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穴子オリンピック。.... 渋谷塔一

(02/2/10-02/3/1)


3月1日

MOUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition
Evgeny Kissin(Pf)
RCA/09026 63884 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-31061(国内盤)
このところ「展覧会の絵」が大流行です。先頃のゲルギエフの迫力ある演奏も聴き応えありましたし、今回のキーシンの他は、日本人の松本和将、変り種では、ロシアの現代作曲家による「ピアノ協奏曲版展覧会の絵」まで(これはいずれ、ここでご紹介するつもりです)。
そのどれもが力作で、見所(聴き所?)も多いのですが、このキーシンの演奏はまさに正統派。いわば、既にスケッチの段階から完成された、全く文句の付け所のない素晴らしい絵画とでも言えましょうか。いつもながらの強靭なタッチ、曲の構成。さすがキーシンと感心するばかりです。どの絵(曲)もきっちり書き込みされていて、対象物を正確に捉えている視点には驚くばかりです。
この曲集の中で、かねてから私が一番難しいと思っているのは、「リモージュ」。この市場でしゃべくるおばちゃんたちを描写したある意味トッカータともいえる華やかで技巧的な曲ですが、キーシンの演奏の賑やかなことといったら・・・・。100人のおばちゃんたちに話し掛けられたらこんな気分になるかも知れません。
そして、それに続く「カタコンブ」の静謐な音楽。前の曲が賑やかだったため、一層寂寥感が募ります。以降の曲はとことん技巧を楽しむのみ。「キエフの大門」の堂々とした佇まいは、あのロシアの指揮者の色彩感、重量感と比較しても全く遜色のないものです。さすがにバスドラムは使ってませんけどね。
ほんの一部の絵だけご紹介しましたが、ほかの絵も一級品。若き天才画家の「いい仕事」を存分に楽しむ事にしましょう。
メインの「展覧会の絵」に負けず劣らず素晴らしいのがバッハ=ブゾーニの「トッカータ、アダージョとフーガ」ではないでしょうか。「よくぞここまで」と思わずため息のでそうな輝かしい音の洪水です。バッハのオルガン曲に見られる独特の複雑な音の絡み合いを、ブゾーニがピアノのために置き換えたものですが、キーシンはいとも易々と弾きこなしているため、途中のブゾーニの苦労は全く感じられないという、愛すべき小品といえましょう。もう一曲収録されているグリンカ=バラキエフの「ひばり」。こちらは打って変わって、キーシンのとことん繊細な一面を聴く事ができます。あまり耳に馴染みがないとはいえ、とてもメランコリックなメロディで彼がなぜこの曲を収録したのか考えるだけでも楽しいものです。
とにかく御一聴ください。キーシンは、現在最高のピアニストの1人と言い切ってしまっても、不謹慎にはならないでしょう。

2月27日

BRUNNER
Markus-Passion
Heiner Kühner(Org)
Ulrich Studer(Bar)
Klaus Knall/
Berner Kantorei
Collegium vocale und Collegium musicum der Evangelischen Singgemeinde
MGB/CD 6176
アドルフ・ブルンナーは、オーストリアの交響曲作家(それはアントン・ブルックナー)ではなく、現代スイスを代表する作曲家として知られていた方だそうです。あいにく、私は初めて聞く名前、もちろん、この「マルコ受難曲」もはじめて聴く曲です。昨年発売になった新しいCDですが、録音されたのは1985年、この曲が作られた直後のことです。そう言えば、1901年生まれのこの作曲家も、すでに1992年に亡くなっていました。
演奏に2時間を要するこの大曲、全体はマルコによる福音書を忠実になぞった6つの曲に分かれています。それぞれ(1)ユダの裏切り、(2)最後の晩餐、(3)ゲッセマネでの逮捕、(4)ペテロの否認、(5)ピラトの裁判、(6)ゴルゴタでの磔、という内容で、物語の進行が分かりやすく繰り広げられるというわけです。テキストは、この福音書の中の言葉だけが使われており、バッハの受難曲のアリアやコラールように、その時代の作詞家によるテキストなどは使われてはいません。
この6つの曲、構成的にもそれぞれほぼ同じ形をとっています。曲の最初に置かれているのはオルガンの独奏。そのシーンを暗示するかのような、激しいものから穏やかなものまで、なかなか変化にとんだ曲が揃えられています。この時代のアカデミズムにありがちな、やや頭でっかちな書法がなくはありませんが、おおむねすんなり聴くことができる曲です。中には、バッハが用いたコラールのパロディのような趣、あるいは、現代におけるコラールプレリュードといっても差し支えないようなテイストをもった敬虔な響きの曲もあり、難解さとは無縁です。
そのオルガンに続いて、声楽による物語が始まるわけですが、テキストがさっき述べたようなものですから、言ってみればすべてがエヴァンゲリストのレシタティーヴォというわけ、感情の高ぶりを表すアリア的なものもなく、いとも淡々と音楽が流れていきます。しかし、このレシタティーヴォはソロではなく、合唱が担当しているというのが、この曲の最大の特徴であり、魅力にもなっているのです。刺激的なハーモニーなどは殆ど用いられていない、まるでルネッサンスのポリフォニーを思わせるような(書法的にはホモフォニーですが)すがすがしい響きには、心を打たれるものがあります。
バックのオーケストラも、終始弦楽器主体の薄い響きで合唱をサポートしています。金管楽器が登場するのは最後の最後だけ、それまでは殆どあるかないかのような、ふわっとした肌触りです。
イエス役のバリトン独唱も、やはりふんわり系、最後の十字架上の言葉さえ、悲痛な叫びではなく、もっとソフトな訴えになっています。「癒し」とまではいきませんが、すんなり入っていける心地よさのある秀作、機会があればぜひご一聴を。

2月25日

Le Boeuf Sur Le Toit
French Works for Vn. & Orch.
Renaud Capuçon(Vn)
Daniel Harding/
Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
VIRGIN/VC 545482 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55390(国内盤3月20日発売予定)
オーケストラというものは、かつては国ごとに明らかな特色があったものですが、最近ではおしなべて高性能の、しかし、ローカル色の乏しいものになってきています。その象徴的な例が、「ファゴット」という楽器。これがフランス語で「バソン」と呼ばれると、全く別なフランスだけの楽器を指し示すことになります。「バソン」の音色は独特で、アンサンブルの中で使われると、いかにも「フランス風」のえもいわれぬまろやかさをかもし出します。かつて、フランス語圏のオーケストラでは、例外なくこの「バソン」が使われていましたが、現在では、メジャーオーケストラでこの楽器を使っているのはスイス・ロマンド管弦楽団ぐらいしかなくなっています。このような「国際化」は、ヴァイオリンの世界でも起っていて、世界中を飛び回って演奏活動を行う独奏者に求められるのは、揺るぎのない華麗なテクニックと、オーケストラのトゥッティにもかき消されることのない強靭な音という最近の「国際基準」なのです。
そんな世界の常識にそむくかのように現われたフランスの新人ヴァイオリニストが、ルノー・カプソン。25歳という、ヴァイオリニストとしては決して早いとは言えないCDデビューですが、彼の古くからの友人であるダニエル・ハーディングのサポートによって作られたこのフランス・ヴァイオリン名曲集は、フランスの香りたっぷりのローカル色豊かな選曲と演奏で、聴くものを魅了してくれます。
最初の、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を聴き始めた瞬間に、カプソンの魅力は明らかになります。他人を威圧することの決してない柔らかな音色と、テクニックをあえて誇示しないために極めて自然に流れる音楽が、とても心地よく伝わってきます。続く「タイスの瞑想曲」では、ハーディングの指揮するドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとのアンサンブルに驚かされることになります。独奏者とオーケストラは、全く同じ呼吸をしている事がはっきりわかり、両者が一体となって迫ってくる表現力の深さに、とてつもない感銘を与えられるのです。
ラヴェルの「ツィガーヌ」こそは、このアルバムの白眉と言えましょう。冒頭のヴァイオリン・ソロには、他の演奏者に見られるようなおどろおどろしさは一切なく、ロマ(ジプシー)の哀感が淡々と語られます。オーケストラが加わってからは、ハーディングの刺激に満ちたさまざまな仕掛けと相まって、今まで聴いてきたこの曲とは全くつぃがーう、起伏にとんだ音風景を体験することができます。
カプソンは、つい先日、チョン・ミョンフンの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会のために初来日し、チェロのジャン・ワンとともにブラームスの二重協奏曲のソリストを務めました。ここでも、彼はチェロ独奏とオーケストラとの絶妙なアンサンブルを披露してくれていました。近々、そのチョンとの共演でデュティユーのアルバムも発売される予定とのこと、これも楽しみなことです。
もっと小規模なアンサンブル、それこそ「バソン」の入ったような編成で、小粋なアルバムでも作ってくれればいいのにな、と、ふと思ったりします。

2月22日

MOUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition
Valery Gergiev/
Wiener Philharmoniker
PHILIPS/
(輸入盤品番未確認)
ユニバーサル・ミュージック/UCCP-1053(国内盤3月6日先行発売予定)
ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、もちろんオリジナルはピアノ独奏ヴァージョンですが、この曲はこれまで名曲ゆえにさまざまな形でカバーされてきています。冨田勲のシンセサイザーや、ELP(ヴォーカルが持田香織・・・それはELT)のロック版などを懐かしく思い出す人も多い(?)ことでしょう。もちろん、まっとうなシンフォニー・オーケストラのための編曲も多くの人によって試みられていて、ちょっと考えただけでも、ラヴェル版、リムスキー=コルサコフ版、ストコフスキー版、アシュケナージ版、フンテク版などを思い出すことが出来ます。もちろん、それらの中で最も聴く機会が多いものが、モーリス・ラヴェルによるヴァージョンであることは、誰しも認めるところでしょう。現在では、オケ版展覧会といえば、まずラヴェル版というのがあたりまえのことのようになっています。しかし、このラヴェル版というものは、彼の精緻な管弦楽法によって、オリジナルの持つ土俗性からは少し距離をおいた、いかにもフランス的な瀟洒なものに仕上がっているという点は、たびたび指摘されています。
ロシアの指揮者ワレリー・ゲルギエフがウィーン・フィルという名門オーケストラを使って行った仕事は、この小粋な、人によっては軟弱とも思える編曲から、ロシアのヴァイタリティを取り戻すことでした。冒頭の金管のコラールを聴いただけでも、眼前にはクレムリンの渦巻き模様が広がってきます。それはソフトフォーカスされた印象派風の点描絵画などでは断じてない、野卑な原色の世界です。圧巻は、「バーバ・ヤーガの小屋」以降の、まるでストラヴィンスキーの「春の祭典」と見まがうほどの荒々しさ。地を這うような打楽器の強打からは、ラヴェルの意図したサウンドからは大きな隔たりを感じないわけにはいきません。そのエネルギーがそのまま「キエフの大門」のクライマックスへと高揚する様は、まさにゲルギエフの独壇場です。
ところで、大詰めで一瞬バスドラムが叩き損なったように聴こえる部分がありますが、これはスコアの忠実な再現。
この部分、オリジナルでは3拍子と2拍子が交代に出てくるというややこしい譜割りになっていますが、ラヴェルのスコアを見てみると、120番からはティンパニを含めて他の楽器は3拍子になっているのに、バスドラム(Gr C.)だけが2拍子のまま、したがって、このバスドラムは他のパートの入りより四分音符1個分だけ遅く叩かれるのが「正しい」リズムなのです。しかし、少し先にはバスドラムのパートにも2拍子の指示があるので、楽譜のミスとしてここを3拍子にして「合わせて」しまうのが普通の演奏です。ゲルギエフは、ラヴェルのオーケストレーションを逆手にとって「正しい」譜割りで演奏するという確信犯的な手法でリズムのズレを強調し、見事な効果を上げています。

2月20日

MOZART
Piano Concertos 21&24
Piotr Anderszewski(Pf)
Sinfonia Varsovia
VIRGIN/VC 545504 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55383(国内盤)
「おやぢ」のおかげで、毎日毎日、新譜に耳を通していますが、やはり私にも好みがありまして、どんな注目盤でも、「一度聴いただけでそれっきり」という場合もしばしば。というより、そういうCDの方が多い事を告白せねばなりません。ですから、「これはまた聴きたい」と思う演奏にめぐり合った時は、本当にうれしくなります。今回のアンデルジェフスキのモーツァルトもそんな1枚。何しろこの2週間、ほとんど毎日聴いているのですから。
ポーランド人とハンガリー人を両親に持つピョートル・アンデルジェフスキ。彼には既にバッハやベートーヴェンのソロCDがあり、他にはあのヴィクトリア・ムローヴァとの共演CDもでています。確かに知名度はイマイチですが、技巧の誇示に走りがちな最近の若手の中で、(もちろん、そういう傾向も大歓迎ですが)ここまでバッハやベートーヴェンを構築的に演奏できる人はあまりいないといってよいでしょう。「正統派」という言葉がぴったり来る人ですね。
今回の録音は、彼の初めての協奏曲。モーツァルトのピアノ協奏曲のなかでも、とびきりの美しさを誇る21番と24番です。さて、このモーツァルトで素晴らしいバックを担当するのがシンフォニア・ヴァルソヴィア(シルヴィア・ヴァルヴィーゾとは違います)。アンデルジェフスキの姉、ドロータがリーダーを務めているせいか、息はぴったり。最初に置かれた24番ハ短調、オーケストラの提示部もピアノも驚く程さりげないのです。そのため、とても自然に曲に引き込まれていくのですが、よく聴いてみると、各楽器が実に伸び伸び歌っているのですね。そういえば以前、グードのソロ、オルフェウス室内菅の演奏を聴いたときも同じような感想を持ったのを思い出しました。しかし、あちらは、オケとソロの戦いに近い物でしたが、こちらは極上の対話とでも言いましょうか。とにかく心地良い音楽です。私の大好きな第2楽章も大満足。第3楽章も緊張感よりも、軽快なおしゃべりといった様子です。ことさら悲劇的な面を強調しない方向が、聴く者の心を疲れさせないのかもしれません。これは第21番にも共通で、背伸びする事もなく、とにかく淡々と喜びを綴っていくのです。2曲ともカデンツァは彼の自作ですが、これもとても自然でして、この頃よくあるような、ことさら現代的な作風に走る事もせず、モーツァルト当時の音楽語法を忠実に再現したもの。安心して聴く事ができるのです。
この静かな喜びに身を任せたいと願うあまり、いつの間にか、毎日このCDに耳を傾けているおやぢでした。

2月18日

KORNGOLD
The Sea Hawk
Charles Gerhardt/
National Philharmonic Orchestra
BMG
ファンハウス/BVCC-37308
コルンゴルトの映画音楽集の事を書いたのは、ほんの10日ほど前のことでしたね。ゴージャスな響きに酔いしれたものの、なにか、オリジナリティに乏しく、他の人の作品からの影響みたいなものが見え隠れしていたのが、ちょっと気にはなりました。
そんな折、例の「RCAレッド・シール・ヴィンテージ・コレクション」の中に、やはりコルンゴルトの映画音楽集があったことに気がつきました。このCD、じつはコルンゴルトを語る際には極めて重要な意味を持つものでして、今日コルンゴルトがこれだけ多くの人に認知されるようになったきっかけは、この録音にあったと言っても過言ではないのです。作曲家の息子ゲオルクをプロデューサーに迎えて、1972年から制作された多くのLPによって、それまで忘れ去られていた「ハリウッド・サウンドの創始者」の実像が初めて明らかにされたのですから。さらに、この録音が刺激になって、当時のハリウッドではもはや主流ではなくなっていたシンフォニック・サウンドが見直されることとなり、1977年のジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」のスコアに結実されることになるのです。
さて、このCDを聴いてみて驚きました。チャールズ・ゲルハルト指揮のナショナル・フィル(これは、ロンドンの録音専用のオーケストラ、松下電器の社内オケではありません)の演奏からは、プレヴィン盤には見られない、実に活き活きとした躍動的な音楽が伝わってきたのです。最も大きな違いは、リズム感。ゲルハルトの引き締まったリズムを聞いてしまうと、プレヴィンはいかにもモッサリしていて、キレがないように感じられてしまいます。双方の出だしが、全く同じ「シー・ホーク」ですから簡単に比較できますが、最初の金管のファンファーレを聴いただけで、ゲルハルト盤からは勇壮な海の男のイメージが湧いてくるのに対し、プレヴィン盤ではなにかよそよそしい感じが付きまとっています。やはり共通している「放浪の王子」にしても、その違いは歴然、プレヴィン盤から映画の画面を想像することは極めて困難です。
かつて、ハリウッドのオーケストレーターとして活躍したプレヴィンも、今ではクラシック界の「巨匠」、コルンゴルトのスコアを前にしても、その背景にあるR・シュトラウスやマーラーの音楽の方が居心地が良くなってしまっているのでしょうか。彼の演奏からは、どうしてもそんな作曲家の亜流としてのコルンゴルトしか聴こえてはきません。言ってみれば、コルンゴルトがいやいやながら取り組んでいた仕事へのよそよそしさまでも、律儀に表現してしまったようなものなのかもしれません。
それに対して、ゲルハルトはとことん映画音楽に徹して娯楽性を前面に押し出していますから、コルンゴルトの魅力がストレートに、ちょっと恥ずかしくなるほど伝わってきます。音楽としてどちらが優れているかという判断にはむずかしいものがありますが、少なくとも私にはゲルハルト盤のほうが心地よく感じられます。

2月17日

LISZT
Works for Piano and Orchestra Vol.3
Louis Lortie(Pf)
George Pehlivanian/
Residentie Orchestra The Hague
CHANDOS/CHAN 9918
ルイ・ロルティによる「リストのピアノとオーケストラのための作品集」第3弾です。3曲(!)の協奏曲などが収録されています。リストの協奏的作品というと、まず思い出すのが2曲のピアノ協奏曲ですね。2曲とも華やかな技巧を駆使した派手な曲で、第1番に多用されているのがトライアングル。この曲はずっとリヒテルとコンドラシンの共演が最高とされていました。確かにあのトライアングルには鬼気迫るものがあったけれど、全てに迫力がありすぎて、聴いていて疲れてしまう事も度々でした。第2番は、開始部分が1番に比べて地味なせいかイマイチ人気がありません。クライマックスでは、ピアノが派手なグリッサンドを披露するなど、実はとても面白い作品なのですが・・・・。そんなわけで、リストの協奏曲自体、どうしてもキワモノの感があって、弾く人も聴く人も少ない時期もあったのです。しかし、このところの超絶技巧ブームのおかげで、リストもかなり見直されつつあります。
従来は2曲だけとされていた協奏曲も、その後の研究で1990年に新たにもう1曲発見されたのだとか。それが、今回収録された第3番にあたるもので、この曲は1993年には日本でも初演され、作品の真偽が論議されたそうです。確かにピアノの語法はリストそのものですが、13分程度の短い曲で、メロディもリストにしては内向的なもの。何とも不思議な作品です。
協奏曲以外にもう1曲収録されています。それは以前、アルゲリッチが2台ピアノ版で録音した「悲愴協奏曲」のオーケストラヴァージョン。こちらもなかなか聴く機会のない曲ですが、あのアルゲリッチが手を出したほどの曲ですから、一筋縄でいくわけがありません。もちろん高い技巧を備えてないと弾きこなせない曲でして、上手くつぼにはまると、この上ない爽快感を醸し出す曲と言えるでしょう。
さて、冒頭にも書いたとおり、このアルバムはロルティによる3枚目の「ピアノと管弦楽のための」アルバムです。あらかじめVol.1と2の方にマイナーな曲を録音しておいて、最後にとっておきの協奏曲を持ってくるあたりが、彼の並々ならぬ自信を感じさせる戦略といえましょう。ピアノの音も歯切れ良く、オーケストラも申し分なく鳴ってます。しかし、少しばかり物足りないのは何故なのでしょう?やはりリヒテルのような狂おしく熱い演奏の方がリストらしいのかも知れません。
ただ、この3枚はカタログとしてなら大きな価値があるはずです。「しかし、カタログとしてならハワードもあるし」・・・なんて人はまだまだリストマニアへの道程は遠いと言えるでしょう。言ってみれば、このCDはリストマニアとしての資質を試すリトマス試験紙みたいなもの・・・。

2月15日

TAVENER
Lamentation and Praises
Chanticleer
Handel & Haydn Society of Boston ensemble
TELDEC/0927-41342-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11226(国内盤2月27日発売予定)
クラシック音楽を聴く時には、私たちはその曲をさまざまなジャンルに分類しています。「レコ芸」あたりが使っている、「交響曲」、「管弦楽曲」、「協奏曲」というカテゴリーは、主に曲の編成が分類の基準になっていますが、「音楽史」、「現代音楽」などになってくると、時代による分類、しかし、本来バロック以前を扱うはずの「音楽史」には、なぜかバッハは含まれていないという不思議な面もあり、時代の流れを感じさせられます。おそらくこれは、それまではバッハくらいしか知られていなかったこの時期の作曲家が、最近(といっても、かなり前のことですが)どんどん再認識されて演奏や録音が増えてきたための暫定的な措置だったはずなのですから。
そのような、ちょっと合理性に欠ける分類とは別に、演奏される目的によって分ける場合もありますね。「コンサート用の曲」とか「芝居の伴奏用の曲」、あるいは、「宗教的な典礼に用いられる曲」といった具合です。この分類は今のところあまり一般的ではありませんが、最後のものだけは「宗教曲」という名前で、すでにジャンルとしての市民権を獲得しているのかも知れません。
この「宗教曲」というものは、じつは究極の実用音楽とは言えないでしょうか。今日バッハの教会カンタータをコンサートホールで聴く機会はそれほど珍しくはありませんが、作曲された当時は教会の礼拝と密接に結びついて音楽が進行していたことでしょう。
こんなことを長々と書いたのは、1944年生まれのイギリスの作曲家ジョン・タヴナーが、アメリカの男声アンサンブル「シャンティクリア」の委嘱で書いた新作、「哀歌と賛歌」のCDを聴いたから。私のように宗教に特に関心のない生活を送っているものにとっては、「宗教音楽」であろうが「交響曲」であろうが、同じスタンスで付き合っていけると思っていました。しかし、自身ロシア正教徒であるタヴナーの信条告白とも言えるようなこの曲(タイトルの「哀歌」も「賛歌」も、本来はギリシャ正教やロシア正教の概念だそう)が持つ音風景の広がりを体験してみると、「宗教曲」というものは宗教の典礼から切り離しては存在し得ないことが痛感されるのです。
シャンティクリアのメンバーがソロで受け持つのは、まるでお経のように単調なモノローグ。一瞬、「ハモらないシャンティクリアなんて。」と引いてしまいます。彼らにしても、演奏に求められるのは楽譜の忠実な再現ではなく、刻々変化する即興性に満ちた歌唱、物まねではなく、内からの欲求にともなった信仰心みたいなものがないと、とてもさまにはならないようなものです。しかし、彼らの演奏からは、間違いなく作曲家が非西欧の文脈に委ねたものが伝わってくるのです。
さらに、もっと開放的な、12人全員による、まさに「賛歌」と呼ぶにふさわしいシーンもあって、それは確かな神をたたえる喜びとなって、聴き手を陶酔感とともに海の中へと導いてくれることでしょう(それは潜水艦)。

2月12日

JURASSIC PARK III
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント/
TSUD-33308(DVD)
このサイトの生みの親とも言うべき映画「ジュラシック・パーク」、8年前に公開されたときは、まさに衝撃的な体験を味わった方が多かったことでしょう(ジュラショック・パーク)。結局、ここのマスターはそれ以来「ジュラシック」づいてしまって、なんですか、ロゴのパロディ100個近く作ってしまったとか。ご苦労様です。
さて、1作目がヒットしたおかげで、4年ごとにコンスタントに続編が制作されて、3作目の「ジュラシック・パークIII」が公開されたのは昨年の8月のことでした。何かと多忙だったため、とうとう劇場で見ることは出来なくなってしまっていたので、ビデオ化は首を長くして待っていたのですが、意外と早くビデオとDVDが出たのには正直びっくり。第1作のときなどは、1年以上待たされたはずですし、また、それが、そう簡単にはビデオにはならない特別な作品という印象を強く与えていたものです。3作目にもなると、単なるローテーションになってしまって、もはやかつての衝撃も薄れてきているのでしょうか。
しかし、作品自体は、なかなかクォリティの高いものに仕上がっています。もちろん、ハリウッドのお約束であるお気楽なプロットには目をつぶる他はありませんが、前2作のような明らかな破綻がないのは大きな進歩。中でも、今回参加しているウィリアム・H・メイシーの特異なキャラクターが、ストーリーを深みのあるものにしています。予告編などでは、彼は「大富豪」という設定だったので、ちょっと違和感があったのですが、本編を見てみたらそれは口からでまかせで、本当はタイル塗装屋さんだったなんて、いかにもメイシーらしいではありませんか。だから、この映画は、恐竜島を舞台にした、ほのぼのとしたホームドラマと読み解くことすら可能になってくるわけで、そういう意味での物語の整合性には、安心できるものがあります。
したがって、さまざまな恐竜たちがなんの脈絡もなく登場したところで、それはこの映画の最大の魅力なのですから、アニマトロニクスとCGIの見事な融合を、心ゆくまで楽しめばよいわけです。それにしても、ここに来て、この恐竜達の演技力の進歩には驚かされますね。今までひたすら怖いだけがウリだったヴェロキラプトルの、なんとチャーミングなことでしょう。
以前、サントラ盤を取り上げた時に、ジョン・ウィリアムスの後を継いだドン・デイヴィスの仕事について触れましたが、今回映像といっしょに彼のスコアを聴いてみると、やはり、新たな発見がありました。それは、メインテーマ以外の部分に、ジョン・ウィリアムスだったら、絶対こんなフレーズにはならないだろうな、という、明らかに前任者とは異なるテイストが感じられたことです。クラシックの畑からは絶対に出てこないようなアイディアもありましたし。
それにしても、奥の手は軍隊だったとは(第1作のローラ・ダーンが国務省の役人と結婚したという設定)。上陸用舟艇で乗り込んだ近代装備の兵士達にとっては、恐竜などテロリストの比ではありません。瞬く間に全滅させられてしまって、このシリーズもこれでおしまい・・・かな?

2月10日

GODOWSKY
Studies on the Chopin Etudes
Carlo Grante(Pf)
MUSIC&ARTS/CD-1093
さあ、オリンピックが開幕しました。連日の熱戦で寝不足の方も多いことでしょう。
人間の限界に挑む、これがスポーツ競技の原点でしょう。より高く、より早く、そしてより美しく、これを極限まで追求する選手の姿に感動する、これがオリンピック観戦の醍醐味といえるのではないでしょうか。
ゴドフスキのピアノ曲を演奏する事、そして聴く事も、全くオリンピックと似通ったものだ、と私は思うのです。ゴドフスキの作品は、指の限界への挑戦です。今回の「ショパンのエチュードによる練習曲」も、とてつもなく難しい作品で、もとより難曲として知られるショパンの練習曲に、不必要とも思える程音符を付け足したもの。およそ10本の指では演奏不能と思える作品です。
こんな曲を嬉々として演奏するのが、あのアムランでした。(ここでも再三取り上げてますので、もうご存知の方も多いでしょう。)この難曲もいとも易々と弾きこなし、私たちを唖然とさせました。そう、まるで氷上での華麗な3回転半ジャンプを見るが如く、聴く者を熱狂させたのです。
しかし、名選手はアムランだけではありません。このカルロ・グランテ。彼も超絶技巧誇示者として、この世界では有名な人です。やはりゴドフスキがスキでして、以前からアルバムを出してはいるのですが、どうしてもアムランの陰に隠れてしまっている感があり、イマイチサエナイのが残念。でも、実力的には素晴らしい人ですから、今回のアルバムも充分期待できると言うものです。
早速、2枚通して聴いてみました。グランテとアムランを比べてみると一番に気がつくのが、タッチの違いでしょうか。アムランは、高音の煌くような美しさが特徴、全体的に軽めの音で、それがちょっと物足りない時もありますが、駆け抜けるような爽快感がたまりません。対してグランテ。一つ一つの音を大切にしている感が伝わってきます。リズムにも重みがあって、No.32のポロネーズ仕立ての練習曲などに、その美質が良く表れています。重々しく刻むポーランドの特有のリズムを体感できる事で、アムランを聴いたときに感じた物足りなさが払拭できるのです。
あとは好みの問題でしょう。なにしろ、ゴドフスキが嫌いな人にとっては、2枚聴き通すことすら苦痛かも知れないのですから。確かに「黒鍵のエチュード」を7つのヴァージョンで聴かされると少々胃もたれもすると言うものです。
これは、夜中に上村愛子に歓声を送るオリンピックスキ夫を見て、「明日も仕事でしょ?早く寝ればいいのに」と声を掛ける(実は気になって眠れない)大してオリンピックに興味のない妻の関係にも似たものがあるのかも知れません。

おとといのおやぢに会える、か。


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