孫だらけのマリア。.... 佐久間學

(08/7/11-08/7/29)

Blog Version


7月29日

MESSIAEN
Chamber Works
Hebrides Ensemble
LINN/CKD 314(hybrid SACD)


Matthew Schellhorn(Pf)
Soloists of the Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD 126


メシアン・イヤーならではの、コアなCDのリリースが続いています。そんな中で、有名な「時の終わりのための四重奏曲」を中心とした室内楽作品を集めた新録音のアルバムが、LINNSIGNUMからほぼ同じ時期に出ました。そのカップリングの曲目も殆ど同じというのがすごいところです。まずは、メシアンの唯一のフルート曲、フルートとピアノのための「クロウタドリ」、そして、ヴァイオリンとピアノのための「主題と変奏」と「幻想曲」(SIGNUM盤には「主題と変奏」は入っていません)、さらに最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」という珍しい作品のオンパレード。「クロウタドリ」以外は初めて聴くものばかりです。
ヴァイオリン曲は、メシアンの最初の妻、クレール・デルボスのために作られたものです。しかも「変奏」の方はウェディング・プレゼントだというのですから、なんかロマンティック。もちろん、クレールのヴァイオリン、メシアンのピアノで初演されたものです。曲自体も、ヴァイオリンが華麗に歌い上げるという、後のメシアンの作風とはかなり異なっているのが、ちょっとした発見です。しかし、彼女は後に精神的な病から闘病生活を余儀なくされ、若くして亡くなってしまうことを考えれば、なんとも悲痛な思いに駆られてしまいます。この曲の中にある情感が、彼女の死によって失われてしまったのであれば、それはなんとももったいないような気がしないでもありません。その後のパートナーとなるイヴォンヌ・ロリオからは、おそらく全く別の形のモチベーションを与えられることになるのでしょうからね。
一方、1991年にウィーンで行われたウニヴェルザール出版の社長であったアルフレート・シュレーの90歳を祝うコンサートのために作られたのが「ピアノと弦楽四重奏のための小品」です。ブーレーズ、シュニトケ、ベリオといったそうそうたるメンバーの作品がそこには寄せられましたが、メシアンの曲はまさに彼のイディオムに満ちた仕上がりとなっていました。
そのような珍品の中で演奏されている「四重奏曲」、それぞれの演奏家たちはかなり異なるアプローチを見せています。まずはLINN盤でのスコットランドの団体、チェリストのウィリアム・コンウェイを中心とするヘブリディーズ・アンサンブル(毎日練習しているのでしょうね・・・「エブリデイズ」って)です。そのジャケットに鉄条網をあしらったということは、この曲が作られた捕虜収容所を意識してのことなのでしょうか。確かに、極めてリアルな録音によって硬質に迫ってくるこの演奏には、そのようなある種のメッセージを感じることは難しいことではありません。ただ、それがいくぶん空回りになって、単なる気負いしか見えてこないのが、ちょっと辛いところでしょうか。クラリネット・ソロもうまいことはうまいのですが、なにか見当はずれのことをやっているような気がしてなりません。すべての楽器がユニゾンで演奏するという6曲目「7つのらっぱのための狂乱の踊り」などは、正確さからいったら類を見ないものですが、それが何を目指しているかが今ひとつ伝わってこないもどかしさがあります。さらに、5曲目の「イエズスの永遠性に対する頌歌」や、終曲「イエズスの不死性に対する頌歌」のような殆どヒーリングといってもよいピースでも、素直な情感を邪魔するような扱いが耳障りです。5曲目のチェロの音程なども悲惨。
その点、ピアニストのシェルホーンを中心に、フィルハーモニア管弦楽団のソリストたちが集まったSIGNUM盤のロンドンのアンサンブルは、もっと力を抜いて、自然にわき出てくるパッションを大切にしているような気がします。「クロウタドリ」のフルートはケネス・スミス。これは、LINN盤のローズマリー・エリオットとは格が違う素晴らしさです。こんなレーベルもこちらで聴けます。

7月27日

Original Works for Theremin
Lydia Kavina(Theremin)
Charles Peltz/
Ensemble Sospeso
MODE/MODE 199


現在、世界最高のテルミン奏者と言われているリディア・カヴィナは、この楽器の発明者レフ・テルミンの従兄弟の孫にあたります。リディアが小さかった頃、「レフおじいちゃん」は、よくお菓子を持って家へ遊びに来たそうで、そんなときにリディアは発明者自らのもとでこの楽器の演奏を学んだのだそうです。
テルミンという楽器は、もちろんレフ・テルミンが製造、商品化も行ったものですが、現在では発音原理は同じでも、さまざまな制作者によって色々な形のものが同じ「テルミン」という名前で呼ばれています。その中でも、最もよく見かけるものは、「モーグ・シンセサイザー」で有名な故ロバート・モーグが作った「Etherwave」というモデルではないでしょうか。それこそ、「のだめカンタービレ」(21巻は8月11日発売です)にも登場した非常にコンパクトな外観を持ったものですね。この楽器も、そして、そのハイエンドモデルである「Etherwave PRO」も、もちろんリディアは演奏していましたが、このアルバムの裏ジャケットには、それらとも違った、全く別の形をした楽器の写真がありました。大体、どんな「テルミン」でも、一つの胴体からピッチ・アンテナとヴォリューム・アンテナが出ているものなのですが、このアンソニー・ヘンクが作った楽器はそれが右手と左手に完全に分離しているのです。その間はU字型のパイプでつながれて、まるでフィットネス・クラブのランニング・マシンのような形をしています。良く見ると、これはテルミン博士の作ったプロトタイプに似ていないこともありませんが。もっとも、最近では彼女はロシア製の「tVOX Tour」という楽器をもっぱら愛用しているようですね。このアルバムも、おそらくこの楽器を使って録音されたものなのでしょう(これらの写真はこちら)。
MODEからりリースされた彼女の2枚目の、「テルミンのためのオリジナル曲」を集めたアルバム、全て世界初録音となるものばかりです。ただ、1曲だけパーシー・グレンジャーの「フリー・ミュージック第1番」だけは、1枚目にも収録されていたものです。しかし、これは当時としては画期的な「図形楽譜」による作品ですので、別バージョンということになりますね。この曲の他にもう2曲、グレンジャーの4台から6台のテルミンのための曲(もちろん、リディア1人による多重録音)が、いかにもこの楽器らしいファンタジーあふれる作品です。それぞれの楽器の定位もはっきりしていて、不思議な浮遊感に駆られるものです。ただ、それぞれほんの1分(最後の曲など30秒)程度しかないというのですから、いかにも物足りない感じがします。
メインとなっているのは、懐かしいヒッチコックの映画のサントラを編曲したミクローシュ・ローザの「『白い恐怖』協奏曲」や、ごく最近、ティム・バートンがジョニー・デップを起用して作った伝説のB級映画制作者の伝記映画「エド・ウッド」の音楽(ハワード・ショア)です。これらを聴くと、いかにも「空飛ぶ円盤の効果音」的な、言ってみればこの楽器の代表的な使い方が綿々と生き続けていることが良く分かります。確かに、「エド・ウッド」では、ジョニー・デップが釣り竿の先に円盤の模型をぶら下げて映画を撮っているシーンが出てきましたね。
それと同時に、最近の「現代音楽」シーンでは、もっとアグレッシブな使い方も開拓されていることも、1999年に作られたオルガ・ノイヴィルスの「Bählamms Fest」というオペラからの組曲を聴くと、分かります。ここでのテルミンは、他のどんな楽器とも異なる個性を持つものとして、なくてはならない役割を与えられているように思えます。
もう1曲、クリスチャン・ウルフの「エクササイズ28」という4つの楽器のためのアンサンブルも、テルミンならではの表現力を他の楽器と競わせているようです。
奇跡的な復活を遂げた「テルミン」。いま、音楽のあらゆるジャンルで、新たな存在を主張し始めています。そのうち、オーケストラが出来るかもしれません。「テルミン・フィル」って・・・。

7月25日

CHÉDEVILLE
Il Pastor Fido
Jean-Louis Beaumadier(Picc)
Le Concert Buffardin
SKARBO/DSK 4064


かつては「ヴィヴァルディのフルートソナタ集」として、バロック音楽の中でもかなりの人気を誇った「忠実な羊飼い」も、それがニコラ・シェドヴィルという人がヴィヴァルディの名を騙って出版した「偽作」だと知られるようになってからは、いっぺんに演奏される頻度が低くなってしまいましたね。このボーマディエの2005年の新録音などは、なんだか久しぶりの録音のような気がします。まだこんな曲を演奏する人がいたんだ、みたいな。
シェドヴィルという人は、オーボエやファゴットの他に「ミュゼット」という楽器の演奏家・教師として知られていました。オーボエよりも高い音の出るリード楽器ですが、彼はこの楽器の改良にもあたっていたそうです。フルートで演奏されることの多いこの曲集も、第一義的にはミュゼットのために作られたものでした。言ってみれば、彼の最も関わりのある楽器の曲集を「ヴィヴァルディ」という名前で出版することによって、この楽器がさらに多くの人に演奏されることを目論んだのかもしれませんね。もちろん、今ではそんな楽器自体が完璧に忘れ去られています。たまに、「三丁目」などの映画に出てきたりしますが(それは「ミゼット」)。
彼が、「ヴィヴァルディらしさ」を出すために行ったことは、本物のヴィヴァルディの作品からの引用でした。今ではその「元ネタ」も明らかになっていますが、彼はヴィヴァルディに限らず、他の作曲家の曲からも「最初の4小節だけ」みたいにパクっていたのだそうです。現代では「サンプリング」といって、堂々と認められている手法ですから、まあ、時代を先取りしていたということになるのでしょうか。
その程度の作品ですから、ピッコロの名手であるボーマディエが彼の楽器で演奏したって、なんの差し支えもありません。それどころか、彼はさまざまなアイディアを繰り出して、「ヴィヴァルディの作品」と言われていて、格調高く演奏されていた頃には考えられないような生き生きとした音楽を聴かせてくれています。
まず、彼の楽器です。ジャケットに写っているのが、おそらく演奏にも使われている楽器なのでしょうが、これは頭部管が極端に短く、キーも3つぐらいしか付いていないようで、現代のものとはかなり異なった形をしています。つまり、ピッコロの「オリジナル楽器」のようなものなのでしょうね。たくさんキーの付いたベーム管とは違って、かなり音程が甘くなっているのがよく分かります。こんな小さな楽器ですから、少しの穴だけで音程を作るのはなかなか難しいことなのでしょうね。もっとも、ボーマディエという人はモダン楽器でもあんまり良い音程ではなかったような気がしますから、そんな「クセ」が増長されただけなのかもしれませんが。ただ、そんな欠点を補ってあまりある彼の華々しいテクニックは、まさにワクワクするような爽快感を与えてくれます。早い楽章での粒の揃ったパッセージ、そしてゆっくりした楽章では、センスの良い装飾が魅力的です。
そして、それを助けるのが、通奏低音の醸し出すグルーヴです。ここではチェンバロ、オルガン、チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、そしてファゴットと、多彩な陣容が曲によってさまざまのヴァリエーションの低音パートを作り出しています。その変化の妙と、中でもファゴットのもつ歯切れの良いリズムは、曲全体にとても軽やかな命を与えてくれています。
それだけでも十分楽しめるのに、ここにはさらに「打楽器」が入っていますよ。例えば「ジーグ」などの舞曲による楽章を、まさに「踊り」のノリでにぎやかに演奏してくれるのです。あるときはバスドラム、あるときはタンバリンと、それぞれのキャラクターに合わせた楽器が使われて、そこはまるで田舎の宴、そこでは「羊飼い」が角笛片手に踊りまわっていることでしょう。

7月23日

MESSIAEN
Vingt regards sur l'Enfant-Jésus
Jaana Kärkkäinen(Pf)
ALBA/ABCD 226


今年は、ルロイ・アンダーソンと並んで、オリヴィエ・メシアンも生誕100年を迎えます。「大作曲家」メシアンと、ヒット曲ばかり書いていたアンダーソンとを同列に扱ったりすると、きっと不謹慎だと目くじらを立てる人もいるかもしれませんね。でも、全く同じ時代を生きていたのですから、この2人の間には、なにかは共通するものがあるのではないでしょうか。
その「共通するもの」というのは、どうやら「どの作品を聴いても、同じ人が作ったことがすぐ分かる」ということではないかという気がしませんか?アンダーソンのシンプルなメロディにちょっと粋なハーモニーをつけた、えもいわれぬあの感触は彼独特の世界。そして、メシアンにも、やはり聴いてすぐ感じられる彼独自の「色」があります。まさに彼にしか出せなかった色彩的な和声、それは、そのまわりを彩る鳥の声の模倣とあいまって、紛れもない彼のキャラクターを主張するものです。
「現代音楽」にはめっぽう定評のあるフィンランドのピアニスト、カルッカイネンが演奏する「20のまなざし」も、最初はそんな親しみやすいメシアンを存分に味わおう、という気持ちで聴き始めました。ところが、なんだかいつも聴いている「まなざし」とは様子が違います。まるで、ピアノという楽器で演奏しているのではないような、不思議な感覚に襲われたのです。最初のうち、それは非常に居心地の悪いものでした。いつもだったらまず味わえるはずのキラキラした音の粒の嵐が、全然感じられないのです。しばらく聴き続けているうちに、5曲目、「御子の御子を見るまなざし」あたりになった頃、そこからははっきり、オルガンの響きが生まれていることに気づきました。そう、その左手のアコードは、減衰するピアノの音ではなく、まるで管楽器のようにいつまで経っても同じ大きさを保っている、あのパイプオルガンそのものの響きだったのです。そして、その響きの中で奏でられる右手はと言えば、音色もタッチも全く別のキャラクター、オルガンでいえば別の鍵盤で全く異なるストップを鳴らしているという感じがするものでした。しばらくして始まる鳥の声の超絶技巧は、もはやオルガンさえも超えたシンセのプログラミングでしょうか。
これは、今までメシアンのピアノ曲を聴いていたときには全く味わうことの出来なかった感覚でした。彼女はスタインウェイのD-2741台で、まるでフルオルガンのような響きを作り出していたのです。いや、時にはそれはオーケストラにも匹敵する、とても10本の指だけで紡ぎ出しているとは思えないほどの多くの声部の饗宴にすら聞こえます。この作品のすぐ後に作られることになる巨大なオーケストラ曲「トゥーランガリラ交響曲」を彷彿とさせられるようなマッシヴなパッセージを至る所で感じたのは、まさに彼女の狙いに見事に嵌ってしまった結果なのでしょう。
2枚組CDの1枚目の終わり、11曲目「聖母の最初の聖体拝領」の後で、拍手の音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。これだけ完璧な演奏を成し遂げていたのが、生のコンサートの現場だったとは。この素晴らしいホールの音響まで見事に制御のうちに入れていた彼女は、なんという感覚の持ち主なのでしょうか。
ですから、2枚目のCDになったら、殆どその場に居合わせた聴衆の気持ちになりきって、この希有な体験を味わうことが出来ました。甘美な和声が心を打つ15曲目「幼子イエズスの口づけ」では、そのハーモニーの移ろいは、ひたすら平らな音の力として伝わってきます。鍵盤楽器特有の減衰感をまるで感じさせないその柔らかなタッチ、そこからは、音が淡いパステルカラーとなって、確かにメシアンの描いた暖かい「まなざし」が伝わってきます。
こちらでは、そんな体験まで味わうことが出来るんですね。

7月21日

WOOD
St. Mark Passion
Simon Wall(Ten), James Birchall(Bar)
Edward Grint(Bas), Ruth Jenkins(Sop)
Jonathan Vaughn(Org)
Daniel Hyde/
The Choir of Jesus College, Cambridge
NAXOS/8.570561


1866年にアイルランドで生まれたチャールズ・ウッドは、1926年に亡くなるまで、イギリスで教会音楽家として活躍しました。オルガンと4人のソリスト、そして合唱のための「マルコ受難曲」は、1920年にケンブリッジのキングズ・カレッジからの委嘱によって作られたもので、翌年アーサー・ヘンリー・マンの指揮によるキングズ・カレッジ聖歌隊によって初演されています。
新約聖書の4つの福音書をテキストにして、キリストの受難を描いた「受難曲」という音楽は、その長い歴史の中でさまざまなスタイルをとってきました。なんと言ってもその頂点に位置するのはバッハが作った二つの受難曲、レシタティーヴォ、コラール、そしてイタリア・オペラのようなダ・カーポ・アリアまで含まれたまさにフル・スペックの壮大さを誇るもので、「マタイ受難曲」の場合、演奏時間は優に3時間を超えてしまいます。実際に礼拝の中では、第1部と第2部の間にお説教が入りますので、トータルの拘束時間はさらに長いものとなるのでしょう。
それに比べると、20世紀の半ばに作られたこの「マルコ受難曲」は、もっとコンパクトな構成となっています。演奏時間もほんの1時間足らず、アリアなどが全く含まれていないというのが、時間が短い最大の理由です。もっとも、受難曲の基本的なパーツである福音書の朗読の部分は、バッハなどとあまり変わりません。もちろんテキストは英語ですが、オルガンの伴奏に乗ってエヴァンゲリストが抑揚の少ないレシタティーヴォっぽい歌で場面をつないでいくというやりかた。イエス(というか、ジーザス)の言葉では、さらに抑揚が少なくなって重々しい雰囲気となるのも、バッハなどでのお約束にのっとった形です。そして、合唱が、ここではさまざまな情景描写を歌いつつ、さらにもっとリリカルな心理描写も試みている、というあたりが、最大の聴きどころとなるのでしょう。オルガンも、時にはびっくりするようなストップを用いて、ドラマティックな展開を助けています。ペテロ(というか、ピーター)の否認のシーンなどは、言葉が英語である分、生々しく迫ってきます。
そんな、福音書の部分は全部で5つの場面に分かれています。そして、その間と、全体の最初と最後に入るのが、英語による賛美歌です。これも、よく知られているメロディーがオルガンと合唱で演奏されますが、4曲目の賛美歌「主よ、あなたを愛しています」だけは、合唱と同時にカウンター・メロディがソプラノ・ソロによって歌われます。これが、まるで、この曲にアリアがないことの埋め合わせであるかのようにとても魅力的なソロになっています。これを歌っているジェンキンスの伸びのある透き通った声も、その魅力をさらに高めるものでした。 ここでの合唱を担当しているジーザス・カレッジ聖歌隊というのは初めて聴いたことになる合唱団ですが、キングズ・カレッジのように少年によるトレブル・パートではなく、全て大人の団体のようです。あくまで柔らかい響きで、各パートはよく溶け合って聞こえてきます。
こういうシンプルな「受難曲」を聴いていると、音楽作品というのではなく、イギリスの日常的な宗教行事を体験しているような感じがしてきます。たまたま教会へ行ってみたら、こんな暖かい肌触りで「受難」の物語が語られていた、といった趣でしょうか。
あるいは、「ジーザス」とか「ピーター」、そして「パイラット(ピラトですね)」というような言葉が耳に入ると、ミュージカルのファンでしたら、ロイド・ウェッバーのあのヒット作を思い浮かべるかもしれません。そんな、現代の日常に直結したような「マーク受難曲」は、マークが必要、これを聴けて、ちょっと幸せな気分を味わっているところです。通販で注文したものがなかなか届かなかったので、待ちきれずこちらで聴いてしまいました。

7月19日

ANDERSON
Orchestral Music Vol.3
Leonard Slatkin/
BBC Concert Orchestra
NAXOS/8.559357


ルロイ・アンダーソンの管弦楽曲全集が、早くも第3集のリリースとなりました。これも、国内ではまだ発売にはなっていないので、こちらでお先に聴くことになります。
今までのシリーズ同様、ここでもコアなアンダーソンの作品を聴くことが出来ます。中でも、今回の初録音、「2つの音のメロディ」という、1966年の、もはや作曲からは足を洗ったはずの時期の作品は、ファンにはたまらない掘り出し物になっています。タイトルの通り、メインのテーマは「ソ」と「レ」という「2つの音」だけ、そのなんともシュールなメロディをいつもながらのセンスのよいアレンジで彩っていますから、もしタイトルを知らないで聴いていたら、そんな仕掛けがあることすら気づかないかもしれません。彼のいたずらっぽい曲作りは、一生変わらなかったのでしょうね。
他の作曲家の編曲ものも、お約束。ここではメレディス・ウィルソンの名曲「76本のトロンボーン」で、アンダーソンならではのウィットに富んだアレンジが聴けます。なにしろ、これはただのアレンジではなく、スーザの有名なマーチとの合体という、第1集にあった「ジュークボックス」のような手法による楽しいものですからね。ここで大活躍するのは、「星条旗」で華々しいソロを託されるピッコロ。このソロが、延々と「トロンボーン」のテーマにかぶさっているのですからすごいものです。もちろん前にあったように、細かいところでコードが違っているのなんぞはお構いなしというおおらかさです。
しかし、この第3集ならではのセールスポイントは、なんと言っても、アンダーソンならこの曲という超有名曲が目白押し、という点でしょう。それは、もちろん、このCDを販売している代理店も全面的にお薦めしたいところらしく、8月に国内盤仕様で発売となるアイテムを載せた、本日発売の「レコード芸術」の広告でもその点を大々的に謳っています。ただ、そのコピーが「嬉しくなってしまうカップリンGOO(グー)」というものだったのには、ちょっと呆れてしまいました。なんか、基本的なところで「CDを販売する」ということの意味を勘違いしているとしか思えない、GOO(愚劣)なコピーです。嬉々としてこういうコピーを作る人間には、心底失望を禁じ得ません。そもそも、こんな幼稚なギャグでは、スーパーの特売のチラシにだって使ってはもらえないでしょうに。
確かに、「嬉しくなってしまう」のも分からないではない豪華なカップリングではあります。ところが、実際に聴いてみるととても「嬉しく」などはなっていられないような演奏だったのですから、いったい担当者はなにを聴いているのか、と思ってしまいます。シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」を下敷きにしたような作品「プリンク・プランク・プランク!」では、浮き立つような軽やかさというものがまるで感じられません。まさに全世界でのヒット曲「そり滑り」にしても、この硬直したようなスレイベルのビートは、一体何なのでしょう。「タイプライター」に至っては、「ソロ」タイプライターが全くオーケストラに合わせようとしていないのですから、悲惨です。
つまり、ここで「シンコペーテッド・クロック」やら「トランペット吹きの休日」やらといった超有名曲を聴かされた人は、有名曲であるが故にどうしても今までのごく普通の演奏と比較してしまうことになります。そして、どんなお粗末な演奏からでも必ず聴くことの出来た「楽しさ」が、このスラトキンの演奏からは全く感じられないことに気づくことになるのです。「サンドペーパー・バレエ」などはテレビのCMでじゃんじゃん放送されていますから、誰の耳にも馴染んでいることでしょう。そういう人がこの「元ネタ」を聴いて、がっかりすることは目に見えています。「カップリンGOO」などとバカなことを言って浮かれている場合ではありません。

7月17日

DALBAVIE, JARELL, PINTSCHER
Flute Concertos
Emmanuel Pahud(Fl)
Peter Eötvös, Pascal Rophé,
Matthias Pintscher/
Orchestre Philharmonique de Radio France
EMI/5 01226 2


パユの最新アルバムは、現代の作曲家による協奏曲を集めたものでした。収録されているのはマルク・アンドレ・ダルバヴィのフルート協奏曲、ミヒャエル・ヤレルのフルートのための協奏曲「沈黙の時」、そしてマティアス・ピンチャーのフルートと室内オーケストラのための「トランジール(古いフランス語で「うつりかわり」といった意味のようです。決して豚肉の入った味噌汁…それは「トンジル」…ではありません)」という3曲です。すべて、パユの委嘱によって作られたものだそうです。かつての名フルーティスト、ランパルやゴールウェイによって委嘱された数々の新しい協奏曲の中には、今ではしっかりシンフォニー・オーケストラのレパートリーとして定着しているものもあります。例えば、ゴールウェイのために作られたコリリアーノの協奏曲「ハメルンの笛吹」などは、最近日本人のフルーティストの手によって東京のオーケストラの定期演奏会で演奏されたばかりです。果たして、パユが制作に関わったこれらの曲は、そのようなスタンダード・ナンバーとはなりうるのでしょうか。
この3人の作曲家の中で聞いたことのある名前はピンチャーだけです。かつてまだ冥王星が太陽の惑星と考えられていた時代に作られた「『冥王星』入り惑星」の最後の録音となった(このアルバムが出た直後に、冥王星は「惑星」としての地位を剥奪されました)ラトル盤の中で、「冥王星だけではなく、他の太陽系の天体も」ということで委嘱された曲の1つ「オシリスへ向かって」を作った作曲家として、記憶の隅にあったものです。その曲はもちろん、いかにも「宇宙」といった、とりとめのない作風だったような印象がありましたが、今回の新曲はどうなのでしょうか。
その前に、まずは、1961年生まれのフランスの作曲家ダルバヴィの協奏曲です。パユのテクニックを想定しているのでしょう、いきなり現れるとてつもない超絶技巧には度肝を抜かれてしまいます。フランセやジョリヴェをもっと難しくしたような細かい音符の嵐、それをいとも軽々と、なんの苦労の跡も見せずに披露している、というあたりがパユの凄さなのでしょう。全曲は切れ目なくさまざまな楽想の部分がつながっていますが、そんな荒々しいパートとは対照的な瞑想的なモティーフが現れるところも魅力的です。この曲の中には、今まで作られた同じジャンルのさまざまな作品からつながっていると感じられる要素があちこちに見られるのは間違いありません。ただ、全体的な印象は、少し時間が戻ってしまったような硬直した技法が、素直な感情を殺してしまっているのでは、というものでした。
次の、1958年生まれのスイスの作曲家ヤレルの曲では、作風とともに、フルートの奏法でも、かつてよく使われてはいたものの、最近はとんと見かけないような特殊なものが混じってきます。重音などを出すテクニックも、パユの手にかかればなんの造作もない滑らかな表現として、十分に受け入れることが出来るようになっては来るものの、「何を今さら」という思いは募ります。曲の後半、タイトルの「沈黙」が非常に分かりやすい形で現れるあたりは、かなり「現代」の主流に近いものを感じることが出来るのではないでしょうか。ただ、このような、楽器を鳴らすことを禁じられる演奏を強いられるのは、フルーティストとしてはストレスがたまることでしょう。
そして、1971年生まれのドイツ人ピンチャーとなると、フルーティストの生理としてはちょっと我慢の限界を超えるような体験を味わってしまうかもしれません。少なくとも、美しい音を出すために日々修練を重ねている演奏家にとっては、こういうものを味わうのは苦痛に近いのでは。この曲あたりがまっとうなフルーティストのレパートリーになることは、まずあり得ないでしょうね。いや、なって欲しくないというのが正直な思いです。

7月15日

To Pan and Syrinx
Kenneth Smith(Fl)
Paul Rhodes(Pf)
DIVINE ART/dda25066


フルーティストのケネス・スミスのアルバム、けねす(けなす)わけではありませんが、以前新譜としてリリースされたものを聴いてみたら、録音は10年以上昔のものだったのでちょっとがっかりしたことがありましたね。今回も、ジャケットを見る限りリリースは2008年ですが、表側だけではいつ録音されたものなのかは全く分からないという、不親切なパッケージでした。しかし、一応彼の演奏では聴いたことのない曲ばかりだったのでとりあえず買ってみて、後は運に任せる、という手を取ることにしました。
家へ帰って(これは、新宿のフルートやさんで買いました)開けてみたら、録音は前のアルバムと同じ1996年のものに混ざって、2006年録音という新しいものも3曲入っていたので、まずは一安心です。
入っている曲は全部で6曲。メラニー・ボニという女性の作曲家の作品だけは聴いたことがないものですが、あとはマルティヌー、ルーセル、エネスコ、ドビュッシー、そしてシューベルトの、フルート曲としては一番有名な曲ばかりが集まっていました。
まずは、マルティヌーのソナタです。これは新しい録音。会場が今までとは別な場所なので、ちょっと音全体が拡散しているようで、慣れるまでに時間がかかります。もうすでに60歳前後のはずですが、テクニックや音程には全く衰えは感じられません。ただ、幾分ビブラートが深くなっているかな、ぐらいの印象でした。
しかし、次のルーセルの「笛吹きたち」と、エネスコの「カンタービレとプレスト」で、10年前の音を聴くと、やはりこちらの方が明らかに勢いはあります。なによりも、音楽の作り方が自信に満ちています。エネスコの前半の、余裕を持ったルバートなど本当に気持ちのよいものです。やはり、これに比べると、最近のものはなにか「守り」に入っているという印象は免れません。
次は、初体験のボニのソナタを新録音で。4楽章から成る堂々たる構成ですが、それぞれの楽章を特徴づけているテーマがそれぞれキャラが立っていて、とても魅力的な作品です。終楽章など、サン・サーンスの匂いもしていますね。これは、スミスの演奏で初めて聴けたことに感謝したくなるような、とてもていねいでいて、なおかつパッションに満ちた演奏でした。
ドビュッシーも、新録音で「シランクス」です。決してベタベタしない、スマートな彼のスタイルは健在です。そして、驚かされるのは相変わらずのブレスの長さです。最後の終わり方が、なかなかしゃれていますよ。
最後のシューベルトは、もちろん「しぼめる花」。昔の録音で締めくくった意味がよく分かる、これはものすごい演奏です。まず、序奏に現れる低音の豊かさには、圧倒されてしまいます。やはり、この頃の低音の凄さは、もう今の彼にはなくなっているような気がしますね。そして、ブレスは驚異的、なにしろ、第1変奏では、普通の人の倍の長さのフレーズを一息で吹いているのですからね。もちろん、ベザリーのような「ずるっこ」はなし、しっとりとした第3変奏では、しっかり気持ちのこもった「息」で、まさに「息の長い」たっぷりした歌を紡いでくれています。もちろん、テクニックも完璧。後半の細かい音符が続く難所も全く危なげなくクリアです。というより、音の難しさを全く感じさせない中で、余裕を持って流麗な音楽を作り上げているのですから、聴いていて嬉しくなってしまいます。
たしかに、往年の「凄さ」こそは薄れてきましたが、まだまだ現役で頑張れる人です。なにより、音程感の確かさは、誰とは言いませんが、バリバリの若手を遙かに凌ぐものがあります。最近、彼の在籍しているオーケストラでは、首席奏者を2人に増やしたそうですから体力的には余裕、まだまだ活躍してくれることでしょう。

7月13日

BACH
St John Passion
Caroline Stam(Sop), Peter de Groot(Alt)
Gerd Türk, Charles Daniels(Ten)
Stephan MacLeod, Bas Ramselaar(Bas)
Jos van Veldhoven/
The Netherlands Bach Society
CHANNEL/CCS SA 22005(hybrid SACD)


この前のビラーの新しい録音を聴いて以来、「ヨハネ」の「稿」についてついつい深入りすることになってしまいました。そこでたどり着いたのが、「第1稿」で演奏されている唯一の録音であるこのアイテムです。2004年の録音とちょっと古めですが、モノがモノですから、大目に見て下さい。
「唯一の録音」と言いましたが、それには異論を唱える方もいらっしゃるかもしれません。1987年に録音されたクイケン指揮のラ・プティット・バンドのCD(DHM)には、「Complete version(1724)」というクレジットが堂々と掲載されているのですからね。もちろん1724年というのは「ヨハネ」が初演された年ですから、これは「第1稿」を指すものだと誰しもが考えることでしょう。しかし、音を聴いてみると、これは普通の新バッハ全集の楽譜、「第1稿」とは似て非なるものでした。このレーベルは、こういう点で非常にいい加減な情報しか伝えない、というのは昔からの体質のようですね。いくら「50周年」とは言っても、このいい加減さや誤謬が改善されるわけではありません。
「第1稿」というのがどういうものであるか、ということは、さまざまな文献で知ることは出来ます。しかし、なにしろきちんとした楽譜が出版されていないものですから、その全体像をつかむことは困難でした。このCDでは、ピーター・ディルクセンという人がこの録音のために「修復」したスコアが用いられています。
ここで始めて「音」として明らかになった「第1稿」の姿、なかなか興味深いものがあります。それ以後の稿と決定的に違っているのが、その楽器編成です。ここには、他の受難曲でも使われているフルートが、使用されていないのです。これだけ大規模な曲でフルートが入らないのはちょっと不思議に思えますが、実はこれは当時の作曲の事情を考えれば、納得のいくことです。なにしろ1724年と言えば、バッハがライプツィヒに就任してすぐ、そこのオーケストラには、満足なフルート奏者はいなかったのです。当時の作曲家は、与えられた条件で依頼主の要求通りの曲を作らなければなりませんから、フルート奏者がいなければ、単にフルートのパートをなくすだけのことなのです。次の年にはやっとフルート奏者の都合が付いたので、その時に演奏された「第2稿」では、例えば9番のソプラノのアリアなどでは、今までヴァイオリンが弾いていたオブリガートをフルートに吹かせるようにしたのです。ですから、最初にあったフルートでは演奏出来ない低い音が含まれるパッセージは、1オクターブ高く変えられています。さらに、この曲は変ロ長調という、当時のフルートではかなり吹きにくい調になっているのも、そういう事情のあらわれなのでしょう。ただ、これはあくまでディルクセンの見解。リフキンの「合唱は各パート1人」説と同様、多くの論議を呼ぶことはあっても、結論が出ることはないのでしょう。
楽器編成以外では、「第4稿」と「殆ど」違わないという「殆ど」の部分も、きちんと通して聴くことによって明らかになります。33番と38番のレシタティーヴォが微妙に異なっているのですね。もちろん、ビラーの時にも書いたように、歌詞が異なっている部分もありますし。
フェルトホーフェンとオランダバッハ協会は、「ロ短調ミサ」と同様、各パート2人という編成の合唱で演奏しています。もちろん、ソリストもそのメンバーが務めます。そういう少人数だから出来る細やかな表情付けが、ここでは最高の魅力となって現れています。第1曲の合唱などは、その点でとってもスリリング。もちろん、音程などは完璧なこのチームは、少人数のメリットを最大限に生かして、ポリフォニーでの各声部の明晰さをとことん示してくれました。ベースの音の動きなど、なんとクリアに聞こえてくることでしょう。
バッハがこの曲を初演したときの楽譜と演奏形態を忠実に(異論はあるかもしれませんが)再現しているにもかかわらず、そこからはストレートに現代人のツボを刺激する情感が発散しています。

7月11日

NAUMANN
La Passione di Gesú Cristo
櫻田亮, Raffaele Giordani(Ten)
Monica Bragadin(MS), Alfredo Grandini(Bas)
Sergio Balestracci/
Coro La Stagione Armonica
Orchestra di Padova d del Veneto
CPO/777 365-2


ヨーハン・ゴットリープ・ナウマンは、1741年に生まれ、1801年に亡くなったドイツの作曲家です。彼の生涯には、モーツァルトの生涯がまるまる収まるということになりますね。生まれたのはドレスデン近郊、亡くなったのもドレスデンですが、モーツァルト同様小さな頃から音楽の才能を発揮、10代のころからヨーロッパ各地を旅して歩き、18才の時にパドヴァでタルティーニの生徒となり、本場イタリアの音楽をみっちり学ぶことになります。1763年、22才の時には、ヴェニスで最初のオペラを発表、オペラ作曲家として華々しいデビューを飾ります。翌1764年には、アドルフ・ハッセなどの推薦で、ドレスデン宮廷の作曲家に就任しますが(1776年には宮廷楽長に「出世」)、その後もイタリアをたびたび訪れます。
1765年に、パドヴァで、やはりハッセの推薦によって委嘱を受けたのが、1730年に作られたピエトロ・メタスタージオのイタリア語の台本によるオラトリオ、「イエス・キリストの受難」でした。当時の超売れっ子オペラ台本作家によるこの受難オラトリオは多くの作曲家による作品が残っており、18世紀のこのジャンルの音楽の一つの潮流を形づくっているものです。そのなかで、このナウマンのものはそのかなり早い段階での作品、文献にはたびたび登場しているものですが、今回の世界初録音によって、やっとその現物の音を聴くことが出来るようになりました。
イエスを「否認」したピエトロ(ペテロ)のところに、磔の現場を見てきたジョヴァンニ(ヨハネ)、マッダレーナ(マグダラのマリア)、ジュゼッペ(アリマテアのヨゼフ)の3人がやってきて、その模様を語り合うという、かなりオペラティックな設定は、この作品に於いても充分に生かされています。イタリアで長年修行してきただけあって、ナウマンの正調イタリア・オペラ、つまり「オペラ・セリア」のスキルは、まさに熟達の境地に達しています。その結果、この作品は、我々が聴くとテーマである「受難」からは少し離れた、いささか明るすぎる曲調がかなり目立ってしまうように感じられるかもしれません。おそらく、それはドイツの作曲家にはつい厳格さを求めてしまうという我々の悪弊のせいなのでしょう。この当時の人にとってみれば、これはまさに時代の様式にしっかり則った音楽、なんの違和感もなかったはずでしょうからね。それは、モーツァルトにも通じる明るさであると同時に、エマニュエル・バッハあたりからの「伝統」にもしっかり根ざした様式だと感じられたはずです。
全曲演奏するとちょうど2時間という、しっかり作り込まれた音楽は、華麗なダ・カーポ・アリアに彩られています。中でも、2曲設けられた、オブリガート付きのアリアがひときわ目をひきます。第1部のマッダレーナ(メゾソプラノ)のアリアは、ヴァイオリン・ソロ、第2部のピエトロ(テノール)のアリアはファゴット・ソロ、いずれも10分を超す大曲で、楽器がまるで協奏曲のように振る舞っているのが聴きどころでしょう。歌手と楽器が、それぞれカデンツァを披露しているというのが、スリリング。
曲の間にざわめきが聞こえてくるというライブ録音ですが、このオリジナル楽器のオーケストラは、かなり高い水準の演奏を、最後まで緊張感をもって繰り広げています。声楽陣では序曲の後すぐ登場するピエトロ役の櫻田さんが大活躍です。BCJで何度か聴いたことのある端正なソロが、ここではさらに磨きがかかって、「凄さ」さえ感じられるような素晴らしいものになっています。4人のソリストの中では間違いなく最高のランク、彼のソロアルバムといっても良いぐらい、それは充実した演奏を聴かせてくれています。ペーター・シュライアーを超えた、といったら言い過ぎでしょうか。

おとといのおやぢに会える、か。


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