ゾルタン星人。.... 佐久間學

(06/4/12-06/5/3)

Blog Version


5月3日

MOZART, PFLÜGER
Requiem
Michael Nagy(Bas)
Dieter Kurz/
Württembergischer Kammerchor
Chor der Staatlichen Hochschule für Musik und Darstellende Kunst Stuttgart
Württembergische Philharmonie Reutigen
CADENZA/CAD 800 855(Hybrid SACD)


このアルバムは、1944年にスウェーデンで生まれ、1950年から南ドイツ、シュトゥットガルトの近郊ビーティヒハイムに移り住んだ作曲家、ハンス・ゲオルク・プフリューガーが1999年に亡くなってから5年経ったことを記念して、その命日の2004年3月9日にビーティヒハイムの聖ローレンス教会で行われた彼自身のレクイエムの演奏会の模様が収録されたものです。
その演奏会では、それに先だってモーツァルトのレクイエムが演奏されました。これは、プフリューガーがこの曲を作る際に、この名曲について友人と真剣にディスカッションをした、ということも考慮してのことなのでしょう。しかし、それだけではなく、ここでは敢えて曲の本来演奏される順番を崩して、作曲された順番に演奏されているということが、暗示的な意味を持ちます。つまり、「Kyrie」のあとには「Offetorium」である「Domine Jesus」と「Hostias」が続き、そのあとに「Dies irae」から始まる「Sequenz」が演奏されて、絶筆となった「Lacrimosa」の8小節目で打ち切るということを行っているのです。それにすぐ続けて、この新しいレクイエムを演奏するということはどういう意味を持つのか、想像に難くはありません。素麺も固くはありません。
ちなみに、このモーツァルトのレクイエムは、オーケストレーションは後にジュスマイヤーが行ったものをそのまま使っています。かつてシュペリングが録音していたように、本当にモーツァルトが作った部分だけを演奏するというような方法をとっていれば、その意図はより伝わったのでしょうが、実際の演奏会としてはこの折衷案をとる方が現実的なのでしょう。
その、プフリューガーの「Memento mori 1995 Ein Requiem für tiefe Stimme, Chor und Orchester」というタイトルを持つレクイエムは、彼の住むビーティヒハイム市、および、そこの教区牧師であった友人のヨーゼフ・ディーマーの委嘱によって1995年に作られました。タイトルにもあるように、ここで活躍するのは「深い声」です。もちろん、これはバスやバリトンの歌手を示すわけですが、その「深い」というファクターを求められるソロパートは、音域以外のキャラクターが重要になってくることでしょう。というのも、ここで彼が担当する音楽は、最近ではとみに馴染みのなくなった「無調」のテイストがふんだんに盛り込まれたものだからなのです。打楽器やチェレスタなどを多用した、まるで映画音楽のようなオーケストラの中で聞こえてくるその「深い」ソロは、まさに人間の不安な気持ちをかき立てるにはうってつけのものとして、迫ってきます。それは、本来の典礼文の中に挿入された、27歳という若さで悲劇的な死を遂げたドイツの詩人ゲオルク・トラークルの詩をテキストとして使っている部分で効果的に発揮されています。
ただ、全体としては例えば「Dies irae」や「Sanctus」で見られるかなり楽天的な合唱の処理などによって、「聴きやすい」ものに仕上がっているのは事実です。不安なままでは終わらない、もっと音楽的な悦びに通じるものが、作品の根底に流れていることを感じないわけにはいきません。あれほど暗かった「深い声」が、最後の「Lux aeterna」では、ニ長調の第3音Fisを、まるで何かから吹っ切れたように朗々と歌い上げるのを聴けば、その印象はさらに強まるのです。
ニ短調のモーツァルトのレクイエムから始まったものを、明るいニ長調で終わらせる。これが何を意味しているのかは明白です。

5月1日

Portrait
Rick Astley
RCA/82876 73431 2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCM-31187(国内盤)

リック・アストリーって、おぼえてますか? 体育会系ではありませんよ(それは「アスリート」)。1987年に「Never Gonna Give You Up」というデビュー・シングルが世界中で大ヒットを巻き起こし、その歌や音楽ビデオがラジオやテレビから流れない日はなかった、という程の人気を誇ったイギリスのシンガーです。
当時隆盛を誇っていたのはダンス・ミュージック、中でも「ユーロビート」というシンプルで屈託のないサウンドは、全てのディスコ、そして音楽界を文字通り席巻していたのです。そのユーロビートの仕掛け人としてヒット曲を量産していたのが、ピート・ウォーターマンというプロデューサーを中心にした作家チーム「ストック・エイトケン・ウォーターマン」でした。彼らが曲を作りさえすれば、それは間違いなくチャートインするという、まさにヒットメーカーとして当時の音楽シーンに君臨していました。そして、そのチームの稼ぎ頭が、現在でもセクシー路線で活躍し続けているオーストラリア出身の女性歌手カイリー・ミノーグと、このリック・アストリーだったのです。
彼の場合、その様なある種「アイドル」には似つかわしくない「良い声」が特徴でした。デビュー当時は21歳だったリック、しかし、声だけ聴いたらまるで年配者のような朗々たる歌声、言って見れば「おやじ声」が醸し出すミスマッチ感が、不思議な魅力を放っていたものでした。正直、あのエルヴィス・プレスリーにも似た(あんな変なビブラートはありませんが)太い声は、ウォーターマン達のサウンドの中では違和感があったのも、事実でした。
おそらく、その事はリック自身も感じていたのでしょう。それからの数年間、この路線で多くのヒット曲を産み出した後、彼はこのチームからの決別を宣言、新しいプロデューサーのもとで、自分の声にあった曲を歌っていこうとしたのです。しかし、その様な、今まで育ててくれたスタッフにも、そして、今までの路線を期待していたファンにも仁義を欠いた行いは、この世界では受け入れられないことは目に見えています。程なく彼は誰からも忘れられ、この業界から消えていってしまいました。
それから10年以上も経って、こんな、まさに彼が長年歌いたかった歌が詰め込まれたアルバムとともに、リックが帰ってきました。かつて、とてもそこからは実年齢は想像できなかった風貌も、今では見事に2人の娘の父親にふさわしいものとなっていました。
幾分重苦しかったその声も、短くはない年月の間に、まるでかつてのバラード・シンガー、ボビー・ダーリンやアンディ・ウィリアムスを思わせるような、まさにミドル・オブ・ザ・ロードという感じの爽やかなものに変わっていました。その声が、ティム・ラウアーの凝ったリズムによるアレンジに乗って、バカラックなどの往年の名曲を歌い上げるのですから、心を打たないわけがありません。カーペンターズとは全く異なるテイストのタイトなビートによる「Close To You」も素敵ですが、オリジナルとは微妙に異なるリズムに仕上がった「What the World Needs Now」も味わい深いものがあります。そして、「好きにならずにいられない」を聴けば、かつてそっくりだったプレスリーとは全く異なる次元で彼の歌が羽ばたいているのを知ることが出来るでしょう。
私のお気に入りは、バーンスタインの「ウェストサイド・ストーリー」の中のナンバー「Somewhere」。基本はダン・ペティのアコギだけの伴奏、たまにストリングスが薄く入って力まずに盛り上がるという、ハイセンスなアレンジが見事です。

4月29日

BRAHMS
Symphony No.2, Haydn Variations
Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.135


最近とみに円熟度を増したといわれているギーレン、このブラームスでも、懐の深いゆったりとした音楽を聴かせてくれています。第1楽章の第2主題など、とても細やかな情感が宿っていて、心が熱くなってしまいます。確かに、かつてのギーレンではこんな体験はあまり味わえなかったのでは。もちろん、それは老成して丸くなるのとは別のことです。現に、彼の持ち味である精密なリズム感は、ここでも健在です。例えば、第2楽章の終わり近くに現れる四分の四拍子と八分の十二拍子が同時に進行している部分(つまり、2拍子と3拍子が同時進行)での、その2対3のリズムの処理の見事さには、思わず舌を巻いてしまう程ですから。
ただ、第3楽章のちょっと重たいリズムの運びには、少し抵抗を感じてしまいます。正確なリズムではあるのですが、遊びが少ない分いかにも鈍重な印象を与えられてしまいます。もっとも、ギーレンのことですからこれは意識して「鈍くさいブラームス」を演出した結果なのかも知れませんが。
特に第4楽章などでの、「ここぞ」という場面でのティンパニの威力には驚かされます。殆どバランスを無視したかに見えるその大きな音は、確かにとてつもないアクセントとして、効果的に聞こえます。ただ、録音会場が異なるカップリングの「ハイドン・バリエーション」では、ティンパニはそんなに目立ってはいませんから、これは単なるホールの特性なのかもしれませんね。こちらの方でも、その卓越したリズム感は光っています。第5変奏のシンコペーションとヘミオレなど、見事としか言いようがありません。
ところで、オーケストラの楽譜の世界では、だいぶ前から「原典版」というものが注目されていました。水戸黄門ですね(それは「ご意見番」)。現在使われている楽譜が、必ずしも信頼の置けるものではないということで、自筆稿や初期の写譜、あるいは出版稿などを比較検討してより作曲家が書いたものに近い形の楽譜を作るというのが、「原典版」の思想です。それが、急にブレイクしてしまったのは、ご存じベートーヴェンの交響曲での「ベーレンライター版」です。原典版を作る作業というのは本来地味な仕事の積み重ねですから、それを成し遂げるにはかなりの時間がかかるものなのですが、この仕事を担当したジョナサン・デル・マーは、ほんの4、5年の間に全ての交響曲の原典版(元の形は大判のスコアと校訂報告)を作り上げてしまいました。さらに程なくして安価なポケットスコアまで全て出版されるに及んで、「ベーレンライター版」は殆ど一般名詞として世の音楽愛好家の間に浸透することになったのです。
ブラームスの場合は、ピアノ曲の原典版で有名なヘンレ社の手によって、個人全集の刊行が進行中です(実は、ベートーヴェンについても、ボンのベートーヴェン・アルヒーフとの共同作業で出版が計画されているのですが、交響曲は1番と2番が出ただけで、べーレンライターと、そしてブライトコプフに先を越されてしまいました)。現在までの刊行状況はこちらを見て頂ければ分かりますが、交響曲はまだ3番までしか出ていません。その3番にしてもポケットスコアが出るのはまだ先の話だとか。
2番が出たのが2001年ですから、今回のギーレンの演奏が録音された2005年には、使おうとすればこのヘンレ版を使うことは出来たのでしょうが、この、いつも使用楽譜の版をきちんと表記してくれているレーベルのブックレットには「ブライトコプフ版」とあります。どうやら、ブラームスの「ヘンレ版」が、ベートーヴェンの「ベーレンライター版」のような扱いを受けるには、まだまだ時間がかかりそうな気配です。

4月27日

Fantasista! MOZART
Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-1


昨年のゴールデンウィークのさなかに東京で開催された「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンLa Folle Journée au Japon(日本の熱狂の日)」という音楽祭は、3日間で30万人以上のお客さんが集まったという、まさに「クラシックにあるまじき」盛況でした。酸っぱいですが(ラッキョウの日?)。クラシックといえば、ごく一部のマニアしか聴いていない音楽と思われがちですが、料金を安くしたり親しみやすい仕掛けを施すなどして敷居を低くすれば、人は集まるものだということを、この音楽祭は見事に証明してくれました。昨年はベートーヴェンが中心となったプログラムでしたが、2回目となる今年のテーマ作曲家はモーツァルト、ただでさえ生誕250年で盛り上がっているのですから、今回も5月3日から6日までの開催期間中は、有楽町の東京国際フォーラムの周辺はお祭りのような「熱狂」のにぎわいを見せることでしょう。
そんな、「モーツァルト・イヤー」と、「熱狂の日」という2大イベントを見据えて、ここぞとばかりに多くのコンピレーションが発売されているのは、ご存じの通りです。しかし、それらのものはお決まりの「癒しのモーツァルト」といった路線、いかにもお手軽な企画のように見えてしまって、本当のモーツァルト・ファン、本当のクラシック・ファンは見向きもしないのではないかと思われてなりません。
そんな、殆どクズ同然のアイテムの中にあって、このBOXは一本芯の入った企画が光っていて、なかなか手応えがありそうな感触がありました。タワーレコードとNAXOSの共同企画による10枚組のCD(それで2500円!)、それは単にモーツァルトの作品を並べるというだけではなく、そのモーツァルトに影響を与えたり、あるいは影響を与えられたりしたという周辺の作曲家までも含めた、大きな視野に立ったものだったのです。これだったら、かなりうるさいクラシックファンにも受け入れられるのでは。
1枚目から5枚目まではモーツァルトの生涯に即して、幼少時代から晩年までをコンパクトに紹介するものになっています。器楽曲だけではなく、オペラや声楽曲をバランスよく配しているのも好ましいものです。もちろん、それぞれの曲は1曲もしくは1楽章まるまる収録されていて、フェードアウトなどはかかってはいませんよ。
6枚目から8枚目までは、モーツァルトを巡る「過去、現在、未来」の作曲家たちの作品です。彼の伝記には必ず登場するエピソードが、「初めて聴いた多声部の曲を、その場で楽譜に書いた」というものですが、その現物、アレグリの「ミゼレーレ」を収録するのは、「過去」には欠かせないことです。そして「現在」になると、あのサリエリの登場です。映画「アマデウス」で、あまりにも偏ったイメージが浸透してしまったこの才能溢れる作曲家の作品、いざ聴こうと思ってもなかなか探すのは大変ですが、それがこんなに手軽に楽しめるのもすごいことです。「未来」は、彼の曲を素材にした作品。その中でもリストが「レクイエム」をピアノ用に編曲したものがあったなんて、初めて知りましたよ。こうなると、もはやマニアの世界と言ってもいいでしょう。
9枚目と10枚目は、20世紀半ばの演奏家達による、有無を言わせぬ名演集です。NAXOSの誇るヒストリカル音源を駆使して、今の小振りになってしまった演奏家達からは決して得ることの出来ない、まさに「巨匠」の音楽が堪能できることでしょう。ランドフスカがモダンチェンバロで弾いた「トルコ行進曲」なんて、他の企画では絶対あり得ない選曲でしょうね。そう、ここには、構成と選曲を担当した山尾敦史さんのこだわりが隅々にまでに溢れていて、決して安直に流れることはないのです。

4月25日

In Love...
Peter Dijkstra/
The Gents
CHANNEL/CCS SA 23306(hybrid SACD)


オランダの男声アンサンブル「ジェンツ」の最新アルバムです。彼らは昨年の4月に初来日、各地でコンサートを行いましたが、今年の10月にも再来日が予定されているそうです。もはや、彼らのハーモニーはしっかり合唱ファンの心をつかんでしまったようですね。
その初来日のコンサートの模様が、先日テレビで放送されていました。前半は譜面台を腰のあたりに同じ高さで水平にセットして、その上に楽譜を置いて歌うというスタイルで演奏していました。そのステージでは、シューベルトやプーランクが演奏されていましたが、それは以前ご紹介したデュリュフレのアルバムで感じたのと同じ印象を与えられるものでした。音色は柔らかく、ハーモニーはこの上なく美しいのですが、何かを訴えようとする「力」が決定的に欠けているのです。
ところが、後半のステージで、譜面台を取り払って全員暗譜で歌うようになった時には、そんな事は全く感じられない生き生きとした音楽が伝わってきました。曲目はイギリス民謡を編曲した軽いものだったのですが、そこからは無条件にその美しいハーモニーに浸りきれるだけの魅力が、存分に伝わってきたのです。恐らく、このグループの資質は、このような場面で最も無理なく発揮されるのではないか、とその時感じたものでした。
今回のアルバムには、そんな、聴衆を沸かせるのに最も成功した曲が集められています。ある意味、これからの彼らの方向性を占うような内容になっているのかも知れません。その番組の中でも歌われていたイギリス民謡は、まさに超一流のエンタテインメントとしての完成された形を持っているものでした。中でも、「ロンドンデリーの歌(ダニー・ボーイ)」あたりは、指揮者のダイクストラが1コーラス目が終わるやいなや、やおらスーツの前ボタンをしめて後ろ(つまり、客席の方向)に向き直ってソロを歌い出す、というシーンが大受けでしたので、この場面を実際に体験しているファンにはこたえられない事でしょう。彼の柔らかなバリトンも、とことん魅力的です。
編曲者の顔ぶれを見てみると、ダリル・ランズウィック、ゴードン・ラングフォード、そしてボブ・チルコットと、かつて「キングズ・シンガーズ」にスコアを提供した面々が名前を連ねているのが目を引きます(チルコットなどは、元メンバー)。その「元ネタ」のいくつかは1986年に録音された日本制作盤のビートルズ・アルバム(ビクターエンタテインメントVICP-61267)で聴く事が出来ますが、彼らがこの6人組のイギリスのアンサンブルに敬意を払いつつ、さらなる高みに達しているのがよく分かります。

確かに、男声合唱とは言ってもカウンター・テナーを含む「ジェンツ」の編成は、キングズ・シンガーズをそのまま拡大したもの、恐らく目指しているところには多くの共通点がある事でしょう。実は、先ほどのコンサートでの譜面台の置き方で、まず彼らの事が連想されたのでした。そういう意味で、「ジェンツ」の将来の姿も自ずと浮かんでしまう、と思えるのも無理はないのでは。そのうちには、日本公演でのアンコール曲、八代亜紀の「舟歌」なども、アルバムに入れてくれる事でしょう。
ライナーを読んで気が付いたのですが、彼らは「プロ」の演奏家ではなく、他に仕事を持っている人たちが集まっているのだそうですね。ロースクールの学生とか、ホテルの支配人、中には教会の司祭のように、子細を明かせないような人まで。本当に歌う事が好きな人たちが醸し出すハーモニー、しかし、そこには自ずと限界も存在するのだという現実も、認識しないわけにはいきません。

4月21日

BEETHOVEN
Sinfonia No 9
Roberto Minczuk/
Coro da Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
Coral Paulistano
Orquestra Sinfónica do Estado de Sâo Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 212


この前聴いた時にとてもハッピーな気分にさせてくれたサン・パウロ交響楽団の、今回は「第9」です。指揮者があの時とは別の人、ミンチュクと読むのでしょうか、なんでも「ジョビン・シンフォニコ」という彼のファースト・アルバムで2004年のグラミー賞のラテン部門を受賞したそうです。ボサノバの父、ジョビンの曲をシンフォニックに演奏したものなのでしょう。ガラス製の(それは「シビン」)。「ラテン」にかけては、筋金入りのセンスを持っているのだ、と見ました。
しかし、意外なことに、楽譜に関しては割と無頓着だと思われていたこのオーケストラが、今回はしっかり「ベーレンライター版」を使って演奏していましたよ。これは、この指揮者の意向なのでしょうか。ただ、よくある使い方なのですが、全ての部分できちんとこの楽譜に従うのではなく、あまりにも違和感がありそうなところは従来の楽譜で演奏するという、折衷的なことをやっています。具体的には、第4楽章のマーチのあとのオーケストラの部分が終わって合唱が入る前のホルンのリズムと、最後にカルテットが入る時の歌詞です。ですから、彼がこの楽譜を使ったのは、ひとえに第1楽章の真ん中よりちょっと後、この楽章の最大の盛り上がりを導くトランペットのリズムで、従来よりも音符の数が増えて派手になっているのが気に入ったからなのでは、などと考えたくもなってしまいます。実際、この部分は、他の演奏で何度も聴いていたはずなのに、つい油断してびっくりさせられたぐらい、そのビートには熱いものがこもっていました。それは、ここぞとばかりに吹き込んだトランペット奏者の「血」のなせる技だったのでしょうか。
ですから、指揮者が変わったからといって、オーケストラのノリはこの前のアルバムと何ら変わるところはありません。全てのフレーズが、生き生きとしたラテンの感覚で磨かれて輝いているさまを、ここでも大いに堪能することが出来ます。中でも特筆すべきはティンパニ。かなり柔らかめのマレットを使っているのでしょうか、全体を包み込むようなその巨大な音は、まさにラテンパーカッションのようなエネルギーあふれるものです。これがフィーチャーされた第2楽章は、この世のものとも思えないほどのにぎやかさを醸し出しています。
そして、声楽陣が参加した第4楽章では、また新たな魅力が加わっています。そもそも、低弦によるレシタティーヴォが、深刻さなど微塵も感じられない脳天気な歌い方で始まった時から、この楽章がお祭り騒ぎの様相を呈することは予想できていたのです。その同じ旋律を歌うバス歌手の、なんという色っぽさ、殆ど「もっと楽しい歌を歌おうぜ、イェーイ」といった趣です。続く合唱も元気いっぱい、一人一人の声も大きそうですし、それがまとまった時の迫力もすごいものです。特に、男声の力強さには圧倒されてしまいます。二重フーガでの高音Aで始まるテーマをこれほど迷いなく歌える合唱団など、なかなかありません。
実は、これはライブ録音、終わりに近づくにつれてオーケストラも合唱もギンギンに燃え上がり、白熱の演奏が繰り広げられます。お客さんも、さぞ盛り上がっていたことでしょう。しかし「ジャジャジャジャ、ジャン」と全曲が終わった瞬間、耳を疑うようなことが起こりました。Dのユニゾンの「オーケストラ・ヒット」のあと、なんと、そこには2秒ほどの静寂があったのです。そして、そのあとに起こった割れんばかりの拍手、その中には「ピーピー」という指笛まで混じっていましたよ。きちんと「静寂」を受け止めた上でのこの大騒ぎ、ラテンは深いです。

4月19日

MOZART
Die Zauberflöte
D.Röschmann, E.Miklósa(Sop)
C.Strehl(Ten), H.Müller-Brachmann(Bar)
Claudio Abbado/
Arnold Schönberg Chor, Mahler Chamber Orchestra
DG/00289 477 5789
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1298/9(国内盤 5月24日発売予定)

ごく最近までNHKからかたくなに「アッバード」と殴られ続けていた(それは「アッパーカット」)「アバド」の「魔笛」です。モーツァルトの他のオペラはさんざん上演してきたアバドですが、なぜか「魔笛」に関しては慎重な態度をとり続けていて、何と、これが彼の最初の録音だということです。待たされた甲斐があったと言うべきなのでしょうか。
一部で「セッション録音」などという情報が流れていましたが、これはモデナのテアトロ・コムナーレに於ける、息子ダニエレ・アバドの演出によるプロダクションのライブ録音です。滑稽なセリフを受けて観客が笑い声を立てる生々しい情景がそのまま収録されていますし、なによりも一番最後には盛大なブラヴォーと拍手が入っているのですから、まちがいはありません。ただ、頻繁に音のバランスやまわりの雰囲気が変わるのがよく分かりますから、リハーサルなどのテイクも合わせて、かなり大胆に(と言うか、無神経に)編集しているのでしょう。
こんなやり方、今ではオペラのCDを作る時の手順としてすっかり定着してしまった感があります。もはやきちんとセッションを組んで精度の高い演奏を提供するというのはコスト的に不可能になってしまっているのは分かりますが、この、せっかくのアバドの「魔笛」の初物ぐらいは、せめてもう少していねいな作り方が出来なかったのか、という気がしてなりません。というのも、この演奏を少し聴いただけで、アバドがこの曲に寄せる思いには、とてつもなく深いものがあることを感じずにはいられないからなのです。これはまさに、オリジナル楽器の演奏家達のアプローチも視野に入れて、今まで彼が暖めていたアイディアが全てこの中に盛り込まれたのではないかと思える程のプロダクションなのですが、いかんせん、ライブ特有の歯がゆいまでの不完全さが、とてももどかしく感じられてしまうのです。「本当はこうやりたいのだろうな」と考えながら聴き続けるのは、かなり辛いものがありました。
具体的には、ソリスト達とアバドとのグルーヴの違いです。指揮者の求めているものは余計なものは極力そぎ落としたスマートなテンポ感。しかし、タミーノ役のシュトレールあたりは、それとは全く無関係なノリで全体をぶちこわしているのです。これなどは、セッションできちんとリハーサルをして注意深く録音を行えば、もう少し寄り添ったものが出来上がっていたことでしょう。
ですから、そんな中で指揮者の思いを完璧に受け止めたレシュマンの存在によって、この録音はあたかもパミーナが主役であるかのような、当初求めたものとは微妙に異なる形での完成度を見せつけることになりました。彼女は音楽的な面だけではなく、セリフだけで展開される「芝居」の部分でも、驚くべき存在感を主張しています。同様な存在感は、パパゲーノ役のミューラー・ブラッハマンにも見られます。全てのキャストがこの2人程の成熟度を見せていたら、このアバドの「魔笛」はとてつもない世界観を私達に届けてくれたことでしょう。
その一例として垣間見られるのが、この2人によるデュエット(第1幕フィナーレ直前の「第7番」/CD1Track12)のイントロで、クラリネットとホルンによるアコードをまるまる1小節分カットしたという「勇気」です。そもそもこのアコードは自筆稿には書かれてはいなかったもので、その扱いに関してはさまざまな説が主張されていましたが、これも一つの解決策、もちろん、それを実際の演奏で用いたのは、私の知る限りこのアバドのものが最初のはずです。

4月17日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.6, Serenade for Strings
Daniele Gatti/
Royal Philharmonic Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 907394


「悲愴」と「弦楽セレナーデ」という、贅沢なカップリングです。ガッティならではの贅肉のないチャイコフスキー、存分に楽しむことにしましょう。最近はなかなか口に出来ませんが(それは「鯨肉」)。
「悲愴」の冒頭、不気味な低弦が左奥から聞こえてきた時、このオーケストラの配置を思い出しました。最近ロンドン交響楽団のライブに行った時も、やはり同じようなチェロとコントラバスがステージ下手に位置する「両翼」配置を体験したばかり、ロンドンではこの並び方が一般的になっているのでしょうか。ですから、この暗い序奏から、次の提示部の最初あたり、ヴァイオリンはお休みでもっぱらヴィオラが主導権を握っている部分では、ステージの奥だけで演奏が行われていることになります。そこから次第に前の方のヴァイオリンが加わり、段々音が客席に近づいて来るというのは、まさに映画のクローズアップの手法ではありませんか。チャイコフスキーの時代にはこういう配置しかなかったのでしょうから、もしかしたら彼はそこまで計算してオーケストレーションを考えたのでは、などと想像してしまうほど、スペクタクルな音場が、この配置のロイヤル・フィルから聴き取ることが出来ましたよ。
そうこうしているうちに、音楽の方は、甘く美しい第2主題が始まります。しかし、ここはガッティの持ち味であるさっぱりした歌い口が最大限に発揮されることになります。ベタベタと甘すぎることは決してない、楽譜の指示を忠実に守っていれば、その音からは自然にエモーションがわき出てくるはず、という姿勢が、非常に心地よく感じられます。その上で、演奏者個人の感情は大事にしようというスタンスは、この前の「4番」と同じことです。提示部の最後のp3つで始まるクラリネットのソロが、そんな場面、この楽章で唯一見られる「甘さ」でしょうか。それに続くp6つという有名な指示も、バスクラリネットの殆ど「気配」に等しい超弱音が、見事な緊張感を産んでいます。
ですから、それに続く展開部のサプライズも素晴らしい効果を上げるとともに、ここでのガッティのギアチェンジの鮮やかさにも舌を巻くことになるのです。それまでの少し気取った態度から一転して、尋常ではない早さでオーケストラを煽りまくる指揮者。こういうところに、私達は新鮮な感情の高ぶりをおぼえるのでしょう。そのあたりのさじ加減の絶妙さが、ガッティの最大の魅力です。
第2楽章の5拍子のワルツのあっさり感、第3楽章のマーチの冷静な高揚感も素敵です。フィナーレでは、やはり両翼配置が最大の効果を上げる場面が最初に訪れます。
弦楽セレナーデでも、甘ったるさを期待する人は肩すかしを食らうに違いない、引き締まった世界が展開されています。第1楽章序奏のコラールからして、その粘着性など微塵もないかなり早めのテンポからは、今まで聞いたことのないような、まるでオルガンのように和音の変わり目がはっきりした音楽を感じることが出来るはずです。第2楽章のワルツも、その素っ気なさから聞こえてくるのは、幾通りにも変化するテーマと、そのまわりの旋律が織りなす、まるで一編のドラマです。第3楽章のエレジーも、「臭さ」を排除することによって安っぽいムード・ミュージックとは無縁のしっかりとした構成を持つに至りました。そしてフィナーレ、1楽章のコラールに又戻ることが必然として感じられる、計算し尽くされた歩みが、そこにはあります。

4月15日

RUTTER
The Choral Collection
John Rutter/
The Cambridge Singers
The City of London Sinfonia
UCJ/476 3068


昨年はイギリスの作曲家ジョン・ラッターが60歳の誕生日を迎えたという事で、イギリスではラジオの番組が作られたり音楽雑誌で特集を組まれたりと、何かと注目を集めていたようです。日本では合唱関係者の間でこそ知られてはいますが、一般的な知名度はそんなにあるとは思えないラッター、さすが本国ではかなりの人気を誇っているようですね。その雑誌でも紹介されていたこのアルバムもそんな「還暦記念」のアイテムだったのでしょう、もちろんイギリスでは昨年の内にリリースされていましたが、日本ではやっとこの頃店頭に出回るようになりました。
UCJ」と言うのはちょっと見慣れないレーベルです。どこかの銀行が出資して立ち上げたものなのでしょうか(それは「UFJ」)。そうではなく、これは「Universal Classics & Jazz」の略語、今までもUNIVERSALの中のクラシックやジャズのレーベルを総称してその様な言い方をしていたのですが、それをレーベル名に「格上げ」したという事なのでしょうか。いずれにしても、今まではCOLLEGIUMというマイナー・レーベルでしか入手できなかったラッターの自作自演が、このようなメジャーなところからリリースされるのは、ちょっとした事件ではないでしょうか。まさに「メジャー・デビュー」といったところでしょうか。先ほどの雑誌でも「ラッターの音楽が、UNIVERSALから発売」と、大いに期待を持たせる書き方をしていましたし。もちろん、これはシャルロット・チャーチやキャサリン・ジェンキンスが彼のナンバーを取り上げてヒットを放った、というのとは全く別の次元の出来事です。
と、このアルバムのことを知った時は思いました。そして、実際に現物を手にして、今まで録音されていた曲だけではなく、「世界初録音」のものまであると知って、「やった」と思った程です。ところが、封を切って中のブックレットを開けてみた途端、その様な喜びは失望へと変わりました。ここに収録されているものは、「世界初録音」という「The Gift of Music」を除いて、すべて今までCOLLEGIUMから出ていた音源を集めただけのもの、つまり、これは単なるコンピレーション・アルバムだったのです。言ってみれば、BRILLIANTMEMBRANのようなもの、ただ、あちらはライセンス先のレーベルがジャケットにきちんと表示されていますが、この場合はジャケットを見ただけではCOLLEGIUMの音源が使われている事は全く分かりません。
これは、私の勘違いだったのでしょうか。いいえ、例えばこちらの通販サイトに掲載されているインフォメーション(ほぼ同じものが他の場所でも見られますから、これは輸入業者が書いたものなのでしょう)には、しっかり「今回は、ユニバーサルUKへのレコーディングです」と明記されていますよ。それだけではなく、販売店の店頭でも「新録音」というコメントが、堂々と製品の前に掲げられているのです。これを読めば、誰でも、今回のアルバムは今までのCOLLEGIUMのものとは別に、新たにUNIVERSALのために録音を行ったものだ、と思うはずではないでしょうか。もちろん、そうではない事はブックレットを読めば分かる事なのですから、これは輸入業者の単なる事実誤認(しかし、扱っている商品に対する知識の欠如がこれほどのものとは、驚くほかはありません)なのですが、結果的には殆ど「詐欺」といっても差し支えない程の社会的な過ちを犯した事にはなりませんか?
それは、日本サイドの問題、しかし、ジャケットにコンピレーションとだけ書いてコレギウムのコの字も(もちろん、英語で、ですが)入れなかったUKUCJの姿勢も、決して公正なものとは言えません。このアルバムのために「特別に(ラッター)」作ったとされる新曲にしても、権利はUNIVERSALではなくCOLLEGIUMに属しているのですから。今までの仕事をUNIVERSALという大舞台で披露できる喜びを無邪気に綴ったラッター自身によるライナーノーツの精神を生かすことが出来なかったこのメジャー・レーベルへの信頼は、地に落ちました。「おお、わりい、わりいO Waly Waly=Track16」と謝って済むものではありません。

4月12日

KODÁLY
Choral Works for Male Voices
Tamás Lakner/
Béla Bartók Male Choir-Pécs
HUNGAROTON/HCD 32322


ハンガリーの南部にペーチュという古都があります。ワインの産地としても知られるこの街は、毎年9月の末に「European Convivial Wine Song Festival」という音楽祭が開催されている事でも知られています。このタイトル、日本語にすると「欧州宴会葡萄酒歌謡音楽祭」とでもなるのでしょうか、「Convivial」と言う単語が入っている事によって、いかにも「飲めや歌え」といった楽しさが伝わってくる、素敵なネーミングですね。1993年に始まった音楽祭で、今年が11回目だとか、毎年やっているにしては数が合わないのは、5年に1度くらいのスパンで「欧州〜」ではなく「世界〜」となって拡大開催されるためです。2010年には第4回となる「World Convivial Wine Song Festival」が予定されているといいます。
その音楽祭でホスト役を務め、その「宴会」を盛り上げることに大きな貢献をしているのが、この「ベーラ・バルトーク男声合唱団」であることを知れば、ここで歌われているゾルタン・コダーイの曲で見せつけた豪放なまでのおおらかさも納得できるのではないでしょうか。
その音楽祭の音楽監督も務めているラクナーに率いられたこの合唱団が届けてくれたアルバムには、コダーイが作った男声合唱のための作品が殆ど網羅された20曲が収められています。最初の曲は、オーケストラによる変奏曲でも知られる「孔雀」です。その 馴染みのあるオーケストラ版では平板に記譜されたテーマのリズムが、ここではハンガリー民謡特有の付点音符によって歌われる事で、より「民族的」なテイストを体験する事になります。ハンガリーの他の作曲家、バルトークやあるいはリゲティでさえ自らのルーツであるといわんばかりに作品の中に散りばめたこのリズム、それがテキストであるハンガリー語に由来している事がここではっきり理解される事でしょう。もちろん、これは、かつて清水脩などによって日本語の歌詞がつけられ、全国の男声合唱団で日常的に歌われていたものとは全く別物であるというある種の感慨にもつながっていくはずです。
そんな、「ハンガリーの合唱なら、俺たちにまかせておけ」と言わんばかりの50人程のたっぷりとした編成によるこの合唱団は、トップテナーの力強い声によって、私達に驚く程の迫力を与えてくれています。ただ、このような元気いっぱいの男声合唱というのは、恐らく今となってはかなり懐かしいものであるには違いありません。最近の合唱の現場では、このようなある種泥臭いサウンドは、もっと洗練された肌触りの良いものに置き換わっているのでは、という感覚は、そんなに的外れではないのではないでしょうか。従って、いかに民族色の強いコダーイの音楽ではあっても、もう少し繊細な響きと表現があってもいいのでは、という思いがついて回ったのは事実です。それは、「夕べの歌」のような場合に、特に感じられる事、とりあえず三和音をきちんとハモらせることから音楽を作っていって欲しいと言うのが、偽らざる望みです。「カラドの歌」のように、様々な情景が次々に現れる曲でも、つい力で押しまくって一本調子になってしまっているのが惜しまれます。
これは、ワイン・ソング・フェスティバルを盛り上げる事には定評のある合唱団による、コダーイの演奏の一つの側面であると思いたいものです。それはそれでいいのですが、もっと別な面からのアプローチによるコダーイも、聞いてみたいものだと、切に感じてしまいました。そう、誇大にならない等身大のコダーイとか。

おとといのおやぢに会える、か。


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