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ジュース、美味いや。.... 渋谷塔一

(02/1/22-02/2/8)


2月8日

KORNGOLD
The Sea Hawk
André Previn/
London Symphony Orchestra
DG/471 347-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1092(国内盤)
なんの先入観も持たないで、このCDを聴いた人がいたとします。その人は、間違いなく「映画のサントラみたい!」と叫んでしまうことでしょう。そう、「いかにも」ハリウッドの音がしているはずです。それもそのはず、これらの曲の作曲家、コルンゴルトは、今ではハリウッドの映画音楽の代名詞ともなっているあのシンフォニックなサウンドを、この映画の都に最初に持ち込んだ人なのです。「スター・ウォーズ」から「ハリー・ポッター」、もちろん「ジュラシック・パンツ」まで、数々のヒットを放っているジョン・ウィリアムズも、元をたどればコルンゴルトの仕事の二番煎じに過ぎないわけでして。
ウィーン育ちのエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、10歳でバレエ音楽、16歳でオペラを作曲してしまったという、まさにそのミドルネームが物語るような「神童」でした。最近脚光を浴びている彼の代表作「死の都」は、22歳のときの作品ですし。
そのままウィーンにとどまっていれば、間違いなく前世紀を代表する偉大なオペラ作曲家になっていたはずの彼の運命を変えたのは、ナチズムの台頭でした。ユダヤ系のコルンゴルトが当時作曲家として活躍できる場は、ハリウッドしかなかったのです。生活のため、仕方なく仕上げた彼のスコアは、しかし、映画製作者の度肝を抜きます。後期ロマン派の香りそのままのゴージャスな音楽は、ハリウッドにはなくてはならないものとなり、ワーナー・ブラザースのスタジオは、絢爛豪華なサウンドの発信地となったのです。
しかし、いくらハリウッドで名声を得たからと言って、彼自身には不本意な仕事だったのでしょう。晩年はまた純音楽の作曲に戻るのですが、どうもそちらは正当に評価されていないのが現実です。
このアルバムに収められている映画音楽を聴いてみると、何となく懐かしい気持ちになります。それは幼い頃に見た天然色の映画の記憶に重なるところもありますが、もう少し醒めた耳で聴くと、その懐かしさは、「どこかで聴いたメロディ」であることにも起因していることに気がつきます。そう、「シー・ホーク組曲」なんて、管弦楽法にしても、メロディラインにしても、もろR・シュトラウスのパクリ。ついでに言うなら「放浪の王子」はマーラーの7番の第4楽章でしょうか。とにかく、なんとなく嘘っぽくて、やたらゴージャスな音楽。これは小さい時に熱中した駄菓子の世界に似ているのかも知れません。しかし、これこそがまさに「ハリウッドの音楽」なのですね。
かつて、ハリウッドでアレンジャーとして仕事をしていたことのあるプレヴィンはさすがに、こういう音楽の演奏はつぼを心得ています。溢れるばかりの美音。効果的なハープのアルペッジョ、(これがいかにもの響きを作り出すのです。)などなど、とにかくおなかが一杯になるほどの音の洪水。もちろん迫真の場面では、手に汗を握るほどの興奮も味わう事ができます。しかし、彼が今までにコルンゴルトの映画音楽は1度しか演奏していない、それを知ったのはちょっと驚きでした。
難しいことは考えずに、ただただ音を楽しむ、そういうのもたまにはいいではないですか。

2月6日

BRUCKNER
Symphony No.7
Linos Ensemble
CAPRICCIO/10 864
予想もしなかったことですが、ちょっと前にご紹介したリノス・アンサンブルの「マーラーの4番」は、各方面で大きく取り上げられています。なにしろ、あの吉田ヒデカヅ先生までもが「レコ芸」にお書きになるぐらいですからね。
今回も、そのリノス・アンサンブルが、シェーンベルクたちの「私的演奏会」のために準備された曲を演奏するという、全く同じ趣向、CDの品番も1番しか違いませんし。ただ、違うのは、前回はマーラー、今回はブルックナーという点です。この両者、よく並び称されることは多いものの、その音楽の性格は全く異なるもの、マーラーで成功したことがブルックナーに当てはまることなどありえないのは自明の理でしょう。
ところが、このアンサンブルの音を聴き始めた時、その、なんとも貧弱な編成(5人の弦楽器に、クラリネット、ホルン、そしてピアノとハルモニウム)から紛れもないブルックナーの響きが感じられてしまったのは、ちょっとした驚きでした。ヴァイオリンのトレモロに乗ってチェロとホルンで奏される第1楽章のアルペジオのテーマ、これが、あたかも10人のチェリストのユニゾンであるかのように聴こえてきたのには、ブルっとなりました。続くクレッシェンドは、ピアノとコントラバスが用意してくれます。そこにあったのは、比類ない集中力と緊張感、大人数の弦楽器で演奏して、ヘタに散漫になるよりはずっと音楽の本質が透けて見えてきます。
第2楽章こそは、このような小編成が最も効果的に現われる場面です。普通のオーケストラでは味わえないような純粋な響きの、まるで、四声体の無伴奏合唱、そう、マスターが愛してやまないこの作曲家のモテットの世界が、見事に眼前に広がり、そこからは、教会音楽家としてのブルックナーの素顔を感じ取ることすら可能になってきます。
第3楽章のような動きのある楽章でも、この小編成というのは良い方向に作用していて、「スケルツォ」の軽妙さが難なく表現されています。また、トリオでのエーラー管のクラリネットの繊細なこと。終楽章のテーマは、ヴァイオリン1本で弾かれるとまるで羽が生えたような軽やかさがあふれています。
もちろん、エルヴィン・シュタイン、ハンス・アイスラー、カール・ランクルという3人の編曲者は、この限られた編成から、最大限の効果を発揮させることに成功しています。しかし、この場合は、アンサンブルを知り尽くした演奏者たちのセンスこそが賞賛されるべきでしょう。中でも、ホルン奏者は微妙な音色の使い分け、幅のあるダイナミックスで、合奏全体をリードしています。
録音も優れたもの。良質のアコースティックスをもつホールは、楽器一つ一つにたっぷりした残響を与えてくれていますし、トゥッティの盛り上がりでは、とても9人だけで演奏しているとは思えないほどの豊かな響きが得られていますから、小アンサンブルゆえの貧弱さなどは全く感じられません。それどころか、大編成のオーケストラではあるいは失われてしまっていたかも知れない、ブルックナーの微妙なエキスのようなものさえも、ここから発見することは可能なのです。

2月4日

WAGNER
Tannhäuser
Jane Eaglen(Sop), Waltraud Meier(MS)
Peter Seiffert(Ten), Thomas Hampson(Bar)
Daniel Barenboim/
Staatskapelle Berlin
TELDEC/8573-88064-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11202/4(国内盤)
今回は来日中のバレンボイムの新譜「タンホイザー」です。
しかし、何とまあ扇情的なジャケなのでしょう。私がこれを最初に見たのは、昨年の末、白黒の資料でした。FAXで送信されたあいまいな画質から判断するに、てっきり山間に輝く夕星をモティーフにしていると思っていたのです。しかし実物を見て「なんじゃ、こりゃあ!」。そういえば、レコ芸で案内を見たマスターが、「これ、ジャケだけ欲しいね」と言っていましたっけ。これで、胸部の写真もあれば、申し分ないことでしょう(バレンボイン)。
なだらかな丘と見紛う腰のライン、形の良いおへそ、そしてふくよかな太ももの合わせ目。何ともエロティックで、タンホイザー、否、人類全ての根源がここにあると言わんばかりのデザインですね。1866年、画家クールベの発表したリアルな女性の下半身の絵、これにも「世界の起源」というしゃれたタイトルがついていたのをふと思い出しました。
さあ、このタンホイザー。何と言ってもザイフェルトが情けないくらいにはまり役です。以前のローエングリンでは、ちょっと不満のあった彼ですが、それは彼にイマイチ高貴さが足りなくて、孤高の騎士役にしてはちょっと人間臭かったのが理由です。ですから今回のように煩悩に翻弄される弱い人だったら申し分ないでしょう。その上、ヴェーヌス役のマイヤーはもう貫禄たっぷり。ですから、第1幕のやり取りなど彼は「こんな生活から足を洗うぞ」と決意を固めるのですが、「そんなこと言わないで」と甘い一声をかけられるだけで、へろへろになってしまうのが手にとるようにわかるでしょう。
エリザベート役が注目のソプラノ、イーグレンです。以前紹介したとおり彼女も強靭な声の持ち主で、「殿堂のアリア」を聴いただけでも、彼女が「ワーグナー歌い」として期待されているかがよくわかります。
いつもの事ながらオケがいかなる大音響を発しても、彼女の声はやすやすとその上を飛び越えます。さらに溢れるばかりの表現力。ぜひとも彼女のブリュンヒルデを聴いてみたいものです。
他にはヴォルフラム役に人気者ハンプソン。彼を聞きたいがために、このアルバムを買った人もいることでしょう。歌合戦に於いて手痛い失敗を犯してしまうタンホイザーをあざける事なく、最後まで良き友人として見守るヴォルフラム、そんな優しさを感じさせる素晴らしい歌を聴かせてくれるのです。
バレンボイムの音楽も、ローエングリンの時のような軽くさっぱりしたものではなく、もっと厚みのある粘っこい響きがします。特に序曲の豊麗な響きは、聴いているだけでたっぷりと愉悦感を味わう事ができます。
タンホイザーの物語は、神話の世界のような現実味に乏しい作品ではなく、極めて現実的な世界のお話であることを実感できる素晴らしい演奏です。

2月2日

GOLIJOV
La Pasión según San Marcos
Maria Guinand/
Orquesta La Pasión
Schola Cantorum de Carácas
Cantoría Alberto Grau
HÄNSSLER/CD 98.404
というわけで、昨日に引き続き「パッション2000」のもう一つの成果、ゴリホフの「聖マルコ受難曲」です。
1960年、ロシア移民の子としてアルゼンチンに生まれたオスヴァルド・ゴリホフは、26歳の時にアメリカに渡り、ジョージ・クラム、ルーカス・フォス、オリヴァー・ナッセンといった、「いきのいい」作曲家たちの薫陶を受けます。特定の技法に拘泥しない彼の作風は、このような、ある種伝統とは無縁の先達からの影響であることは明らかでしょう。
映画音楽の分野でも、サリー・ポッター監督作品の「タンゴレッスン」や、「耳に残るは君の歌声」でのポッターとの共同作業が注目を集めています。とくに、今日本で公開中の「耳に〜」では、クロノス・クヮルテットや、サルヴァトーレ・リチートラを起用して、各方面から高い評価を受けていることは、先刻ご承知でしょう。
さて、そんな予備知識を頭に入れて、この曲を聴き始めた人は、いきなり聴こえてくるリズミカルなドラムの音には、ある種の戸惑いを抱いてしまうかもしれません。やがて、そのリズムにホーンセクションが加わってくると、それはまさに東京吸盤・・・ではなく、東京キューバン・ボーイズの世界、いわゆるラテン音楽、それも最も今風なサルサ・バンドの響きです。そう言えば、このアンサンブルのクレジットは「Orquesta La Pasión」、「受難曲のオルケスタ」ですから、クラシック音楽とは全く異質のジャンルであることがはっきり分かります。このCDは世界初演のライブ録音ですが、ライナーに載っているカーテンコールの写真に見られる、あちこちに置かれたFB用のモニタースピーカーや、イエスの扮装をしたダンサーの姿などからは、この演奏会のエンタテインメント性の高さを垣間見ることができるでしょう。
一応「受難曲」ですから、テキストがあり、それを歌う声楽陣がいるのですが、こういう事情ですから、もちろんベル・カントの歌手などは登場せず、かなりクセの強いヴォーカリストがメイン。その中で、(多分)若い女性が中心メンバーの合唱団は、かなり訓練された「民族発声」と、西洋音楽とは微妙に異なっているハーモニー感で、不思議な雰囲気をかもし出し、この物語を起伏のあるものに仕上げる中心的な存在となっています。
曲全体の7〜8割はこんな音楽。しかし、なんと言っても「国際バッハ・アカデミー」の委嘱作品です、それだけで終わるわけには行きません。残りの部分こそが、「現代作曲家」ゴリホフの仕事。先ほどの「オルケスタ」、じつはホーンとリズムだけではなく「風景アンサンブル」と名づけられたストリングスが入っているのですが、このアンサンブルが登場すると、それまでのラテン色は一瞬薄らいで、もう少しグローバルな「風景」が広がります。ミニマル的なフレイヴァーすら感じられる、全体の流れの中ではやや異質なこの部分があったからこそ、いかにも能天気な磔やイエスの死の場面を許せる気にもなれるのでしょう。

2月1日

GUBAIDULINA
Johannes-Passion
Korneva(Sop), Lustiuk(Ten),
Mozhaev(Bar), Bezzubenkov(Bas)
Valery Gergiev/
Chor und Orchester des Mariinsky-Theaters St.Petersburg
HÄNSSLER/CD 98.405
2000年の「バッハ・イヤー」の一環として、ヘルムート・リリンクが主宰するシュトゥットゥガルトの「バッハ・アカデミー」によって委嘱された「新しい」受難曲については、リームの「ルカ受難曲」をご紹介した時に述べましたね。このたび、その、単にバッハ・イヤーの副産物として片付けるにはあまりにもったいない4つの作品のうちの、もうひとつの受難曲、ソフィア・グバイドゥーリナの「ヨハネ受難曲」が入手できました。2000年9月1日に行われた世界初演のライブ録音、ドイツでは程なくCDも発売されたのですが、なぜか日本には今ごろやっと届いたということです。
この「ヨハネ」、最も特徴的なのは、テキストがロシア語だということです。これは、作曲者自身が、ヨハネ福音書だけではなく、ヨハネ黙示録までも素材にして自由に構成したもの、したがって、有名な「7つの封印」のエピソードなど、黙示録からのネタも取り込まれて、バッハのテキストの世界よりもはるかに大きな拡がりを見せています。演奏者がすべてロシア語圏のアーティストというのも、この作品の性格を語る上では重要なことでしょう。
編成は、二つの混声合唱に4人の独唱者、それにオーケストラとオルガンという大規模なもので、特に、オーケストラにはさまざまな打楽器が使われています。曲の冒頭、その打楽器とオルガンの喧騒の中で、合唱が派手に盛り上がったかと思うと、いきなり音楽はスタティックなものに変貌します。メインはとても深い響きを持つベズベンコフのバス。地を這うような起伏に乏しい歌唱で、淡々と物語が進行します。間に合唱が控え目に入るぐらいで、オーケストラは殆ど出番がありません。しかし、全部で11の部分から成るこの曲の6番目、「天上の礼拝式」あたりになると、やっと色彩的なオーケストラの響きが聴かれるようになって、一安心。8曲目、つまりCDの2枚目あたりからは、ガラリと音楽がドラマティックになって、ゲルギエフも本領発揮です。
じつは、これは作曲者がそのようにプラニングしたもの、その8曲目の「ゴルゴタへの道」こそが、この曲全体のハイライトになるという設計だったのです。それまでの、ある種退屈な部分は、ここに行き着くまでの、いってみれば準備段階のようなものなのでしょう。このようなとても息の長い、動きの少ない部分からは、一般の西洋音楽からも、あるいは私達日本人からも、はるかに隔たったところにある感覚といったものを感じないわけにはいきません。そういう意味からは、世界の異なった文化圏に属している作曲家にそれぞれの語法で受難曲を作らせ、それを通してキリスト教の持つグローバルな世界観を確認するというリリンクのもくろみは、見事に成功したといえるでしょう。
この上は、やはりHÄNSSLERからリリースされている、オスヴァルド・ゴリホフの「マルコ受難曲」も聴いてみるべきでしょうね。最近話題の映画「耳に残るは君の歌声(原題The Man Who Cried)」のサントラも書いているということですし(「ゴリホフ」という表記の方がより良くなじみますので、そちらに変えました)。

1月30日

WAGNER Wesendonk Lieder
MAHLER Kindertotelieder
WEINBERGER Under the Spreading Chestnut Tree
Ingrid Tobiasson(MS)
Sixten Ehrling/
The Royal Swedidh Opera Orchestra
CAPRICE/CAP21661
北欧音楽界の重鎮指揮者、シクステン・エールリンクをご存知ですか?私がこの人の名前を知ったのは、FINLANDIAレーベルからでている50年前後の録音、いわゆるヒストリカル物で、たしか触れ込みも「最初のシベリウス交響曲全集」でしたか。確かに黎明期の録音ですが、何とも言えない熱気と味わいがあって、シベリウス好きとしてはぜひとも手元に置きたい1セットといえましょう。シベリウス以外にもべールヴァルドの交響曲を録音しているそうですが、こちらはまだ未聴。北欧音楽好きならば一度は聞いたほうがいい名演だそうです。地味ながらも素晴らしい録音が数多く存在する指揮者です。
なにぶんにも1918年生まれという事ですから、もうすでに引退しているとばかり思っていました。そんなエールリンクの新録(2000年6月に行われたれっきとしたスタジオ録音)が発売されると聞いてびっくり。A氏亡き後、落胆していたであろう「老指揮者マニア」の方々にとっても朗報。まだまだジジネタには事欠かずに済みそうな気配です。
その最新盤は、ワーグナーの「ヴェーゼンドンクの5つの歌」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」、そしてヴァインベルガーという結構重たい選曲です。しかし、聴いてみたらこれがなかなかのものでした。木管を強調して、弦をすっきりした響きに仕上げるところはさすがシベリウスの大家。
まず良かったのが、メゾ・ソプラノのトビアソン。メゾにしては高音の伸びが良く、その上どんな時でも決して感情過多に陥ることなく、この2つの曲集を歌い上げていくのです。こう書くと極めて淡白な音楽を想像するかもしれませんが、その分オケはとても雄弁に語り、全体の音楽の流れは極めて幅広いため、たまに歌とオケの微妙なずれが生じ、聴く方としてはとても面白い体験をする事ができます。
特に第3曲の「悩み」で聴かれる音は、まるでワーグナーらしくなく、やはり北欧の冷たい空気を連想させる響きになってます。もどかしくも割り切れない思いをここまで切なく表現するなんて、やっぱりすごいです。第5曲の「夢」でも、ゆったりとした音の流れは途切れることなく、そのまま大きな喜びを持って曲が終わるのです。
その陶然とした気分のまま、次の亡き子を聴いたのですが、淡々と歌うトビアゾン、これはよくあるような悲しみに身をよじるような歌とは全く違う、枯れ尽くした悲しみと言った風情。それに対して一音一音かみしめるように歌いこむオーケストラ。この表情付けの微妙なずれは、聴きてをすこしばかり混乱させるかもしれません。しかし、それは決して不快なものではなく、不思議な世界を垣間見るような心地良さであるのも否めません。
最後に置かれたヴァインベルガーの作品は、すこしばかり場違いな印象もありますが、これは口直しといったところでしょうか。誰もが知ってる「大きな栗の木の下で」による7つの変奏曲とフーガから出来ている作品ですが、各変奏曲の繋ぎ目にピアノとハープが大活躍。悲劇的な最期を遂げた作曲家として知られていますが、この曲を聴く限りでは、そんな感じは受けません。「大きな栗と、栗鼠がいた」ではどうだったのでしょうか。

1月28日

RUTTER
Feel the Spirit
Melanie Marshall(MS)
John Rutter/The Cambridge Singers
COLLEGIUM/COLCD 128
このページには幾度となく登場しているイギリスの指揮者/作曲家のジョン・ラッターの新作です。私が彼の名前を初めて知ったのは、マスターの労作「フォーレのレクイエム」でのこと。室内楽編成の第2稿を校訂して初めて出版した人としてでした。だから、イメージとしては、お堅い学究肌の人物を想像していました。しかし、それから彼のオリジナル作品をいくつか聴いていくうちに、そんな先入観はすっかりなくらったのでした。「レクイエム」などの宗教曲にしても、根底にあるのは誰にでも受け入れられるわかり易さ、もっと言ってしまえば、「通俗性」だったのですね。
このCDでは、そんな彼の親しみやすさを存分に味わうことが出来ます。もしかしたら、その「軽さ」ゆえに、逆に抵抗を感じてしまうかも知れませんが。
タイトル曲「Feel the Spirit」は、スピリチュアルズ(最近はこういうのですね。昔は「ニグロ・スピリチュアルズ」あるいは「黒人霊歌」と言ったものですが)をラッターが合唱とメゾ・ソプラノ用に編曲したもの。オーケストラ伴奏が付きますが、かなり大胆な編曲で、原曲のイメージからは、かなり遠くなっているものもあります。かつてロジェ・ワーグナー合唱団あたりで歌われていた、ある種アフリカ系アメリカ人(ふぅ)の苦悩までも感じさせられるような編曲とは全く志向性の異なる陽気なものです。独唱のメラニー・マーシャルからも、屈折した感情など微塵も感じることは出来ません。そういう時代になったのでしょう。
次に収録されているのは、ラッターの作品ではなく、「バードランドの子守歌」の作曲者として有名なジャズピアニスト、ジョージ・シアリングの合唱曲です。ピアノとベースのジャズっぽい伴奏は付きますが、曲自体はとてもチャーミングでメロディアスなものです。歌詞がシェークスピアというのも、そんな雰囲気とは無関係ではないのでしょう(シアリングって、イギリス人だったんですね!)。ジャズ特有のテンション・コードなどは殆ど使っていない、まるでロマン派のような作品です。ウェイン・マーシャルのピアノとマルコム・クリースのベースは、そんな曲調をきっちりサポートしていますが、根はやっぱりジャズマン、エンディングのアドリブなどで、ちょっと「ブルー」な味わいも。
ラッターは昔からこのシアリングには個人的に傾倒していて、次の「Birthday Madrigals」という曲は、ラッターが彼の75歳の誕生日のお祝いに贈ったものです。5曲あるうち、奇数のものはジャズ風、偶数のものは、イギリスのマドリガル、パートソングのテイストで書かれています。このアルバムの中では、私はこの曲が一番好き。ラッターの多方向への視点が、コンパクトにまとまって小気味良く聴くことができます。肩の力が抜けたさりげなさが、心を打つことでしょう。

1月26日

FRANCK
Préude, Aria et Final
永井幸枝(Pf)
BIS/CD-1056
(輸入盤)
キング・レコード
/KKCC-2327(国内盤)
日本の中堅ピアニスト永井幸枝さんの新譜です。既にこのレーベルにもいくつかの録音があり、堅実な音楽性で高い評価を受けている人ですね。
今回の1枚はフランクの「ヴァイオリン・ソナタ」です。とは言っても、ただのソナタではありません。あの、名ピアニスト、コルトーの編曲によるピアノ独奏ヴァージョン!もちろん世界初録音です。これはスゴイ。他にも、「前奏曲、フーガと変奏曲」(オルガン曲)のピアノヴァージョン、(これは名ピアニスト、フリードマンの編曲したもの)など興味深い曲ばかり。編曲マニアの私には嬉しい1枚です。
しかし、実は私がこのアルバムの中で一番聴きたかったのは、「前奏曲、アリアと終曲」でした。フランクの作品というと、オルガン曲やヴァイオリンソナタは良く演奏されますが、ピアノ曲はあまり人気がありません。それでも「前奏曲、コラールとフーガ」は稀に演奏されますが、こちらの「前奏曲、アリアと終曲」に至っては、CDの数も少ないし、ましてや実演でも殆どお目にかかれないシロモノです。じつは、私はその昔、この曲をFMで放送されていた「午後のリサイタル」で聴いたことがあるのですが、何とも言えない荘厳な佇まいに圧倒され、「こんな素晴らしい曲があるんだ」と感激した記憶があります。それまでは交響曲やヴァイオリンソナタと、お定まりの作品しか聴いてなかった私でしたが、ここから彼のオルガン曲を聴き始め、そのままメシアンに突入したのですから、いわば私の音楽経験の一つのターニングポイントになった曲といえるのですね。
荘重な行進曲で始まる前奏曲、あくまでも澄み切ったアリア(詠唱)、全ての主題を満遍なく使い尽くした、あの循環形式の見本ともいえる終曲。そして、全体はオルガン的な独自の和声で書かれていて、例えば前奏曲の第1主題は1音ごとにペダルを踏み変えるように指示されています。地味ながら暖かく美しい曲で、この曲をレパートリーにしている人は、それだけで「タダモノではないな」と唸ってしまうのです。永井さんの演奏はもちろん満足の行くもので(なんたって、フランク永井)、今回聴いて改めてこの曲が好きになりました。
問題のヴァイオリン・ソナタですが、これは確かにスゴイ演奏です。原曲のピアノパートだけでもとても難しいのに、その上ヴァイオリン・パートまで弾かなくてはいけないのですから。しかし、どちらかというと興味本位で終わってしまったのは聴き手の問題でしょう。私は前奏曲が聴けただけで満足してしまったのですから。

1月25日

DVOŘÁK
Symphony No.5(9)
Leopold Stokowski
and His Orchestra
BMG
ファンハウス/BVCC-37322
「RCAレッド・シール・ヴィンテージ・コレクション」の第2期発売分から、ストコフスキーの「新世界」を。じつは、私にとっての目玉は、ストコフスキーではなく、第2楽章でコールアングレを吹いている、「ミッチェル・ミラー」なのですが。もちろん、この方はあのミッチ・ミラーと同一人物だというのは有名な話。さらに、このBMGのシリーズをよく知る人たちには、以前ご紹介したデ・ランシーが、自ら作曲を依頼したR・シュトラウスのオーボエ協奏曲のアメリカ初演を持っていかれてしまったオーボエ奏者として、記憶に残っていることでしょう。
録音されたのは1947年。当時、競争会社のコロンビアにLPの開発では遅れをとっていたRCAですから、LPとして出たのは1950年、カタログ上は13番目の製品(品番がLM-1013)となります。まだ磁気テープではなくラッカーマスターの時代ですから、スクラッチノイズや音跳びはありますが、録音技術は当時としては最高レベルにあるもので、弦楽器が異常に少ない編成であるにもかかわらず、バランスは良好、ストコフスキーのクセのある音楽が余すところなくとらえられています。
そのストコフスキーの表現は、まさに変幻自在、これは、今の指揮者からは決して味わえないものです。第1楽章には、1拍目を常に早めにとるというビート感から来る小気味よさがあります。第2楽章では、たっぷりとしたテンポ設定で、歌心あふれるミラーのコールアングレをサポート。軽快な第3楽章に続くフィナーレこそが、ストコフスキーの面目躍如といったところ。トランペットのファンファーレを導き出すトゥッティの大見得ときたら、思わず椅子からのけぞるほどです。さらに、この楽章では、彼の得意技、オーケストレーションの改変がいたるところに見られます。終盤のクライマックス、305小節と331小節では、本来ならもっと前の部分で控え目に使われるだけのシンバルが、渾身の力をこめて打ち鳴らされています。323小節では、なんとタムタムまで。
さて、このシリーズ、毎回ライナーには貴重なデータが満載ですが、ここではレコーディングの時のメンバー表のコピーという、ものすごいものがついていました。ヴァイオリン14、ヴィオラ4、チェロ4、コントラバス2という、先ほども述べた少ない編成も、これから分かります。コンマスは、当時のニューヨーク・フィルのジョン・コリリアーノ、フルートはやはりニューヨーク・フィルのジョン・ウンマー、もちろんイングリッシュ・ホルン(英語表記)にはミッチェル・ミラーが。
ところが、このライナーノーツを執筆された方は、「フルートのジュリアス・ベイカー」などと書いていますよ。もちろんベイカーがニューヨーク・フィルの首席フルーティストだったというのは有名な話ですが、それはもう少しあとのこと。だいたい、1楽章冒頭の木管ソリで聴こえるびしゃびしゃのビブラートがかかったフルートの音はまぎれもなくウンマーのもの、ベイカーの芯のある音とは別物だというのは、わたしのようなシロートでも分かるというのに。うん、まあ、ミラーのことを「ホルンのミラー」などと書いている方ですから、そんな聴き分けはそもそも無理なことなのかもしれませんが。

1月23日

MOZART
Requiem
Christoph Spering/
Chorus Musicus Köln
Das Neue Orchester
OPUS111/OP 30307
最新の「モツレク」のCDが届きました。指揮をしているのは、クリストフ・シュペリング、かつてこの同じレーベルから、「メンデルスゾーン版マタイ」という、バッハのマタイ受難曲をメンデルスゾーンが蘇演した際のスコアを初めて音にしたという貴重なCDを出した、ちょっと気になる指揮者です。
この「モツレク」も、だから、一筋縄ではいかないような仕上がりになっています。目玉は、本編の他にモーツァルト自筆の楽譜をそのまま演奏しているということ。今までこんなことをやった人はいないはずですから、これは貴重なものです。
さて、まずは本編(ジュスマイヤー版)。冒頭「introitus」の、殆ど冗談とも思えるような遅いテンポには、誰しも戸惑いを覚えることでしょう。じつは、これはシュペリングの確固たる考えに基づいたテンポ設定なのです。つまり、彼はこのレクイエムというものを、あくまで実際に死者を悼むものとしてとらえ、この最初の部分はゆったりとした葬送の行列をイメージしたそうなのです。確かに、それを知ってしまえば、最初抱いた違和感は薄らぎ、荘重な葬儀の模様が眼前に広がってくることでしょう。続く「Kyrie」も、アタッカの指定があるということから、この時代の急−緩を続ける場合の「1拍の音価を正確に2倍にする」という常識にのっとって、かなりゆったりしたフーガが展開されることになります。これは、正直言って、かなり刺激的な体験です。まるでアルヴォ・ペルトの音楽を聴いているような不思議な浮遊感が、モーツァルトから感じられるのですから。
さらに、最後の部分、「lux aeterna」が、この冒頭の部分の繰り返しだということは良く知られていますが(そのように作れと、モーツァルトが指示をした)、シュペリングは、この部分に、「Adagio」という表記が抜けていることに着目しました(確かに、ベーレンライター版では何も書いてありません)。もちろん、それはジュスマイヤーの譜面でのことなのですから、単なる書き落としとみなすこともできるわけですが、シュペリングはこれを積極的にモーツァルトの意思と解釈して、この部分を「救済」の音楽と位置付けたのです。その結果、ここはごく普通のテンポ設定になったのですが、「introitus」からの流れでは、このフーガからは永遠の歓びを感じ取れるという仕掛けになっているのです。
このようなプログラミングが成功しているか否かは、ひとえに聴き手のこの曲に対する思い込みの度合いによって決まるのでしょうが、私は興味深く聴けました。ただ、遅いテンポについていけるだけの質の高さを、合唱には望みたいところ、ソプラノソロなども、あまり朗々と歌って欲しくはないという気はしますが。
余白の、モーツァルトの自筆稿(未完の草稿)は、それ自体はいくらでも手に入るものですから珍しくもなんともありませんが、実際に音にした功績は評価できるでしょう。骨組みだけのスケッチを聴くことによって、あなたも、ジュスマイヤーやバイヤーやレヴィン、あるいはモーンダーやヘイヘイホー(それは与作)になったつもりで、残りの音を想像するのも一興なのでは。

さきおとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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