控える、ハイドン。.... 佐久間學

(06/10/10-06/10/31)

Blog Version


10月31日

MENDELSSOHN
Heimkehr aus der Fremde
Juriane Banse(Sop), Iris Vermillion(Alt)
Carsten Süß(Ten), Christian Gerhaher(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 98.487


この前ご紹介した「ボストンからの叔父」に続いての、リリンクによるメンデルスゾーンの珍しいオペラのCDです。今回は作曲家が20歳の時の作品、前作で見られた「習作」の気配は、もはやすっかり姿を消して、メンデルスゾーン独自の語法が満ちあふれたものになっています。
「オペラ」とは言ったものの、彼が付けたカテゴリーは「Liederspiel」、つまり「歌」による芝居という形をとっています。そもそもは両親の銀婚式を祝うために自宅(!)で演奏されたものですから、「オペラ」ほど劇場的な要素は強くなく、「アリア」というほどのものではない「歌」を、セリフによってつなぐという形になっています。この録音も、コンサートホールでの演奏です。物語の内容も他愛のないもの、タイトルを訳せば「異国からの帰郷」となるのでしょうが、なぜかブックレットにある「英訳」では「息子と見知らぬ人」となっています。これは、内容まで踏み込んだ意訳となるのでしょう。軍隊に行ってなかなか帰ってこない村長の「息子」が、久しぶりに「異国」から「帰郷」したら、「見知らぬ人」が息子のフリをして村長の養女に近づいていた、というお話なのですから。セリフが入っても、1時間足らずで終わってしまうというのですから、退屈して眠くなってしまうこともないでしょう。
序曲で柔らかいヴァイオリンの音が聞こえてきたときには、正直ホッとした思いでした。少し編成の大きいオーケストラ(それでも10型)ということでリリンクが起用したのが、手兵バッハ・コレギウムではなくシュトゥットガルト放送交響楽団でしたから、音楽監督の下での「ノンビブラート」奏法を強いられているクセが出ていたらどうしようと思ったのですが、それは杞憂だったようです。いくらなんでもリリンクにはあの尖った音は似合いませんからね。ここで聴けるような自然なたたずまいの方が、やはりメンデルスゾーンにはふさわしいのではないか、そんな思いに駆られるリリンクのきめ細かい表情が素敵です。
それからの進行は、ソリストによる「歌」の間にセリフが入って経過していきます。歌詞の対訳はブックレットにあるのですが、なぜかセリフのテキストは全てカットされているので、これは不親切、ドイツ語に馴染みのある人以外には、細かい物語は分からないことでしょう。しかし、それぞれの配役のキャラクターがよく現れた「歌」は、どれも素敵なものばかりですから、それらを楽しむだけでも十分な喜びは得られるはずですよ。中でも、みんなを騙す行商人のカウツに付けられた音楽は、いかにもメンデルスゾーンらしい軽やかなものですから、すぐ好きになれるのでは。これを歌っているゲルハーエルが、見事にその味わいを出しています。本物の息子、ヘルマンが甘いセレナーデを歌っているのを邪魔するというシーンも、笑いを誘います。ただ、そのヘルマン役のジュースが、名前ほどの甘さ(「ジュース」だから甘いのではなく、ドイツ語のsüßですから、念のため)を持たない、ちょっと固い声なのが惜しまれます。
バンゼが歌っている、養女リズベートの「歌」も、民謡調のシンプルなメロディーが素敵です。オブリガートのチェロとともに、こちらは本物の「甘さ」を披露してくれています。
最後になって、合唱が登場します。村の人々がお祝いの気持ちを表しているものですが、これが有名な「おおひばり」とよく似たテイストの、とても爽やかな曲です。これも演奏ともども、文句なしに楽しめます。また一つ、聴いて楽しめるレパートリーが増えた思い、リリンクの仕事は常に私たちを安らかにしてくれます。まさに渇きを癒すものなのかも(それは「ドリンク」)。

10月28日

MOZART
Requiem
Anna Korondi(Sop), Gerhild Romberger(MS)
Jörg Dürmüller(Ten), Jochen Kupfer(Bas)
Enoch zu Guttenberg/
Chorgemeinschaft Neubeuern
Orchester der KlangVerwaltung
FARAO/S 108048(hybrid SACD)


以前ご紹介したマタイ受難曲での数々の仕掛けを施した演奏には圧倒されたものですが、そのグッテンベルクが今回はモーツァルトのレクイエムに挑戦です。まずライナーを読んでみると、この録音にあたってのグッテンベルクの考えが述べられています。「レクイエムには、なんの喜びも存在していない」とか「単に誰かの美的な望みを満足させるためだけなら、この作品を演奏するのは断固拒否する」といったような勇ましい言葉があちこちに見かけられますから、彼は特別な決意を持ってこの演奏に臨んでいることがうかがえます。もしかしたら、昨今流行の「美しいだけ」のモーツァルトに対する強烈なアンチテーゼが、ここには示されているのかもしれません。
そして、「Introitus」冒頭の、弦楽器の刻みによって、その決意はただごとではないことが明らかになりました。低音と高音の弦楽器が互い違いに打ち込む八分音符の音の長さが、尋常でないほど短いのです。確かに楽譜にはスタッカートの中でも最も短い音を求めるときに使う「くさび形スタッカート」が使われていますから、このような演奏は間違いではありません。ただ、大概の演奏はここではある程度の重みをその音符に持たせて、まるで足を引きずるような歩みを表現しているものですが、これでは、まるでカスタネットを叩きながらのスキップのような軽い足取りに聞こえてしまいます。そこからは悲しみを導き出す緊張感よりは、滑稽さすら喚起するほどの軽さが生まれてしまっているのですから、これはグッテンベルクの誤算なのでしょうか。思っていたほどの効果が、実際には音にならなかったと。あるいは、もしかしたらこれは冗談なのかも知れないという、不謹慎な思いさえ、脳裏をよぎります。
こんな、何か指揮者の独りよがりのような表現が、次から次へと出てくるので、聴く方としてはその指揮者の演奏に共感して悲しみの淵に沈むというようなことがかなり困難になってきます。「Kyrie」のフーガにしても、出だしのバスパートはとことん深刻な表情を出しているというのに、それに続く他のパートが全く平板な顔で歌い出すのですから、指揮者の目指しているものがなにも見えなくなってしまうのです。
それでも、「Dies irae」までほとんど隙間を空けずに連続して演奏するということから生まれる緊張感には、かなりのものがあります。そして、ここでの「音環境保護」オーケストラの雄弁なこと。まさに「怒りの日」というタイトルにふさわしい、本当に「怒って」いるような、というか、あまりにあからさまな感情の表出には、ちょっとびっくりしてしまうほどです。ほんと、こんなに激しく「怒られて」いたのでは、音楽を聴いて「喜び」などは味わえないのかも知れません。
そんな、過激な表現は「Lacrimosa」にも見られます。その、恐ろしく速いテンポの、まるで突き放すような態度からは、確かに冷たい感情はうかがい知ることは出来るかも知れません。しかし、それに共感して「悲しみ」を分かち合おうという気には全くなれないという、それは聴くものを置き去りにした冷たさでした。
最後に「Communio」で1曲目が再現されるとき、もはやあの印象的な弦楽器のスタッカートは消えていました。それに気づいて1曲目を聴き直してみると、この部分ではいつの間にか普通の長さの八分音符で演奏されていたのですね。楽譜では、「simile」という表記があるので、それ以降はスタッカートが付いていなくても「同じように」演奏するという指示なのですが、そのあたりになれば同じ音型が戻ってきてももうその指示は無視しても構わないという解釈だったのでしょうか。
いくら指揮者の思いが強くても、それを聴き手に納得させるためには、最低限の辻褄を合わせるだけの労を惜しんではいけません。そうでないとその場限りのただのスタンドプレイになってしまい、あのアーノンクールと何ら変わるところはなくなってしまいますよ。

11月26日

SHCHEDRIN
The Sealed Angel
Gergely Bodoky(Fl)
Stefan Parkman/
Rundfunkchor Berlin
COVIELLO/COV 60504(hybrid SACD)


120曲以上という数多くの作品を世に送り出しているシチェドリン、その中にはもちろん、いくつかの合唱曲も含まれています。しかし、それらに関してはほとんど一般には知られてはいないのではないでしょうか。中でも、ここでご紹介する「封印された天使」という宗教曲などは、この分野での彼の唯一の作品のはずです。この曲は、1988年のロシアのキリスト教化1000年祭のために作られたものです。小さい頃から宗教的な環境にあったシチェドリンは、当時の体制下ではすっかりすたれてしまっていたロシア正教の伝統的な聖歌を作りたいとずっと思っていたといいます。この曲が作られたのは、そんな制約も薄らいできたかに思える「ペレストロイカ」の時代、しかし、そうは言ってもおおっぴらに「ロシアの礼拝曲」というようなタイトルを付けることには危険が伴ったため、このような1873年に出版されたロシアの作家ニコライ・レスコフの著書のタイトルを付けたと言われています。実際、この曲のテキストには、その小説の物語とは直接の関係はない聖歌の部分が取られています。その結果出来上がった、無伴奏の混声合唱とソリスト(少年も含まれます)に、フルート独奏という編成のこの作品は、作曲者が意図したように、まさに「ロシアの礼拝曲」と言うべき、深い祈りのこもった宗教音楽となりました。
曲は、フルートの独奏で始まります。それが、モダンフルートではない、もっと民族的な楽器を想定して作られたパートであることは、その素朴なメロディーからも分かります。その、極めてシンプルなアルペジオに導かれて聞こえてくるのは、まさに革命の起こるほんの少し前に作られたラフマニノフの礼拝音楽、「聖ヨハン・クリソストム」や「徹夜祷」と同じテイストを持つ音楽でした。ほのかに立ち上る女声による澄みきったハーモニーを味わうだけで、一つまた、心の支えになる曲と出会えたという気持ちになれたほどです。終わり近く、合唱のピチカートに導かれて歌われる少年による素朴なメロディの、なんと美しいことでしょう。
もちろん、シチェドリンのことですから、ただ心地よい雰囲気が続くだけのはずはありません。フルートと共に下降のグリッサンドを歌う合唱からは、ほとんどため息のような胸を締め付けられる情感が呼び起こされることでしょう。そして、いきなり聞こえてくる「センツァ・ピッチ」のシュプレッヒ・ゲザンク。全く脈絡のないそのパッセージは、彼なりのユーモアの表出だったのでしょうか。
全部で9つの部分に分けられた、1時間ほどの大作、真ん中にはフルートソロによるモノローグが置かれていますが、それを挟んでシンメトリカルな構造を持っているこの曲は、確かに「礼拝」の志を秘めたものでした。幾度となく繰り返されるフルートのモチーフは、その礼拝のアクセントとなる鐘の音のように聞こえます。
このアルバムは、おそらくこの曲の録音としては3枚目のものとなるのでしょう。今まで出ていたものは、1988年6月にモスクワで初演された時と同じメンバー、ヴラディミール・ミニンの指揮による国立アカデミー合唱団などによって録音されたMELODIYA盤と、1990年5月のアメリカ初演のメンバーによる、ローラ・クック・デヴァロン指揮のSONORA盤の2種類です。このボストンの演奏家によるアメリカ初演については、モスクワでの初演の少し前にボストンを訪れた作曲家が、その時たまたま聴いた自作「プガチェフの処刑」とラフマニノフの「聖ヨハン・クリソストム」の演奏にいたく感動、あまりの素晴らしさに、初演が終わるやいなやその演奏家にこの曲の自筆稿を送って、ぜひアメリカでも演奏してくれるように頼んだという経緯があるそうです。
いずれの録音も、あいにく聴いたことはありません。しかし、今回のパークマン指揮のベルリン放送合唱団による新録音、おそらくミニン盤などに比べればはるかに洗練された肌合いを持つものであることは容易に想像できます。ラフマニノフでも見られた、ロシア人とヨーロッパ人とのアプローチの違いを、シチェドリンの音楽も体験することにより、この曲もさらに多くの人に聞かれ、その魅力を知らしめていくことでしょう。それは、とても素晴らしいことです。ハイにもなれますし(それは「アドレナリン」)。

11月24日

Dancing Bach
Stockholm Baroque Orchestra
PROPRIUS/PRSACD 2036(hybrid SACD)


このタイトルだと、良くある「ロックとバッハのコラボ」みたいなアルバムではないかと思ってしまいますね。しかし、実際に手にして聴いてみると、その様なポップス寄りの編曲ものではなく、きちんとオリジナル楽器を使ってまともに演奏しているものだったので、一安心です。ここで言う「Dance」とは、今風のヒップ・ホップやクラブシーンで使われている「ダンスミュージック」とは縁もゆかりもない「舞曲」のことだったのです。
バッハの時代には、様々な舞曲を集めて「組曲」とか「パルティータ」という作品が作られました。舞曲というのは、元々は実際に踊るための音楽ですから(そういう意味では「ダンスミュージック」と言えなくもありません)、その精神を演奏に生かして、あたかもバッハの時代にジャム・セッションが行われたような感じを出してみたいと、このようなアルバムを作ったスウェーデンの音楽家達は考えたのだということです。何たって、スウェーデンは家具の国ですから(それは「洋服ダンス」)。
構成としては、最初と最後に組曲(序曲)の2番(BWV 1067)と1番(BWV 1066)を置いて、そこで全部のメンバーのセッションを味わってもらい、その間にソロやデュエットで、個人のプレイも楽しんで頂こう、ということなのでしょう。確かに、普通のバロック・アンサンブルとはひと味違った、堅苦しくない生き生きとした音楽が、ここからは伝わってきます。
そもそも、彼らは「オーセンティック」なものを求めているわけではなく、重要なのはあくまで個人の解釈、ですから、最初の有名な組曲第2番では、ちょっと不思議な響きに驚かされます。その正体は、通奏低音にチェンバロの他にテオルボを加えていることでした。この大型のリュートは、まるでギターでカットしているような、強烈なリズム感を全体のアンサンブルに与えています。そこへもってきて、当時の「不均一」なリズムを存分に取り込んで、ほとんど「スウィング」に近いグルーヴを見せているものですから、確かに「踊れる」音楽に仕上がっています。その結果、バッハの典雅さはやや薄れていますが、みずみずしさからいったら文句のないものが出来上がりました。
続くソロのコーナーでは、今度はプレイヤーの個性が良く表れているのが楽しめます。コンサート・マスターを務めているマリア・リンダルは、あくまでまじめにバッハを追求しているように見えます。先ほどの組曲のような弾けたところはあまりありませんが、しかし、もちろん退屈になってしまうようなことは決してないスリリングさは持ち合わせているバッハです。
しかし、その組曲で煌めくばかりのインタープレイを披露してくれたフルートのマッツ・クリングフォルスは、なんとここでファゴットに持ち替えて「無伴奏チェロ組曲」を演奏していますよ。オリジナル楽器ですから、音程はちょっと不安定(そういえば、フルートもかなりの「音痴」でした)、そこにスウィングが入りますから、まるでこの楽器がテナーサックスのように聞こえてしまいます。
ミカエラ・マリンというヴィオラ奏者が、ここでは「ヴィオリーノ・グランデ」という楽器を演奏しています。同じような名前で「ヴィオリーノ・ピッコロ」というのがありますが、これはバッハの時代にもあったオリジナル楽器です。しかし、この「グランデ」は、なんと現代に作られた新しい楽器なのですよ。スウェーデンの技術者であるハンス・オロフ・ハンソンという人が仕事の合間に作り上げた、ヴァイオリンとヴィオラの合いの子のような楽器が、「ヴィオリーノ・グランデ」なのです。

ご覧のように弦は5本、C-G-D-A-Eと、下はヴィオラ、上はヴァイオリンの調弦になっています。1968年に発表され、あのペンデレツキあたりがこの楽器のための協奏曲を作ったりしていましたが、今となってはスウェーデン国内でしか演奏している人はいないのではないでしょうか。ペンデレツキの協奏曲も、結局はチェロのために書き直されてしまいましたし。ここでのマリンの演奏、移弦の多い早い曲ではなかなかの効果を見せていますが、ゆっくりとしたサラバンドではちょっと音程に問題があるのは、楽器のせいなのか、演奏者のせいなのか。
実は、このアルバムの最後の組曲のあとに、マリンのヴィオラとクリングフォルスのファゴットで「インヴェンション」が演奏されています。それはまさにジャズヴァイオリンとサックスのセッションのように聞こえます。

10月21日

The Gershwin's Porgy & Bess
Alvy Powell(Bar)
Marquita Lister(Sop)
John Mauceri/
Nashville Symphony Orchestra & Chorus
DECCA/475 7877
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1174/5(国内盤 1025日発売予定)

アルバムタイトルが「ガーシュインの『ポーギーとベス』」となっているのにご注目下さい。もちろん、この有名な「オペラ」は、ジョージ・ガーシュインが作ったものであるぐらい、誰でも知っていることです。それなのに、あえて「ガーシュインの」と謳ったところから、「今までのものとは違うぞ」ということをどうしてもアピールしたかった気持ちを汲んでやりたくなるじゃないですか。そう、これはまさに、今まであった「ポーギーとベス」とはひと味違ったものなのです。「ウニ味」は勘弁してほしいですが(それは「ポッキー」)。
この「オペラ」が、ニューヨーク、ブロードウェイのアルヴィン劇場で初演されたのは193510月半ばのことでした。その時には、もちろんオーケストレーションの終わったフルスコアは完成しており、ヴォーカル・スコアは出版までされていました。ブロードウェイのヒットメーカーであるガーシュインのことですから、このような早手回しの「露出」は、きちんとビジネスとして成り立っていたのでしょう。ところが、ニューヨークでの初演の前の試演がその少し前、9月30日にボストンで行われた時に、この作品の上演には演奏だけで3時間、2回の休憩を含めると3時間半もかかってしまうことが分かってしまいました。すでに、ブロードウェイの通例である8時半開演で1ヶ月の公演が予定されていましたから、これでは郊外から見に来るお客さんは終電に間に合わなくなってしまいます。そこで、ガーシュインたちは、出来上がっていたスコアにカットを施すことにしました。さらに、リハーサル中に気が付いた部分などを修正して、オーケストレーションにも手を入れられ(例えば、第2幕第1場のピクニックへ向かうシーンで、ステージ上にバンダの「チャールストン・バンド」を挿入)、オリジナルより35分ほど短くなったバージョンが出来上がりました。もちろん、これらの修正点は、指揮者や出演者の楽譜にその場で書き込まれ、その形でブロードウェイでの初演を迎えたわけです。
その後、このバージョンは作曲者の死の翌年、1938年の国内ツアーでも用いられたのですが、その後は忘れ去られてしまい、出版された楽譜そのままの形で演奏されるようになるのです。もちろん、この曲の最初の「オペラ」としての録音であるマゼール盤(1975/DECCA)や、後のラトル盤(1988/EMI)でも、この出版譜によるロングバージョンが使われており、CDでは3枚組になってしまっています。
今回のCDは2枚組、70年ぶりに「ショートバージョン」が蘇りました。これこそが、作曲者が初演の時に意図したであろう「ポーギー」の姿、思わず「ガーシュインの〜」というタイトルを付けてしまった制作者の気持ちは良く分かります。
その、「修復」作業を行ったのは、ここで指揮をしているオペラやミュージカルには造詣の深い(マドンナ主演の映画版「エビータ」でも指揮をしています)ジョン・マウチェリ、この事実を最初に「発見」した音楽学者チャールズ・ハムなどの協力を得て、アメリカ各地の図書館などに保存されていた初演時の書き込みの入った楽譜を元に、「初演バージョン」を作り上げ、その成果をここに録音したのです。
オープニング直後から、それぞれのバージョンの違いが明らかになります。短いイントロに続いて、独立して「ジャスボ・ブラウンのブルース」というピースとしても知られているピアノソロが聞こえてきますが、これが三分の一ほどの長さしかありません。「ナマズ横町」でのダイアローグも、かなりカットされているのが分かるはずです。
クラシックの世界では、作曲家が最初に作った形を尊重する、というのが最近の一つのトレンドになっています。このマウチェリにしても、普段の上演ではまずカットが入る「トゥーランドット」のアルファーノによる補作部分を「完全な」形で録音したりしています。しかし、今回の「ポーギー」のプロジェクトは、それとは全く逆のベクトルが働いたケース。最初の楽譜ではなく、演奏の課程で手を入れられたものを再現してまで手に入れたかったのは、クラシックとしての「オペラ」ではなく、ショービズの世界の「ミュージカル」のテンションだったのではないでしょうか。もちろん、このCDには最初から最後までそんなブロードウェイの猥雑さが満ちあふれています。

10月19日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Helena Juntunen(Sop), Katarina Karnéus(MS)
Daniel Norman(Ten), Neal Davies(Bar)
Osmo Vänskä/
Minnesota Chorale
Minnesota Orchestra
BIS/BIS-SACD-1616(hybrid SACD)


ヴァンスカとミネソタ管によるベートーヴェン、最初にリリースされた4番と5番のカップリング盤は、なにかヴァンスカらしくない凡庸な演奏で、レビューを書いては見たもののほとんど心に残るものはありませんでした。しかし、3枚目となるこの「第9」では、見違えるほどみずみずしいものを聴かせてくれています。やはり、新しいパートナーともなれば、お互いしっくりいくようになるには少し時間がかかるのかも知れません。
このシリーズに共通しているベーレンライター版を使用しているというクレジットは、ここでも見られます。しかし、その、従来版とは異なっている部分が最初に最もはっきり分かる形で出てくる第1楽章の81小節目では、従来版と同じ「ファ・シ♭」という木管の音型だったので、逆に驚いてしまいました。それ以後はきちんとデル・マーの仕事を尊重しているのに、なぜここだけ別の楽譜に従ったのかは、ちょっと謎です。
いきなり出鼻をくじかれた感はありますが、しかし、この楽章でのキビキビした動きには、とても惹き付けられるものがあります。特に、前のアルバムで感じた木管セクションのまとまりの良さは、ここでも健在でした。音色だけでなく、音のエンベロープが指揮者の指示を見事に反映したものになっている小気味よさは爽快そのものです。「重厚さ」などとは全く無縁のその軽やかな歩みは、この楽章の冗長さを全く感じさせないもの、このように、次々に現れるエピソードをこれほど楽しく味わっているうちにいつの間にか終わっていた、というような演奏には、なかなかお目にかかれないのではないでしょうか。
2楽章と3楽章は、意外とまとも、ただ、ここでも木管セクションのブレンドの妙味は光ります。特にクラリネットのからみ方には、新鮮な驚きが感じられます。
そして、ちょっとすごいのが、第4楽章です。冒頭の低弦によるレシタティーヴォは、まるであのノリントンやヘレヴェッヘのような恐ろしいスピード、ちゃんとビブラートの付いたモダン楽器でこれだけ軽々とここを扱った人は、ヴァンスカが初めてかも知れません。ただこの流れが、バリトンによる本物のレシタティーヴォが入って来たとたん断ち切られてしまうのは残念です。デイヴィースというこのバス・バリトンの、なんと重苦しいことでしょう。しかし、そんなソリストのミスマッチも、そのあとに出てくる合唱の素晴らしさによって帳消しにされてしまうのですから、これは嬉しいことです。この「ミネソタ・コラーレ」という団体、オーケストラの専属の合唱団なのでしょうが、そういったものによく見られる大味なところが全くなく、とても神経の行き届いた演奏を聴かせてくれています。
マーチ(このテノールソロも悲惨)が終わったあとの怒濤のオーケストラに続いて、これもベーレンライター版の特徴であるホルンの不規則なシンコペーションが出てきます。ここのヴァンスカの扱いがとても理にかなったもの、ちょっと不思議なこの部分の非合理性を、2回目以降をまるでエコーのように聴かせることによって、見事な解決を与えているのです。そして、そのホルンに導かれて登場する先ほどの合唱が、ここでもとても気の利いたアイディアで耳をそばだたせてくれますよ。「Freude, schöner」と勢いよく出たものが、2つ目のセンテンス、「Deine Zauber」という部分で、見事にキャラクターを変えて、しっとりと迫っているのですからね。
昔良くあった「人類の最大の遺産」みたいな大げさなところの全くない、あくまでベートーヴェンの音楽をきちんと伝えたいという強い意志を持った演奏、こういうものがごく普通に行われるような時代になったことを、ヴァンスカは示したかったのかも知れません。こういうものがわんさか出てくれば、「楽聖」ベートーヴェンのイメージもおのずと変わっていくことでしょう。

10月17日

HOSOKAWA
Birds Fragments
Alter Ego
STRADIVARIUS/STR 33689


1955年に広島に生まれた細川俊夫は、中学生の頃ピエール・ブーレーズの作品を聴いて、「現代音楽」というものに目覚めたといいます。その後ドイツでユン・イサンやクラウス・フーバーの薫陶を受け、今や世界的な名声を博することになったこの作曲家は、彼がその時ブーレーズの中に見た「冷たく、光り輝く明晰さ」を、全くそれとは異なる彼独自の語法で私たちに伝えてくれるすべを獲得していました。
今回イタリアのレーベルからリリースされた、彼の小アンサンブルのための作品を集めたこのアルバムのジャケットは、、もしかしたら曲のもつ世界を垣間見ることが出来るかも知れないほどのインパクトを持った、素晴らしいものでした。ほとんど「アート」としか見えない毛筆の書、しかし、そのモノクロームの筆致が主張する空白との間の緊張感は、彼の音楽の中に流れるある種の厳しさと見事な符合を見せているのを感じることでしょう。そして、日本人である私たちは、この書の中にテキストとして「意味」を見いだすことさえ出来るはずです。かなりデフォルメされていますが、ここにしたためられているのはおそらく「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」という芭蕉の俳句に違いありません。日本人であれば、その世界観は容易に理解できることばしょう。うがった見方ではありますが、彼の音楽を味わうときに、西洋人と日本人ではおそらく異なった感触を得るのではないかという可能性を、このジャケットで象徴的にあらわした、とは言えないでしょうか。
イタリアのアンサンブル「アルテル・エゴ」のフルート奏者マニュエル・ズリアがバス・フルートのソロで登場する「息の歌 Atem-Lied」では、まさにその「息」のもつ厳しいまでの存在感を味わうことが出来ます。おそらく楽器からかなり近い場所にマイクがあるのでしょう、ほとんど楽器のメカニズムとは関係のないところでの多様な「息」の表現は、ある時は荒れ狂う嵐のように、またあるときは梢をわたるかすかな風がもたらす木々の歌声のように聞こえてきます。その中に「尺八」の響きを聴き取ることが出来るのは、多分日本人の感性でしょう。
ズリアの出番はもう1曲、アコーディオンとの共演によるアルバムタイトル、「鳥たちへの断章III Birds Fragments III」です。ゲストメンバー、クラウディオ・ジャコムッチのアコーディオンは、本来は日本の雅楽器、笙(しょう)のためのパート、その楽器が織りなす淡々とした、しかし刻一刻変化する風景の中を、バス・フルートは、今度はメカニズムによって産み出される重音などを存分に駆使して歌い出します。後半、彼の楽器はピッコロに変わります。それはまさに鳥のさえずりそのもの、生命観あふれる躍動的な世界が広がります。
ピアノのオスカル・ピッツォ、ヴァイオリンのフランチェスコ・ペヴェリーニ、チェロのフランチェスコ・ディロンという編成の「Memory - In Memory of Isang Yun」は、文字通り、この曲が出来る前年1995年に亡くなった細川の師、ユン・イサンへのトリビュートとなっています。それは、波乱に満ちた人生を送った師への安らぎという名の贈り物であるかのような、瞑想的な作品です。ほとんど無音の状態から生まれ出す弦楽器のささやき、そこに打ち込まれるピアノのパルスは、その静けさを際立たせるアクセントに過ぎません。最低音部のプリペアされたピアノ線の音色は、深く心にしみこむものです。
そして、クラリネットのパオロ・ラヴァーリャに、チェロ、ピアノが加わった「Vertical Time Study I」に込められた「刹那」に対する命がけのパワー、ヴァイオリンとチェロのための「Duo」に漂う「間」の饒舌さを味わうにつけ、そこには日本人にしか持ち得ない時間の感覚が確かに存在していることを知るのです。
最後に収録されたピアノ・ソロ、「"Haiku" for Pierre Boulez - To His 75th Birthday」で、ジャケットの意味が明らかになります。彼の心の師とも言えるブーレーズへのオマージュ、しかし、ピアノの音の余韻まで完璧に表現の一部となっているこの作品からは、この20世紀の申し子とも言える大作曲家の呪縛から解き放たれた、細川自身の声がまざまざと聞こえてはこないでしょうか。

10月14日

オーケストラは素敵だ
茂木大輔著
中央公論新社刊(中公文庫)

ISBN4-12-204736-6


「のだめカンタービレ」は、いよいよあさってから「月9」のテレビドラマとなって放送が始まります。それだけではなく、来年1月からはアニメまで登場するのだとか、「のだめ」ファンにとっては、しばらくはテレビの前から離れられない日々が続くことでしょう。もちろん、これを受けて立つ本屋さんサイドでも(あるいは楽器店の楽譜売り場でさえも)、対応に余念はありません。「のだめ」専用のコーナーを設置、16冊の単行本はもとより、CDブック、キャラクターブックなどの関連商品を集めて、お客さんを待ち受けるということになります。と、とある書店で、そんな「のだめグッズ」たちに混ざって、こんな文庫本が平積みになっているのを発見してしまいました。コシマキには二ノ宮先生のコメントとイラストまで入っていますよ。著者の茂木大輔という方は、確かNHK交響楽団の首席オーボエ奏者、クラシックつながりというのは分かりますが、ここまで「のだめ」に便乗できるなんて、一体何があったというのでしょう。
と、軽くとぼけてみましたが、もちろん、茂木さんと「のだめ」とは少なからぬ因縁で結ばれているのは、よく知られていることです。単行本の10巻以降では、エンドロールに「取材協力」ということで紹介されており、確かにそのあたりから物語の中では、楽器に関する蘊蓄にはただならないものが漂うようになっていますから、作品への貢献度には相当なものがあることがうかがえます。さらに、もっと直接的なつながりとしては、こちらの「千秋真一指揮/R☆Sオーケストラ」という演奏者のクレジットがあるCDが挙げられます。もちろんこの指揮者とオーケストラはマンガに登場する架空のものですから、それを実際に演奏している人たちは別にいるわけでして、そこで「千秋役」、つまり指揮をしているのが、茂木さんだったというのです。CDショップではこれも、ドラマ化に合わせて大々的に面陳されているということですから、茂木さんの若々しい指揮ぶりにも、いとも簡単に出会えるということになっています。ちなみに、今回のドラマの中で実際に演奏するオーケストラのメンバーは、オーディションによって集められたといいます。彼らが演奏したサウンドトラックやライブの模様のCDも、近々リリースされるとか、こうなってくるともはやマンガを超えた一つのムーヴメントになってしまった感がありますが、このような状況にも茂木さんは何らかの形で関与されていることでしょう。
こんな、クラシックのアーティストとしてはとんでもない注目を集めてしまっている茂木さんですが、「エッセイスト」しても超一流だったことは、昔から知られていました。杉原書店というところから出版されている「パイパーズ」という管楽器の雑誌に連載されていたエッセイを集めた最初の単行本「オーケストラは素敵だ」正・続(音楽之友社1993/1995)は、そんな茂木さんが、ドイツでの修業時代の思い出や、日本でN響に入団してからのエピソードを集めたものです。

この2冊の単行本、人によっては、もしかしたら「旧約聖書」と「新約聖書」ほどの輝きを持っていたはずです。なにしろ「実話」ですから、そのエピソードには説得力があります。現役のオーケストラプレーヤーが、日々の演奏活動を語るときに、そこで紹介されるメインの出来事以外の、それにまつわるほんのちょっとしたことには、何と重みのあることでしょう。例えば、首席奏者が2人いるオーケストラでの出番の決め方など、最初に読んだときにはとても眩しい思いさえ湧いたものでした。さらに感動的だったのが、バッハ・コレギウム・シュトゥットガルトでの試用メンバーとしての体験談です。この中では、多くの挫折を経験した後に栄光をつかむという、ほとんど涙さえ誘うほどのものが、その熟達の筆致で迫力をもって語られています。
今回新しく発行されたのは、その10年以上前の2つの著作から、適宜編集して1冊の文庫本にまとめられたものです。全く同じものを読み返す時に、読者は最初に読んだ時に感じた目から鱗が落ちるような知的な衝撃や、実話故に迫ってくる熱い感動の追体験を期待するはずです。しかし、もぎ、今回それが全く得られなかったとしたら、その原因は、著者が「あとがき」で書いている「一度体験した奇跡と同じ高さはもう、次回には奇跡ではないのだ」という思いとは、微妙に異なる次元のものなのではないでしょうか。それは、読み手の中に、そして、もしかしたら書き手の中にもかつては確かに存在していたはずの一途な純粋さが、今となっては失われてしまった証なのかも知れません。

10月12日

マエストロ
篠田節子著
角川文庫

ISBN4-04-195904-7


篠田節子といえば、クラシック音楽に関してはただならぬ知識と経験の持ち主なのだと、言われています。その作品にも音楽を題材にしたものが数多く見られ、例えば「ハルモニア」のように、映像と音を伴ったワンクールのテレビドラマとして新たな形で紹介されたものもありました。特別な才能でチェロを弾くことを覚えた少女の物語、これは単に文字を読むだけでなく、実際の音楽が聞こえてきた方がより説得力を持つものが出来上がると、そのドラマを見たときには感じたものです。
そんな彼女の、別の作品をドラマ化したものを、最近見ることが出来ました。「マエストロ」というタイトルの2時間ドラマです。この原作は、実はそもそもは1992年に出版された時には「変身−Metamorphosis−」というタイトルだったものを、昨年の末に文庫化した際に、構想時のタイトルであった「マエストロ」に改題したものです。そして、その際に加筆、修正も行われたということです。
物語は、若いヴァイオリニストが主人公、美貌の持ち主の彼女は、さる宝飾メーカーのイメージガールとして、高額なグァルネリの楽器と完全防音の高級マンションを与えられ、そのメーカーの準備する、常に満席になることが約束されているコンサートで、300粒のダイヤが編み込まれたチョーカーを首に飾って演奏するという優雅な生活を送っています。もちろん、その見返りとしてその会社の常務であるクラヲタ男の愛人という立場に甘んじるのは、仕方のないことでしょう。実力的には、彼女は「一流半」でしかないのですから。しかし、そのグァルネリの修理のために訪れた楽器職人から、「スペアに」ということで渡されたヴァイオリンに出会うことにより、彼女の運命は・・・。まあ、細かいことは実際に読んで頂き、かつて世間を騒がせた「芸大偽ガダニーニ事件」などによって明らかになった音楽家と楽器商との癒着の実体や、その楽器商が扱っているオールド・ヴァイオリンの知られざる素性といった、生々しい現実までをも味わってもらうことにいたしましょう。
このような、単行本1冊分の内容を、2時間のドラマの中に収める場合、どうしても時間が不足してしまうという事態が生じるのは、物理的には致し方のないことです。そんな状況の中で、今回のドラマの場合、ほとんどのエピソードをくまなく織り込んだ点は、評価されるべきでしょう。この物語はいわばミステリーですから、全ての伏線を提示するのが最低限求められること、その意味ではこのドラマには何の疑問のない完璧なプロットが出来上がっていました。ただ、最後の部分、主人公が音楽家としてそれこそ「変身」するというくだりは、若干説明不足のような感は免れませんが、それは些細な傷でしょう。
しかし、やはり時間的な制約の影響は見られ、本筋とはあまり関係のない部分に多少の省略がなされてしまっていました。それは、主人公の楽器を修理する楽器職人の経歴についてなのですが、原作ではきちんとドイツ帰りの他の職人に弟子入りしてヴァイオリン作りを学んだことになっているのが、ドラマでは単なる仏壇職人が全くの独力でヴァイオリンを作るようになったとされているのです。普通にドラマを見ている人には、たいして問題になるようなことではありませんが、我々クラシックファンにとっては、これは一大事です。いくら天才といえども、ヴァイオリンという楽器は見よう見まねで作れるようなものではないはず、ましてや、それがイタリアのオールドに匹敵するほどのものになることなどあり得ません。もちろん、それを真似た精巧な偽物なども、作れるはずがありません。
この楽器職人の回想の場面で、バロック・ヴァイオリンとモダン・ヴァイオリンとの違いに言及している部分が原作にありますが、ここもドラマではカットされていました。しかし、これは逆に、極めて適切な処置だったのでは、と思えます。最近の音楽界における「オリジナル楽器」の隆盛はめざましいもの、それに伴って、例えばバロック・ヴァイオリンに関する情報などは日々更新されています。しかし、ここで描かれているのは、その様な「新しい」情報ではなく、旧態依然とした「古い=誤った」情報に基づくものなのです。それは、1992年の初出の段階では許されても、文庫化され、さらにドラマ化された2005年以降には到底通用しないものです。ドラマの制作者がそこまで考慮したとは到底思えませんが、結果的には活字メディアよりははるかに露出度の高い映像メディアで、その「誤った」情報が流れるという事態は避けられたのです。

10月10日

M.HAYDN
Requiem
Werner Ehrhardt/
Kammerchor Cantemus
Deutsche Kammerakademie Neuss am Rhein
CAPRICCIO/71 084(hybrid SACD)


このCD、ミヒャエル・ハイドンの「ハ短調のレクイエム」の「世界初録音」となっています。こちらでご紹介したように、あのモーツァルトのニ短調のレクイエムにも影響を与えたとされる「ハ短調」のレクイエムには、すでにいくつかの録音がありますから、これは何かの間違い? と思っても、やはり珍しい曲であることには変わりはないので、一応購入してみました。そして、現物を手にしてよく見てみたら、ミヒャエル・ハイドンの作品番号である「MH」番号が、前のものとは異なっているので、まずは一安心です。すでにあったものは「MH 155」、1771年の作品ですが、今回は「MH 559」、これはずっと後の1792年以降に作られたものだということです。
この、言ってみれば「レクイエム第2番」、自筆稿は残っているのですが、作曲家の生前には演奏されてはいませんし、それ以後も演奏された形跡はないというのです。もちろん出版もされてはいません。この時代、通常こういう曲は特定のパトロンからの委嘱によって作られるものなのですが、その様な事実もないということで、これはハイドンが個人的に親しかった人の死を悼んで作っていたんでは、という推測が成り立ちます。そして、その人というのが、そう、それこそザルツブルク時代に何かと親交のあった、あのモーツァルトだったという可能性だって、なくはないのです。
そう思って、今回世界で初めて「音」になったこのCDを聴いてみると、まさにモーツァルトと、そして彼の絶筆となったレクイエム(ウィーンで初演されたのは1893年ですから、ザルツブルクにいたハイドンがそれを聴いて実際に自作に反映させたかどうかは謎ですが)へのトリビュートとして感じられてくるから、不思議です。あたかも「第1番」の中にあったモーツァルトの作品の萌芽が、「神童」の手によって花開くのを見届けたかのように、この作品の中には前作にはなかった多様で充実した世界が広がっているのを、誰しもが認めないわけにはいかないはずです。
ソリストを伴わない、合唱とオーケストラだけの編成、しかも、「Requiem aeternam」という歌詞の「Introitus」には曲が付けられてなく(実際に典礼で使うときにはグレゴリオ聖歌を使うつもりだったのでしょう)、いきなり「Kyrie」から始まるというちょっと変わった構成が取られています。そして、前作よりも格段のヴァラエティを持つようになったのが、7つの部分に分けられている「Dies irae」です。最初の「Dies irae」の激しさはまさにモーツァルトの作品の中にあったもの、その曲の後半となっている「Tuba mirum」も、アイディアとしてはかなりモーツァルトに近いものが感じられます。実は、そんな細かいことよりも、後半の「Sanctus」や「Benedictus」の最後の「Hosanna」の部分に、目も覚めるようなポリフォニックな処理が施されていることに、注目すべきなのかも知れません。この壮大なフーガは、まさにモーツァルトの「Kyrie」の二重フーガに匹敵するものではないでしょうか。
さらに終曲「Agnus Dei」には、ハイドンならではの素晴らしいアイディアが散りばめられています。後半「Commnio」の部分で「Cum sanctis tuis」という歌詞のところからは、やはり見事なフーガが展開されるのですが、それが一瞬収まると、なんとア・カペラで「quia pius es」と歌われるのです。その美しさといったら。そしてその後に、初めて「Requiem aeternam」の歌詞が出てくるという仕掛けです。その後、テキストに従い、音楽は「Cum sanctis tuis」のフーガに戻ります。そして、続くア・カペラの合唱で全ての曲の最後を迎えるという意表をついたエンディングには誰しも唖然とすることでしょう。2度目にそのア・カペラが出てくる頃には、そのテーマは実はフーガの中にすでに散りばめられていたことに気づかされます。何という巧みな技でしょう。
実は、ハイドンにはもう一つ1805年に着手したレクイエムがあるのだそうですが、これは翌年彼が亡くなってしまうため完成はされなかったという、まさにモーツァルトの曲のような運命をたどっています。この「第3番」が録音されて、私たちの耳に届く日は来るのでしょうか。その時には、この「第2番」のような余裕のない演奏ではなく、少なくとも合唱に関してはもっとハイレベルなもので接したいものです。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17