ちゃんこと、すき焼き。.... 佐久間學

(05/12/14-06/1/6)

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1月4日

西洋音楽史
岡田暁生著
中公新書
1816
ISBN4-12-101816-8


音楽というものは、本来「楽譜」などがなくても成立するものです。現に、今世界中で聴かれている「音楽」の90%以上は(「トリビア」で「1000件のサンプルがあれば信頼できます」と言うのと同じく、この数字にはなんの根拠もありません。単なる私の直感です)楽譜を介在しなくても成り立っているものなのです。例えば、解散して30年以上も経つロック・グループ「ザ・ビートルズ」の曲は、いまだに世界中で愛され続け、CDも売れ続けているものですが、彼らが音楽を作る際には、普通我々が「楽譜」と読んでいる、五線紙に音符を書き連ねたものなどは一切使ってはいないのです。「ピアノ伴奏の付いた楽譜集が出ているではないか」とおっしゃるかもしれませんが、あれは出版社が適当に「採譜」をしただけのもの、作った本人達には全くあずかり知れぬ代物なのです(彼らの財布にはしっかり印税が入りますが)。そもそも、いわゆる「楽譜」が伝えることの出来る情報は、たかだか音の高さや長さだけ、彼らの「音楽」を「楽譜」にした時点で、ロックンロールの持つグルーヴ感やギターソロの細かいニュアンス、ましてやヴォーカルの質感などは、完璧に失われてしまうのですから。
現在私達が好んで聴いている「クラシック音楽」が出来上がるまでの道筋をグレゴリオ聖歌から説き起こし、その「発展」の模様を殆どドラマティックなまでに描き出すことに成功した岡田暁生が、その「クラシック音楽」を「楽譜として設計された音楽」と定義したことによって、この「西洋音楽史」は今までの類似書とは全く異なるインパクトを与えてくれることになりました。そこからは、その「クラシック音楽」にかける著者の熱い思いとは裏腹に、「クラシック音楽」がなぜ一部のエリートにしか受け入れられないマニアックなものであり続けているかと言う疑問に対する明白な解答が引き出されています。そもそも、中世の時代から、音楽というものは人が聴いて楽しむものではなく、「神の国の秩序を音で模倣する」ものだと、著者は述べます。さらに、「『音楽は現象界の背後の数的秩序だ』という特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水脈である」とも。ここに、それぞれの時代で音楽を支えてきた、音楽を作る側ではなく、それを聴く対象に注目することによって、その様ないわばマニアックなものが継続して生きながらえた理由を知ることも出来ます。中世では教会、バロックでは王侯貴族、そして古典派以降では裕福な市民階級という、いずれも知的な階層が聴き手であったからこそ、ある種の「教養」として、「クラシック音楽」は確かな存在感を誇っていることができたのです。
ですから、その様な後ろ盾をなくした「クラシック音楽」の「現代」を語る時、著者の筆致はためらいがちにならざるを得ません。現代の「音楽史風景」を、彼は「『前衛音楽』、『巨匠の演奏』、『ポピュラー音楽』の併走」だと言い切ります。もはや「アングラ化」した前衛音楽はともかく、残りの2者ははからずも「楽譜」としてではなく、「音」としての音楽であることが注目されます。
この著作のサブタイトルは「『クラシック』の黄昏」、「クラシック音楽」の本質を先ほどのように言い切った著者の手によって、「楽譜」を介在しなければ存在できなかったこの音楽の終焉は、見事なまでに誰にでも納得できる事実となったのです。

1月1日

MOZART
Concertos for Winds
Jacob Slagter(Hr)
Emily Beynon(Fl)
Gustavo Núñez(Fag)
Alexei Ogrintchouk(Ob)
Concertgebouw Chamber Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 079(hybrid SACD)


モーツァルト・イヤーの幕開けに相応しい、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の木管楽器の首席奏者4人が、このオーケストラのメンバーからなる室内アンサンブルをバックにモーツァルトの協奏曲を演奏したというアルバムです。ホルンのスローターは協奏曲第1番、フルートのバイノンも第1番、そして、ファゴットのヌニェスとオーボエのオグリンチェクは、それぞれただ1曲しかない協奏曲を演奏しています。アンサンブルの弦楽器の編成は5、5、4、3、1という(もちろんプルトではなく、本数)かなり小さなものです。コンサートマスターのクレジットはありますが、特に指揮者は立ててはいません。
まず聞こえてくるのが、さる節約番組でお馴染みのホルン協奏曲第1番のイントロです。この優雅なテーマから、あの貧相な食事を連想させるというのは、まさに究極のジョーク、この曲を選んだ番組のスタッフのセンスには脱帽です。それはともかく、ここでこのオケが仕掛けている自発的な音楽にも、また脱帽させられてしまったのは、ちょっと迂闊でした。これは、指揮者がいないのだから、オケはソリストのバックを淡々と務めるだけなのだろうと思っていた私の完全な誤算、もちろん、それはとても嬉しい誤算でした。下手な指揮者が仕切るよりもずっとしなやかな、ソリストとオケがそれぞれを主張しつつ、緊密なアンサンブルを作り上げるという理想的な協奏曲の姿が、そこにはあったのですから。
そのホルン協奏曲では、軽快なテンポに乗って、スローターのまろやかな音色のホルンが縦横に駆けめぐります。華やかさこそないものの、しっかりとアンサンブルに溶け込んだ演奏は、堅実さがもたらす頼もしさを味わわせてくれます。
そのスローターは、他の曲ではオケの中で吹いてくれています。ですから、2曲目のフルート協奏曲では、普段だったら気にもとめないホルンのフレーズが、とても魅力的に聞こえてきたものです。そんな贅沢な(こんな少人数なのに、弦楽器のまろやかな音色はどうでしょう)バックに乗って聞こえてきたバイノンのフルートは、これも予想を裏切られる驚きを伴っていました。ここで私が初めて体験した彼女のモーツァルトには、ソロで見せてくれる華麗なイメージとはちょっと異なる、渋い世界が広がっていたのです。言うまでもなく、これも、心地よい裏切り、ロマンティックな演奏からは一線を画したその禁欲的なテイストからは、ある種の厳しささえ漂う強靱なメッセージが伝わってきました。モダン楽器によるモーツァルトの、一つの解答がここには見られるはずです。
そこへ行くと、ファゴットのヌニェスの音楽は、もう少し楽天的、この楽器の持つ明るいキャラクターを存分に示してくれるような演奏です。第3楽章での、バックのオケをも巻き込んだノリの良さったら。
最後は、オーボエのオグリンチェク。この人も確かなパッションを秘めている、と見ました。特に第2楽章のたっぷりした歌い上げは惹き付けられます。たまに自分の世界に入り込みすぎて周りが見えなくなるような時があっても、まわりの仲間たちがしっかりそれをフォローしてくれるのですから、なんの心配も要りません。そう、そんな火花を散らすようなやりとりまでもがしっかりと収録されているこのセッション、スタジオ録音ではあっても、ライブの緊張感にドライブされた素晴らしいものに仕上がっていますよ。

12月30日

雲の歌 風の曲
安野光雅(絵と詞)
森ミドリ(曲)
岩崎書店刊
(ISBN4-265-81012-8)

安野光雅さんは、私にとって殆どアイドルに近い絵本作家です。オランダの画家M・C・エッシャーに触発された「ふしぎなえ」などの初期の作品群は、本家エッシャーの世界を継承しながらも、安野さん独特の温かい絵柄でより親しみやすい魅力を持つものでした。「ABCの本」や「あいうえおの本」のように、全ての文字について何らかの仕掛けを施すという緻密な仕事には、なにか人の能力を超えた叡智のようなものさえ感じさせられたものです。そして、衝撃的だったのが「もりのえほん」。一見何ごともないのどかな森の風景が、実はさまざまなものが巧みに隠された「騙し絵」だったと知った時の驚きは、今でも忘れません。その流れから生まれたのが「旅の絵本」です。その第1巻はまさに「騙し絵」のオンパレード、隠されたものを探し出す作業は、なんと知的な体験だったことでしょう。
その一方で、安野さんは国内やヨーロッパなどの風景を独特の水彩画で綴った画集を数多く生み出しています。そこには、絵本に見られたある意味刺激的な要素とはちょっと異なる、素朴な懐かしさを呼び覚ましてくれるような、温かいたたずまいが漂っていて、こちらの安野さんも私は大好きです。一方で、安野さんの書くエッセイも、とても魅力のあるものです。その中に垣間見られる大きな世界観と柔軟な人間性は、私達を惹き付けて止みません。
そんな安野さんの、「作詞歌」としての新たな一面を見せてくれるものが、今回の新刊です。そもそものきっかけは、彼の生地である津和野にある「安野光雅美術館」に展示してあった、「つわのいろは」という一編の詩でした。2001年に作られた「夢に津和野を思ほえば」で始まるこの詩は、実は「いろは歌」、つまり、いろは48文字全てを重複なく使い切るという非常に技巧的なものだったのです。その様な制約の中で見事に故郷津和野の情景を歌いきっているというのですから、とてつもない、言い換えれば、いかにも安野さんらしいものであると言えるでしょうね。ここを訪れた作曲家の森ミドリさんが、この詩を見て曲を付けたのが、安野さんと森さんとのコラボレーションの始まりでした。作曲家の求めに応じて、ワンコーラス分しかなかったこの詩にさらに2コーラスとサビを2コーラス追加したのが、作詞家安野光雅のデビューとなりました。このロングバージョンは、「津和野の風」というタイトルとなり、2003年にリリースされた森さんのチェレスタ独奏の5枚組アルバムにも収録されることになりました。さらに2005年には混声合唱に編曲され、来年の3月にさる合唱団によって初演(合唱版はそれこそ世界初演!)されるということです(この演奏会では、もう1曲「つわのの子守歌」も演奏されます)。
ここに収録されている「作品」は、全部で31曲。巻末には森さんが作った曲の楽譜も添えられています。もちろん、それぞれの曲には安野さんの絶妙の「挿絵」が添えられていますから、彼のイメージが言葉と絵から伝わってくることになります。「津和野」こそ、夕暮れ迫るもの悲しい情景ですが、大半は子供がたくさん登場する「童謡」の世界、安野さんの子供の歌に対する一つの見識が存分に発揮されています。
そして、まるで「旅の絵本」を思わせるヨーロッパの風景をバックに歌われているのが、安野さんの面目躍如といった「ロンドン頌歌」と「行ってみたいの」という、2つの「いろは歌」です。もっともこれは「津和野」とは異なり、「いざ手をとりて ローマの都 花のバチカン 虹の丘」とか、「行ってみたいの ロンドンパリィ 花の帽子が 似合うでしょ」といった具合に、フレーズの頭を「いろは」でまとめたという別の技法が駆使されたものです。
せっかくですから、楽譜ではなく「音」となったCDが一緒にあんのが良かったのに、とは誰しも思うことでしょう。いずれ、その様なものも出ることを、期待しましょう。

12月28日

GOLIJOV
Ayre
Dawn Upshaw(Sop)
The Andalusian Dogs
DG/00289 477 5414


WARNERというかNONESUCHのアーティストだと思っていたアップショーのアルバムが、DGから出ました。メインは、そのNONESUCH時代のアルバムでも取り上げていたアルゼンチンの作曲家、オスヴァルド・ゴリホフが、2004年に彼女のために書いた「Ayre」という曲の世界初録音です。中世のスペイン語で「うた」とか「メロディ」を現すタイトルのこの作品には、実はゴリホフがモデルとしたものがあります。それはルチアーノ・ベリオが1964年に、夫人のキャシー・バーベリアンのために作った「フォーク・ソングズ」、この、いわば「元ネタ」も、しっかりカップリングされているという配慮がうれしい、ニューアルバムです。
まず、そのベリオから聴いてみましょうか。タイトル通り、アメリカやフランスの「フォーク・ソング」をベリオが編曲したもの、なによりも1964年という、作られた時代がもろに作品の中に反映されているのが、ちょっと懐かしくなってしまうところです。歌自体はオリジナルを生かして素直に歌っているのに、伴奏でちょっとへそ曲がりな、というか、「現代作曲家」の意地のようなものが熱く迫ってくるのが、今となってはほほえましく感じられてしまうほどです。
この曲集、アメリカのフォーク・ミュージシャンのJ・J・ナイルズの曲で始まるのですが、2曲目のタイトルが「I Wonder as I Wonder」、なんと、これは先日ご紹介したばかりのキャロル集に入っていたものと同じタイトルではありませんか。歌詞も全く同じ。メロディは違いますが、いずれもしっとりとしたテイスト、リュッティ版の方が洗練されているでしょうか。「A la femminisca」という、シチリアの水夫の妻が「お天気が良くなりますように」と祈る歌では、シチリア風のだみ声で歌うという、バーベリアンばりの表現力の幅の広さを披露してくれているアップショーです。最後の「アゼルバイジャンのラブソング」で見られるリズミックなノリの良さからは、ベリオの本音のようなものも垣間見られることでしょう。
そして、最新のゴリホフになると、もはや体裁などはかなぐり捨てた本音で勝負できる時代がやってきます。ここで扱われている素材は、ゴリホフのルーツとも言うべき、スペイン系ユダヤ人と、アラブの世界です(ライナーには、アラビア文字の歌詞が載っています)。ここでは、伴奏のアンサンブルはしっかりとした必然性を持って、その素材の持つ世界観を表現しています。ビブラートたっぷりのクラリネットが奏でる哀愁のメロディ、「ハイパー・アコーディオン」などと言うわけの分からない楽器も登場しますし、「ラップ・トップ」とクレジットされているのは、言ってみればシンセサイザーのプログラミングでしょう。この二つの「楽器」がイントロを務める「私の愛」も聴きものです。
澄みきった声で歌われる、「母親は子供を丸焼きにして食べた」というタイトルからは想像できないような心に染みる美しい歌があるかと思えば、その次の「壁が土地を囲んでいる」では地声丸出しで殆どパンクのような激しさを見せてくれたり、まさに「虹色の声」でゴリホフの世界を描ききったアップショー、バーベリアンとはまた違った意味で音楽の「ボーダー」を取り払ってくれました。
考えてみれば、バーベリアン、そしてベリオの時代に「ボーダー」だったものが、現在ではなんの意味も持たなくなり、新たな「ボーダー」が出現しています。それまでも取り払おうという「ボーダーレス」に挑んだゴリホフとアップショー、その「ボーダー」の向こう側からのアプローチであるサラ・ブライトマンの「ハレム」と言うアルバムによく似た感触を醸し出しているのは、単なる偶然なのでしょうか。ジャケットのコンセプトも名前に似てますし(それは「ストリップショー」)。

12月26日

Mozart Meets Cuba
Klazz Brothers & Cuba Percussion
SONY/82876 76262 2
(輸入盤)
ソニーミュージック
/SICP-1038(国内盤)
以前もご紹介した、ドイツのジャズ・トリオ、クラズ・ブラザーズ(「Klazz」というのは、KlassikJazzをつなげた言葉だとか)と、キューバの2人のパーカッション奏者のユニットによる、ラテン・ジャズによるクラシックの名曲の「再構築」である「Meets Cuba」シリーズ、今回は大方の予想通りモーツァルトがネタになっています。しっかりとクラシックの基礎を持つキリアン(ベース)とトビアス(ピアノ)のフォルスター兄弟に、ドラムスのティム・ハーンが加わったかなり知的なトリオ、そこにアレクシス・ヘレラ・エステヴェスと、エリオ・ロドリゲス・ルイスという、生粋のキューバン・パーカッションが加わって生み出されるラテンのグルーヴ、そこには、確かなボーダーレスの世界が広がっていました。あ、同じ海の生き物でも、こちらには吸盤はありません(それは「クラゲ」)。
こういう企画で曲を作る場合、いかによく知られたメロディーを用いるか、というのが一つのポイントになってきます。誰でも知っている有名なものが素材になっているからこそ、それをいかに料理したか、というおもしろみが味わえるのですからね。このアルバムでも、そのあたりは抜かりがないように見えます。本当に誰でも知っている「トルコ行進曲」を、ちょっと「外した」リズムで処理したり、「ド〜ミソ、シ〜ドレド」という有名なハ長調のピアノソナタを、一瞬元ネタが分からなくなるほど大胆にデフォルメしたりと、まずは予想通りの展開です。
しかし、さすがドイツ人、と思わせられるのが、確かに有名ではあっても日本人の中では必ずしも「誰でも知っている」というわけにはいかないオペラからの引用です。ファンキー・シャッフルに乗った「ザルツブルク・シャッフル」というのは、「魔笛」のポプリ、パパゲーノの2つのアリア、パパゲーノとパミーナのデュエット、タミーノのアリア、夜の女王のアリアなどが延々と続くのを楽しめるのは、もしかしたらかなりの「通」だけなのかもしれません。
「魔笛」ネタはもう一つあって、ここでは「愛の喜びは露と消え」という第2幕で歌われるパミーナの悲痛なアリアが使われています。そこになんと「ベサメ・ムーチョ」を同時に演奏する、というのがミソ、こんな全く別の世界の曲同士が、同じコード進行だと言うだけで結びついてしまうのは、殆ど奇跡です。ただ、「いっぱいキスして」というかなり情熱的なタイトルのこのラテンの名曲も、その歌詞は死の床にある夫からの、妻に対する永遠の別離を歌ったものであると聞けば、恋人が心変わりをしたと思いこみ、死を決意するというパミーナのアリアとの接点も見いだせようと言うものです。そこまで考えていたのであれば、ちょっと怖くなってしまいますが。
しかし、「死」をテーマにしたものがもう一つあるとなると、それも現実味を帯びてきます。それは、「ドン・ジョヴァンニ」の序曲の序奏の部分だけをボレロに仕立てたナンバーです。暗く重苦しいテーマが続く中に、一瞬明るいメロディーが現れますが、それはショパンの「葬送行進曲」の中間部のテーマなのです。ここまで作り込んであれば、このアルバムがただのノーテンキな「ポップ・クラシック」とは一線を画していることが、自ずと分かってくるはずです。
彼らのシニカルな視点は、その「ドン・ジョヴァンニ」の「手を取り合って」という、主人公が村娘をナンパする時のデュエットが、けだるいバラードで、まるで罪深い不倫のように描かれていることからも、確認できることでしょう。同じオペラの「乾杯の歌」が、いとも軽快なモザンビークに変貌しているからこそ、その対比は際立ちます。

12月24日

One star, at last
Stephen Cleobury/
BBC Singers
SIGNUM/SIGCD067


今宵はクリスマス・イブ、あなたの一番大切な人と、床暖房のきいた暖かい部屋で、肩を寄せ合いながら聴くには絶好のアイテムが届きました。あいにくSACDではありませんから、包み込むようなサラウンドは味わえませんが、今夜のメニューはカレ手作りの皿うどん、愛し合う2人にはなんの差し障りもないはずです。
副題が「A selection of carols of our time」、最近作られたキャロルだけを集めたアルバムであることが謳われています。元々は2000年にBBCがラジオ用に制作したものなのですが、それをこのレーベルがCDにしてリリースするという、まるでライブの放送音源のようなパターンですね。もちろん、この録音はきちんと教会でセッションを行ったものです。
看板の通り、全20曲のうち12曲が初録音、さらにその中の6曲はBBCが委嘱した作品ということで、いってみれば完璧に「有名でない」キャロルが集まったもの、かなりマニアックなアイテムではあります。しかし、ものは「キャロル」ですから、何も知らずに聴いても「クリスマス!」という感じを与えられる曲が大半であることは、仲の良いお二人には喜ばれることでしょう。最初のボー・ホルテンというオランダの作曲家による「Nowell Sing We Now」という新作が、まさにそんな趣をたたえたものです。ソプラノ・ソロがまるで少年のような無垢な声で歌われていて、流れるようなその曲に自然に入っていける心地よさを誘います。なぜか本体の合唱がちょっと重苦しいな、という印象も、それほど気にはなりません。
中には、殆ど「ポップス」と言っても構わないほどキャッチーな魅力を振りまいているものもあります。スイスの作曲家カール・リュッティの「I Wonder as I Wonder」など、シングル・ヒットしてもおかしくないような素敵な曲です(J・J・ナイルズのフォークソングに、同じタイトルの似たような曲がありましたね)。美人作曲家ロクサンナ・パヌフニクが編曲したポーランドの古いキャロル「Sleep,little Jesus,sleep」も、ソプラノ・ソロが、先ほどの人とはうってかわった毒々しさで迫りますが、曲の美しさを損なうほどのものではありません。ハワード・グッドールの「Romance of the Angels」は、歌詞はルネッサンス期のスペインのものだそうですが、それをなんと「ルンバ」に仕立て上げたというユニークさが光ります。パイプオルガンと混声合唱が教会の中でラテンの明るいリズムに乗って演奏する、こんなキャロルを作らせてしまうBBCも、なかなか太っ腹なところがあるのだな、と感心させられてしまいます。
そう、最初のうちは甘いムードに浸っていたお二人も、このBBCが仕掛けたとてつもないキャロル・プロジェクトには、そろそろ度肝を抜かれはじめている頃ではないでしょうか。ジェイムズ・マクミランの「Seinte Mari Moder Mode」あたりは、殆ど怒鳴り声に近い張った声から、まるでささやくような声まで瞬時に使い分けて、ちょっと民族的なコブシを聴かせるなどという、まさに作曲家の「自己表現」の世界、完璧に「キャロル」の範疇を超えている、と思わせられるものです。ポーランドの作曲家ジェルジ・コルノヴィツの「Waiting」も、サンプリングした声(母親と娘?)を挿入するなど、紛れもなく「表現」が勝った作品、のんびり聴き流すのではなく、真摯に曲に向かい合うだけの覚悟が必要になってきます。
そんな七面倒くさいことを言っていても、最後にジョン・ハールの「Mrs Beeton's Christmas Plum Pudding(average cost:3 shillings and 6d)」という長ったらしいタイトルの曲が流れてくれば、またもとの幸せな雰囲気が戻ってくるはず。いきなりSPレコードのスクラッチノイズの中から聞こえてくる貧弱な音(もちろん、そのように作り込んであるものです)は、紛れもないいにしえのバーバーショップ・スタイルのコーラスのコピー、こんなお遊びまでしっかり「委嘱」してしまう、またしてもBBCの懐の深さには、感服です。

12月21日

FAURÉ/DURUFLÉ
Requiems
Miah Persson(Sop), Malena Ernman(MS)
Olle Persson(Bar)
Mattias Wager(Org)
Fredrik Malmberg/
Swedish Radio Choir
BIS/SACD-1206(hybrid SACD)


フォーレとデュリュフレのレクイエムをカップリングしたCDは数多く出ていますが、普通はオーケストラ版、これは両方ともオルガン版という、珍しい(というか、フォーレのオルガン版は殆どこれしかないはず)組み合わせです。演奏しているのはスウェーデン放送合唱団、あのエリック・エリクソンに育てられ、最近ではトヌ・カリユステが首席指揮者を務めていたという、名門中の名門合唱団です。例えばムーティ、アバドやブロムシュテットといった指揮者が、合唱付きのオーケストラ曲を演奏する際にこの合唱団をわざわざ指名して起用するということからも、その実力はうかがい知ることが出来ることでしょう。
デュリュフレのオルガン版は数多くの名盤が存在していますが、このCDはその中にあってもひときわ「大人の」音楽を聴かせてくれています。各パートの音にはいささかの曖昧なところもなく、完璧に一つの「声」として伝わってきます。もちろん、それは非常に立派なこと、サウンドとしての完璧さから言ったら、これ以上は望めないでしょう。さらに、30人足らずという少ない編成とはとても思えないような広いダイナミックレンジには驚かされます。この曲、もちろん最初の形はフルオーケストラのためのものなのですが、例えばティンパニなどが入って大々的に盛り上がる、といったような場面が数多く用意されていて、フォルテシモの迫力はかなりのものがあります。それにかなり近い雰囲気を、この合唱団はオルガンだけの伴奏で充分に伝えることに成功しているのですから、すごいものです。
個人的な好みでは、もう少し曖昧なところがあった方がこの曲を聴く時にはより幸せになれるな、という感じはありますが、もちろん、それはかなり高次元な要求になってしまいます。この演奏からは、「Pie Jesu」さえも曖昧さを許さない立派な声と胸の谷間の持ち主のエルンマンにソロを託したということからも、その主張は明らかなのですから。

 Malena Ernman
フォーレの場合には、その完璧さはやや鬱陶しく感じられてしまうかもしれません。もちろん、「Kyrie」でもテナーのパートソロのようにこれ以上は望めない立派なものもある反面、「In paradisum」あたりのソプラノパートは、あまりに立派すぎて別なメッセージが伝わってしまうという危惧を感じないわけにはいきません。それ以上に問題なのが、この曲をオルガンだけで演奏するという姿勢です。それは、冒頭のDの音のディミヌエンドで露呈されてしまいます。オルガンという楽器では、本当の意味でのディミヌエンドは不可能、それらしく聴かせるために、ここでオルガンのための編曲を行い、自らが演奏しているワーガーは、次第にストップを減らすという方法をとっています。その、いかにも段階的な音の減衰は、興ざめ以外の何者でもありません。「In paradisum」など、最初からオルガンがフィーチャーされているところはそれなりに味わえるのですが、大半の部分では、フォーレがわざわざ用いた特異なオーケストレーションの妙が、残念ながら全く消え失せてしまっています。「Agnus Dei」でのヴィオラの響き(もちろん、ヴァイオリンが入っていない「第2稿」)がどれほどに魅力的だったのかと、こののっぺらぼうなオルガンの音を聴いて再確認したほどです。
近々、さる地方都市では、この曲をオルガンと弦楽器という編成で演奏すると聞いておるがん。以前NAXOSから出ていたデニス・アーノルドと同じアプローチ、ちょっとそそられます。

12月19日

RACHMANINOV
Liturgy of St. John Chrysostom
Vladimir Minin/
The Moscow Chamber Choir
ALLEGRO/MOS 18732


ロシアのCD業界というのは、今はどういう事になっているのでしょう。床下に巣を作っているのでしょうか(それは「シロアリ」)。以前の「ソ連」時代は「MELODIYA」という国営企業が一手に引き受けていたものでしたが、それも「解放」後は、例えば一時BMGあたりが正式にディストリビューターとなって自由に流通する、というようなことも見られましたね。しかし、それ以前にもさまざまな「西側」のレーベルから、ここの音源は流通していましたから、今となってはまさに混沌の極みです。今回のラフマニノフも、元々は1988年に録音されたMELODIYAの音源でしたが、それが一度CDKとか言うレーベルから出されたものが、今回「Allegro」というアメリカのレーベルから「MOSCOW STUDIO ARCHIVES」というシリーズの一環としてリリースされた、という複雑な素性を持ったものなのです。
この「聖ヨハン・クリソストムの礼拝」については、以前こちらでイギリスの団体による演奏を紹介したことがあります。今回はミニン指揮のモスクワ室内合唱団という生粋のロシアの合唱団、全く異なったテイストが味わえると思った予感は、見事なまでに的中してしまいました。そもそも、以前のものはフルサイズのバージョンだったものが、今回は「リタニー」という、司祭と合唱の掛け合いの部分がカットされて、合唱による「聖歌」だけが録音されている、という曲の構成が違っている外見的な要素もあるのですが、そこから聞こえてきた音楽は、まるで別の曲かと見まごうほどの違いがあったのです。
そう感じた最大の要因は、やはり「声」の違いでしょう。このロシアの合唱団、「室内」という名称になっていますから、人数はそれほど多くはないのでしょうが、その深い響きには驚かせられます。もちろん、一番すごいのはベースのパート、特に「オクタヴィスト」という、普通のベースの1オクターブ下の音まで楽々出すことの出来る人達の存在で、とても人間技とは思えないほどの低い音が響き渡るさまは、圧巻です。「徹夜祷」やこの曲のようなラフマニノフの作品では、このパートがなんの無理もなく朗々と聞こえてくるだけで満ち足りた気分になれます。さらに、女声パートの一本芯の通った力強い響きも、ロシア独特のもの、こればかりは、先ほどのイギリスの団体の少年パートと比較すること自体が酷なこと、成人女声だったとしても、普通に訓練されたものでは、このような力強さを出すことは困難なはずです。
そのような「声」が素材になってくると、音楽の作り方自体が、アカデミックな西洋のものとは根本から変わってくることも、実感できるはずです。各パートの持つ存在感は、ハーモニーを作り上げる以前から、充分に主張がこめられたもの、4つのパートが「溶け合う」のではなく、それぞれが束になって迫ってきた結果、ハーモニーが「築きあげられる」といった様相を呈しています。そこからは、例えば純正調でハモるなどという些細なことに腐心していたのでは到底達することの出来ない、力強く豊かな音楽があります。
全体のちょうど真ん中ほどで聴かれる「Cherubic Hymn」では、その上に繊細さまでが加わった、とてもこの世のものとは思えないほどの満ち足りた世界が広がります。それは、努力を重ねて修練した結果得られるような種類のものではなく、言ってみればロシア人の「血」だけがなし得る、殆ど奇跡のようなものなのかもしれません。この合唱団が放つ強烈なメッセージは、音楽の「力」を信じているものには、決して見過ごすことは許されないものなのです。

12月14日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.4, Capriccio Italien
Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907393


ガッティとロイヤル・フィルのHARMONIA MUNDI USAへの2番目の録音が出ました。以前はBMG系列のCONIFERからマーラーなどをリリースしていたこのコンビ、実は前作のチャイコフスキーの5番では、カップリングの「ロメオとジュリエット」が、まだこのBMG時代のものだったのですが、今回の4番では、「イタリア奇想曲」も含めて、全て、この新天地でのプロダクションとなっています。
その、このレーベルへのデビュー盤、チャイコフスキーの5番は、以前聴いたマーラーの5番があまりに素晴らしかったので大いに期待したのですが、どうもあまりピンとくるものがなく、聴いてはみたもののここにレビューを書けるほどのものではありませんでした。一つには、あの曲が持っているある種の「重さ」が、ちょっとこの指揮者にはなじまない面があったのかもしれません。
その点、この「4番」は、彼の特質がよく出た、非常に見晴らしの良い仕上がりとなっていて、なかなか楽しんで聴くことが出来ました。まず、彼らが取っている楽器の配置がちょっとユニークなものです。弦楽器は、いわゆる「両翼」という、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが向かい合って座るもの、チェロがファーストの隣に来て、本来はその後ろにコントラバスが来るものが、彼らの場合は最後列に横一列に並んでいます。そして、ホルンが、木管楽器のすぐ後ろの列にやはり1列に並ぶというのも、ヨーロッパのオケとしては珍しい配置です。つまり、普通だと右か左のどちらかから聞こえてくるホルンが、真ん中から聞こえてくることになります。この曲のように、ホルンが大活躍する場面が多いものでは、この配置が非常に効果的になってきます。何しろ、冒頭からこのホルンのファンファーレですからね。
ところが、このホルンのあとに同じ形でトランペットと木管が入ってくると、そこでちょっと面白いことが起こります。その前のホルンの流れとは全く別の、1段階高いところにギアチェンジして、シフトアップした状態で音楽が進んでいくのです。これは、この楽章の至るところで見られるガッティの仕掛け、特に、小節の一番最後の拍は常に短めに処理されて、殆ど前のめりになっているかのような音楽の運びは、スリリングとも言える高揚感を与えてくれます。これがあるからこそ、ほんのたまに出てくる穏やかな部分を、とても気持ちよく感じることが出来るのでしょう。しかし、それも束の間、そんなしばしの平穏も、そのあとに襲ってくるアッチェレランドによって、元の緊張感溢れる世界に引き戻されるのです。
第2楽章になると、オーボエソロによるテーマの、あまりの淡泊さに驚かされることになります。しかし、これは前の楽章からの流れでは、決して違和感のあるものではありません。それどころか、淡々と流れるかに見えてその中には余計なセンチメンタリズムを極力廃した、意志の強ささえ垣間見ることが出来ることでしょう。しかし、最後に出てくるファゴットのソロには、それだけ拒絶してもやはり残っている「本音」のような甘さが漂っているという仕掛け、これで心を打たれない人はいないのではないでしょうか。
そんな具合に、適度にコントロールされたスマートなチャイコフスキー、これは「4番」だからこそなし得た成果でしょう。「イタリア奇想曲」では、さらにラテン的な情感が素直に発揮されていて、より心地よいものに仕上がっています。押しつけがましくてくどい演奏が嫌いな人にはねがってぃもない、爽やかな演奏です。

おとといのおやぢに会える、か。


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