和久井映見。.... 佐久間學

(05/6/18-05/7/4)

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7月4日

SCHÜTZ
Matthäus-Passion
Françoise Lasserre/
Akademia
ZIG-ZAG/ZZT 050402


もはや1000アイテム目も視野に入ってきたという「おやぢ」ですが、それだけ続いているにもかかわらず、シュッツを取り上げるのはこれが初めて、というのはちょっと意外な気がします。これだけ合唱関係に選曲が偏っているのですから、とっくの昔にしゅっと書いていてもおかしくはないのですが、一応「新譜紹介」を謳っていますので、たまたま新しい録音で引っかかるものがなかったのでしょう。
大バッハのちょうど100年前、1585年に生まれた、初期バロックの大家ハインリッヒ・シュッツは、なんと87歳まで生き延びたという、当時としては記録的に長命の方でした(テレマンが86歳と聞いてびっくりしたことがありましたが、もっと上がいたのですね)。しかも、ただ年だけを無駄に重ねていたのではなく、亡くなる直前まで「白鳥の歌」や「ドイツ語マニフィカート」といった素晴らしい曲を作っていたのですから、これは凄いことです。この「マタイ受難曲」も、81歳の時の作品なのですから、驚いてしまいます。
年を取ってからの作品だからなのか、当時の様式なのかは私には分かりませんが、この曲はまるで水墨画のような引き締まったシンプルさに支配されています。それというのも、この曲には楽器による伴奏は付かず、しかも、大半の部分はエヴァンゲリストが一人で歌うという場面によって占められているからです。バッハあたりでは「レシタティーヴォ・セッコ」という形で、通奏低音の伴奏が付きますのでまだ間が持てますが、一人の歌手だけによるそれは、「歌」というよりは殆ど「語り」に近いものがあります。別の歌手によって歌われるイエスやピラトの言葉も、テイストは同じ、群衆の言葉の部分がわずかにポリフォニーとハーモニーの処理が施されている程度、そこに広がるのは、モノクロームの禁欲的な世界なのです。最初の導入と、最後におかれた終曲の合唱以外は、全て聖書のテキストがそのまま歌われるというのも、潔いものです。
フランソワーズ・ラセール女史の指揮による「アカデミア」の演奏、ここでは、例えばバッハの同じタイトルの曲を思い浮かべた時に、途中でアリアやコラールなどが聴きたくなる心情を配慮してか、部分的に同じ作曲家の「クライネ・ガイストリッヘ・コンチェルト」や「カンツィオーネス・サクレ」といった合唱曲を挿入するという試みを行っています。確かに、物語のハイライト「ペテロの否認」のあとにオルガン伴奏の入ったポリフォニックなモテットが続くのは、ドラマティックな効果を与えるには充分なものがあります。
エヴァンゲリストとイエスを含めて、全部で10人からなる「アカデミア」のメンバーは、あまり得意ではないドイツ語のディクションを逆手にとって、言葉の持つ意味をことさらに強調し、平坦になりがちなテキストから実に起伏に富んだドラマを導き出しています。合唱の部分も「ハモる」よりは「語る」といった方があたっているような生々しさ、変な喩えですが、今までセリフをしゃべっていたものが急に歌を歌い出すミュージカルのような、良い意味での唐突さを連想してしまったものです。

7月2日

CIMAROSA, MOLIQUE, MOSCHELES
Wind Concertos
Mathieu Dufour(Fl)
Alex Klein(Ob)
Paul Freeman/
Czech National Symphony Orchestra
CEDILLE/CDR 90000 080


風をいっぱいに受けた帆船がジャケットに描かれているとはいっても、これは「風の協奏曲」というアルバムタイトルではありません。「Wind」というのは、フルネームは「Wood Wind」で、「木管楽器」という意味、ですから、もちろんこのアルバムは「木管楽器のための協奏曲」ということになり、フルートとオーボエのための協奏曲が収録されています。ソリストは、録音が行われた2003年には、揃ってシカゴ交響楽団の首席奏者だったフルートのマテュー・デュフーと、オーボエのアレックス・クレインです。ちなみに、クレインは2004年にこのポストを去っています。
バロックの時代には、管楽器のための協奏曲はたくさん作られていますが、ロマン派の時代になると、協奏曲の主役はもっぱらピアノとヴァイオリンに限られてしまった感があります。事実、「シューマンのフルート協奏曲」とか「ブラームスのオーボエ協奏曲」なんて、聞いたことがありませんものね。なんと言っても、ソリストとしてこの時代の技巧に富んだ音楽を託されるには、管楽器にはちょっと荷が重いという一面があったのかもしれません。確かに、フルートなどが現代の楽器と同じような低音から高音までムラのない響きと、輝かしい音色を獲得できるようになったのはごく最近のこと、その始まりとなったベームの楽器が完成を見たのは19世紀も半ばを過ぎてからのことだったのですから。従って、本当の意味での技巧的な管楽器の協奏曲が作られるようになるのは、20世紀に入ってから、さらに、「ソリスト」として独り立ち出来る管楽器演奏家が出てくるのは、その世紀の殆ど終わりに近づいた頃だったのです。
しかし、そんな管楽器にとっては「不毛」の時代でも、確かに可能性を信じて曲を残してくれていた人はいました。このアルバムで聴くことが出来るヴィルヘルム・ベルンハルト・モリックという、手品師みたいな名前(それは「マリック」)の作曲家の作品も、そんな愛好家の渇きを癒してくれるような素晴らしいフルート協奏曲です。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を思わせるような短調の第1楽章では、デュフーの力強い低音と、揺るぎのないテクニックで、ヴァイオリンに勝るとも劣らない多彩な表現を見せてくれています。そして、何よりも美しいのが第2楽章、甘く歌われるテーマは、まさに「ロマン派」、そして、そのテーマが回想される部分のソット・ヴォーチェは絶品です。第3楽章のロンドも、3つのテーマが入り乱れて楽しませてくれます。もう一人、同じ時代のこちらはピアノ関係で有名なイグナツ・モシェレスの「コンチェルタンテ」は、ソロがオーボエとフルート、まるでワーグナーを思わせる半音進行の前半と、ベル・カントのオペラのような後半の対比が素敵です。いずれの曲でも、デュフーとクレインは肩の力の抜けたファンタジーあふれる音楽を聴かせてくれています。
時代的にはもう少し早くなるドメニコ・チマローザの、有名な2本のフルートのための協奏曲を、ここではフルートとオーボエの二重協奏曲として聴くことが出来ます。ソロ楽器のアンサンブルにはいささかの崩れもないのですが、この曲に関しては鈍い反応のオーケストラとも相まって、ちょっと他の2人の曲ほどの生気が感じられなかったのが、残念です。

7月1日

PROKOFIEV
Romeo & Juliet
佐渡裕/
Orchestre de la Suisse Romande
AVEX/AVCL-25032


レーベルはAVEXですが、録音はスイス・ロマンド放送、つまりこれは、200111月に、このオーケストラの本拠地ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行われた演奏会を、ラジオ放送用に収録した放送音源なのです。現在はパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者というポストにある佐渡は、今ではヨーロッパを中心に世界中のオーケストラとの客演を重ねているわけですが、2001年当時というのはその足固めの時期、スイス・ロマンド管弦楽団という、ある意味名門のオーケストラを前にしての、佐渡の男のロマンどいうか、これから世界を征服しようという意気込みのようなものが伝わってくる、ライブならではの「熱い」演奏を聴くことが出来ます。
この日、佐渡が取り上げたプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、第1組曲から4曲、第2組曲から4曲の計8曲、演奏時間は45分ほどで、それがこのCDの内容の全てです。演奏時間が80分を超えるCDが多い中、これはちょっと少なめ。輸入盤ではかなりのもので総演奏時間がきちんとジャケットの外側に表記されていますが、なぜか国内盤の場合はそれがあまり見あたりません。それだと、かえって少ない中身を隠そうとする作為のようなものが見えて、逆効果だと思うのですが、どうなのでしょう。このCDの場合では、各曲ごとの時間さえ見えるところには表記されていないのですから、なおさらです。
もちろん、時間が短いことをことさら恥じる必要などはさらさら無いことは、このアルバムのように殆ど一気に聴いてしまえるようなものだと明らかになります。時間ばかり長くて退屈極まりないものより、こちらの方がはるかにマシ。そんな聴き方が出来るのは、何よりも、佐渡が醸し出す生き生きとしたリズムが、非常に軽快なものとして伝わってくるからなのでしょう。中でも、スケルツォのような趣の「少女ジュリエット」などは、そんな心地よさが感じられる最たるものです。ただ、佐渡のドライブがあまりに強烈なため、それについて行けないメンバーがいて、アンサンブルに多少のほころびが生じているのはライブということで大目に見ることにしませんか。
もう1曲、「タイボルトの死」の冒頭の躍動感もなかなかユニークなものがあります。一瞬連想したのが、佐渡の師、バーンスタインが作ったミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」の中のダンスナンバー「アメリカ」なのですから、そのダンサブルなビートにはよっぽど弾けるものがあったのでしょう。案外、バーンスタイン自身も、プロコフィエフのバレエの原作がテーマとなっている彼のミュージカルの中に、意識してこの曲のテイストを盛り込んだのかもしれませんね。
もちろん、しっとりとした曲でも、佐渡の歌い上げ方にはかなりの思い入れが込められています。ただ、そうは感じても、オーケストラの楽器からその「歌」があまり伝わってこないのには、多少のもどかしさを感じないわけにはいきません。特に弦楽器の音の中に、極めて狭い包容力しか感じられないのが、残念です。それが「力」でしか音楽を引き出すことが出来ない佐渡の責任なのか、なめらかな音色を作り出すすべを持たないオーケストラの能力の限界によるものなのか、あるいは平坦で奇を衒わない録音に終始している放送局のスタッフのせいなのかは、私には分かりません。

6月29日

MOZART
Requiem
Larsson(Sop), von Magnus(Alt)
Lippert(Ten), Peeters(Bas)
Simon Schouten/
Ensemble Lyrique
PREISER/PR90670


輸入CDのレビューで困るのは、演奏者の読み方が分からない時です。たとえ英語であっても、法則などの通用しない特別な読み方をする場合がありますから、油断は出来ません。「Maazel」を「マゼール」と読んだりするのは、かなり勇気がいることだとは思いませんか?ちなみに、「Renée」という名前は、「ルネ・フレミング」のように、「ルネ」という発音が実際の音に近いものなのですが、映画の世界では同じスペルでも「レニー・ゼルウィガー」のように「レニー」という、アクサンを無視した乱暴な読み方が通用していたりします。「Halle Berry」も、「ハル・ベリー」ではなく、「ハリー・ベリー」が正しいことが最近になってようやく知られてきたとか。
馴染みのある英語でさえ、このぐらいの「誤読」があるのですから、オランダ語などになったらとても手が付けられません。今回の指揮者の名前も、輸入業者の資料を見て初めて「スハウテン」というダイエット食品みたいな読み方だと知ったぐらいですから(それは「トコロテン」)。ただ、これも全面的に信用することは極めて危険です。かつて、やはり同じオランダの演奏家のモーツァルトのレクイエムが出た時も、CD店のコメントに書いてあった読み方を採用したら、別のところでは全く違う読み方だったということもありましたので。
とりあえずのスハウテンさん、ご自分が指揮者とクレジットされたアルバムはおそらくこれが初めてなのでしょうが、だいぶ前からトン・コープマンの「右腕」として、合唱の指導に当たっていたという実績があるそうです。リサ・ラーション(これも、読み方が難しい)などの、コープマン・プロジェクトの常連が参加しているのは、そのあたりの人脈なのでしょうね。
「アンサンブル・リリック」という団体名は、スハウテン(とりあえず)が1999年に自ら創設した、オリジナル楽器のアンサンブルと、小規模の合唱団の総称として使われています。それぞれのメンバーは、スハウテン(とりあえず)が個人的によく知っている人ばかりを集めたということで、ある意味、指揮者のやりたいことに極めて敏感に反応できる演奏集団を目指しているのでしょう。確かに、その成果は見事な形で演奏に現れていることはすぐ分かります。オーケストラと合唱が一体となった緊密な表現を、あちこちで聴くことが出来ます。ただ、それは良くも悪くも指揮者の趣味がそのまま反映されるということになるわけで、彼のかなりアクの強い歌わせ方には、正直なじむことは出来ません。そんな中で「Lacrimosa」だけは、その趣味がたまたま良い方向に向いたのか、ちょっと凄い演奏になっています。イントロのヴァイオリンの緊張感あふれる響きからして、それまでの音楽とは別物、合唱も最初から最後まで集中力が切れることはありません。
問題は、合唱だけの時にはそこそこ緊密な音楽が聞こえてくるのに、ソリストが入ったとたん、その張りつめたものが無惨にも壊れてしまうことです。ラーションがこんなにリズム感が悪いのも意外ですが、テノールのリッパートは最悪。「Tuba mirum」では、ライブということもあってオブリガートのトロンボーンもちょっと、なのですが、その2人の危なっかしい絡みには笑う他はありません。4人のアンサンブルも、それは悲惨なものです。
カップリングの「聖母マリアのためのリタニア」では、さらにコンディションが悪かったのでしょうか、ソリストのアンサンブルの酷さはまさに耳を覆いたくなるほどでした。つくづく、こういう編成の曲の難しさを思い知らされます。

6月27日

BACH
Die Flötensonaten
福永吉宏(Fl)
小林道夫(Cem)
ワオンレコード/WAONCD-020/021

京都を中心に活躍しているフルーティスト、福永吉宏さんのバッハアルバム、偽作とされているものも含めて全ての「ソナタ」と、「無伴奏パルティータ」が収録された2枚組です。福永さんという方は指揮者としても活動されていて、バッハの教会カンタータの全曲演奏という、あの「バッハ・コレギウム・ジャパン」でさえまだプロジェクトの途上にある偉業を、20年の歳月をかけて成し遂げたということです。そのような広範なバッハ体験に裏付けられたこのソナタ集、そこには、彼なりの確信に満ちたバッハ像が反映されています。
演奏にあたって、彼は銀製の楽器と木管の楽器を使い分けるというユニークなことを行っています。いずれもヘルムート・ハンミッヒという、旧東ドイツの名工によって作られた貴重な楽器(木管の場合、頭部管はサンキョウのものが使われています)、ここでは、その音質の違いだけではなく、素材に由来する奏法の違いまで、存分に味わうことが出来ます。木陰で昼寝をしながら聴いてみるのも一興(それは「ハンモック」)。
有名なロ短調ソナタ(BWV1030)では、その木管の特質が遺憾なく発揮された素朴な演奏が繰り広げられています。中音から高音にかけてのいかにも木管らしい厚みがあり倍音の少ない音色と、メカニズム的な不自由さ(もちろん、木管とは言っても銀製の楽器と全く変わらないベームシステムなのですから、そんなことはあり得ないのですが)すら感じられるぎこちなさからは、ある種くそ真面目なバッハの素顔を垣間見る思いです。事実、演奏にあたっての楽譜の吟味は徹底的に行ったそうで、最先端の研究の成果を盛り込むという姿勢も、バッハの実像を再現することに大きく貢献しています。それは、次のイ長調のソナタ(BWV1032)で、楽譜が紛失してしまった第1楽章の欠落部分に、新バッハ全集(ベーレンライター版)のアルフレート・デュルによる補筆をそのまま採用するという姿勢にも、共通しているポリシーなのでしょう。
楽器を銀製のものに持ち替えて演奏された、有名な「シチリアーノ」が入っている変ホ長調ソナタ(BWV1031)になると、俄然表現に積極的なものが見られるようになったのは興味深いところです。おそらくこちらの楽器の方がより使い慣れているのでしょう、まるでゴム手袋を介在したのではなく素肌で触れあった時のように、楽器に対する密着感のようなものさえ感じられたものでした。その意味で、やはり銀製の楽器を使って演奏されたホ短調のソナタ(BWV1034)が、私にはもっとも完成度の高いものに思えます。この曲の第1楽章に「マタイ受難曲」と同じテイストを感じるという、カンタータ全曲演奏を成し遂げたものだからこそ到達できた境地をライナーで知ることが出来たのも、そのように思えた一因なのかもしれません。
チェンバロの小林道夫のサポートも見事です。ここには、最近のオリジナル楽器の演奏に見られるような意表をつく表現は皆無、日本の演奏家が「伝統」として大切に受け継いできた穏健なバッハ像が、関西の地で脈々と生き続けている姿は、それだけで感動的なものがあります。

6月24日

RACHMANINOV
All-Night Vigil
Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
HARMONIA MUNDI/HMU 907384


最近はこのように「徹夜祷 All-Night Vigil」と表記されるようになった、このラフマニノフの合唱作品ですが、今までは「晩祷 Vespers」という、大店の責任者(それは「番頭」)みたいなタイトルが一般的でした。正確には、15曲からなる聖歌集の最初の6曲が、この「晩祷」のためのもの、そして7曲目以降は、次の朝の礼拝「Matins」に用いられる曲なのです。ただ、今さら「晩祷は誤訳で徹夜祷が正しい」などと言われても、昔からなじんだ曲名はなかなか直すことは難しいものがあります。なんと言っても、かつてこの曲の存在を決定づけられたこんなインパクトのあるジャケットがあったのですから。

これはスヴェシニコフによって1958年に録音されたこの曲の初めてのレコード(MELODIYA)を国内盤として発売するにあたって、発売元の日本ビクターが渾身の力を込めてデザインしたもの。おそらく歴史に残るであろう斬新なジャケットです。そして、このレコードが2枚組LPとして発売された1974年という年が、私たちがこの曲を知った最初の時となったのです。ということは、1915年に作られてから半世紀近くの間、ラフマニノフにはピアノ協奏曲や交響曲以外にもこんな素晴らしい合唱曲があると言うことは、少なくともレコードの上では全く知られることがなかったのです。しかも、それ以後この曲の新たな録音が出るまでには、1986年にロストロポーヴィチ(ERATO)と、ポリャンスキー(MELODIYA)の仕事が世に出るまで、30年近くも待たなければならなかったとは。そして、初めて「西側」の指揮者ロバート・ショーがTELARCに録音した1989年という年が、奇しくも「東側」という概念が崩壊した年であったのは、なんという暗示的なことでしょう。
ラフマニノフが、ロシア聖歌の昔の形、中世の「ズナメニ」というネウマ譜による古い聖歌や、キエフ聖歌、ギリシャ正教聖歌に近代的な和声を施したり、あるいは、それと全く変わらないテイストで自ら創作を行った時、そこにはボルトニャンスキーあたりによって、西欧風にソフィストケートされてしまった当時の聖歌から、かつてあったはずのロシア聖歌本来の形を取り戻そうとする意志が働いていたのは明らかです。そして、スヴェシニコフは、その意志に見事に答えたものを残してくれました。マーラーをして「この音は出なくても構わない(交響曲第2番)」と言わしめたへ音譜表の第2線のさらにオクターブ下の「シb」というとてつもなく低い音をやすやすと響かすことの出来るバスパートの上に乗った力強い合唱からは、ロシア人の訛りに充ち満ちた、民族意識のほとばしりさえ感じられる「晩祷」が聞こえてきたのです。
現代に於いては、このような「泥臭い」演奏は、もはやロシア周辺でも行われていないという事実は、サヴチュクによるウクライナの合唱団が2000年に録音したもの(BRILLIANT)を聴けば認めざるを得ません。まして、イギリス人の指揮者に指揮されたエストニアの合唱団からそれを求めるのはもちろん叶わないことです。しかし、実際の典礼を擬して助祭によるチャントを挿入したというこのアルバムからは、スヴェシニコフとは別のベクトルでラフマニノフの思いに迫ろうとする姿勢を、確かに感じることができます。

6月22日

RIMSKI-KORSAKOV
Shéhérazade
Jos van Immerseel/
Anima Eterna
ZIG-ZAG/ZZT 050502


例えば、ノリントンあたりが推し進めている、モダン楽器のオーケストラによってオリジナル楽器の響きを追求するという試みとは全く正反対の方向からのアプローチ、という視点で、このインマゼールとアニマ・エテルナの演奏をとらえるのはどうでしょうか。もうすぐ「スター・ウォーズ」とか「宇宙戦争」も始まりますし(それは「ロードショー」)。つまり、オリジナル楽器を用いて、ロマンティックな情感を表現する、という試みです。フォルテピアノ奏者として、スタート時には確かにオリジナル楽器のフィールドにいたインマゼールですが、指揮者としての彼の音楽の方向は、もっと柔軟性に富んだものを目指しているのではないか、という気がずっとしていました。そこで選んだ曲目が、この「シェエラザード」という絢爛豪華な絵巻物の世界を描写した音楽であれば、そんなとらえ方もそれほど的外れではないように思えるのですが。
オリジナル楽器というのは、「古い楽器」という意味ではありません。「その曲が作られた当時の楽器」というのが、正しい概念、従って、リムスキー・コルサコフを演奏する時にバッハ時代の楽器を使う、というのではなく、あくまでリムスキー・コルサコフの同時代、19世紀後半に使われていたであろう楽器を使うのが当たり前の話になってきます。その頃になると、管楽器などは殆ど現代とは変わらない形になっています。ピッチも、現代と同じ、「シェエラザード」の冒頭もきちんと「ミ、シ、レ」と聞こえます。ただ、インマゼールがこだわったのは弦楽器の人数でした。ヴァイオリンは8人ずつでコントラバスが5人という、「現代」に比べたら殆ど半分しか居ないというあたりに、「オリジナル」の精神を貫こうということなのでしょう。
そんな少ない弦楽器ですから、たゆとうような大海原の描写などはとても無理、と思って聴いていると、どうしてどうしてなかなか健闘しているのには正直驚かされます。どうあがいても、もともとの「しょぼさ」を隠すことは出来ないのですが、それを何とか「根性」でカバーしようとしている意気込みが、とてもほほえましく思えます。ただ、やはりこの編成であれば、どうしても耳がいくのは管楽器の方でしょう。特にファゴットなど、現代とは微妙に違う音色を楽しむことが出来ます。さらに、打楽器から一風変わった響きが聞こえてきたのも嬉しいところです。第3楽章の「若い王子と王女」の中間部、リズミカルになる部分での小太鼓やトライアングルのちょっとオリエンタルな鄙びた音色は聴きものです。
カップリングの「だったん人の踊り」でも、そんな民族色がよく出た打楽器が大活躍しています。「最後の踊り」でのシンバルなどに特別な存在感を感じられるのも、この演奏ならではのことでしょう。
そのような、それこそモダンオケでも出すことの出来ないような多彩な響きをオリジナル楽器によって導き出した、という点では、この演奏は大いに評価できることでしょう。ところが、その響きをドライブして一つの表現に持っていくことが出来ないというのが、この指揮者なのです。以前のモーツァルトでもさらけ出した、これはインマゼールの最大の欠点、「だったん人」から生命感あふれるリズムを感じられることは、ついにありませんでした。せっかくのユニークなアプローチも、音楽としての確固たる全体像が見えてこないことには、なんにもなりません。

6月20日

SALIERI
La Passione di Nostro Signore Gesu Cristo
Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
CAPRICCIO/60 100


もはや新譜ではないのですが、この前ご紹介したミスリヴェチェクの「受難曲」との関連で、取り上げることになりました。メタスタージョのテキストによる受難曲ということで、クリストフ・シュペリングが体系的に掘り起こしを行っているプロジェクトの、これは最初に手がけられたものになります。録音されたのは、ミスリヴェチェクのほんの10ヶ月前ですから、まあ、新譜のようなものでしょうし。
ミスリヴェチェクのものから6年ほど後に作られたこの作品、もちろんテキストは一緒ですから、曲の構成は殆ど変わりません。ただ、物語を進行するペテロがテノール、アリマテアのヨセフがバスによって歌われることで、ソリストがきちんと4声揃うことになり、それぞれのキャラクターがはっきりしてきています。音楽的な内容も、無意味なコロラトゥーラやカデンツァなどが少し減って、より、物語に即したアリアに変わってきているな、という印象はあります。しかし、これはあくまで作曲家個人の趣味の問題、時代様式的には殆ど変わらないと見て差し支えないでしょう。
サリエリという人、どうしても中華料理(それは「エビチリ」)、ではなく、「アマデウス」のイメージが強いものですから、あの映画でF・マーリー・エイブラハムが演じたキャラクターが思い起こされてしまいます。あそこでトム・ハルスが演じたモーツァルトとは、かなり年が離れているような印象があって、子供相手に嫉妬を抱くなんて大人げない、などと思っていたのですが、実際には年齢は6歳しか違わなかったのですね。ですから、作曲を始めたのは、本当は小さい頃からやっていたモーツァルトの方が先だったことにもなるわけです。というより、あの精神病院のシーンで懺悔を聞くためにやってきた神父の、「モーツァルトの曲は誰でも知っているが、サリエリの曲を知っている人などいない」という認識を、一般通念として固定化してしまったことの方が、問題なわけです。私もそんなに多く彼の作品を聴いたわけではありませんが、以前の「レクイエム」やこの作品を聴くにつけ、彼の作品がメジャーにならなかったのはあくまでチャンスがなかっただけのことで、「質」という点からはモーツァルトに何ら引けを取るものではないという印象を強くしています。この曲に見られる数々のアリアは、それは魅力的なもの、1度聴いただけで好きになってしまえるものも多くあります。中でも、最初のペテロのアリアのような短調で作られている曲のちょっと俗っぽいテイストは、現代においても十分通用するような「ツボ」を刺激されるものです。
ミスリヴェチェクの時に苦言を呈した合唱ですが、ここでは見違えるような素晴らしさ、メンバーを見てみると、各パート7人ほどの中で、同じ人は1人か2人、固定化されていないことから、ムラが出てしまったのでしょうか。ソリストもこちらの方がワンランク上、特にバスのミューラー・ブラックマンのドラマティックな歌いっぷりが印象的です。さらに、最初の序曲から生き生きとした情感をたっぷり披露してくれるオーケストラ、アリアの伴奏でも、とことん積極的な表現で歌手を食ってしまうほどの場面もあって、この知られざる曲から精一杯の魅力を引き出そうとする気持ちがヒシヒシと伝わってきます。確かに、この演奏を聴けば、サリエリのことをモーツァルトにはとても及びも付かない凡庸な作曲家だなどとは、誰も思わなくなることでしょう。とは言っても、来年はまたもや「生誕250年」で盛り上がりそうな兆し、世界中の音楽業界が結託して持ち上げる「モーツァルト・ブランド」を覆すのは、容易なことではありません。

6月19日

KOECHLIN
Chamber Music with Flute
Tatjana Ruhland(Fl)
Yaara Tal(Pf)
HÄNSSLER/CD 93.157


このレーベルではおなじみ、シュトゥットガルト放送交響楽団で、木管の「顔」として首席フルート奏者を努めているタティアナ・ルーランドが中心になったアルバム、ケックランの様々な楽器とのアンサンブル曲を演奏しています。その相方、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者などは、もちろんこのオーケストラのメンバーです。
パリ音楽院でマスネとフォーレに学んだシャルル・ケックランは、しかし、そのようなフランスの流れにはとどまらない、広範な作曲技法を模索することになります。ある人に言わせれば、まるであのストラヴィンスキーのように、作風のバリエーションは豊富だとか。彼の手法はグレゴリオ聖歌や教会旋法から、12音技法にまでおよんだということです。テレビ番組も作りましたし(それは「カックラキン」)。
ここで聴かれる小さな曲たちの中にも、そんな技法の片鱗は窺えます。師フォーレの作品などでもおなじみの、実際にフルートを学ぶ学生のための初見課題として作られたほんの2分足らずの「小品」なども、いかにも流れるような情緒たっぷりのメロディーが最後まで続くかと思わせて、最後にいきなり突拍子もないパッセージが現れるのですから、それこそ「初見」で演奏した学生は面食らったことでしょうね。「2本のフルートのためのソナタ」なども、明らかに12音技法が使われている曲です。ただ、それだけに終わらない、魅力的な一面をきちんと保っているのは、見事です。「フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ」では、最後の楽章に現れるのは、まるでドイツ・ロマン派のようなテーマ、しかもそれが「フーガ」という古典的な手法で展開されるのですから、驚かされます。
楽器の組み合わせにも、ケックランのユニークさは現れています。フルート、ホルン、ピアノという、ちょっとミスマッチっぽい編成の「2つのノクターン」は、予想に反してホルンとフルートが見事に溶け合った素敵なサウンドを聴くことが出来ます。ただ、中には本当のミスマッチも。映画好きのケックランが、1937年に亡くなった美人女優ジーン・ハーローを偲んで作ったという「ジーン・ハーローの墓碑銘」という曲では、フルートにアルト・サックスとピアノという組み合わせを取っているのですが、これを聴くと、この新参者の楽器がいかにフルートと似つかわしくないか、いや、もっと言えば、この暴力的で無神経な音はそもそもクラシック音楽とはなじまないものなのだということが如実に分かってしまいます。
神戸の国際フルートコンクールでも入賞(上位入賞ではありませんが)したというルーランドは、先日ご紹介したハンガリーのフルーティストとは比べようもない、洗練された演奏を聴かせてくれています。特に、高音の抜けるような響きはとことん魅力的、いまいち内向的なケックランの音楽に、確かな華やかさを与えてくれています。もう一人、同じオーケストラから参加しているフルーティスト、クリスティーナ・ジンガーと一緒に演奏している曲では、明らかに存在感に違いがあるのが分かります。ただ、このような輝かしい音は、現在のシェフ、ノリントンがこのオーケストラから引き出そうとしているある種禁欲的な音色とは、若干相容れないものであるのは明らかです。そのあたりを、この首席奏者はどのように折り合いを付けているのか、あるいは密かに火花を散らしあっているのか、もうしばらく様子を見ていたいものです。

6月18日

FAURÉ
Requiem
Christiane Oelze(Sop)
Harry Peeters(Bar)
Ed Spanjaard/
Netherlands Chamber Choir
Limburg Symphony Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 020(hybrid SACD)

2004年6月の録音、現時点ではもっとも新しいフォーレのレクイエムです。SACDとしても、初めてのものになるのでしょう。この録音、ライナーの写真を見ると教会のようなところでセッションがもたれたようですから、サラウンドで聴いたらさぞかし残響たっぷりのアンビエンスを味わうことが出来ることでしょう。おでんも買えますし(それは「コンビニエンス」)。
しかし、期待に反して、この録音はいたずらにホールトーンを強調したような甘ったるいものではありませんでした。ここから聞こえてきたものは、極めて輪郭のはっきりした、芯のあるサウンドだったのです。それは、あるいはこの曲を鑑賞する際にはあまりふさわしいものではないのかもしれません。そこへもってきて、フォーレのレクイエムを録音するのは今回が初めてというこのオランダの名門合唱団、今までこの曲を録っていなかったのも何となく分かるような気がする、その、フォーレにはあまりそぐわないような精緻極まりないソノリテからは、確かにちょっと趣の異なる音楽が聞こえてきました。
スパンヤールとオランダ室内合唱団という組み合わせでは、以前フランス合唱曲のアルバムをご紹介したことがありますが、その時に感じたある意味即物的なアプローチは、ここでも変わることはありません。「情緒」としてフォーレをとらえるのではなく、楽譜に記されたハーモニーとダイナミックスをきちんと再現すれば、自ずと作品がその姿をあらわすはずだ、という姿勢です。まず、「Introitus」冒頭のニ短調のアコードが、よくあるおどろおどろしいものではなく、明確な意志を伴うキレの良いものであることで、そんな姿勢を確認することが出来ます。使用している楽譜は1900年の「第3稿」、先ほどの写真で多くの木管楽器が写っていることからも、それは分かります。このあたりが、このコンビのスタンスなのでしょう。ただ、「Kyrie」のテナーのパートソロを聴くと、それは旧版の譜割りだったのは、ちょっと残念。しかし、この楽章の最後の、旧版では「eleison」となっているテキストは、きちんと「Kyrie」になっていますから、新版に対するある程度の認識はあったのでしょう。
Sanctus」あたりのソプラノと男声の掛け合いを聴いていると、「聖なるかな」というテキストの持つ敬虔なテイストというよりは、各パート間でもたらされる、まるで火花を散らすような緊張感を感じないわけにはいきません。その印象は、指揮者のキビキビとした、場合によっては素っ気ないと思えるほどの音楽の運びによって、さらに増長されることになります。ですから、「Agnus Dei」の後半、ソプラノが「ド」の音を伸ばしている間にエンハーモニック転調で「Lux aeterna」と変わる印象的な部分も、ハーモニーは変わってもその場の光景が変わることは決してありませんでした。「In paradisum」の最後「Chorus Angelorum」も、いとも淡々と流れていくたたずまい、それがニ長調の美しい響きで終結した時にも、ほのかな余韻がその場に漂うといった情景は、ついに現れることはなかったのです。
エルゼのソプラノは、この文脈の中では確かな輝きを放っています。端正さの中に秘められたドラマティックなパッションは聴き応えがあります。ただ、バリトンのペータースの方は、そのパッションの次元がいかにも安っぽいのが残念です。
カップリングには、ちょっと珍しいフォーレの合唱曲などが収められています。その中で「魔神たち」というダイナミックな曲では、オペラ指揮者であるスパンヤールの面目躍如といった生き生きとした一面が楽しく味わえます。

おとといのおやぢに会える、か。


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