTE NOVA/74321 92760 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38052(国内盤)
このオーケストラと指揮者は、ほんのちょっと前にコンサートツアーで日本を訪れていましたから、実演に接した方もいらっしゃることでしょう。ユベール・スダーンは、1994年からこのモーツァルト生誕の地のオーケストラの首席指揮者を務める傍ら、東京交響楽団の首席客演指揮者も務めるなど、世界中で活躍している中堅どころです。ちょっと、味覚には問題がありますが(茹でる酢蛸)。
「ザルツブルクからのモーツァルト」と題されたこのCD、交響曲が2曲、第39番と第34番、それに、メヌエット楽章(K 383f)が収録されています。昔から、モーツァルトにかけては定評のあるこのオーケストラ、きっと、爽やかな午後のひと時を演出してくれるような、心地よい音楽を届けてくれることでしょう。
と、勝手なイメージを作り上げて39番を聞き始めたら、第1楽章の序奏のテンポに一瞬居場所を失ってしまいました。この指揮者、このオーケストラだったらさぞ壮大でたっぷりした序奏が聴けると思っていたのが見事に裏切られ、最近のオリジナル楽器系でよく聴かれる颯爽としたものだったからです。やはり、このような由緒のある団体でも、いや、それだからこそ、旧態依然としたロマンティックな演奏はもはや許されない時代になってしまっていたのだということを、はっきり認識させられたというわけです。
そういった、彼らのアプローチが明確になったのですから、あとはこちらの頭を切り替えて演奏をとことん楽しめばよいのです。弦楽器はビブラートをほとんどかけていませんから、表現はやや鋭角的になりますが、思い切りのよいクレッシェンドには小気味よい爽快感があります。第2主題に入る直前に2回繰り返される木管のフレーズ、2度目はエコーにするなど、新鮮なアイディアも豊富ですし、何よりも各声部が溶け合いつつもはっきり分離して聴こえてくるのはたいしたものです。例えば、第1主題でのファーストとセカンドのヴァイオリンの絶妙なバランス。
第2楽章では、フレーズの最後、倚音解決で思い切りテンポを伸ばす独特の歌い方が、ある種の安心感を与えてくれています。第3楽章の颯爽とした躍動感、トリオからメヌエットに戻る際の一瞬の「間」が、とてもスリリング。かと思うと、フィナーレは少しテンポを落ち着かせて、堅実にまとめてみたようですね。
時たま、木管で音楽に乗り切れていない奏者も見受けられますが、完成品としてではなく通過点としてとらえれば、これほどわくわくさせられる演奏もありません。指揮者の思いは痛いほど伝わってきますので、かえってみずみずしさが感じられるのではないでしょうか。その点、34番の方はもう少しリラックスして聴くことが出来ました。

6月9日

MASSENET, CHAUSSON
Arias
Shirley Verrett(MS)
WARNER FONIT/0927 43341-2
1931年生まれのメゾ・ソプラノ、シャーリー・ヴァーレットのアリア集です。
デビュー当時はコンサート歌手として活躍していた彼女ですが、1962年イタリアのスポレート音楽祭で“カルメン”を歌い大成功を収め、それ以降、6歳年下のグレイス・バンブリーと共に、6070年代の欧米の歌劇場で活躍した黒人歌手として知られています。ラスヴェガスでは「カジノの女王」とも言われていました(それはルーレット)。本来の声は深いメゾ・ソプラノですが、メゾのレパートリーと並行してソプラノの役まで手がけた人としても知られていて、(これもバンブリーと同じ)スカラ座ではマクベス夫人、サンフランシスコではノルマまで歌ったというのです。先日、現在衆目度No.1のカサロヴァのインタヴュー記事で読みましたが、「メゾでも、ちょっとでも高音が出て、ソプラノ役が歌えることがわかるとどんどん出演依頼がくるのです」とのことですから、ヴァーレットの場合も、当時の劇場側からの依頼だったのかもしれません。それとも彼女自身の限界への挑戦だったのでしょうか。
実際、このアルバムにもソプラノのレパートリーは収められていまして、これを彼女は実に伸び伸び歌っている様子です。きっと「高音が無理なく出せる自分自身」を楽しんでいたのでしょう。曲はフランス物で統一されていて、マスネの“ウェルテル”“エロディアード”“マノン”、そしてショーソンの“愛と海の詩”と言う組み合わせです。
実際に聴いてみると、どれもが「実演で聴いた聴衆は思い切り熱狂するだろうな。」と思わせる素晴らしい歌なのです。そして「確かにメゾとソプラノの境なんて自己申告制だな」と感じました。ウェルテルのシャルロットはメゾの持ち役で、かなり深い声を必要とするのはわかりますが、エロディアードのサロメ役はソプラノのレパートリー。彼女はこれを難なく歌いこなすのです。(余談ですが、マスネの曲ってどうしてこんなに品が良いのでしょうか。同じ題材を使ったシュトラウスの曲を聴きなれている耳には、この楽天的で優雅なサロメは全くの別人です。)
マノンのアリア「私が女王様のように街を行くと」。これは何故か初めて聴いたような気がしませんでした。ふと思いつき、過去のゲオルギューとアラーニャの“マノン”全曲盤をひっぱりだして聴き比べてみましたが、ゲオルギューとヴァーレットは声質も歌い方も良く似ているように思いました。しっとりとした重みのある叙情的な声。高音の輝かしさこそ、ゲオルギューの方が勝っていますが、これは、ヴァーレットがこのアルバムを録音した時50歳だった事を考えれば仕方ありますまい。
デビュー当時は、彼女も様々な偏見にさらされ、想像を絶する苦労をしてきたに違いありませんが、ここで聴く彼女の歌は、成功者としての輝かしい自信に裏打ちされた幸せなものです。あまりに良かったので、思わず知り合い3人に勧めてしまいました。

6月7日

誰がヴァイオリンを殺したか
石井宏著
新潮社刊
(ISBN4-10-390302-3)
いま、アンドルー・マンゼというバロック・ヴァイオリンの奏者のCD(HARMONIA MUNDI/HMU 907213)が、ちょっとしたブームとなっているそうです。タルティーニの有名な「悪魔のトリル」を無伴奏で弾いているもので、4年程前にリリースされたのですが、行きつけのお店のお兄さんの話では、最近になって急に「マンゼの悪魔のトリルありますか?」というお客さんが増えているとか。「いったいどうして」と、そのお兄さんはさかんに不思議がるのですが、実は、その原因はこの本にあったのです。
モーツァルトに関する多くの著作で知られる石井宏さんのこの書き下ろし、ウージェーヌ・イザイの弾く「ユモレスク」の、現代のヴァイオリニストからは決して聴くことの出来ない不思議な味わいの演奏から、話は始まります。ヴァイオリンの持つ魔力について、あるときは横道にそれながら興味深い話が語られていきますが、最後にこの本のタイトルである「誰がヴァイオリンを殺したか」というマザー・グースをもじった問いかけに至るまでの筆の進め方は、スリリングでさえあります。
冒頭のCDは、タルティーニが夢枕に立った悪魔の弾くヴァイオリンをもとに作曲したと俗に言われているこの曲に関するエピソードで登場します。常々、現代の演奏家がモダン・ヴァイオリンで演奏したものからは、この俗説から想像されるような悪魔的な雰囲気を全く感じることが出来なかった著者が、このバロック・ヴァイオリンの奏者から、まさにタルティーニ自身が夢の中で感じたに違いない「妖気」を聴き取ってしまったというのです。ここまで書かれれば、実際のその音を聴いてみようという人が現われるのは当然のこと、その結果、CD店にはこのアルバムを求める人たちが殺到し、メーカーの在庫も底を付いてしまうという、まるでいつぞやのトイレットペーパーのような騒動が起っているとか。
しかし、この件はそれほど重要なものではありません。もっとショッキングな、ヴァイオリンの演奏家、あるいはヴァイオリン音楽の愛好家だったら、間違いなくパニックに陥ってしまうようなことが、この本では明らかにされているのですから。それは、ストラディヴァーリとかグァルネーリといった名工によって作られたいわゆる「名器」の価値についての記述です。私は今まで「このような名器には、独特の配合のニスが使われており、名工が死んでしまったあとではそれを再現することは不可能になってしまった。従って、現在の楽器であのクレモナの響きを出すことは出来ない。」といわれてきたことを、本当のことだと信じてきました。しかし、この本を読んで、現在これらの楽器に与えられた億単位の価格というのは、楽器としての価値に付けられたものではなく、さる楽器商によって「骨董品」として評価された結果であると知ってしまった今では、そんなたわごとを信じ込んでいた自分が恥ずかしくなってしまいました。この謎解きは、まるで推理小説のようなゾクゾク感を味わえるものにす
推理小説と言えば、モーツァルトの未完のレクイエムを補筆したジュスマイヤーという人は、モーツァルトが自分の浮気を正当化するために妻コンスタンツェにあてがった愛人だったとは。

6月5日

CHOPIN
Piano Sonata No.3, Études Op.25
Nelson Freire(Pf)
DECCA/470 288-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1060(国内盤)
このところ、ルドルフ・ケンペの再発新譜が話題になっています。まあ、私などケンペと言えばシュトラウス。今回もメタモルフォーゼンから始まり、結局他の3種類も聴いてしまいました。そこで改めて感心したのが、ネルソン・フレイレのピアノです。例えば「死の舞踏」での、ねじ伏せるが如きパワーの炸裂。かと思うとチャイコフスキーの協奏曲の第2楽章での控えめな美しさ・・・。今でこそ、地味な存在になってしまった感のあるフレイレですが、20年ほど前はスゴイピアニストだった事を懐かしく思い出したというわけです(そう言えば、最近「筆入れ」って使ってます?)。
で、DECCAからの彼の新録は発売前から楽しみにしていました。驚いたのは彼が今年やっと57歳だと言う事。え?そんなに若かったの?思わず心の中でつぶやいてしまいました。何しろもっともっと年を重ねた巨匠のイメージがあったからです(と言う事は、あのケンペとの録音の頃は24歳!)。
今回はオール・ショパンプログラムです。ピアノソナタ第3番、練習曲Op.25、そして3つの新練習曲という組み合わせ。(Op.2512曲を持って来たあたりが激渋ではありませんか。)これは楽しみです。
さて、まずソナタ。独特のルバートに合わせ、強弱のメリハリのついた表情の濃い演奏です。昨今の「恐ろしく指の回る奏者」の演奏を聴き慣れた耳には、多少の指の縺れらしきものが感じられてしまうかもしれませんが、このパワーと繊細さの入り混じった不思議な味わいがあれば、テクニックで上辺を整える必要なんて全くないではありませんか。
練習曲は、最近のお気に入りのぺライアとの聴き比べです。これは、とても楽しい一時でした。例えば第1曲目のAs-Dur。これは、「エオリアン・ハープ」なんて俗称で呼ばれる事もある、さざめく分散和音の波のなかからメロディを浮き上がらせるショパンお得意の手法を使った曲ですね。先のぺライアは一つ一つの音を決して離す事なく、滑らかに繋いでいくのですが、フレイレはまるで違います。音をひとつひとつ確かめるかのように小指を鍵盤の上に置くのでしょうか。これは、はるかかなたの誰かのつぶやきが風に乗って聞こえてくるかのよう。ここに絶妙なルバートがかかるためか、そのわずかなテンポのずれが妙に気になって、なぜか落ち着かない気分になってしまうのです。たった2分ほどの曲でこれほどまでに心を奪われるとは・・・。
他の曲も、確かに総じてぺライアの方が「上手い」と思いますね。第6曲目の二重トリルを駆使した難曲などは、フレイレはタッチのむらを隠蔽するためか、力ずくで押し切った?ような感じですし、第8曲目の6度の練習も、均一な音ではありません(これは自分で演奏してみると弾けないところが良くわかるのです)。それにもかかわらず、聴き入ってしまいました。「彼ならではのショパン」を感じられるからでしょうか。
昔の恋人に再会したら、以前よりもステキになっていた。そんな感じの60分でした。

6月2日

MESSIAEN
La Transfiguration de Notre-Seigneur Jésus-Christ
Roger Muraro(Pf)
Choeur de Radio France
Myung-Whun Chung/
Orchestre Philharmonique de Radio France
DG/471 569-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1114/5(国内盤 7月24日発売予定)
意外に思われるかもしれませんが、メシアンという人は大規模な合唱とオーケストラという編成の曲をほとんど残していません。最晩年に「アッシジの聖フランチェスコ」という巨大なオペラを作るまでは、1969年に完成したこの「わが主イエス・キリストの変容」が、そのほとんど唯一の作品だったのです。100人を超える合唱団、5管編成のオーケストラ、それにピアノなど7人のソリストという楽器編成がいかに大きなものかというのは、1978年に行われた日本初演のときの会場、あの広いNHKホールのステージが、演奏者によって立錐の余地がないほど埋め尽くされていたことでも分かります。作曲家の70歳のお祝いに開かれたこの演奏会、NHKのFMやテレビで全国放送されるという、「現代音楽」にはあるまじき破格の待遇を受けていたのも印象的でした。もちろん、会場にはこのために来日した生メシアンと懇意になろうという下心を持った作曲家達が押し寄せていたのは、言うまでもありません。中田喜直などという、この手のものには無縁と思われていた方までが神妙に座っているのを見て、メシアンの威光の根強さを思い知らされたものです。
この曲のモチーフは、キリストが弟子たちの目の前で光り輝く「変容」をとげ、旧約聖書の登場人物であるモーゼやエリアと出会うというエピソード。この部分の記述があるマタイによる福音書の第17章を、ユニゾンの合唱が不思議な旋法に乗って読み上げるのに続き、聖書に限らない、例えばトーマス・アクイナス(嫁には食わせられないもの・・・それは「秋茄子」)の「神学大全」などからも取られたテキストに基づくさまざまな音楽が展開するという、一種のオラトリオの形式を取っています。もちろん、メシアンの得意技である鳥の声の模倣もふんだんに盛り込まれた、絢爛豪華な1時間半です。
生前のメシアンに認められ、「トゥーランガリラ交響曲」の録音でもお墨付きをもらったチョン・ミョンフンのこの曲に対するアプローチは、しかし、メシアンが実際に立ち会った日本初演とも、やはり作曲家の立会いのもとに行われたアンタル・ドラティによる初録音(72年/DECCA)とも異なったものになっているのは、注目すべきことでしょう。冒頭の福音叙述を導き出すゴングやタムタムの連打を聴くだけで、従来の演奏には見られなかった一音一音いとおしむようなこだわりを感じることができるはずです。独特のフレーズ感とともに、全曲を通して貫かれているのは、脂ぎったフランス人の色彩感覚とはちょっと異なった、水彩画を思わせるような淡目の肌触り。これはもしかしたら、ピアニストが初演以来常にこの曲にソリストとして参加してきたメシアンのパートナー、イヴォンヌ・ロリオではなかったこととも無関係ではないのかも知れません。ロジェ・ムラロの演奏には、師ロリオのある種無機的なものとは異なったしなやかな表情があります。
メシアンの呪縛から解き放たれて新たな世界を広げ始めた「変容」の登場、これを歓迎できるのは、東洋人だけではないはずです。

5月31日

SCHUBERT
Solo Works
Arcadi Volodos(Pf)
SONY/SK 89647
(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICC-70(国内盤)
今回はヴォロドスのシューベルトを。このCD、すでに3月に耳にしていたのですが、どうしてもヴォロドスとシューベルトという組み合わせに違和感を感じたせいか、すんでのところでお蔵入りになる・・・はずでした。
シューベルトのピアノソナタと言うのは、彼の作品のなかでもひときわ異質な存在で、特に17番以降の作品は、ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲にも匹敵する、独特の高みを極めた音楽といえるでしょう。曲自体に、生半可な聴き手を拒むようなところがあり、よほどコンディションの良いときにシートベルトを締めて真剣に対峙する・・・そんな相手です。ご多分に漏れず、私の愛聴盤は、内田光子とアファナシエフ。この2人に、まあリヒテルを足せばいいかな。そう思ってました。ですから、ヴォロドスのように、どちらかというと技巧派で鳴らしている彼でしたら、シューベルトの作品ならば、正統派のソナタよりもリスト編曲の歌曲などの方がふさわしいのではないか・・・。最初、そう考えるのも無理からぬ事と言えましょう。
しかし、まず18番の「幻想ソナタ」を聴いてみたら、そんな先入観を持って敬遠していたのはとてももったいなかったことに、気付いてしまいました。あまり上手くない弾き手にかかると、恐ろしく冗長で退屈極まりない(事実そういう演奏も幾度か経験しています)曲になるはずの長大な第1楽章ですが、我ながら驚いたことに、これにまったく長さを感じなかったのです。知らず知らずの内に、ヴォロドスの歌心に絡め取られている自分に苦笑しながら第2楽章です。これがまた良いのです。穏やかな第1主題、唐突に挟み込まれる悲痛な第2主題、このコントラストが実に鮮やかで、ついつい聞き惚れてしまいます。切れ目なく奏される第3楽章メヌエット。この細やかな歌わせ方にも感心です。なんとも言えない間の取り方、これは彼の天性の物なのでしょうが、いわゆる3拍子の範疇を超えた不思議なリズムです。終楽章、ここではほんの少しばかりお茶目なシューベルトの表情を垣間見る事ができます。何度も繰り返される特徴的なメロディ、「どこかで聴いたことがあるけど何だっけ?」しばし考え、はたと膝を打つ頃にはかなり音楽も進み、曲の終わり近くになってしまってましたっけ。「マーラーのレントラーはシューベルトに根源を持つ」なんて論文を読んだことがありましたが、この終楽章では、マーラーのナイチンゲールの声すら聴く事が出来たのです。
第1番に触れるスペースがなくなり残念ですが、とにかく「ヴォロドスのシューベルトもいい!」の一言で許してください。(誰に言っているんだか)

5月29日

MUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition
Jouri Kastew/
Wolga Virtuosos
MDG/MDG 610 1016-2
ドルマ、グスリ、バラライカ、バヤン・・・これはいったいなんでしょう?バラライカはよくご存知でしょうね。あの三角形の胴を持つロシアの民族楽器です。その他のものも、やはり、ロシアの楽器。ドルマというのはバラライカの先祖にあたる撥弦楽器だそうで、これは丸い胴をしています。グスリも、やはり撥弦楽器。バヤンというのは、ロシアのアコーディオンで、鍵盤ではなくボタンがついています。
「ヴォルガ・ヴィルトゥオーゾ」というのは、こんな民族楽器を演奏する団体ですが、ここではムソルグスキーの「展覧会の絵」を取り上げています。この曲については、最近、このページでも色々なCDをご紹介していますが、民族楽器で演奏されたものは初めてで、さぞかし「民族色」豊かな「展覧会」を聴かせてもらえることでしょう。
と、ある種の先入観を持って聴いてみたのですが、実のところ、楽器編成から想像されるような、ちょっと稚拙なサウンドとはまるで異なる、もっときちんとしたものが聴こえてきたのには、驚いてしまいました。例えば、日本の筝や三味線で西洋音楽を演奏した時に感じられるような違和感は、全くありません。これは、これらのロシアの楽器が、民族楽器とは言っていてもクラシックを演奏するのに全く問題がないほど、改良されてしまったせいなのでしょう。音階も平均率でチューニングされているでしょうし、バラライカやドルマといっても、マンドリンやギターと大して変わらないようなものになっていれば、「展覧会」もそんなに場違いなものにはならないはずです。しかも、ピアノ、チェンバロ、オルガンといったフツーの楽器も使われていて、肝心なところはサポートしていますから、なおさらです。
この編成では、ドルマの色々なサイズ(プリマ、アルト、バス)のものが使われていて、これがメインのメロディーを主に受け持っています。同じ撥弦楽器でも有名なバラライカとはちょっと異なったソフトな響きが前面に出て、これが「ロシア民謡」的なけばけばしさを緩和しているのでしょう。特に「古い城」でのドルマ・アルトの音色はなかなかのもの、トレモロで音を伸ばすことが出来ますから、管楽器に近い表現も可能で、ラヴェル版のアルトサックスよりもはるかに魅力的です。
もちろん、編曲の元になったのはオリジナルのピアノ版ですから、例えば打楽器などはラヴェル版あたりとは全く違ったリズムを強調しているのも聴きもの。「バーバ・ヤーガの小屋」で合いの手にムチを入れたるするのが、なかなか刺激的です。愛人の手にムチも、刺激的でしょうね。
「カタコンブ」では、パイプオルガンが荘重な雰囲気を演出していますし、ロシア版アコーディオンのバヤンも、なかなかひなびた味を出しています。全体的にリズムに締りがないことに目をつぶりさえすれば、なかなか楽しめる演奏になっているのでは。

おとといのおやぢに会える、か。


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